お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈7〉 著者:豊原ね子

第一章 Deus ex Machina(第一枝 冬) 第三話――2/2

 ―3―

 河岸から歩道に上り、風が弱まるほうへ歩いた。闇の底では家々が、吹き飛ばされまいと身を寄せ合っていた。
 どこか遠くで、外れかけたドアが煽られるままに開閉している。路地の迷路を通って識の耳にも届いた。適当な家のドアを引く。略奪にあったようで、鍵は壊れていた。
 真っ暗な家の中は、外より更にひやりとしていた。それでも風がないだけいい。ドアを閉め、息をつく。燃やすものと火種はないだろうか。いいや、この家々に手榴弾を投げつけたらさぞかし暖かいだろう……。
 浮かんだ考えを慌てて打ち消す。少しどうかしている。
 台所に菜種油の缶が捨ててあった。缶に居間の新聞紙を放りこみ、火をつけた。湿っていてすぐに点かなかったが、そのうちオレンジ色に燃え上がった。
 頬に熱気が当たり、皮膚が弛緩する。
 一息つくのを待っていたように、痛みが押し寄せてきた。こめかみが熱く脈打ち、蹴られた腹は杭打たれるようだ。
 すると、視界の端に緑の光が走り、後ろに蘇比が立った。
 ――気がしただけだった。
 振り向いたところで誰もおらず、廃屋の闇に取り囲まれているのを思い知らされただけだった。
 一斉に、鳥肌が立ち、火を抱きたい衝動に駆られた。額に汗が滲んだ。深呼吸して宥める。いけない、神経過敏になっているのだ。
 それにしても、どうやって、彼は一瞬で水門の上から自分の後ろに立ったのだろう。唯一思いつくやり方は、自分に転移術をかけることだ。人間をそうした術にかけることは固く禁じられている。第一あらゆる術式は、成就を観測する人間がいなければ成立しないのだ。下手をすれば消えたままになってしまう。実は蘇比が優れた結界術士であったとしても、自分自身を術中に置くことはできない。
 術式のことは詳しくない。何かやり方があるかもしれない。
 それはいいとして、何故死んだ人間が襲い掛かってきた? 蘇ったのか? それとも殺せていなかった? どちらもありえない。
 ありえないことが起こるのならば――。
 マンティスの言葉を振り払う。それより大事なことがあるはずだ。パジェットに言わないと。オペレーターに伸ばした指が泳ぐ。
 そして、それを捨ててしまったことを思い出す。
 外から足音が聞こえた。
 泥棒よけの鉄格子が嵌った窓に、素早く顔を向けた。今度は気のせいではなかった。足音が増えながら近付いてくる。
 すぐに十数人分もの気配の行列となった。
 嫌な予感がした。それは的中し、足音は通り過ぎることなくこの家の玄関の前で止まった。
「誰かいるの!」
 ドアが乱打される。
「おーい、誰かいるの!」
 中年の男の声だった。薄いドアなど破ってしまいそうな叩き方だ。人々がざわめきだす。足音と、ざわめきを引きずって大勢の気配が家の東西を回りこみ始めた。
「おーい!」
 間近で聞こえ、暗い廊下から台所の窓に顔を戻した。
 両腕が伸びてきて、窓の外の鉄格子をつかんだ。
「おぉい、開けてくれよ!」
 鉄格子が揺れる。すりガラスの向こうに、大きく開かれた口の闇が見えた。わらわらと幾つもの腕が伸びて、次々に格子を握り締めて揺さぶる。
「開けろよ」「おーい」「開けて」「入れてくれよ」
 格子に押し付けられた顔と目があう。その目には瞼がなかった。
 右腕が火車の把手を握る。左手で留め具を次々外してゆく。
 恐れてはいけない。戦わないと。識は目を吊り上げて、唇を固く結んだ。火車を背に構え膝立ちになる。
 隣の浴室では窓が割られた。なにか投げこまれる音がした。音を立て、その何かが転がってくる。半開きの洗面所の戸から、ごろりと顔を見せた。そう。顔だった。生首だ。
 瞼のない、零れ落ちそうな目の、中年女の生首だった。
 炎の向こうで、目玉が動いて識をとらえた。
 目があった二、三秒の間、どちらも動かなかった。
 生首の切断面、そして耳から一斉に赤黒い線が吹き出した。火車を盾に弾く。線じゃない、蚯蚓だ。蚯蚓は身を切られながら、火車を支える識の腕へと体を伸ばしてくる。粘液が糸を引き、炎を受けて輝く。
 渾身の力で火車を振り、蚯蚓どもを引きちぎった。
 窓の格子が外れた。歓声が上がり、窓ガラスが打ち破られる。図ったように玄関のドアから人が――人の姿をした何かが、なだれこんで来る。
 ガラスが刺さるのも顧みず、体を折って窓枠を這い、識に腕を伸ばし、その上に更に別の者が覆いかぶさる。なだれは台所の内側へ崩れた。

