お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

夢見る病気 みちしるべの〈4〉

〈ご挨(ry
こんぬ(ry


〈目次(みちしるべ)〉

序章 眠れる人は眠れ  1、2
間章 エヴェレット船団

第一章 Deus ex Machina(第一枝 冬) 1、2、3、4
第二章 Reginita(第十二枝 春)
   第一話 風の季節 1、2
   第二話 ツユクサに銃口を  1,2,3
   第三話 戦場にギターはいらない  1,2,→いまここ←、3,4
   第四話 王国  1,2,3
   第五話 死者の国の生者  1,2

断章・オルガレータへようこそ Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ ~
〈あらすじ(今北産業版)〉

少年が本と箱を持っていたが少年は消滅。
いろいろあって本はパジェットという男が持っている。
箱は行方不明。


〈コラム 逃避あれこれ〉

 こんばんは。スランプのため更新のお休みをいただいております。しばらく小説から離れたらよくなると思います。読んでいてくださる方、申し訳ないです。立ち直ったらまた投稿を再会させていただきます。クロミミさん、よろしくです。

 さて、私はもともと逃避傾向のある人間だが、このところ書けないストレスから逃げるためにいつの間にか数独をやっているおります(そういえば、こないだ電車で隣り合った席のサラリーマンがナンプレ雑誌の数独を四問同時進行で解いてて、なんかイラッと来たw。そりゃどうやろうと人の勝手だけどさww!)。

 長編小説を書くに当たっては、毎回違うテーマを取り上げて、勉強して書くようにしている。スランプになるのは新しく勉強した内容が処理されるのに時間がかかるからなので、長編小説を書くと必ず途中で一度スランプになる(一度身についてしまえばこっちのものですが)。
 21のときに書いた長編小説では神道について取り上げた。それが、こちらのブログにテスト投稿をさせていただいた「空漠の地平」という小説だ。おかげで正しい参拝の仕方も身についたwし、三種の神器の一つである剣が奉納された某神社(分かる人にはわかると思う)にて巫女のアルバイトをするという貴重な体験もした。そのさい神主さんたちと仲良くお話をさせていただいた。

私「テレビとかでよくぅ~神社で心霊写真のお祓いをしてもらったとかって見るんですけどぉ~そういう参拝客の方って本当にくるんですか~??」
神主さん「来るわけね~よいね~よそんな参拝客www心霊写真とかwwwww」

 一部を要約するとこんなお話であった。まあこんなモンか。
 あとこの神社の、一般者が通れない通路に「大ネコ注意」の張り紙があった。こちらは謎のままだ。猫又でも出るのだろうか。
そして空漠の地平を書いているときにはまった逃避がカービングだった。
 ミャンマー産の翡翠の原石を取り寄せて穴を開けたり勾玉を彫ってみたりしていた(中二病精神が実に良く刺激される趣味であったw)。小説を書いてて「あーもう書けねー!!」と思ったら翡翠をこう、ガーッ!! と。この時期は鉱石収集にもはまった。ミネラルショーの会場で超イケメンのパキスタン人のお兄さんが何故か私を気に入ってくれてラピスラズリのペンダントトップをくれた。
 悪い気はしないな、うん!
 そして集めた鉱石を眺めるためにまた小説を書くのが遅くなったという。

 だがそれでも期日までに書ききることができた。
 最後の方は寝ずに書いた。
 「夢見る病気」も最後まで書ききることができる。たぶん最後の方は寝ずに書くことになると思う。

 挫折した小説もある。18~19の時に書いた「Ghost & Sun」という小説だった。企画というか、構想だけはやたら素晴らしかった。今見返してもその点だけは本当に素晴らしい。
 「夢見る病気」は時空、「空漠の地平」はオカルト(伝奇)、「Ghost & Sun」の時に新しく学ぶテーマとして選んだのはクラシック音楽と現代カルトだった。挫折した経験から、新しいテーマは一つだけにしておくよう自分に言い聞かせている。

 その「Ghost & Sun」、いつ再始動できるかわからないし、その時は当時書いたのと全く違う姿になっているだろう。
 その序章と第一話をこの場所を借りて供養したいと思います(しかし年月経てば文章もかわるなぁ)。

 内容は「平原の黒い太陽」という章と「永遠の朝」という二つの章から成る。
 「永遠の朝」の主人公はバイオリン弾きの高校生、平坂陽俊(あきとし)。叔父夫妻のもとで暮らす彼のもとに、奇妙な小説の断片が送りつけられるようになる。その小説のタイトルは、平原の黒い太 陽。
 「平原の黒い太陽」の主人公は、音大生の青年、平坂陽俊(ようしゅん)。記憶をなくした陽俊が目覚めたのは、巨大カルトが統括し、別世界からの来訪者を「怪異」と呼んで差別する、見捨てられた国北日本だった。獏坐楼と呼ばれる館に保護された陽俊は、目覚めたときに持っていた手帳に奇妙な小説が書き綴られていることに気がつく。そのタイトルは、永遠の朝。
 母性とは何か、信仰とは何かという疑問が「Ghost & Sun」の根底にはあった。そして気がつけば、今でも、その問いは私の小説の中にも流れている。
oonuko






〈Ghost&Sun 「永遠の朝」序章〉


朝になったら何かが始まるみたい
星々の谷間に鐘が鳴り響くの
ああ、あれは
昔誰かが持って行ってしまった教会の鐘の音だ










 事務員の池上さんが演奏中入って来た時から、俺には用件が分かっていた。池上さんは演奏を中断してまで伝えようとはしなかったが、十分不愉快だった。この不愉快さの理由もきっと、わがままだ、人の気持ちの分からん奴だと言われるようなものだろう。
 俺たちはストラヴィンスキーの『火の鳥』をあわせ始めたばかりだったが、イズミヒデオは四十五分池上さんを待たせるよりも、自分から演奏を中断した。ひどく不機嫌そうだったが、耳打を受けて急に深刻な顔になった。
「平坂、少し外しなさい」
 俺はわざとゆっくり立ち上がり、バイオリンケースを開いてバイオリンと弓をしまった。それから譜面台の上の楽譜を整理し始める。一枚一枚。音楽室は川底のように静まり返っていた。八月の正午の黙祷を思わせる静けさだった。なのに、何だ何だと仲間たちの視線が騒がしい。
「平坂」
 俺があんまりもたもたするので、イズミヒデオが声を掛けてきた。いいんです、俺は言った。分かっていますから。音楽室を出た。
 こんな気を使ってもらいたくなかった。俺は特別なんかじゃない。目立ちたくなんかない。
 案の定、事務室では下らないワイドショーを見せられた。
 森下秀司、上告取り下げ。
 死刑確定の速報だった。できるだけ早い執行を望む、だとさ。全く。
――戸惑っている。どこから話し始めればいいのかよくわからない。そもそもこれが将来誰の目に触れるかもわからない。でも、お前が……そこにいるのなら……これを読んでいるのは、あの一連の事件について真実を知りたいと思っているからだろう。
 だったら教えてやる。

