お話の、あるところ。

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『HAJIME44』豊原ね子

投稿小説『HAJIME44』〈1〉 著者:豊原ね子

Chapter1 かさのなかはどしゃ降り(前編)

[前書き]
 ここ一ヶ月近くもメイン投稿の「夢見る病気」をさぼって何してたかというと、プロ・アマ混合の電子書籍同人『竹の子書房』に入り浸っておりました。竹の子書房に関してはこのブログ内のどっかそこらへんに適当に書いてあると思います。
 縁あって、このような小説を書かせていただくこととなりました。
 モデルとなったプロ小説家の有川憂先生、玉置真珠先生、雨宮淳司先生、高田公太先生、ラジオDJのこたろーさん、竹宵亭煙鳥さん等、承認(黙認)を下さった多くの方に感謝します。


Chapter1 かさのなかはどしゃ降り
~scene1 まち(がいかく)~

「若いオトコのか・ら・だ」
となりの女が言った。と思ったら「ふひひひひひひひひ」、肩を揺すって笑いはじめた。
(ぶきみな奴……)
小説家、在川憂花(ありかわ ゆか)はそっと椅子を離した。
女は酔っていた。顔を赤く染め、汗で額に髪が張り付いている。誰もがそうだ。在川だって、同じようなものだ。店は臭っていた。次の熱燗が出る頃までに、女の笑いはトーンダウンし、一度完全に消える直前にすすり泣きに変わり、辟易する在川をよそに号泣してカウンターに伏した。
「どうしたって言うんだい」
 放っておいても静かになりそうにないので、一度離した椅子を仕方なくもとの位置に戻した。血走った眼に涙をためて女は在川を見た。まだ若く、酔っていなければ美人かもしれない。
「はが、はが、はが、はが……歯が痛い」
「そんなことで泣くんじゃない!」
 在川の拳がカウンターを打った。熱燗のしぶきが飛び、その拳にかかった。
「歯医者にいけ! 子供じゃないんだから」
「歯医者にかかるお金がないよ」
「はたらけ」
「歯が痛くて働けないよぉ」
 女は再び慟哭し、在川はため息をのむ。
「分かったから泣くのはおやめ。いつから痛いの」
「二年前……」
「バカ! 二年も歯痛に耐えられる奴がいるか! もういい、あたしゃ帰るよ」
 立ち上がった在川の服の裾を、しかし女はつかんできた。
 面倒だ。
 本当に面倒だ。
「同業者につめたい……」
「なんですって?」
「あなた、在川憂花さんでしょ」
 仕方なく、在川は広げたコートを再び腕にかけ、座った。
「……そうよ。それで、あんたは誰?」
「しん、新庄環(しんじょう たまき)」
 聞いた覚えがある。しかし、酔った頭では詳しいことを思い出せない。
「なんで飲んだくれてるか聞いてよ」
「聞くわよ」
「企画を没にされたの」
「そう」在川は答えた。「残念だけど、珍しいことじゃないわ」
「そうじゃない、そうじゃないのよ! 企画を横取りされたのよ」
「横取り?」
「私が」環の目に涙がたまる。「出したプロットを」その涙がこぼれた。「ちょこっと変えただけで自分の原案だっつって、編集が新人に使いまわさせてるんだよぉ!」
彼女は自分が言った言葉が悲しくてたまらないと言うように、飽きずに泣き伏せるのだった。
つまり環が考えた新作のプロットを取り上げて、自分がデビューさせた新人に書かせると言うのだ。
「そっちの方が重大じゃねぇか、バカヤロウ! なにが『歯が痛い』だ!!」
 在川は酔った勢いで怒鳴りつけ、新庄環の胸倉をつかんだ。
 新しい客が入ってきた。その客も作家だ。外は雨。あの客も、作家だし、そこにいるのも作家。ここは作家の町、竹和武(ちくわぶ)市。外は雨が降っている。何しろ半年前からずっと降っているのだ。

