お話の、あるところ。

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竹の子書房用:黒実 操

 近江貞良の話 ――邪姫降誕――

【はじめに】
イラストレーター酒井康彰さんの絵画作品、クトゥルー神話のクティーラをモチーフにした『――邪姫降誕――』に触発されて書いたお話です。
酒井さんのご厚意で許可をいただきまして、物語の一番最後にその作品をアップしております。
ブログの仕様により、作品の右側がわずかに切れております。画像をクリックしていただくと、完全なクティーラちゃんをご覧いただくことができます! どうぞご堪能ください。

クトゥルー神話、クティーラをご存じない方にも読んでいただけると、嬉しいです。
ちょっぴりクティーラちゃんのことを、ぐぐっていただけますと、より楽しんでいただけるかもしれません。


それでは下記より始まります!


***************************************************


 近江貞良(おうみさだよし)という名の青年が、いた。
 頭が良く、それに奢らず、奇癖があった。
 成人後は、臑齧りの怠け者のように思われていたが、根本は人当たりのいい普通の青年だった。
 そんな貞良の物語を、語ろう。


 近江貞良は、生まれ故郷で神童と呼ばれていた。家族は祖父、父、母、兄、貞良の五人だった。
 父母は、頭がいいのは何よりだが、それよりも礼儀正しいことを評価していた。自営で店をやっていたので、そのせいもあるだろう。
 祖父にとっては、まず頭の出来が何よりの、誇らしい自慢の孫だった。いったい、どんな偉い人間に育つのかと、その日を楽しみに生きていた。
 肝心の貞良は、大学を卒業してから何の職にも付かず、また更なる学びの門も叩かず。ただ田舎からの仕送りに甘え、ぶらぶらと日がな思索に耽るのが日課の、何を考えているのか分からない青年になった。
 祖父はそれでも、貞はどんなに偉い仕事に就くのだろうか、と期待をやめなかった。貞良はのらりくらりとそれを躱(かわ)し、生活を改める素振りはなかった。
 しかし煩(うるさ)かったのだろう。貞良はここしばらく、盆暮れ正月にも帰って来ない。しょんぼりしている祖父を見かねた母親が電話を入れても、学ぶことで忙しい、と判で押したような返事しかなかった。
 電話では埒(らち)が明かないが、訪ねて行くのは、これまた無理なことだった。貞良の住む街は遠い。父母も兄も、店をやっている都合で遠出ができない。祖父には時間があったが、杖なしでは歩けない。ひとり旅は難しいだろう。
 貞良は今年二十六になる。さすがに甘やかしすぎたかと、祖父は孫の自由時間を終わらせることを決めた。父母にも異存はなかった。
 兄も同意見だった。弟の待遇には、自分とはあからさまな差がある。もう先から腹に据えかねていた。
 兄は地元の大学を卒業後、即、祖父や父の管理下で、将来継ぐべき仕事をみっちりと仕込まれてきた。家業は小さな商店だった。完全な家族経営で、やるべき仕事は山とあった。
 店には正月三が日以外、休みがない。給料も大した額ではなかった。兄の不満は積もるばかりだった。一度、それを口にしたこともあるのだが、祖父も父親も、修業期間なのだから当然のことだと、突っぱねた。母親は黙って聞こえない振りを通した。
 ひとつしか違わない弟は、自由気ままに遊び暮らしている。
 弟の暇暮らしの費用の全額が、同じ祖父から出ている。兄が面白くないのは、当然のことだった。
 幼い頃から、貞良は学業に優れていた。祖父などは神童と呼んで憚らなかった。高校までは地元に通ったが、教師の勧めもあり大学は遠方にある有名私大を受験した。当たり前のように合格する。専攻は物理だった。
 鉄道を二本乗り継ぎ三時間、更に新幹線で三時間半の都市で貞良は一人暮らしを始めた。
 些事に煩うことなく存分に学業に励めるように、と学費家賃や生活費、月々の小遣いに至るまで祖父が送金していた。
 卒業後もそれが続いていた。
「貞は今に立派な先生になる」
 これが祖父の口癖なのだが、最近では、自身に言い聞かせているような響きが混じるようになっていた。
 祖父のいう〈先生〉とは、医者や博士や政治家を、ただ漠然と指しているだけだ。博士や政治家はともかく、医者など、貞良の済ませた学部とは全く関係のない職業である。
「じいちゃん、もういいだろう。貞はアレだよ。ハタチすぎれば何とやら、だよ」
 兄の言葉に、祖父は項垂(うなだ)れた。
「おじいちゃん。先生になるのは、何も都会じゃなくていいじゃないの。この町でだって、ちゃあんと立派な先生になるわよ」 
 母親が兄を睨みつつ、祖父を慰めた。 
 しかし呼び戻すはいいが、いったいどうしたものかと思案する祖父に、日干しにすればいいと兄が告げた。仕送りを止めれば、嫌でも帰ってくるしかないだろう。
 聞いたところによると、貞良は僅かなアルバイトさえ経験したことはないらしい。さぞ、ぶらぶらが身に沁みついていることだろう、と兄は踏んでいた。
 祖父は、そんな脅すようなことを、と眉を顰めた。しかし父母も兄の案に乗った。かつての神童は、今ではただの怠け者である。
 ここは、とにかく一度帰省させなければ、と祖父も腹を括(くく)った。
 このようないきさつで、貞良はしばらく振りに実家の門を潜った。
 右の頬を押さえ、歯が痛い気がして……と、曖昧なことを言った。そのせいもあるのか、あまり食は進まないようだ。
 せっかく一家揃ったというのに、夕餉はぎこちないままに終わる。食後のお茶を前に、父親が咳払いをした。家族会議の始まりだった。
 直ちに実家に戻り祖父の斡旋に従い職に就くように、と家族を代表して父親が貞良に告げた。
「そんな、僕、帰りませんよ」
 と貞良は答えた。はっきりとした声音だったが、何処となく、他人事のような響きがあった。
「……お前、もしかしてあっちに彼女でもいるのか」
 少し口ごもりながら父親が問うた。常々疑っていたことだった。母親の眉が上がる。 
 だが貞良は、きょとんとした顔を向けた。
「恥ずかしがらなくていいじゃない。好きな子がいるなら、そりゃ帰りたくないわねぇ」
 母親が、身を乗り出してきた。
「はぁ」
「どんな子だ? いっそ、その子と結婚してもいいんじゃないか。こっちに連れてくればいい。そのためにもきちんと就職してだな」
 解決策を得たとばかりに、父親が明るい声を出した。それを貞良は淡々と遮る。
「もしかして僕に恋人がいるのかってことですか? いませんよ」
 その否定に、兄が勢いづいた。身体を反らせ、顎を上げ、弟を見下げる。
「貞に彼女なんか出来るもんか。こいつ、小学校の頃から女に苛(いじ)められてただろ」
「あんたは黙って。貞、違うのかい?」
 母親が口を挟む。
「違いますよ。お父ちゃんも、どうしてそんなことを思ったんですか。兄ちゃんの言うとおりです。僕には恋人はいませんよ」
〈兄ちゃんの言うとおり〉、という下りで兄は貞良を睨んだ。だが貞良の口調は素直なもので、兄に対する皮肉や卑屈さは感じられない。そもそも顔色からして、兄の態度など気にしたふうもない。
 座が白けた。
 ふん、とひとつ溜息を吐いて祖父が口を開く。
「だって、貞よ。ちっともこっちに帰ってこないじゃないか。恋人じゃなかったら、何だい」
「はぁ。僕、忙しいものですから」
「なぁにが忙しいだよ。バイトもしてないくせに」
「はぁ。お陰様で」
 貞良はぴょこんと頭を下げた。兄の目に、カッと怒りが灯る。
「お気楽様かよ。お前がのうのうとしてる間に、俺は汗水垂らして働いてんだよ。毎日くたくたに働いてんのに、貰える金はお前より少ねぇんだぞ。だらだら遊んでるお前よりな」
 激高する兄に、父も母も祖父も、気不味い様子で顔を背けた。三人の心に、〈そういえばどうして、今まで貞良を好きにさせていたのだろう〉という疑問が浮かび――だが浮かんだと同時に忘れてしまった。
「遊んでるわけじゃないよ。兄ちゃんには分かってもらえないかもしれないけど」
 貞良の言葉使いが、くだけたものになる。兄はプイと横を向く。
 幼い頃から貞良には、家族に対しても改まった物言いをする癖があった。祖父は母親が、母親は祖父が、父親は二人のうちどちらかが、そのような躾をしていたのだと思っていたのだが、違った。兄には、このようなことはなかった。貞良だけだ。
「どうせオベンキョウだろ」
 そっぽを向いたまま、兄が悪態をつく。
 母親が取りなすように続けた。
「そうだねぇ、貞は昔から勉強ばっかりしてたもんね。だけどさ、もうそろそろ将来のことを考えてもいいんじゃない。どの道、就職はしないと。結婚だって」
「結婚? そんなこと、僕、しませんよ」
「うん。お前に彼女がいないのは分かったけど、将来のことだよ。お母ちゃんが言ってるのは」
「いえ、だから僕は結婚なんかしません」
 この人は一体何を言っているのだろう――そう言わんばかりのぽかんとした顔で、貞良は母親を見ている。
 面食らった母親は、貞良と同じ表情になる。
 父親が慌てて話を引き取った。
「貞、お母ちゃんは今の話をしているんじゃないんだ。将来の」
「いえ、ですから、結婚なんかしませんし、うーん、何て言えばいいのか……。僕は女性と関わりを持ちたくはないんです」
 父親を遮り、貞良は噛んで含めるような話し方をする。 
「特定の女性がどうとかという問題じゃないんです。僕は、純粋に女性というものと関わりを持ちたくなないのです。いえ、持てないというか」
「モテナイ言い訳かよ」
 兄が半畳を入れる。
 貞良は生真面目に続けた。
「言い訳ではなく、そうですね……、有り体に言えば、僕は女性というものが汚く思えてしょうがないのです」
 なんだいっ、と母親が気色ばんだ。
「貞は、お母ちゃんが汚いっていうのかい」
「いえ、そうではありません。お母ちゃんは違います。ただ僕は、肉体的にも精神的にも、女性を寄せ付けるということが嫌なのです。汚れてしまうというか。色が……変わってしまう。白が」
 父も兄も動揺の色を見せていたが、貞良の態度は落ち着いている。
「こりゃ清童の言うことだなぁ」
 祖父がからかうように言った。軽口で、場を和ませようとしたのだろう。
「せいどう?」
 兄が間抜けな声を出した。
 童貞ってことだよ、と父親が母親のほうを気にしながら、耳打ちしてやる。
 兄の目が、意地の悪い光を放った。
「そうか、貞。お前、女が怖いんだろ」
「怖い、とは?」
「女に苛められてたし、モテねぇし。怖いんだろ。俺なんか十五だったぞ」
 兄は、弟を指して嗤った。
 父は目を剥き、母親は「何が十五だいバカ」と兄の頭をはたいた。祖父は何かを言いかけたが、口を閉じた。貞良本人は、けろりとしたまま端座している。
「あ、あたしはね、貞。そんなこと気にすることはないって思うよ。何も恥ずかしいことじゃない。遊び回るバカのほうが、よっぽど恥ずかしいんだよ。ねぇ、貞」
 母親は兄を睨みつけて、貞良に向かい機嫌を取るようにする。
「いえ、そうではなく……何と言えば分かってもらえるのでしょう」
 痛みが戻ってきたのか。右頬に手を遣りつつ、貞良は首を捻った。色が変わるんだ、と顰(しか)め面をした。
 その様子に父も母も祖父も、兄さえも、これ以上何か喋ることが億劫になった。
 貞良は頬を押さえたまま、何事もなかったかのように立ち上がると、居間を出て行った。
 出て行くとき、兄のすぐ脇を通った。小さく何やら呟いていた。
 兄の耳には、〈白が緑に〉と聞こえた。
 この夜はこれでお開きとなり、貞良は翌朝、誰も起き出さないうちに家を出てしまっていた。
 それが、貞良がこの家に居た――最後だった。
 
