お話の、あるところ。

スポンサー広告

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈15〉 著者:豊原ね子

断章・オルガレータへようこそ Ⅱ

絵のように添える母娘となりましょう 改札口の雪は血の色







 ―煩悶している章―
 
 識は起きてすぐ椅子に腰掛け、それきり動いていない。
 窓の下には真っ黒な海があり、それも変わっていない。
 何列もの白い波頭が寄せては砕け、寄せては砕けを繰り返している。
 知名度の低い海岸と、唯一の、そしてそれ一つしか需要がないであろうホテルの一室に、識は引きこもっている。ルキーノが隣の部屋に居るはずだが、顔を合わせる気になれない。
 この場所はどこだろうか。どこへ行き、何をするのが最善か、考えなければならないことは沢山ある。
 自分を怠惰な人間だと思ったことはない。必要な時は、生き残るため、自分のためにそうした思考を必死に行ってきた。だが今頭に重くわだかまるのは、臣津の町で起きたこと、それへの嫌悪と拒絶だけだ。
 とりわけ蘇比のこと。
 識は戦闘訓練を受けている。蟲との戦闘が主であり、また儀礼銃士は宗教家としての性格も強いから軍人とは違う。だが一応、人間を対象とした格闘術も習った。苦手だ。それでも修了した。一方、蘇比は民間人。だと思う。それなのに――ああ。深い嘆きと共にうなだれる。
 パジェットの言うとおり、識は弱っていた。あの寒さのなか川に落ちたりするからだ。そうでなければ負けなかった。
 当たり前だ。
 それに一度、いや三度、識は蘇比を殺している。蘇比が生き返らなければ負けなかった。
 当たり前だ!
 なぜ当たり前の相手に負けたのか? 何が起こったのか。何が対処可能で、何が不可抗力だったのか。ことの整理をつけないことには前進する気力も湧かない。しかし、それを思い出しただけで恐怖と屈辱感で足がすくむ。
 つくづく情けなかった。情けないなら情けないで、具体的に自分のどこら辺がどう情けないのか分かればいいのだが、今はとても冷静な分析などしたくない。分かっている。時間が必要なのだ。だから何日も目を覚まさなかったのかもしれない。
 しかしもう、目を開けてしまったのだから。身に迫る危機を知ってしまった。だから危機の正体を知らねばならず、知るには頭か体を動かさねばならず、そう、そのための気力が湧いてこない。さっきからずっとこうだ。朝起きたときの絶望感というものは凄まじい。
 臣津に帰りたい。心底から願う。故郷へ。あの夜、パジェットを追いかける前に、識は臣津を離れようと決めた。まるで決意したことの罰のように、その後の出来事は思える。臣津を捨てようなどと思ったから。
 パジェットに、俺は罰を受けたのだろうかと聞きたい。おまえは馬鹿かと言って欲しい。そんなワケねえだろうと。彼ならそう言って、立ち直るために手を貸してくれるだろう。
 でもパジェットはもう自分を死んだと思っているかも知れない。
 穴がふさがってしまって、あの後無事に帰れたのだろうか。
 則子は。彼女にはすぐ帰ると約束した。あんなに縋りつくような目で「行かないで」と言っていたではないか。帰らないことでどんなに心を痛めているだろう。
 R.R.E.は……。
 ルキーノの叫び声が聞こえてきた。
 体が動いた。気がつけば、火車をひっさげて廊下に飛び出していた。食堂だ、と当たりをつけて階段を下りる。果たして一階、レストランの大きなガラスの向こうに、ルキーノが途方に暮れているのを見つけた。
 そこは、今では枯れた草木が雪を載せているだけの、もとテニスラウンジだった。
「ルキーノ、どうした? 無事か?」
 ガラスを開けて、顔を出す。ルキーノはばつが悪そうにテニスコートと識の顔を順に見た。べつに何ともない。
 今回は蟲が居もしない。
 識は苛立ち、目を吊り上げた。
「何だっていちいち大きな声を出すんだ! びっくりするじゃないか!」
「ボール」
「なに?」
「いや、サッカーボール探してて……。あっちにゴールがあったからさ。グラウンドも」
 サッカーボールに何か意味があるのか、あるいはそれで何をしようとしていたのか、識は考えようとして、やめた。
 ただサッカーをやりたかっただけに違いない。
「……で、なんで大声出したんだ?」
 足もとに大量にこぼれたテニスボールを顎でさす。識は納得し、同時にあきれ果てた。
「そこまで驚くことじゃないだろう」
 背を向けると、その肩を、ルキーノが思い切りつかんだ。後ろ向きに引っ張られて識は足を止める。
「待てよ!」
 振り返らずに、ルキーノの手をほどく。
「待てって!」
 そしてルキーノは意に介さず、肘を掴みなおしてきた。
「運動しようぜ。毎日歩くしかやることないなんて、嫌だよオレ」
 目の中に切実な光がある。
「せっかく二人いるんだからさ。な?」
 なるほど、彼はずっと一人だった。その心細さを想像することくらい、識にだってできる。だが、
「気分じゃない」
 それを振り払った。
 体が動いた。そのことに、識は微かに安堵する。いざとなれば、この体は動く。怪我も病気もない。思い悩んでいても、気力が無くても、何かあれば体は反応してくれるのだ。
 識はまた、思い出さないほうがよかったことを思い出す。
 R.R.E.は自分を殺しに来たのだった。