 夢に出せるほど経験は自由だ。
 あの十五歳の八月、そもそも東京の私立高校受験を間近に控えた俺には、遊んでいる余裕などないはずだった。なのにどうしてあんなことをしてしまったのか、今でもわからない。敬吾と一花(いつか)と三人で、廃墟になった『星の子寮』を見に行くことになった。
『村』は電車とバスを乗り継ぐこと四時間半、更に歩くこと一時間半、長野と群馬の県境の山中に、俺が九歳の時のままの姿で打ち捨てられていた。
 蝉がたくさん鳴いていたはずだ。でも俺の記憶では静まり返っている。『村』の入口の立て看板(なかよしこよしのイキイキこども村)。五角形をした『こどもロッジ』。俺たちは息を切らしたまま星の子寮へ急ぎ続けた。初等部の寮は十一棟あって、小学一年から六年までの計九十六人が、大体十人くらいずつに分かれて暮らしていた。その内十棟は、教団の資金が潤沢だった頃に建てられたためか、観光地のペンションのような洒落た造りになっていて、一棟だけ奇妙だ。それこそが俺たちの住んでいた寮だ。
 初等星の子第十一寮――それだけは木造の日本家屋だった。平屋だが相当立派な建物で、戦前からある建物だと聞いた覚えがある。今はもう縁側も黒く腐って、雑草の侵食を受けている。庭に面した広い窓も、砂埃や風雨のせいで茶色っぽく変色し、後はもうひたすら朽ちゆくだけだった。
 教祖が逮捕され、かなりショッキングな事件だったから、多くの報道陣が村に押し寄せた。村が本当の意味で賑わったのは、俺の知る限りその時期だけだ。あれから一年もしないうちに、廃墟になった『村』もどうせ滅茶苦茶に壊されてしまっただろうと思っていた。でも杞憂だった。他人として来て理解した。ここは例えば肝試しとか、そういう軽いノリが通用する場所じゃないんだ。まあとにかくそんな訳で、『村』はきれいに保存されていたし、自分が住んでいた寮を忘れてしまうわけなどなかった。
 一花がポケットから寮の鍵を取り出した。本当に持ってきたのだ。鍵穴に差しこまれた鍵は、密かな期待を裏切って、きれいに回転した。
 広い土間、埃の積もった下駄箱。土の壁には額縁入りの、「誓いの署名」が掛けられたままだった。のちにマインドコントロールの象徴として、カメラ越しに幾千万の人の目にさらされた。
「なぁ、アキ……あんなのあったか?」
 一花が言ったのはその署名のことじゃない。玄関の正面、つまりL字型に曲がる板張りの廊下の正面に、黒い人形(ヒトガタ)の染みが浮かび上がっていた。左手の和室は廊下に面する襖が開け放たれている。茶色い窓から差しこむ午後の光を一身に受けて、直立姿勢の人形は、右斜めに傾いていた。思わず一歩後ずさって、俺は首を横に振った。なかったはずだ。あんなのあったら忘れるはずがない。
 一花は勇敢にも土足で上がりこみ、指で人形をなぞり始めた。そしていきなり人差し指の背中で叩き始めた。
「アキ、敬吾、音が響いてる。空洞だよ!」
 一花はたまにこういう突拍子もないことをする。キャミソールから剥き出しになった肩に、汗と鳥肌を同時に浮かべるくらいなら、やめて置くがよかろうに。そしてまた敬吾がやめておけばいいのに、大きな窓の談話室に駆けこんで、戻って来た。手には工具箱を握りしめていた。
 俺と敬吾で喧嘩になった。しかし一花が無言で金槌を手に取るので、俺が負けたことになった。
 一花がいきなり頭のど真ん中――もちろん人形のだ――に穴を開けた。三人で取り掛かれば、俺はかなりイヤイヤだったけど、二十分で人形はくりぬかれた。現れたのは地下への階段。
 時刻は午後二時十五分。
 一花の奴め、右手で懐中電灯を握り、左手で俺の服の袖を握りやがった。俺の左手は敬吾を握り締めた。
 逃げるわけにもいかなくなった。
 コンクリートの無骨な階段は、狭くて急だが短かった。しばらくすれば下の空間が、地下なのに明るいことが分かってくる。一花はライトを消した。はじめはわけがわからなかったけど、現れたコンクリートの部屋に窓がついていたのだ。崖だ。寮の背後の崖、その下に回って見たことなどなかった。崖をくりぬいて窓と、換気扇があったのだ。
 そこもコンクリートの部屋だった。部屋の隅に、小窓付きの鉄扉が一つ。奥にも部屋があるんだ。中央の壁に二つ並ぶ鉄扉は、人が通るには小さく、文字通り敷居が高い。傍の机にはロウソクと線香が箱ごと散乱している。横倒しになった巨大扇風機。錆びたストレッチャー。ストレッチャーの台座にはトングと塵取りが置き去りになっている。
「これは火葬場じゃないか――」
 誰かが言った。あるいは俺かも知れない。
 家に帰ると、東京の叔父夫妻から電話があった。君を受け容れる準備はできたよ。いつでもおいで。
 俺はそのつもりだった。こんな絆、勝手に腐れ落ちてしまうがいい。こんな風に悪魔が囁かなければ。
『なんなら纏めて読んでみるか?』

 叔父さんは大学の助教授。洋子おばさんは専業主婦。一人娘の由希子ちゃんは三歳。新しい、けれど血の繋がった家族。新しい家。新しい学校。何もかも申し分なかった。ただひとつ、郵便受けで待ち構えていたそれ以外には。
 最初、その物語は一枚の葉書、たった一行の言葉で始まっていた。
『平原の黒い太陽』
 差出人不明のその手紙は今でも俺に届く。ある時は大量に詰めこまれた紙束に。ある時は葉書に数行。雑に書き連ねられ束ねられたそれは、何がしかの物語だった。捨ててしまえばよかったのに、何故かできなかった。いつまで続くか分からないのに、ひどく無意味な気がしたのだ。俺は雑な物語に相応しく、それらの紙も部屋のクローゼットに雑に積み上げておくだけだった。クローゼットが溢れ始める頃、捨てるか、向き合うかの究極の選択を迫られた。
 俺は捨てなかった。
 物語の狂気じみた編集を、俺は一人始めた。俺の安眠と引き換えに、誰かの意思の深淵を汲み取ろうとした。
 作業を始めてからだ。眠れば夢に出る。
 八月、沈黙の蝉時雨。俺はたった一人で寮の引き戸を引く。壁はど真ん中がぶち抜かれ、階段が地下へ伸びている。
 もう嫌だ。何も見たくない。
 俺は火葬場の入口に立っている。火葬場のストレッチャーに横たわっていた女が、ごろりと顔を俺のほうに向ける。黄ばんだ肌。目の下にくっきり浮いた赤黒い隈。落ち窪んだ眼窩。痩せ細っている。天然パーマの髪はだらだらに伸びきっている。
「見ないで……」
 女の口から辛うじて聞き取れるだけの声が洩れた。
「見ないで……見ないで……」
 遺体を焼く窯の鉄扉が内側から開け放たれて、伸びてきた異様に長い、肩も肘もない二本の腕がストレッチャーの足を掴む。
「見ないで……見ないで……私を見ないで……アキ……見ないで……」
 長い腕はストレッチャーをずるずる引き摺って、ガタン! と斜めに持ち上げた。遺骨と遺灰を集めるためのトングと塵取りが床に落ちて音を立てた。
「お願い……見ないで……私を見ないで……」
 斜めになったまま女は俺を凝視し続ける。鉄扉に呑みこまれゆくストレッチャーの動きが止まり、女の身体だけがズッ、ズッ、と、鉄扉へ消えていった。
 ストレッチャーが勢いよく放り出された。鉄扉が音を立てて内側から閉ざされると同時に、ストレッチャーは向かいの壁にぶつかって押し戻された。
 わずかに埃が立った。それも静かになる。あとは窓から八月の陽射しが降り注ぐばかりだ。俺は睫毛に付いた汗も拭わずに、その場に立っている。

(平坂陽俊(あきとし)氏は、二〇〇×年×月×日、本書の完成を待たずに逝去されました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
――編)





