お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈11〉 著者:豊原ね子

断章・オルガレータへようこそ Ⅰ

 作りかけのポプリの外袋が、裁縫台に置かれている。
 白いレースのカーテン越しに午後の陽が差しこむ。窓辺の風鈴が鳴る。
「おまえは、本当になきむしだね」
 若い母親が泣きじゃくる幼な子を抱いている。
 風が吹く。風鈴が揺れる。ラベンダーの香りも揺れる。
「おまえは優しい子だよ」
 泣きはらした子供の瞳に蝶が残っている。
 子らが蝶を取り囲んでいる。木の棒で打つ。爪先で蹴る。水溜りに追いやる。
「おまえは、優しい子だよ」

(足音。足音が頭に響く。『彼』は自分が倒れていることに気付く。誰か走ってくる。)

――また苛められたのか。
 忌々しげに父親が吐き捨てる。
 ――情けない。相も変わらずめそめそして。お前は男だろうが!
 『彼』を叱るときいつも、父は傲然と振る舞って、失望と思い通りにならない苛立ちの目で『彼』を見るのだった。『彼』は父が怖かった。都合一つで、優しみを簡単に拭い去れるこの男が怖かった。
 ――そんなことでいいと思ってるのか!
 ――やめて。この子にひどいことを言わないで。

 誰か呼んでる。風の中から。走ってくる。呼びかけられる。寒い。ひどく寒い。

(――ひどいだと? 何かあっては泣いて甘ったれる子供がろくな大人になるものか。
 ――あなたはこの子がどんな泥んこになって帰ってきたか知らないから、そう言うんです。こんなに擦りむいて。
 ――それはお前がちゃんとしないからだ。やられたらやられっ放しな奴が人生の勝者になれると思ってるのか!
 ――人生の勝者? 何なんですか、それは?
 ――勝者といえば勝者だ、くだらんことを聞くな!
 ――この子は優しい子なんです。死にかけた動物を助けようとしたのよ。それを勝ったとか負けたとか、くだらないのはどちらですか!
 ――……そうか。分からないのなら、もういい。識は私が引き取るしかないな。)

 微かに意識を取り戻す。薄目を開けた。誰かが倒れた自分に覆いかぶさって叫んでいる。大きな声だ。でも、聞き取れない。
 パジェットか。そうらしいな。どうして俺は倒れているのだろう。理由を思い出せない。雪が降っている。ちりちりと頬に積もる。
「パジェット?」
 唇が動くだけで、声にならなかった。体に薄く積もった雪を、その人物が手で払う。
「なあ、俺、どうして……」
 それ以上目を開けていられなかった。気を抜くと、たちまち深い眠りの闇に落ちた。