 ―必要とされなかった架空の章―

 ゆきがふっているのだ。

 雪が降っているのだ。
 田舎じみた無人駅。
 改札を出て少し歩いたところで女が倒れている。
 駅舎と、小さな喫茶店の間で仰向けに寝転がっている。
 雪が降っているわね。
 声もなく意味もなくその青黒い顔は目をつぶり、女は寄り添う子供に言う。
「おばちゃん。おばちゃん」
 皐月はずっと、女、十和子のわき腹を揺すっていた。
「おばちゃん」
 十和子を揺する。肩の動きでランドセルが音を立てる。真新しい筆箱の音。たくさんある配布物の音。
「おばちゃん――」
 大きな、大人の足音を感じて顔をあげた。桜の造花も震え上がる。十和子から離れ、駅舎に入り、改札の中に身を隠した。
 間もなく二人連れの男女が十和子の前で立ち止まった。
「……死んでる」
 しゃがみこんだまま、改札から顔を出してみると、男が十和子に手を触れて、首を振っていた。
「見てください、この服の皺」女も十和子を覗きこむ。「誰かが掴んでたみたいです」
 昨日の、かみの毛の長いお兄ちゃんじゃないや、と皐月はがっかりする。同時に少し安心した。動いちゃ駄目だと言われていたのに、十和子に言われるまま逃げ出した、そのことを今度会ったら怒られてしまうかもしれない、と皐月は恐れていた。
 改札から這い出ると、二人は素早く腰を浮かせた。
 すぐに、女のほうが駆け寄ってきた。
「フレーニさん、子供が!」
 赤茶色の髪の男が、十和子の隣で立ち上がる。
「君、こんなところでどうしたの? だいじょうぶ?」
 大柄な女だ。その目の中に優しさを見出し、緊張を解いた。
「さつきちゃんって言うのね。あの人はお母さん?」
「ユキタニ、その子をこっちに」
 男が言った。ユキタニと呼ばれた女が、その外国人の男を振り返り、また皐月と向き合う。皐月は首を横に振った。
「おかあさんじゃない」
 ユキタニは黙って頷くと、皐月に手を差し伸べた。
「さ、行こ。ここはあぶないの。歩ける? おんぶがいい?」
 皐月は手を伸ばしかけ、そのまま逡巡する。勝手に知らない人について行っちゃダメだと常々お母さんに言われていた。知っている人について来てさえ、こんな遠い町に来てしまったのだ。知らない人についていったらどうなることだろう。それに、おばちゃんはどうなっちゃうんだろう?
「おばちゃんが起きるまで、待って」皐月は言った。「行ったら怒られちゃう」
「さつきちゃん、あの人は起きられないの」
 ユキタニの柔らかい眼差しが、ぴんと鋭くなる。雪雲を低く打ち鳴らし、何かが、空の向こうから来る。
「ユキタニ! 逃げろ!」
 男が背中から、大きな、見たこともない筒を下ろした。てっぽうだ、と皐月は思った。するとユキタニが強引に皐月を抱きこんで、視界を塞いで走り出した。おばちゃんが遠くに行っちゃう。皐月は腕の中でもがくが、ユキタニの力は強く、だき抱え直されると、もう身動きが取れなかった。
「おばちゃんは?」
「ここにいて。絶対よ。喋っちゃだめ」
 視界が戻ると、皐月とユキタニはトタン屋根の小さな車庫にいた。茄子色の自動車の裏にしゃがまされ、すぐに出て行こうとするユキタニの手を慌てて捕まえた。
「ねえ、おばちゃんは?」
「あの人はもうだめなの」
「だめ?」
「いい? 皐月ちゃん、蟲がくるの」
 意味がわからず、緊迫したユキタニの顔を凝視する。
 虫?
 むしさんの何がいけないの? ゴキブリとかは汚いからダメってお母さんや幼稚園の先生は言ってたけど。
「蟲よ、わかるでしょう? 皐月ちゃん。大きな虫、怖いでしょ?見つかったら食べられちゃうのよ」
「大きな虫……」
 納得した皐月が笑顔を見せると、ユキタニの目が意表をつかれて丸くなる。
「知ってるよ。おばちゃんがよく話してくれてたもん。大きな虫さんでしょ? お姉ちゃん、虫さんをやっつけるひと?」
「蟲を知らないの?」
「ううん、おばちゃんがお話してくれたから知ってる。おばちゃんは大きな虫さんがいる場所のお話をしてくれたよ。寝るときにお話してっていったら、聞かせてくれるんだ」
 ユキタニは口を開けて、皐月を見下ろしている。
「あとね、あの木の実の話も知ってるよ」
「木の実って?」
「駅に生えてたの。赤いちっちゃい実。よく眠れる実なんだって。あれ食べたらおばちゃん寝ちゃったの」
「……わかった」うなずいて、皐月に向かって腰を屈めた。「皐月ちゃん、おっきい虫さんは御伽噺じゃないの。本当にいるのよ。だからあなたはここに居なきゃだめ。ね?」
「おっきい虫さんは本当はいないんだよ!」
 皐月はむきになって言った。
「本当にいたら食べられちゃうんだから!」
 答えずに、ユキタニは背を向けて出て行った。
 捨てられた気分になって、皐月は自動車の隣をすり抜け、車庫から首を出す。
 空を大音量のうなりが覆っていた。