 家族会議は失敗に終わった。
 否、失敗どころではない。
 貞良という名前を付けた祖父は、この名付けを悔いた。
 決して「貞」操を「良」しとする意で付けた名ではない。しかし、この名付けにどういう意味を持たせたのか、祖父には記憶がなかった。
 貞良の兄のときは、長男を表す意味の平凡な名を、有り触れた漢字で読み間違えなどないように、と心がけたことを憶えている。
 弟は――貞良という名に使われている音も漢字も、家族の誰も持たない。次男という意味もない。
 貞良という名が何処からともなく、唐突に現れた事実に、祖父は気づく。
 名づけのとき、父親も母親も、黙ってこの名を受け入れた。実に淡々と命名されたのだった。



 近江家は、山に囲まれたこの小さな町で、代々畑をやっていた。だが時代の流れもあり、畑では心許なくなった。
 貞良の父親は畑を諦め、商売を始めた。小学校が近くにあるので、主に事務用品や文房具を扱った。小さな商店だが、これがそこそこ当たった。
 近江という姓は、山ばかりのこの地方にはあまり似つかわしくないのだが、彼ら一族は明治の初めにはすでにこの土地に住まっていた。これは菩提寺の過去帳にもある。
 近江――おうみ、といえば古くから琵琶湖を意味する言葉だが、それとはまた別に大水――おほみ、つまり海の語源の音を漢字に当てはめたもの、という説もあるらしい。またその海――うみ、という音は産みにかかっているという説もあるそうだが、これは根拠が薄い。
 尤も近江家では――貞良の祖父も父母も、当然兄も、これまで自分達の苗字に対して、何ら疑問を抱いたことなどなかった。
 貞良だけが違った。
 幼稚園に通い始めたときだ。赤いチューリップを模した自分の名札を指して、「どうして僕は、おうみさだよしなの」と祖父に問うた。
「そりゃお父ちゃんもお祖父ちゃんも、近江だからだよ」
 と、祖父は貞良の頭を撫でた。
 貞良は少し口を尖らせたが、二度とその問いかけをすることはなかった。
 このような問いかけをしたことからも分かるように、貞良は幼い頃から一風変わった子供だった。そして、何にしても飲み込みがよかった。
 特に、興味を持ったことに対する暗記力が優れていた。最初にその力を発揮したのは、地理に対してだ。幼児用とはいえ日本地図を、ほんの一時間で記憶してしまった。立ち会っていた祖父は、手放しで天才だと喜んだ。
 続いて世界地図を暗記した貞良だが、その次に興味を抱いたのは海だった。名前や場所だけでなく、そこに分布する生き物に執着を見せた。
 陸の生き物にはあまり頓着しなかった。普通の子供が親しむだろう犬などは、仔犬でさえ嫌っているようなふしがあった。絵本でも、犬が出てくるものは喜ばなかった。
 だが、ひとつだけ例外がある。
 祖父が、兄弟の伽(とぎ)に「桃太郎」を話して聞かせたときのことだ。兄は勇ましい合戦の場面を喜んだ。弟はどういう武器や戦法が役に立ったのか、とそういうことを気にして熱心に尋ねた。貞良はこのとき五歳であった。
 その口調は妙に改まったもので、祖父は、嫁がこのようなしっかりとした物言いを躾ていようとは……と感心をしたものである。
 実際は、嫁つまり貞良の母は、そのような躾などしてはいなかった。
「犬は、人の武器になりますか」、「鬼とは人と、どう違うのでしょうか」、「人よりも強い鬼が、犬などの小さな動物に負けるのは何故でしょう」……退屈した兄が寝入った後も、しつこく尋ね続けた。どういうわけか右手を布団から出して、人差し指の先でトントンとこめかみを叩いている。
 特に犬にはこだわった。「犬は鬼よりも強いのですか」と、何度も何度も尋ねてやまなかった。
「ああ、強いぞ。鬼なんかどんなにいばっていても、犬コロがワンと吠えりゃ、一発じゃ」
 貞良は相当鬼が恐ろしいようだ――祖父はそう思って疑わなかった。猿も雉も身近ではないから、犬に頼っているのだと、微笑ましい気持ちさえあった。
 祖父が通して語ることのできるお伽話はいくつもなかったが、それでよかった。兄弟のお気に入りは「桃太郎」で、そればかりねだったからだ。
 ねだる理由は全く違っていた。

 貞良は犬や猫に近寄らない子供だった。兄は犬猫を見かけるたびに追いかけ回していたのだが、貞良は、遠くからただ見ているだけだった。
 その様子に大人達は、怖いのだね、と笑った。
 貞良の方から犬猫に近寄ることもなかったが、犬猫の方から貞良に近寄ることもなかった。そのくせ犬猫のほうは、貞良から目を離すことはなかった。貞良の動向を見守り、はっきりとその場から立ち去ってしまうまで、じっと見つめているのだった。貞良も犬猫の視線のあるところには、長居はしたくないふうであった。
 近江家では、父母とも動物が好きではなかったので、兄がどんなにねだろうとも、犬も猫も飼うことにはならなかった。