 ―ヒト降りマチの章―

 どれだけ経ったか分からない。識は目を覚ました。温かい部屋の、温かい布団に寝かされていた。
 瞼に腕を乗せる。
 着衣が弛められている。助け起こされたことを、何となく覚えていた。倦怠をふり払い、ベッドから身を起こした。
 パジェットは?
 識は左右を見回す。ベッドは白いカーテンに囲まれていた。何かの施設の救護室らしい。
 目を伏せて考える。俺を助けたのはパジェットに違いない。ここは臣津じゃないのか? 
 記憶が鮮明になってくる。
 雨が降っていた。パジェットがマントを頭からかけてくれて……いや、それはもっと何年も前のことだ。
 立ち上がろうとして、識は、体のあちこちが妙に痛むことに気付いた。長く寝すぎたのか。
 身だしなみを整えた。
 身につけていたものは全てキャスターに置かれていた。火車も壁に立てかけられていた。ジャケットに腕を通し、火車を提げてカーテンを払う。火車が重い。幾分長いこと眠っていたようだ。足もとがふらふらする。床が動いているみたいだ。
 広々とした救護室だった。
 事務机は文房具が散乱し、床にまで転がっている。使われている気配がない。
 窓から赤い光が差しこんでくる。
 窓辺に立った。
 空が真っ赤だった。細長くちぎれ浮く雲も、その色に染められている。向かいの建物との間に細長い中庭が横たわり、薄く雪が積もっていた。火車を背中に装着し、救護室を出る。
 廊下は明かりが落ちて、暗い。すぐそこが非常出口だった。中庭に出て見ると、案外低い建物だった。ドーム天井の、円形の二階建てだ。向かいの建物のほうが高い。こちらは五、六階ある。どちらも壁の色がくすみ、老朽化している。
 二つの建物をつなぐ渡り廊下の下に、うずくまる人が見えた。雪の中で体を丸め、身じろぎひとつしない。歩み寄り、その途中で識は、死んでいることに気付いた。駆け寄る。
 その人は膝と掌を面につけ、うなだれて絶命していた。髪が風にざわめいてる。肩の肉と衣服を突き破り、顔の横に、腕の骨がとび出していた。着地のとき手をついた衝撃だろう。足から落下したらしい。ということは自殺か。
 銃声が響いた。
 音のほう、頭上へ顔を上げる。血を吹きこぼしながら人間が降ってきた。それは腐った魚のように、地面で跳ねて転がった。
 屋上では柵に影が踊り、誰かが身を翻す。
 影の消えたところを睨み、識は外階段へと走った。階段をぐるぐる上りながら拳銃を抜く。屋上に飛び出し、構えながら素早く左右を確認した。
 何もない屋上だった。
 誰もいない。何も聞こえない。
 コンクリートの割れ目から、ぺんぺん草が生えている。その草が凍えているばかりだった。
 貯水タンクの裏などを、慎重に確認する。それでもいない。
 安全装置をかけ、長い長い息をつく。赤錆の柵の向こう側に町を一望できた。家々の屋根や高い煙突が見下ろせる。歩み寄ろうとすると、いきなり足もとが揺れた。バランスを崩し、危うく転倒しそうになる。風当たりが変わる。
 動いている。町が動いている。姿勢を直し、識はなかば呆然とし、言葉を失った。起きたときに受けた足もとの違和感は、勘違いではなかったのだ。
 沈黙の町は一体となって、どこかへ進んでいる。