~scene2 しゃない~

 酔っ払いなら、そのころ竹の子書房西棟十五階の一角、ラジオ課資料室にもいた。青年がラジカセの再生ボタンを押すと、黄色い声がはじけた。
『園長先生とお~』
『コタロウきゅん☆のお~』
『わくわく』
『れぇ~いでぃおぉ~う!』
「うぅ……」
 青年が歯を食いしばると、代わりに目から涙が出てきた。
「あの頃はよかった」
 それからヒックヒックと洟をすすり、わぁと叫んで机を叩いた。『園長先生』だった青年の周りには、からのビール缶が散乱しており、そのうち幾つかが衝撃で床に転げ落ちた。ラジオ課資料室はもともとは広い部屋だが、カセットの棚によって複雑な迷路と化している。その棚から彼の相棒がひょっこり顔を出した。それからさも呆れたという顔でカセットの再生を止めた。
「コタロウきゅん☆~」
 もと園長先生はティッシュを何枚も使って顔を拭いた。
「あの頃はよかったよなぁ。なぁ」
「おまえ……そりゃそうだけど、そういうことばっか言ってっと殺されるぞ」
 飛田呼太郎(ひだ こたろう)の慰めとも警告ともつかぬ言葉に園長先生は黙らざるを得ない。
 そう、どうしようもないのだ。
 殺されたくないなら。
 インターネット・放送・出版その他文化的活動に関する実名表記法、通称〈本名法〉が制定されたのはちょうど去年のこの時期だ。一年間の移行期間の後、今月あたまにいよいよ施行された。インターネット実名制に加え、記者や小説家、漫画家、アイドル、歌手、ラジオのDJその他もろもろまでもが本名でその活動を行わねばならない。
「本名ではやらない、やれないって、おまえ決めたんだろ? 諦めろよ」
 園長先生は本名を予井出不死(よいで ネバーダイ)というのだ。
 ついたあだ名が『ダイちゃん』。
 結局die(しぬ)んじゃねぇか。
「ふざけやがって畜生!」
 呼太郎は相棒への慰めになることを願い、ラジオのスイッチを入れた。おりしも時刻の節目で、次の放送が始まったばかりだった。
『こんばんは、名倉茶太郎だよ。今回みなさんにお送りするのは――』
「ああ! いいよな、いいよな! 本名がまともな奴はよ! ホントいいよなチクショお!」
 こりゃ駄目だ。呼太郎は諦めてラジオを切る。
 呼太郎だって気持ちは同じだ。またラジオをやりたい。だから『いい名前じゃないか』と言ってはじめ相棒を説得しようとしたのだ。『ご両親は可愛い息子の無病息災を願ってそういう名前にしたんだろ?』しかし予井出の本名へのコンプレックスは呼太郎が思う以上に大きかったのだ。
「高校の先輩がさぁ」
「どうした?」
「娘にエミちゃんって名前つけたんだ。笑うって書いてエミちゃん」
「へえ。いい名前じゃないか」
 でも苗字がすげーよくある名前だから、と予井出は続ける。
「その子名札とかに『山田(笑)』って書かれるんだよな!」
 予井出は絶望して笑った。
「親はよく考えて名前をつけろってんだくっそー!」
 夜はまだ長い。

~scene3 しゃない~

 同じ社内を、寺川智比等(てらかわ ともひと)がエレベーターホール目指して走っていた。廊下より、どしゃ降りの屋外のほうが明るかった。窓からほの白い光が差して床に濃淡をつける。中庭の桜の木がライトアップされているのだ。桜の木。そんな場合じゃないのに寺川は甘酸っぱいキモチになってきた。
過ぎ去りし学生時代。寺川の高校にも立派な桜の木があった。その満開の桜の下で愛を告白すると、永遠の愛が成就するという。男子校だったが。
 不夜城である出版社内も、今夜は静まり返っている。
《総員、退社せよ。》
 それが竹の子書房中枢指令機関、人工知性体『HAJIME44』が下した指令だった。現時点で社内にいるのは警備の者と、この俺と、仲間の森掛太郎(もりがけ たろう)だけだ。
 寺川は西棟に予井出と呼太郎がいることを知らなかった。
 角を曲がると、エレベーターが開きっぱなしで寺川を待ってた。駆けこみ、鍵を抜いて一階へのボタンを押す。汗をかき、息を切らしている。エレベーターが下降し出すと、壁にもたれかかった。竹の子書房の廊下は長い。しかし凄いのは廊下の長さや社屋の規模だけではないようだ。
 竹の子書房。築二分、駅から十五年。公式ホームページに書いてあるから間違いない。なんてこった。
「森掛!」
 一階エレベーターホールで、もう森掛は待っていた。
「遅いじゃないか」
「すまん。てこずった」
 寺川は森掛を顧みて、言う。「出よう」
 二人がエントランスまで走っていくと、受付前に小柄な人影がたたずんでいた。寺川は立ち止まり、腕を出して後ろの森掛を制したが、たたずむ者はすぐに二人に気がついた。
「誰だ?」
 少女か。はじめそう思った。びくりと怯えて振り向く姿は、それほど頼りなかった。近寄れば二十歳を過ぎていると分かる。みつあみに結った髪は雨水を吸って跳ね、彼女が慌てて足元の大荷物を拾い上げると、その重みで体がかしいだ。
「ごめんなさい、出て行きます」
「待って。どこから入ってきた?」
 さも意外という顔が、正面玄関を指した。
「鍵が開いていたから……」
「鍵が?」
 寺川の鋭い視線を浴び、森掛は首を振った。知らぬと。改めて侵入者を見返せば、〈怪異聞きます〉の立て看板を脇に挟んでいた。
「君は誰だ?」
「はるかゆうと申します」
 侵入者が名刺を出した。
『悠ゆう & よぴー』
「よぴーはこの子です」
 ナスカンで腰から提げた子猫の人形を、悠が手で撫でた。
「出よう」寺川は言った。「そのほうがいい」
 眼光の鋭さにたじろぐ悠を、森掛はそっと押した。その手に促され、悠は寺川に続いて走り出す。正面玄関を出て雨に目を細めた。二人は焦ってる。悠はそう思った。
「どうして急いでるんですか?」
 前を行く寺川が答えた。
「雨だからさ」
 それが方便であることは、悠にも分かった。何も言えなかった。

