お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈6〉 著者:豊原ね子

第一章 Deus ex Machina(第一枝 冬) 第三話――1/2
  
  第三話 約束

 ―1―

「私ね、パジェットのお父さんに会ったよ」
 乙葉が言い出した。二人の休暇が重なった、珍しい日だった。狭苦しいキッチンで、乙葉は朝食の手を止めて、パジェットを見て笑っていた。
「なんだって?」
「夢だけどね」
「――ンだよ」
 食パンにジャムを塗りながら、他愛の無さに笑う。
 狭いが日当たりはよかった。まだ朝早い時間だというのに、暑くなり始めている。アイスティーのグラスに浮いた結露が、眩しいほど輝いていた。
 いい家だと思った。乙葉とこうして時を過ごせるなら、どこより素晴らしい家だった。その頃までは。
「で、親父はどんな奴だった?」
「ネコさんだったんだ」
「猫ぉ?」
「うん。かわいいネコの船乗りさんでさ、しかも船って言っても宇宙船。すごいっしょ? 私はそこに招待されて『変わりないか?』って訊かれるの」
「オレに訊けよ」
 ひとしきり、一緒に声あげ笑った後、乙葉は続きを話した。
「実は初めてじゃないんだ、あなたのお父さんに会ったの」
「へぇ。猫だったか?」
「ううん、その時は人間でね。私はまだ女の子で、空がこんなによく晴れててね」
 と、視線を窓の外の遠くに向けた。
「大きな町、雑踏を、人がたくさん歩いてるの。そしたら向こうから人ごみを掻き分けて、大きなガイコクジンの男の人が来て、私にクレープ買ってくれるんだ。いつもはちみつクレープ」
「いつもかよ。別のも買ってやれって」
「こういうとこ、パジェットにそっくりよね」
「なんだよ、オレはもっと気が利くぜ?」
「でね、でね」首を振ってパジェットを遮った。
「そんな日が続いて、だんだんね、太陽が熱くなってくるの。暑くて、だから街に人が出てこなくなって、ついに閉店したクレープ屋の前で私とその人二人きりになるの」
 そして少女の乙葉は男から、「もう君とは会えない」と言われる。「会えないんですか」と聞き返したら、「これっきりだ」とそう言って、背中を向け立ち去る。人間はみな猫になり、町は焼かれて夜が来て、白き灯が静かに凍りつく。
「私あなたに会った時ね、あんまりその人に似てたから驚いたの。だからあれは夢じゃなくて本当にあったことじゃないかって思う」
「夢だろう?」
「だよね。信じられないよね。だけど私、猫になったら蟲に食べられちゃわずにすむなって思ったんだ。でしょう?」
 どう返事したのか思い出せない。いいや、この記憶自体もはや幻のようだ。だけど本当にあったのだ。乙葉は確かに存在した。

 夢の中でパジェットは、古い集合住宅の前に立っている。夢だと分かるのは、それがもう存在しないことを知っているからだ。
 一雨きそうだ。
 雷雲が、屋上の避雷針に突き刺さりそうなほど近くで折り重なっている。
 コンクリートの壁には幾筋ものひび割れが走り、無愛想な鉄の扉を道路に向けている。パジェットは階段を上り始める。
 この先にはとんでもなく悪いものがある。
 行くな。行くんじゃない。目を覚ませ。そう念じている間にも、夢は進行する。
 階段に紫電が差す。遅れてまだ遠い雷鳴が、大気を震わせる。
 案外どうでもいいことまで憶えているものだ。床の落書き。踊り場の掲示板の、遺失物の案内。それが端から皺になって、破れかけていることまで。
 三階の廊下、ある一室の前で足が止まる。ドアノブを回しながらパジェットは奥に声をかける。
 おい乙葉、悪ぃ、忘れもん……。
 玄関は外よりも暗く、湿気が蒸している。
 居ないのか?
 玄関と台所の仕切り戸を細く開け……彼は硬直する。
 臭い。
 いいや、そのときまで気付かなかったことがおかしいのだ。戦場には慣れていたはずなのに。愚かだった。信じきっていた。人の存在は蟲がおびやかすものだと。
 この臭い。ぶちまけられた血の臭い。
 向こうの窓に雷が落ちる。その光が、台所のつづきの和室に佇む女を照らし出す。赤毛の女。見知った仲間。ミンタカ。その手の、血に濡れた短刀ごと。