 ―腐れタンポポの章―

 空の色は、どちらを向いても濃淡変わりなかった。筋状の雲があるばかりで、太陽らしき輝点はどこにも見出せなかった。
 ここは、最初の印象よりも大きな施設らしい。下には駐車場が広がっている。車は一台もない。
 階段を下りた。
 すると向かいのドームの一階の窓に、ぱっと電気が点いた。頭上高くのすりガラスの窓だ。その明かりに目が吸い寄せられ、識は息を潜めた。耳をそばだてるも、何も聞こえてこない。
 足音をたてぬように窓の下を通り過ぎる。
 救護室と反対方向に回ると、広い前庭に出た。タイル張りの地面とポーチ。ガラス扉の、錆びついた四角い取っ手を押し、ここが体育施設であることを理解した。競技場だろう。薄く外の光が差しこむロビーには、自動販売機が静かに光っていた。受付と軽喫茶室があり、廊下が三方向に伸び、天井から案内板が垂れ下がっている。
 明かりが点いた窓を指す矢印には、水泳場と書かれていた。
 耳を澄ます。緊張で肌が強張る。足音を殺して暗い廊下をたどる。その先のドアから光がこぼれている。
 更衣室のドアだった。
 化粧台や整然と置かれたドライヤーを見るに、女子更衣室らしい。その先のプールへ至るガラス戸を、そっと指で押した。
 プールは黴臭かった。
 内側が青く塗られたプールに人が蹲っていた。二人。スーツの女と、赤いランドセルを背負った女の子。
 これもまた死んでいるかと思うほど、二人は体を丸めた姿勢で動かない。プールには薄く水が残っている。女の子が顔を上げた。幼い両手で隣の女を揺すった。
「おばちゃん、人がきたよ」
 控えめに染めた髪が、女の顔を隠している。髪の隙間から口が見えた。放心しているのか、薄ぼんやりと開いていた。
「ねぇおばちゃん」
 少ししてようやく、ひどく億劫そうに顔をあげた。まずいなと、識は思う。顔がやつれている。
「大丈夫ですか?」
 肌は土気色で、目と口は半開き。セミロングの髪はもつれている。ハイヒールをプールの水につけ、ストッキングの脚を両腕で抱えている。識はプールに飛び降りた。
「立てますか?」
 もう目が死んでいる。濁った瞳から目をそらし、子供のほうを見る。こちらは、そこまで弱ってはいない――見たところ。女の陰から、好奇心とおそれの入り混じる目で識を見ている。
「大丈夫、怖くないよ」
 淡く微笑みかけると、少しだけ緊張を抜いて、女の子は首をかしげた。女がようやくゆっくりと、顔を識に向けた。
「夫を見ませんでした?」
「えっ?」
「この子の父親です」
「こちらは娘さんですか?」
 少女は困って首をかしげている。よそ行きの服。真新しい名札には桜の造花の飾りがある。入学式だ、きっと。『こにしさつき』ちゃんと言うらしい。
「はい」女は返事をした。「さっき、あの人がここにいたの」
「ご主人が?」
「はい。ええ。ここに」
 そう言って、人差し指をプールの底に向けた。水溜りに自分と女の姿が逆さに映っていた。
「さっきまで、ここに、一緒に映っていたんです」
「そんな」
「明かりをつけたら消えてしまった」
 女は膝を伸ばし、水音を立てて排水溝へ歩いていった。
「ここに入っていったかもしれません」
 手をつき、水に髪の先を浸して女は排水溝を覗きこむ。
「他に出口もないし」
「出ましょう」
 識は駆け寄り言った。
「こんな所にいてはダメです。温かい部屋がありますから」
「あなた、うちの人に似てるわ」
 女が骨ばった手で識の腕をつかんだ。マニキュアの剥げた爪がジャケットに食いこんだ。
「似てるわ、ええ。背の高さとか、服のセンスとか、あなたあの人にそっくり」
「落ち着いて――」
「主人を知ってるんでしょう? 真似っこ!」
 怒りの声が響く。彼女はさらに何か言おうとしたが、口角を緩めた。
 識の肩をじっと見ている。
 儀礼銃士の肩章(エポレット)が彼女の気を引いたようだ。
「……あなた、儀礼銃士なの?」
 黒い目が、また死んだ。
「ごめんなさい。あなたやっぱり、全然似てませんわ」
「気が動転しているんです。無理もない。ここを出ましょう」
「どうして。ここには主人が」
「いいえ。他に誰もいませんよ。あの子も寒がってます」
 女の子は両腕を抱き、上目遣いに様子を窺っている。
「申し遅れました、私は名倉識。連邦政府認定の儀礼銃士としてあなた方を保護します」
「奥村十和子。あの子は皐月」
「分かりました。失礼ですが、お二人の関係は」
「親子です」
 識は二人を連れ出して、プールを後にした。