~scene4 とっきゅうれっしゃ~

 雨宮司(あめみや つかさ)がトイレを出ると、たまたま、車内販売のカートがやって来たところだった。
(おっ)
 雨宮の後ろをカートがしずしずとついてくる形となる。
(おおおおおっ)
 雨宮は嬉しくなった。通路を大股で闊歩して、意気揚々と座席に戻った。ツレの男はちゃんと鞄を抱えて待っていた。日焼けした肌のその男に言った。
「車内販売を連れてきてやったぞ!」
「えっ、えええええ? はっ、はっ、そうですか。ありありありありがとうございますす」
 売り子の女は「ぶふっ」という笑いを残しカートを押していった。
「何がおかしい。いけ好かん小娘だ」
「いや……まあその、はぁ」
 男はポロシャツの襟にかけたサングラスを弄びつつ、狭い座席の上でこっそり雨宮から体を離した。
 雨宮は怖い。
 まず常時眉間に皺を寄せていて怖い。そのくせエロいから怖い。でもって変な言い間違いとかするから怖い。いぜん酒の席で『どうせみんなホントは俺のこと嫌いなんだろ、なぁなぁ』と絡んできた男に『何を今更言い出すんだ』と返していた。本当は『何をいきなり言い出すんだ』と言うつもりだったらしい。やめてやれよ。
「ち、竹和武市は今日も雨だそうっすねぇ」
 かといって黙っているのも怖いので話しかけた。
「なにせ半年前からだ。向こう一週間もやむ気配はない」
「憂鬱っす」
 雨宮は自分の鞄を男の膝から取った。往診用の仕事道具だ。話してみれば怖い人じゃないのだ。がんばれおれ。この人の助手なんだから。
「こないだ雨降った時にですねー、おれの飼ってる三毛猫ちゃんが庭に締め出し食らってたんですよ~」
「ほう」
「そんでニャーニャー鳴いてですねー、おれ昼寝してたから入れてやるの遅くなったんスよ。そしたら隣のババァが怒鳴りやがって、『うるさぁい!』って」
「ふん」
「でもさー、ババァの飼ってる犬のほうが普段キャンキャンキャンキャンうるさいんスよ」
 雨宮は鞄から新聞を出して読み始めていたが、急にバサリと新聞をおろすと、ものすごく悲しそうな顔をして彼をなじった。
「だからって殺すなよ……!」
「殺してねぇよ!」
 やっぱり怖かった。
 すると後ろの車両が騒がしくなった。がやがやと人の声が大きくなり、振り向けば、車両を区切るガラスの向こうを人の背中が埋めていた。その背中を押しのけて、さっきの売り子が飛び出して叫んだ。
「お客様のなかにお医者様のかたはいらっしゃいませんか! すいません! お医者様の方はいらっしゃいませんか!」
 雨宮が手を上げた。
「俺だ」
 売り子の女は顔を輝かせ、直後「うわさっきの変な奴だ」という顔をし、一瞬後には表情を引き締めて「こちらへ来てください」と言った。
「何があった」
「あの車両に妊婦の方がいらしたのですが、生まれそうなんです」
「高田ァ!」
 ここへきて初めて名を呼ばれた高田幸多(たかだ こうた)は、慌てて、雇い主について通路に飛び出した。
「ぼやぼやすんな、来い!」
 後ろの車両では、女が通路に横たわり、その周りを乗客が取り囲んでいた。歯を食いしばって汗を流す女の横で車掌が右往左往していた。
「医者だ。通してくれ」
 現れた雨宮を、救世主を見る顔で車掌が見上げた。
「竹和武駅までは?」
「あと十五分ほどです」
「よし。きれいな布をあるだけ用意してください。あとはうぶ湯を」
「お客様は産婦人科の先生ですか?」
 雨宮は売り子を振り向いた。
「君、カートのポットの湯を薄めたもので構わない」
「は――はい!」
「外科の先生ですか?」
 高田に人を払うよう命令し、女の腹に触れて様子を確かめると、雨宮はやっと車掌の顔を直視して、質問に答えた。
「精神科だ」
「え」
 女も呻くのをやめて「え」と言った。それから、その驚きで吹っ飛んだ痛みが倍になって押し寄せてきた様子で身悶えすると、
「え、え、駅まで我慢するー!」
 と言った。
「我慢できるか! 大便じゃないんだぞ」
 女の絶望を乗せて特急列車はひた走る。
 やがて女の叫びはやみ、元気な赤ちゃんの産声が停まったままの列車から聞こえてきた。
「いい仕事をした……」
 雨の竹和武駅ホームに佇み、雨宮は空を見上げた。
「いい仕事しましたねぇ」
 後半はレスキュー隊の仕事だったが。しかし高田はそんなこと言わない。雨宮は煙草を吸おうと高田に掌を出し、高田は鞄のポケットから煙草を出そうとしたが、自分が鞄を持っていないことにようやっと気付いた。
「あれっ?」
「お前……俺の鞄はどうした」
 高田は真っ青になって車両に駆け戻った。鞄は二人の座席に置いてあった。
「あります! 先生、財布も携帯も盗られてないっす!」
「寄越せ!」
 しかし雨宮は乱暴に高田から鞄をもぎとると、中からぶ厚いファイルを取り出し、そのページをめくり出した。
 ない。
 ある人物の、しかも、最も重要な人物のカルテだけがごっそり抜かれていた。
 やられた。
 竹の子書房嘱託社員カウンセラー雨宮司は、怒りに燃える眼差しを車外の人の群れに射向けた。