 ―さまよえる哀悼の章―

 あの頃識は泣くでもなく、もちろん笑うでもなしに、毎日薄暗い救護院のベッドの上でただ寝て暮らしていた。火傷や、炎症を起こした打撲、捻挫した足の痛みだけが日夜を共にする仲間だった。臣津の町は半壊し、識は母を失ったばかりだった。
 時間が流れ、自分が大人になり、笑ったりどうにかして暮らしているところなど、一かけらも想像できなかった。想像できないから、そんな未来に向かっていくことも出来ず、まどろみと半覚醒をただただ繰り返していた。
 助けてくれた軍人、つまりパジェットが自分を気にかけてよく来てくれた。その記憶だけがはっきり残っている。
「よう。具合はどうだ」
 識は起き上がりもしなかった。もう熱もひき、怪我の痛みも以前ほどではなくなっていたが、だるくて仕方なかった。 パジェットが黙って額に手を置いた。識は嫌がって払った。
「おめぇ、これからどうするんだ?」
「さぁ……」
「おまえが前行こうとしてた地区なあ、今、千歳市の救援隊が来てくれてるぜ。生きてる人だって見つかってんだ。あの瓦礫の中でもう一週間」
「……僕の家は?」
「オレじゃ分かんねぇな。立てるんだったら一緒にいくか?」
「うぅん、いい」
 識は毛布の中で背を丸めた。
「ねえ、パジェットさん、あそこに窓があるでしょう?」
「あ? うん」
「あそこからお母さんが見るんです」
 パジェットはそれを、何かの比喩かと捉え、それを測ろうとする顔で、じっと見返してきた。
「本当なんです。ずっと昔からだ。お母さん、僕が子供部屋に居ると庭から覗いてきた。僕が視線に気付くとサッて行っちゃうんです。その時髪がパッて揺れて、動くのが見えるんです」今も。「髪が見えるんです。振り返ると。毎日見えるんです……僕にどこにも行くなって」
「なんで……お前のお母さんそんなことを?」
「お父さんが迎えに来るんじゃないかって怯えてたから」
「お前のお父さんどんなんだよ?」
 父が連邦屈指の製鉄企業の社長であることを、母が、その屋敷の使用人であったことを、初めて自分の口から他者に話した。
 堰を切ったように話した。
 父と彼の妻、多賀子との間にはついぞ子ができなかったこと。だから父が自分に執着していたこと。父にはとても気に入られていたことも。だけど自分は時に父がひどく恐ろしかったことを。両親の不仲。識を私物化しようとする父と、怯えて卑屈になる母。鬱屈した日々。ついぞ父とは和解できなかったこと。父親に強く出られない母親をなじり、それを謝れなかったこと。
 全てを聞いてからパジェットは間を置き、こう言ったのだった。
「それで? これからどうするんだ?」

「おまえ暗いよ」ルキーノが言った。
 波の音が強すぎて、識は聞き間違いかと思った。だが顔を見ると、ルキーノは少しだけ顔をしかめており、確かに「暗いよ」と言ったらしかった。
「暗い」
 しかも念を押された。
 識は不思議な気持ちになって、じっとルキーノを見下ろす。
 防波堤の上を、識は歩いている。
 並びの悪い歯のような波頭が海の真ん中で持ち上がり、目の前までやってくると、テトラポッドにぶつかって砕ける。引き際、海はひとりごとを言う。誰にも無関心なままに。ただ視野いっぱいを埋め尽くすだけ。粉雪が、黒く濁る海原に落ちては消えてゆく。風に暴れる髪を、識は手で押さえた。
 ルキーノは下の歩道にいる。二人の荷物を積んだ自転車を押している。
 生き物の気配がまるでない、硬くて黒い道路。この世界の標準らしく、ルキーノはなんの疑問も示さない。が、識はこの道路が好きじゃない。コンクリートの堤防を歩く。
「暗い?」
「黙りこんじまってさ」
「考え事だよ」
「どんな?」
 識は顔を、ルキーノから、反対側の海に向けた。海を見たいわけじゃないことに、それから気がついた。ルキーノの顔を見たくないのだ。
「ぶしつけだな。ほっといてくれ」
「なんだよ、いいだろ? 悩んでることがあるなら話せよ」
「お前は悩んでることがないのか?」
「おまえが悩みだ」
 目じりを吊り上げた識に向かって、ルキーノは空いているほうの腕で肩をすくめた。
「識、オレとおまえは仲間だろ? 一緒にオルガンまで歩くんだろ? 一緒に考えて、一緒に歩く! だろ? だから、そういうのやめようぜ」
 識は苛立っていた。口をつぐんでしまうことも出来るが、それはただの八つ当たりだ。ルキーノは幼稚でデリカシーの無い奴だが、悪い人間ではない。助けられた恩もある。彼は自分と打ち解けたいと願っている。
 しかたなく堤防から降りた。自転車をはさんで並んだ。
「思い出してたんだ、いろいろ。住んでた街のこととか」
「ああ、帰りたいなぁ。オレが儀礼銃士の洗礼受けたときさ、母ちゃん泣いちゃってさぁ。しっかり仕事をしなさい、だけど死ににいくような仕事はするなって。オレのこと死んだって思ってるだろうなぁ。早く安心させてやりてえよ」
「家族が待ってるのか?」
「あたりめーだよ、おまえもだろ?」
「……親友がいる。きっと心配して待ってる」
 交互に動く自分の足を睨みながら、識は口をつぐむ。ルキーノは一人で自分のことを語り続けた。
 識は他の儀礼銃士と同じように、伊勢の連邦最大聖地で禊を受けて儀礼銃士となった。十八歳だった。
 パジェットに全てを打ち明けた、あの出来事をきっかけに識は立ち直り始めた。窓の外から視線を感じるのも、振り向けば逃げる母親の髪が見えるもの、徐々に回数が減り、見えなくなった。
 国に戻る、最後の夜。
 荷物をまとめ、自分が暮らした気配を消し去ったあとの寮で、眠たくなるまでまだ新しい火車を磨いていた。黒光りするブレードをなめし皮が拭きあげたその時。
 あの視線を、まっすぐに、顔の正面に受けた。
 窓を見る。
 夜を背景に、母親が窓の外に立っていた。
 見間違うはずが無い。母親は若いままで、死んだ、あのときのままの姿で、窓に額をつけていた。その花模様のエプロンも、髪も、微かに上気した白い頬も、すべてがそのままだった。
 母は硬直する識をよそに、ふいと髪をなびかせて去って行った。
 不思議なことに、表情だけを、まったく覚えていない。いや、その時も見えなかったのだ。生きていたら絶対に許さなかったであろう危険な道へ進んだ息子を、母はどんな表情で見ていたのか。
 それだけが分からない。目鼻がついていたことは確かなのに。
 怒っていたのか。笑っていたのか。涙ぐんでいたのか。あるいは無表情でもいい。それでもいい。儀礼銃士になったことに対して、母はどう反応するだろう。それは立派な決断だと言って祝福するだろうか。みずから暴力に関わっていくことは愚かだと言って怒るだろうか。
 まったく予想できないことに、識は愕然とした。
 たった一人の家族、あれほど愛し育んでくれた母親のことを、自分はなにひとつ理解していなかったのだ。
 識は二度と、寮があるこの町に来るまいと思った。