〈Ghost&Sun 「平原の黒い太陽」第一話〉






平原の黒い太陽 第一部〈底流〉

  第一話 天使のトランペット

―1―

 握りしめたかったのかもしれない。この鼓動を。この言葉を。翻る無数の白い手が、全てを暗い海へと引きこんだ。
 鐘の音だった。鐘の音を掴み取って耳もとへ持ってこようとしていた。
 ――う……るさい……
 白と茶の視界。どうやら自分は薄目を開けているようだ。彼はそう思った。
 ――うるさい……それに寒い。
 唐突に意識が澄んだ。彼は体を震わせて目を開けた。
 雪が降っている。茶色く見えたは、元は白かったであろう肩を寄せ合う建物の壁で、その斜めに下がった屋根の上にはわずかな青みを帯びた鉛色の雪雲が、重たげに折り重なっている。路地に座りこんだままぼんやり空を見上げていると、またどこかで低く鐘が鳴り響いた。
 頭の底から、重い音律が聞こえてくる。ピアノ曲だ、俺の専攻はピアノじゃないのに。この曲は何だっけ? そうだ、ラフマニノフのピアノ前奏曲第一番……。
 ――違う。
 俺が思い出したいのはそんなことじゃない。
「俺はっ」
 鳴り渡る鐘。その上誰かがスピーカーで喋り始めたらしい。ハウリング音が負けじと覆い被さり、頭の中で幾重に響く。最初の鐘の音が消える時、今度はどこからか、爆発音がふってきた。
 これはもう、ピアノどころじゃない。音の地獄から危機を聞きつけて彼は立ち上がろうとした。もたれ掛かっていた壁から背中を離すと、首筋から尻に向かってひび割れるような痛みが走った。そして彼は今まで腕に抱いていた物に、ようやく気付く。バイオリンのケースだった。そして畳んだ譜面台と楽譜を持ち運ぶ為の、黒い筒状の鞄。自分の物に違いないと、彼は何故かそう確信した。
 うっすらと雪の被さる土に投げ出された彼の右手は、閉じかけた右手に手帳を持っていた。
 針のようなもので引っ掻き傷がつけてある。文字だった。
『永遠の朝』
 ――俺のじゃない。
 水色の合皮の、あるいは日記帳かもしれない。茶色のベルトに金色の鍵がかかり、おもちゃのような飾りの鍵だが、彼の問いかけを予め拒否して閉じていた。
 ここじゃない。俺の家はどこだ? ここじゃない、こんな所にいてはいけない。――帰らないと。でも、何処へ。ここは何という町だろう。俺は一体?
 ハウリングが消えた。
 轟音ももう聞えない。
 ――また鐘が……鳴り響く。腹に落ちる重低音の厳粛さに、彼は初めて気付き、居ても立ってもいられなくなる。
 彼は体中の痛みを忘れて今度こそ立ち上がった。バイオリンと楽譜鞄を左肩にかけて背中に払う。遠ざかれと本能が告げていた。曲がりくねって続く坂の路地を、左右見回して下りを選ぶ。
 上り坂に背を向ける刹那、黒い塊が視界に入った。
 首だけ軽く捻った彼は、気がつけばきびすを返して、それに全身で向き合っていた。
「ヨウシュン!」
 狭い階段の道を叫びながら駆け下りてくるのは、全身黒尽くめの……十代半ばくらいの少年だった。闇を塗ったようなその姿で、少年は足を止め、立ちはだかって背後から右手を出した。二人との距離はまだ十段ほどはある。が、彼の気持ちは一瞬で、少年の炎を宿したような大きな瞳に封じこめられていた。
 少年は楕円形の塊を握りしめていた。と、左手で金属のピンを抜いた。
 ――爆弾だ!
 彼は顔を背け、目をきつく閉ざして体を強張らせた。少年は爆弾を投げただろう。しかし何故だか、火薬の炸裂音には聞こえなかった。ファンファーレに似た、フィナーレにも似た、高らかなトランペットのようだった。
 彼が吹き飛ばされることはなかった。闇の中、再び音の拷問を受ける。背後から生温かい、砂塵の風が吹きつけた。
 最後に何か、カシャンと軽い物が瓦礫に落ちた。
 恐る恐る目を開ける。
 爆弾少年は、腰に細長い物を差している。刀の鞘だと思った時には、少年は柄に手をかけていた。そして両腕をピンと張り、白刃を彼に突きつける。
 少年は怪我を負っていた。顔の向かって右半分は煤で汚れ、左半分は一体どうしたというのか、擦り剥けた頬に血が滲み、破れた袖から剥き出しになった左腕は、火傷を追い真っ赤になっている。
肩を使って荒い呼吸をしていた。
「やっと……見つけた……」
 声は暗いが柔らかかった。こんな場合でなかったら、きっと優しい子なのだろう、と痺れる頭で考えた。少年のことを知っている気がした。
「おまえ……」喉が渇いていた。空気が通るたび痛む。
「おまえ、伊織か……?」
 どうしてそんなことを言ったか分からない。彼は混乱を追い払おうと頭を振る。やっぱり知らないぞ、こんな奴。
「今度こそ」少年は低く囁く。「殺してやる……!」

呉羽(くれは)倫彰(みちあき) 認証コードD-21241007011Ac
1985年10月7日生 七歳  男性 第四区『緑』第一小学校三年生 B型

 あまり足音が大きいと、余計な不安を抱かせてしまうかもしれないと思った。子供たちの引き上げた廊下はそれでなくても音がよく響く。ようやく和らぎ始めた秋の日差しが慰めるように窓から降り注いでいる。
 教室に一人残っていた児童の横顔は、窓の向こうというよりも、どこか別の世界を見ているようだった。一目で近頃問題になっている児童は彼だと理解した。森下秀司は教室の前で立ち止まってから、足を踏み入れた。
「どうしたんだい?」
 少年の机の前に来て、森下は出来るだけ優しく問い掛けた。幼い少年は顔を森下に向けようとはしなかった。横顔はひどく疲れて見える。
「呉羽倫彰くんだね。先生は隣の、二組の担任の森下だけど、君のことは何て呼ぼうかな?」
 反応はない。かといって帰ろうとするでもなかった。時折ゆっくり瞬きをするばかりだが、それがなければまるでよく出来た彫刻のような子だった。
「君のことは、君の担任の島田先生からよく聞くよ。とても――そう、頭のいい子だってね」
 ……。森下は息を吸って、彼には小さすぎる椅子を引いて腰かけた。
「先生は赴任してきたばかりで君のことはよく知らないけど、以前の職場では君のお母さんと一緒だったんだ。君はどうもこの所、学校を休みがちだね。よかったら事情を聞かせてくれないかい」
 少年は木立の葉陰に思いを馳せ、森下を無視し続けた。
「どうして口を利いてくれないんだい? 先生ならきっと、君の話を分かってあげられる」
 初めて少年の手が動いた。制服の胸ポケットから小さなノートとペンを取り出し、机に広げた。どれも最小限の動きだった。
『大人なんてどうせ同じ』
 森下はノートにさっと目を通し、それから同じ視線を少年に注いだ。しつこいくらい、彼が視線から逃れようと何か行動を起こすことを期待しながら、青白い顔を見下ろし続けた。
「君がどんなことを言っても先生は君を怒鳴ったり、叱りつけたりしない。途中で話を遮ったりもしない。約束する」
 少年の手がまた動く。
『先生は優しいだけだ』
 胸に鈍い痛みを感じた。心臓に直接ペンで書き殴られたような痛みだった。得体の知れない恐怖もあった。だが森下は、それを至って静かな心で受け容れた。
「君はもう優しいという漢字が書けるのか。すごいな」
 この子はとても賢い。森下は柔和な笑顔のままで、今度も一度だけ大きく息を吸い、続けた。
「先生とゲームをしないか?」
 少年の挑むような目が、ちらりと森下の顔を掠めて、また窓の外の木立を向いた。
「今から先生が、色々なお話を君に聞かせてあげよう。それでもし、君に何か一言でも喋ってもらえたら、先生の勝ちだ。いいかな?」
 少年の横顔に、木立の葉陰が揺れている。眠そうな目がゆっくり瞬いた。返事がないのを「好きにしろ」と受け取り、少年の机に指を組み、身を乗り出した。
「聖書と文鳥の話をしよう。これは先生がまだ白い塔にいた頃に、読んで知った話だ。山の中に、一羽の白くてきれいな文鳥が住んでいた。その文鳥は、以前の飼い主にひどく苛められて、逃げ出してきたんだ」
 少年にまだ反応はない。森下はぐっと声の音量を下げる。
「ある日一人の旅人がその山の、文鳥が住んでいるあたりを通っていった。旅人はわけあって、白い塔から逃げて来たんだ。彼はあまりに慌てていたので、文鳥の目の前に聖書を一冊落として行ったのにさえ気付かなかった」
 サアァ、と風の渡る音がして、窓ガラスが揺れる。葉陰は少年の顔の上で一際大きく揺らぐ。
「文鳥は聖書を見たことなど今までになかった。しかしその聖書は美しい装飾が施されたとても高価な物だった。文鳥にも、自分にとってとても良いことが書いてあると思われた。だから文鳥は、捨てられた聖書を守ることにした。雨が降れば木の葉を集めて被せてやった。虫や他の鳥が近付けば、体を張って追い払った。体の小さな文鳥にはとても大変なことだったけれど、彼はとてもよくやった。けれど聖書は奪われてしまう」
 少年の目が森下を向いた。小さな口を少し開け、大きな眼で森下を窺った。しかしすぐに居心地悪そうに窓の向こうへ目線を戻した。森下は続ける。
「文鳥の以前の飼い主が、森へやって来て聖書を見つけてしまうんだ。文鳥は飼い主の男が怖くて、戦うことが出来なかった。それでも文鳥は立派だった。立ち去る男の後を追って、山を下りて男の家までついて行った」
 少年は俯いて、唇を噛んでいた。
「文鳥は聖書が乱暴な扱いを受けたりしないか見守りながら、男に必死になって訴えた。その聖書を返してください。とても大切な物なんです。哀願は続いた。何日も何日も。しかし文鳥がうるさくてたまらなくなった男は」
 森下はぐっ、と声を抑える。
「……文鳥を鞭で打って殺してしまった」
「嘘だ!」
 少年の叫びが教室中の空気を打った。
 少年は椅子を倒して立ち上がっていた。怒りで大きく見開いた目で森下を見下ろしている。はっ、と何かに気がついて、その目から急激に力が消えた。歯を剥くようにしていた口を閉ざし、怯えるような目で森下の顔を窺った。
「ようやく喋ってくれたね」
 森下は笑顔を浮かべて、少年の前に立った。
「さぁ、先生の勝ちだ。教えてくれないか? ……どうして喋ってくれなかったんだ? 誰か君にひどいことをしたのかい?」
 少年は潤んだ瞳の中で、静かに火花を散らしていた。その目を一度ぎゅっと瞑り、次に森下の顔を見上げた時には真っ赤に充血していた。ひどくやつれていた。赤黒い隈は、もう何日もろくに眠っていない証拠だった。
「呉羽君」
「……先生が……」
「……島田先生のことかな?」
「先生が……お前、最近臭いって……僕のこと――僕が触ったものも――僕のお母さんが『怪異の子』だから――」
 こみ上げるものを精一杯に堪えて、ようやく最後の一言を搾り出した。
「……汚い、て……」
 上擦った声で言い切ると、ついに涙を流し始めた。ぼたぼたっと、その涙が二粒床にこぼれた所で、森下は腕を伸ばし、少年の両肩に置いた。
「先生、お母さんから聞いたことあるよ。森下秀司っていう昔の人のこと」
 そう言うと、泣き顔を歪めて笑った。