 弟には及ばなかったが、兄も決して頭が悪いわけではない。幼稚園に上る前には、平仮名と片仮名の読み書きはできた。好きな電車の名前やその駅などをよく覚えていた。
 だが、あくまでも大人が理解できる範囲だった。貞良のそれは、図鑑を一冊まるまる暗記するなど、一種異様な勢いだった。
 家族の誰も、英才教育など施したわけではない。祖父を初めとして、縁者には医者も学者も居はしない。ただ真面目が取り柄の働き者、そういう血筋だった。
 世が世なら貞は鬼子だ、だけど今は神童だ、と祖父は目を細めた。
 貞良はその外見も、家族の誰にも似ていなかった。祖父、父、兄は一重瞼の細い目だが、貞良は二重で丸い大きな目をしていた。目は母親似だと他人はお世辞を言ったが、母親は奥二重の小さな目で、その実、全く似てはいない。
 目だけではなく、鼻の違いも著しかった。貞良だけが鼻梁の高い、真っ直ぐな長い鼻を持っている。唇は極端に薄く、横に広い。ゴムに入れた切れ目のようで、酷薄そうに見えるのだが、祖父は賢そうで良いと褒めた。
 祖父の古い記憶によると、祖父の祖母が貞良と同じような顔立ちを持っていた。
 貞良と正反対と言っていい顔立ちの兄は、その性質も正反対だった。勉強が嫌いで、しょっちゅう同じような悪ガキ達と、裏の山で遊び呆けていた。
 貞良はどんなに誘われても、兄に付いて行くことはなかった。時間さえあれば、机にべったりと張り付いていた。それが毎日続くので、何をしているのかと祖父が覗き込むと、本を開いて熱心そうに読んでいる。右肘を突き、人差し指でこめかみをトントンと叩いていた。
 いささか行儀が悪いが、その大人びた仕草を祖父は愛らしく思った。
「そんなにそのご本は面白いのかい」
 そう声をかけると、貞良は本から目を離すことなしに頷いた。こめかみを叩く手も止めなかった。
 いったい何の本なのか。祖父は興味を惹かれた。しかし小さな字でびっしりと書かれていたため、老眼の祖父には読み取ることができなかった。
 そのとき貞良は小学校に入学したばかりだった。いくら頭がいいといってもこんな本を、とほんの僅かだが不審に思った。だが、次に繰(く)られた頁に飛行機の写真が載っていたことで、何となく納得してしまった。家にあるような本ではないので、学校の図書室で借りてきたのだろうと、その勉強熱心さを頼もしく思った。
 学校でも、貞良の異能ぶりは際立っていた。
入学してすぐに、小テストで全科目満点を取った。しかし幼児教育に熱心な家もあったので、似たような児童は他にもいた。確かに目立ちはしたが、然程でもなかった。そのときは。
 まだ五月に入る前のこと。理科の時間だった。貞良は、ノートだけを前に澄ましている。
 教科書を忘れてきたのかと教師が問えば、しばらく口ごもった後に、隣の席の女子に貸したのだと答えた。その女子はムッと膨れて、俯いた。
 教師は、日頃からこの女子が、貞良にきつく当たっていることを知っていた。これは少々叱らなければならない。
「先生、僕が貸したんです」
 教師が言葉を発する前に、貞良が口を開いた。女子を庇(かば)うような響きはなく、ただ事実を述べているだけ、といった口調だった。
「貸したのはいいんだ。でも、これでは近江くんが勉強できないだろう。ちゃんと二人で見せ合いっこしないと」
「全部憶えてますから。いいんです」
 何処か他人事のように、貞良は言った。
 これはいけない、と教師は隣席の女子を見る。
 教科書を暗記しているから、という意味に取れるが、そんなことはあり得ない。よっぽど陰で苛められているのだろう。
 今のうちに何とかしなければ。
「近江くん、そういう誤魔化しはいけないよ」
「本当なんです」
 ごく自然な態度でそう答えると、貞良は何やらずらずらと言葉を発し始めた。隣の席で俯いていた女子が、ハッと顔を上げる。それが合図だったかのように、わあわあと教室が沸き立った。
 数瞬反応が遅れたが、教師は、持っていた指導要領付きの教科書に目を走らせた。
 貞良の口は動きを止めない。
 最初は目次だった。教師は教科書のページを次々と捲る。今は五ページ目。貞良は本文にない言葉を喋り始めた。それにホッとしかけた教師の心臓が、跳ね上がる。
 該当の頁には、実験の様子を描いたイラストが載っていた。貞良の口はそれを描写しているのだ。
 でたらめを口にしていたのではない。図版の説明をしていたのだ。
 もう、授業どころではなかった。 
 教師が、改めて貞良の勉強の進み具合を探ったところ、全教科の教科書を暗記していたことが分かった。図版の説明に至っては、高校生並みの語彙でそれをすることができた。
 臨時の家庭訪問が、近江家に行われた。興奮冷めやらぬ教師が、貞良の神童振りを捲(まく)し立てる。
 祖父と帰宅したばかりの父親が座卓を挟んで、口角泡を飛ばす教師に向かっていた。慌しい様子でお茶を運んできた母親が、それに加わる。
 教師の要請で貞良も同席していたが、黙って正座を続けていた。ひとり仲間外れにされた形の兄は、障子の後ろに頑張っている。
 家では、本が好きで記憶力の良い普通の子供という認識だったため、三人の大人には教師の興奮の意味が分からなかった。
 教師は鞄から国語の教科書を出すと、祖父に差し出した。祖父は黙って受け取ると、怪訝(けげん)そうにその表紙を眺める。
「近江くん、国語の教科書に書いてあることを、順番に教えてください」
 教師が貞良に言った。
 貞良は頷きもせず、まるでスイッチでも入ったかのように、スラスラと喋り始める。その様子に、まず母親が腰を浮かした。父親は教師と我が子とを交互に見遣り、祖父は猛然と教科書のページを繰り始めた。
「暗記してるのか。貞、お前、これを全部」
 貞良の口から流れ出て止まらない言葉と、教科書の文章とが一致していることを、祖父は知った。その声は震え、掠れていた。
 障子の向こうで、ガタッという音とウソだろという呟きがした。しかし、誰もそれを咎めようとはしなかった。耳に入っていないのかもしれない。家族の大人三人は、それぞれあんぐりと口を開いて、貞良のことを見つめていた。
「国語だけではないんです。理科も社会も全部です。近江くん、今度は算数の教科書を」
「ちょっと待って下さい」
 得意気に、貞良に指示を出そうとした教師のを、母親が制した。戸惑いの響きが混じっていたが、語尾はきっぱりとしている。
「何だか、こんな曲芸みたいなこと、好きませんね。テレビのびっくり人間みたいじゃないですか」
「あ、お母さん、そうではなくて。これは近江くんがご自分で暗記したことなんですよ。私がさせたわけではなくて」
「そりゃそうかもしれませんけど、気分は良うないですわ。何か……サーカスで犬に芸をさせるのと、同じような」
「そ、そんな。私は、ただ、近江くんの頭の良さをご家族の方にお知らせしようと」
「ああ、そうですな。よく分かりました。だいたい貞良は、ずば抜けて物覚えのいい子でしてなぁ」
 ははは――、と祖父が場をとりなした。そして、お前、先生さんに失礼なことを言ってはいかん、と嫁のことを窘めた。その間、父親は貞良を心配そうに見つめていた。 
 当の貞良は正座を崩さず、ぴったりと口を閉じている。視線を一所に据え、大きな目を見開くようにしていた。  

 貞良のこの評判は、口の軽い教師のせいもあり、すぐに近隣に広がった。漏れ聞くことによると、教師がさも自分の手柄のように吹聴しているらしい。案の定、と母親は憤り、祖父は放っておけと笑った。父親は、商売のときに質問攻めに遭うと嬉しそうに愚痴り、兄は面白くない様子を露わにしている。
 貞良は、相変わらず図書室から本を借りてきては、こめかみを叩きつつ、一心に読み耽っていた。叩くのは、いつも右のこめかみだった。
 学校の勉強は、あまりしているふうではなかった。
 食事は兄と同じように、よく食べた。ハンバーグや焼き肉を好み、生野菜を嫌った。
 生ものといえば、刺し身は全く受け付けなかった。海産物が苦手なようで、タコやイカなどは煮付けてあっても、形がそれと分かるものは見るのも嫌な様子だった。母親も好き嫌いが多い質だったので、無理に食べさせることはしなかった。
 周りが騒いでも、近江家では、貞良と兄とを分け隔てることはなかった。
 確かに暗記力に優れているのかもしれないが、家族にしてみれば、ただの本好きの子供なのだ。
 しかし、父親は前にも増して仕事に精を出すようになる。貞良が将来、他所の土地で勉強をしたいと言い出したら、と考えたのだ。国立でも私立でも、何なら外国だろうとも。望んだ道に進ませてやりたいと、そう思った。

 兄は何かと貞良ばかりが注目されるので、しばらくは拗ねていた。だが、差別しているのは、無神経な隣近所のオジサンやオバサンだけだと気づく。家族や友達の誰も、兄を軽んじたりしない。何てことはない、と兄は割り切った。
 一番の実害は、自室にあった。
 まだ小学校低学年の兄弟は、二人で一室を与えられている。
 これが問題になった。
 家庭訪問を境として、貞良は極端に読書に励むようになった。朝は兄よりも早く目覚め、夜は兄よりも先に布団には入らず、机に向かい続けている。本を読むので、当然明かりは煌々としたままだ。
 寝太郎の兄は、寝付けないということはないし、起きたとしても二度寝三度寝は余裕だった。だが、やはり不愉快である。
 弟に何を言っても暖簾(のれん)に腕押しなので、家庭内直訴に出た。
 当然、貞良は叱られた。
それでも改まることはなかった。
 兄の言い分は正しいし、まだ幼い貞良の睡眠時間も心配だ。見かねた母親や、ときには祖父が何度注意をしても、貞良は深夜や早朝の読書をやめなかった。むしろ、勉強の邪魔をしないで、と兄のことを疎ましがる始末だった。
 ならば仕方がない。父親は兄弟二人の部屋を別々にした。兄が中学に上がるときにと計画していたのだが、悠長なことは言っていられなくなったのだ。
 兄弟の仲は、これで一応修復された。
 その後も兄弟に諍いはあったが、虫歯に悩まされ続ける兄が、乳歯時代から一本の虫歯もない弟を妬み、歯ブラシを隠す手合の、他愛のないものばかりであった。

読書好きが目立った貞良だが、それだけではなく、人から話を聞くことにもただならぬ興味を持っていた。
 興味の対象は、書物なら飛行機や潜水艦、戦車といった大きく勇ましい乗り物について。
兄とは違い、電車やバスには一切興味を示さなかった。
 話なら、かつて兵隊だった老人の戦争に赴いた経験談や、山で猟をするのが趣味の男達の自慢話などを、頬を火照らせながら聞き入っていた。小さな頭を真っ直ぐにして、真面目な顔つきで話を聞く様は、なかなかに可愛らしいものだった。そのときも、例の右のこめかみを、人差し指でとんとんと叩く妙な癖が出た。
 貞良は優秀な聞き手だった。語り手は、いつの間にか軍隊が使う爆弾や武器にどういう種類のものがあるか、猟をするときには、どのようなことに気をつけ、どのような鉄砲や弾、罠を使うのかというような物騒なことを口にしていた。幼い子供にしてはいけないような、悪趣味な話まで引き出される始末だった。
 軍用犬や猟犬など犬に纏わる話になると、貞良は更に熱心になった。しかし幼児の頃と同じく、本物の犬には近寄ろうとしなかった。そんなに興味があるならと、実際に猟犬を見せてやろうと申し出た老人の厚意を、躊躇(ためら)うことなしに断っている。
 だが、話だけならしつこいくらいに食いついて、何度も何度もせがんだ。
 対して、女達の語る台所回りの話や、他人の噂などは嫌った。
 しかし注意してみていると、話だけを嫌ったのではなさそうだった。どうやら貞良は、女性というものを避けているようだ。もちろん母親だけは別なのだが、年齢容姿等に係わらず、とにかく女性というものには親しまなかった。
 学校では、女子によく苛められていた。積極的に叩かれるとか悪口を言われるとか、そういう乱暴なことではない。気の強い女子には露骨に避けられ、気の弱い女子には無視をされた。何度席替えをしても、どの女子も机さえくっつけずに、数センチの距離を置く。
 見兼ねた教師が問い詰めても、何となくイライラするとか、どうしてか分からないけど等と、曖昧な返事しか帰ってこない。しかし、その態度は決して改まらなかった。
 運動会のフォークダンスでは、女子は全員、貞良とは手を繋がないと騒いだ。無理に繋がせようとすると、泣き出す女子も出て、教師はほとほと困り果てた。最終的には一番若い女性の教師が、貞良と踊ることで手打ちになった。
 神経を擦り減らしたのは教師連中だけで、当の貞良は他人事のように涼しい顔を通していた。
 オクラホマミキサーを貞良と踊り通した女性教師は、仲の良い幼馴染だけにこっそりと打ち明けた。
「わたし、あの子に憎まれているような気がして、手を繋いでいる間中、ずっと落ち着かなかったの。そんな素振りは全然なかったのに、おかしいよね。あんな小さな子に……こんなことを思うなんて」
 でも。
 もしかして女の子達は、わたしと同じ気持ちを味わっているのかな、と薄気味悪そうに肩を竦(すく)めた。
 次の年から彼女は、運動会での貞良のダンスの相手を固辞した。

