お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈20〉 著者:豊原ね子

第二章 Reginita(第十二枝 春) 第四話――1/2

 第四話 運命と絆

 瞼を薄く開けた。視界が白くなった。外はもう明るい。天井が見えるようになるまでそのままでいた。枕もとの時計に腕を伸ばすと、もう昼と言ってもいい時間だった。
 サイドテーブルのコップに指を伸ばす。
『起きて飲みなさい』
 わずかに届かない。
『起きて飲みなさいってば……ミナシキ!』
 キセリタに叱りつけられて、仕方なく上半身を起こした。昨日注いでそのままの水を呷る。眠ったのに眠れた気がしない。ベッドと、隅に小さな机があるだけの部屋を、ぼんやりしたままただ見ていた。
 あの夜以来、ミナシキはひどい熱をだした。何時間も雨に打たれっぱなしだったことや、疲労が溜まっていたこともある。しかも内臓を傷めたようで、しばらくまともな物を食べられず、寝て過ごすよりなかった。さすがに一週間も経てばそれらも癒えてきたが、次の行動に移る踏ん切りがつかないでいた。
『ミナシキ、今日はどうするの?』
 キセリタも相当なショックを受けていたが、もうそんな素振りは見せない。立ち上がってカーテンを開けた。向かいの建物と、雑草だけ生える中庭。目に映る光景に、馴染みあるものなどなかった。変哲のない建物でも。ただの雑草でも。何もかもがよそよそしい。レーゼとここで息をしたことがない。ヨセギとここで言葉を交わしたことがない。
 ただそれだけなのに。
 誰かが廊下を歩いてきて、この部屋のドアを開けた。世話役の男だった。
「具合はどうだい、シキさん」
 浅黒い肌に、灰色になった髪。目つきの鋭い筋肉質の男は、かつてエグバートの取引相手だった男だ。この第十一枝の武器商の補佐役をしているが、もとはレギニータの人間だ。ミナシキは振り向いて答えた。
「はい。もう問題はございません」
「そうかい。お嬢さんのほうも体に不都合はない。もう帰れるんじゃないのかい」
「そうしなければなりません……お世話になりました」
 男はひらひら手を振った。
「いいんだ。あいつの所で働いてたんだろう。これも縁だ。あいつの最期が聞けただけでもよかった」
 ここまで来て人を欺いている。
 慣れているはずだ。しかしヨセギと最期の会話を交わさなければ、ここまで居たたまれない気持ちになっただろうか。分からない。どうだろう。
「情報料を出す。現金だ。できるなら好きなようにレギニータに帰るがいい」
「有難うございます」
 ミナシキはリコリスに何も言うなと厳命し、この男に夜区間での出来事を話した。――あの町は鯨の新型兵器で焼き尽くされたと。
「シキさんよ」
「何でしょう」
「あいつの死を無駄にしてくれるな」
 男は黙っておられぬ様子で、ドアの前で振り返った。
「……あいつはあの若さで夜区間をまとめあげちまった。大した奴だと思うだろう?」
「ええ」
「お前さんぐらいの頃にゃ、惚れた女がいたんだ」
 肩をすくめた。
「夜区間が今よりもっと無法地帯だった頃、物取りに殺されちまってな。地面に突っ伏して泣いていた。膝をついて、血が出るまで地面を殴ってな――どうしてこんな事になったんだ、返してくれ、彼女を返してくれ――と」
「あの人がですか?」
「昔の話さ。昔は俺の弟分でな、頭が切れる奴だった。それだけが取り柄な奴だったのに、偉くなっちまいやがって」
「……ええ」
「不確かな利権のために紛争しようなんて、ふつうロクでもねえと思うだろう。人の命を金儲けの道具にしようなんてな。だが夜区間にはそれしかなかった。そんな形でも秩序が必要だってことをあいつは分かってたんだ」
 男が出て行き、ミナシキは窓を背にひとり立ったままとなる。
 思い返してもエグバートの顔は、眠たげだったり、油断のならない笑みを浮かべているばかりだった。どんな非情なことを考えているか分からない、あの顔。打ちひしがれて泣き叫んでいる姿など想像できなかった。
 彼は指揮を取るときも、自ら銃を取ってレギニータ兵を迎え撃つ時にも、スーツにネクタイという姿を崩さなかった。
 自分には、それほど純粋な思いがあるだろうか。