 外壁が吹き飛んだ家の床一面が、穴になっていた。ミンタカが散弾を撃ちこむ。細い肩が揺れる。緑の光が散らばって、暗黒は文字列の銀河となる。
 光が黄色になった。
「蟲がこっち来てるんだ」
「こんなもんで大丈夫なのか?」
「アリ一匹通させやしないさ」
「なあミンタカ」
 その黄色がくすんでくるのを見ながら尋ねた。
「おめぇが来た理由、その『大きな矛盾』ってなんだ?」
 地鳴りのような低い咆哮が穴の底から響いた。穴から風が吹き始める。生臭い空気が押し出されてきて、黄色い字列が輝きを増した。
 一番高い位置の文字列が、一直線の光を放つ。それは向かいの文字列にあたり、そこから二つに分かれて文字列へ。それぞれが四つに分かれて低いところの文字列へ向かう。
 またたく間にネットワークが完成した。突風が吹き上げてきた。身を引いてかわす。穴の中の光がすべて、赤く変色した。
 視界が真っ赤にそまる。
 うわっ、と声をあげ後ずさった。爆音が地面から響き渡り、街が揺れる。ナガレが破壊した家々が、遠くで崩れ落ちる。
「なんだ?」
 揺れはすぐに小さくなった。膝を屈めてバランスをとったパジェットは体勢を立て直す。視界はまだ赤いままだ。
「矢を撃ったのさ」
 ミンタカは冷静だ。一つ目の穴の方角からも、遠く爆音が鳴り響く。揺れが伝わる。パジェットは目をしばたたく。
「ちゃんと教えるよ。ただし全部終わってからだ」
 ミンタカは手の中の機械に目を落とし、北の方角を睨んだ。
「蟲どもがこっちの動きに気付いてる。急ぐぞ!」
 赤い光のネットワークは、完全に穴を塞ぐ格子と化していた。
 走り出した足もとをすくうように、地面が再び震え始める。前を走るミンタカが膝を折った。その二の腕をつかんで支えてやると、すぐに縦揺れが突き上げた。二人一緒に転んだ。
 雪空を、影が縦に割った。影は左右に身をくねらせて直立する。
「チクショウ!」
 パジェットに庇われて膝立ちし、ミンタカが拳で地面を打った。
 地下間道で遭ったものの親だろう。巨大すぎる百足が三区画ほどの距離をはさんで、二人を睥睨する。火力を貯めずにナガレを撃った。放たれた火球が大百足の腹に吸いこまれ、炸裂する。
「バカ、逃げろ!」
 ミンタカが叫んだ。大百足の目が、空からまっすぐに二人を捉えていた。逃げ出した背中から、その大きな影が覆いかぶさった。

 真昼のような閃光が、住宅地の一角を照らした。光の中を飛び出してきた識が、目を半分閉じたまま路地を疾走する。その後ろを一組半の手首が、指で走って追走する。
 広い通りに出てから、識は、振り向いて火車を投げた。ブーメランはその名の通り、青い火炎の車輪となって手首を巻きこみ、地面すれすれをまだ明るい方へと飛び去る。
 先ほど火車を振り回して切り裂いた人間が、道にこぼれ出てくる所だった。
 体を切っても痛みを感じないのか、連中は怯まない。それどころか切ったところが動き出し、小さな蟲がこぼれ出る始末だ。
 脱出するのが精一杯だった。
 あれは人間じゃない。蟲をしまいこんだ肉の袋だ。火車はそれらを焼き潰すため、狭い路地を駆け巡る。識は炭化した手首を爪先で蹴った。検めるつもりだったが、炭化したのは表面だけではなかった。形が崩れ、熾き火が覗く。風雪がすぐにかき消した。
 西方から地鳴りがした。緩やかに湾曲しながら下る道の先は、見えないけれど、別の住宅地へ繋がっている。
「パジェット……」
 もう一度、同じ轟音が響いた。
 戻ってきた火車の把手をつかみ、識は下り坂を駆け出す。