~scene5 まち(ないかく)~

「ああ、それにしてもそれにしても、夢みるだけの男になろうとは思わなかった!」
 詩の朗読が突き刺さり、開天澄吉(かいてん すみよし)はウェッジウッドを一枚割った。
「なん、なん、な」
 厨房の隅のほうで、いつぞや貸した本を堀野健作(ほりの けんさく)が読んでいた。
「なにを言いだすんだ……」
「えっ、なに? こないだ開天さんが貸してくれた本だよ! 中原中也! あーっ、開天さんってばお皿を一枚割っちゃった! いけないんだ~」
 おまえのせいだ。
 いやしかし、なにゆえこうも動揺してしまったのだろう。分かっている。原因は。オレはまだ立ち直れていないと言うのか、しかし、あれから何年経っただろう。今も目を閉じれば鮮やかに往時へとかえれるのに。花薫る南仏の陽光、エーゲ海から吹く風のきらめき、そしてあれほど愛した女の横顔……。
 ちなみに南仏はエーゲ海に面していない。
 開天が甘酸っぱくなっている近くで堀野は「わーいわーいいけないんだー」大はしゃぎを続けていた。彼は決して馬鹿なのではない。ちょっと子供なのだ。
「堀野ォ!」
 堀野が丸椅子から飛び上がると、中也の詩集がくるくる宙を舞い、洗い上げたロイヤルコペンハーゲンのティーカップへと弧を描いて飛んでいった。
「わーっ!」
割ってはならぬと腕を突き出した堀野は、しかし掌に当たった瞬間それをバレーボールのように打ち上げてしまった。
「わーっ!」
 いけないぞ。こんな事をしてたら開天さんにふざけてると思われちゃう。
 詩集は天井にぶちあたり、そのまま直角に落下して堀野のデコを直撃した。
「わーっ!」
 デコに本の角を打ちつけた堀野は、混乱して、まだ本が空中のどこかにあるものかと思い、そのまままっすぐ走っていって業務用冷蔵庫に激突した。
「わーっ!」
冷蔵庫に怪我はなかった。
「片付けておきなさい」

