お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈24〉 著者:豊原ね子

夢見る病気〈24〉 第二章 Reginita(第十二枝 春)
第五話 死者の国の生者――2/3

 ―4―

 大草原に春が来れば、まだ消え残った根雪の下から若草が芽吹きます。
 若草が柔らかい葉に根雪を抱いて、大地のしずくに変えてしまえば、王国はもうすぐ夏です。
 夏の時間はちょっとです。夏のために、木々はせっせと新しい葉をだし、花は咲き、種をむすびます。果物には青くてかたい実ができてきます。
 大人の人も、私たちも、みんな家から出てきます。
 外壁の人たちはおいしい野菜やくだものを作って、内壁の人たちに感謝されます。
 内壁の人たちは丈夫な服や使いやすい道具を作って、外壁の人たちに感謝されます。
 もう春で、みんな遠くの仲良しな人たちにまた会えるのでニコニコしています。
 泣いている人なんていません。

(お話の国だね。)

 曲がり角を背景に人が立っている。石廊の先は暗く、この広場にも、廊下の先にも他に誰もいない。
「えっ?」
「お話の国の夢でしょう?」
 お姉ちゃんが、歩いてきて、小さな頭を撫でた。
「そういう顔してた」
 姉がベンチの隣に座る。寝ていた妹のぬくもりが残っているはずだ。よく似た姉妹は体を寄せ合い、髪を撫でたり相手の体に頭をすりつけたりして二人で笑った。
「おとなの人たちはどこに行ったの?」
「みんな先生のところに行ったのよ」
「せんせい?」
「そう。みんなが幸せに暮らすやり方を教えてくれるんだ」
「おとなの人もお勉強をするの? なんのお勉強をするの?」
 大人はみんなすごいから、文字を書いたり計算したりとか、もうそれを出来るはずだ。大人と勉強という言葉が、どうしても結びつかなかった。
「ね、冒険しようよ」
 姉が表情を輝かせて、妹の顔を覗きこんだ。
「怒られないから、奥の廊下に行ってみようよ」
「だめだよ、パパやおとなの人たちに怒られちゃうよ」
「大人の人はいないの」姉は両腕を広げて言った。「もういないんだ、ずぅっと、ずぅーっと。だってみんな先生のところに幸せになりに行っちゃったんだもの。帰ってきやしないよ」
「帰ってこないの? 夕方になっても? パパもママもおじいちゃんも帰ってこないの?」
「ええ、そうよ。隣のおじちゃんも、教会の司教さんも帰ってこないのよ」
 妹には、それがどういう事なのかよく理解できない。朝になればパパが出て行って、ママは家にいてたまにお買い物に行き、夕方にはみんな揃っている。違うのか。違うというなら、それはどういうものだ。
「夜になってもかえってこないの? お家がまっくらになっても? わたし、お部屋の電気つけられない」
 姉はそんな妹の肩を、優しく抱き寄せた。
「お姉ちゃんが一緒じゃない。暗いおへやの電気はお姉ちゃんがつけてあげる。ごはんも作ってあげるから。ね? お姉ちゃん、おかあさんより上手にお肉がやけるのよ。おやつのケーキやクッキーだって毎日作ったげる。ジュースをこぼしても怒らないし、寝るときは絵本を読んだげる、ね?」
「でもわたし」
 体を固くしながら、妹は姉に答えた。
「でもわたし、お姉ちゃんのお名前がわからない」
 姉は声をあげ笑った。何故笑っているかわからず、妹は上目遣いに姉を見るしかなかった。姉はひとしきり笑った後、妹の小さな頭を胸に押し付けて撫でた。
「お姉ちゃんはね、チカコ、て言うんだよ」
「チカコ」
「ずっと知ってたよね」
 妹はわからなくなる。ずっと知っていた? そうなんだろうか。いつから、この人の何を知っていたというのか。姉は妹の不安を知った顔で、背中を促しながら立ち上がった。
「おいで! 一緒にいろんなとこに行こう!」
 青空と雲が描かれた天井。色ガラスの花壇。姉の背中を追いかける。振り向いて、彼女は笑う。はやくついておいで。二人は走る。走っているうちに楽しくて、楽しくて仕方なくなる。
「待って、おねえちゃん!」
 配管むき出しの廊下になっても天井は青空。塗装のはげた晴天に、二人の歓声がぶつかる。振り向きながら差し出された手を、妹はつかんだ。壁を這う、ながい蛇のようなパイプ。その先が外で降雪でも、体は火照っている。
 町は切れぎれの廊下の隙間を埋めて、細く長く続く。うんと高い建物は、みんなで住む共同住宅。雲の色は暗いスミレ色、なのに降る雪は白色。そのからくりがどういう事か、いつだって分からない。
 靴がすぐに濡れた。大人たちは本当に、もうどこにもいなかった。明かりがない。お昼ごはんの匂いも、その煙もなかった。足が冷たい。新しい靴下を出してくれるお母さんも、いない。
 蛇行する道の先に立ち塞がる建物が、さっきの廊下の続きだ。
 どうしてこんなに大きな建物があるのかわからない。体の大きな人が住んでいたのだろうか。廊下は暖かかった。ごく弱い、あたたかい風が吹いているようだった。
「お姉ちゃん!」
 廊下が広くなった。二手に分かれた階段があり、階段の上は、柵がついた廊下。
「お姉ちゃんは、いつからわたしのお姉ちゃんだったの?」
「ずうっと昔からよ!」
 踊るように身を翻しながら言った。
「あなたと私が生まれる前からよ。運命っていうのよ」