 幼い時分から読書に親しんでいた貞良だが、不思議と視力が下がることはなかった。目が良いに越したことはないが、それよりも眼鏡の世話にならないで済むことが、幸いだった。
 貞良は赤ん坊の頃から、眼鏡を嫌っていたのだ。
 眼鏡を掛けた者に気づくと、瞬きもせずに見つめた。傍に来ようものなら、殺されるといわんばかりの勢いで、暴れて泣いた。
 天眼鏡も嫌い、祖父は貞良の前では新聞を読むことができなかったほどだ。
 学校に通う歳になると、少しは弁えるようになったが、どうかすると、ヒッと息を呑み、唇を痙攣させるようにして、ひぃひぃと震え声を出した。
 深い考えもなしに、父が貞良に望遠鏡を与えようとしたときは、ひと騒動だった。
 父が手に持つそれを、シンとした表情で貞良は凝視した。
「ほら、貞。これ面白いぞ」
 手本とばかりに、父親は自ら双眼鏡を覗く。
「ほうら、貞がでっかく見える。よおく見えるぞ」
 レンズを貞良に向けて、おどけて見せた。途端、貞良はぎゃっと叫び、その場に蹲(うずくま)る。飛んできた母親に、父親はこってりと絞られた。
 それからあまり日も経たない、ある夜。
 家族は揃ってテレビを見ていた。潜水艦が出てくる、戦争ものの洋画だった。
 普段なら、まだ十歳に満たなかった兄弟は、夜の九時には寝るように言いつけられていたが、この夜は特別に祖父が許した。兄も貞良も大喜びだった。
 その映画のクライマックスで、潜水艦の乗組員が潜望鏡を覗きながら、海中の敵に向けて魚雷を発射させるシーンがあった。
 貞良が、スクッと立ちあがる。
「貞、どうしたの。おしっこかい?」
 母親が声をかけたが、貞良は画面を注視したまま、固まったようになっている。
「何だ、貞、テレビがどうかしたのか」
 祖父が振り返った。父親も怪訝そうに息子を見上げる。
「いいとこなんだから、静かにしてよ」
 兄だけがテレビに齧り付いていた。
 立ち上がった姿勢のまま、貞良は目を見開くようにしている。丸い目が溢れ落ちそうになっていた。唇の色がない。
「貞」
 このまま引き付けでも起こすのじゃないかと疑い、母親が手を伸べる。
「うおー! やったあ」
 爆音と同時に、兄がガッツポーズをした。
 テレビでは、発射された魚雷が見事敵に命中していた。敵は海中で四散した。
「あっ、貞」
 母親の手は間に合わず、貞良はくなくなと頽れるようにして、座り込んだ。
「おい、まさか双眼鏡を思い出したのか」
 父親が言った。潜望鏡の場面から連想したのだ。まさか、という母親の呟き。
「怖いのか。今の、怖かったのか、貞」
 蹲る貞良の肩を、祖父が優しく揺する。
 貞良は、それには答えなかった。
「レンズが何かしてくるわけではない。レンズから覗かれることが、忌まわしいのだ」
 独りごちると顔を上げた。憑き物が落ちたように、さっぱりとしていた。このときの口調も普段とは違い、例の改まった物言いだった。
 それきり貞良は、眼鏡やレンズの類を恐れる素振りを見せなくなった。



 貞良が十三歳になったばかりのことだ。
 仕舞い湯から上がった母親は、鏡台に向かっていた。父親は町内会の会合に出かけていて、部屋には母一人である。
「お母ちゃん、何してるの」
 珍しく、貞良が部屋まで母を訪ねてきた。
「あら、やだよこの子は」
 背を丸め、肌の手入れに夢中になっていた母親は、軽く羞恥の色を見せる。
「お母ちゃん、何してたんだい」
 興味を惹かれたのか、貞良は母親の手元を凝視しながら、部屋へ入ってきた。
「男の子がなんだい。お母ちゃんだって、お顔の手入れくらいするさ」
 きまりが悪いので、怒った振りをして母親は答える。
「お顔の、手入れ?」
 貞良は母親の側まで来ると、ぺったりと座り込む。
「そうだよ。ほら、お母ちゃんの鼻の下にヒゲがあるだろう。それを抜いてたんだ。お父ちゃんには言うんじゃないよ」
 言ったら酷いからね、と母親は持っていた手鏡の、赤紫色の柄のほうを貞良に差し出した。
 貞良はそれを――手鏡の鏡面を見ると、ひゃっと声を上げた。亀の子のように首を縮める。
「なんだい、おかしな子だね」
「お母ちゃん、だってそれ」
「これは凹面鏡(おうめんきょう)だよ」
 母親は、息子が何に怯えたのかを把握して、くすりと笑う。
 凹面鏡とは拡大鏡である。普通の鏡よりも、ぐっと大きく映してみせるのだ。母親はこれを利用して、鼻の下の産毛を処理していたのだった。
「なんにも怖いことはない。ほらごらん」
 母親の招きに応え、貞良はじりじりと鏡を覗き込む。ひゅっと息を引いたが、今度は逃げなかった。
 そこに映っていたのは一面の淡い橙色と、ぱくりと開いた穴。
 穴は銀杏の形をしている。縁には空き地に生えている草のような、だが黒々としたものが、びっしりと植わっていた。穴にはぎちぎちに、滑らかな白い塊が埋まっている。その上に描かれているのは、ねっとりと深い黒茶色の円。円の周りは藍色にぼやぼやと翳り、正円のはずのそれを酷く不安定なものに形どっていた。貞良の肌と目だ。
 貞良がほんの少し顎を上げると、迫り上がるようにして真っ暗な双子の虚(うろ)が現れる。鼻の穴だ。
 何度も何度も顔を上げ下げしては、現われる異様な光景に、貞良は無言のまま見惚れていた。
 母親は、それを愉快そうに眺める。
 洗面のときもろくに鏡など見ない子供が、手鏡に夢中になっている様は、なかなか面白い見ものであった。
 そっと貞良の後ろから、手鏡に映るものを観賞する。
 まだ滑らかな、髭のない子供の肌。それが凹面鏡で拡大されると、どうだろう。ぼつぼつと並んだ毛穴と、恐らくは髭の成り始めだろう、屹立する濃い産毛。毛穴は、ところどころが黒くなっていた。角栓だ。それの詰まっている穴は、他のものよりも大きく、中から押し広げられたようになっている。
 毎日入浴し石鹸で洗顔していても、思春期に入りたての油に満ちてくる肌には、こうして汚れが溜まるものだ。
 貞良は、ぐっと手首を反らして、顎(あご)の下を鏡に映す。
 顎の下に、小さく色づいた腫れ物があった。面皰(にきび)だった。
あれ、生意気な、と母親はニッコリした。母親の世代では、面皰は青春のシンボルなどと謳(うた)われていたのだ。
 普通の鏡で眺めるだけでは、ただの腫れ物に過ぎなかっただろう。だが、凹面鏡の中のそれは、熱帯の花の蕾のようだった。膨らみに守られている芯は白く膿み、やがて熟し、力を得て弾け出るに違いない。じっとりと湿ったような赤色が、電灯の光を反射していた。
 母親の気配を感じたのか、貞良はハッと我に返ったようにして、振り返ってきた。母親は、そっと手鏡を取り戻す。
「ね、面白いだろう?」
「う、うん」
 貞良は、落ち着かない様子で首肯した。