 空が蟲の羽音に打ち震えた。
 ルキーノも識も同時に顔を上げた。音の方向の空は売店の列が遮り、見えない。だが近い。重い銃声が響いた。識は走り出した。
「ルキーノ、何してるんだ!」
 振り向いて、立ち尽くすルキーノに声をかけた。
「早く!」
 おいて走り出すと、しばらくしてついて来た。
 売店の向こうの通りは住宅地だった。ルキーノが服の中から小型の双眼鏡を取り出す。
 識は道路の先に、ランドセルの女の子を見つけた。
 心臓が跳ねた。
「さつきちゃん!」
 皐月が怯えて足を止め、角を折れて識からも逃げる。
「ルキーノ! あの子を追いかけろ!」
 火車の把手に手をかけて走る。皐月が来たほうへ。道は一層細くなり、その細い道を埋め尽くしてカマキリが待ち構えていた。凶悪な二本の黒い爪が、積雪に突き刺さっている。
 逆三角形の頭が識を見下ろした。胸の前に火車を構える。
 カマキリが脚に力をためる。腰を捩って火車を放つ。同時にカマキリが、跳んだ。火車が虚空を切り裂き、一本道を水平に遠ざかっていく。カマキリの影が頭上にのしかかり、識は走った。
 地を蹴って前方に倒れこむ。
 地面を転がり、膝で立つ。背後にカマキリの巨体が降ってきた。
 火車を受け止めながら立ち上がる……そういえば確かマンティスは、カマキリという意味だったと、思い出しながら。
 今度は空に向かって投げる。火車は識の意図に応えて、カマキリの頭上で動きを止め、急降下する。
 頭を潰した。青い炎が燃え広がり、すぐさまカマキリを覆いつくす。距離を取ろうとした識の足もとで、銃弾が跳ねた。
 狙撃されている。
 振り向いた識の目は、しかし、空をゆく蟲の影を見つけた。小さな点が、識めがけて大きくなってくる。
 もう一度、何者かが発砲した。
 まだ燃えているカマキリの横手に回りこみ、それを盾にする。燃え尽きた炭に刺さる火車を抜く。
 上空を睨んだ。
 透き通る翅。細長い胴体。蜻蛉だ。識が歯を見せた。眉がつり上がる。火車を構え、それを投げようとしたその時、甲高い音波が襲い掛かり鼓膜を刺した。
 蜻蛉がカマキリの向こうに墜落した。薬品臭が充満し、蜻蛉は、眼と眼の間から細い煙を立ち上らせている。薬を撃ちこまれた蜻蛉は、まだ翅で地面を叩いているが、じきに息絶えるだろう。
 狙撃者は?
 識は背を向けて全力で走った。その先に駅がある。駅前の喫茶店の角に飛びこむ。
 先客がいた。
 鋭い眼差しが識を射た。赤い肌の男が壁に身を寄せている。
「大丈夫か」
 右足を撃たれていた。となりに屈み、初めて男が脂汗を流していることに気付いた。顔をしかめ、きつく目を閉ざす。識は火車を拳銃に持ち替えた。
「儀礼銃士だな、ひとりか? 誰にやられたんだ?」
「仲間がいる」
 歯を食いしばりながらも、はっきりした声で男は答えた。
「おまえさんも儀礼銃士か」
 連邦や日本の人間ではない。
 正体不明の違和感が胸に吹く。なにかコミュニケーションの根本が間違っているような直感、最近別の場所でも感じた――昨日だ。ルキーノと初めて会話したとき。
「銃狩り……」
「あいつらを知ってるのか」
「連れから聞いたんだ、あなたと同じ国の人かもしれない」
「なんだって。なんていう奴だ? そいつも儀礼銃士か?」
「ああ、ライフル型の儀礼銃を持ってる」
「メルリだな! ルキーノ・メルリ、そうだろう」
 男は言った。
「俺はあいつの上司だ」
「上司」
 識はようやく、彼の階級を表す肩章の房の色に気付き、慌てて背筋を伸ばした。
 足音が駆けてきて、若い女が姿を見せた。黒い短髪、黒い瞳。目を見て同業者だと分かる。女は識を見て緊張したが、二人の様子を見、武器を構えはしなかった。
「フレーニさん、この方は」
「カマキリを殺ってくれた。連中はどうした?」
「ひとりは取り逃がしました。もうひとりは生け捕りにしようとしたのですが、失敗しました」
 黒服で身を固めているが、その黒色を更に黒くして血が飛び散っている。ナイフを使ったな、と思った。人を殺すほうのプロではない。けど慣れている。自分と同じ。自分の為に、人を殺せる。
「はじめまして。ありがとう、助かりました。行谷すずなと申します。第七枝から来ました」
 行谷が頭を下げる。識もお辞儀をした。
「名倉識と申します」行谷はまだ識の目をじっと見ている。「……第一枝から来ました」
 たしかマンティスがそう言っていたと思い、付け足す。行谷の眼差しが和らいだ。
「私の両親は第一枝からの移民です。どうぞ、よろしく」
「こちらこそ」
「シルヴァーノ・フレーニだ。同じく第一枝から」
 脛を撃たれ、それでもフレーニは壁に沿って立ち上がろうとした。すさまじい痛みだろうに――ついこの間撃たれた識にはわかる。手を貸そうとしたら、背後に重いものが落ちてきた。
 振り向いた識の肩が震える。
 女の死体が落ちていた。駅舎の屋根は雪が崩れ、血の筋が引かれていた。右肩から左のわき腹まで、きれいに体を切り取られている。
「さっきカマキリに持っていかれたやつだ。俺がどうにかしようとしたら、この様さ」
 フレーニの言葉の途中で識は恐ろしいことに気がついた。その左腕と頭部のない死体は、見覚えのあるスーツを着ている。
「奥村さん!」
「知り合いか?」
「はい」
「小さい女の子が一緒にいた。行谷、あの子は」
 行谷より先に、識が答えた。
「ルキーノに追わせています。かわいそうに、目の前でやられたのか……」
「いいえ、私たちが見つけたとき、彼女は既に死んでいました。もっともそんなひどい有り様じゃなかったけど」
「既に死んでいた……?」
「ええ。さつきちゃんが、おばちゃんは木の実を食べて動かなくなったって……」
 行谷が見ているほうを、識も見た。
 駅舎の脇に、ひっそりと、まだ若い常緑樹が植えられていた。識はそれに近寄って、赤い実をつけた枝を顔の前に引き寄せた。
「ピラカンサですね」
「毒なのか?」
「いいえ、食べて死ぬようなものではありません」
「おいしいの?」
 行谷を振り向いた。彼女はとぼけた顔をして、興味津々にピラカンサを見詰めている。
「えっ? さあ……」
「行谷、すまんがさっきの子とメルリを探してきてくれないか。儀礼銃士の男だ。俺が行きたいところだがこの様ではな」
 壁から背を剥がしてつんのめるフレーニを、慌てて駆け戻り、支えた。
「無理をしないでください」
「すまない。肩を貸してくれ。行谷、俺は彼を皆のところに案内する」
「わかりました」
 フレーニは割れた顎でピラカンサの若木をさした。
「食うなよ」
「食べませんよ!」
 失礼ですね、と付け加え、行谷は遠ざかった。