 嘘の人生を被ってきた自分に、今更純粋を求める資格があるだろうか。

 春物の薄手のジャケットに、白いストール。銃器はザックにしまいこみ、サーベルは厳重に布で巻いてザックに括りつけている。それを乱雑に肩に背負い、ミナシキは異国の街を歩いている。
 まるでそこいらに居る、普通の若者になった気分だった。
 祈りの鐘が響く。
 花々が街路を彩っている。
 通りを埋める露店と、それに群がる人々。春の野菜。見たことのない果物。威勢のいい掛け声と、走り回る子供たち。女たちの噂話。
 何も聞こえない。誰か、この中に一人でも生きている人がいるような、そんな気がしない。
 色が見えなくなったようだ。
 目に映る世界がすべて、味気なくつまらない。灰色だ。全て。
「おい兄ちゃん」
 目を閉じてしまいたい。人間が、孤独や絶望や憎悪で死ねたらどんなに楽だろう。
「兄ちゃん、あんただよ!」
 肩を引っ張られた。それで、呼びかけられていたことに気付いた。いかつい体つきの中年の男が睨みつけていた。それで、この人間にも感情があるということが知れた……自分が他人を、自分を取り巻く状況を何一つ理解できていないことも、したくもないことも、知った。それは死に直結する態度だ。レギニータにいた頃はあんなにも他人の言動に気を張り詰めていた。そうでなければ生き延びられなかった。
 道ゆく人が、自分と男を気遣わしげにみやる。
「兄ちゃん、荷物ひっかけてるぜ」
 生気のない顔で見下ろしていると、薄気味悪く思ったのか、男はそう言ってサーベルの包みに手を伸ばした。古着が引っかかっていた。
 男の言わんとすることを理解するのにひどく時間が掛かった。
 人の言葉の裏を読むどころか、とうとう真正面から言われていることさえ理解できなくなったのか。
「ああ」と答えた。「悪かった」
 ミナシキは現状の自分に絶望し、それ以上に絶望することさえ面倒くさく、更に面倒くさく感じることが絶望感を深めた。
 ああ。本当に面倒だ。絶望しても面倒くさくても、寝て食って起きてをしなければ生きていくことが出来ず、生きている以上何かをしなければならない。
 その何かとは何なのか、あんなにもはっきりと分かっていたはずではないか。
 古着を返すと、男はそそくさと自分の店に戻っていった。最後にこう呟くのが聞こえた。
「死んだ魚みたいな目ぇしやがって」
 魚か。
 思えば俺は魚と縁のない生活をしてきた……歩き出しながら考える。魚でもなんでも、下らないことでもいいから何か考えていたい。そうでなければ廃人になってしまうぞと内なる声が告げている。足を早めた。
 レギニータには海がない。川や湖もない。食べられる魚というのは内壁で高度な技術によって養殖されるものだ。魚か。
 そうか。
 ここは海に近いんだ。
 それが何かものすごい気付きのように思えて、衝撃に足を止めた。知っていたはずじゃないか、東面の外壁の民は貝だの海の写真だのを仕入れてきていたじゃないか。目の前が明るくなった。気がした。
 ある気配が自分を追っていることにミナシキはやっと気付く。雑踏をかき分けかきわけリコリスが走ってくる。
「シキさん! やっと追いついた」
 そこらの町娘と同じようにワンピースに身を包んだリコリスが、よろめきながら前に出てきた。
「追いかけてきたのか」
 リコリスは額の汗をぬぐい、真っ赤な顔をしてミナシキの顔を見上げた。
「レギニータに帰るんでしょう?」
「どうするんだ。お前は帰っても犯罪者だぞ」
「だけど」
「俺は鯨に行く」
 ミナシキは言った。
 ここにも俺を知っている人間がいるじゃないか。リコリスが。
「来るなら来い、もたもたしてたら置いていくぞ」
 前を向いて歩く。顎をあげた。雑踏を抜ける。変わらず一つの気配がついてくる。
「シキさん、どうやって帰るんですか?」
「黙ってついて来い。それから、俺のことはミナシキと呼べ。本名だ」
 リコリスが後ろで立ち止まり、しばらくしてやっとついて来る。早足で。
「知っていたんだろう。何を今更ためらう」
「ですが……」