 この階段の先には行っては駄目だと言われていた。でも姉はためらいなく上り、扉を開け放つ。そこは真っ暗な長い部屋で、遠くに廊下の続きが光って見えた。
 鉄のはしごを下り、両側を壁で圧迫された螺旋階段を下りる。どれほど深い地のなかへ、下りていくのだろう。
 水路に出た。深い深い切り立った壁の下から、はしる水の轟音だけが聞こえてくる。水路を覗くが何も見えない。一本かかるアーチ橋へと、姉が足をかける。それを追う。立ち上って顔に当たる風は、冷たく湿っていた。
 出口があった。
 地下深く下りたと思ったのに、外は建物の高い壁に取り付く鉄の廊下だった。
 舞い踊る雪に目を細めれば、緑青色のとんがり屋根が眼下に連なっている。その奥に一際高く聳え立つ黒い塔があった。塔のいただきは廊下の屋根に隠れていて見えない。
「すごい音がするよ!」
 ほとんど聞き取れないような、振動というべき低音が、大気を満たしていた。音の出所はわからなかった。それは街の隅々まで、屋内も、屋外も、高いところも低いところも満たしているらしかった。屋根たちの下の回廊は、黒い塔を目指している。
「ほんとうだねえ! みんなこの街を隠していたんだねえ」
 回廊をたどり、最初のとんがり屋根の下に入った。そこは屋根裏部屋で、円錐の高い天井の下に、三脚の小さなテーブルがあった。テーブルは赤く塗られ、天窓に向けて一本の針がまっすぐ伸びている。その針が鳴っていた。近付くと、音が高くなった。
 顔を近づけ、針を凝視した。
 手をかざす。音が高くなる。
 手をはなす。音が低くなる。
 二人はテーブルの周りをぐるぐる走り回った。その動きに対応し、音が変わる。笑い疲れるまで遊んでから、屋根裏部屋のはしごを下りた。
 下の階にも同じテーブルと針があった。その針も、二人の位置によって音を変える。その下の階も、そのまた下も。回廊への扉。外に出て、初めて建物じたいが針と同じはたらきをしている事に気付いた。建物を遠ざかると、背後の音が低くなる。別の塔に近付いていくと、前方からの音が高くなる。
「すごいねえ。ああいう音の鳴るやつがたくさんあって、街の音になってるんだねぇ」
 妹はもうそれに感心する気持ちではなかった。もう音の針に飽きはじめていた。それよりも、なぜ音を鳴らしているのか、住んでいる人はいないのか、人が住むための建物はないのか、もっと面白いおもちゃはないのか。その方が知りたかった。
 どこにも生活の気配はなかった。音のテーブルと針が幾つもあって、それぞれが調和して一つの音を鳴らしていること、それが分かっただけだ。ひとつの塔を抜けるたび、回廊は暗く、風は強く冷たくなる。回廊の下には白く光る糸が張り巡らされていた。あれはどうした意味を持つものだろう。糸にぶつかる風が裂かれて悲しく泣くのだった。
「お姉ちゃん、どこまで行くの? もう足がいたいよ」
 前に立つ姉の腕を引き、泣き出しそうに言う。
「痛いの? おんぶをしてあげようか」
「うぅん、帰りたいの。お家に帰りたい。さむいよ」
「一緒にいかないの?」
 この姉が恐ろしいことを問うから、妹は心底震え上がる。
「いっしょに帰るの! ひとりじゃ帰り道がわからないよ!」
「だったらお姉ちゃんと一緒にいなきゃ駄目じゃない。ね? 大丈夫よ。お姉ちゃんは来た道が分かるから。もう少しだけ先に行こう」
「でも」
 強い風が吹いた。咄嗟に頭を押さえたが、それより早く帽子が浮く。あっ、と声をあげた。
「動いちゃ駄目!」
 すかさず言って、姉が帽子を追って走る。
「お姉ちゃんが取ってきたげるからね! 動いちゃ駄目よ、リコリス!」
 風向きが変わり、飛ぶ帽子の軌道が回廊の外にそれる。
 チカコが手すりに足をかけ、それを蹴った。一瞬飛び上がったチカコが、姿勢を変えずに落ちていく。
「お姉ちゃん!」
 妹は叫んだ。ここは底が見えない高い回廊で、姉はそこを落ちていった。どういう結果になるかぐらい、幼くてもわかる。なのに、なぜ姉は跳んだのか。姉が落ちて死ぬことよりも、姉の軽はずみな行為のほうに、最初の恐怖はあった。
「お姉ちゃん!」
 凍る手すりを両手でつかみ、闇に顔を突き出した。髪の毛がぜんぶ横に流れる。
「お姉ちゃん――」
 白い糸が一箇所だけ、黒く染まって滴っていた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」

(お話の国だね。)

 目覚める、リコリスは。

 ―5―

 ふと我にかえったミナシキは、手をかける卵形の王座に血が滲んでいると気付いた。それは卵の継ぎ目からこぼれ、つややかな壁面をむごく色づけしながら床に滴る。
 立ったまま一瞬意識を失ったのだろう。膝から力が抜ける感覚と、急に無音になったこととでそれは覚めた。
 軽く頭を振って、意識をはっきりさせた。
 この感覚は、油狗の声を聞いたときのものに近い。あれほど頭の中を圧迫していた夜の音がない。耳をすませても息を止めても聞こえてこなかった。
 最後に強い光を見た。卵の内側からだ。記憶はちゃんとしている。
「レンシディ」ミナシキは呟き、卵から静かに指を離した。流れ落ちる血は、これが大人ひとりから出たものであれば、もう死んでいるだろうと確信させられる量だった。
「レンシディ……レンシディ! 陛下!」
 一度は離れた王座へと、血を踏んで飛びかかり、殴るように拳で打った。
「母上!」
