お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈22〉 著者:豊原ね子

第二章 Reginita(第十二枝 春) 第四話 運命と絆――1/2

 ―4―

 王国の朝の光は、東の平原の外れの結界を透かして射してくる。
 王国は数え切れない山々の地表を覆い、また渓谷をまたいで形成される。城壁都市と呼ばれていながら、都市というにはあまりにも大きい。事実、城壁内部はさらに幾つもの都市と地区に分けられ、王と呼ばれる統治者が政治を執り行っている。
 王国の民は心穏やかに日々の営みを紡ぐ。日の当たる表層部の民も、人工太陽光が照らす中層、下層部に暮らすものたちも、過酷な労働に追われたり、徴税に苦しむおそれはない。
 王国の経済は霊子によって支えられる。国民は六歳を迎えた日に、霊子板と呼ばれるチップを与えられる。霊子板には労働の対価としての霊子が蓄積され、その霊子で電気や、様々なものが買える。
 王国各地に美しい自然保護区が存在するが、中心地にそれはない。中心地の民のためにあるのは、大きな歓楽街だ。歓楽街は観光特区とよばれる壁の中にあり、王国の主たる観光資源である。観光特区の夜は鮮やかなネオンで彩られ、どのような立場の人間たちも着飾り、享楽を謳歌する。
 王国。しかしこの国をよからぬ印象で見詰めるものも多い。そういう人たちは知っている。王国を追われた人間たちが、城壁の外で食うや食わずの暮らしをしていることを。寒さをしのぐ上着の一枚も買えずにいることを。レジスタンスと王国の兵らがその血で大地を染め上げていることを。外壁の丘では、町が子らごと焼かれていることを。遠くの崖では、古い聖堂が歴史の夢ごと打ち壊されていることを。
 ここは王国、レギニータ。素晴らしい治安、素晴らしい文明維持技術。それを支える霊子のために泣いている人がいることを。かつて大選民から漏れ、城壁をくぐれなかった者たちが、いかにして殺しつくされてきたことかを、王国。

 夕暮れの砂洲に人骨が棄てられている。
 頭の骨。からだの骨。足の骨。
 空は黄味がかった茜の光を集め、その重みを地上に降らせている。
 乾いた砂を紐のように這う一筋の水の流れ。小さな子供がそばにうずくまり、水を見て動かない。素敵なものがあるのだろうか。空想世界の影絵が踊るのに見とれているのだろうか。
 その子は性別すら分からないほど痩せこけ、背中を開いている。花が咲いたように、爆炎に裂かれて。白く砂を被った毛先が揺れて手招きの幻を見せる。
 おいで、おいで、私の子供。ここに広大な世界があるのよ。
 大きな影が黄昏を暗くした。遠くの壁の上の霊園で、大きな、大きな樹が育っている。第十一枝の人間を騙してまで、人間の遺体を集め、霊子だけ吸い取って遺棄してきた、あの霊園とこの河原。
 目の前に延びてきた枝には、女が腰掛けている。
「海を作りましょう」
 濃い桃色の花を抱きかかえ、ミナシキを見下ろし彼女が言う。王レンシディが。
「私は王国の外を知らないの。海とはどんなものかしら」
 黒くつややかな髪、華奢な体。
「あなたは見てきたのね」
 春風が二人の間を吹きぬけた。風に踊る髪を押さえ、ミナシキはレンシディと向かい合う。そしてよく通る声で言った。
「母上、ここで何をしていらっしゃる。あなたには責務があるはずです」
「もう、私の仕事は終わります」
 花の中から小さな人間が押し出され、地面に落ちて弾けた。弾けて水になった。次は背後で。死体が降って水に変わる。
「こうして海を作ればいいわ。ミナシキ、やがて水面が達するところに私はいます」
 激しい雨の音を立てて、そこかしこで水が弾ける。水たちはミナシキの靴を浅く濡らす。
「どうして私があなたを呼んだか分かる?」
「それは、俺があなたの息子だから」
「いいえ」
 突如、レンシディは恐ろしい人となる。
「あなたは私の民を殺しました。幾十の兵士たちを。幾十の神官たちを。あなたは、あなたが私の息子だからそれが許されると考えていました。王宮の母へと帰る大義のためなら殺していいと思ったのです」
「それは」
 違う、と言った。違わなかった。二の句が継げなかった。そして、レンシディは止まらなかった。
「あなたは私を殺そうとしたのね。母殺しの罪悪をひとりで背負って生きる気だった。それにレーゼやヨセギの死の責任を。けれどそれまでに、あなたはどれだけ殺してきたのかしら。なぜ、その咎を背負わないの。なぜ彼らを忘れたの」
 あなたは答えなければならないわ、レンシディは畳みかける。
「なのにあなたは、私が母としてあなたを呼んだなどと答えた。ミナシキ、なぜ私があなたを愛しているなどと思うの。答えなければならないわ、考えなければならない。あなたが、人を殺して生きてきたわけを。あなたが生きる価値を。あなたがもの思う価値を!」

 ――いい子ね、ミナス。本当にいい子。ミナス。おまえは、優しい子よ。
 ――お母さま、『ミナス』はおとうさまのお名前です。
 記憶の中の自分が言う。
 ――わたしはミナシキです、お母さま。
 ――いいえ、よく思い出してごらん。