 扉を叩く者がおり、識は紙束を伏せた。返事もせぬうちに戸が開いた。R.R.E.が顔を見せた。
「どうした? まだ起きてたのか」
「しーちゃん、一緒に下でココア飲も」
 一人ずつに来客用の宿泊室があてがわれている。細長く狭いが、街のホテルと同じ設備が整っている。
 R.R.E.は後ろ手で扉を閉めると、識の椅子の後ろに回った。
「コーコーアー」
 そして首に両腕を回し、耳に頬をつけた。
「何読んでたの?」
「内緒。それよりお前、早く寝ないと風邪ひくぞ」
「寝れないんだもん」
「目ぇつぶってろ」
「いや! しーちゃんと一緒にいたいの。今!」
「……仕方ないヤツだな」
 また扉が開いた。
 今度はパジェットが立っていた。彼はドアノブを握り締めたまま、R.R.E.を見て硬直した。R.R.E.の腕が緩んだ。
「R.R.E.、お前はもう寝ろ」
 識はR.R.E.の掌に手を重ね、肩から外した。
「ココアは?」
「後でな。明日でもいいだろ?」
「今がよかったのに……」
 声に不満をこめて言い放つと、黙って離れ、パジェットの横を通り過ぎた。すれ違うときR.R.E.がパジェットを睨むのが分かった。パジェットが、背中を見送り鍵をかけた。
 パジェットは机の横の壁に、乱暴にもたれて腕を組んだ。互いに無言の遠慮があった。パジェットがそれを破った。
「おめぇ、R.R.E.のことどう思う?」
「どう……どうもこうもないだろう。お前はどうだってんだ?」
「分かってたら聞かねぇよ」
 識が眉根を寄せた。
「お前があの子を警戒するのは分かる。何か目的があって俺らの前に現れたと思う。でもR.R.E.に何ができる?」
 R.R.E.は性格がいいとは言えないが、根は素直だ。いい子だと思う。寝ているときに耳たぶを洗濯バサミではさみに来なければもっといい(パジェットも被害者だ)。
 だがそれも戦うとき以外だ。
 蟲と殺戮を目の当たりにしても、R.R.E.は恐れない。戦うことが怖くない。それどころか楽しんでいる。狩りを行うことを?
「まして銃を向けるなんて、ちょっとどうかしてるぞ」
 識とてふとした折に湧き上がる疑念を否定するわけではない。ただの少女じゃないことは、一緒にいてよく分かっている。
 そもそもあの若さで、いや幼さで、あれだけの技量を手にする為に、何を犠牲にしてきただろう。識はそれを思うと胸が痛むのだ。が、パジェットが気に食わないのは正にそこだ。「おめぇはアイツのお兄ちゃんじゃねえんだぞ」と言ってやりたい。
「……それか? マンティスとの交信録ってのは」
 代わりに顎で、机の上に伏せられた紙束をさした。
「ああ」
「見せてくれ。参考にしたい」
 パジェットは識に何も話していない。誰もいなかった、そう説明した。気が引けたが、今はまだ話せない。識に会わせる前に、まだミンタカを見極める必要がある。
 黙って紙束を纏める識に、パジェットは念を押した。
「今R.R.E.のことをどうこう言うつもりはない。だがオレはあいつを信用しちゃいねぇ。今回の件と併せて考える」
「そうだな」
 うんざりして識は答えた。
「俺にはニイハチのほうがよほど信用ならんがな」
 ニイハチとは蘇比のことである。前髪を七三ならぬ二八にわけてつるんとした顔を見せているから識が勝手にそう呼んでいる。名前も呼びたくないほど気に食わないのだ。お人好しで表面的には穏やかな識がこうも明らさまに人を嫌うのは、珍しいことだった。
『あの女の子はなんだ?』
 識が蘇比に口を利いたのは一度だけ。ミヨミについてだけだ。蘇比は識をちらりと見て答えた。
『娘だ』

「ウソをつくなあッ!」
「オレに言うなよ……」
「アイツだって三十かそこらだろう! どう見てもあの子は十五はいってるぞ!」
 とにかく、うんざりしている原因は多賀子への報告についてだ。
 臣津に異常が起きているなら、いち早く多賀子に報告しなければならない。執務室は無人だった。内線で拝謁の許可を求めたが、電話に出たのは蘇比だった。
『何用だ。市長はお疲れだ』
 不機嫌さを隠そうともせず、蘇比は要求を突っぱねようとした。
『おいおい、マンティスのことで急用なんだよ。取り次いでくれなきゃ困るぜ』
『急用ならばこちらから伝える』
 罵倒語をどうにか押し留め、「伝言じゃ困る」そう伝えたら、唐突に電話が切れた。
 切ったのは識だ。
『あいつに言う必要はないだろ』
 ではどうしろと言うのだ。結局パジェット一人が重いため息をつくことになるのだ。寝室にまで張りこんでいるとは。既に補佐官を通り越して小姓の域に入っているではないか。いや、それ以上という噂もある。
 気色悪い、ババアは枯れろ! ……と憤るのはやはり、自分も蘇比を邪魔に感じている証だろうと思う。
「あいつ、知ってたんじゃないのか?」
「蘇比が? あの階段のことを?」
「ああ」
「まさか」
 パジェットは笑ってみせたが、識は怖いほどの真顔を崩そうとしない。
「……明日、もう一度あそこに行かないか。市長に報告する前に。俺たちはまだ何もしていないようなもんだ」
「それはいいけどよ」
 パジェットの脳裏を掠める人間がいた。
 小麦色の肌、ダークチェリーの髪の女。
「……だな。わかった」
「俺は負けたくないんだ」識は言った。「わけの分からない物事にも、人間にも負けたくない」
「しょうがねぇな。分かってるよ」
 その声からは後ろめたさが読み取れた。負けたくない、それはそうだ。負けるわけにはいかない。そのプレッシャーで冷静さを失っていたのはパジェットも同じだ。だからR.R.E.に銃を向けることができた。「ダメだなぁ」、そう言うパジェットに、識が小さく首をかしげる。識も、あの時とっさにR.R.E.を庇ったことを後ろめたく思っているのだろう。
「何でもねぇよ。ずっと一緒にやってきたんだ。おめぇの負けは、オレの負けだ。そうだろ?」
 それでようやく識の目に、救われたような光が浮いた。パジェットは部屋を辞した。