 応答はなかった。外から殻を開ける手立ては、どうやら無いらしい。空しく爪を立てた。内部からの応答はなかった。
「キセリタ、何が起きた?」
 返事がない。「わからない」すら言わない。ずっと。
「キセリタ?」
 サーベルの柄に手をかけて、腰のそれを顧みる。
「おい」
 返答はなかった。ミナシキは焦り、サーベルを強く揺する。
「キセリタ!」
 どこも無音だった。誰も異変を察知して、駆けつけてきたりしない。王座が開く気配もない。機械たちは動作音ひとつ、排気音ひとつたてない。そしてキセリタが答えない。ミナシキは大声でキセリタを呼んだ。顔の前にサーベルを持ってきた。そんなことをしても意味がないことを、頭では分かっていた。せずにはいられなかった。
 結果は変わらなかった。
 キセリタがいない。
「キセリタ――」
 いなくなった? 馬鹿な。声が聞こえなくなったのか、出せなくなったのか。いずれにせよインカーネイトの作為か、変調によるものに違いない。そのどちらか、今のミナシキには分からない。ただインカーネイトがReRouEを消すなど、あるはずが無いことだ。ReRouEはインカーネイトが、統治対象の人間についてより深く知るための出先機関。
 だからインカーネイトは、王宮から持ち出されたキセリタにも、今日まで生きることを許していたじゃないか。
 彼女が消されるはずなど無い。理由がない。理由など、あってたまるものか。そんな答えは感情が許さない。サーベルを強くつかんで王座に背を向けた。大股で歩み去る。ここにいたって始まらない。調子が悪いだけだ。キセリタは、必ず戻る。声が聞けるようになるはずだ。そうじゃない筈がない! 機関室に行くんだ。インカーネイトをどうにかするんだ。それで俺は? 俺は捕らえられるだろう。それから……いや、今はキセリタを。
 入り口のシャッターが開いていた。
 シャッターの下一面に血だまりが展開していた。
 ミナシキは走った。血がはね、服の裾を濡らす。ロウオクはいなかった。ただ、シャッターの下が血でぬかるんでいる。
 同じだ、夜区間と。
 銃器を回収し、装着しながら先を急ぐ。
 何度も乗り継がなくてはならない長いエスカレーターを、ミナシキは駆け下りた。息が切れ、鼓動がとんでいるのはその為ばかりではない。インカーネイト機関室の場所を、ミナシキは知らなかった。防衛上の目的から輪廻の鯨に地図はない。頼みのキセリタとはコミュニケーションが取れない。
 目印の扉を開け放つ。
 とんでもなく冷たい風が、全身を叩いた。
 間違えたかと思った。そこに続くのは明るい廊下ではなく、暗い水の流れだった。水路に変わっていた。いや、変わるはずなど無い。ミナシキは引き返そうとしたが、扉のナンバーを見れば来たとき通った扉に違いなく、間違えているとしても、こんなところに水路があるはずもまた無い。進退窮まり、幅の狭い通路の横を流れる、黒い水の水面が輝くのを見ていた。光があるのだ。その光は、左手の方から来ていた。そちらに出口があるらしく、夜空の光が差してくるから水面が銀色に揺れるのだ。
 サーベルを握り直す。いつどの瞬間キセリタがしゃべり始めるか分からない。期待は行き止まりに着いても叶わなかった。横の鉄柵をくぐって水は流れ続け、ミナシキは鉄梯子を上る。
 自分が輪廻の鯨のどこにいるのか、予測を立てるのは困難だった。どこも明かりは消えていた。それゆえ黒い大きな影の只中にいるよう、ミナシキには感じられた。一番明るいものは空の星だった。
 真冬なみの寒さ。サーベルを握るままの手で、無意識に腕をさすった。鞘の金具は冷たく凍り付いていた。
 向かいの塔のシルエットが星を背景に黒い。
 と、その中ほどに、ひとつの明かりがついた。ミナシキはそちらに顔を上げた。目線はすぐに、さらにその上を向いた。
 塔の上を蟲が飛び回っている。
 結界が破れたのか。実験施設から逃げ出したのか? 蟲はまだミナシキに気付いておらず、明るい窓に近付いて、その姿を光にさらした。明るい青が目を刺した。震霊に手をかけたミナシキは、その光沢の正体に思い至り、手の動きを止めた。
 斑猫(ハンミョウ)だった。
 あの時の、大陸橋で出会った雌の斑猫か。エレベーターホールを舞い上がる斑猫を、鮮明に思い出した。そのイメージが伝わったように、空の斑猫が動きを止める。斑猫が振り向いた。暗くても、何故かそのことは分かった。
『彼女を知っているのか!』
 声が聞こえた。頭の中に、直接。それは普段夜の音を感じていた、後頭部のあたりだった。あれは雄だ。雄の斑猫が飛んでくる。ミナシキの頭の上を、困惑したように円を描いて飛び回った。
『お前か、ヒト! いま彼女のことを教えたのは、お前か!』
『そうだ』
 ミナシキは応じた。斑猫は変わらず頭上を旋回している。
『信じられん……冗談だろう。我々の言葉を解するヒトだと』
『信じられんなら襲えばいい。俺は迎え撃とう。だがあのメスの斑猫はそうはしなかったぞ』
 幻とは思えなかった。確かに聞こえていた。ミナシキは、いよいよ認めた。
 蟲に知能があり、自分はその声を聞くことができると。
 斑猫は旋回の幅を狭めていき、ミナシキの横の狭い通路に、窮屈そうにゆっくり下りてきた。

 ―6―

 どこ? リコリスは何度も、走ったり、疲れて立ち止まったりしながら、同じ事を問いかけていた。ここはどこ?