 ―選定されて剪定された人たちの章―

 結構な距離を歩いた。坂道をどんどん上っていくと、駅前よりも富裕な印象の住宅地へと、町は様相を変えた。つい先日手入れをしたばかり、そんな気配のある庭と玄関が、広くなった道を向いている。どの窓にも明かりがない。赤い空、その赤さを滲ませて折り重なる雪雲、そして人間には無関心にどこまでも広がる海が、坂の後ろにある。
「車が動けばいいんだがな」
 フレーニが言う。車もバイクも動かない、それは昨日、識もルキーノと確認した。他の機器は動くのに乗り物関係は駄目だった。そういえばこの町自体が大きな乗り物だったと思い出す。
「休みますか?」
「いいや、すぐそこだ」
 首にフレーニの重さを受けながら、手の甲で汗をぬぐう。顔を上げると、電線からミミズクが見下ろしているのを見つけた。
 豪奢な家だった。
 門をくぐると、家の一角が全面ガラス張りになっていた。その二階に暖色の照明が点っている。
 フレーニが、チャイムに手を伸ばした。短く押し、次に長く押し、続けて二度短く押した。しばらくして内側から鍵が開いた。
「おかえりなさい」
 出てきた女が識を見て動きを止める。ちょうど、玄関を塞ぐ形となった。
「ああ、いいんだ。彼は仲間だ……通してやってくれ」
「フレーニさん、怪我を」
「助けてもらってな。行谷もおっつけ来る」
 識はその家の二階に案内された。
 手すりのないアクリルの階段を上ると、ちょっとした広間になっていた。ガラスの壁の正面には、立派な枝振りの桜の木がある。今は葉の一枚もつけていないが。フレーニがソファに座った。
「横になったほうが……」
「いや、いい。見ろ。きれいに貫通してるだろう。……名倉、彼女は看護師の崔だ」
 脛を見せて笑うフレーニに、彼女は眉を八の字にした。
「笑いごとじゃありませんよ」
「手当てしてくれ。先に彼をみんなに紹介したい」
 広間の先の廊下から、人の気配が集まってきた。多い。やがて識を取り囲み、十人近い男女が広間に集合した。ちょうど行谷も帰ってきた。
「駄目でした」
 行谷は防寒具もとらぬまま、フレーニに報告した。
「それらしき男は見つけられませんでした。さつきちゃんも」
「逃げたな」
 崔に鎮痛剤を射たれながら、フレーニは冷たく笑った。
「逃げたに決まってる。あいつは臆病だからな」
「そんなこと……」
「名倉は奴といつ知り合った?」
「昨日です」
「じゃあまだあいつのことを知らないんだ。騙されるなよ、メルリはとんでもねぇ口先野郎だ。いつもチームを引っ掻き回して何べん苦労させられたことか」
 声に憎しみを感じ取り、識は行き場のない気持ちになる。ルキーノの上司というのなら、もう少し思いやりがあってもいいだろうに。視線が気になった。行谷と、この家の男女らが識を見ていた。ひとめで同業者と分かる者と、そうでない者とがいる。
「銃狩りの連中は知ってるな」
「発砲してきた奴らですね」
「そうだ。俺たちは奴らに対抗するために集まっている。お前と同じ儀礼銃士もいれば、そうでない者もいる」
「儀礼銃士、多いですね」
 識が口にした疑問が、フレーニには意外だったらしく、身を乗り出して「何を言っている?」ときた。
「どうしてでしょう。儀礼銃士はそれほど人数の多い職業でもないのに、吸い寄せられるようにここに集まってきている」
「お前、志願してきたんじゃないのか?」
「志願?」
「俺たちは事故で来たが、他の彼らは違う。行谷もだ……てっきりそのクチかと」
 その行谷が口をはさんだ。
「フレーニさん、いいですか? さっきの女の子、まるで蟲のいない世界から来たような口ぶりでした。あの……名倉くんって呼んでもいい?」
 行谷が口を挟んだ。
「はい、もちろん」
 行谷が笑った。性格のよさと明るさをよく表した笑顔だった。
「意図的なものを感じます。名倉くんが来たことにも、あの女の子のような存在がきたことも」
「蟲のいない世界だと?」
「ええ、確かに。あの子は蟲の存在を知らなかった。ありえないことです」
「待ってください、いいですか?」
 識はこらえきれず、口を出した。
「志願したって、どういうことですか? あなたたちはこの町がどこか、知っているのですか?」
「どこか……」
 行谷が難しい顔をする。
「どこ、って言うと分かりづらいなぁ」
「それじゃあ、この町はどこに向かって動いてるんですか? フレーニさん、ルキーノと別行動を取ることになったのもそれが原因でしたよね?」
 崔に手当てを続けさせながら、渋い顔を識に向けてきている。苦痛の色は薄れている。考えこんだまま、口を開いた。
「名倉」
「……はい」
「ここが大きな乗り物なら、どうして海がある?」
 背後に影を感じた。
 振り向く暇も無かった。背中に熱と衝撃を受け、視界が白く染まる。窓が割れる音と、驚愕の声、大きな力で自分の体が弾き飛ばされたこと、それを理解する前に意識が吹っ飛んだ。