 その夜、兄は、隣室から聞こえる弟の呻(うめ)き声に、目を覚ます。
 しばらく辛抱していたが、薄い襖越しに聞こえてくるそれは、一向にやまなかった。
「おい、貞、うるさい」
 布団から這い出、襖を開く。
 貞良は布団の上に座っていた。兄の声にビクッと背筋を震わせ、素早く布団の下に手を突っ込んだ。何かを隠したような仕草だった。
 部屋の電気は消されていたが、カーテンが開かれている。射し込む月明かりは強く、視界に不自由はなかった。
「に、にい、ちゃん」
 貞良の息は乱れていた。
「起きてたのかよ。腹でも痛いのか」
 兄は貞良ににじり寄る。
「ここ、何かできてて、すごく痛い」   
 貞良は兄に向って、ついと顎を上げた。例の面皰が真っ赤に腫れ上がっている。腫れ物の頂点は白く丸い。その先から粘性のある液が滲み出ていた。
「げえ、潰れそうじゃねぇの。やばいな」
「痛いし、なんか痒い」
心細そうな声を出し、貞良は更に顎を上げて喉を反らす。
「うええ」
 兄は、差し出された腫物に恐恐(こわごわ)と触った。熱を持っている。その熱さを味わいながら、指に力を入れて押した。腫れた肌の内奥に、硬いしこりがあった。
 それを突くように、更に押す。しこりは押し返してきた。突く。押し返してくる。突く。押し返してくる。突く。押し返してくる。
「芯が怒ってる。潰せば楽になるぞ」
 兄の言葉に、貞良は顎を上げて目線を下へと降ろす。いくらそうやっても、決して自力で見ることなどできないのだが、首を捻くり、角度を変える。
 代わりに、兄が見ていた。腫れ物は、じくじくとした汁に汚れている。
 貞良は、焦れたように呻いだ。 
 兄が散々突いたせいで、面皰は破裂しそうになっている。膨らみの根元の方は赤黒く、先のほうは赤味が薄まっていた。芯が白く主張しているせいだ。その色味と先端から溢れ出た液体のせいで、腫れ物は内側から発光しているように見える。
「潰してやろうか」
 そう言うと、兄は一旦離していた指先を、再度、ゆっくり近づける。ゆっくりとゆっくりと。
「兄ちゃん、ちょっと待って」
 貞良が兄の手を制した。
「僕も見たい」
布団の下を探り、赤紫色の手鏡を取り出す。兄は、それ母ちゃんの、と声を上げる。
 貞良はそれには反応することなく、首を大きく反らした。
「僕が見なきゃ」
 鏡を持つ貞良の手は、おかしいくらいに震えている。それでも、何とか顎下に手鏡を構えると、グッと目線を下げた。黒目の半分以上が下瞼に隠れる。
「いいよ。潰して」
 弟の様子に、尋常ではないものを感じながらも、兄は再び、ゆっくりと腫れ物を目掛けて人差し指を上げていく。すぐ目の前で、貞良の喉がゴクリと鳴った。
 ようよう兄の指先が、腫れあがった突起に触れそうになる。鏡にもそれは映されていた。滑稽なほど、鏡は震えている。貞良は空いた方の手で手首を掴み、震えを止めようとしていた。
 そうしながらも貞良の目は、鏡いっぱいに拡大された面皰に向けられている。とろんとしていた。
 兄も横目で、鏡の中を覗く。
 大写しになった腫れ物は、お化けじみていた。先端には、凹面鏡の中でさえ余程注意してみないと分からないくらいの、小さな穴が開いている。
 面皰を濡れ光らせている粘性のある体液は、ここから浸み出していた。その穴の佇まいは、ぽつりではなく、ぽかんだ。皮膚に貼った薄い皮が、内側に滑り込むようにして口を開けているのだ。
 ついに兄の指が、そこを突く。軽く爪の先を食い込ませた。ごぼりと、穴から湧き出ていた汁に、濃い赤い血液が追いつく。
甘そう――と、兄は反射的に思った。舌の根から唾液が迸り、口腔いっぱいに広がる。
 ずきん、と腫れ物が動いた。
 驚いた兄が、尚、指先に力を込めると、ずく、ずく、ずく、と脈打つように、一定の拍子を刻んでいるのが伝わってきた。
 腫れ物の中で熟した芯が、突き回された刺激に耐えかね、ついに弾け出ようとしているのだ。
 貞良が呻く。鏡を支える手が、上下するような動きで震えていた。もう一方の手で握っていても、制御できない。それでも面皰を中央に写そうと、頑張っていた。
 顎は上げたまま、目玉を裏返さんばかりに下を見ていた。
 貞良の呻きが律動的になる。
 兄の指先に伝わるそれと、同じタイミングだった。
 貞良の瞳は、鏡越しに兄の指先を捉えている。ぽかんと開いた毛穴から覗いている、白い突起を抑え込む爪の先。
「にい、ちゃん」
 貞良はまるで励ますかのように、兄のことを呼んだ。
 それに圧されて、兄は腫物を抉るように爪の先を食い込ませる。
 ぷつという感触があった。
 貞良の食い縛った歯の間から、ひゅっと息が漏れた。
 にゅう。
 腫れ物の頭に開いた穴がむりりと広がり、白く長細いものが抜け出てきた。
 内包されていた芯だ。兄の指を素早く払い、貞良の爪がそれを捕らえた。爪は芯の先を容赦なく潰し、穴から引き抜いていく。ブツリ、という微かな抵抗。
 だが、それも一瞬。芯は完全に抜け出る。
 後を追うようにして、絵の具のような赤い血が、とろりと流れた。
 貞良は鏡を手放す。空いた掌に、摘んでいた面皰の芯を擦(なす)り付けるようにして、置いた。まじまじと見つめる。
 兄も、釣られるようにして頭を寄せた。
 貞良の口から、ほっ、と溜息が漏れる。
 腫れ物の中身は、こうしてみると存外見窄(みすぼ)らしいものだった。鏡越しには艶のある白で、ぶりぶりとした質感があったのだが、見る影もない。
 貞良は、もうひとつ溜息をついた。兄も付き合った。
 掌の上の面皰の芯は、象牙色に変わっていた。外気に触れて、乾燥してきたせいかもしれない。キャベツに産み付けられている蝶の卵を、兄は思い浮かべた。
 それを、兄の指先がピンと弾く。貞良が、あっと声を上げたが、あっけなく何処かに飛ばされて、消えた。
  
 ――翌朝。
 眠い目を擦りながら、兄は食卓についた。弟の様子はいつもと変わらないが、顎下に血の塊のようなものが見えた。洗面は済ませているようだが、そこまでは気が回らなかったようだ。
 教えてやろうかと思ったが、寸前でやめる。
 何故だかは分からない。ただ、喉がきゅっと締め付けられるような感覚があった。
 視線を感じて弟を見ると、茶碗の向こうからこちらを覗いている。やけに黒目がキラキラとしていた。
 兄は目線を外し、自分の茶碗の中をに目を遣った。白米に、昨夜の面皰の芯が重なる。
 食欲が一気に萎(しぼ)んだ。
「やだ、手鏡がないわ。確かに引き出しに入れたと思ったけど」
 母親の甲高い声が聞こえたが、兄は聞こえない振りをする。貞良は箸を置くと、ごちそうさまと言って席を立った。



 中学に進んでからも貞良は、神童だの秀才だの頭の良さで持ち上げられてはいた。それでも、それを鼻にかけることのない少年に育った。
 中学も高校も、地元の公立に通った。人並みに友人もいた。運動もそこそこにこなした。試験の成績以外は何ら目立つところはなかった。
 高校二年生の半ば、そろそろ進学先を定めなければというとき。貞良は祖父に、とある私大に行きたいのだ、と言った。そこは工学が専門で、貞良が生まれ育ったこの街から、かなり離れた都市にあった。
 祖父はそれを快諾した。父と母は、どうせなら国立を目指すべきだと渋ったが、無駄だった。
 すでに地元の大学に通っていた兄は、このことで弟を妬んだ。過去、兄も他県の大学を希望したが、祖父に一蹴されていたのだ。
 子供時代には平等に扱われてきたものが、ここで初めて兄弟の間に差が生まれた。しかも決定的なものだった。
 これをきっかけに、兄は貞良を疎ましがるようになる。本音で嫌っているのではないのだが、ともすれば辛く当たってしまうのだ。遣り場のない怒りが、兄の心に満ちていた。
 貞良はそのことに気づいていないはずはなかったのだろうが、他人事のように淡々としていた。
 問題なく大学に合格した貞良は、ひとり実家を出て行った。

 大学生活を始めた貞良は、次第に実家とは疎遠になっていく。
 母親は、最初こそ毎晩電話をかけていたが、父親や祖父から過保護にするなと窘められた。兄も冷淡な態度を崩さなかった。
 貞良から自発的に連絡してくることは、ほとんどなかった。
 大学での貞良は、秀才というよりは変人という立ち位置だった。
 講義の間中、こめかみをトントンと叩き続けるので、すぐに顔を憶えられて名物扱いされた。目障りだと一部で陰口を叩かれたが、やめろと直接言う者はいなかった。
 ここでの貞良は、驚異的な記憶力を表に出すようなことはしていない。試験もレポートも程々の出来だった。及第点は超えていた、というレベルだった。
 いつも顔のどこかに吹き出物を拵えていた。そのくせ、ポケットの中にナッツやチョコレートを忍ばせていて、ポリポリと齧っていた。
 大笑いをしたり腹を立てたりしたところを、懇意にしていた友人達にさえ見せたことはない。常に、生真面目な顔つきで過ごしていた。
 表情こそあまり崩れなかったが、礼儀に優れ、人当りが良かった。
 教授や教師達からも可愛がられた。
 物怖じすることなく、彼らの許へ足繁く通っていた。講義についての質問が主だったが、不意に全く関係のないことを、ぽんと放り投げるように訊いてきた。
「深い海の中で、一番殺傷力を放つ武器といったら、やはり核でしょうか」
 例えばこんな質問を、ある教授は何度も受けていた。現在ならまぁ核だろうなぁ、とその度毎(たびごと)に面倒がらず答えていた。会話の流れに全くそぐわない質問なので、記憶に残った。
 入学してから卒業するまでに数回、いつも唐突にその問を発していたという。そのときも、決まってこめかみをトントンと叩いていた。いつも右のこめかみだった。 
 