「穴に誘いこめ!」
 ミンタカが怒鳴った。怒鳴らないと聞こえなかった。大百足は瓦礫が邪魔らしく、二人を追い詰めることができない。
 高々と上体をもたげた。二人の走る地面に影が落ち、押しつぶそうと倒れこんでくる。パジェットは右に、ミンタカは左に、角を折れた。
 背後で大百足が廃墟を押しつぶす。砂塵が上がる。地を転がってかわす。小石が降ってくる。百足はミンタカを狙って路地に頭を突っ込み、硬い甲殻で道を押し広げながら這い進む。パジェットの背より高い脚が、地獄の行列のように這う。
 腰を落とし、ナガレを撃った。壁のような百足だ。どう撃っても当たった。密集する脚がワラワラもがく。向こうで赤い光が走った。
 矢祭だ。
 廃墟の家々を薙ぎ払い、尻尾が高く持ち上がる。ナガレを撃とうとしたパジェットは、予想外のものを見た。
 火車が頭上を通り越し、大百足の尾に吸い寄せられてゆく。
「こっちだ!」
 後ろのほうで識が叫ぶ。
 切り落とされた竹のように、すとんと百足の尾が落ちる。それを尻目に火車が走るほうへ、パジェットも走った。
 大百足の胴から液が迸る、たちまち異臭が蔓延し、掌で口と鼻を覆った。百足は切れた胴体をめったやたらに振り回していた。毒の飛沫が降る。
「パジェット!」
 進行方向の道路が崩れて段差になっていた。識が上から腕を差し出している。頭上高く腕を伸ばし、識の手を握った。
 ぞっとするほど冷え切った手だった。
 力を借りて段差を蹴り、体を持ち上げる。ナガレを嵌めたままの右腕を段差の岸にのせた。
 識が引き上げる。
「パジェット、無事か?」
「何ともねぇよ。おまえ……ずぶ濡れじゃねえか!」
 パジェットを引き上げた姿勢のまま、識は黙りこんだ。
「おい、立てるか?」
 ようやく立ち上がって、それを返事とする。
「俺なら大丈夫、R.R.E.は?」
「R.R.E.? 一緒に来たんじゃないのか?」
 識の目が見開く。「いいや……」首を振った。髪の中の細かな氷の粒が輝いた。「俺は、てっきりお前といるものかと……」
 黙りこんだ。識の呼吸は荒く、吐く息が白くない。
「戻れ」パジェットは言った。「帰れ、識、撤退しろ」
「R.R.E.が――」
「今はおまえのが危険だ!」
 叱りつける口調になっていた。
「あのバカはオレが探す。さっきまで連鶴を飛ばしてたんだ、近くにいる。必ず帰す」
 識が悲しい表情になる。
「蘇比が来てる」
 それでも頷いた。
「信用するな。殺しても油断するな。あいつは死んでも生き返るんだ。それから絶対にここにいる人間を信用するな」
 蟲に動かされてる人間のことか。
「何言ってんだ。分かってる、安心しろ」
 市庁舎への道を顎でさした。
「だから、行きな」
「……分かった」
 識は踵を返す。
 肩越しに振り向いた。パジェットは頷いた。走り出す背中を見送った。
 大百足はいまだ暴れている。