 夜空は星が出て明るかった。レギニータ表層部だ。けれど立ち並ぶ建物群は、レギニータの民家の建築と違う。民家にしては無意味なほど建物は大きい。壁に手をつき、息を切らしながらそれを見上げた。八階まである。街灯を照り返す屋根や窓枠が赤く、壁は塗ったばかりのように白い。見たことのない町並みだった。こんな所、写真ですら知らない。いいや、でもここはレギニータだ。そのはずだ。リコリスは胸に問う、私は穴を潜ってきた。街路樹の一本に寄りかかり、座りこんだ。
 メルヴィに、行くなら行けばいいと言われたのだ。メルヴィはリコリスが事情を語るのに黙って耳を傾けていた。彼はリコリスに優しくしたりなどせず、そっけない態度で応じたが、心では同情していることが伝わってきた。
「中は入り組んだ階段になってるけど、一本道だから迷いはしない。出たところで警備兵が待ってるようにしとくから、それに歯向かうなよ」
 着いた先がこれだった。迎えの警備兵などいなかった。
「メルヴィさんはどうなさるのですか?」
「俺はまだ帰っていいと言われてない。とにかく、あんたを通していいとは言われたから。自分の心配をしな」
 帰っていいと言われるまで、彼は帰らないのだろうか。もしこのままずっと帰れなくなったら、彼はどうするのだろうか。そんなことを思った。メルヴィが言うとおり、自分の心配をしていればよかったのだ。し過ぎるということは無かった。
 迎えどころか誰もいない。廃墟の町、よく清掃された、人間だけがどこにもいない街が待ち受けているなど、どうして想像できただろう。
 リコリスは疲れた足を休めながら、両側の建物を見上げた。これがアパートメントだとしても、アパートメントばかり並んでいるならそれはそれで不気味だ。誰一人いないというのに。どれも隙間なく並んでいる。もとは少しずつ離れていたようだが、明らかに後から造り足したとわかる廊下で繋がれている。
 走りすぎて喉が痛い。玄関のひとつに歩み寄って扉を押すと、鍵は掛かっていなかった。扉は、予想外に軽かった。
「すみません」
 いきなり立ちはだかる闇が、リコリスの声を吸収した。
「誰かいらっしゃいませんか!」
 息詰まるような屋内に慣れれば、窓からの微かな光で手洗い場が見えた。蛇口に手をかけたが、固くてとても回せなかった。水が欲しい。喉の痛みを癒してほしい。リコリスは首を振って手を離した。作り物だ。この蛇口は回せるようにできていない。
 一番近くの部屋をのぞく。
 窓にカーテンがなく、テーブルに盛られた果物かごが目に入った。近寄って手に取ってみるが、中の林檎は作り物だった。どれも。部屋を出る。次の部屋にはチョコレートがあった。その次にはパンが。
 どれも粘土細工だった。
 この町には水も食べ物もない。人間が住めるようにはなっていないのだ。これ以上確かめる気がしなくて、玄関を出た。
 空からは冷たい風が吹いていた。背中を押して、早く行け、早く行け、と促している。やがて細長い道の先で、明かりの点る廊下が口を開けていた。その建物の壁は高く、夜天に紛れている。焼かれて身悶える人のように形が何箇所も折れ曲がっていた。何より夢で見た世界に似ていた。
 どうしよう。
 吹く風に背中を押されながら、リコリスは凍りついている。
 戻ろうか。
 今来た道を戻れば、第十一枝に戻れるはずだ。一人で廊下に入るのは、リコリスには恐ろしすぎた。髪を押さえて振り向いた。通ってきた道に、何の変わりもなかった。
 いや、戻っても仕方がない。第十二枝には誰もいなくて、夢で見た世界に似ていたから怖くなって戻ってきた、なぜそんなことが言えよう。廊下へ一歩を踏み出した。
 何かの手違いだ。きっとこの廊下の先に、よく知ってる世界があるだろう。そうでないはずがない。この変に見える形の建物だって、明るいうちに見ればどうってことはない。芸術家気取りの変人が意匠を凝らしすぎただけだ。珍しいことじゃない。
 ここはレギニータだ。きっと幼い昔に来たことがあって、だから夢に見たんだ。
 廊下に駆けこんだ。雲と青空の天井。夢の中では、この先に色ガラスの花壇の広場があった。
 そしてそれが実現したから、リコリスは立ち竦む。
(お話の国なの?)
 声が聞こえた。頭の中で再現された記憶の声だった。
(お話の国の夢でしょう?)
「夢じゃない」、声に出した。リコリスは慎重に、広場の中央に歩いていった。夢で見たのと同じ。でもこれは夢じゃなく。
 ところで、いつ夢を見たのだろう?
 心臓が破裂しそうに跳ねた。何気なく浮かんだ疑問が、とんでもない意味を持っていることにすぐ気付いた。リコリスは寝ていない。メルヴィと別れ、穴を通してもらい、それからずっと穴の中の階段を歩き続けてきた。歩き続けて、それから……町を歩いていた。
 記憶がない。途中で眠った記憶も、穴を抜けた記憶もない。
 ない。
 帰る! リコリスは踵を返した。帰る、帰ろう、戻るんだ。助けて欲しい。メルヴィに会おう。彼が言葉通りに、まだ第十一枝に残っていることを切実に願った。
「どこに行くの?」
 不意に背中に誰か立った。
「リコリス、どこにいくの」
 走り出した足が硬直し、リコリスは振り返れない。振り返れば、そこに夢で見た人がいることは間違いなかった。声だけでなく、気配でわかる。それは幼い足音でこっちに来る。
「どうしたの? お姉ちゃんと行こう」
「私に」声を振り絞って答えた。「私に、お姉ちゃんはいない!」
 拳を握り、駆けもどった。後ろから追ってきてはいないか、確かめていられなかった。やがて外が暗く見えた。向かい風が押し戻した。目を細め、喉いっぱいに針のような冷気を吸う。
 屋外へ体を躍らせた。空気が軽くなる。だがそれは一瞬の錯覚で、リコリスはまだ向かい風の中走らなければならない。膝に力が入らなくなり、何回か転びかけた。余裕があれば、無駄と知りつつ人の名を叫んでいただろう。ミナシキ。今レギニータにいて、生きていて、唯一頼りになりそうな知っている人。