  ―2―

 まってくれ、と二枚の掌を、彼は少年に見せた。
「殺すって……君、誰?」
「ふざけたことを言うな! そんな手には乗らない」
「待ってくれ、俺は大体――俺、誰……?」
 少年は、今度は無言で足を詰めた。踏み躙られた小石が地面との隙間で悲鳴をあげた。彼はあとずさって、慌ててまた距離を開けた。
「こ、殺さないでくれ! 頼む! きっと人違いだ!」
「黙れ怪異めっ!」
 彼にはその意味がわからなかった。カイイ。階位? いずれにしろ、ひどく敵意のこもった侮辱の言葉であることは通じた。燃え上がる二つの目には憎悪しか存在しない。
駄目だ。話が通じない。こいつはかなり本気で俺を殺そうとしている。そう考えると情けないことに、両足から震えが来て止まらなくなった。逃げようにも背後が瓦礫の山になっているのは見なくても分かる。この通路の狭さでは、脇をすり抜けるのも無理だ。
だが、本気で日本刀を振り回す広さがない、ということでもある。
相手は手負いだ――彼は冷静に考えようとした。あの刀で突いてきたら屈んで避けよう、瓦礫を拾って顔や体を打てば、切り抜けられるかもしれない――。
「伊織、何をしている?」
 少年の肩が震え、丸い目を見開いた。
 その背後、階段の道のカーブから、逆光を浴びて人影が現れた。
「こんな所にいたのか。探したぞ」
「ナギ! 来るな!」
 声の主はゆっくりと、無防備な姿勢で少年の背後に歩み寄る。物陰に入り、その姿がよく見えた。背の高い若い男だった。あるいは彼が何も知らないから、無防備に見えるだけかもしれない。少年は緊張を漲らせ、刀を下ろさない。青年が、刀と彼の間に割りこんだ。
「駄目だ、離れろナギ! こいつ――」
「いい、伊織。こいつのことなんだな」
 青年は体を半分だけ彼に振り返らせた。胸も背も見せない角度で、左の腰に手を当てて、首を傾げるように彼を見下ろしてくる。二十代半ばか、それ以上だろう。背は彼より頭一つ以上も高い。きれいな青年だった。
「怪我はないか」
 無愛想な声で青年は問い掛けた。
「……えっ?」
「自分の名を憶えているか? どこから来たか、ここがどこか分かるか?」
 彼はそっと首を横に振った。青年は顎に右手を当てて暫く何かを考えていたが、「なるほど」と、その手を下ろした。
「こんな奴連れて帰るのか……?」
「話を聞かない手はないだろう。七海のこともあるしな。面倒な所へさらわれる前に、俺が連れて行く」
 青年は彼の前に来て、彼の体を軽く検めた。
「怪我はないな。一緒に来てくれるか?」
「……あなたは?」
「ナギだ。薙ぎ払うの『薙』」
「薙……さん」
「薙でいい」
「じゃあ、薙……一体どこへ」
「ついて来ればわかるさ。伊織」
 薙が右手で来いと合図をすると、少年が小走りで薙と彼の所まで来た。薙が楽譜鞄と手帳を少年に投げた。
「持ってやれ」
 少年はかなり不本意そうだが、薙の言うことには従った。それらを受け取って、手帳を鞄の外ポケットへ捻じこんだ。刀を鞘に収めて。横目で彼を睨んだ。
 彼がバイオリンケースに手を伸ばした時だった。薙の腕が素早く伸びて、それを奪い取った。
「悪いな。俺のだ」
 悠然と肩にかける姿を、彼は呆気にとられて見つめた。
「あっ、それは……」
「お出迎えご苦労ってところだな。手のこんだことだ……」
「えっ?」
「さあ、こっちだ」
 薙と伊織に挟まれて、見覚えのない町を彼は歩く。
 少しだけ、自分が目覚めた場所を振り返ろうとした。足を緩めると後頭部に何か固いものが押し付けられた。
 刀の柄か――そう思うと背筋に冷たい水が流れる。
「さっさと歩け、愚図」
「伊織、危害は加えるな」
「分かってる……分かってるよ……」
 その言葉を、彼は昔どこかで聞いたような気がした。しかしその正体を掴み取る前に、もやもやとした塵になって、暗い水底へ沈んでいった。

   ―3―

 坂を上って路地を抜けると、やはりまた坂道だった。硬い地面はやはり路地と同じ、黄色い土だ。ただ、降り積もる雪の厚みが違う。陽俊は体を包む白いロングコートの前を合わせた。道の雪を掻く人はいないのだろうか。くるぶしよりも積もった雪は容赦なく革靴に入りこんで足を冷たく濡らした。道幅は狭い。自動車二台すれ違うのがやっとだろう、と彼は思った。
 人通りのない町の、あるブロックの角の建物が黒く焼け落ちて煙を上げていた。きっと、さっき爆破された建物だろう。煤で汚れた元、三階建て。割れたガラスが空に突き立ち、その向こうを暗い雪雲がゆっくり過ぎてゆく。あれほどの音だったのに、誰も出てこない。まだ火種が燻っているかも知れないのに、誰も気にしない。この通りの建物も、二階建て以上が多い他は、路地と大して変わらない。劣化して黄ばんだ壁、雪の積もった切り妻屋根、同じようなドア、同じような配置の小さな窓。
 彼は隣を歩く青年を見上げた。背が高いせいか一見細身で、しかし肩幅から、実際は随分体格が良い様子が窺える。細い顎の線。唇はまっすぐ結ばれている。前髪がかかる目は静かに前を見据え、同時にらんらんと刃物のように光を放っている。
「俺の顔に何かついているか?」
 薙は彼をちらりとも見ずにそう問うた。
「薙、この町は……」
「あぁ」青年はバイオリンを軽く背負い直す。「鐘の町だ」
「鐘の町?」
 その時だった。低い鐘が一つ、町に響き渡る。
「一人殺されれば、ああして鐘が鳴る。だからここは鐘の町という」
 すぅっ、と薙は顎で空を指す。通りの先、丘のような町の頂きで、尖塔が空へ伸びていた。尖塔は、手が届かぬことを見せつけるように高々と、釣り鐘を包んでいた。更にその上の空は、釣り鐘が届かぬことを嘲るように、低く垂らした雪雲から粉雪を舞い散らす。
 鐘の余韻に沈む彼の横で、薙が左の脇道に逸れた。
「あそこだ」
 再び弔いの鐘が鳴り響いた。
 目の前の坂を上りきった所で立ち止まり、汗を拭った。正面にはまた上り坂。左手には下り坂。道が太く、視界が開けている。あそことは、坂の下に見下ろせる屋敷のことらしい。
 生垣に囲まれた屋敷だった。五階建てほどの高さがある。そして広大だった。雪雲に霞む地平まで、白い壁の巨大建築が蹲っている。
 明りの見える窓はなかった。
 三人は屋敷に向かって坂を下りていった。