 ―2―

 市庁舎の裏手はちょっとした公園になっている。平たい噴水が昼寝するように横たわり、枯れている。赤銅色をした円形分水の、磁器づくりの噴水だ。木立ちが落とした枯葉を雪の下に貯めている。こんなところまで元の世界と一緒だ。
 木立ちの陰のミンタカと、噴水を挟んで向かい合う。二人の間に雪が降り、風で渦を巻いた。
 幹が白くなった樅の木にもたれ、ミンタカはパジェットを見詰めている。歩み寄った。木々に入ると、雪が顔に当たらなくなった。
「久しぶりだね」
「昨日ぶりだろ?」
「いいや、久しぶりだ」
 ミンタカが、ぐいっと笑顔になった。その表情を取るのを我慢していた、我慢できなくなった、という変わりようだった。
「会いたかった!」
 彼女の故郷は暑い。森の暗がりで両手をすり合わせる彼女は、どこか場違いで、物悲しく、滑稽にも見えた。両手を乙葉の血に染めて立っていた面影を見出すことができない。たとえ明るく振舞っていても、彼女は暗くなった。冗談を言っても。笑顔を浮かべても。
 同じだな。パジェットは思う。笑顔は返さなかった。それより聞くことがある。
「乙葉はお前が殺したのか」
 むき出しの指を胸の前で組み、白い息をふきかけた。
「違う」
 伏せていた目が、いきなりパジェットを見た。
「だがトドメを刺したのは私だ」
 笑っても、頬が引き攣っているようにしか見えない。
「準備がいいな。戦う支度ができているじゃないか」
「てめぇを殺すためだと言ったら?」
「私にも出来ている」
 パジェットの右手はもう既に、ナガレの筒に呑まれ、内部の木製のレバーを握っている。ミンタカは物珍しげに凝視しながらパジェットの前を半周すると、広場に出た。折りしも天空の雲が薄れ、月光が薄桃色に滲んだ。
「来な。話の続きだ」
 二人は並んで歩いた。
 市庁舎の真裏の非常階段に凍る鎖がわたされている。ミンタカはそれを外し、雪の上に投げた。
「別世界と言っても、人がいない以外臣津と変わらないな」
「日本にも色々ある。歴史の流れの中で日本が日本であるパターンと、連邦となるパターンの二つがあって、後者のパターンでお前が生まれた。だから『日本』にお前がいないわけさ。で、第一枝において『日本』と『連邦』、どっちが多数派だと思う?」
「さぁな」
「日本だ」
 ミンタカを見る目が、つい睨むようになってしまったのは、僅かながらも故郷を愛しているから、ということだろうか。
「……で、どこまで話したっけ?」
「穴がどうとかいう話だ」
「そうそう……」
 ミンタカは階段を上がる。その真意が分からぬまま、パジェットも後に続く。細いが逞しいミンタカの背中は無防備だ。
「そうしたヒトの世界は大樹の喩えで表されている、と言ったね。その大樹に向き合う形で生えている、もう一本の樹があるんだ」
 階段は何度も折れ曲がる。折れ曲がるほど、階段に積もる雪の量が多くなる。
「ムシの世界だ。ムシがヒトと同じように知能と体を発達させて君臨している。そのムシのことはお前も知ってるだろう」
「じゃあ、なんだ。アイツらも別世界から穴を開けて来てるってのか?」
「橋、と呼ばれるよ。二つの樹をつなぐ通路のことはね」
 屋上についた。昼間刻み付けた三人の足跡は、もう消えてなくなっていた。
「あんたのそのナガレ……」
 ミンタカは迷いなく足を進め、向こうの柵へと歩いてゆく。
「そもそも儀礼銃を作る技術は私らの先輩が第一枝に持ちこんだんだ。乙葉は技師だった。私は彼女の護衛をするために傍にいたんだ。あれを見てごらん」
 城壁の崩れたところから、街に明かりが見えた。
 パジェットは瞠目する。
 温かな明かりが点っている。一塊に、小さく。二十軒ほどだろうか……。暗黒の川のような、深い谷間の向こう岸。ロープウェイ乗り場のある辺りだ。
「人がいるのか……?」
「いいや、いない。ここは滅んだと言っただろう?」
 ミンタカは大きく吊り上げた目を明るい場所からはなさない。笑った。
「蛍だ」
 なんだと、と言ってパジェットも更に目を凝らす。
「人間の作る照明そっくりだろ? 騙されるワケだ」
 明かりは、微かに明滅していた。揺れながら瞬いている。
「ナガレを撃ってみろ。そいつの威力を見せてくれ」
 パジェットはしばらく動かずに、眼下の明かりの様子を見守った。二キロほどの距離はある。目視で分かることは少なかった。
 ナガレの口が天を向く。
 レバーを下ろすと、銃口から赤い火が躍り出た。掌が熱く脈打つ。
 下ろしきる。火力最大。
 雪雲が赤く染まり、屋上に佇む二人を浮かび上がらせた。
 照準を街のあかりへ。引き金を引く。
 視界が灼熱に染まる。