 街路樹に手をつき、喘ぎながら苦しさに涙ぐんだ。並木道はそこで行き止まりだった。左手に、扇形の下り階段がある。段差が浅く、幅が広い。貼られた正方形のタイルが乾いている。通った覚えがなかった。しかし他に道はなく、記憶が抜けている間に通ったと思うしかなかった。
 息が整うのを待たず、階段をさまよい下りる。ミナシキは助けに来ない。そもそも彼がここに居るはずがない。
 階段の斜度がきつくなり、カーブの先に町の向こうの光景が開けた。
 頭上にあの白い糸が、幾層にも張り渡されている。そして緑青色のとんがり屋根の群れ。そしていつしか雪空。
「リコ!」
 背中に、あの幼い声が追いかけてきて刺さった。
「リコリス、待って!」
 夢とちがい、あの音の振動はなかった。階段は糸の層の下に入ったところで切れた。どこまで、いつまで『お姉ちゃん』が追いかけてくるか分からなかった。そして、来た道を戻ったはずなのに、もはやこの道で第十一枝に戻れるとはもう思えなかった。喉の灼熱感は堪えがたく、咳きこみ、それでも一歩でも遠くへと、足を歩かせた。
 見上げても、糸が縦横に光るばかりで、尖塔群の頂などわからない。この塔の隙間を石畳の道は複雑に這い延び、いつ次の角から『お姉ちゃん』が顔を見せるか、リコリスは怯えていた。
 積雪から突き出す人の腕が、リコリスを待ち構えていた。それは布で出来ていて、周りには足や胴や、中身のビーズが散らばっていた。
「お姉ちゃん……」首を拾い上げた。毛糸の髪と刺繍糸の顔を雪明りにさらした。「お姉ちゃん」、顔も、胴体が着たままの服も、お姉ちゃんに違いなかった。頭上の糸の網は重いものが落ちた痕跡をとどめて大きく撓んでいる。
 壁に、街路に向けてスピーカーが取り付けられていた。リコリスが見るのを待っていたように短くハウリング音を鳴らし、次いで言葉を発した。
 男の声だった。
「お前もいずれそうなる」
 リコリスは体を震わせて、首をとり落とした。
「お前はそれと同じだ。死ねば本性を現す。お前は人形だ、この町は人の姿のまま生き延びられるようにできていない」
「誰?」
 リコリスはスピーカーに、それを操作する人間に問うた。
「どこにいるの?」
 この人形を見せるために、自分をここに追い立てたのか。
「どこにもいない。お前と同じだ」
「私なら、います」
「どこに居るという。ここがどこかを知らないはずだ」
「ここはレギニータでしょ、輪廻の鯨に近い町なんでしょ? 私が不案内だからってからかわないで下さい!」
「レギニータだというなら走るがいい。もう一度、知っている世界を視野に納めて見るがよかろう。できるものならな」
 空に亀裂が走った。いいや、頭上の糸の一本が千切れる音だった。風を切りながら、恐ろしい音を立ててリコリスに迫ってくる。体を避ける余裕はなかった。ただそれが直撃する寸前、腕が頭をかばった。
 腕が裂け、跳ね飛ばされてリコリスは倒れた。
「痛いか」
 背中を丸め、顔をしかめて掌で傷を押さえた。
「痛むか。痛くはないはずだ。お前はそれを感じていない。感じているというなら錯覚だ、目を開けてみるがいい」
 きつく閉ざした目を開けると、確かに痛みが遠のいた。
 痛いと思っていただけだった。裂けた二の腕に触れた掌は、血のぬくもりを感じない。
 腕からは、血ではなく、白いビーズがこぼれていた。
 腕をきつく掴み走った。これ以上ビーズがこぼれないように。中身が抜けたから、右肩が軽くぺしゃんこになっている。
「これは幻か。まだ俺がお前をからかっていると思うか」
 スピーカーはどこにでもあった。声は追いかけてくるばかりでなく、逃げる先々に待ち受けていた。
「人間だというなら飢えと渇きで死ね。狂って、我を失って死ね。それが人間らしい」
「私は」リコリスは、かき消すように叫び返した。
「死にたくない! 私は人間よ!」
 行く手で街が切れるのが見えた。鉄柵があり、それをよじ上る。柵の天辺に青いケープが引っかかった。首のボタンを引きちぎり、積雪に飛び降りた。
「リコリス!」
 お姉ちゃんが、廊下の暗がりから慌てて走ってきた。
 リコリスは振り向く。
 塔の街の大きな模型が広場の中央にあった。
 人差し指ほどの高さの柵に、小さな小さなお人形の青いケープが引っかかっている。
「お姉ちゃん、痛いよ」
 幼い妹が泣いているので、お姉ちゃんは膝をついてリコリスを抱きかかえた。
「ごめんねリコ、お姉ちゃん、意地悪しちゃったね。ごめんね。もう置いていかないからね」
 そう言って、ハンカチを出し、リコリスの上腕を縛った。白いハンカチが血を吸って赤く染まっていく。
「いたい……」
「ごめんね。大丈夫よ。さっ、お姉ちゃんがおんぶしてってあげる」
 背中を見せるお姉ちゃんに甘え、リコリスは肩に腕を預けた。膝の裏にお姉ちゃんの腕が入り、お姉ちゃんは歩く。
 黒い雪が道端に積み上げられている。何でもいいから、水が欲しい。だけどあんなのは汚くて、とても口に入れられない。
「お姉ちゃん、喉が痛い」
 広間にも、廊下にも、天井はなかった。黒い雪と二人を、高い壁が囲いこんでいるだけだった。
「お姉ちゃん、わたし怖かったの」
「何が怖かったの?」
「さっきの塔の街」
 背中の骨を揺さぶって、お姉ちゃんは笑った。
「リコリス、塔の街は模型なの。お人形さんしか住んでないわ」
「おはなしの国のゆめなの?」
「そうよ。夢を見ていたの、あなたはずっと」
 妹は、納得し、目を閉じ姉の歩行の振動に一切を委ねた。
「喉が痛い……」
 弱弱しい呟きを乗せて、お姉ちゃんの背中は二度と広間に帰らない。

 ―7―

 輪廻の鯨――そのはずだ――の廊下をミナシキは歩き続けた。隣には斑猫を連れている。蟲を好こうというつもりはない。言葉が通じるから情が湧いたでもない。ただ捨て置くことは出来なかった。叶わなかった母の念願を、おのれが叶え得た理由が知りたい。