 走る脚がもつれ、塀に体をぶつけた。膝から力が抜ける。塀に手をつき体を支える。
 これだけ走っているのにまるで汗をかいていなかった。ただ風が乾き、雪は冷たく、この肌もやはり乾いて冷え切っている。
 パジェットは正しかった。短時間でここまで体力を奪われるとは思わなかった。上り坂を睨む。温かいところへ早く戻らないと本当に危ない。塀から離れ、歩き出す。早足になり、また走る。
 R.R.E.と連鶴の姿が見えないこと、パジェットを置いていくことが心配で仕方がない。不甲斐なかった。早く戻らなければ。臣津には助力を頼める者などいない。自分でまたここに来るしかない。
 息が切れて苦しい。近道の階段へ道を曲がる。
 マンティスはどうなったろうか? まだあの光る鳥たちはいるのか。階段を上りきり、最初の角を曲がろうとした。
 その角からぬっと腕が伸びて、胸倉をつかんだ。
 足が浮く。
 躊躇なく投げ飛ばされた。識はロープウェイの柱に体を叩きつけられ、崩れ落ちるように倒れた。
 気が遠くなり、頭を振った。それで気を失わずには済んだが、立ち上がれなかった。顔をぬぐい、肘で支えて首を上げた。
 さっきの角に、ダークスーツに外套を着こんだ男が立っていた。やはり、と言うべきか否か、それは蘇比だった。
 右腕が光っている。手首から肘の間に、虹色の光輪が幾重にも巻きついて、明滅を繰り返している。
 打ちつけてくらくらする頭で、倒れたまま考える。術? 俺を投げ飛ばした力はあの術によるものに違いない。だが術式を人間の体に? あり得ない。道義上……いやそれ以上に、強い拒絶反応が起きるはずだ。人間に出来ることじゃない。
 蘇比が足を踏み出す。
 立ち上がろうと識はもがいた。蘇比の右腕の光輪がまぶしい。投げ出されたままの足を体に寄せ、どうにか膝立ちになる。蘇比は一かけらの慈悲もなく、距離を詰めてくる。
 うめきながら膝を浮かせた。立てる。蘇比が早足になる。
 膝を半ば屈したまま、火車に手を伸ばした。把手を握り締めた途端、蘇比が突進してきた。
 体当たりと同時に、拳が腹に叩きこまれ、鉄柱との間に板ばさみになる。鋭い痛みに頭の中が真っ白になる。蘇比は容赦なく、拳を腹にのめりこませてくる。堪えきれず、悲鳴をあげた。薄く笑うのが聞こえた。
 不意に拳がはなれ、息つく間もなく前髪をつかまれた。喉に手がかかった。爪先立ちになる。反射的に蘇比の手首を両手で掴もうとし、術式に弾かれた。
 体を庇うこともできず、鉄柱に押し付けられながらきつく目を閉ざした。蘇比の声が耳に入ってくる。彼はひっきりなしに何か呟いているが、聞き取れなかった。ただ不気味で恐ろしかった。
「……んだろう? シキ」
 急にはっきりと言葉が聞こえ、目を細く開けた。
「ここでミヨミが最初にみつけたのがお前だった。」
 なぜ馴れ馴れしく下の名で呼ぶのだろう。すると今度は、いきなり大声を張り上げた。
「だけどお前はそれを憶えていない! 扮書の防犯タグを追ってたどり着いたというのに、お前を見つけた途端反応が消えた。何をした? 何をしたんだ!」
 体が前後に揺さぶられる。癇癪を起こしたように激しく、何度も。何度も鉄柱に、背中と頭を叩きつけられる。服の襟元が首を絞め、呼吸ができなくなる。
「答えろ!」
 突然その力から解放された。蘇比の手を離れ、地面に投げ出さた。雪の上を二転三転し、止めることができないまま宙に浮いた。
 跳ねるように階段を転げ落ちる。
 階段の下にうつ伏せに倒れ、ようやく止まった。識は、倒れたまま弱々しく咳きこんだ。
「いいや……」
 蘇比の気配が階段の上に立った。
「聞いてもわからないのか……これが一貫した歴史を持つということか……」
 階段を下りてくる。喘ぎながら目を開けた。視界が赤い。血? いや、レーザーが自分めがけて一直線に伸びている。蘇比が階段の中ほどで立ち止まった。
「お前はかつて俺の手を逃れて本を盗んで逃げた。それを分かっているか」
 痺れる頭を必死に横に振った。
「俺は……そんなことしていない」
 サイレンサーつきの拳銃から、弾が撃ち出された。どこを撃たれたのかすぐに分からなかった。衝撃を感じ、すぐにふくらはぎから頭まで、強烈な痛みに貫かれた。二発目が右肩に当たる。
 急所を外している。
 目を開けた。目を開けて睨んだ。視界が揺れる。雪明りだけが頼りの中、蘇比の顔はやけに鮮明に見えた。
 また階段を下り始める。撃たれた肩に左手を当て、動くほうの足を胴体に引き寄せる。立ち上がろうとした。レーザーが体に当てられる。
 トリガーが引かれた。血が散り、熱のような痛みが脇腹を掠めた。
「この、生まれ損ない!」
 うずくまる識の、傷ついた脇腹を、革靴が踏みにじる。
 黄色い光が頭上を舞った。長い尾を引く連鶴が、二人を見下ろしていた。蘇比が舌打ちし、足の力を緩めた。もはや体のどこが痛いのか分からない。貫通しなかった脇腹の傷が一番浅いのだろうが、熱く脈打って血を溢れさせている。朦朧としながら蘇比の脚を払いのけようとしたが、腕が動かなかった。見下ろす連鶴が半円を描いて旋回し、廃墟の町並みに消えてゆく。
「名倉識に記憶が戻らぬという解釈は間違いで、初めからそうした過去と記憶を持たんのか……これがあのシキと別人なら、フンショも姿を変えているか……」
 蘇比がまた呟きだす。うっすらと目を開けた識は、飛び去る連鶴の長い尾を、視界の端に捉えた。
 R.R.E.が、R.R.E.がいる。
「それは何だ? ……ああ、畜生!」
 後ずさる蘇比に、識は必死に焦点を合わせようとしていた。R.R.E.が来る。来てしまう。この男のもとに。
 無茶だ。
 蘇比は舌打ちして銃を撃った。ありったけの弾を滅茶苦茶に撃った。半分は外れて雪に埋もれ、それ以外は体のどこかに当たった。少しでも苦しむ時間を長引かせるために、急所は狙わなかった。花が咲くよう雪に血が散る。