 ――ミナシキなんて子、いないわ。

 ―5―

 天蓋つきのベッドなどという全く慣れないものを使って寝ていた。沈みこみそうなマットレスに手ごたえのない枕。ベッドの周りの紗を払うと、キセリタが向かいの壁に掛けられていた。
『今起こそうとしていたのよ』
 広い窓が部屋を明るくしている。真っ青な空が驚くほど近くにあって、視界をさえぎるものはない。
『……さっき何か言ったかしら?』
「いいや?」
『そう……。今日の予定を言います。間もなく侍女がお召しかえを持ってこの客間にやって来ます。早く起きて恥ずかしくないようにしてください。その後は朝食。朝食の後、午前十時に王婿殿下ならび王女との面談。その後』
「いっぺんに言うな。まだ眠い」
『ちゃんとなさって。公務なのよ』
 キセリタが声を厳しくした。
『本来それを補佐するのが私の仕事なんだから。ほら、髪はちゃんと櫛ですくの。鏡台の引き出しにちゃんとしたのがあるんだから』
 口うるさく言われながら身辺を整えている内に、侍女が来た。いかめしい顔の老年の女性で、聞けば侍女頭だという。
 幼い頃のミナシキを知っているはずの者だ。だがそんなことを、彼女は決して口に出さなかった。
 円柱形の小部屋に通され、外を見ながら朝食を食べた。覚えていたつもりのナイフとフォークの使い方は、もうすっかり体が忘れ去ってしまっていた。
 控え室に移った。待ち時間ののち別の塔に渡り、長い渡り廊下を進む。空の青さを浴びながら、ミナシキは前をゆく小柄な侍女頭に話しかけた。
「侍女長、あなたはレネイという侍女を覚えていらっしゃるか」
 彼女は少しだけ歩く早さを変えた。廊下がもうすぐ終わってしまうことが惜しい。
「はい」そして答えた。
「彼女を幼い殿下の付き人に任命したのは私でございます」
「レネイは亡くなった」
 侍女頭は立ち止まりも振り向きもしなかった。ミナシキへの心情を思うと責められぬことであった。
「最期まで立派だった」
「……よく勤め上げたと聞いております」
 声は厳かだが、後ろから見るなで肩は微かに揺れている。
「レネイの骸は戻りませんでした。彼女は国家反逆者として、野にうち棄てられました」
 心が一とき、動きを止める。
「殿下、あなたはそうして戻って来られたお方です」
 渡り廊下の先の扉の前で、侍女頭は歩を止めた。色の薄い瞳には、冷厳さと共に、隠しきれない激情があった。
「出過ぎたことを申しました。お許しください」
 執務室はもう近くだった。深々と侍女長に頭を下げ、王女の部屋の扉を叩く。
「ロウオク様、ミナシキ様をお連れしました」
「開けろ」
 細い背中が両扉を開ける。
「ご苦労。下がっていいぞ」
 義理の姉たる王女が執務机にいた。記憶の中の彼女とさして違わぬ姿だった。歳を経て貫禄を得ている。俺も変わった、そのはずだ。ミナシキは入室する。侍女長が外から扉を閉めた。
 想像より若く見える。化粧が濃いが、目を見れば地顔も若々しく力あることがわかる。王女は執務机の兜のReRouEに手を載せてミナシキを見ていたが、立ち上がって目の前に来た。無駄のない動作にミナシキは知らぬ内に身構えていた。二歩の距離をはさんで、王女はいちょう色の目でミナシキの目を見上げた。
「大きくなったな」
「義姉上も、お元気で何よりです」
「嘘つき」
 目に強い好奇の色を湛えたまま、ロウオクは指を唇にあてて笑った。
「そうやって、心にもない言葉を使って生き延びてきたのか」
 高い声で、いちいち喉で押し殺すフリをしながら笑うのが気に食わなかった。怒りが湧き上がるのを堪え、一呼吸置いてミナシキは言った。
「義父上はどうしていらっしゃる、同時刻に面会と窺いましたが」
「多忙につきこちらで変更させてもらった。どうせお前にはなんの予定もないのだろう。王国の霊子結界がいま非常にもろい状態にあることは知っているはずだ。毎日のようにあちらが破れ、こちらが破れ」
 原因はまだ把握していないようだ。
「……ここ三日ばかりは止まっているが、原因が分からぬ以上気を休めることは出来ん。父上は忙しいのだ」
 ハイダは現実に存在するのだ。彼女の話の真偽はともかく、少なくともマーテルから霊子結界の操作を行っている。
「王はどのような対策を?」
「わかって聞いているのか?」
 ロウオクが睨み付けた。
「お前がReRouE=キセリタから王の様子を聞いていることは知っているぞ」
「つまり何もしていないという事ですね」
「軽口はそこまでにしておけ。口のきき方を忘れたか」
 口を止めて執務机に向かう。兜のReRouEに手を当て、後姿で頷くとまたミナシキを見た。
「出るぞ。妹姫がお待ちかねだ」
 眉をひそめるミナシキに、ロウオクは唇を歪ませた。
「王レンシディと我が父の間に出来た娘だよ。王レンシディの大切な子だ。粗相がないようにしろ」
 すると血の繋がった妹ということになるではないか。
「すぐ行くと言え、ギィーエルミーナ」
 巨塔の群れの最奥、その飛びぬけた頂点が宮殿区と呼ばれる王族たちの居住区である。王女の執務室よりずっと上の階だ。エレベータ塔に移った。広々としたエレベータで、正面に金枠の鏡があった。床には絨毯が敷かれている。宮殿区に直行しているのなら、王族か特別な者しか使用できないエレベータなのだろう。予想は当たった。扉がゆっくりと開くと、目の前に緑の芝生が広がった。爽やかな風が庭園に吹いていた。
 花には詳しくないが、恐らく春に相応しいのであろう花々が咲き乱れている。濃い赤や、薄い桃や、それらの緑の葉。三角形の常緑樹の植木が点在する。空を見上げる人のように。空が晴れすぎて不安になる。風の匂いは青の成分を含んでいるだろう。石畳の小径を、ロウオクの後をついて歩いた。
「リズ、来ているかい」
 小径は複雑に枝分かれし、木立が並木に変わった。風が冷え、木漏れ日が顔を染める。
「リズや、ミナシキ王子を連れてきたよ」
「おります、お姉様!」
 並木を抜けると池に出た。壁のないあずま屋で、誰か立ち上がった。細い体と、腰から下でふわりと広がるワンピース。長い髪を揺らして走ってくる。顔がよく見える位置まで来た。