 廊下の赤絨毯を斑猫の脚が這う。おかしなものだ、こうも行儀よく、蟲がヒトの住み処を行きかうとは。シャンデリアを照り返す青や橙の光沢を、美しいと思わないでもない。斑猫はずっと、あの雌の思い出を呟いている。
「生意気な女だった。初めは口もききたくないと思ったもんだ」
「いつから交際していた?」
「実地に入ってからだ。実地――つまり、人間の世界。ここだ。口は悪いが、気の利くいい女だった」
 惜しかったな、とミナシキは言った。それは適当なあしらいであると共に、身に差し迫った深い共感でもあった。俺はキセリタを失おうとしているのか? この斑猫のように? 斑猫は憐れであり、それゆえ恐ろしかった。
「我々は記憶を消されている」
 斑猫の黒い目玉が天井近くから見下ろしていた。
「どういうことだ。何故?」
「ヒトに何一つ語らずにいるため。我々は罪を犯した。だからこそ、大きなヒトの世界に派兵された」
「ここはおまえたちの流刑地なのか?」
「分からん」と、斑猫は素直に答えた。「おれは、自我が芽生えた瞬間から蟲の姿でいた。その時おれは戸惑った。記憶をなくして目覚めたからだ、そう思った。だが彼女は違った。おれが、おれ達がこの姿だから、だから戸惑ったのではないかと言ったんだ」
「この姿だから?」
 ミナシキは目を細めた。
「俺は記憶をなくしたとて、人間の姿でいることに戸惑ったりはしないだろう。何が言いたい? おまえは本来蟲ではなかったと言うのか?」
「そこまでは言わん。記憶が消えてもおれの胸にある信仰は消えない。だが彼女は違った。こう言った、記憶を消されたのではないかもしれんと。『記憶を消されたという記憶を入力され生み出されたものではないか、我々は』、と。おれには分からない」
 廊下が三叉に分かれ、ミナシキは一番左を選ぶ。
「待ってろ」
 近くの広間に入ってみれば、外で唯一明るい窓はまだずっと遠かった。繊毛の生えた脚を屈め、斑猫は廊下で待っていた。
「信仰とは?」
「ヒトを殺せ、ということだ。我らの世界に小さきヒトがおり、同じくヒトの世界に小さく低俗なムシたちがいる。神は殺せと命じたのだ。平等に。公平に。互いの醜い容姿を嫌い、殺しあえと命じたのだ」
「記憶喪失が偽りの情報だとしたら、その教義らしきものを信じる根拠はないだろう」
 怒るかもしれぬと思ったが、斑猫は言い返さなかった。
「仲間はいないのか」返事がないので話を変えた。
「はぐれたのか。一人で結界を突破したのか?」
「気付けばここにいた。仲間たちと眠っているはずだった。夢で飛んでいた。しかし飛行は夢ではなかったのだ。いつしか現実になっていた。飛び続けるうちヒトの都にたどり着き、そこにお前だけがいた。おれの声を聞けるヒトが」
「夢のような話だな」
「そうだ。本当は夢ではないかとおれは疑っている」
 夢なら死んでみるか。いいや、そう思っただけだ。言いはしない。斑猫の通った抜け穴がどこかにあるだろう。蟲の世界直通の橋が、結界内に開いたかもしれない。
 俺はヒトがムシに変わるのを見た。
 ミナシキは唇をかんで、そう言いたいのを堪えた。言ってなんになろう。しかも、ヨセギが蟲に変わる瞬間を目撃したわけでもない。羽音は聞いたが、姿を目視すらしていない。
 そういえば、あの油狗は、どこから入って来ただろう。
 嵐の夜の大草原を、トラックで渡った時の、あの夜の蟲はどこから来たのだろう。結界のどこかがほころんでいて、強行突破してきた? 本当に?
「おい、おまえ」動悸を悟られぬよう、真顔で斑猫を見上げた。
「歩き始めてどれくらいになる?」
「三十分程度か」
「ああ」
 ミナシキは頷いた。自分が斑猫の応答に満足したのか、どうなのか、複雑な気持ちだ。
「おまえは蟲でありながら、時間の感覚はヒトと同じなのか」
 並びあうヒトとムシの雄は、共に歩む脚を止めた。斑猫が何を思っているのか、表情など分かるはずがなかった。ただ、答えないので重ねて言った。
「俺は人、貴様は蟲だ。世界の見え方が違う。発達した器官が違う。どうして貴様が人の感覚で時間を捉えることができる」
「違う」
 斑猫は答えた。
「お前が、人間、お前が蟲と同じやり方で時間を捉えたのだ! 勘違いをするな、何故自分が正しいと言い切れる」
「当然、ここがヒトの世界だからだ。こちらに来たことでおまえの意識が変質したか、もしかしたら、おまえが人間か」
「ぬかせ!」斑猫は翅を広げて威嚇しようしたが、そうするには人間のための廊下は狭すぎた。
「おれはムシだ、おれの声が聞けて感覚も同じというのなら、ヒトの中でもお前一人だけがおかしいのだ」
「もうひとり誰かがここに居たとして、その人間と俺の時間の捉え方がそう大きく違うとは思えん」
 見上げると、斑猫はどうにか動揺を堪え、広げかけた翅を収めつつあった。それを待ってミナシキはまた尋ねた。
「おまえはどこに行きたい?」
「橋を探す。こうしてヒトとあいまみえたことを報告しなければならない」
「見つかりそうか?」
「いいや。風を感じることが出来ないのだ。橋から吹く風の色が。橋の色の匂いをムシ族はいつでも見ていることができる。だがそれがない」
「俺もだ。明かりの点る部屋を目指しているが一向近づけない。おまえともう三十分ほども歩き続けているのに」
「おれがお前に教えた教義は、ムシとヒトが協力して何かを為すことを許さぬものだ」
 斑猫とミナシキは互いの目を見詰めた。それは人間らしい意思疎通の取り方だ。言わんとすることが分かる、ということも。ミナシキは頷いた。
「別れよう。俺とおまえが共に居ればどちらも行くべき所にたどり着けない」
「一人で行くのか?」
「ああ」
 ミナシキは躊躇いなく答えた。
「おれと一緒には来ないか。共に橋を見つけて渡ることは許されずとも、おれが拉っし去る形は許されよう。話ができるヒトというのは未知なる存在だ、悪い扱いはさせん」
「蟲の世界へ一緒に来いだと? 馬鹿ぬかせ。俺は人間だ。それとも、見知らぬ世界で一人になるのが怖いのか。ヒトの習性と変わらんな」