 リコリスは遅れたり、追いつきそうになったりしながら、それでもついて来るのをやめない。彼女に合わせてやろうという気は起きなかった。ミナシキは自覚している――リコリスを憎んでいることを。レーゼが死んだのにリコリスが生き残っているからだ。レーゼは言いかけた、「もしもレギニータの王様になったら」――家族を内壁に住めるようにして、と言おうとしていたのだろう。
 憎むなら、そんな彼女を死なせてしまった自分をこそ憎むべきだ。それが出来ないからリコリスに押し付けている。ハイダは自分のことを、自分自身の気持ちすら分かっていない人だと言った。分かって何になる。こんな正直な気持ちを自覚したところで、やるせないだけだ。
 道はだんだん広くなり、比例して通行人の数が減っていく。長距離バスの乗り場についた。リコリスはすっかり息を切らしていた。

 一階をやかましく足音が走っている。
 眠い。
 メルヴィは寝返りを打ってドアに背中を向ける。
 階段をやかましく足音が走っている。
 眠い。俺はまだ眠いんだ。
 布団を耳まで引き上げた。だがメルヴィは分かっている。足音がどこを目指しているかを。足音はやはり部屋の前で止まり、ドアを開け放った。
「お兄ちゃん! いい加減に起きて!」
 まだ眠いとメルヴィは抗議したが、やかましさの主は容赦なく掛け布団を剥がし、ついで背中を叩いた。
「起きてってば、ほら。何回呼んだと思ってるの!」
 腹を立てて手で振り払い、起き上がると、そこに自分とよく似た赤毛がいた。違うのは、そいつが女で、自分の妹ということだ。
「もう、早く服着てよ」
 頭にシャツを投げられた。
「大変だったのは分かるけど、もう一週間経つんだから」
「うるさいなぁ。もう少しおしとやかに出来んのか」
 仕方なくシャツに袖を通し、腫れぼったい目をこすってスリッパに足を入れた。
「昨日帰れって言っただろう」
「何でそういうこと言うの? 無事だったと思ったら家にも帰らずにこんな所で寝てばかりいて」
「人聞きの悪いことを言うな。俺は『ここで』休暇を取れと言われたんだ。帰れるなら帰って顔でも見せている」
 これは休暇などではない。この近くの穴を見張るために、休暇という名目で派遣されてきたのだ。くしゃくしゃの頭を掻きながら一階へ下りるのを、妹がついてくる。
「リネット、俺は遊んでるんじゃないんだ」
「まあ、失礼。分かってるわよそんなこと」
 だがこいつはそんなこと、何も知らなくていい。
 昔は、小さな妹と悪友を連れ出して憂鬱な稽古事からよく抜け出したものだ。いろんなことをした。レギニータの下層を目指そうとしてどこまでも階段を降りていったり、長距離バスに乗りこんで城壁に近付いてみようとしてみたり、色々。今思えば信じられない悪ガキだ。
 その後ろを、コイツはまん丸な目と覚束ない足取りで一生懸命ついてきた。
「お前を邪険にしようってんじゃない。だがここは仮にも軍の施設なんだぞ。何が起こるか分からん」
 無駄に広い食堂の片隅に、二人分の朝食が用意されていた。
「お父さんとお母さんはそうは思ってないんだから。お兄ちゃんが自分たちのこと避けてるって。あんだけ心配させておいて親不孝者だって言ってたよ」
「親不孝? それなら士官学校に入ったときに言うべきだった。この悪童がようやくまともになると言って万々歳してたじゃないか。大体な」
 紅茶で口を潤し、喋りながら朝食を始める。
「最初に上の兄貴が生まれた時は跡取りが出来たと大喜びして、下の兄貴のときは『あら男の子、でも兄弟は同性のほうが賑やかでいいわよねぇ』、三人目は女の子が欲しいわよねなんて言ってたら俺が生まれて、俺なんかアレだぞ? 物心つかんような頃から女の子がよかったのどうのと言われてだな。お前がやれ乗馬クラブだハープだ、好きなことやらせてもらってんのはお前が女の子だからだよ。男に生まれていたらさっさと養子に出されてたんだぞ。親なんてそんなもんだ。気にするな」
「お兄ちゃんは自分勝手」
「あいかわらず自分勝手だったと伝えておけ。今日は帰れよ」
 帰らないだろう。本気で帰すのも面倒だ。今じゃレギニータとこちらと、どちらが危険か分からない。
 その後の夜区間の報は、メルヴィのもとにも届けられた。
 屋内をうめる血しぶき。焼けた町。誰も居ない。王子は? 俺の部下は?