 それが夢に見たレンシディによく似ていることに気付く。ミナシキは、息をのみ、手に力をこめて立ち止まった。
 自分が王宮を去った後に産まれた子。十三歳以下ということになる。目の前の少女は、まだあどけないながら、日の当たるところですくすく育った人間だけがもつ自信に満ちていた。金や生活のことをしっかりと保障され、疑う余地もなく親に愛され、必要とされ、人を愛する能力に満ちた人間だと一目でわかる。それを妹といわれても戸惑うばかりだ。
 少女はミナシキの顔をしかと見て目を見開き、口をわななかせた。
「……はじめまして、お兄様。リゾングラーテと申します」片足を引いてふわりとお辞儀をした。「リズとお呼びください」
 再び自分を見上げた目には期待と歓待の光がある。どのように見られ何を期待されているのか。手に取るようにわかる少女の思惑は、ただただ重かった。
「ミナシキだ」
 サーベルの柄に手を載せた。
「こちらはキセリタ」
「お兄様のReRouEですね。こちらが私のReRouE、アスセナと申します。お会いできる日を楽しみにしておりました」
 うれしそうにフルーレの柄を撫でる少女に、ミナシキは返事をしなかった。「そうか」とそっけなく返すのも間抜けているし、彼女が言ってほしい返事は歯の浮くようなものだろう。
「さあ、兄上はお母様と面談だ。その後に時間を作ってあげるから、部屋に戻っていなさい。日焼けをしてしまう」
「はい、お姉様」
 リズが道を譲り、そこをロウオクとミナシキは歩いた。後ろを少女が駆けてゆく。ロウオクが言った。「気のきいたことは言えんのか」
 あの娘はまだ見ぬ兄を思って何度眠れぬ夜を過ごしただろう。ミナシキが、大聖堂の神官兵を撃ち殺している間にも、大陸橋の暴風を走り抜けている時も、暗い天井に閉じていられぬ目を向けていたのだろう。
「王のご容態は」
 返事は簡潔だった。
「よくない」
「インカーネイトと共にいれば体への負荷は増大するはずだ」
「それに耐えられぬほどではないが、接触時間は制限されている。それに貴様が去って以来、式典など公の場に姿を見せることさえなくなった。まず会え。それからだ。いつもインカーネイトと接触していないときは展望台で休んでいらっしゃる。展望台の場所は覚えているだろう」
「ああ。当時ここはこんな庭園ではなかったな」
「父上がリズの出生祝いに造らせた」
 ロウオクは続けて言った。
「リゾングラーテは次期国王と目されている。あまり機嫌を損ねないほうがいいぞ」
 無言で眉をひそめたが、その顔は前をゆくロウオクには見えなかった。次期国王? 目されている? インカーネイトはまだそうしたことに言及していないのだ。ではなぜ、なおさら自分が呼び戻されたかわからない。
 道が緩やかな階段に変わる。
 この先にレンシディがいる。彼女を母とは呼ばなくなって以来、俺はなんとレンシディを恐れてきたことか。
 ――なぜ私があなたを愛しているなどと思うの。
 土をならして作られた階段の先は、タイルに変わっていた。展望台はミナシキの記憶と違い、壁がまっさらに塗り替えられて、明るい雰囲気だった。重いガラスの扉を開けると、暖色の自動照明が迎え入れた。
 レンシディは二階の展望室にいた。
 革張りの大きな椅子が、こちらに背中を見せている。ロウオクが侍女を下がらせ、その椅子を覗きこんだ。小声で何か囁きかけると、ミナシキを振り返った。
「どうした、早く来い」
 レンシディが何かいう声は、聞こえなかった。陽の差す、明るいほうへとミナシキは歩み寄る。足もとが妙にふわふわして、気持ち悪いほど心臓が高鳴っている。
 ロウオクが椅子をくるりとミナシキへと向けた。
 老いた、ひとりの小さな女の体がソファに沈んでいた。
 ……老いているはずがない、レンシディは五十にもなっていない。まだ充分に美しさを残していてもいいはずだ。目の前の女は、背中に垂らす髪がすっかり灰色に変わり、顔にも、膝の上の手にも大小の皺が寄っている。顔色が悪いのを化粧で隠し、微笑みの形をつくっていても、それは表情と呼ぶにはあまりにも空しいものだった。
 これがレンシディのはずがない。俺が恐れてきた女が、殺さなければならぬと思い詰めていた相手が、こんなに小さくみすぼらしいはずがない。ミナシキは奥歯をかんで、眩暈がしてくるのに耐えた。
 左目の下にほくろを見つけた。
 忘れていた記憶が蘇る。この展望室にいた頃を。ここがまだ、どことなく暗い雰囲気で、古ぼけた建物だった頃、確かに母の膝に抱かれて小さな望遠鏡を握っていた。見上げた母の目の下にほくろがあった。それを見ていた。
「母上」
 大声とまではいかずとも、急に声を出したミナシキに、ゆっくりとレンシディは眼差しを上向けた。
「母上、私が分かりますか?」
 腰を屈め、気付けばミナシキは両手で、レンシディの右手を握り締めていた。
「息子のミナシキでございます。お戻りいたしました、母上」
 灰色っぽく色が抜けた虹彩に、歓喜の光が強まってくる。「ああ」、と初めて声を出した。声の出し方を忘れたように、しばらくそのまま口を開けていたが、ミナシキは待った。そしてレンシディは喋った。水気がなく小さく、それでも品が良くて優しい喋り口だった。
「ああ、ミナス。無事お帰りになられたのね」
 さっ、と全身の血が冷えた。ミナシキが無意識に身を引くのにも構わず、レンシディは満足げに大きく頷いた。
「今回の遠征は、長かったのね」
「母上」
 右手を膝に戻してやりながら言った。
「私はミナスではございません。あなたの息子の――」
「ミナス、あなたがいない間に、私たちの娘は十二歳になりましたのよ。祝賀パーティーまでにあなたが戻るとあの子は信じていたものですから、きっと拗ねているわ」
 老女が――、まだ四十半ばのはずなのに、どうしても六十を過ぎているようにしか見えぬ母が、ミナシキの腰に枯れた両手を回し、腹に頬ずりをした。ついミナシキは手を伸ばして背中に手を添えて支えた。
「心配しましたのよ。あの子に会ってきてあげて下さい。私たちのたった一人の大事な子ですもの……」