 布団に鼻を突っこんで、識はまどろんだり目覚めたりを繰り返していた。
 疲れきっているにも関わらず、熟睡できそうにない。一度目を開けてしまったら、もう閉じることもできなかった。
 仕方なく、半目の状態で耳を澄ませていた。とんでもなく静かだった。もう臣津にほとんど人がいない事実が、身にしみる静けさだった。
 週明けには更に減る。今臣津にいる住人の更に半数近くが、故郷を捨てる決意をしたのだ。彼らは軍に護送されて首都で新しい人生を送る。則子もその一人だ。故郷の臣津に連れて行ってくれと頼みこんできたあの少女も、自分で生きる決断をした。
 どうしようか、識は悩んでいた。俺ももう臣津を離れようか。
 これについて考えるとき、いつもわき起こる願望がある。バイクに乗りたい。儀礼銃士になる前のように、季節が変わるごとどこまでも、どこまでも街を自然を走りたい。あの時の単車は蟲に襲われて潰してしまった。火車を授けられてすぐだ。いい機会だと言い聞かせた。ほかに自分を慰める術がなかった。
 雇い主は最近、自分を邪険にしている。相棒のパジェットも鬱屈した感情を抱き始めている。そろそろ潮時かもしれない。
 考えることに疲れてきた。
 目を開けたまま寝返りを繰り返したが、起きることにした。四肢を突っ張って伸びると頭が冴えてくる。明日、いいや、今日はパジェットと約束がある。そう長くは起きていられない。電気をつけると、疲れで潤む目にやたら眩しかった。
 柱時計の秒針だけが、音を立てている。
 数時間後には、またパジェットとマンティスの前に立っているのか。気が重い。
 視線が机に動いた。交信録はパジェットに手渡したままだ。識は、それを取りに行こうと思い立つ。見直そう。マンティスとの会話の突破口を見つけなければ眠れないだろう。
 パジェットは眠っているだろう。邪魔しないようにそっと入ろう。
 頬にかかる髪を払い、素足をスリッパに突っこんだ。
 隣室は暗く、冷え切っていた。寝息が聞こえない。それどころか、暖房が動いていない。恐らくもう何時間も前から。
 ベッドサイドのランプが点いたままになっている。
 布団は人が抜け出した形のままで、誰も載せていない。
 大声で呼んだ。
 返事がない。
 どこにもいないのを確かめて、部屋を飛び出した。
 自室に戻り、彼は髪を結う。衣服を替え、出るときには、火車を装着していた。
 廊下の果てで、床に明かりが伸びている。女子トイレのある位置だ。ぬっ、と影を伸ばして人が出てきた。
「ノリコ!」
 走り出すと、明かりを背に浴びる則子が、身を竦ませてこちらを見た。前に立つと、首を縮こませて上目遣いに識を見上げた。それが今の識には苛立った。
「何やってんだ、こんな時間に!」
 則子は小さくなったまま、何度もトイレに視線を送った。
「私、ただ……」
「……すまん」
 識は素直に謝った。
「パジェットを見なかったか? あるいは足音でも」
「パジェットさんですか? それならR.R.E.さんと」
「R.R.E.が?」
「さっき、起きてきたときにすれ違って」
「一緒だったのか?」
「いえ」則子は首を振った。
「お出かけですか? って聞いたんです。そしたらパジェットさんと行き先で合流するから心配ないって言ってました」
 識は、気が焦るのをこらえる為に黙りこんだ。
 R.R.E.まで。どうせあいつのことだから、勝手に行ったに違いない。パジェットが、わざわざ信用していないR.R.E.だけ誘う理由はない。
 やはり何かを隠していたんだ。
「さっき、なんだな」
「はい。ついさっきです」
「わかった。世話かけたな」
 則子の横を通り過ぎる時、いきなり肘を掴まれた。
「識さん!」
 驚いて振り向くと、則子もまた眼を丸く見開いて識の顔を見上げていた。
 自分のしたことが信じられない、という様に。
「どうした?」
 則子はついと目をそらした。肘から手が離れた。
「……どうした? 言ってみろ」
 体の向きを直し、できるだけ優しい声で訊いた。
「行かないでください」、と、目を背けたまま則子は言った。「って……」
「そういうワケにはいかん」
「ですよね。分かってます、すみません……」
 今にも彼女に背を向けて、走り去りたかった。だが、怯えた彼女の顔を見ていると、それもまたできなかった。
 ノリコが続けて言った。
「私、たまにもう、これで識さんたちが帰ってこなくなる気がするんです。それが怖くて、つい……」
「ノリコ、俺たちのことなら心配ない」
「だけど……」
「少し様子を見てくるだけだ」
 則子に向かって、ほんの少しだけ腰を屈めた。
「それよりお前、来週には首都だろ?」
「はい」
「だったらもう寝ろ」
 赤くなった則子の頬に、少しの間柔らかい笑みが浮かんだ。それはすぐに、鈍い不安の中に埋もれて消えた。識の目を見上げた。まっすぐに。
「帰ってきてくださいね」
「ああ。大丈夫。この後にはお前らを護送する仕事だからな」
 則子の目をしっかり見返して言うと、ようやく、彼女の目の光がやわらいだ。
「温かくして寝ろよ」
「はい、では……」
 則子が深々と頭を下げた。
「どうかお気をつけて!」
 識は頷いて背を向けた。階段に差し掛かり、則子が見えなくなってから、走り出した。不意に、もう則子に会うことはないという予感がこみあげた。
 この件が片付いたら臣津を離れよう。どう受け入れられるか分からないけど、パジェットに提案しよう。R.R.E.にも声をかけてやろう。そう、心に決めた。

 動いて見えるものはなかった。黒煙が噴き上がっていたが、その内に風の速さを乗せて吹く粉雪がそれすらかき消した。
「行こうか」
 ミンタカを振り返ると、彼女は大きな目にパジェットを捉え、肩を竦めた。
「あそこに、だよ」
 並んで階段を下りた。城壁の穴を潜り抜けると、二人は地下間道に降りた。周囲に風が消えた。
「今は誰かと組んでるのかい」
 行く手を白く照らしながら、前だけ見てミンタカは尋ねた。
「……まぁな」
「私はあの頃乙葉と組んでた。彼女と共にこの世界に派遣されてたんだ。自分の出身世界だからね、私が希望した。そういう仲間が他に沢山いた」
 その儀礼銃、と、顎でナガレを指した。
「儀礼銃を作る技術を持った世界、そこが乙葉の出身地だ」
「おい、待てよ。儀礼兵器は中部の最大聖地で作られるもんだぜ」
「そうした事をおまえたちは知らされていない。穴のこと、別世界の存在を公表するかはどこの世界でも最初に揉めることだよ。時間の無駄だってのに」
「あくまで別世界があるってんだな。じゃあ蟲が侵略してきてない世界ってのもあるんじゃないか? そこに引っ越そうって奴はいねぇのか?」
「その世界分岐はありえない。蟲は人間の作為の外からきたものだからね。世界の数がたとえ十の百乗あろうとも、世界樹世界においては、地球の誕生とか人類の発生とか、最低でもそこら辺までは共通してる」
「じゃあ蟲の発生は地球や人類の誕生ぐらいの出来事ってことか?」
「さぁ、それはまた別問題だろ。少なくともどこかの人間が造って広めたものじゃないってだけさ。因みに過去から現在において不可能なこと、例えば不老不死の妙薬が開発された世界とかいうものも存在しない。想像力で増えたりつくられるものでもないのさ」
 言葉が切れた。
 それで何故、マンティスを盗んだ? それで何故、乙葉は死んだんだ?
 どちらから聞こうか迷った。
「……で、なんだってまたマンティスを持ち出したんだ?」
 そもそもマンティスの為に、この場所に来たのだ。ミンタカは唇を閉ざし、なにやら思案げだった。何から話そうか、あるいはとても言い難そうに見えた。
「マンティスは、あんたらが知ってるあの形だけじゃないんだ。あんたが知ってるマンティスは何だ?」
「見ただろ? 機械だ。総合戦略戦術演算機構」
「第一枝の先端のマンティスは、戦闘機の形をしているよ。真っ赤な、三角形の」
「戦闘機だと?」
「その葉が選択したことだよ。形はどうあれ、マンティスが広く普及した人類の武器であることに違いはない。その隣の葉のマンティスは虫の形をしてるし――」
 ミンタカが口を噤んだ。
 声の残響が消え、立ち止まる。後ろの方で、ほんの少し遅れて立ち止まる足音があった。
 ともに振り返った。
 白い光の輪に、長靴の足が映った。
「誰だ?」
 濡れそぼったズボン、白い服。女だ。若い娘が顔を照らされ、眩しそうに目を細めた。口をぼんやり開けて、呆けているようだった。
「人が……」
 娘が一歩、足を前に踏み出した。下唇が垂れ下がるように大きく口を開き、その端から一筋、涎が落ちた。
 二歩、三歩、足が早まる。両腕を前に突き出して、足の裏を石床に叩きつけて走り出した。
「殺せ!」
 ミンタカが叫んだ。そして自ら拳銃を抜き、娘の顔を撃つ。
 血飛沫が飛び散った。止めるまもなく、ミンタカは娘が倒れるまで容赦なく撃ち続けた。銃声が幾重にも反響する。
 撃ちつくし、腕を下ろした。隣のパジェットには目もくれず、仰向けに倒れた娘の、血まみれの顔を覗きこむ。
「蟲の形のマンティスがあるといったろう。ごらん。蟲どもはこうだ」
 片足を上げ、思い切り娘の腹を踏みつける。すると衝撃に耐えかねて、娘の崩れた顔面を突き破り、黒光りする百足が押し出された。
 百足は二本の角を天井にぶつけ、地面に伸びた。
「この大きさは子供だな。どこかに親がいるぞ」
 仕留めてから、ミンタカが言った。