 夜区間の住民たちのか弱い抵抗と制圧。肩に刺さった麻酔銃の注射筒の感触。からかいに来たミナシキの濃紺の目が笑っていたこと。闇。電気がおちると暗かった。闇。掌をなぞる指の感触。闇。闇。
 記憶が鮮やかすぎる。
 卵にまみれたフォークを置く。ひどい顔色をしていることが自分でも分かる。
「お兄ちゃん?」
 ものも言わず席を立った。

 ―2―

 長距離バスの二階には、ミナシキとリコリスの他に、老人が隅でいびきをかいているだけだった。
 つけっ放しのラジオからは尋ね人の呼びかけが流れていて、春の午後を憂鬱にさせる。窓の外は崖。道路の下に、青い海がどこまでも、どこまでも、視界の限り広がっていた。
『――××市××区×番、○○○○さん。失踪当時二十四歳。現在三十歳。友人と映画館にて映画を鑑賞中、トイレに行くといって席を立ち、そのまま行方不明。失踪当時の服装は袖なしの黒いワンピースにビーズのついたサンダル、赤い革のハンドバッグ――』
 青いのか青黒いのか、それとも陽光で金色なのか、なんとも言えぬ色をしている。白い波頭が幾列も、海の向こうから押し寄せて、ここには届かない。
『××市××区×番、○○○○さん。失踪当時七歳。現在二十二歳。××市近郊の○○キャンプ場にてバーベキュー中、構っていた野良猫を抱いたまま行方不明。当時の服装は』
 初めて見る海。
 感動しているのかどうなのか、自分には分からない。レギニータを出てからずっと、頭の中には深い霧がかかったままで、ミナシキは感動や情動のかけらも得ることができない。
『××市××区×番、○○○○さん。失踪当時三十六歳。現在五十二歳。××市○○駅のホテルに宿泊中、「ブラインドの隙間から死んだ弟が覗くから部屋を変えてくれ」と言い、従業員が代わりの部屋の支度をしている間に行方不明。尚、○○さんが宿泊していた部屋は内側から鍵がかかっており、窓が』
 リコリスも疲れた顔で海に目をやっている。何度か瞬きしている内に、眠くなってきた。目を開けているのが辛い。いつまでも呆けていてはいけない。分かっているのに。
『――区×番、○○○○さん。失踪当時四十歳。現在四十九歳。大型台風のさなか、家族の引きとめも聞かず「海に新聞を沈めてくる」と言って外出、そのまま行方不明。○○さんは以前から精神が不安定で、新聞の写真から人が這い出てくると常々口走っており――』
「そりゃあ死んだだろう……」
 眠気を堪えてミナシキは言った。眼下の広がりが全て水だということさえ信じられないのに、大風がきたらこれらの水がどんな凶器になりうるか、想像に難くない。目を伏せて大陸橋の強風に思いを馳せる。ミナシキの声に緊張し、リコリスが居住まいを正す気配。
「あの」
「何だ」
「バス、どこに行くんですか?」
 眠る老人を憚りながら、その問いに答えた。
「この先の都市で乗り継いで、更に先の町の近郊に第十二枝の協定保養地がある。そこの近くの穴が一番鯨に近い」
 時報の後、番組がニュースに替わった。改めて座席に体を沈めた。最初のニュースはいきなりレギニータの話題だった。
『――先週発生した第十二枝レギニータにおける霊子結界損壊事故で、レギニータ政府は結界の修復はほぼ終了したと発表しました。事故の影響で国内の一部の地域に緊急避難令が出されましたが、第十一枝からの観光客に死傷者は出ませんでした』
 その後、政治経済のニュースを並べ、放送広告に移った。レギニータの観光案内だった。
 たどり着いた町の一番安いホテルで二部屋取る。
 軋むベッドに身を投げ出し、凝り固まった筋肉を伸ばす。カーテン越しの街灯が天井に淡い光の枠を作り、ミナシキはウトウトしながら見ていたが、その内目を閉じた。
『ねぇ』
 枕元からキセリタが話しかける。眠気に身をゆだねたまま応じる。
「なんだ?」
『世界が分岐する基準は人間しかないのかしら』
 瞼に片腕を置いて、黙って先を促した。キセリタはまだ躊躇っていたが、小さな声で話し続ける。