薙は両開きになる扉の、鍵穴の上に取り付けられた銀色の板に手をかざした。そして外套の内側にその手を入れて金属の円柱を取り出した。円柱には様々な形の穴が穿たれ、鍵穴にさしこまれると、掛け金の外れる音がした。
 薙の腕が扉を押すと、ギィと重く軋んで開かれた。
 その空間は外より暗く、そして寒かった。風こそ吹いていないものの、押し返すような冷たさがひりひり伝わってくるのだ。扉を開けたらすぐ、二階と吹き抜けのロビーだった。流線型の階段が左右に二本展開し、二階の狭い廊下へ続いている。その廊下の下には円柱が立ち並んでいる。
 廊下に人影が現れて、ロビーが暖色の照明に包まれた。人影は若い女だった。長い髪を肩の上でまとめ、緑色のエプロンをかけている。そのエプロンを三角に持ち上げて女は階段を駆け下りてきた。
「薙、おかえりなさい! 伊織君も無事だったのね」
「遅くなったな。他の奴らはまだか?」
「ええ、まだ。今日は鐘の音が多いから心配してたの」
 薙から外套を受け取った女は、それを丁寧に両腕の中で折り、彼に体を向けた。
「こちらの方は?」
「来訪者だ。少し話がしたい。会議室を開けてくれないか」
「二階の居間にしなさいよ」
 女は首を横に振った。そうしながら彼に向かって両腕を差し出し、優しく微笑んだ。彼は白いコートを脱いだ。まるで似合わない女物のそれは、ぐっしょり濡れて重い。
「誰も使っていないのよ。まだ誰も帰って来ていないんだから。会議室は寒いし、かわいそうよ」
「……じゃあそうしよう。七海はどうしてる?」
「変わりない」
「そうか。俺はこいつと話しがある。伊織の怪我を診てやってくれ」
「分かった。あなたは大丈夫なの?」
「俺はいい。それじゃあ、後でな」
 鐘の音がくぐもって聞こえた。薙はその音に顔を上げ、しばらく宙を睨んでいた。
 ロビーの階段を上がり、狭い廊下に立つと、真正面が居間だった。再び両開きが開かれ、暖かい空気がようやく触れた。
少々物が多く見えるのは、床から天井まで壁一面に並べられた本のせいかもしれない。彼をスリッパに履き替えさせてから中に招じ入れて、薙は重い扉を閉ざした。それからソファにコの字に囲まれたローテーブルの上を、腰を屈めて片付け始めた。ガラス張りのテーブルだ。
「散らかっていて申し訳ない。なつめ一人じゃ、なかなか手が行き届かなくてな」
「いえ……」
 何がしかの紙束と辞書のような厚い本、そして空のコーヒーカップを積み重ねて、どこか、邪魔にならないところに置いた。彼はその時、天井の間接照明をオレンジ色に照り返す振り子時計を見ていた。床から彼の背の高さまである大きな時計だった。文字盤は黒地に金の英数字、時刻は四時四十分をまわっている。その文字盤に人の顔が映りこみ、彼は強い嫌悪感から慌てて目をそらした。
「どうした。自分の顔も分からんようでは心地悪かろう」
 ソファに掛けてそう言う薙は、バイオリンをもうどこかへやってしまっていた。もしかしたらさっき、あのなつめとかいう女の人に渡してしまったのかもしれない。彼は深い落胆を感じつつ、白く毛深い絨毯に目を落として首を横に振った。
「そんなことはありません。別に、困りもしませんし……」
 しかし、促されたわけでもないのに、彼は再び文字盤に目をやってしまった。
 黒縁の細い眼鏡。重く垂れた瞼、どんよりした瞳。頬の鈍い肉付き。ぼんやり開きかけた唇。短く湿気た髪が恨みがましくへばりついている。泥沼のような顔だった。彼はこの顔が嫌いだ。振り子のガラスには、Yシャツに栗色のセーターにジーンズ、びしょびしょ濡れの靴下を脱がされた痩せて硬そうな踵まで映った。
 嫌になってしまい、勧められるまま薙の向かいに座った。目の前の青年に、自分の顔がどう見えているのかと考えると、とても気が重いことだった。
「お前の持ち物はこれだけか。開けるぞ」
 彼が頷くと、薙は黒い鞄を自分の横に置いた。
 外ポケットから出てきた定期入れを手帳と一緒にテーブルに並べる。
 彼の胸が痛いほど高鳴った。薙は定期入れを開いて、するりと一枚のカードを滑り出す。薙はそれをしげしげ見詰め、それから彼に寄越した。
彼の顔写真がそこにあった。学生証。次にその三文字が目に入った。
私立東都三条音楽大学器楽学部弦楽科二年生。平坂陽俊。
「ヒラサカ……?」
 平成2年5月11日生。本籍地埼玉県。この者が本校学生であることを証明する。有効期限2012年3月31日。
 薙は定期入れの中の物全てをテーブルに広げていた。地下鉄の定期券、そして時刻表。都内図書館の共通貸し出しカード。歯医者の診察券。五千円札が一枚忍ばせてあった。薙は五千円札の何がそんなに嬉しいのか、両手でぴんと伸ばして持ち、裏返したり透かしたりして弄んでいる。
(変なヤツ……)
 さっきのバイオリンの扱いといい、今の紙幣に対する態度といい……こいつには奇行癖があるのか。彼の心に、軽蔑に似た感情が芽生えた。あるいは恐怖が。何も分からないからだ。自分に関する知識がこうしていくらでもあるのに、それなのに何も分からない。
「ヒラサカヨウシュン、それが名だ。間違い無さそうだな」
 歯医者の診察券の裏に、カタカナで書かれていた。はい、とただ頷く。彼、陽俊はひたすら、この時間が過ぎ去るのを待った。これが夢ならじき覚める。そう思っていた。
「これは鍵か?」
 薙は今度は、サルボボのキーホルダーにくっついた大小三本の鍵を鳴らし、目の前に持ち上げて首を傾げた。鍵以外の何に見えるのだ。鍵束を定期入れの横に置いて、薙は今度は紙切れを取り出す。レシートだった。『そば割烹 凪辺屋(なぎべや) 2010年12月7日 ねぎトロ丼セット980円』。そして目薬とポケットティッシュ。ポケットティッシュは青空の下に菜の花畑が広がる金融会社の物だった。今度はそれを大切そうに、物珍しげに観察しだす。
 上目遣いで薙を睨みつけてやりたいのを懸命に堪えた。お前は鼻をかんだことがないのか? 目薬を差したことがないのか? うな垂れたままの陽俊から何かを感じ取ったのだろう。薙は追及しなかった。お前に教えられなくとも自分で理解してやると言う黙りかただった。
 テーブルに楽譜が広がった。その存在が、陽俊の中で眠っていた何かに一瞬明りを灯した。触るな。声が聞こえた。体の中からの声だった。
 それは俺の大切な物だ。お前のような得体の知れない、変人が触るな! 頭に血が上るのを感じた。ぽうっと体が熱くなって、怒る肩にも、握りしめた指先にも、スリッパの中で強張る爪先にも、血は駆け巡る。
「パガニーニのカプリス作品1、ヴィヴァルディのバイオリン協奏曲『四季』、プーランクのバイオリンソナタ、ほう……、無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」
「あのっ、――もういいでしょう」
 堪りかねて陽俊は薙に身を乗り出した。
「それは俺のものです。とても大切な物なんです! いじくりまわさないで下さい。それから」
 息を大きく吸い込んで、陽俊は出来る限り力を目にこめて薙を睨みつけた。
「バイオリンを返してください。あれは俺のです」
 陽俊は初めて薙と目を合わせた。
 薙は、全くの無表情だった。やっぱり、とてもきれいな人だった。それだけに無表情には薄気味悪い、奇妙な迫力がある。この男が怖い。でも、自分の楽器は守らなければならない。陽俊は半ばやけになって男を睨みつけた。
「確かめてみるか?」
 薙はそう言って足もとからバイオリンを拾った。ひょいと陽俊に突き出す。両腕で受け取って膝に寝かせた。
 ソファに体を沈める薙をちらりと見て、それからなめし皮のケースに触れた。そっと指が沈む。濡れた感触があって、陽俊は胸騒ぎを覚えた。楽器に湿気は大敵だ。特に弦楽器は。金色の留め金を二箇所外し、蓋を開けて深い青色の布を払った。
 幸い中は濡れていなかった。バイオリンは、思いの外明るい琥珀色だった。バイオリンの胴に彫られた葡萄の絵を見て陽俊は呆然とし、それから深く失望した。
 絵の下に刻まれたアルファベットをなぞる。
『S・KUREHA』
(S、呉羽……?)
 陽俊は未練がましく見詰めたままでいたが、そっと布をかけて蓋を下ろし、留め金をかけて首を振った。
「俺のじゃない……」