『レンシディは』
 キセリタの声は気遣わしげで、苦慮と同情に満ちていた。それでも彼女は事実を曲げて話したりはしなかった。
『夫ミナスを愛していた。二人は熱烈な恋の果てに結ばれたのです。ミナスはレンシディの全てでした。それまでの彼女の人生は、ただミナスに出会うためだけにあったと彼女は信じていたのです』
 美しいガラスの花々が咲き誇っている。
 ドームの中央には奏楽堂が据えられている。広く高い天井は、どこまでも吸いこまれてしまいそうな不安感を煽る。その天井の中央にだけ、円い天窓が設けられ、舞い降りる微かな光をガラスの花々が乱反射する。
 透明なカスミソウを左手の指で触りながら、ミナシキは歩いている。
『そのレンシディが、ミナスが永遠に消えてしまったことを信じられるはずがなかった。だけどミナスはどこにもいない』
「レンシディはどうしても死んだミナスに会い続ける必要があったのか。彼の死を信じずにい続けるために」
 そして息子のミナシキこそが、ミナスの亡霊だった。
 ドームに充ちるオゾンの匂いを胸いっぱいに吸い、吐く。
『健全だった頃のレンシディの内省によれば、ミナスは常々こう言っていたそうです。結界の外は危険だ。けれど、僕の手には産まれたこの子の未来がかかっている。だから行くのだと。命を落とされた遠征の前にもそう言い残されたようです』
 撃たれた気がして立ち止まった。奥歯に力がこもり、足をその場に縫いつけた。胸の痛みが一呼吸ごとに強くなる。
『間違えないでミナシキ。たとえあなたが生まれていなくともミナスはその遠征に行きました』
「だがレンシディはそう思ったか」
 レンシディの中でミナスは、幼い息子に似た存在となり、あるいは現実と見分けのつかぬ生々しい夢の世界の住民となり、やがて白昼夢に現れ、目をしかと開けていても、見えるようになったのだろう。
「……最後に母上が俺を思い出したのはいつだ」
『レネイとハクレーが亡くなり、追い詰められたあなたの前から追っ手が消えた、その頃です。彼女はインカーネイトに息子ミナシキの命を乞うた……それが最後だそうです』
 キセリタは言葉を切り。ミナシキはまだ歩き出さない。
『……以上が王レンシディのReRouEである、メルトバから聞いた話です』
「そうか。ReRouEが言うのなら間違いないな」
 天窓から降り注ぐ光の柱に目を細め、閉じた。遠くで自動回転扉が回る音が聞こえた。
「お兄様!」
 さっきの少女の声が後ろのほうで響いた。目を開け、そちらのほうを横目で睨むと、ミナシキは歩き始めた。
「お待ちになって、お兄様! 私です。リズです!」
 自分のあとを走ってくる。
「お兄様ってば!」
 振り切るのも面倒で、ため息と共に振り返った。少女は薄暗さの中で頬をあかく染め、輝く目でミナシキを見上げていた。ミナシキの目つきなどお構いなしに。先ほどよりもさらに髪を丹念に編みこんである。
「お姉様がここに向かわれたと教えてくださったのです。母上との面談を済まされたのですね」
 小首をかしげて更に言った。ミナシキが何か酷いことを言うなど、そんな想像をできない顔で。
「お兄様は午後はどのようにお過ごしになるのですか?」
「予定はない」
「ではお兄様、私と来ていただけませんか? お兄様といろいろなお話がしたいのです。お兄様は外の世界を知っていらっしゃるのですよね」
 聞いてどうするのだと言いたかった。お前の聞きたい物語はないぞ。
「私、お兄様は必ず帰ってきてくださるって信じていましたの」一人で喋り続けた。「母上はお加減の宜しいとき、ミナス様のお話を私になさってくださいました。とても責任感が強くご立派な方だったと窺います。だからお兄様もきっとそうで、必ず輪廻の鯨に戻ってくださるって信じておりました」
 おまえは何故王の息子が追われたか分かるか。おまえの母が廃人同然の姿でいるわけを。そうした都合が間接的にどれだけの人間を殺してきたか。
「お兄様?」
「よせ」と言ってミナシキは来た道を引き返した。「つまらん事になるだけだ」
 それはこの少女に憎しみをぶつけてみたいと思う、この笑顔や自信や輝くような存在感をずたずたにしてみたいと思ってしまう、自分にこそ向けた言葉だった。
 ミナシキは出て行き、リズは肩を落とした。入れ違いでロウオクが入ってた。
「リズや、お兄様に会えたのかい」
「どうしましょうお姉様、私、お兄様に嫌われてしまったみたいです。どうすればいいの?」
「機嫌が悪かったのだよ。いいはずがないさ」
「また会ってくださるかしら」
「思い詰める必要はない。おまえが会いたいと願ったら、奴には断る理由などないよ」
 リズのよく梳かれた髪に指をくぐらせた。すこし赤っぽく色が抜けた黒色。やはりこれは自分の妹だ。父の血を引いている。
「お前はレンシディの娘なのだ。お前が心から望んだことがかなわぬ筈などないだろう」
「ですが兄上も母上の子です。お兄様がどうしても私に会いたくないと仰ったら……」
「奴はレンシディの息子ではない」
 べそをかきそうになっていたリズが、慌ててロウオクを見上げた。
「どういうことですか?」
「血は繋がっている。そういう意味では息子であることに違いないさ。だがレンシディは息子そのものを、一度もその目に入れたことはなかった」
 こぼれた笑みが傍らの、ガラスのツタに吹きかかり、葉を揺らした。リズの目の中で、ロウオクの頬で、青白い光が揺らめいた。
「でなければ、〈ミナスの息子(ミナシキ)〉だなどとふざけた名前をつけたりするものか」