 救護室に戻ってきた。親子を長いすに座らせると、窓辺のカーテンを全部閉めて照明を落とした。
「他に銃を持った人間がいます。気をつけてください」
 母親の反応は鈍く、ただ識の動きを顔で追うばかりだ。女の子は膝に載せたランドセルを撫でたり叩いたりしている。火車を床に下ろし、自らも手近な椅子に掛けた。
「奥村さんは他に人を見ませんでしたか?」
 十和子が湿った髪の隙間から、じっと識の顔を見た。
「あなたも人を探してるの?」
「はい。大柄で、金髪の、片眼鏡の儀礼銃士です。近くにいると思うのですが」
「さぁ」
「見なかったなら、いいんです。あなた達はどうしてここに?」
 十和子は黙っている。乾いた木のウロのような目は、生きる気力を吸い取られそうで、思わず目をそらした。
「皐月ちゃん、どうやってこの町に来たか覚えてる?」
「この子に話しかけないで!」
 十和子が叫び、いきなり皐月の首に腕を回して抱き寄せた。身を引く識に、追撃のように彼女は捲したてた。
「この子をたぶらかそうたって、そうはいかないんだから!」
 皐月がバランスを崩し、十和子の膝に耳から倒れこんだ。
「あたし、うちの人以外の男は信じないわ!」
「奥村さん」
「黙れ! 男のくせに気安く話しかけやがって!」
 識は言葉を失い――そっと顔を背けた。
 十和子は普通の精神状態じゃない。もしかしたら、ここに来る前からかもしれない。とにかく気をつけないと、何で取り乱すか分からない。
「すみませんでした」
 と、十和子が深く頭を下げた。
「つい」
「いえ」
「分かってくださればいいんです」
 それから話し始めた。遠い昔を思い出すような、不確かな喋りくちだった。
「この子の入学式だったの。夫と、あの女が来てたわ」
「あの女?」
「でもこの子はあんな下品な公立じゃダメよ。ねえ皐月、雛菊小学校の制服着たいって言ってたもんね」
 どういうことか、識にはすぐに理解できなかった。
「こどもはおうちに帰らないと。皐月ちゃんだってママと暮らすのが一番いいわ。そうでしょ、さっちゃん」
 髪を撫でる十和子の手が、止まる。
 皐月のスカートのポケットから植物の茎がはみ出ていた。乳白色の汁が切り口からこぼれている。
「さっちゃん、なにこれ」
 十和子がポケットからそれを引き抜き、その隙に、皐月は姿勢を直した。こんな小さな子供なのに、本当に無表情だ。識はそのことが気がかりで、憐れでならなかった。よほど疲れているのだろう。
 十和子が本当のことを言っているなら、この子はずっと実母と引き離されて暮らしてきたのだろう。それが一概に不幸とは言えまい。まして実母がこの有り様では。
 いや、皐月が十和子の子だという主張だって、十和子の妄想かもしれない。
 十和子が握り締めた植物は、タンポポだった。
 五、六輪ほどのタンポポ。茎がぐったりしている。
「タンポポ? どうして。どこに咲いていたのですか?」
「ああ、これはさっきの」
 初めて十和子が笑顔を見せた。
「春があったのですよ」
「あった?」
「ええ。さっき、私たち春の領域を通ったの。空が青くて、暖かくて、良いところだったわ」
 腰を浮かしかけ、すぐに座り直す。
「連れて行ってもらえませんか?」
「どうかしら。まだ残っているかしら」
 悲鳴が聞こえた。
 続いて銃声が。
 咄嗟に、火車を手に立ち上がった。再度、取り乱した男の叫び声が窓の向こうから響いてきた。銃声。
「なに?」
「ここにいてください! 様子を見てきます」
 識は火車を担ぐ。十和子は皐月の肩を抱き寄せた。
「絶対に動かないで」
 部屋を飛び出した。
 重い銃声が続けざまに響く。その方向へ中庭を走り、声を張り上げた。
「誰かいるのか?」