 胸が震えて、じんわり目頭が熱くなった。声は上擦って震えていた。陽俊は心の底から悲しかったのだ。あんなに偉そうな言い方をして、結局俺の物ではなかった。自分のバイオリンが手元にない。きっとどこかに置くか落とすか何かして、なくしてしまったのだ。
「俺のは……」
 薙の憐れむような視線が注がれるのも辛かった。楽器弾きじゃない奴に、この辛さが分かるわけないのだ。どれだけ憐れみをもらっても、この悲しみを分かち合える人間はどこにもいないのだ。
「すまんな、さっきは俺も嘘をついた。正確には、俺の物じゃない。だが貸してやってもいい。俺には扱いがわからんからな。今のそれには持ち主がいない」
 陽俊が答えずにいると、薙はフッと息をついた。
「自分の物は、これから少しずつ手に入れてゆけばいいさ」
 陽俊が右手の甲で両目を拭った時、居間の扉が叩かれた。
「薙、いますか? 私です」
 男の声に薙は首を捻った。
「おります。どうぞ」
 向こう側から押し開かれて、ロビーの暗い光景を背に、人の姿が見えた。冷気と共に入ってきて、後ろ手で閉ざす。
 室内とはいえ寒い中、この男は襟無しのシャツ一枚だった。痩せた男だった。黒い髪は肩まで伸び、顔色は青白い。病人のようですらある。年齢不詳。老け顔の二十代のような、若作りの四十代のような。だがそんなことはどうでもいい。男はジロリと陽俊に向かって目玉を動かし、背中を通り抜けて三人掛けの中央に腰を下ろした。
「はじめまして」男は再び目玉だけ動かした。「これが読めますか?」
「はっ……」
 男はテーブルに散らばる紙を引き寄せてペンを走らせ、バイオリンを抱いたままの陽俊に差し出した。
「えっと、夜鷺……ヨルサギ?」
「読み書きを忘れるほど重篤な記憶障害ではない様子ですね。これが私の通り名です。夜と呼んでください」
「は、はい。俺……いや僕は平坂、陽俊……らしいです」
「わかりました。では平坂さん、あなたはここまで歩いてくる中で気付いたでしょう。ここが、あなたの知っている日本ではないことに」
 陽俊は男を見ていられなくなって、唇を噛んだ。
「でも……」
「嘘ではありません。ここは本来あなたなら、決してたどり着くべきではなかった場所です」
「じゃあ」
「結論から言えば、ここは西暦二〇一一年の『ずれた世界』の日本です。そしてあなたは我々にとっての『ずれた世界』から来た来訪者」
夜と名乗る男が、両手を動かす気配があった。夜は両手をお椀型にして口に被せ、息を吹きかけた。
「あなたはこちら側へ連れて来られる際、ショックで記憶を失った。いわゆる全生活史健忘というやつです。酷なことですが、じきに信じざるを得なくなるでしょう」
 バイオリンケースに皺が寄る。
「あなたも随分消耗していますね。今日はできるだけ何も考えずに、休むと良いでしょう」
「分かったよ……何も考えない……」
 自分の両手を見下ろす陽俊の顔が、垂れ下がる前髪の向こうで歪に笑った。
「わけが分からない、どうしたら何がずれるって言うんだよ……悪い夢に決まってる……」
「夢ではありません。現実です。それもじきに分かります」
「違うっ」
 夜と薙が、そっと視線を交し合った。夜が立ち上がった。
 陽俊はただ、立ち竦みながら声を失った。
「……思い出すことです。記憶を取り戻してください。あなたにできることと言えば、それより他はないでしょう。薙、私は彼をキクスイに案内します」
「待って下さい。まだ規則を教えておりません」
「そうでしたね。平坂さん。今から私が言うことをよく覚えておいてください」
 まだあるのか、とウンザリする陽俊をよそに、夜は説明を始めた。
「この屋敷で安全に暮らしていただくために、約束して欲しいことが四つあります。一つ、居住区から離れてはいけない。二つ目は、地図を描いてはならない。三つ目は、みだりに他者を招き入れてはならない。四つ目。これが最も大切なことです」
「……はい」
「非常召集ベルが聞えたら、何をしていてもこの居間に駆けつけること。分かりましたね」
陽俊は躊躇いながら夜を窺った。
「今はお疲れでしょう。理由はおいおい説明します」
 ひどく冷たい物言いに聞こえた。陽俊は何も出来ない自分が恥ずかしいのと同じくらいに、夜と薙に腹が立った。ついて来てください、と、夜は抑揚のない声で言った。
 ここです、と立ち並ぶ書棚の右端へ歩いて行った。今まで見えなかったが、書棚の裏には階段が続き、上の階の小さな窓から薄暗い光が差しこんでいた。
「ここは、とても複雑な構造の建物です。時間があれば歩き回って、自分の住む区画だけでも早く覚えてしまうと良いでしょう」
 夜がスリッパを脱ぐので、陽俊もそれに倣って冷たい板張りの階段を上り始めた。日本の建築様式だ。そのためすぐに足の裏が冷えて痛くなったが、緊張はほんの少しだけ和らいだ。夜はもう一階上る。廊下の窓には粉雪が吹き付けて、外が見えなくなっている。ひどく暗い。夜が青い線の入った襖を開けた。
 その先はまた新たな廊下で、すぐそばの突き当たりに襖の開いた和室。廊下を折れ曲がり、左右に並ぶ襖を見ながら奥へ。左にまたも曲がると、五段ほどの階段――。
 なんと歪な構造だろう。
 段差を越えた分、天井が低くなっている。空いた板張りのスペースに、座卓と座布団が置いてあるのを見ながらそう思った。
「広いですね、あの」
 陽俊は目の前の痩せた背中に問い掛けた。
「何人、暮らしてるんですか?」
「あなたで八人目になります。ここは先ほどの二人、薙と伊織の暮らす区域です」
 『菊水』の札がかかった部屋が開けられた。十畳ほどの和室だった。青い畳に卓袱台があり、座布団が敷かれている。押入れの横には床の間もあった。
「バクザロウは、かつては旅人たちが一時の休息を得るための場所として機能していた時期もあったそうです」
「えっ? バ……?」
「この部屋を、あなたに貸します。すぐに使えるのはここだけですので。暖房を後から用意しましょう。しばらくご自由にどうぞ」
 それで、夜は去ってしまった。
 陽俊はしばし廊下に立ち尽くしていたが、気を取り直して畳に足を乗せた。
 部屋を閉めきって押入れを開けると枕が落ちてきて足の甲に当たった。布団一式が畳まれている。
 すっ、と襖の開く音がした。振り向けば、今日この町で初めて会った、あの伊織という少年だった。
 こんな奴だっけ、というのが正直な感想だった。今はもう顔をきれいに拭いて、服も替え、擦り剥いた頬にはガーゼが当ててある。決まり悪そうに目をそらす少年からは、先ほどのような鋭さは感じられなかった。あれほどの光を放っていた瞳も、今は暗い色調に自ら沈んでしまっている。唇も余計な事は喋るまいと言うように一文字に結んでいる。刀を振りかざした身体は小柄で、その上内気そうだった。
「記憶がない……だって……?」
だが思い切ったように顔を上げ、陽俊の姿を瞳に迎え入れると、それは一変した。少年の瞳に炎が燃え上がる。とりあえず日本刀と爆弾は持っていない。陽俊は緊張しつつ少しだけ安堵した。
伊織は無言で右腕を突き出した。楽譜鞄の肩紐を掴んでいた。歩み寄って受け取ろうとすると、伊織はいきなりそれを陽俊の胸に投げた。直撃する前に辛うじて受け止めた。
こみ上げる怒りを、俯いてじっとこらえた。
「……君は、伊織くんだったよね」
 伊織は答えない。
「怪我、大丈夫? なんか随分痛そうだけど」
 そこで顔を覗きこむ。
「さっきの爆発に巻き込まれたんだよね?」
少年――伊織は、包帯で覆われた左腕を右手で掴んだ。目を伏せ、そして上目遣いに睨みつけた。
「……怪異」
「えっ?」
「もしもお前がそれをするのなら……薙や皆に危害を及ぼそうとするなら……その時は俺が、刺し違えてでも、お前をあの世に送り返す……」
 足音をほとんど立てずに、その姿は階段を下りて行った。少年を見送ってから、陽俊はもう一度襖を閉め……今度こそ一人になれた。
楽譜鞄を畳に放ると、底の譜面台が鈍い音を立てた。陽俊は座布団に乱暴にあぐらをかくと、卓袱台に肘をついて顎を乗せ、落ち着かない様子ですぐに離すと、今度は頭を抱えて髪を掻き毟り始めた。
ここはずれた日本です。
酷なことですが、じきに信じざるを得なくなるでしょう。
――なるほど、文化が違えば珍しいわけだ。紙幣も、鍵も、目薬も、レシートやポケットティッシュまで。
腹の底から笑いがこみ上げてきた。さぞや面白いことだろう。俺自身の存在も。