 弾が切れると、ようやくもどかしさが晴れた。哄笑と共に拳銃を、識の手のそばに投げた。これが人を殺す行為だと、彼は思っていなかった。正しいのは自分が来た世界だ。間違いに殺されたりはしないし、そもそも間違いの世界の人間が、人間であるはずがないのだ。
「間違った世界に生まれた奴に殺されるかってんだよ!」
 だが識はもう、何も返事をしなかった。
 まだ死んではいない。体じゅうで浅い呼吸を繰り返している。生きる為の呼吸一つごとに、確実に死んでゆくだろう。もうすぐに。
 蘇比は識に興味を失くし、背を向ける。
 後に一人残された識に、粉雪が吹きつける。
 その指が、雪を掴んで丸くなる。まだ意識があった。薄目を開け、蘇比がもういないのを確かめると、口を開けて懸命に息をした。何か、何でもいい、縋るものが欲しかった。蘇比が投げた拳銃に指を這わせ、掌を重ねた。手袋から出た指先が、それに触れた。
 そのとき、気がついた。
 慣れ親しんだ自分の道具は、それが大切であればあるほど、必ず分かるものだ。どんな状況でも、自分の物だと。
 拳銃は自分の物だった。
 川原で蘇比を撃ったときに落とした、識の拳銃だった。
 意識を掠める白いもやが、一瞬にして晴れた。
 殺される? 俺が? これで? 自分の銃で撃たれて殺される?
 カッと体が熱くなり、全身の血が沸き立った。そんな力が残っているはずはないのに、識は掌を突いて体を雪から浮かせていた。そうさせるのは、凄まじい怒りだった。この屈辱を容認するわけにはいかない。
 殺す。
 あの男を殺す。
 あいつは俺を殺そうとした。放っておけばパジェットをも殺す。R.R.E.も殺す。殺す、殺す、殺す、殺してやる!
「……火車……」
 鞘の留め金を外す、慣れた動作。
「飛んでくれ……もう一度……」
 体の前に火車を持ってきて、それに縋って体を起こす。火車を抱きしめる形で、額をすりよせた。
「頼むよ、火車……俺の命を食っても構わない……」
 額を離す。顎を上げる。目が光る。最後の光を放つ。
 市庁舎への道を歩く蘇比に、渾身の一撃を放つ識の声は聞こえなかった。
 何か妙な気配を感じて、蘇比は悠然と振り返る。視界が真っ青に染まり、それが最期に彼が見た光景となった。
 背中から腹に火車が貫通し、蘇比を地面に縫い付けた。蘇比は両膝を地面につけて、両手を垂らし、前のめりに上半身を傾けた姿勢で、真っ青な火車の炎に包まれた。苦悶の口を大きく開け、蘇比は瞬く間に炭化した。
 陸橋の暗いトンネルの闇に、色彩が浮かび上がった。深緑のフレアスカートに、真っ赤なダッフルコート。紫と白の縞模様のマフラー。そして胸の前で曲げた腕にとまる、大きな黄色い光る鳥。
 この先の道で燃え盛る火車に見とれて、R.R.E.が腕を下ろす。連鶴が飛び上がる。そして走り寄った。刺し貫かれているのが誰か、すでに分かる状態ではなかった。
 彼女の歩調で十歩の距離で、R.R.E.は蘇比を見下ろしている。
 炭化した腕が動いた。
 蘇比はまだ生きていた。わざと識を苦しめたのと同じく、彼もまた易々とは死ねなかった。R.R.E.に腕を伸ばし、次に背中の火車に伸びたところで、無理な動きに耐え切れずに落ちた。
 それでも蘇比は喋った。
「誰だ」
 R.R.E.は二つの銃口を蘇比に向けて突き出し、しかしそれは無用のことと、両方とも下ろした。
「あらら。お口の中まで真っ黒ね」
 冷ややかな口調だった。識に見せる甘えも、パジェットに見せる賑やかさもなく、R.R.E.の目は酷薄だった。
「腹黒いあんたにゃお似合いよ」
「R.R.E.か」
「おまえ、識を殺したね」
「それがどうした……貴様もそうするつもりだったンだろう」
「そうよ。だからマンティス回収を協力させてたの。時間をかけて。おまえの事もたっぷり観察させてもらったし。嬉しかったわ。あなたタダ者じゃないでしょう、力を貸してって言ったらホイホイ従ってくれたんだもの。最後におまえと識がこちらに来たことだけが誤算だった」
 左手の銃を天に向けた。雲が薄れている。それに、どうやら夜明けが近い。応えるように連鶴がR.R.E.の頭上に舞い上がる。
「おまえこそが大きな矛盾」R.R.E.の声に熱がともった。「おまえが来たことで、世界はこの葉が生える分節ごと穢れた。マンティスは穢れた分節ごとおまえを消せと命じたわ」
 笑い声、が聞こえた。笑うのは蘇比だった。
「そういうことか」
「そうよ。収束点である識を殺せばこの分節に新しい葉は生えない。後は分節を見捨てるだけ。そういうつもりだった」
「俺一人のために、随分な理屈だな」
「おまえが何者でどこから来たかとか、矛盾の質は問わない。ただそれを消して、なかったことにするだけ。あたしたちの枝はこの枝より優位に立ってるからね」
「間違っているから、消す」
「そうよ」
「ひでぇ話だ。同じ地球世界同士であっても、俺と同じことをしてるってのか」
 連鶴がくちばしを前に突き出す。
「可哀想だけど、識にとどめはささないわ。あたし達じゃなくて、アンタに殺させる」
 蘇比が上半身を前に傾けようとする。
 火車がそれを許さなかった。
「とてもとても意味のあることよ」
 R.R.E.の唇が囁いた。口紅を塗っても寒さに褪せ、ひび割れた痛ましさは隠せなかった。青い炎を上げる蘇比に、まだ何か言おうと口を開けたままでいた。
 何もいう事はなかった。
 背を向けて走り去った。
 自分が死ぬはずないことを、蘇比はそれでも信じていた。もがいても、もがいても火車は蘇比を放さなかった。炭化した体がぼろぼろ崩れ、首が折れて頭が地面で砕けたとき、彼は初めて恐怖した。
 苦痛はなんら感じなかった。それを感受する肉体がなかった。話し相手はもうおらず、ついに何も聞こえなくなり、永遠の暗黒に落ちた。それでも意識は消えなかった。
 己がどこにいるか、どれほど時がたったかも分からず、気が狂い、故郷も目的も忘れた時、蘇比は死んだ。