 アラームと、火がついたような全身の痛みで識は目を覚ました。
 まぶたを開く。体じゅうをひどく打ちつけたようで、なかなか動けない。難儀してどうにか起き上がると、手すりのない階段の下にいることを理解した。
 二階の小さい柵を乗り越えて落ちてしまったようだ。
 床に手と膝をつき、うなだれて痛みがひくのを待った。特に首の痛みがひどい。頭も痛い。吐き気がする。
 電子音のアラームが鳴り続けている。誰も止めに行く気配はない。首に手を添えながら頭を上げる。首を捻ることができず、そのまま体ごと振り向いた。
 ガラスの壁を血の滝が流れていた。
 アクリルの階段を血が伝い落ちてくる。
 気付けばすぐそばの床も、柵から滴った血が溜まっている。
「行谷さん?」
 識はよろめきながら立ち上がった。
「フレーニさん? 崔さん」
 返事は無かった。
 幸い、どこも折れたり捻ったりはしていない。
 恐怖心に対抗するため、むやみに大きな呼吸をしながら階段に足をかけた。爪先の運びを選んでも、靴下が血を吸ってゆく。冷たいようなぬるいような温度に足を浸しながら、ガラスの壁に手を添えて上る。自分の呼吸音と一階のアラームのほかに、血のしずくの音が聞こえている。階段の上に、黒い靴下の足が見えた。
 誰かがうつ伏せに倒れている。
 行谷が死んでいた。目を閉じ、口を開けて絶命している。見ずとも、死んでいると知れた。顔は血まみれだ。
 階段の途中から見えたうつ伏せの足は行谷だった。
 下半身はうつ伏せ、しかし上半身は仰向け。
 腹がよじれている。捻られたビニール人形のように。破れた腹から中身がこぼれている。それは人形ではない。ついさっきまで話していた人。名倉くんって呼んでもいい、と問いかけた女。
 無惨な死なら見慣れている。なのに突き上げる感情の衝動があった。職業意識の鎧を行谷の亡骸は揺さぶる。識は必死に耐えた。
 二階にいた者は誰もがそのようにして死んでいた。
 首を、四肢を、無理矢理によじられて床に転がっていた。ガラスの壁に丸い穴が開いていた。そこに、フレーニをはじめ四人が首を突っこんでいた。
 巨人が壁に穴を開けて、腕を差しこんだみたいに。その腕で中の人間をよじって遊び、ただなんとなく穴に並べて飽きて立ち去った、そんなふうだ。
 まったく理解不能の虐殺であった。ただ、自分がとんでもなく幸運であったと理解するには十分すぎる光景だった。階下に叩きつけられる激痛と引きかえに得た幸運。首に手を添え、ふらふらする右足を、ふらふらする左足で支えながら一階に下りる。
 靴下を脱ぐと白い素足も血で色づいている。
 目覚まし時計のアラームだけがいつまでも鳴り響いている。
 音の出所へとさまよう。
 廊下の先の開け放たれた襖の奥から、それは聞こえていた。広縁がある和室の文机に、ボール型のデジタル時計が置かれていた。てっぺんのボタンを押す。アラームは止んだ。
 時間表示が消えて、表示板に黒い線が踊る。
『オ』
 唐突にカタカナを形作る。
『ル』
 見せ付けるようにゆっくりと、時計は文字をあらわしてゆく。
『ガ』……。
『オルガレータヘヨウコソ』
 それきり時計はただの時計に戻った。識は振ったり、軽く叩いたりしてみたが、時計はもう文字を表示しようとしなかった。
 他に何もなかった。首を押さえながら廊下を戻る。ルキーノを探さなければ。血みどろのホールに戻ると、玄関が開いた。
 ルキーノがそこにいた。