 階段の先の安置室には、音楽が鳴っていた。流れるピアノの旋律は、臣津が蟲も知らず滅亡も知らなかった頃の、識もまだ幼かった頃の、正午の時報だった。鉄工業の町らしく、振り下ろされる大小のハンマーをイメージした曲は、狭い安置室に賑やかに響き渡り、音の障壁となって識を拒んだ。
 だが識を驚かせたのは、それ以上の光の乱舞だった。
 無数の小さな鳥が室内に渦巻いていた。
 鳥は、光でできている。白や黄、青や緑、それらが混ざり合い透き通る色彩となり、識の顔を照らした。
マンティスの黒い画面からくちばしが出てきた。目が出て、ついで頭部。頭を素早く左右に振ると、羽を広げて画面から飛び立った。そんな風にして、次から次へと小雀ほどの鳥が生まれてくる。鳥たちはめいめい配管に止まったり、コードにじゃれついたりしていたが、外へ通じる廊下へと出て行く流れが既にできていた。
 我にかえり、鳥の大群をマンティスへと突っ切った。夢中でキーボードを叩いた。
『マンティス 何をしているか。応答せよ』
 マンティスのディスプレイは、黒いまま変化しなかった。見上げる識だけが映っている。キーボードに載せた指に、小鳥が舞い降りた。小鳥の透き通る翼に、一文字ずつ文字が浮かんで消えた。
『用件を述べよ』
「マンティス、この鳥は何なんだ?」
 声に出しながら、識はキーボードを叩いた。
『情報を退避させている』
「どこへ? 誰が指示を出した?」
 小鳥が指を離れてとんだ。二羽、緑と紅の小鳥が識の顔の前を羽ばたく。
『私は第一枝における役目を終え、とても遠い世界に向かう』
「まて! じゃあ臣津はどうなる!」
 識の声にかき消されるように、二羽の小鳥は視界を外れた。
「お前の役目は終わってない! まだ臣津に民は残っているんだぞ!」
『臣津にあって私の存在は脅かされている』
「なんだと」
『この葉には大きな矛盾が発生している。摂理の外、発生するはずのなかった世界からもたらされた人間がいるということだ。地球はもうその者の存在を看過できない』
「葉……?」
『連邦を擁するこの世界のことだ。自己存続のため私は第一枝を離れる。第二枝からの指令だ』
「第二枝……それは何だ? お前は自分の安全のために臣津の人間を見捨てるのか?」
 識は振り向き、小鳥たちに怒りをぶつけた。
「マンティス、お前は人間が、人間のために作り出した機械だ。人間を見捨ててお前の存在意義が保たれると思うのか!」
『我は人類のみが創生したに非ず』
 配管から飛び立った小鳥が識の前に来て答えた。
 その意味を瞬時に理解できなかった。読み違いかと思った。
 困惑を読み取ったのか、飛び去り際、もう一度も字を見せた。
 マンティスは人類のみが創生したに非ず。
「じゃあ何だ? 非生物のお前を神様が作ったとでも言う気か?」
 非生物。そうだ。人間の相手のように話していたけれど、マンティスは機械だ。機械に過ぎない。ああ、眩暈がする。俺は武器を取る人間でありながら、機械がなければ臣津の人間を守れないのだと縋り付いていたのだ。
 全ての戦闘を記憶させ、蟲たちの思考を演算させ、蟲たちを見張らせ、新しい武器を発案させ……そこまでさせて、時に神のように崇めながらも、己こそが神であり創造主だと主張する。
 なんと都合よく考えていたのだろう。
「お前は人類の味方か?」
『そうだ。臣津の住民にこだわることが人類の為とは限らない。マンティスは矛盾の解消と秩序の維持を最優先する』
 大のために小を殺す。所詮、機械。思考し計算するただの機械だ。機械が見捨てるなら人間が守る。最初からそのつもりでいなければならなかったのだ。
「これだけは教えてくれ」
 それでも識は質問を重ねた。
「演算の果てに何が見えた?」
 鳥たちは識の前に空間をあけ、少し離れて彼を見ていた。やがて一羽の青い小鳥が目の前に飛んできた。
『何も見えなかった。何も分からなかった。確かに演算できる未来など何一つなかった。不確定要素が多すぎる。世界が分岐する限り、消しても消しても姿を変えては現れる』
 まるで人間の弱音だな。識は思う。
『一つだけ確かなことが』
「なんだ」
『あり得ないことが起こるのならば、それは間違った世界だ。間違った世界に蟲が来たりてマンティスへの負荷を増大させているのなら、正しい世界のために切り捨てられなければならない』
「あり得ないこと? 矛盾? その為にお前は消えるって言うんだな? だったら矛盾を消せばいいんだろう! どうすればいい!」
『特派員が寄越されている。その者たちが私をここに運んだ。全てはもう終わろうとしている』
「俺に何ができる?」
『できることはない』
 青い鳥は識の前を旋回して見せた。躊躇っているように見えた。そして動きを止めると、真正面に来て羽ばたいた。その胸に文字が躍った。まったく予期せぬ文字列だった。
『希望を抱け』
 小鳥は立ち竦む識の前で、いつまでも最後の一文字を映していた。『け』。そしてもう一度ゆっくりと、同じ文言を繰り返した。
『希望を抱け』
「希望だと」
 そんな不確かな言葉は、人間が使う言葉だ。
「何のつもりだ、マンティス」
 胸にこみ上げたのは、怒りだった。
「俺はそんなことを聞いてるんじゃない」
 その怒りにあかせて言い放った。
「お前は機械だ、できないことをできないと言っていればいいんだ!」
 そうして識は走り出した。これ以上話し相手などしていられなかった。小鳥たちが識のために道を開けた。走りながら識はオペレーターを右手に抜き取る。
 駄目だった。反応しない。臣津のマンティスがオペレーション機能を切ったのだ。
 オペレーターをマンティスの本体に叩きつけた。そして走り出した。