 貞良は変人扱いこそされてはいたが、友達付き合いは良かった。
 この大学に通う学生は、ほとんどが地方出身者だ。一人暮らしをする者が多い。必然的に、各々気の合った仲間と固まって過ごすことになる。
 貞良にも、その手の仲間がいた。川島、藤里、甲野、そして貞良を含めた青年四人組だった。皆、入学して割とすぐに親しくなった。それぞれ取っている授業が似通っていることと、住む場所が近いということがきっかけだった。
 暇さえあれば、菓子や飲み物を買い込んで、レンタルした映画を持ち込み、誰かの部屋に溜まっていた。
 この日、四人は甲野の部屋に集まっていた。部屋の主である甲野が、リモコンを操作する。画面に映されたのは、青い色――海だった。
「青春もの?」
「サーフィン系とかやだな」
「違う違う。これ映画じゃないんだ。ドキュメンタリーだよ。浅い海から深海まで」
「あー、海の中か。サメとかクジラとか。流行ってんよな、今」
 川島という青年が目を輝かせた。レンタルしてきた甲野が、そうそうと相槌を打つ。
「いいねぇ。でかいイカとか出てくる?」
「そりゃどうかな。出てくるといいな」
「ダイオウイカだね。あれはどうかな。生きてるところを撮られたことって、ないんじゃない?」
 サイダーを舐めるようにしていた貞良が、口を開いた。相変わらず肌が荒れている。唇の脇に、目立つ大きさの面皰があった。
「へぇ、そうなのか」
「近江って海好きなんだよな」
「うん。何かね。好きっていうか、気になる」
「じゃあ、泳ぎも得意なんだろ」
 そう問われて、貞良は僅かに考えるような素振(そぶ)りをした。
「……いや、得意って程じゃない。第一、僕は海に行ったことがないんだ」
 ええええええと、貞良以外の全員が大袈裟な声をたてる。
「僕んち、お店やってるし。お正月以外休みがないんだよ。だから家族旅行とかもなかったなぁ。うちから海まで、車で半日はかかるから」
「そうか。そりゃちょっと可哀想だな」
「でもさ、高校んときとか友達と皆で行こうとか、なかった?」
「うん。いや、なかったよ。あの頃は、僕は本を読むのに忙しかったし」
 へぇ、と各人が感心したような声を出す。
「今度、俺達で行こうぜ。近江の海童貞を奪ってやんよ」
 藤里が、下品な口を叩いた。やめれお前何言ってんの、と笑いが起こる。
 テレビの映像は、浅い海のイワシの群れがイルカに食い尽くされる場面から、底のほうの岩場の場面に移っていった。  
「タコ!」
 タコだ、タコツボだと、皆がはしゃぎ始めるなか、貞良だけが真剣な顔で画面を注視している。
 カメラがそのタコツボに寄っていく。にゅるりと吸盤に覆われた触手が溢れ出た。威嚇しているのか、そのままタコは壺から滑り出ると、カメラへ脚を這わせるようにした。
 構わず、カメラは角度を変える。それに従い、ライトがタコが入っていた壺の中に向けられた。
「何?」
「うえ」
「やばっ」
 画面に映し出された光景に、川島、藤里、甲野が反応する。
 壺の内部は、白く細長い形状の、ぶつぶつとしたものでびっしりと覆われていた。半透明で、ぶりぶりとした質感。それが海水になぶられ、ぞわぞわと蠢いている。
 ひい、きしょいと騒ぐ青年達には目もくれず、貞良はしきりに面皰を擦っていた。その目は、画面に縫いとめられたようになっている。
「近江、近江、お前何真剣に見てんだよ」
 藤里がからかうように、貞良を振り返った。
 ああうん、と生返事をした貞良の右手が、すうっと上がり、こめかみをトントンと叩き始める。
「おい、出たよ」
 すでに持ち芸呼ばわりされるようになっていた貞良のこの仕草に、皆はくすくすと笑う。しかし、嫌な笑い方ではなかった。
 ――これはタコの卵です、と、落ち着いた女性の声でナレーションが入った。
「へぇ、タコって卵産むんだ」
「なんか数、多くない?」
「食えるのかな」
 川島も藤里も甲野も、再びテレビに向かい直る。それを機に新しいペットボトルを開けたり、菓子の袋を開いたりと、場がざわついた。
「綺麗だ」
 貞良の放ったその呟きは、隣に座っていた甲野だけに聞こえた。
「ん?」
 と、首を傾げて貞良を見たが、当の本人はじっとテレビを見つめている。こめかみを叩くのは、いつの間にかやめていた。
 甲野もテレビに目を遣った。タコの場面は過ぎており、サンゴ礁のシーンが始まったところだ。
 綺麗だよな、と相槌を打つ。
 ふと、貞良の人差し指が目についた。口の脇をグリグリと押している。
 あそこ、確か、でかい面皰ができてなかったか。
 あんなに押さえると腫れるぞ、と思ったのも束の間。川島から差し出されたバター醤油味のポテトチップスに気が行き、すぐに忘れた。

川島と貞良には、こんなエピソードがある。
 二回生の半ばの頃だ。
 川島は貞良と二人、学食で、次の講義まで空いた時間を潰していた。貞良はポケットからビニールに入ったアーモンドを取り出し、ぼりぼりと食べている。川島は自動販売機で買った、紙コップの珈琲を飲んでいた。
「んっ」
 いきなり貞良が、ビクッと肩を震わせ、右の頬に掌を当てた。
「どうした」
 川島が驚きつつ声をかけると、貞良は首を傾げるような仕草をした。頬に付けた掌が、神経質そうに動きだす。何かを探っているように見えた。
「もしかして歯が痛いのか?」
「うん。……うん? んー、そうだね。そうだと思う」
「なんだよ、それ」
 聞けば、大学に入るくらいから、ごくたまに右の上の奥歯辺りに、鋭い痛みが走る。しかし歯医者に診せても、歯にも歯茎にも異常はないという。レントゲンも撮ったが、答えは同じだった。
「僕ねぇ、乳歯の頃から、虫歯ができたことないんだ。だから歯が痛いってどういう感じなのか、本当はよく分からないんだよ」
 と、貞良は言った。今も虫歯治療中の川島には、耳に毒な話だった。  
 だが、この部位が痛むことは事実なのだ。
 歯じゃないのかなぁ――と、貞良は不安そうな顔をする。
「歯といえば、特に上の奥歯だと脳に近いから、あんまり虫歯が酷くなったら、脳に黴菌(ばいきん)が回るとか聞いたことあるぞ」
 貞良は、ひいと情けない声を上げる。パチパチと何度も頬を平手で打った。
「でもさ、穴も空いてないし歯茎も腫れてないし、僕のこれは違うよね」
「そりゃ、そうとう悪化してないと、そうはならないんじゃないか? だけど、さ。もしかして逆だったらどうする」
 眉尻を下げて怯える貞良に、川島は悪戯心を出した。
「悪いのは脳なんだ。脳の黴菌が、歯の方に降りてきてるってのは」
 うわああやめてよ――と、貞良は大袈裟な声を上げると、椅子の背凭(せもた)れが軋むほど仰(の)け反った。
 冗談冗談、と川島はあしらう。
「おっ、もうすぐ時間だぞ」
 残っていた珈琲を飲み干した。
 席を立つときに、ふと、貞良の癖であるこめかみを叩く仕草、あれも右のこめかみだったことに気づいたが、偶然だろうと思い直し、口に出すことをしなかった。