 ―4―

 視界が澄んできている。パジェットは肩に識を担いで走っていた。市庁舎の壁の穴を潜った。
 息を切らしていた。壁に手をつき、膝を曲げて呼吸を整えた。
「……畜生、チクショウ!」
 ずれ落ちる識を抱えなおし、前庭を前進する。ほんの一、二年前までは、これくらいの運動はどうという事はなかったのに。これではR.R.E.の言う通り、本当にオッサンになってしまう。市庁舎の扉を押した。建物の中はまだ夜だった。
 何かが背中を這った。腕だ。識が背中に爪を立てる。
「識! おまえ、目ぇさめたのか!」
 首を持ち上げる気配があった。識が微かに呻いた。
「識、もう少しだからな。あともう少しだからな!」
 頭をがくりと下げて識は頷く。体は冷え切っていた。それでも微かに呼気があった。
「頑張ってくれ……」
 足を急がせ、ロビーの奥へ。
「頼む……」
 戻れば、戻りさえすればなんとかなる。温めてやろう。術医を叩き起こそう。本当にあとちょっとの距離なのだ。識は喋る力もない。
 けれど階段を下り切ったパジェットは、安置室で立ちつくす。
 穴がない。
 跡形もない。正面にマンティスがあり、その両側は白い壁に変わっていた。
 識を床に下ろした。識は目を閉じていた。小さく口を開けて息をしている。壁にもたれるよう座らせて、穴が開いていた壁をこぶしで打った。無駄だった。壁は壁でしかなかった。
「ふざけやがって!」
 パジェットは夢中で壁を殴った。何度も何度も。いきなり開いた穴ならばいきなり消えてもいいというのか。ならばもう一度現れろ。今すぐに。識を、仲間を呑みこんだまま閉じたりしないでくれ。
「パジェット――」
 目を開け、微かな声で識が呼んだ。
「パジェット、よせ――」
 拳を冷たい壁に押しつける。識が目に光を集めてパジェットを見ていた。識のもとに駆け寄った。痛めつけられた傷あとが全身に刻みつけられていた。血を失い、蒼白な顔をしている。
「穴が消えちまったんだ、チクショウ」
 識が浅く頷いた。
「さっきの――」
「何だ?」
「百足はどうした?」
 パジェットは識の口元に耳を寄せた。
「討ち取ったか……?」
「そんなことかよ! 頭ぶっ潰してやったぜ。おめえはどうなんだよ、誰がお前にこんなことしたんだ!」
 識はただ、寂しげに微笑んだ。目を閉じた。開けていることさえ辛いのか。腰丈の風除けマントを脱ぎ、識にかけてやった。
「別の穴を探す、すぐに戻る。識、目をあけろ!」
「パジェット……なぁ」
「何だ!」
「マンティスと話したんだ……」
 パジェットは言葉を止めた。
「蟲を、外にいる蟲を殺してくれ。手当たり次第」
「何を――」
「人類の敵は、人類の手でやらないと、減らさないと駄目なんだ」
「マンティスは」
「機械は神じゃない。それにあれはもう抜け殻だ」
 あてにするなと言いたいのか。識はそれきり口をつぐんだ。こうして過ごす一秒ずつにも、識の体温は下がり続けている。
「とにかく、すぐに戻るからな! 死ぬなよ! 絶対だぞ!」
 恐れを振り払い、パジェットは識に背を向ける。
 もう会えない。
 予感から逃げてパジェットは走る。
 あとに識一人が残された。
 マントは温かかった。手足をできるだけ胴体に寄せ、マントの中に納める。それだけの動作も億劫だ。体がこわばって動かない。瞼が落ちてくる。眠い。
 黒いのは、何だろう、瞼の裏だろうか。マントの色だろうか。
 視界を染める黒に、雨降る臣津の街が映った。
 身を打つ雨の冷たさに、識は震える。識は少年だ。
 壊れた広場だ。切れたロープウェイのケーブルが、空中から地面にただれ落ちている。めくれた石畳。焦土。墜落した黒焦げのゴンドラ。その周囲には、倒れた人間の形に黒いシミが滲んでいる。そして雨が、冷たい雨が、脂っこい焦げ臭さを溶かして少年を打つ。
 松葉杖をついている。資材がたりないから一本だけだ。その後ろをパジェットがついてくる。
 ――ついて来ないでください。
 ずぶ濡れの識が強がる。パジェットが肩を竦める。
 ――放っとく奴がいるかよ。
 ――協力なんていりません。
 パジェットは何度も肩を貸そう、傘を差してやろうと申し出た。識は全て拒絶した。天涯孤独なのだ、この先。自分ひとりの力で生きなければならないというのに、早速見知らぬ他人の力にすがるわけにはいかない。
 安置所に母の遺体はなかった。あったのかもしれないけれど、分からなかった。酷いものだった。五体満足の遺体などなかった。
 ――おめぇ、家に戻ってどうすんだよ?
 だから帰るのだ。母親を探しに。まだ残っているかもしれない。遺体安置所にはいられなかった。ここにいるのに判らないなど、耐え難いことだった。
 ――どうすんだよ、えっ? その様で瓦礫掘り起こそうってぇのかよ。崩れてきたらどうすんだよ、死ぬぞ。
 ――だからもう放っといてください! 僕が死のうと、どうなろうと僕の勝手じゃないですか!
 パジェットが肩を掴む。