―3―

 さっきまで辛うじて青空が見えていたのに、今はもう吹雪いている。白いロングコートの前をかき合わせ、左腕のバスケットをひょいと掛けなおすと、ゴトリと重い感触があった。水気を吸って重くなった髪を首を振って払いのけながら、小夜は高く盛られた川沿いの道を急ぎ始めた。視線を右に移せば、深緑に淀んだ川に粉雪が次々とのまれてゆくのが見える。汚く狭い、つまらない、良い所が何もない川だ。その川の流れてくる方へ視線を送れば橋がかかっている。対岸に広がる森の、裾野の小径に一軒、小さな小屋のような家が建っている。灰色の壁に雪を乗せた屋根、ドアが小さく窓の少ない、庭のない家だった。
 小夜はコートの雪を払いのけて、その家のドアを開けた。
「教官?」
 家の中は暗く、冷たかった。いつもならもう、教官が夕食の準備を始めていてもおかしくないはずなのに。キッチンの、暖炉型の装飾が施されたストーブの中ではちろちろ赤い火が残っている。小夜はとにかくドアを閉め、コートを脱いで壁にかけた。
「教官、戻りました」
 左手のドアがキィ、と軋み、明りが小夜の所まで届いた。その部屋から、女が一人姿を現した。ひっつめた髪は軽く乱れ、暗さのせいか顔色はひどく青白く見えた。教官は具合が悪いと小夜は思った。
「ごめんね、少し考え事をしていたの」
 教官が部屋から手を伸ばすと、小夜の頭の上の電気が点いて、同時にストーブの熾き火がぱっと燃え上がった。
「ご苦労様。掛けなさい。温まるものを作ったげるから」
 小夜がテーブルの下から椅子を引き、バスケットを置いてその横の椅子にかけると、温かいものをくれると言った教官は、しかし我慢できないというように、調理台に背を向けて、バスケットの白い布を取り払った。
 白い大きな封筒がまずあった。教官はそれを取り上げると、封筒を開けて中を覗きこんだ。そして誰にともなく頷いてテーブルの端に置くと、今度は二枚目の白い布を、より丁重な手つきで持ち上げた。
 教官が布を捲った。覆われていたものは拳銃だった。バスケットを揺らした時の、あの重い感触の正体だった。
「これはあなたの物よ」
小夜が両手を差し出すと、教官はそっと拳銃を乗せた。温まりつつある台所で、それは未だにひんやりと凍り付いていた。一丁の銃を三つの手で包みこんで、教官はしばらくじっと何かを思い詰めた表情でいた。それを窺う小夜の視線に気付いて、作り笑いを浮かべた。
「あなたに一つ、頼まれて欲しいことがあるの」
 教官の手が、不意に重みを増した。

 白っぽい夢を見ていたら、パチッと目がさめた。起きたくなかったと陽俊は悔やんだ。夜鷺とかいう男に案内された和室で眠っていた。果たして誰がかけたものか、いつの間にか布団と毛布をかぶっていた。
 鐘の音が遠くから聞こえる。トランペットのような連続する炸裂音が、銃声だと気付く。そうか、あの音で目を覚ましたんだきっと。
 電気はついたままだ。壁に時計が掛かっていて、十二時過ぎを差している。
 鐘がまた鳴る。それが人の死を意味する音だと思い出し、陽俊は眼鏡を掴んで起き上がった。誰かが戦っているのだ。薙か? 伊織か? ここに暮らしているという他の人々か。ここで恐ろしい事実に気付く。彼らが戦っているのなら、当然敵がいるはずだ。何故、その相手はここに来ない。これほど目立つ建物なのに、狙われないはずがない――。
 激しい爆発と崩落の轟音が、そう遠くない所でわき起こった。「嫌だ!」と陽俊は叫んで、自分の存在を確かめた。ここは俺がいるべき場所じゃない。俺の知っていた日本は、真夜中に銃声が聞えるような国だったか。わけの分からぬ戦闘で、人が死ななきゃならない国だったか。
 逃げよう。いや、それは危険すぎる。せめて少しでも遠ざかろう。忌まわしい音が聞えない場所へ。靴下を履いた。羽織るものを求めて押入れを開けると、綿入れが一着畳んである。埃臭いがそれを着て、腹で紐を結んだ。
 廊下は真っ暗だろうと思ったが、十歩分ほどの等間隔で両側に足もと灯が点いていた。足首に流れる隙間風が、暖色を凍りつかせてゆく。
 とはいえどちらに進めばいいものか、方向感覚がつかめない。
 ――来た道と反対方向へ行けば、きっと屋敷の奥だ。
 廊下の突き当たりにすりガラスの障子があった。開けてみると急に空間の手触りが変わる。……天井が高い。真っ暗で細長く、やたらと広い。何に使うのか分からない板張りの間だった。全てを見渡すことはできないが、闇を挟んだ向こうに、足もと灯がすりガラスに滲んでいる。
 反対側の障子を開けるとまた廊下が横たわっている。左右どちらも同じ長さで、同じ方向に折れ曲がっている。何となく右側へ進んだ。角で再び小さな階段を越えると壁の色が変わる。建物の気配が一層冷たくなった。
 そこは回廊だった。左側に窓が並び、反対側の廊下が見える。窓辺によって外を見下ろした。
 中庭に動く明りがあった。誰か粉雪の吹きつける中を歩いている。建物に入った。陽俊は渡り廊下を反対に突っ切り、その先に照明が点いていないことに気付く。階段室への戸が開いていた。手すりを掴みながら慎重に降りる。
 一階は明るかった。廊下の果てまで照らされて、途中縁側が開いている。寒さのせいで耳の奥と鼻が痛かった。開けられた窓に立ってみれば、建物の反対側へと雪に足跡がついていて、確かに人が通ったようだ。その窓と向かい合わせになる木戸が、細く開いている。そこから嫌な臭いが漏れてくることに気がついた。甘ったるく、脂っこい、そして酸っぱい臭いだ。
 原因を求めて木戸を開けた。ウワッと臭いがなだれかかる。自分にあてがわれた和室と大して変わらない広さだ。その中央に茣蓙があり毛布があり、人の形に盛り上がっている。一陣の強風が吹きこんだ。薄い毛布が捲れあがった。
 死体だ! と陽俊は思ったが、目をそらす余裕もなかった。死体じゃない、と次に思った。何故なら茣蓙に横たえられたそれは青かった。ペンキのように真っ青だった。なによりその物体の巨大さは、人体の範疇を逸脱している。
 正体を確かめるべく、足音を忍ばせて歩み寄った。やはり臭いはどうも、それから放たれているらしい。
 中央が赤黒い。そこに臍のような窪みがある。窪みの下は二股に分かれていた。
 足だった。それだけじゃない。両脇に腕が揃えられている。肩があった。首があった。やっぱりそれは人間の死体だった。
 顔は体同様真っ青に膨れ上がり、極限に見開いた目からは目玉が飛び出している。唇がめくれ上がり、黒い棒状の舌が突き出ていた。
 飛び退こうとして尻餅をついた。自然と口が大きく開き、吸いたくもない臭気を吸いこんだ。
 ついで悲鳴が迸った。廊下を誰か走ってくる。両手と尻を動かして後退り、戸口で何とか立ち上がると、駆けて来た白衣の人を突き飛ばして、陽俊は逃げた。