 新庄環は困惑のさなかにいた。
 気がつけば小洒落た洋菓子店にいた。あたたかな明かりが点るが他に客が居ない。店員も引き払ったあとで、閉店後だと分かる。小さな店だが卓の配置に工夫があり、狭いとは感じない。窓の外、地面では、ますます強い雨足がアスファルトを穿っていた。
 そして眼前には何でか知らんが酔っ払いが居座っている。だから困惑しているのだ。
「あんちくしょおぉ~、アイツもう死んでればいいのにぃ~」
 一文字ずつに濁点がついていそうな調子で酔っ払いは言うのだ。
「その編集ぅ、借金があるなんてこと一っ言も言いやがらながやならがらなかっぶるぶるぶるぶるぶ」
 噛んだ。
環は怖い。
 酔っ払いの顔は知っていた。自分と同じジャンルの作家、在川憂花だ。この道の先輩だ。先輩なのだが知り合った覚えはない。
 なのに何故ともにいて、、シリーズ物の最終巻が出る直前で担当編集者に失踪されたときの話を自分にしているのだろう。そもそも自分は、もともと小汚い場末の酒場で飲んでいたじゃないか。多分、飲んでるうちに自分からこの人に絡んでしまったのだろう。覚えてないが。
 やっちまった。
 またやっちまったのね、わたし。
 どうしよう。怖いし、置いて帰っちゃおうか……。
 すると奥の通路から、ウェイターが紅茶を運んできた。細身の体にぴたりと制服を着こなした、上品なたたずまいの男だった。
「カップをお取替えいたします」
 ウェイター、店長の開天は、適温に温めたカップを二人の前に置く。それに早摘みのアッサムを注ぎ、もの言いたげな環のほうへ柔和な笑顔を向けた。環は尋ねた。
「あのう。ここは何処ですか?」
「洋菓子店『スケルツォ』でございます、お客様。お加減はよろしいですか?」
「あっ、はあ」
 やっぱりわたし、泥酔状態で連れてこられたんだわ。で、
(その時までこの人はまともだったんだ……)
「でも、きっともう閉店時間ですよね」
「こちらの在川さんには、いつもお越しいただいているのですよ。個人的に長い付き合いがありまして」
「はあ」
「閉店時間は過ぎております。ですから、好きなだけゆっくりなさって下さい。窓のカーテンをお閉めいたしますか」
「いえ、そんな。悪いです」
 そこへ、閉店時間を過ぎ貸切になったはずの店内へと入りこんでくる者があった。
 古いジーンズと革ジャン。水を吸い四方に撥ねた短髪。手入れなど生まれてこの方一度もしたことなさそうな肌の顔、ふてぶてしい立ちかた。洋菓子店に似合いもしなければ、およそ外観で好かれるという事がなかろう風貌だった。
 だがどこか、目を離せない気持ちにさせられる。開天がゆっくり男を振り向いた。革ジャンの後ろにもう一人いた。こちらは幾分大人しそうな男であるが、やはりどこか油断ならない。
「本日は閉店しました」
 開天が言った。
 ウィンドウに映る開天の横顔を見、環はそのまま息を止めた。
 とてもただのウェイターの目つきではなかった。
 敵意がある。しかも、お互いに。そして酔いどれているはずの在川までもが、唇をまっすぐに結び、目を光らせて二人の男へと顎を上げていることに気付いた。
 事情など環には分からない。ただ、早く帰ればよかった。
「その閉店後の店内に酔っ払いの女連れこんでるってか。スケルツォも堕ちたもんだ。酒でも出せよ。仕事後だ」
「残念ですが、今晩の招待客は二名様までしか承っておりません。お引取りください」
「ケチくせぇこと言うな」
 男は肩で開天をせせら笑った。
「おめえさんも、一人でやってる商売じゃねえんだからよ」
 環には男が言う意味はわからなかった。だが開天の背中に、一瞬の動揺を見た。だが、再び彼が発した声は毅然としていたから、気のせいかもしれない。
「お引取りください、寺川さん」
「じきにそうも言ってられなくなるぜ」
「お引取りいただけませんか?」
 暴力的で、剣呑な空気が満ち始めた。ひとり身を固くする環を包み、しかし彼らは気配の暴力を実行に移すことはなかった。
「何をしてきた」
 開天の声が、一人の男の声になる。寺川は肩を竦め、森掛に「出よう」と合図した。
「いずれ分かる」
 二人が店を出る直前、柱時計が十二回鳴った。日付が変わる。
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