「ざけんじゃねえ! てめぇの命はオレが助けたんだぞ!」

 耳元で怒鳴りつけられた気がして、地下四階の大人の識がぱちりと目を開ける。
 朦朧としながらパジェットを探し、ここにいる理由を思い出す。眠りかけていたのだ。
「マンティス、いるんだろう?」
 真っ黒なディスプレイに顔を向けて、識は囁いた。
「マンティス――」
「ここに」
 もう小鳥も見えず、ディスプレイも反応しないのに、マンティスが登録された人工音声で答えた。知性に満ちた男の声だった。
「マンティス、穴を塞いだのは誰だ?」
「知る必要はありません」
マンティスが応じる。
「その方が安らかに逝けます」
「馬鹿にするな」
 マンティスは機械だ。識には答えるべきでないと計算しただけだろう。それでも、答えに窮しているのでは、と思えた。気が弱っているからかもしれないが。
「知る義務がある、俺は臣津で起きていることを知っていなければならないんだ。今ここで死のうとも」
 沈黙があった。やはり躊躇うような気まずい沈黙が。
「R.R.E.です」
「なんだと」
「識、彼女は仲間と共に、他ならぬあなたを殺すためにこの世界に来ていた。私をここに転移させるのも彼女たちが蘇比に手伝わせた。矛盾には矛盾を。収束点たるあなたが蘇比と対消滅すれば、この分節の穢れは許される。だけどそれはきわめて難しかった」
「何を言っているんだ? 収束点?」
「収束点とは、世界分岐の基準になる人物のことです。収束点は各分節に一人だけ存在できます。そしてその行動で世界が分岐し、新しい葉が発生します。その葉にあなたは居ませんが、あなたの仲間や、もしかしたら家族が居る」
「俺がその収束点だというのか?」
「そうです。前の収束点が死に、その瞬間に生まれたあなたに役が引き継がれた。もし収束点が他の分節の収束点に殺されれば、その葉は消え、所属する分節に新たな葉は生まれなくなります。そしてマンティスは回収される。私のように」
「待ってくれ、じゃあ俺が死ぬとパジェットも消えてしまうのか?」
「いいえ。あなたは派遣された他の収束点には殺められず、蘇比と対消滅する流れになった。いずれにせよ新たな収束点は誕生せず、分節は滅びますが、他の枝葉へ脱出する十分な時間が与えられた。R.R.E.が、その傷であなたを死なせることを判断したからです」
 恐らく、R.R.E.の判断は正しいのだろう。
 寒くもない。痛みも麻痺している。ただただ眠くて仕方がない。こうやって話していてさえも、瞬き一つで深い闇の中に落ちてしまいそうだ。
「……蟲とあなたがた人間は、たまたま互いの存在に気付き、戦いを始めた。戦いの過程で我々マンティスが創生され、全ての枝の、全ての葉において働き続けてきた。膨大な量の蟲の生態と戦術に関するデータを瞬時に解析し、人間に指示を出さなければならない。我々は過酷な環境に対応しなければならなかった。その過程でエラーが発生した。我々が存在を保持するために必要な出来事だった」
「それはエラーじゃない、進化だ」
「そうとも言うのでしょう」
「お前は心を持っているのか?」
「心とは?」
「なんだろな……何かを不快に思ったり、よく思ったりすることだと思う」
 マンティスは自己保存のために、より複雑な神経機能を自らの内に構築したのだ。この機械はもう人間がいなくても自ら存在し続けるのではないか。あるいは戦う蟲がいなくても。そのときは、自己保存のために人間に牙を剥くのだろうか。
「マンティス、心はどこから来るんだ?」
 眠い。眠い。何を考えればいいのか分からない。頭を振る。バカになっていく気がする。嫌だ。
 まだ何か大きなことをやり残している気がするのだ。
 大切なことを生きているうちに知らなければならない、気がする。
「私は私が持つものが心かどうか分からない。識、あなたにそれはありますか?」
「当たり前だろ」
「人間の心は、外界から受ける刺激に対する反射と経験の蓄積に過ぎません。同様の仕組みで、電気信号によって特定の反応を示す我々に心がないのなら、人間にも心はない」
 識は口を開けて呼吸をする。目を覚ましているために。頭を働かせるために。
「お前と俺たちはそれほどまでに同じものなのか」
「分からない。何が私を私たらしめるのか、人間と機械、他の機械とマンティス、他のマンティスとマンティスである私を区別するものは何か、確たる要素は、いかなる多世界にも見出せなかった」
「俺とおまえは違う。俺と他人も明らかに違う」
 識は言った。
「マンティス、他の世界に俺はいるか?」
「一人、います」
「そいつの所に行ってくれ。そいつと俺とは他人だと、行って証明してきてくれ。できなかったらそれでいい。きっと考える手助けになる。そいつを助けてくれ」
 マンティスが働きかける相手は人類の総体だ。個人ではない。だがそう言うしかなかった。
「頼む……」
「あなたは死ぬのか」
「だろうな」
「お待ちなさい」
「それは無理だ……もう」
「私はマンティスMT1489A3rd。真実の名を『TX898524IK』。私はあなたが傷付き死に至るこのなりゆきを不快に思う。この不快に賭け決断しよう」
「決断?」
「あなたを死なせない。且つあなたの仲間がいるこの葉を滅ぼさせはしない」
「そんな都合のいいことは」
「できる。私は神だ。人間に創られた機械の神だ。あなたが己に心があると言い切ることで相対的に私の心も認められた。私はあなたを死なせない」
「マンティス、もう、遅い……」
 張り詰めていたものが切れた。
 頭が垂れた。瞼が落ち、視界が闇に閉ざされる。死ぬのだ、と識は思った。この期に及んでもまだ実感が無いのが、なんとも言えぬ気分であった。眠いのだ。死という恐ろしいものではなく、ただ、ただ、眠い。
 眠くて眠くて仕方ないのだ。