 ―6―

 昼食会の誘いを断り、ロウオクの案内で宮殿区内の散策を続けた。
 次にロウオクがミナシキを連れこんだのは、宮殿区最下層の離宮だった。離宮は深い木立の中にあり、はじめの庭園からはずいぶんと離れている。木立を抜け、その聳え立つ門の前で振り向いた。塔は見えなかった。門の幅だけで相当な広さが予想できる。見上げるアーチ型の鉄柵は、何かを閉じこめる檻のように見え、水色に塗られた鉄の太さをミナシキは不吉に感じた。
 離宮というから、王が休養を取る際に使われる場所なのだろう。ロウオクの操作で柵が横滑りに開く。
 砂利のうたれた離宮は、ついさきほどまで人がいたような気配をとどめていた。正面の石造りの平たい建物にも、左右にのびて奥へと広がっていく径にも、外の世界のような花々の彩りはなく、静かな色合いで落ち着いている。ロウオクは歩き続け、橋を渡り、池堀で区切られた小さな建物へ入っていった。大事な用件があることが、その背から感じられた。
 建物は書院だった。
 窓に葉陰が覆いかぶさり暗い。窓辺のテーブルに蝋燭をともし、二人は向かい合った。
「離宮の居心地はどうだ」
「悪くはない」
「それはよかった。本題に入ろう。貴様を呼び戻した理由だ」
 うんざりした顔でミナシキのほうへ身を乗り出した。ミナシキは表情を殺して待ったが、待つ時間は長かった。この話をする仕事を、彼女は本当にやりたくなかったらしい。髪をかき上げ、指輪の位置をいじった。
「私たちは無数に広がる並行世界のただなかを生きている」
 いきなりだった。
「今の貴様が不幸ならば、どこかに幸せな貴様がいる。誰かが事故で死んだなら、その誰かが事故にあわなかった世界がある。我々ひとり一人の意識と選択が世界を増やし、大樹の一葉として今この世界がある。貴様もまたそう教わり、それを信じてきたはずだ」
「違うのか」
「違うんだよ」
 ほとんど睨み付けるような目でロウオクがミナシキの目を見据えた。
「それが、違うんだよ」