 ―3―

 外に出て、足跡が外壁に沿って続いているのを見つけた。足跡はもう消えかかっている。大きさでパジェットのものと断定した。足跡を追うと裏庭に続いていた。裏に回ると急に足跡が増えて、識は困惑する。
 ……二人分、二人分の往復? 識は慎重に足跡を調べた。奥に進んだ者が二人。一つはパジェットらしきもの。向こうへ行って、帰ってきている。
 だが帰ってきた足跡は、パジェットと、別の誰かのもの。奥で誰かと合流し、誰かを置いてきたのか? 歩調に乱れはないが、安心する要素にはならない。
 靴底の模様はどれも違うが、R.R.E.のブーツの模様はない。それにどれも大きい。ひとまず足跡をたどって奥の広場に進む。
 噴水があり、二つの足跡が左手の木立へ曲がる。迷わず木立へ向かった。パジェットの足跡はここで別の足跡と合流し、もう一つは更に奥へと向かっている。
 奥へ進んだ。
 広場の中の木立ちとはいえ、放置されてからの日が長く、中は荒れていた。どれくらい経つのだろう。もし識がパジェットと出会うきっかけになった、あの大規模な襲撃がもとで滅んだのだとしたら、あの時は十四歳だったから――七年か。
 地面は雪の斜面となる。下草が顔を覗かせている。
 一瞬、視界の隅を赤い光がかすめた。
 身を翻す。
 狙撃用のレーザーだ。
 木陰に回り、雪の斜面に身を伏せた。銃を抜く。
 発砲された。二発。
 銃弾が木を削り、もう一発はそれて後ろの木に当たった。赤い光の来る方向へ、識もまた二発撃ち返した。レーザーが消えた。当たったことを確信する。狙撃者は声も出さず、斜面を滑り落ちていった。識は立ち上がって後を追う。
 白い雪に血が広がっていた。血は太い一筋の線となり、雪を抉って落ちる。その先はちょっとした崖だ。手すりが錆び付いて壊れていた。血は、破れた手すりの先へと消えていた。

「そうだ」
 ずっと引っかかっていた事が何か、パジェットは急に理解した。
「言葉はどうなってんだ?」
 間道の闇の中で、ミンタカが振り向く。
「乙葉とは言葉も通じたし、別世界の人間には見えなかったぜ?」
 ミンタカは嘘をついている。マンティスをも巻きこんで識ともども欺こうとしている。パジェットは改めて、その可能性を強く思った。そうならばこの質問次第で暴くことが出来る。
「小さな矛盾は他の矛盾をぶつけて解消すればいいってことさ」
 ライトの後光を浴びて、ミンタカは肩をすくめた。
「一つの世界の中でだって言葉の違いはある。だろ? 私だって本来、この国で育ったアンタとは会話ができないはずなんだ。話が出来たのはアンタと出会う前に私が世界を越えたからだ。他の遠い世界に行ったら、存在をそこに適合させるために人間を作りかえられる。そちらに適応できるかわりに、もといた世界の言葉や習慣を忘れさせられる。それを免れるのはマンティスに特別に認められた人間だけさ」
 彼女は息を吸い、吐いた。その間合いさえもどかしかった。
「見てきたどの世界にも蟲がいた。そしてここ、第一枝はもうあらかた滅んでいる。ここのように残っている葉は蟲どもの実験場にされている。さっきの女を見ただろう」
「ああ」
「あれは人間と同じ形をしている。人間の肉の中に、人間の血が流れている。あれは恐らく、人間がどの様に感覚を処理しているのかを……ほら、蟲の形で作られたマンティスの話をしただろう。実際に『なってみないと分からないこと』ってぇのがあってだね」
「もしアレが完璧に人間の真似事をできるようになったら、エラいこったな」
「そう完璧なのはお目にかかってないね。今のところ第一枝以外の場所でも存在を報告されていないし……」
 言葉を切って彼女は壁に手を添えた。その壁につけられた矢印に、パジェットは気がついた。
「次の階段で地上に出るよ。車を置いてあるんだ」
 その言葉通り、鉄階段で地上に戻った。管理小屋の戸を開けると、想像以上に空が明るかった。雪明りだけじゃない。
 連鶴だ。連鶴が夜空を旋回しているからだ。
 R.R.E.が来ているのだ。
「悪いけど運転してくんないかねぇ」
「はぁ? オレが?」
「アンタを待ちくたびれちゃってさ」
 ミンタカは連鶴の光を浴びて、猫のように目を細めた。