『犬とか、猫とか、小鳥ではだめなの?』
「世界に対する観測者の意識の問題だろう。詳しくは知らん」
 自分よりもキセリタがよく知っているはずのことだ。こんなことを言いだすのは、インカーネイトの支配下から離れてしまった不安からか。実際に別世界、第十一枝を見た影響か。
『ReRouEじゃ駄目かしら。人と同じ意識を持っていても?』
 ミナシキは黙っている。
『インカーネイトにアクセスして聞こうとしたことがあるわ。あなたには黙っていたけれど、インカーネイトは答えなかった。私を遮断した。……寝ちゃったの?』
「起きている」
『私はあなたを助けられなかった。あの時』
 声の震えがベッドの周りを満たす。
『巨人が何かインカーネイトに尋ねたわ。あれは何? インカーネイトは未知と答えました。……初めてのことでした』
「ああ」
『人間より多くのものを知っているから、ReRouEは人間から独立して存在できる。だけど私はあの存在が何か知らなかった』
「無理もない」
『それに、あの時私よりもあなたのほうが落ち着いていた』
「そんなのは性格の問題だ。俺が人間だから、じゃない。ましておまえが助けにならなかったなんて、そんな事があるものか」
 目を閉じたまま答えた。眠気にもう耐えられそうになかった。
「卑屈になるな、ReRouE=キセリタ。俺にはおまえが必要だ」
 今まで彼女に優しくしてこなかったことを思いながら。
「……夢じゃなかったんだな。悪い夢を見たんじゃなかった」
『本当のことよ。全部本当のことよ』
 キセリタはまだ何か言い出しそうな気配だった。言い出したかもしれない。しかしミナシキは眠った。深く。
 融けていく夢を見た。隣にレーゼやエグバートがいた。

 翌朝起きると頭が軽かった。地面に落ちていきそうな頭重感が消えている。体も軽い。熱に浮かされてふわふわする感じではなく、なんだか、どこか遠くに歩いて行けそうな力がある。昨日までは見えなかった、部屋の細かな装飾が見える。
『あら、今日は元気がいいのね』
 起こさずとも起きたミナシキに、キセリタが驚いて言った。
「ああ、行くぞ。レギニータに帰るんだ」
『昨日まであんなに嫌そうだったのに』
「キセリタ、インカーネイトはどんな奴だ?」
 虚をつかれた様子だったが、すぐに答えた。
『インカーネイトはReRouEに対し、慈母の顔を見せるようプログラムされています……それ以外、王などに対してどうかは分かりません』
「慈母の顔? 何でも聞いたら教えてくれるのか、教え諭すように?」
『ミナシキ、どうしたの?』
「たまにはおまえのほうがインカーネイトに教えてやれ。一緒にあの巨人とハイダの正体を突きとめるんだ」
『出来るのかしら』
「ああ。おまえがもう自分を情けなく思う必要はないんだ」
 ミナシキはサーベルを手に取り、顔の前に近づけてもう一度言った。
「一緒にやろう」
 リコリスの部屋に行った。せかすように連れ出して、宿代を払い、街に出た。リコリスはやはり戸惑ったり妙に怯えたりしていたが、もうそれに苛立ちはしなかった。
「食事にしよう、リコリス。好きなものを食わせてやる」
「私の?」
「入りたい店を選べ」
 町並みが洒落た雰囲気になるところまで歩いていき、リコリスが選んだのは、花壇に彩られたカフェだった。
「現金を渡しておく」
「……私にですか?」
「いい加減にしろ、他に誰がいると言うんだ」
 サンドウィッチにサラダだけという簡単な朝食だが、それが終わるのも待たずに話し出した。
「この先に保養地があるといっただろう。もらった地図を渡すから、おまえはそこで保護を求めるんだ」
「ミナシキさんは?」
「先にレギニータに帰る」
 コーヒーを飲み、言った。
「俺は内壁の町をまともに見たことがない。幼い頃は鯨の内部や富裕層の地区ばかり、それからはずっと外壁にいた。内壁の暮らしを見てみたい。レギニータが変わる前に」
「変わる? どのように?」