 そういえば、夜区間でヨセギと話していた。
 今このときにも笑いあっている俺とおまえがどこかに居るのだろう。何もかも打ち解けあって気を許しあった俺たちがいるのだろうと。

「一度しか言わん、よく聞け」
 ミナシキは逃げ出したくなっていることに気付いた。駄目だ。聞かずにいるわけにはいかない。目の奥に力をこめてロウオクを見返した。
「実際には、世界分岐の基準となる人物は、各枝各分節に一人しか存在しない」
「一人?」
「その人間は収束点と呼ばれる」
 ロウオクは話を急いでいた。
「収束点は分節内に一人しか存在しない。他の世界のどこにも収束点のコピーは存在しない。分節でたった一人の収束点の振る舞いが、予測できない波となり、同じ分節内のほかの葉――世界に思わぬ形で影響を及ぼすのだ。たった一人が何かしたこと、しなかったこと。世界樹と形容される我々の世界を形づくるモノはただそれだけなんだよ」
「そんな」
「第七枝で世界分岐の研究が行われた、その結果だ。第十二枝に話が届いたのは、二代目の王が着任した時期だった」
「今までずっと隠してきたのか」
 ロウオクはそれには答えず、「第七枝で得られたデータは全て、収束点の実在を確証づけるものだった。第十二枝は、レギニータは、我々は、マーテルの指示で収束点を探さなければならなかった。分節内で収束点が存在する葉が、この葉の中だと言うからだ。そう、だからこそ第七枝から収束点にまつわる情報を得ることができた」
 ミナシキは急速に嫌な予感が膨らむのに必死に耐えていた。収束点という言葉には聞き覚えがある。つい最近のことだ、どこで聞いた?
「――実際の収束点の行動を規制することにより、第七枝の研究結果を精査するため、そして新たなる葉の発生を抑えてマーテルへの負荷を軽減させるためだ」
 話をちゃんと聞きながらも、ミナシキはもう収束点という言葉をどこで聞いたか、それしか考えられない。
 ついにロウオクからその一言が放たれた時、思い出した。
「そして今の収束点が貴様なのだ」
 夜区間で、だ。
 雨降る廃材広場の底でトルハイヨが言ったのだ。その言葉をキセリタが伝えた。
 ミナシキは黙っていた。
 ロウオクも黙っている。
 キセリタも、もうずっと前から自分はただのサーベルであると言わんばかりに。
「……我ら輪廻の鯨は、既に収束点を一人確保しているはずだった。貴様が鯨を去るまでは。それから次第に変わっていった。マーテルへの負荷は日に日に増し、分節に新たな葉が生えたり滅びたりしていく。収束点が生きている内から役が他へ移るなど、思いもしないことだった。新たな収束点が誰か、二つの知性体は教えなかった。マーテルにはそれを解析できず、王は教えなかった。インカーネイトが、じゃない。王がインカーネイトだけであらばすぐに分かったことだろう」
「レンシディが教えずにいたと言うのか」
「貴様がそのような意味の名さえ持たねばよかった。レンシディにとって自分とミナスの子はリゾングラーテただ一人。ミナスの息子など、そんな存在があるはずなかった。もうレンシディにとって貴様は存在しない人間だったからだ! いま収束点の役を持つ人間がミナシキだなどと、レンシディが王として発表できるはずがないだろう! なぜお前なんだ。何故よりによってお前が収束点なんだ!」
 赤毛の頭を振って自制をきかせ、ロウオクは窓を指差した。
「裏にまわれ。小径がある。そこをずっと行くんだ」
 感情が凍りつき、ただ目の前で座っているだけのミナシキに、冷たく言った。
「はやく行け」
 何も考えられぬまま、椅子を引いて立った。
 書院の外の空気を吸うと、次第に現実感が戻ってきた。現実だと、さっきの話が?
 しかし、次の王についてインカーネイトが何も言わず、トルハイヨが伝令に寄越され、輪廻の鯨は自分に一切危害を加えぬことを保障し、それは守られている。そうまでしておいてホラを吹きこむはずがない。
 書院の裏には、木立の奥へと続く下り道があった。そう長くなかった。一本道の先にあずまやに似た方形の建物があった。
 鍵はついてなかった。扉を押すと、軽い軋みの音と共にあき、ひとめでそこが遺骨安置所であると知れた。
 左右の壁に卓が据えられ、近付いてみれば遺影と聖典がおかれている。布で隠れた卓の下には遺骨があるのだろう。
 幼い子供もいる。自分と同じくらいの若者もいる。中年や老人。男や女。二代目の王の頃からというが、今の王はまだ四代目。多すぎるじゃないか。収束点の役というのはそんなに転移するものなのか。
 いいや。
 長生きできなかったのだ。
 だから遺影があるのだ。
 安置所を飛び出した。乱暴に扉を閉め、書院へと駆け戻った。
「ロウオク!」
 いなかった。ミナシキは焦り、書院を出る。入り口を目指した。やがて柵が見えてきた。閉まりゆく柵の向こうに、ロウオクの背中があった。
「待て!」
 音を立てて、柵にオートロックがかかる。柵をつかんだ。その瞬間、右手に強い電圧を受けた。腰を曲げて右手を押さえこんだ。ロウオクが振り返り見るのが、気配でわかった。
「居心地はいいかと聞いただろう。悪くないと答えただろうが。馬鹿な男だ」
 顔を上げ、憎悪の眼差しをぶつけるミナシキに、つまらなさそうに王女は言った。
「この結界は収束点には破れん。世話役は自由に出入りするから死ぬおそれはない。安心しろ。無理に越えようとすれば骨になるのが早くなるぞ」
 そう言って、口を歪めて笑った。
「我々にとっても面倒だからやめていただきたい。貴様にはキセリタがいるだけいいじゃないか」
「ふざけるな!」
「夜区間でメルヴィ大尉と会っただろう」
 ミナシキが目の色を変えるのを見、王女は満足げだ。
「前の収束点は彼の叔父だった」
「どういうことだ」
「その男は放蕩が過ぎ、家督を継いだメイルシュトローム家当主であるメルヴィの父により縁を絶たれた。インカーネイトが収束点として彼を拘束するよう命じ、それを遂行した後に、当主は大金を貢ぎにやってきたよ。あの馬鹿が何をしたかは知らんが、どうか殺されるようなことはよしてくれと。金で解決しようという魂胆は卑しいが、やはり兄弟だな」
「それで、どうした」
 赤く腫れてきた右手を庇いながら、ミナシキは笑うロウオクに態度で立ち向かった。
「好きに払わせてやったさ。だがある時期から金払いが悪くなってな。約束は約束だ。当主は思い知らなければならなかった。簡単なことだ。メルヴィ少尉に収束点の家族を襲わせた」
 王女はまだ笑っている。
「大した成果だ。押収物は誰もが青ざめるものだったからな。反教的文献の数々に大量の未登録の銃器、弾薬」
「どうせおまえらが仕込んだんだろう」
「どうだか、ただし成果は成果だ。メルヴィは英雄さ。無辜の民が狂ったテロリストに虐殺されるのを防いだんだ」
「そんな事であいつの身分を弄んだのか、クズめ!」
「それだけじゃないが、聞きたいか?」
「結構だ。だがそんなこと、メルヴィがおかしく思わなかったはずないだろう」
「当たり前だ。何か裏があることは分かっているだろうが、あの日踏みこんだ家が叔父の家だとは知る由もなかろうな。メルヴィは、真相を知ろうとすれば自分の命がないことをわかっていた。とにかく当主に、弟と息子は我々の手にある、上げるも落とすも好きなようにできる。それを分からせてやったのさ」
 ミナシキはロウオクを睨みつけたまま言葉もない。
「その収束点は給仕にきた女を刺し殺し、自らも死ぬ気で柵を越えようとして死んだ。まあ案ずるな、給仕くらい幾らでも代わりはいる。夜区間の移住希望者がその地を捨てたことは知ってるだろう」
 話しながら肩を竦めた。
「あのエグバートとやらにはそれを引き止める能力すらなかったのさ」
 そして、背中を向けて去っていく。宮殿へ続く道を。ミナシキが歩みえぬ道を。もう呼び止めることさえ出来なかった。視界から消える直前に、ロウオクは振り返った。
「そうだ。書院の二階から、レギニータ内のネットワークは好きなように閲覧できるようにしてやった。暇はしないだろう。そこから発信することはできんが、知りたいことがあれば好きに使うがいい。どうせ何もできんがな。宝の持ち腐れだ」
 その高笑いが遠のくのを、ミナシキは突っ立ったまま、呆然と送っていた。