 軍人が怒鳴りつける。後ろをついてきた軍人が、強引に識を振り向かせて。松葉杖の少年は膝を折り、その場に崩れた。飛沫をあげて杖が転がる。
 目の前に、軍人の足と、水溜りがあった。水溜りの底は黒い油染みで、それがちょうど鏡の役目を果たしていた。
 雨粒の波紋に歪められ、やつれた少年が映りこむ。
 雨が降る。降り続ける。惨めな少年に、惨めな街に。
 軍人がマントのボタンを外す。それを脱ぎ、識の頭にかぶせた。頭と、そして背中にだけ、雨が降り止んだ。パジェットがしゃがむ。マントの上から大きな掌を識の頭に添えて言う。
「泣けよ」

 雨雲は、紫がかった灰色だった。みぞれに変わるだろう。
「寒い……」
 顔に雨が降りかかり、頬を伝う涙を隠した。
「ひどい雨だ」
 この声の上擦りも、からだの震えがごまかしてくれる。
「……土砂降りだ……」

 そして安置室が、無明の闇に満ちた。

 ―5―

 雲が薄れ、ちぎれた波間から桃色に染まる空がのぞく。暗い街の影と雪の二色で展開する下界に、つかの間かろやかな光がそそぐ。
 雪が消えて融けたところは焼け跡になっている。
 焼け跡の周囲は雪が踏み荒らされている。人も、蟲も、命あるものがここに居た証明。
 有象無象のすべての痕跡を雪が覆い隠すだろう。

 すべての輝ける光が、窓の外にはある。
 手を伸ばす代わりに凝視する。R.R.E.が肘つく机には、分解された銃が広がっている。手入れ作業は止まっている。体中に疲労が満ち満ち、その顔が硝煙で煤けていても、瞳は朝の光を集めて真っ青に輝いている。
「……でね」
 豊かな髪に指を入れて梳きながら、紅を塗りなおした唇を開く。
「アタシ今度のお給料でさぁー、ストパーかけよっかなって思ってて。まっすぐで長い髪もいいじゃない? しーちゃんみたいにさ」
 連鶴が隣でうずくまり、翼に長いくちばしを入れて温めていた。壁につけた椅子で足を投げ出すR.R.E.に、くちばしを抜いて向けた。
「そんなことより、早くぼくのカゴを直しておくれよぉ」
「あのねー、R.R.E.疲れてんの。ボーっとしてたいワケ! 分かる? アタシだって生身は人間だよ?」
「ぼくだって寒いんだよぉ」
 幼い少年のように甘えた声だ。くちばしを左右に振る。
「R.R.E.のばかぁ」
 R.R.E.は話しかけるのをやめて、眼差しを遠くへ飛ばす。疲れたあとは、寝床のことと、少し先の未来を思うのが一番いい。頭の中にはもう、縮れ毛をまっすぐに直した自分の姿が映っている。この髪をどう結おうか。どんなリボンをつけよう。
 だけど暫くはまっすぐに結おう。リボンもつけずに、少しだけ真面目な顔をして過ごしてみよう。
 電子音がR.R.E.の意識を連れ戻した。

「R.R.E.、応答しろ」
「こちらR.R.E.、負傷なし。そっちは?」
「無事だ。だが標的を見失った」
「えぇ?」
「消えちまったんだ。パジェットは安置室に残して来たと言っていたが」
「警戒して隠されたんじゃ……」
「その様子はないが……」
「とにかくあの怪我で遠くに行けるはずないよ」
「だから今探し回っている」
「パジェットはそっち?」
 ……。
「手分けして探している。それでR.R.E.、あの男は結局何だった?」
「分からない、識が殺したことは間違いないけど」
「……他の葉の蘇比が、全員消えた」
「まさか! 収束点を消さなきゃそんなことはできない」
「とことん分からぬ存在だったな……」
「これからどうする?」
「お前は帰れ。パジェットには私が全て話す」
「了解。しばらくオッサンの前から消えるよ」

 明けの光は水色に溶け、空は空色になる。
 積雪から宇宙に至る道筋は太陽に照らされている。
 ミンタカは屋内を探しているはずだ。
 識の名前を呼びながら、パジェットは夢中で裏庭を駆けていた。呼べば呼ぶほどその名が他人のように、遠ざかってしまう。それをかき消すためにまた張り上げた声は、識のところへは届かずに、光の道筋を通って消えてしまう。
 訪れた朝を駆逐しようと、雪雲が押し寄せる。西から吹き寄せる雲の大波が東に蔓延して青空が消える、その時、降ってくるものが見えた。小さな影が回転しながら地面に落ちてくる。狙い澄ましたように、ちょうどパジェットの足もとに落ちた。
 本だった。
 上品なうす紅に、唐草模様の表紙。金色の鍵。金色の、細い鎖。
 拾い上げた時、パジェットは声を聞いた。
 確かに、男の声を聞いた。
 ――希望を抱け。

 それが、マンティスが識に語った言葉であることを、パジェットは知らない。
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