「識!」ただならぬ識の様子を見て、ルキーノが大声を出した。「どうしたんだ、識?」
「俺なら大丈夫、なんでもない……ルキーノ、どうしてここが分かった?」
「どうしてって、ここしかないじゃないか。それよりお前」
「フレーニさんと会った。シルヴァーノ・フレーニ、儀礼銃士、ルキーノの上司だって」
 家の奥を指差す。ルキーノは土足のまま上がりこんで、走って行ってしまう。
「待て! ルキーノ!」
 追いつくと、階段の上に立ち尽くすルキーノの背が見えた。
 ルキーノは、後ずさり、ついで身を翻すと転げ落ちるように戻ってきた。
「おい! 何だよ、アレ!」
 激昂して識の両肩を鷲掴みにし、前後に激しく揺さぶった。目の前に幻の光が炸裂し、振り払う。その勢いで倒れた。目覚めた時の強烈な頭痛と吐き気が蘇り、額を押さえた。
「……悪い、大丈夫か?」
 識はしばらく返事もできず、うずくまって頭痛が引くのを待った。隣に屈んだルキーノが、次第に混乱をしずめて、今度は違う恐怖に支配されていくのを肌で感じ取れた。
「悪かったよ、識、オレが悪かった。そんなに具合がひどいとは思わなかったんだ。しっかりしろよ」
 具合はひどいが、死にはしないと思う。安静にさせてくれれば。
 ルキーノが取り乱すのも無理はない。
 自分だって、もしあそこで死んでいるのがパジェットだったら……。その恐ろしい想像に、居ても立ってもいられなくなる。
「一緒にきれいにしよう」
 目を開け、言った。
「できるだけ遺体をきれいにして行こう……あのままじゃあんまりだ」
 ルキーノが立ち上がる。そのまま言葉がないので識も膝を伸ばし、立ち上がった。ルキーノは、見開いた目の中の瞳を凍りつかせ、唇をわななかせていた。
「ルキーノ、二階に」識は焦れて、口調を強くした。「ルキーノ!」
「いやだ」
 ルキーノは激しくかぶりを振るだけだった。大柄な体が恐怖に震え、いきなり識の二の腕をつかむと、玄関にむけて歩きだした。
「はなせ!」
 そのままぐいぐい引っ張って行こうとする。
「冗談じゃねえよ、こんなとこに居たら殺されちまうよ!」
「フレーニさんは仲間だったんだろう!」
「これ以上いたらオレらが」
 さびた重機の軋みのような異音が、声を打ち消した。
 階段を振り向くと、二階の柵の上に、白黒の斑の蟲が見えた。ルキーノが膝つきでライフルを構えた。蚊だ。ろくに狙いもせずに二度撃った。距離がなく、的が大きいからそれでも命中する。ルキーノはまだ撃ち続けた。衝撃で二階の床が崩れ落ち、ガラスがただれ、蟲は完全に火球に呑みこまれて消えた。行谷の骸がどさりと転がるのを見、ルキーノの手を押さえた。
「もうやめろ!」
 スプリンクラーが作動して、大量の水が頭上に注ぐ。視界が水煙で塞がれ、その奥に更に床から盛り上がる蟲の影が見えた。どこから来ている? 床下か? いや、そんな気配はない。
 水煙を透かして、庭に立ち上がる人影が見えた。識の目が吸い寄せられる。
「フレーニさん?」
 ルキーノが銃撃を止める。
 人影の背中から四枚の翅が咲いた。頭が割れて瘤状に盛り上がり、体型が丸みを帯びる。
 それが蟲の出所だった。
 崩れた階段の下からも死者たちが立ち上がる。ルキーノが尻餅をついた。掌で後ずさる。その背中に手を当てた。
 火車を取る。
「ルキーノ、戦おう!」
 スプリンクラーの勢いが落ちる。その水に負けじと、火車が青い炎に身を包む。ルキーノが庭に向けてライフルを撃ちまくった。何発も。何発も。何かを大声で喚き散らしながら。