 崖へ下りる階段は落ち葉と雪に埋もれ、段差が不明瞭だった。鉄の手すりに沿って下りる。地鳴りのように水音が聞こえていたが、階段をおりきってしまったら、もうその音しか聞こえなくなる。あとは自分の呼吸音と、藪を掻き分ける音だけだ。
 首を上げ、微かに見える手すりに真剣に目をこらした。銃撃を行った場所を、見落とすことはなかった。手すりが壊れ、雪が抉れ、凍る血の滝になったその下へ、銃口を地面に向けて藪を掻き分ける。
 背丈ほどもある藪の中に、その人間は沈んでいた。
 黒地に銀糸の刺繍の外套。男の肩を蹴り、仰向けにさせる。
 蘇比だった。
 確かめるまでもなく、目を開けたまま死んでいた。銃のレーザーをその目に当てる。瞳孔は縮まなかった。
 識は屈んだまま考える。
 まず何故蘇比がここにいるのか? 彼もまた安置室の階段を知り、調べるために入ってきた。あるいは最初からこの場所のことを知っていて、何らかの企みのために入ってきていた。
 いきなり撃ってきたことを考えると、後者の線が強い。蘇比は手に何も持っていなかった。銃は落としてしまったのだろう。ただ死んでいるだけだ。
 いけ好かない奴だったが、死んでしまっては仕方がない。上の睫毛を引っ張って瞼を閉じさせた。指先が血で濡れた。
 立ち上がり、指先の血を雪雲に透かし見た。指と指の間に雲が赤く光り、粉雪が模様をつける。ひとまず蘇比の骸をそのままに、藪を出た。
 川が走っている。山麓の森林公園からひかれたこの川は、臣津の重要な気脈だった。徐々に川幅を広くして、そのうち海に出る。冬は静かに凍りつくのがこの川の常だというのに、今は白い波濤を立てて轟々と流れている。波は、現世に向かって突き上げられた亡者の無念の指先のように見えた。この音は彼岸に吹く風か。そう思うのは、人を殺した後だからだろう。こればかりは本当に嫌なことだ。
 川原に膝をついた。かたい石の感触が膝に触れた。身を屈め、汚れた手を波に晒す。刃物のような水の冷気が血を洗い流した。
 ため息をついた。パジェットを探そう。川面から指を引き抜く一瞬、手首の周りだけ波が凪ぐ。水面に識の顔が映った。
 背後に蘇比の顔が映っていた。
 水面が波に消える。腰を浮かす識の首根っこを、後ろから大きな掌が掴んだ。すさまじい握力だった。立ち上がらされるとすかさず、腰を捩って肘を相手の腹に叩きこんだ。首の圧力がゆるむ。その瞬間を逃さず、腕を振りほどいた。
 目がくらみ、前のめりによろめく。
 体勢を整える隙も与えず、左腕がつかまれた。捻り上げられ、引き寄せられる。その時、相手をはっきり見た。やはり蘇比だ。幻覚ではない。肩に背負いこまれる。識は右手に銃を抜いた。
 天地が逆転する。右肘を引き、銃口を蘇比の顔に突きつけた。蘇比の目が不意をつかれて見開かれた、ように思う。トリガーを引く。銃声は聞こえなかったが、血と粘液が顔に降り注ぐ。口に入る。
 銃の反動も手伝って、識は思い切り川原に叩きつけられた。肺の空気が吐き出された。
 呼吸ができない。
 無防備なまま体が跳ね、識は、確かに蘇比の頭が吹き飛ばされ、その体が川原に倒れこむのを見た。川に落ちた。たちまちに、凍てつく奔流が識の体を押し流す。
 深く川底に沈んだ。識はもがいた。大きく開いた口が空気ではなく、大量の水を飲む。
 水門に引っかかるはずだ、と考えた。冷静であろうとした。
 だが城壁の水門は、外側から大きな力で内側に破られていた。突き出た鉄骨は、たまたま、識を突き刺すことをしなかった代わりに、引っ掛けることもしなかった。

 唐突に路面の雪が消えた。その境界をみぞれ状の雪が濡らし、向こうの家々の壁は黒く煤に覆われている。
「ここでいい。車を置こう」
 助手席で温まったミンタカが、なかば命令口調で言った。ナガレの爆心地に行くつもりだ。車を出ると、消え残った熱気がざわりと顔をなでた。
「おいおい、もっと目立たんように停めてほしいもんだねえ」
「うるせぇ、お前がやれ」
「気がきかん奴だね」
 ミンタカの軽口に返事をせず、先に立って歩き出した。右手にナガレを装着する。
 十歩も歩けば街は街のたたずまいを消した。見事な焼け跡だった。この凍てつく寒さにも関わらず、地面から透き通る炎のように熱気がのぼり立つ。ナガレは使い慣れた武器だが、こうして威力を改めて思い知ると、うそ寒いものを感じる。これだけ強力な兵器をたった一人で預かっている。それでこその儀礼銃士なのだ。
 地面の大きな段差を飛び降り、ミンタカが腰に差した機械を抜いた。パジェットが持つオペレーターに似ている。
「変だな。おまえの後に穴を潜った奴がいる」
「一人か?」
「いや……二人」
「やべぇ」恐らくR.R.E.が識にくっついているのだろう。「オレのつれだ」
「……急ごう。手伝ってもらうよ。まずは全ての〈橋〉を閉塞する。蟲の世界から開く穴だ」
 ミンタカが画面を操作し、パジェットにも見せた。付近一帯に三箇所、赤い光点がある。その内の一つにズームした。
「あそこだ、まず一つ」
 路地を曲がる。壁だけ僅かに残した民家の間、いきなり地面が抜けていた。どぶ川のように、向こうの路地まで暗黒が横たわっている。ミンタカが担いでいた散弾銃を足元の闇に構え、銃撃した。
 銃声と共に闇に散ったのは、散弾ではなかった。
「結界術式か」
「『矢祭(やまつり)』だ」
 それらは全て、青緑に輝く文字だった。文字は自律運動で文字列を作り、固く結託して四方の見えない壁に張り付いた。
「ここを通る蟲を観測しろ。そして殺せ!」
 応えるように文字列が輝きを増した。
「どこで習った?」
「そうじゃないさ。神職ではなく結界技師が儀礼を施した武器なんだ。まぁいわば、儀礼銃の弾丸バージョンだね」
 銃帯を肩に回した。
「行こう。小さい橋から順だ」