 藤里と貞良には、こんなエピソードがある。
 三回生になったばかりの春だ。
 アルバイトの帰り道、藤里は、貞良のアパートに寄ることにした。ただの思いつきで、何の連絡もせずに足を運んだ。
 建物に入る前、藤里は貞良の部屋に目を向ける。明かりが灯っていた。よしよしと呟きながら、解放されている入り口に駆け込む。
 貞良の部屋の前に立った藤吉は、ポケットから手を出すとドアチャイムを鳴らした。
 貞良は出てこない。
「留守かな」
 もう一度、鳴らす。藤吉はドアに耳を寄せ、気配を窺った。
「電気点けいてたよな」
 首を捻り、何気なくドアノブを握る。抵抗なく回った。
「あれ、やっぱいるのか」
 そのままドアを開け中を見ると、貞良がいつも履いている靴がある。
「いるんじゃないか。寝てんのか」
 気安さから、藤吉は躊躇(ためら)うことなく靴を脱ぎ、上がり込む。
 貞良の住むこのアパートは、学生専用だった。玄関からすぐにキッチンがあり、その向こうに寝室兼居間がある。一応、仕切りのドアがあるが、上から三分の一がガラス張りだった。
 藤里はそのドアを開く前に、何気なく中に目を遣った。
 貞良がいた。
 こちら側に左の横顔を見せる格好で、胡坐(あぐら)をかいて座っている。
 よう、と声をかけようとした藤里だが、寸でのところでそれを飲み込んだ。
 貞良は真剣な顔つきで、手鏡を睨んでいる。赤紫色の柄を握る手に、力が込められているのが分かった。鏡面をあちこち傾け、それに倣って顎先も上下させていた。だんだんと眉根が寄っていく。
 何をそんなに熱心に――と、藤里は怪訝に思う。何をといっても、まず顔面を見ていることは間違いない。だが、藤里が知る貞良は身嗜みこそきちんとしていたが、容姿そのものについてはとんと無頓着な男だった。
 気にするようなら、あんなにナッツだのチョコだのひっきりなしに食べて、好んで肌を荒らすこともしないはずだ、と藤里は考える。出会ってこの方、貞良の顔に吹き出物がない日などなかった。
 貞良の肌の色は白く、肌理(きめ)も細かい。だがいつも顔には脂を浮かせており、そのせいで鼻の頭は角栓だらけだった。黄みがかった茶色のぶつぶつが、大小犇(ひし)めき合っている様は、元の肌質が悪くない分、余計に目立ち汚らしかった。
 その貞良が、こうして鏡に向かっている。それも格闘するような勢いで、だ。藤里は、見てはいけないものを見た気持ちになった。考えなしに上がり込んでしまったことを、後悔する。
 しかし、何故だかその場を立ち去ろうとはしなかった。そのときの藤里には、目を背けるという選択肢さえなかった。
 貞良の横顔から、文字通り目が離せなくなっていたのだ。その貞良は、全く藤里には気が付いていないようだった。ただ一心に鏡に向かっていた。
 そのうち貞良は手鏡を床に置くと、それに覆い被さるようにする。ぐぐっと、前のめりになり、その背は弧を描いた。
 その姿勢のまま、自由になった両手を鼻の頭にやる。
 藤里は目を凝らした。貞良が何をするつもりなのか、見当もつかないのだ。
 貞良は、藤里に見えている方の手に、光るものを持っていた。カミソリかと思ったが、違う。
 毛抜きだった。
 貞良は毛抜きを鼻の頭に当てると、何やら引き抜くような動作をした。上手くいかないのか、苛々と数度同じような動きをした後、やっと満足そうに微笑んだ。
 髭を抜いてるのか? でも鼻の頭だぞ――藤里はますます訳が分からない思いになり、熱心に透き見を続ける。
 貞良は毛抜きの先を頭上に掲げた。陶然とした目をそれに向ける。蛍光灯の灯りに、毛抜きの銀色がギラリと光る。
 藤里は懸命に目を凝らすが、毛抜きの先に挟まれているものが何か、確認できない。
 しばらくうっとりとしていた貞良だが、そろそろと手を降ろす。とても名残惜しそうだった。
 毛抜きの先端を、床に擦り付けるようにする。そこにはティッシュが敷いてあった。抜いたものを置いたのか。余程小さいものらしく、やはり何なのか分からない。
 貞良はこの動きをワンセットにしたものを、何度も何度も繰り返した。
 ああ、と藤里は合点する。
 鼻の毛穴の汚れを、毛抜きで処理しているのだ。毛穴の周りを爪で押す。角栓が、にゅっと頭を出す。それを毛抜きで摘んで、抜く。ティッシュに押し付けているのは、成果物を並べて楽しむためだろう。
 あれは達成感があるんだよな、と胸の内で首肯する。
 藤里自身、同じことをやったことがあるのだ。
 鼻の頭専用の角栓取りパックを試したのだが、これが全く役をしない。貞良程ではなかったが、小鼻の脇に黒いものが詰まっているのが目立つので、何とかしたいと悩んでいた。
 鼻毛を抜いている最中に、この方法が閃いた。但し、その後、爪の形に内出血の跡が付き、非常にみっともなくなったため、もう二度としないと決めていた。
 ただ、大きめの角栓がすっぽりと取れたときの、ぞくぞくした感じは悪くなかった。ティッシュに置いたそれは、象牙色で細長く、ミニチュアの米粒のようで面白かった。自分の肌に、このようなものが詰まっているんだなと、妙な感慨に耽ったものだ。
 そういえば、と藤吉は想起する。
 米粒といえば、貞良達と観た、海のドキュメンタリーに出てきたタコの卵。あれも同じようなものだったな……。
 ――あれ?
 藤里は心づく。貞良の横顔に変化が起きていた。いつの間にか、貞良の目玉が膨らんでいるのだ。
 最初は錯覚かと思った。
 貞良の目は大きいほうだが、出目ではなかった。それがどうだろう。硝子越しに見る横顔の、その目は鼻梁よりも突き出ている。瞬きをする際には、ギュッと目尻に皺が寄る。足りない瞼を、無理に畳んでいるようではないか。
 藤里は目を擦った。ずっと覗きなんかしてるから目が疲れたんだ――と、我に返った。
 友達の無防備な姿を盗み見るなんて、自分はいったいなんてことを。慌てて玄関へと戻り靴を履く。音をさせないようにドアを開けて、外へ出た。
 改めて、チャイムを鳴らす。
「おーい、近江、いるか?」
 わざと大声を出した。
 中で、バタバタと人の気配がする。
「あれっ、藤里。どうしたんだい急に」
 今度は待たされることもなく、貞良が出てきた。屈託のない笑顔を浮かべている。目玉もいつも見慣れた大きさで、何の変哲もない。普段通りの貞良だった。
「入ってよ。バイトの帰り?」
「ああ。なんか、ちょっと寄ってみた」
 藤里は招かれるまま、再び上がり込む。さっきまで張り付いていた仕切りのドアを越え、貞良が指したクッションに腰を下ろした。貞良もその斜向かいに座り込む。
「今日は何も借りてないんだよね。テレビ、いいのやってるかな」
 貞良はテレビをつけた。その声は快活だったが、鼻がやけに赤い。まるで、直前まで泣いていたような色をしている。
 だが、貞良は泣いていたのではない。藤里は知っていた。
 鼻の頭のところどころに、針で突いたように赤黒い穴が空いている。その周りの皮膚には、爪の跡のような凹(へこ)みがあった。
     
 甲野と貞良には、こんなエピソードがある。
 四回生の夏のことだ。
 甲野は院に進むことが決まっていた。貞良は就職活動をすることもなく、かといって大学に残る気配もない。皆で進路を話すときにも、にこにことその場に座ってはいるのだが、何処か他人事といったふうだった。実家が店をやっているということもあり、そこに事情があるのかもしれない、と仲間内では貞良に進路のことを尋ねるのは、控えることになっていた。
 川島と藤里は就職を選んでいて、最近は慌しい身の上だった。甲野自身も、いろいろと準備に追われていたりもする。
 貞良を訪ねたのは、久しぶりのことだった。
 楽しい時間だった。甲野は、つい長居をしてしまった。泊まっていってよ、と貞良は言った。
 夜具の予備はなかったが、青年達は構わなかった。貞良は自分のタオルケットを、甲野は借りたバスタオルを腹に巻いて寝転んだ。
 明かりを消してからも、愚にもつかない話は続いたが、やがて甲野は眠りに落ちた。
 どのくらい経っただろうか。甲野は、奇妙な音で目を覚ます。薄いカーテン越しの街灯のせいで、部屋の中はぼんやりと明るい。
 見れば貞良が、眠りながらも口を歪めて、ぐぶぐぶと音をさせていた。
 気を引かれた甲野は、半身を起こす。貞良は口だけではなく頬や顎まで、普段なら決して動かないような角度に、曲げたり伸ばしたりしていた。時折、舌も覗かせる。濡れた舌先が蠢き、てらりと光った。
「おい、近江。近江ってば」
 気味が悪くなった甲野が控えめに声をかけても、貞良のそのぐぶぐぶは止まらない。
 仕方がないので、貞良が発する音に耳を傾ける。どうやら同じ音の繰り返しのようだ。
 くびあ、だか、くちら、だか。
 日本語はおろか、英語やドイツ語などの、心当たりの言語ではなさそうに思えた。
 翌朝、甲野は貞良に昨夜のことを教えた。
「へぇ、僕、そんな寝言を?」
 よく冷えた牛乳を啜りながら、貞良は応える。
「最初はな、てっきり具合が悪いのかと思ったよ。でも、おんなじことの繰り返しだったし、顔だってグニャグニャさせてたけど、見てたら、それだって繰り返しだったからなぁ」
 そう言って甲野は、そのときの貞良の顔面の動きを真似ようとし、あいててと顎を押さえた。
 当の貞良は無邪気な様子で、それを見て笑った。
   
 仲の良かったこの三人の青年と貞良は、卒業後、呆気無く疎遠になった。
 アパートは引っ越さなかったが、誰も訪ねては来なかった。訪問者もいないうえに、貞良自身も極力外出をしない生活を送っていた。
 ただ、近所の歯科医を十数回訪れている。
 歯が痛い。右の奥歯が堪らなく痛いと訴えたが、虫歯どころか腫れさえもなく、レントゲンを撮っても何の異常も見られなかった。
 医師は、歯ではない、と結論付け、総合病院を受診するよう勧めていた。だが貞良は、何度もその歯医者に通った。来院の度に検査はしたが、結果は同じだった。
 貞良が、他の病院に掛かったという記録はない。
 
 

かくして物語は冒頭に戻る。
 近江家の家族会議が失敗に終わってから、一週間が過ぎた。時刻は、午後の二時を少し回っていた。
 貞良の父親は、倉庫にある在庫の簡単な棚卸し作業をしていた。
 画用紙の数を数えていたとき、一瞬、目の前が真っ赤になった。心臓が跳ね上がる。
 すぐに視界は元に戻った。
 鼻先に、ふっと生臭い風を感じた。
 ああ、これで息子とは二度と会えないのだ、と解った。水が上から下へと流れるように、当たり前の事実として、父親の心は理解した。

貞良の母親は、店の中で床掃除をしていた。射し込んでくる陽の光に、埃がキラキラと舞っている。
 手を休めて腰を伸ばしたとき、一瞬、轟音が耳を聾した。ハッと呼吸が止まる。
 すぐに聴覚は戻ってきた。
 鼻先に、ふっと生臭い風を感じた。
 ああ、これで息子とは二度と会えないのだ、と解った。油を注げば火は燃え上がるように、当たり前の事実として、母親の心は理解した。

 貞良の祖父は、庭で菜園の手入れをしていた。しつこく集るアブラムシには閉口する。
 どれ、今日も退治してくれると息巻いたとき、一瞬、例えようのない恐怖が襲ってきた。世界の全てが絶望へと代わる。この青く晴れ渡った空さえも。
 すぐに恐怖は去った。
 鼻先に、ふっと生臭い風を感じた。
 ああ、これで孫とは二度と会えないのだ、と解った。今が安全で平和で穏やかな昼下がりであるように、当たり前の事実として、祖父の心は理解した。