 応答がない。
「おぉい!」
「――おおいっ!」
 裏返った男の声が応えた。
「助けてくれ!」
 距離感がつかめない。
「今行く!」
 中庭の先。
「どこにいる!」
 前庭に出てもう一度叫んだ。
 銃声が地の下から聞こえた。ドームの隣の建物。見れば地下階に下りる外階段がついている。駆け下りる。ガラス張りの食堂。ガラスが割れ、観葉植物が散乱している。長机と椅子の間を縫い、食堂を飛び出す。
 巨大蜘蛛が廊下の向こうから吹き飛ばされてきて、目の前に転がった。黄色と黒の縞模様を持つ女郎蜘蛛だ。腹を撃たれている。女郎蜘蛛の脚と脚の間をかいくぐる。
 またも叫び声が、廊下の角から聞こえてきた。
「待ってろ、今助ける!」
 非常口のランプが廊下を照らしている。火車を抜いた。角を曲がる。地上階からの光が差す、吹き抜け階段だった。
 壁に三頭の女郎蜘蛛が張り付いている。
 走りながら火車を放った。全力では投げられない。それでも火車はせまい室内を三角形に飛び、瞬く間に蜘蛛を生焼けの炭に変えて床に落とした。
 手元に戻った火車を捕まえる。
「どこだ?」
 階段の裏から人が飛び出した。男だ。膝つきで、いきなり識にライフルを向けた。
 そして撃った。
 熱の塊が顔の横を掠めた。
 身を竦ませる識の後ろで、何かが吹き飛んでいった。
 女郎蜘蛛が廊下の突き当たりでひしゃげた。
「危なかったな」
 と肩の力を抜き、男がライフルを下ろす。
 パジェットじゃないかと期待したが、違った。持っているライフルは儀礼銃だ。小麦色の肌。鼻が高い。異国の人間だ。年は近いだろう。二人は黙ってお互いを観察した。
「……怪我はないか? すごい声だった」
 識から話しかけた。
「ああ、大丈夫、俺なら。うん」
 まだ少し上擦っているが、陽気な声音だった。肩をすくめ、やけに大仰な手振りを交えて識に歩み寄った。背が高い。
「おまえは? もう動いて大丈夫か?」
 そしてまた、頭の先から足もとまで識の全身を見回した。
「うん、大丈夫そうだな。よかった!」
「あの」
「おまえそれすげぇな! 儀礼銃? へえ。だよな。初めて見たよ、銃じゃないタイプの。珍しいんだよなぁ。てかおまえ日本人? ってか、誰?」
 それから、識に向かって右手を差し出した。
「オレはルキーノ。よろしく」
 名乗り返し、手を握った。やたら力強い握手をされた。
「助かったぜ。えーっ、なんだ、Sichi?」
「ああ。ルキーノが俺を助けてくれたのか?」
 ルキーノと名乗った男は、いたずらっぽく目を細め、唇を片方吊り上げた。
「あぶない所だったんだぜ、おまえ。オレがあと半日、いや一時間見つけんのが遅かったら助からなかったかもな!」
 ほぼ一単語ごと手振りをいれて話すルキーノに、識は頭を下げた。ルキーノは少し面食らった様子で、得意げなふりをやめた。そうか、頭を下げる文化がないのかと識は気がつく。
「助けてくれて有難う。俺はどうなってたんだ?」
「外に倒れてたんだよ。覚えてるか? そんな暗い顔すんな」
 背を叩かれ、識はいきなり凄まじい心持ちになる。
 何かおかしい。強烈な違和感に総毛立つ。何だ?
 食い入るようにルキーノを見る。これか? ルキーノが? ルキーノとの会話が? 内容?
 沸き起こったときと同じく、正体不明の疑問が不意に収束する。視線を浴びたルキーノがやや緊張して識を見返している。識が目を伏せてしまうと、安心して笑った。
「せっかく助かったんだ、飯にしよう。おまえずっと寝てたんだぜ? 腹減ってるだろ?」
 識は首をかしげ、横に振った。
「ルキーノ、俺を見つけた場所に連れて行ってくれないか?」
「いいけど、今?」
「ああ。ここに来る前のこと、思い出せそうなんだ」