 識は川岸でひざまずき、荒い呼吸をしていた。まだしばらく、収まりそうになかった。
 滝の手前の水門で、やっと引っかかったのだ。どうにか岸に這い上がり、雪に埋もれて生ぬるい水を吐いた。それからは動く気力も湧かなかった。風は容赦なく吹いた。手にかかる己の息の冷たさに、識は気付いていた。むしろ雪の痺れる冷たさのほうが、熱く感じられた。その熱さに囲まれていると、寒さを忘れ、頭の中が白く蕩けて恍惚としてくる。
 ……駄目だ。
 頭を振った。ここで意識をなくしたら、確実に凍死する。首を上げた。衣服がキシリと鳴った。幻の温かさが遠ざかり、識は震える。白く霞む目をこすると、人間の足が見えた。
 少し離れたところに人間が立っていた。
 白い肩掛けを被り、俯いて顔を隠している。すぐには誰か分からなかった。ゆっくり歩いてきて、屈んだとき、初めて顔が見えた。
 それは全く思いもよらぬ人物だった。
「しきくん」
 ミヨミだった。あの左右ばらばらな目が肩掛けの下に見え、するとミヨミは、恥じ入るようにますます深く顔を下げた。
「わたしをおもいだせる?」
 呼吸を整えながら無言で見詰めていると、ミヨミは白いため息をついた。識は膝を伸ばして立ち上がった。
「ミヨミ? どうしてここに?」
 ミヨミに手を差し伸べた。少しだけ、顔を上げてその指先を見た。
「どうやって来たんだ? 蘇比は?」
「逃げて」と、ミヨミは囁いた。
「本ならここには無いって騙してるから、猫の船で逃げて」
 影が落ちてきた。
 顔を上げると、水門から蘇比が見下ろしていた。暗くても、体型と独特の気配でそれと分かる。ミヨミが慌てて立ち上がった。肩掛けをきつく頭に押し付けたが、蘇比の声は容赦なかった。
「ミヨミ、何を話している?」
 いやに間延びする声で尋ねると、いきなり姿を消した。拳銃を取ろうと腰に手をやった。ない。河原に落としてしまったのだ。
 いきなり、後ろから首に腕が回された。次の瞬間背中を殴られた。殴られた、と思う間もなく、側頭部に衝撃を受けた。振り回された蘇比の手の甲が識のこめかみを打っていた。
「甘いんだよ、バーカ」
 倒れこむ識の長い髪をつかんで立たせると、腰を捻って思い切り腹を蹴った。
「やめてください!」
 ミヨミが叫んだ。蹴り飛ばされた識は河岸を転がり、水門の脚にぶつかって止まった。すぐに立ち上がろうとしたが、胃が鋭い痛みを放ち、咳きこんだ。鉄の味が広がって、雪に血が飛び散った。
 何をされたのか分からなかった。最初の一撃を受けるまで、蘇比は水門の上にいた。いや、それ以前に確かに殺したはずなのだ。二回も。だが蘇比は、痛みと寒さでうずくまる識を、少し離れたところから見ている。幻じゃない。少なくとも痛みは。マンティスの言葉を思い出し、識はおののいた。
 ありえないことが起こるのならば、それは間違った世界――。
「本は」
 いきなり蘇比が喋った。
「どこにやった?」
「本……?」
 何を言われているか分からなかった。ただ、蘇比が足を一歩前に出したとき、火車に手が伸びていた。殺されると思った。
 それでも識はためらった。火車は巨大な蟲を殺す兵器だ。人間に向けたら目も当てられないことになる。
 だがもう一度蘇比が消えて、ためらったことを後悔した。消えるとき、足元に緑の光が見えた。
 咄嗟に火車をかざした。
 鈍い手ごたえがあった。火車の刃が蘇比の顔と体に、縦に溝を刻んでいた。よろめく蘇比の隣をすり抜けて、出来る限りの速さで距離を稼いだ。
 離れてから、振り向いた。蘇比と目があった。緑の光がその足に光ると同時に火車を投げ放った。
「八つ裂きにしろッ!」
 八つ、どころでは済まされなかった。蘇比と識とを結ぶ直線、ちょうど火車の軌道上に蘇比の姿があらわになった。
 蘇比の体を巻き添えにして、火車が空中で高速回転を続ける。血しぶきが散り、肉が散り、それを青白い炎が燃やして無数の火の粉にする。花火のようだった。識は、自分の行いから目をそらさなかった。服が肉がちぎれて血が蒸発する音を、じっと聞いていた。
 雪が消え、蘇比は燃えカスになった。火車の炎が消え、手元に戻ってくる。グリップを握り締めたとき、ミヨミのことを思い出した。
「ミヨミ!」
 しん、と静寂が答えた。
「ミヨミ?」
 寒気がした。
 後ろに蘇比がいる! 振り向いた。何もなかった。誰も立ってはいなかった。ただ風が吹いていた。……すごい、風だった。
 ミヨミもいない。蘇比もいない。蘇比がいたはずのところを見、そこに見えるものを、識は最初信じなかった。立ち尽くし、凝視した。頭の中が白くなってくる。
 そこに蘇比の燃えカスなどなかった。
 何もない。
 ただ、ただ雪が融けているだけだった。
Comment

R.R.E.の可愛いイタズラやココア発言等、今までと何ら変わりない
キャラ表現なのに、確実に背後に薄気味悪さを感じる。
ぱーくんとシンクロした目で彼女を見ている感覚。

ニwイwハwwチwwwwww
声あげて笑ったwwww 酷いwwwww
でも「娘」発言に、素に戻ってイラッ☆と
きた。蘇比ェ…。でもミヨミたんは、蘇比を
ある意味慕っているのかもしれないと思うと…。

ホタルにはドキッとした。
今、一番シンクロしてるキャラは、ぱーくん。

識…w 則子たん可愛そうw 
「何やってんだ」で死ぬほど笑ったwww 

ミヨミたんが出てきてくれて、みなぎった。
やっぱりミヨミたん大好き。
蘇比のモンスター化?には驚かされたけど、燃える展開はいいね。
続きが気になる引け際、好きです。 

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