「我々をヒトと同じにするな!」斑猫はまた、怒りを見せた。
「お前らに、あまりにも多くの種族を抱えた我らの悲しみが分かるか。同じ蟲同士で殺し合い、蔑みあい、喰らいあって築きあげてきた陰惨な歴史がわかるか! それを避けるために、住み分け可能な異世界を探さねばならぬ辛さが分かるか! それに引きかえ人間など……」斑猫は身震いした。「分かるまいな。お前はヒトだ。肌の色髪の色目の色の違いなど微々たるものに過ぎん。そうした違いしか持たぬお前らには到底分からないだろう。誘ったのは気の迷いだ」
「お別れだな」
「ああ。お別れだ」
 斑猫とミナシキは、少しずつ互いに背を向けていき、ついに顔を背けた。斑猫は背後から襲いかかろうとしなかったし、ミナシキもそうする気はなかった。ただ、別れた。
 それからもう少し歩くと、向こうから機械的な羽音が聞こえてきた。銀の箱に四枚の翅を生やしたような、奇妙な機械だった。それはミナシキの前まで飛んできて、顔の横に滞空した。
「やっと会えたわ、ミナシキ」
「ハイダか」
「ええ。今までどうしても会えなかったの。あなたが私を探してるだろうって分かってたけど、どうしてなのかしら。いいわ。このまま明かりのついた部屋に来て」
「その姿はなんだ?」
「ミヨミを探すために作った〈蘇比〉よ」
 変わらず顔の辺りを飛びながらハイダが説明した。
「私はミヨミを失った後、堂嶋蘇比の経歴について徹底的に洗ったの。乳児の頃から失踪するその日までの全てを。記録に残る文書や誰かの覚え書きや写真や、何でもないメモまでかき集めた。それをもとに蘇比の擬似人格を作り上げ、こちらの世界で彼がどう振舞うかをシュミレートさせたの。この器は蘇比のための器よ」
「中身はどこに行った?」
「流出してしまった。恐らくこの世界に最もふさわしい形、霊子、もしくは神霊としてどこかに存在しているでしょう。彼なら二つの世界の仕組みを利用して自己存続できるはずです」
 長い渡り廊下に出た。そこから見える明るい窓は、信じられないほど近かった。
「私たちの世界では、人は死んだら本になるの」
 ハイダが耳元で意味不明なことを言うので、ミナシキは睨むように機械を見、先を言うよう促した。
「信じないでしょうね。私が、あなた方の言う霊を信じないように。私たちは本になるのよ。人は死ねば、その人生の全てをつづった壮大な書物になる。扮書というの。だけどある時扮書が生まれた。死産だった。一日たりとも人として生きなかったのにその胎児は扮書になっていた。私たちは秘密を知りたかった。命はどこから来たるものか、人の心はいつから始まるのか、知る必要があった」
 だけど、「扮書はこの世界に堕ちた……」
 廊下の角を曲がり、あたりをつけて一室の扉を開けた。あの明るい部屋だった。
「ミナシキ!」
 機械が弾けるように姿を消し、間近で女の声が呼んだ。しかし部屋のどこにもそれらしき姿はなかった。青い絨毯、机と地球儀、本棚や望遠鏡があるばかりだ。
「ハイダ! どこにいる」
「ミナシキ」やがて落胆した声が、机から聞こえてきた。
「やっぱり会えなかった。私はこの部屋にいるわ。だけどあなたを目視できない」
 机には、これまた見たことのない機械が置いてあった。折りたためる薄い桃色の板。通信機に似た性能を持つのだろう、と見た目でそう思う。
 そして箱があった。
 掌に収まるほどの小さな木箱。
 桃色の板の画面に女が映りこんだ。白に近いほどの金髪に、鋭い輪郭を持つ緑の目。尖った上向きの鼻と薄い唇。
「ハイダか?」
「ええ。これであなたが見えるわ」
 ハイダが答えた。
「隣の箱を見て。それをあなたに受け取って欲しかったの」
 ミナシキは箱を手にした。中に何かが入っている質感があった。しかし開けてみても、何も入っていなかった。そんなはずはない。ミナシキは蓋を閉めて箱を揺すってみた。やはり箱の中で何かが跳ねている。
「扮書とともに生まれた少年、蘇比やミヨミとともに別世界へと渡り、消息を絶った少年の持ち物です。彼の所持品のなかで意味のありそうなものは、それ一つしかなかった。あなたに託します。私はそちらの世界に行けないから」
 ミナシキはしばらく箱を検めていたが、結局何の細工も見出せなかった。
「この世界はどこだ?」
 諦めて箱を閉じ、ハイダに尋ねた。
「ここは俺の知っているレギニータじゃない。おまえはどうやってここに箱を持ちこんだ?」
「ここは、私とあなたという異質なもの同士が互いを打ち消しあわずに接触するために必要な場所だと考えます」
「俺とお前が会うためだけに造られた空間だと言うのか? 誰がそんなことを」
「三つ目の観測者がいるんだわ。衛星群世界、世界樹世界、そして両者を観測している何かが」
「よくもまあ、仮説ばかりが次々でるもんだ」
「茶化さないで」
 ハイダが厳しい声で制した。
「……私は何者かが、いなくなった四季くんの為に二つの器を用意したと考えます。名倉識と、あなた、ミナシキを。どちらが残り、どちらが四季として目を覚ますかは分からない、実験のようなものじゃないかしら」
「どちらも蟲に食われたらどうする?」
「それはないわ。蟲などフィクションですもの。あなた方か、少なくともどちらか一方は蟲から守られているはずよ」
「蟲だけでなく世界樹世界も、そこに住む人間たちもフィクションだろう。おまえから見ればな。だが俺にはおまえ達の世界を未発見の枝として見ることができる。世界樹世界の一部としてだ。蟲が来ていない未発見の枝があるなら、人為的に蟲を発生させた未発見の枝があると考えることもできる。蟲がヒトの作為で発生したものなら、蟲が来なかった世界の存在も肯定できるからな、論理上は。堂々巡りだ。この問題は主観じゃ埒が明かない。そうだろう、ハイダ。おまえの言う、二つの主観を統括して見ている第三の主観があればいい」
「そうね。どちらが基準になるかなんてことは、当事者の主観からは話せない」
 ハイダは首を横に振るのだった。両目にエゴイストの光を、そして、エゴイストになりきれぬ悲しみの光を強く宿していた。