 ルキーノが識を連れて行ったのは、ドームから少し離れたゴミ捨て場だった。コンクリートの低い仕切りがあり、ガラス製品を入れる籠や、掃除道具が近くに積まれている。
「ここ……確かここら辺に倒れてたんだ」
 凍りついた水道辺りを指す。ホースが雪を被って白い渦巻きを作っている。
「二日前。きのう、おととい、ずっと眠ってたんだ」
 ルキーノが示した場所にしゃがみ、雪に指を沈めた。
 鮮明に安置室が見えた。
 臣津市庁の地下だ。パジェットの背中が壁を叩いている。
 一瞬の幻覚だった。その幻覚は霞がかった記憶の全てを連れてきた。何もかもを思い出すのにそれ以上は必要なかった。
「マンティスが俺を死なせないって言った!」
 衝動的に識は叫んだ。
「識?」
「俺は殺されたんだ! いや、違う、殺させないって言われた」
「どうしたんだよ、識?」
「俺は」
 肩を撃たれた気がして、体を引き攣らせた。何のことはない。ルキーノが手を置いただけだ。その手が喉に伸びてきて、首を締め上げるように思えた。息が詰まる。そんなことをされる理由などないのに。
 記憶は戻った。でもそれは、少々鮮明すぎた。
「痛かった、痛かったんだ、すごく。抵抗できなくて――俺は何もできなかった!」
「落ち着けって。もう大丈夫だって!」
「俺は」動悸を納めながら、唾をのんだ。
「何でそんなことされるのか、全然わからなかった」
 ルキーノもしゃがみこんで隣に肩を並べた。不甲斐なくて、顔を見られたくなかった。識は深く俯く。
「おい、大丈夫か?」
 足の震えを止めて立ち上がった。記憶は戻った。十分だ。
「……それよりルキーノ、仲間がいるのか?」
「仲間? なんで?」
「さっき、屋上で銃声が聞こえた」
 ルキーノの表情が強張る。
 その表情は恐怖をかたちづくり、今度がルキーノが平静を失う番だった。
「違う。あいつらはダメだ、仲間じゃない」
「じゃあ……」
「逃げよう!」
 真剣な顔で言われ、識は慌てた。
「待ってくれルキーノ、救護室に民間人がいるんだ」
「なんだって」
「親子づれを保護した、戻らないと!」
 連れ立って、もときた道を引き返した。
 急ぎながら周囲を観察すれば、見慣れぬシンボルが点在した。
 非常口の模様が違う。自動販売機の英語のロゴも見たことないものだ。天井から下がる案内板も連邦公用語で書かれているが、よく見れば少しだけ漢字の形が違っていたりする。
 ルキーノはさっき『日本人か』と訊いた。
 ニホン。それはマンティスが教えた言葉だ。識は自然と、一つの恐ろしい結論にたどり着いた。
 ここは俺が知ってる世界じゃない。
「どうした?」
 思わず立ち止まった識を、ルキーノが振り向いた。
「なんでもない」
「まだ本調子じゃねぇんだよ」
「いいんだ、早く行かないと」
 救護室に戻ってきた。
 ドアを開ける。そこには誰もいなかった。十和子も皐月も。
「奥村さん?」
 窓が開いている。白いカーテンがはためく。
 その陰に、一瞬大きな双眸を見て識は窓に駆け寄る。カーテンを払い、そして、そこに誰もいないことを確かめた。それから――見えた気がした二つの目が、あまりに大きすぎたことに気付き、背筋を凍らせる。
 錯覚に違いなかろうが、その目が、確かに十和子のあの目だったからだ。
「なんだこれ?」
 ルキーノが、長椅子に残されたタンポポを見つけて言った。
 カーテンを閉め、識もタンポポに手を伸ばす。
 その指が触れた瞬間、まるで悪い風が吹いたように、タンポポが腐臭を放ち一瞬にして黒ずんだ。
 視線を感じた。
 カーテンの向こうから。識は振り向かない。
 視線はこう言っている、
『うちの子に近寄るな!』
 幻の母の腕が窓を透過し、カーテンを持ち上げている。
「出よう識、もういいだろ? もうここには居ないんだよ!」
「何を言ってるんだ!」
 識は恐れを撥ねのけ、言った。
「民間人が蟲のいる所に放り出されてるんだ、置いてけるわけないだろう」
「いねぇじゃねえか! もうどっか行っちまったんだよ!」
「お前、それでも儀礼銃士かっ!」
「あいつらが居るんだよ!」
 怒鳴りつけられ、その剣幕に識は怯んだ。
「アイツらは駄目だ、とにかくダメなんだ。きっとその民間人は別のところに飛ばされたんだ。識、なあ、出ようぜ、頼むから! 説明ならちゃんとするよ!」
「飛ばされたって、なんだよ」
「それも後! 出よう、早く。おまえを見つけたのがオレでよかった。本当によかった」
 その様相を見ていると、これ以上強硬に出るのも憚られた。仕方なく識はルキーノについて、施設を後にした。