  ―4―

 朝日が刻むリズムを小夜は体で感じていた。夜中まで降り続いた雪を、夜明け前の一際厳しい寒さが、一層固く引き締めている。遊歩道の真ん中で、小夜は足を止めた。
 空気はどこまでも透明で、小夜をどこか高い所へ導いてくれそうな気がする。目線を落とせば遊歩道の花壇では、今にもこぼれ落ちそうな白い腹を見せて、草花の種子を抱く土を凍りつかせている。雪と雪に埋もれて、花壇の煉瓦は未だ眠っている。
 そっと首を上げれば、立ち並ぶ家々の屋根から氷柱が垂れ下がっている。それが斜めに窓を突き刺そうとしているので、大人も子供も一緒になって懸垂をしているようだった。通りを挟んだ家の窓には玉葱が吊るしてあった。その玉葱の目の前で、朝の訪れで気が緩んだのか、細い氷柱がぽっきり折れて雪に突き刺さった。
 そのまま首を上げていけば、白い屋根、明るい青みを帯びてきた空の、東の方角には淡い桃色のグラデーションがかかっている。
 ――美しい。
 小夜は己の仕事を忘れて佇んでいた。が、やがて首を前に戻すと無言の内に歩き始めた。線路を横切り、橋を渡り、小夜の進む方向には民家が少なくなってゆく。
 ついに辺り一面雪野原が広がるばかりとなった。マフラーに口を埋めて歩き続ける。
 顔を上げると、それは見えてきた。背の高いフェンスで仕切られ、様々な金属片が堆く積まれたその異形は、スクラップ置き場のようにも見えた。東西に延々と続いている。小夜は知っている。あれはスクラップなどではない。かつては愛され使われていた、誰かの相棒。全て楽器だ。
 フェンスには小さな出入り口が設けられていて、小夜は持ってきたペンチで、巻きつけられた針金をねじ切った。小夜の身長を遥かに越える壊れた楽器たちにも、誰かが泣き疲れて眠る子供にそっと布団をかけたように、雪は覆い被さっていた。楽器たちはまだ泣いている。腹の割れたコントラバス。ボタンがないファゴット。錆びついて穴の開いたトランペット。スライド管が折れたトロンボーン。捻じくれ曲がったホルン。打楽器の部品。まだ使えそうなトライアングル。豪奢な模様が刻まれたアルトサックス。糸がばらけたシロフォン。延々と続く楽器墓場の奥深くへと、小夜は掻き分けるように進んだ。
 もう十分も歩いただろうか。今にも切れてしまいそうな一本道が袋小路に行きついた。楽器の断崖に守られて、教官が言っていた通り、一軒の家がそこにあった。家と言うより小屋だ。小夜と教官の家だって、人のことは言えないが。小夜は白い息を弾ませながら、右手の甲で三回固いドアを叩いた。
「すみません」
 反応がない。更に三回ドアを叩く。
「ごめんください」
「誰?」
 ドアの向こうで不機嫌な声がした。起きていたのだ。小夜は大きく息を吸いこみ、吐き出しながら言った。
「有島音律研究会の使いの者です。志村会長より、三田史子様宛てに伝言を預かって参りました」
「研究会から? 今更何の用なの?」
「さぁ……私はただの使いですから。とにかく、ここを開けてください」
ドアの向こうで逡巡があった。小夜は分かっている。この女には開けるしかないことを。やはり鍵が回った。
貧相な女だった。ひどく痩せているというわけでもない。むしろムッチリと肉付きがいい。しかし貧相だ。顔が貧相なのだ。垂れ下がった唇。暗い頬の肉。もはやどんな光も跳ね返さない、死んだ細い目。教官と同い年と訊いたが、とてもそうは見えなかった。束ねた髪は、もうほとんど灰色になっていた。
「三田史子様ですね?」
「そうだけど?」
 確認するが早いか、小夜はコートの内側から素早く拳銃を抜いて、撃った。三田史子に、何が起こったのかを理解するだけの時間はなかった。
 殴られたように女は仰向けに倒れこみ、胸から血を流しながら、火薬臭の中で息絶えた。小夜は屈んで脈をとり、ドアを閉ざした。それから女の両脇に腕を差しこんで、戸が開け放たれた狭い寝室まで引き摺っていった。本も鏡台も、音楽の気配もない寝室だった。あるのはベッド、そして窓辺のティーカップだけだった。
 ベッドまで持ち上げる体力がないので、小夜は床に毛布を敷いて女をきれいに横たえ、毛布のあまりを両側から掛けてやった。両手を合わせ、祈りの姿勢を、ほんの数秒だけとった。
 立ち上がり、次は家の隅に押しこめられたような階段へ向かい、上りはじめた。
 壁にも戸にも区切られていない青い空間で、小夜はしばし立ち尽くした。
 ――教官が言ってた。青は、『それ』を封じこめる色。
 芳香剤の金木犀の香りに部屋は満ち満ちていた。青い照明に包まれて、子供の王国は破壊されたまま封じこめられていた。小さなブランコ。小さな滑り台。小さなジャングルジム。小さな木馬。どれもこれもが横倒しになり、朽ちることなき骸をさらしている。部屋は広い。積み上げられたおもちゃのティンパニーや床に広がったおもちゃの木琴の中から小夜は、あるものを探した。とにかく床じゅうに衣服が散らばっているのだ。ふんだんにフリルや毛皮を使った色とりどりのドレスたち。子供向けだがかなり高級なものだとわかる。それがゴミのように丸めて投げ散らかされている。小夜は爪先で道を切り開くようにして、可能な限り服を踏まずに部屋へと入っていった。
 黒っぽいチューリップの揺り籠の下で、何か動いた。
「ゆずは」
 小夜はそのものの名前を呼んで、揺り籠に膝をついた。腰を屈めて覗きこむと、小さな目が二つ、黒い髪の隙間から小夜を見上げた。
「ゆずは。あなたを、迎えに来ました」
 小夜はコートの内側に手を入れ、まだ微かに温かい拳銃の下から、預けられた青いスカーフを取り出した。『それ』は幼女だった。まだ六つか七つ。拗ねたような目で横向きに寝そべっている。小夜が長い髪を払って、首にスカーフを結わえ付けている間も、ゆずはは微動だにしなかった。
「ゆずは、分かっているでしょう? ここは楽器墓場。だけどあなたはまだ生きている。あなたはここを出て行くの」
 小夜はゆっくり言い聞かす。出・て・行・く。
「私と一緒に来なさい……」
 幼女の指が、動いた。そっと重ねた小夜の手を、微かに握り返した。
 小夜は両手を伸ばしてゆずはを揺り籠の下から引っ張り出した。コートの前を合わせ、ゆずはを胸に抱きしめた。
 小屋を出たら、雪が降っていた。あれほど晴れていた空が、もう分厚い雪雲に覆われている。冬の天気は変わりやすい。小夜はしっかり幼女を抱いて、俯き加減で家路を急いだ。この子が濡れてしまわぬように。鉛色の空の下、二人は墓場を脱出した。
「教官、戻りました」
 ようやく家にたどり着いた時には、小夜の頭にも雪が降り積もっていた。家は昨日と同じ状態だった。ストーブに火はない。明りもついていない。風こそ吹いていないけれど、外以上にそこは寒かった。
「教官? おられますか?」
 小夜はゆずはを床に下ろして教官の部屋を叩いたが、その時緩んでいた青いスカーフが、外れて落ちたことに気付かなかった。
 そっと戸を開いた。教官の姿はない。ただ、鏡台の電気がついていた。三面鏡の前に何か置いてある。招かれているような気がして、小夜は鏡台の前に立った。
 三面鏡の向こうからも白い手が伸びてきて、封筒の上の置手紙をつまんだ。
『小夜へ。ごめんなさい。
 私の罪は私が持っていきます』
 メモ用紙をそっと下ろすと、青ざめた己の顔があった。封筒は昨日小夜が、籠に入れて持ち帰った物だった。
 躊躇いながら中を覗きこむと、入っていたのは手書きの楽譜だった。乱雑に詰めこまれた五線譜。書きこまれた音符を小夜の目が追い始めるより先に、音楽が聞えた。
 バイオリンとチェロの音だ。コントラバスも入っている。小夜は首をめぐらせて音源を探す。
……懐かしい曲だ。甘く哀しげで、穏やかな。
ベッドサイドのプレーヤーに、電源は入っていない。
弦楽がやみ、チェンバロがあとを引き継いだ。その時小夜は気がついた。音の出所に。
隣に立つ幼女だった。
そいつが口を開けて、楽器と全く同じ音で、たった一人の合奏をしている。
「――駄目よ! 歌っちゃ駄目!」
 小夜は戸口に走って青いスカーフを掴み取った。覆い被さるようにして、ゆずはの首にそれを巻いた。
 窓がひどく鳴っている――。
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