 こんなことの為に戻ってきたのか。
 こんなことの為に。
 この離宮に押しこめられ、何をすることも許されない。王子として公務に就くことは愚か、誰かに会うことも、外の世界にものを言うことすらできないのか。行動を制限して他の葉への影響を小さくするために、どこにも行かず、何もしない。それがレギニータの為だと?
 ミナシキはもうずっと窓辺に肘をかけた姿勢でうつむいていた。広いベッドや本棚のある寝室は一見して地味だが、窓辺やドアノブのプレートなどに品のいい彫刻が為されている。何よりそれらの材質自体が貴重で高価なものだ。確かにここは、身分の高い人間が住むのにふさわしい空間だ。
 ふさわしくないのは、人のほうだ。
 何もせず、ただ寝て起きて生きてだけいろと言われて、どうすればいいのだ。
 こんなことの為に俺はヨセギに刃を向けたのか? 大佐を欺き、レーゼを良いように連れまわし、その行く末がこれか。
 レーゼの願いを背負ってここにきたはずだった。家族や町のみんなが内壁に住めるようになるのが彼女の望みだった。リコリスも。彼女はきっとミナシキがレギニータを変えると思っている。革命を夢見た聖職者としてその日を待っているはずだ。
 叫びだしたかった。こんなふざけた世界など消えればいい! あの鉄柵を越えて駆け戻り、邪魔するものは焼き払って、撃ち殺して、斬り殺して、殴り倒して、踏みにじって、走って走ってレンシディに目を覚ませと言うのだ。あるいは最初そうするつもりだったように、この手で……。
 それが出来ぬというのなら、インカーネイトなど壊れてしまえばいい。
 思い詰めるミナシキの頬を夕陽が染めていた。落日が、輪廻の鯨のはるかな足もとに沈んでゆくところだった。
「ミナシキ」
 もう暗い部屋の隅から、キセリタが静かに声をかけた。
「ミナシキ、さっき人が来て、お夕食と手荷物を置いて行ったわ。行きましょう」
 黙っていたが、キセリタは諦めずに呼びかけを重ねた。
「食べなきゃ身がもたないわ」
 仕方なくミナシキは立ち上がったが、食べるものなど見たくなかった。王族どもが「お前は無駄に生きろ」という意図の下に作らせた食事を食べたいはずがなかった。
 キセリタを手にぶらさげて、もう真っ暗な廊下に出た。廊下の突き当たりの階段の壁がガラスになっている。そちらの方だけ明るかった。
 階段を下りていくと、その大きな窓の明るさが不自然なことに気付く。
 窓の向こう、青白い光の明るさが、何の前触れもなく赤っぽい明るさに変わる。白い光に変わる。瞬きをする。人口の光だ。踊り場で立ち止まったミナシキは、書院の二階の窓からそれらの光が来ていることに気付いた。
 走った。書院に飛びこみ、電気もつけずに奥の階段を駆け上がる。
 二階では、大きなスクリーンが天井から下がっていた。そこに二人の男の顔が映りこみ、向こう側からスクリーンを叩いている。アングルで、あちら側のカメラが高いところに取り付けられていることが分かる。監視カメラだ。踏み台を使いカメラを覗いているのだ。どこのカメラだろう。誰だろう。
 だがその二人を、ミナシキはどこかで見たような覚えがある。
 うち一人と目があった。たまたまこちらを見たのではないように思えた。男がニタリと笑う。
 映像が切り替わった。
 血の飛び散ったシャンデリアのロビー。あまりのことにミナシキは呼吸さえ忘れた。夜区間のエグバートの基地に違いなかった。画像が乱れる。
 次の映像に血はなく、同じロビーを人々が行き交っている。
 また画像が乱れ、再び血の散る惨劇のあと。
 そしてまた、さっきとはまったく違う人々が現れる。
「何だ、何がしたい!」
 次にレーゼが映ったので、ミナシキは凍りつく。
 レーゼが、ミナシキが使っていた部屋で、ギターを構えて座っていた。カメラを見ている。レーゼはギターを弾くのではなく、ずっとネックの先をいじっていた。チューニングの動作だ。と、その動きを止め、両手を並べて指を動かした。最初分からなかったが、それは鍵盤楽器を弾く動作らしい。分かると同時に、手をギターに戻し、またチューニングのふりをする。鍵盤を弾く動作とそれを交互に繰り返す。
 ミナシキは、鍵盤を弾くときレーゼが唇を動かしていることに気付いた。
 なんだ? じっと見る。お。う。あ。――オルガン?
 オルガンを調律しろと言っているのか?
「なんのことだ、レーゼ!」
 映像が変わった。今度は暗い。あの廃材広場の壁の中の、突き当りのテラスだ。今度はヨセギだった。彼は腕を斬られてもおらず、体のどこかが歪められてもいない。
 空を指す、ハンドシグナル。蟲をあらわす動き。その指を下に向けて下ろしていき、バツ印を作る。
 蟲がいなくなった、あるいは、いなくなる合図。
 オルガンの調律、蟲がいなくなる。どんな繋がりがある?
 画像がまたもや変わる。
「エグバート!」
 ミナシキは身を乗り出した。エグバートは司令室の大きな椅子に腰掛け、肘掛に肘をおき、頬杖をついている。ミナシキを見て――そうとしか思えなかった――頬杖をやめ、ネクタイとスーツの襟を正すと、黙って頭上を指差した。眠たげな目はニコニコと上機嫌で、穏やかな表情だ。ミナシキが立ち竦んでいると肩を竦め、首を振った。「やれやれ察しが悪いねぇ」、……とでも言うように。ミナシキを指差した。そして、指先を動かしていく。文字を書いた。ミナシキは目に全神経を集中させ、その動きを追った。