「だけどそんな事私に認められない。ミヨミはいなくなったのよ。私は彼女を連れ戻すつもりだった。だけどそちらの世界はそんなに広く奥行きがあるところなの? 探し回ることも出来ないくらい遠いところに行ってしまったの?」
「簡単に」ミナシキは遮った。「全ての邪魔な人間を抹消できれば、それができるほどこの世界の人の存在が軽ければ、すぐにミヨミを取り返せると思ったか」
「ええ」
「おまえはレーゼを殺した。ヨセギもエグバートも。彼らは俺が対峙すべき人間だった。あのような死を突きつけたおまえを、俺は絶対に許さない」
「許さない」
 ハイダはミナシキに重ねて言って、しばらくそのまま俯いていたが、下唇をかんで肩を微かに震わせた。
「許さない? 許されないだけの事をしたの、私は? わからない。今でもわからない! 私たちは互いを憎んで蔑んで、相手を低次元の存在だと軽んじて……。そうじゃないと言われても、私はもう元の世界の常識にかえれない。この世界はどこなの? あなたの世界は? 現実なの、架空なの? 私の存在はなんなの? 他人ってなんなの?」
 ハイダが捲くし立てるも、ミナシキに答えられるはずがなかった。
「第三者がいるとして、それは私たちをどう見てるというの? 人形劇として? 物語かもしれない。違う。こんなことで思い悩むために生まれてきたんじゃなかった。学業をかさねてきたんじゃなかった。何が現実か分からないだなんて!」
「悩まなければならないんだ。俺がいて、おまえがいて、互いが実在なら」
「こんなのは病気よ。夢見る病気だわ」
 ハイダは泣いているらしかった。だが画像は涙をこぼさない。それで、この画像が必ずしもハイダではないことを悟った。彼女のいう事が分からぬはずがなかった。ミナシキもまた、どちらが正しいのか、主観を捨てて論じられるほど大きな存在ではない。
「おまえ達の地球は何故滅びた?」
 ハイダが顔を上げた。
「何故そんなことを訊くの?」
「蟲による侵略以外にどうして地球が滅んだか興味がある。おまえ達の世界にも歴史の重みがあるのなら、それを知りたい」
「私とあなたの間に、我々を観測する第三の主観があるとしたら、あまり多くの事実を私の口から語ることは危険だと思うの。過干渉よ。だから教えられない」
 ハイダはそう言うと、自分を嘲り笑うのだった。
「臆病ね。ミヨミとともにいた頃ならこんなこと言わなかったでしょうに。私は年を取りすぎてしまった」
 ミナシキはハイダをかえりみた。その反応を、当たり前のようにハイダは受け入れた。
「若い女だと思っていたでしょう。でも実際はおばあちゃんよ。会ったら驚くわ。この声はマーテルに内蔵された女声を借りているって初めに言ったわ、忘れたかしら? この顔は」
 と、肩の金髪を背中に払った。
「四季くんに会った年の写真を、今の私の表情の動きに同期させているの」
「年を取ったからって今日明日死ぬわけじゃないだろう、ハイダ! おまえにはまだ知らなければならないことがある。こんな箱を渡しただけで満足するな!」
「ミナシキ、私たちの衛星群世界は間もなく消滅します」
「なんだと」
「私たちの住む星は、間もなくブラックホールに落ちる。もうあとほんの数年先の話よ」
 画面の若きハイダを凝視するが、無論それで真実を確信できるはずもなかった。ハイダは諦めの表情で笑っているのだった。
「もしも四季くんが帰って来れるなら、扮書とともに戻るなら、残された時間でそちらの世界に移住できるかと思っていた。簡単に言うとそうした事情もあったのよ」
 それから、「長い時がたった」、呟いた。ミナシキは何とも言いあぐねていた。ただこの女が、生きている間に心底から夜区間での振る舞いを悔いることがあるのか、それが分からぬことが悔しかった。
「もし、いずれ四季とやらの意識が世界樹世界で目覚めるとして、その時には衛星群世界はないのだろう。四季の意識は世界に何をもたらす?」
「あるいは宇宙が、四季の為に別の世界を用意するかもしれないわ。どうなるかなんて分からない」
「分からないなんて答えが許されると思うな、おまえは一生をこの研究についやして来たのだろう。それとも、ただ長い夢を見てきただけか?」
 夢見る病気、か。つい先ほどハイダが自ら言った言葉だった。
「いや……もういい」ミナシキは辛辣になる己を宥めた。
「話は終わりか」
「ええ。もうあなたに教えてあげられることは無いわ。私は部屋を出ます。きっと私は、自分の研究室の廊下に出るわ。お別れです。生きているうちにまた会えるといいわ」
 ミナシキは目を細めて、画面の小さなハイダを見下ろした。
「……命あれば」
「ミナシキ!」
しかしハイダは、縋り付くように呼び止めた。
「あなたは、そこにいるの!?」
「俺はここにいる!」叩きつけるように応えた。「生きておまえを憎んでる、死ぬまで忘れるな!」
「絆ね、私たちの」
 ハイダが微笑で答えた。
 諦念なのか、満足なのか、ミナシキには分からない。どちらも同じことだ。絆が愛であれ憎悪であれ、彼女のもとにたどり着けない。
 ならば温かい絆がよかった。
 過ちを犯したのは自分自身だ。決定的な過ちを、ハイダが力を振るう前に、ハイダと出会うよりずっと前に、とうに犯していたのだ。
「さようなら」
 ハイダが告げ、画面が暗くなる。
 部屋は入ったときからずっと、ミナシキ一人のままだ。
 ミナシキは小箱を握りしめ、部屋を出ようとする。すると賑やかな電子音が後ろで鳴った。
 少年の絵が動いている。
〈やぁみんな、化石探偵ケンからのお願いだよ! アニメを見るときは部屋を明るくして離れてみてね! ――〉
 そして音楽。ミナシキは通信板を手に持つと、反対方向へ折り曲げて割った。
 もう鳴るものはなかった。
 ミナシキは歩き出す。インカーネイトのところへ。
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