 ―オルガンを目指す章(一回目)―

 ルキーノがひたすら前を歩き、識はついていく。臣津に比べれば貧しい街に思えた。道はひたすら平坦でせまい。その上どういう物質なのか、真っ黒に塗られていて不気味だ。家々は平たく、板塀で取り仕切られている。そしてやはり、見たことのないシンボルが各所にある。
 ルキーノは何を焦っているのか、識を振り向きもしない。
 その内大きな通りに出た。通りに面したレストランに入り、識を手招いた。
 壁のブラインドは全て下ろされている。とりわけ暗い、一番奥まった席にルキーノは識を座らせた。
「何か作ってやるから待ってろ」
「ルキーノ」
「飯食ってからな。休めよ」
 ルキーノが銃を立てかけ、厨房に消えた。
 彼が言うには何日も眠り続けていたのだから、疲れるのは当たり前だ。立ち上がるのに気力を要した。さすがに、自分ひとり座っているわけにも行かず、識も厨房に入って食器を用意した。冷凍のピザやパスタがあった。美味いとも不味いとも言わず、二人でそれを食べた。
「消えちまったんだ、その親子連れ」
 口を拭って言う。
「ここじゃあ人が消えちまうんだ。いつの間にか、なんかな、別の世界に行っちまうって。その内また会えるよ」
「何とかして探せないだろうか。まだ本当に小さい子供なんだ。母親も様子がおかしかった」
「その内また会えるんじゃねえかな。オレだって何とかしてやりたいさ。でもココはそういう世界なんだ。多分どうにもならねぇ」
「ここはどこなんだ?」
 識はルキーノのコップに水をついでやった。
「わかんね。識はどうやってここに来たんだ?」
 俺は、と口を開いた瞬間、嘲り笑う蘇比の顔が脳裏に大写しになった。
 顔に血が上る。
「オレは国際会議に行く途中でさ、乗ってた飛行機が落ちたんだ。後もうちょっとで日本に着陸できるとこだったのに。護衛機がばたばた墜とされてって、ひどいもんだった。それで気付いたらこの世界の公園のベンチにみんなで座ってたんだ」
「ルキーノはどれくらいココにいる?」
「ここ、ずーっと昼が続いたり、いきなり季節が変わったりするからよく分からないんだ。俺も仲間とはぐれる前はできるだけ日数数えてたんだよ。二ヶ月くらいじゃねえかなぁ」
 ルキーノの話はにわかには受け容れがたい内容だった。かといって頭から否定することも出来ず、識は困った。
「……仲間って?」
 地面がゆれ、背中が椅子に押し付けられた。向かいのルキーノが前のめりになる。
「減速した?」
「ああ、分かったか?」
「この町は動いてる」
「もう気付いてたのかよ」
 ルキーノは目を伏せて笑った。寂しげな笑い方だった。ただ放っておけないからだけで、彼が自分を助けたわけじゃないことに、識は気付いた。
「最初オレたちは六人いて、二手に分かれたんだ。進行方向にいく組と、逆に行ってみる組。オレたちは進行方向に進んだ。十日後に戻ってきて落ち合おうって約束してさ」
「どうなったんだ?」
「戻れたのはオレだけだった。何日も待ったけど、誰も戻ってこなかった。だからまたオレひとりで前に進んだんだ」
「一緒にいた二人は?」
「殺された。人間に殺された」
 ルキーノが慌てた理由はそれだろう。
「銃狩りをしてる奴らがいるんだ。殺して儀礼銃を集めてる。こっちが二人以上いれば襲ってこないけど……」
「銃狩り? 何でそんなことを」
「知るかよ! オレのツレはあいつらにやられたんだ!」
 ルキーノが机を叩いて立ち上がった。
「行こうぜ識、こんな所にいられねぇよ!」
「分かった。ルキーノ、落ち着こう。進行方向に進むんだな」
「ああ。その方向に町を動かす機関部があるはずだから」
「うん。じゃあ、行こう」
 識も席を立った。