 ―オルガンを目指す章(二回目)―

 スプリンクラーの水溜りに沿って女が横たわっている。まどろむように、水が芳香を放っているように、いとおしげに。
 その顔は黒く硬い皮膚で覆われ、光沢を放つそれはおもちゃの被り物にも見えるけれど、人間の皮膚を裂いて現れた蝿の頭部である。
 水面を愛でるように投げ出された手は、不自然に膨らんでおり、棘とも毛ともつかぬものに覆われている。
 男が倒れている。うつ伏せ。背骨がむき出しになっている。
 背骨は太く、棘が出ている。生まれたばかりのまだ縮れた翅が、水浸しになってしおれている。
 もはや遺体をどうにかしようとも、行谷を探そうとも思わなかった。とてもそんなことは出来なかった。
「識、出よう」
 ルキーノが言った。
「出よう。もういいだろ」
 ルキーノは識など眼中にない様子で、さっさと玄関を出る。

 外に出て、ルキーノが何故この家にたどり着けたか分かった。
 家々がなくなっている。
 住宅街のはずなのに。
 丘の上になっていた。
 家の下には森が広がり、その中の一本道の雪に、何人ぶんもの足跡が刻みつけられている。ルキーノは当たり前のように森の坂を下っていく。体じゅう、とりわけ首と頭が痛むのを堪えて後ろをついていく。その背中が次第に遠ざかる。ルキーノは憑依されたように歩き続け、振り返ろうともしない。
「ルキーノ」
 逃げたに決まってる。嘲るようなフレーニの言葉を思い返す。あいつは臆病だからな。
「ルキーノ!」
 呼んでも、ルキーノは土が抉れてできた段差を飛び越え、カーブを曲がって行ってしまった。
 もういい。勝手にしろ。
 傍らの木に手をついて、呼吸が整うのを待った。その木には赤い実があった。ピラカンサだ。口に入れてみる。しわい。口中の水分が蒸発した気になり、舌を拭くようにしてハンカチの中に出した。死ぬようなものではない。腹痛すら起こしそうにない。
 倒木に腰を下ろした。頭が痛くてたまらない。記憶にないが、本当にひどい打ち方をしたのかもしれない。考えることが、いや、受け止め方さえ分からないことが多すぎて、混乱してしまいそうだ。起きたことを順に遡る。
 通ってきた道が坂道になっている。死んだ人間が蟲になった。ありえない方法で、仲良くなれたかもしれない人たちが殺された――その間自分は寝ていて何もしなかった。
 目覚まし時計から放たれた謎のメッセージ。
 どうして海がある、とフレーニは言った。
 行谷は皐月のことを、蟲のいない世界から来たようだと言った。
 これらの項目に共通点はあるだろうか? ありえないということしか。いや、あったのだ、目の前で。無惨に死にたくないのなら、分からないでは済まされない。頭を振り絞っても内部の脈動が酷くなるばかりで、一向に知恵が湧いてこない。
 荒れる冬の海の声が、ここまで聞こえてくる。
 揺れた。
 松の木に手を添える。体が引っ張られた方向、海のほうへと振り返やった。
 加速した。確かに。
 すごい足音をたて、ルキーノが戻ってきた。急斜面をものともせずに駆け上がると、息を切らして識の前に立った。
「ごめんな、識! 大丈夫か? 置いてくつもりじゃなかったんだ。歩けるか? 悪かったよ、本当に」
 顔の前に手を差し伸べてくる。
「この下に公道があるからさ」
 その手を借りずに立ち上がり、服を払う。無言のまま坂を下りた。間もなくあの、黒くて硬い道路に出た。今はその硬さに安心できた。
 公道は森が開けており、海を一望できる。
 ルキーノが黙って双眼鏡を寄越す。彼が指差す方向に、双眼鏡を向けた。
 小さな心臓が鼓動を早め、言葉を探せず、ただ識は唾をのんだ。
 漆黒の海のただなかから、あのオルガンが折り重なる雲へ向かって聳えていた。
 陸地はオルガンに吸い寄せられるように、足もとで動いている。
Comment

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
Trackback
Trackback URL
Comment form













管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

黒実 操

Author:黒実 操
「竹の子書房」に参加中。
www.takenokoshobo.com/index.php
無償版電子書籍がたくさん!

管理人ツイッター
http://twitter.com/kuromimigen

最新トラックバック
検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。