 貞良の兄は、配達の仕事のために、車を運転している最中だった。車内はぽかぽかと暖かい。
 ……眠くなってきた、と思う間もなく、耐え切れない眠気が兄を苛む。朦朧(もうろう)としながら、道沿いにあるホームセンターの駐車場へと、何とか車を突っ込んだ。
 エンジンを切ったと同時に全身の力が抜け、ハンドルに倒れ込む。瞼を閉じる力もなく、自分が白目を剥いたのが分かった。
 次の瞬間。
ゴツゴツとした岩場。澱んだ潮の臭い。
 海岸に、兄は立っていた。
 混乱したが、理性がこれは夢だと告げる。
 足元の潮溜まりに、光るもの。手鏡だ。赤紫の柄が、手に取れと言わんばかりに突き出ている。素直に取り上げた。
 母親の凹面鏡だった。いつぞやの晩を境に、母親の手元から消えていた、あれだ。
 何故ここに。
 反射的に湧いた疑問を、これは夢だ、と理性が窘める。
 夢だ。
 夢だから、何故とか、ない。
 一呼吸置いて、鏡面を見る。
 鏡の中に、弟がいた。正確にいえば、拡大された弟の顔の上半分だ。眉毛と目と鼻筋が半分、そして頬が映っていた。右の眉毛の隙間から、赤く熟れた面皰が覗いている。
 同じような腫れ物が、頬にも点在していた。目の下をビクビクと引き攣らせ、だらだらと脂汗をかいている。
 容赦なく引き伸ばされて映っている貞良の顔は、酷く汚らしかった。
 兄の顔は、映されていない。
 そんなことがあるかと、兄は頭を振った。鏡なら、自分の顔が映るはずだ。
 では、これは鏡ではない。手鏡に似せたモニターか。何処かで撮られた貞良の映像を再生しているのではないか。鏡を裏返したり、その縁をなぞったり、コンコンと叩いてみたりもしたが、何の手ごたえもない。裏側に耳をくっ付けてもみたが、冷たく、全くの無音だった。機械が仕込まれてるんじゃないのか――兄は、鏡を持ち直すと、もう一度鏡面を見る。
 鏡の中の弟と、向き合う形になった。
 夢だ、と理性が囁いた。兄は、納得した。
 凹面鏡に拡大されている弟の顔は、恐ろしく近い。どんなに仲のいい兄弟でもこの距離で顔を突き合わせることは、なかなかあるまい。ましてや、自分達はすでに成人している。幼い頃ならいざ知らず……、ああ、そういえばまだ小学生だったっけ。こんなふうに鏡に映った弟の、面皰を潰してやったっけなあ。
 確か、その次の朝だった。母親が、手鏡がないと探し回っていたのは。
 兄の思考が手繰り寄せる、貞良との思い出。
 変な体験だった、と兄は心づく。当時は何とも思わなかったが、それはどうしてだろうと訝しむ。子供故、か。
 そういえば、貞良がナッツやチョコレートにハマったのも同じ時期、いや、この後だ。
 顔中が面皰だらけになってもやめなかった。鏡の中でじっとこちらを見据えてきている弟の顔は、やはり面皰だらけだった。
 兄もその目を見返す。瞳孔が開いているのか、やけにぎらついている。白目はどろんと淀んでいる。溶けた蝋燭を思わせた。
 その両眼が、すっと上に流れ、鏡面から消える。鼻筋から鼻頭も後を追う。
 唇の部分で止まった。僅かな線のような薄いそこは、色をなくしていた。兄は、極度の貧血か低体温を疑い、弟の身を心配した。
 それが唐突に開く。裂けたかのように。ごぼり、と唾液が溢れ出た。溜め込んでいたのか、かなりの量だ。粘性に富み、水飴のような滴り方をする。
 あまりの様に兄は吐き気を覚えた。目は背けなかった。
 その間にも、貞良の唇は開き続ける。前歯どころかほとんどの歯が剥き出しになる。無理をしているのだろう、口角がびりびりと震えていた。
 下の前歯の陰から、赤いヨットの帆のようなものが、不意に立ち上がる。小刻みに左右し、すぐに引っ込む。舌だった。
 拡大されている貞良の口元が、くう、と上向いた。口腔内部が鮮明に映し出されていく。上の前歯の裏側が鏡面に現れた。鏡の先を、口の中に差し込んでいっているのだろう。鏡像の角度は、徐々に変わっていく。右の上にある最奥の歯を正面に捉えると、止まった。
 手鏡いっぱいに映し出されているそれは、少し擦り減ってはいたが白く健康な歯だった。治療の跡もない。
 一緒に暮らしていた頃、貞良は虫歯になったことがなかった。今もそうなのか。兄は、弟を妬んで歯ブラシを隠したことを思い出した。自分は虫歯だらけだったのだ。苦笑する。ほんのりと胸の中が暖かくなった。
 すぐに、何を場違いなことを、と頭を振った。
 鏡には、さっきと同じ歯が映されたままだった。手が震えているのだろう、カクカクと鏡像が上下する。
 無理な角度だからなぁ、と兄がぼんやり思ったそのとき。
 一際、動きが激しくなった。だが、兄は目を離すことができない。むしろ、瞬きさえ惜しんで凝視してしまう。何故かは分からない。
 揺れが酷い。続く。続く。乗り物酔いに似た、不快な感覚に兄は陥る。
 それでも見つめ続ける。
 大写しになっている貞良の白い歯が、じわりと緑色に変わり始める。白い画用紙に、緑のインクを垂らしたような変色の仕方だった。
 兄が驚く間もなく、緑色の歯が痙攣するように動き始める。周りの歯茎も、みるみる同じ緑に変わっていく。歯茎から上顎にかけて、太い血管状のものが次々と走る。兄の目にもはっきりと、脈動を始めたのが分かる。
 緑色の歯が、ぶるっと大きく身震いした。
 その拍子に罅が入った。身震いは続く。細かい破片が、ぼろぼろと落ちる。
 上顎と歯茎に浮き出した血管状のものが、ドクリ、と膨らむ。
 兄の目はそれを見つめながらも、同時に子供の頃に見た映画の一場面を浮かべていた。
 潜望鏡で捉えられた、目標。
 それに向けて、潜水艦が海中で魚雷を撃つ。
 貞良はくなくなと頽れるようにして、座り込んだ。
 あのときの記憶。変形していく貞良の咥内。兄の眼前で、立体映像のように交差した。
 蹲る幼い貞良。
 確実な崩壊を遂げていく、緑色した貞良の奥歯。
 上顎の粘膜を突き破らんばかりに暴れまわる、血管状の――ああ、これは触手だ。
 極度に拡大された鏡像はガクガクと上下する。
 何か、来る!
「来るなああああああ!」
 兄は絶叫した。
 無意識だった。迸った声が放った圧力は、喉を裂かんばかりだ。
 しかし、それは来た。
 貞良の奥歯が、砕け散る。
 卵の殻のように。容易く。
 孵化――だった。
 砕けた歯の代わりに凹面鏡に映しだされたのは、歪んだ美貌。
 美貌だった。
 緑の卵から、今まさに、物凄(ものすさ)まじい美貌が誕生した。
 貞良の口の中にある、小さな奥歯から這い摺り出てくるそれは、圧倒的な質量を誇っていた。人間の何倍も、何十倍もの。
 そんなことがあるか!
 兄は驚愕した。
 途端、天啓のように理解が訪れる。
〈これ〉は逃げてきた。
〈これ〉は――逃げてきたのだ。
 必死に、まさに必死に逃げてきたのだ。
 空間と理を、あらん限りの力で折り曲げて、捻じ伏せ、踏み躙って逃げてきた。
 形振り構わずの結果、選んだ逃路が貞良の口の中にあった、というだけのことだ。〈これ〉にとっては。
 他次元を移動した代償として、〈これ〉が払ったものは時間だった。赤ん坊が青年へと成長するまでの。尤も、〈これ〉が〈いた〉大本の時間が過去なのか未来なのか、それは兄の理解の範疇を超えていたのか、解らず仕舞いだった。
〈これ〉は己の欲する知識を、貞良を通じて吸い上げた。逃げ切った先で必要になるであろうことを――調べた。貞良に調べさせたのだ。
 そうして〈これ〉は他次元から多次元の壁を伝い、破り、貞良の脳を、歯を突き抜け、再びこの次元へと――。
 ――孵った。
 ――還ってきたのだ。
 貞良の上顎が裂ける。びちびちとした触手が躍り出る。重量挙げの選手の腕並に太い触手が、何本も何本も、貞良の口内に収まっていた。暴れ回るそれが、鏡を傷つけずに済んでいるのは何故か。
 逃げ切ったことを確信した美貌が、歓喜の咆哮を放つ。美貌と触手は一体だった。凄惨すぎる美しさと悍(おぞ)ましさを、まともに見た兄の目は潰れ、脳の神経は焼き切れた。
 兄の手が緩み、凹面鏡は滑り落ちる。岩場に鏡面を向けたまま、落ちる。あっけなく割れた。
 兄は、すでに潰れている目の中に、両手の指を全て突き刺した。喉からは、放屁にも似た悲鳴が迸り続けている。それがいきなり聞こえなくなった。耳も潰れたのだ。
 これは夢だ、と兄は願った。
 
 ホームセンターの従業員が、駐車場に停めてある車の運転席で、白目を剥いて意識を失っている兄を発見した。救急車が呼ばれ、家族も病院へと向かった。
 幸い、翌朝には兄の意識は戻った。様々な検査を経たが、若干太り気味ということ以外に、何処にも異常は見られなかった。診断は過労ということになった。
 兄が退院したその日。
 とある著名な新聞の、朝刊の片隅にこんな記事が載っていた。
 隣の県にある、小さな海岸沿いの岩場を国が買い上げた、というものだった。水質調査の施設を造るということで、大きな工事が始まるのだ。安全確保のため、当面付近は関連道路に至るまで封鎖される。
 この新聞は近江家でも購読しているが、兄の退院でバタバタとしていたせいで、この記事が読まれることはなかった。
 兄は、すぐに日常生活に戻ったが、みるみる視力と聴力が落ちてきた。度の強い眼鏡が必要になった。補聴器の世話になることも近いだろう。
 声も張りを失くし、細く掠れたようになった。調べると、声帯が腫れているということだったが、原因は分からない。
 貞良の話を、家族の誰もしなくなった。子供時代の部屋はそのまま残してあったが、開かずの間どころかそこに部屋などない、という態度を皆がとっていた。
 貞良本人の帰宅はおろか、電話や手紙、噂話ですら、何一つ、なかった。



 近江貞良の痕跡は、潰(つい)えてしまった。
 語るべき物語も、これで終わりだ。 

 
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