「分からない。ただ何らかの必要があって俺が呼ばれていることは確かだ。レギニータも、俺自身も変わらずには居られないだろう。おまえも」
「そうですね」
 リコリスは俯き、目の光を微かに震わせながら答えた。
「俺はこれ以上おまえを連れ回しはしない。自由だ」
「自由? 私が国に帰って運動に戻ると言っても?」
「好きにしろ」
 大した奴だとミナシキは思う。彼女が強くなったのか、もとよりこうした強さを持っていたのかは分からない。これだけの目にあったというのに。
「俺を恨まんのか。俺は大聖堂でおまえの仲間たちを殺したんだぞ」
「恨まなかったとは言いません。憎かったです。私、私を生きながらえさせたこと、あなたに後悔させてやろうと思っていましたから」
「俺はおまえにしたことを謝ろうとは思わん。この先立場が変わっても、おまえ達の肩を持つような施政をしたいとも思わんし、おまえが罪に問われても助けはしないだろう」
「はい。それでいいと思います」
 リコリスは歯を見せて笑った。
「お互いするべきことがあるんだから、それでいいと思います。その時は私、ミナシキさんに強引に連れまわされてたって言いますからね。王子はたくさん殺して酷いこともいっぱいした冷血漢だったって」
「そうか。それでもいい」
 何日かぶりにミナシキは笑った。
「どこで別れる?」
「ミナシキさんが行きたい所……駅かバス停まで送ります」
「……いいや、それも間抜けな話だ。今ここで別れよう」
 必要なだけの現金を取り、残りの額ともらった地図をリコリスに預けた。先に席を立った。
「ここのは払っておいてやる。じゃあな」
「……ええ、それじゃ」
 眼鏡を指で押し上げて、リコリスが淡く微笑む。頬は赤く、黒い髪がかかっている。髪は二本のみつあみに結われている。そんな風に結っているのを見るのは初めてで、彼女が女性であることを、急に思い出した。
 ミナシキはそっと微笑み返し、店を出た。
 朝の光を浴びて歩く。
 その後ろで、窓辺の席で、リコリスが一人泣いている。
 祈りの形に指を組み、その手に額をつけて。

 ―3―

『行旅死亡人のお知らせ。この放送はレギニータ政府の』
 陰気な放送番組はたちまちスウィッチを切られた。長い長いトンネルを抜けて、最初に始まったレギニータの放送は、たちまち風景画像に切り替わった。レギニータの学園都市や、遠くの山脈をのぞむ釣り鐘。車両奥のスクリーンからミナシキは目を背ける。後ろの席の男たちがカードゲームに興じている。隣の裕福そうな学生たちは、まだ自分と同い年くらいだ。観光に来たのか。この先のカジノでたんまり外貨を落としていくのだろう。いい気なものだ。
 窓の外は壁。第十一枝からの輸送列車は白いチューブの筒を走る。ガラス天井が僅かに見える。退屈で目を閉じた。
『レギニータ観光案内。この放送は第十二枝レギニータ観光公社の提供でお送りします。レギニータ中央司魂教会より永久墓地のご案内です。あなたの大切な方の遺骨をレギニータ政府直轄の教会が管理する当墓地にあずけてみませんか? 当墓地は東に手付かずの大自然が残る峻険な山々をのぞみ――』

 列車を降りた。
 内壁最深部、つまりレギニータの中央からやや北部よりに聳え立つのが輪廻の鯨。南部寄りにこの観光特区がある。
 目玉である大小のカジノや遊戯施設では、第十一枝の貨幣がそのまま使用できる。政府がそれらの外貨を買い取り、霊子を配給する。
 昼のさなか、どこのホテルや施設からも人間が出てくる気配がない。周遊バスの乗り場が分からず、仕方なく延々と坂道を下っていった。やがて観光特区と市街を隔てるゲートが見えてきた。
「キセリタ、適当に市民コードを作ってくれ」
『足がつくわ』
「構わん。もう逃げ隠れする必要はないからな」
『分かりました。インカーネイトに伝えます』
 窓口に警備員が詰めたゲートで、背後からキセリタが告げるコードを打ちこんだ。パネルに親指を押し当て、レンズに網膜を晒す。