 この町が乗り物ならば、とんでもなく大きな列車か、船か。とにかく二人は歩き始めた。
「ここで仲間以外の誰かにあったのか?」
「うん。いつの間にかはぐれちまったけどな。あいつらもオレのことを消えたって思ってるかな。オレ思うんだけどさ。これがどんな乗り物か知らないけど、儀礼銃と同じ仕組みで動いてるかもしれないって」
「なにかの命を燃やして?」
「ああ、だって人少ねぇじゃん。この町に最初からいた奴なんてオレあったことがないんだ。もしこの町全部の人間がさ、もしもだぞ、過去に全員死んじまってるとしたら」
 歩くのをやめる。
「確かに、相当な動力になる……」
「逆の方向に行こうって言った仲間はさ、この町は地獄に向かってるって言うんだ」
「なんでまた」
「オレたちみんな死んじまったんじゃないかって。蟲の命を奪ってきたオレたちは天国にいけないんじゃないかって」
「ルキーノの宗教の偉い人は、蟲を殺すなって言ったのか?」
「いや、逆だよ。でも分かんねぇよ。こんな世界にいたらわかんないよ。識はどう思う?」
「そんな声出すなよ。……地獄というのは俺の国の考え方じゃないな。死者の霊はどこかに向かうものじゃない。ルキーノの国ではそうかも知れないけど、ここは俺の国に似てる。だからルキーノの考え方に則ってはいないだろう」
「最初はオレの国みたいだった……今は日本だけど」
「でも俺は日本人じゃない」
 意外そうにルキーノが目を見た。
「豊葦原連邦国、別世界の日本に相当する国だ。俺はそこから来た。俺はひどい怪我をしてたけど死ななかった。俺たちがここに来たのにはきっと理由があるんだ」
「だよな。そうだよな」
 ルキーノが行く先を指差した。
 家々の屋根の向こうに薄緑の球体が見える。給水塔だ。
「あそこからなら見えるかな。識、あそこに登ろうぜ」
「見えるって?」
「いいから来いよ!」
 怯えたり、はしゃいだり、子供みたいな奴だ。その素直さが少しだけ好ましく思えた。少し。
 給水塔を巻く階段を上る。
 頂きからは町を一望できた。ルキーノが指差す赤い空に、識は目を細めた。遠くに不思議な建造物がある。高低差のある柱の束のような、あるいは階段のような、黒い影が聳えている。
「あの建物めざしてるんだ。だけど全然近寄れなくてさ」
 肩をすくめた。
「何だろうな、あれ」
「オルガンだと思う」
 ルキーノは謎めいた笑みを浮かべた。識はただその顔と遠くの建造物を見比べる。
「ある人から聞いたんだ、この世界には大きなオルガンがあるって。空に張り巡らされた見えない弦の調律が狂ったから、蟲が飛んできたんだってさ。もといた世界に蟲がいるのはこの世界のオルガンのせいだって」
「この世界の神話か?」
「さあ。その人も、来たばかりの時に人から聞いたって言ってた。だからお前も来たばかりの人間に話せって言われたんだ」
「そうか」
「お前も次来た奴に話せよ」
「近づけないってのも妙な話だな」
 話半分に聞きながら識は言った。
「識だって、歩いてりゃ分かるさ。あそこには近づけないって」
「行ってみよう。目印にもちょうどいい」
 二人は給水塔を降りた。
「そう、それで続きがあってさ。あそこのオルガンには作者がいるんだって」
「作者? なんの?」
「空のオルガンと世界の作者。そいつと交渉して調律が狂わない設定で物語を書き直してもらえば世界から蟲が消えるって」
「この世界が誰かに書かれたものなら、調律が狂うも何も、世界ははじめから蟲が来る前提で書かれたことになるだろ? ただの作り話だよ。そうじゃなかったら、蟲が消えたらこの世界も消えてしまう。前提が成り立たなくて、書けなくなるから」
「あっ、そうか。よく気がつくよな」
 声高らかに笑う。呆れて口をつぐむ識を、ルキーノの上背が見下ろす。
「じゃあさ識、蟲が来て戦ってるのが前提の世界と、そうじゃない方法で人類が生きてるのが前提の世界があったとしてさ、どっちかだけが正しいとしたらさ」
「したら?」
「――どっちが消えると思う?」
 丸く見開いた識の目が、電線のミミズクを映す。
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