『M』『A』『T』『E』『R』。

「キセリタ!」
 声をあげると同時にスクリーンが暗くなった。もう誰も映らなかった。だが十分だった。ミナシキを立ち直らせるのに、彼らは必要で、そして十分だった。
「インカーネイトに問い合わせてくれ、いいか、王じゃなくてインカーネイトだぞ。レンシディを含んだ『王』では息子の俺からの問いだという事を理解できんからな――」いっぺんに言い、唾をのんだ。「ハイダに接触しなかったか聞くんだ、あるいはマーテルに接触したか? マーテルはハイダについて何か言ったか!」
『待ってミナシキ、すぐに聞くわ。……』
「キセリタ」
『……インカーネイトは』
 張り詰めた声が真っ暗な部屋の中で答えた。
『ハイダの存在をあり得ない、バグとして処理しています。接触自体はしたんだわ。だけどマーテルと違ってインカーネイトは彼女を相手にしなかった。ハイダについて二度と問うなと言われました』
「分かった」
 ミナシキは部屋の電気をつける。明るくなった。ミナシキの心境も、その明るさと同じだった。
「行こう、キセリタ。まずは食事だ。そのあと一緒に考えよう」
 ミナシキは電源の切れたスクリーンを凝視していたが、踵を返して部屋を出た。
「なんとしてでもマーテルに行く手段を考えるんだ」
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