『完了。これでどこにでも行けます』
 ゲートが開き、レギニータの市街が眼前にあらわになる。霊子結界越しの太陽がレンガ通りに降り注ぐ。観光特区を包む城郭は東西にずっと延びており、目の前に張り出しのテラスがあった。古い、石造りのような色彩の建物が眼下に広がっている。幾つもの尖塔に円筒状、方形、鍵形の建物。こちらに向いている看板。ここがレギニータ最上階層。
「案外、普通だな」
『天然の日光に当たれることは貴重なことなのよ』
「そうか、忘れていた。ずっと外壁にいたからな。この一つ下の階はどんな感じだ?」
『行ってご覧になる? ここから五十メートル真下に大エスカレーターがあるわ』
「案内してくれ」
 長い橋を渡って観光特区に別れを告げる。市街の渦を巻く坂を下っていった。
 大通りの真ん中には大きな丸窓の列が並んでおり、高い緑色の柵で囲まれている。その柵はこぼれんばかりに花が植えられたプランターで飾られており、大エスカレーターにたどり着くまで途切れることはなかった。
 通行管理局は円錐の塔を屋根に頂く役所だった。通りの底の広場に両開きの扉を向け、ポーチの手前に先ほどと同じような認証盤がある。
 市民コードがなければどこにも行けない。更に霊子板を持っていなければ物も買えず、交通機関も使えない。
 通行管理局の奥に、下の層へ通じるアクリル天井の大エスカレーターがある。乗れば、天井がだんだん高くなって、薄暗くなる。壁が発光素材に変わり、その青い光に左右から挟まれる形となった。下の階の通行管理局を抜ける。
 下の階は暗い。
 天井までどれほど高低差があるのか掴みにくい。うんと高いところに小さく、上の階層の大通りの丸窓があってほの明るい。白い街灯が点々と続いている。左右に一直線の道が伸び、正面は柵があって深く落ちこんでいる。深い段差の下には家々の三角屋根が続き、それらの家々と街灯の明かりが眼下に広がっている。対岸にも家々。長い橋が交差している。橋には細かな穴が開き、少しでも多くの明かりが下に落ちるようになっている。
「あの頃はずっと、表層部を通って逃げてたな」
『ええ。下の層に入るのは初めてね』
「あの霊廟は今どうなってる?」
「霊廟?」
 キセリタはすぐに思い出し、黙った。ミナシキは期待をこめて待った。キセリタが初めて声を聞かせた、あの場所。
『今は再開発されて、中央司魂教会の永久墓地になっています』
「……まあ、そんなもんか」
 軽く失望しながら、遠くの橋を目指して歩き始めた。
「歩いて行くとどれくらいかかる?」
『何日もかかるわ。食べる物もなしじゃ無理よ』
「あの頃もろくなものを食べなかった」
『無理よ』
 重ねてたしなめられる。分かっている。行ってみたくはあるが、キセリタが止めるのに無理することはない。遠い丸窓の光を浴びて、黒いはずの髪は、微かに青い。ゆるんできたストールを巻き直す。
 天井が高いから、走ってくる後ろの足音も高々とこだまする。
「そこの男、止まりなさい!」
 ミナシキは足を止める。
 二人か。
「キセリタ、市民コードを捏造してからどれくらい経つ?」
『四十五分です』
「そうか。早いか? 遅いほうか?」
『まあこの程度でしょう』
 二の腕をつかまれた。二人の警察官を振り向く。ミナシキが薄く微笑んでいるのを見、警官が少しだけ手を緩めた。
「ちょっと、市民証を見せなさい。どこの階層の人だ?」
「市民証ならない」
「何だと?」
「ちょっと、君」
 柵に背中が当たる形でミナシキは囲まれている。
「背中の棒みたいなのはなんだ?」
「……見たら、驚きますよ」
 肩に腕が回った。有無を言わせぬ力強さで、二人の刑事に引き立てられていく。抵抗しなかったからか、手錠はかけられなかった。
 心中は穏やかだった。
 ただ、長い旅だった。
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