お話の、あるところ。

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テスト用投稿作品

投稿作品『空漠の地平』第一話(テスト投稿) 著者:豊原ね子

第一話 ヒトサライ坂

  ―1―

 砂利を敷き詰めた参道を、まだ青みを残した銀杏の落ち葉たちが渦巻きながら舐めあがる。日の暮れはとうに深い。空は藤色から藍へと姿を変え、月原(わちばら)家所有の双子山が稜線に一筋の緋を背負っていた。
 拝殿に裸電球が点った。賽銭箱の上の古びた鐘がそれを鈍く照り返す。温かな色の光も、夜さし迫る神社においてはむしろ寒々しい。
 拝殿の前階段に、中年男が座りこんでいた。足を広げ、背を屈め、両腕に頭を抱えこんでいた。
社務所から三味線の音色が聞こえる。
 参道に立つ少年が、悲しげな旋律に耳を傾けていた。黒い詰襟の学生服。黒い靴。腰までの黒いマント。中央に金の校章があてがわれた黒い学帽を目深に被り直し、落ち葉を蹴って歩き始めた。
 彼が鳥居をくぐった時、拝殿の男が顔を上げた。立ち上がり、憂鬱を振りきるように足早に少年へと向かった。。
「環(たまき)か? 環じゃないか」
 境内の中央で、二人は向かい合う。
 環と呼ばれた少年が、学帽をくいと押し上げた。年の頃は十五、六。前髪の下で、大きな両目を強く光らせている。怜悧な顔立ちの少年だった。――ただその両目の下に滲む、赤黒い隈が痛々しい。
 少年は気まずそうに、男から目を背けた。
「環、随分久し振りに会うなぁ。元気だったか?」
 少年は答えない。
「俺も、ここに長いこと来てなかったなぁ。この三味線は? 菓枝ちゃんか? 上手になったじゃないか」
「……叔父さん」
「そうだ環! お前に渡すものがあるんだった。遅くなったけどな、去年、クリスマスプレゼントを用意していたんだ。来ないなら、こっちから会いに行こうと思ってたんだけどなぁ。済まなかったなぁ」
 突き出された右手に、少年は暗い目を落とす。
 ささくれた手に、雨に打たれ、皺だらけになった成年雑誌が載っていた。彼はおやっ、という顔で自分の出した物を見詰めた。投げ捨てて照れ笑い。
 今度差し出された物は、油に塗れた菓子パンの袋だった。
「もういいから……」
 男はそれも投げ捨てる。凍えた風が山々を駆け下り、二人を貫いて通り抜ける。パンの袋は二人とすれ違い、ときおり浮きながら転がっていった。
「違う、こんなんじゃない。違うんだ」
「分かってます。叔父さん」
 少年は、男と目を合わせた。
 男には瞼がなかった。
 血走った眼球に、ただ少年を焼き付けようとしていた。
「だから、もういいから……」
 男ははじめてその目で、自分の姿を見下ろした。
 スーツでも着ているつもりだったのだろう。彼が身を包むのは、病院の名が刺繍された薄汚れたパジャマだった。鞄だと思って提げていたのは、中にジュースがこぼれ、弁当の食べかすが押しこまれたコンビニ袋。
 わあ、と悲鳴を放ち、袋を投げ捨てた。その悲鳴は環、と呼んだようにも、少年には聞こえた。膝を屈し、両腕をばたつかせ、どこかに落ちまいとする動作を見せた。
 叔父さん、と一声叫び、少年は男を支えようとしたが、間に合わず、境内に倒れこむ。
 同時に少女の怒鳴り声が、景色を拭い去った。
「いい加減にしなさいよ!」

 その声で月原環は目を覚ました。
暗闇にいた。どうということはない、瞼の裏側の闇だ。雨上がりの弱弱しい陽光が背に当たる。
目を覚ますと、特別活動室の片隅で膝を抱えていた。
他にもグラウンドがやかましい。太陽光発電を使った演物をやる上級生たちが、実験の結果にワァと歓声を上げている。
顔を上げると、文化祭の舞台を造っていた生徒たちが、一斉に目をそらした。その中で一人の少女と目があった。眉毛できれいに揃えた前髪。背中に届く長い髪には、埃が舞いつくがままになっている。彼女は勝気な瞳の中で、動揺の火花を散らした。
 雛川千種。環は彼女の名を覚えている。唯一彼女だけが、、彼を環と呼ぶからだ。それは千種がこの小さな田舎町において余所者である証。否、それだけではないのだけれど。
 環は、己の風貌までも異様に思われていることを理解している。醜かったりするわけではない。目だ。なにせ両親ですら環と目があうことを避ける。環はいつも両目の下を隈で赤黒く腫らしていた。正しく眠れない証。それだけのことだ。
 床に指をついて立ち上がった。十人ほどの同級生たちは何も見ずに済まそうと、舞台の造営作業に身を置く。千種と環との中間地点に、二人の男女が残されていた。気弱そうな女子のことを環はよく知らない。いつも千種と一緒にいるが、今は顔を隠すには不十分な短い髪の向こうで蒼ざめている。男子はクラス委員の北河。彼はにきび顔に媚びた笑みを浮かべ、環に怯えて目を彷徨わせた。それから思い出したように両手を背中に回した。環は見た。彼の手のカッターナイフを。
 おおかたの状況は察知した。
 この男が、自分になにかちょっかいを出そうとした。少女が止めに入り、見かねた雛川千種がさっきの声を出したのだろう。
「いや……あのさ、ちょっとそこ、どいてもらおうかなって思って……」
 痒みを感じて環は目をこすった。左目を擦りながら、右目を動かし、北河の視線を捕らえた。
「そんなことじゃ、オレは起きないよ」
 ひどい恥辱を受けたかのように、北河は浮ついた笑みのまま、顔を紅潮させて伏せた。
 教室の戸が開く音に、無関心を装って合唱台を組んでいた他の生徒たちの背中が震えた。担任の高坂冬美だった。
「みんな、ちょっと手を止めて!」
高く透き通る声に、北河がカッターを背中からまた前に持ってきた。それから制服のポケットにつっこんだ。高坂はキツい。若いし顔や日頃の話し言葉などは優しいが、一度追及が始まるとなかなか恐いのだ。
「何してるのあなたたち」早口で言った。
「先生?」
「月原君、帰る仕度をしなさい」
 不安げな呼びかけを無視して、高坂は環を名指しした。
「……叔父さんが大変なことになりました。先生が送ります、早く」
今や、教室にいる全員が環と高坂を見比べていた。環は教室の後ろへ移動して、ロッカーから鞄を取った。
 十分後には高坂の車の中だった。敷き詰められた砂利を鳴らし、ずるりと車が動き出す。校内の駐車場から県道に出るまで二人とも口を開かなかった。
「叔父は、亡くなったんですか?」
 高坂は飛ばしている。雨が降ったらしい。濡れた県道は市街を突っ切り、黒い山影へ吸いこまれてゆく。衝立山。それが市街と村を隔てる最初の山の名前だ。遠くの空は白み、重なる山々の中腹からガスが湧いている。
「月原くん! まだ分かってないの」
 環は顔を、フロントガラスから運転席へ移した。高坂は目を吊り上げて真剣だ。こんな事態は初めてだろう。
「今病院で治療を受けているそうで、詳しいことは分からないけど、家にいなさいってお父さんが――」轢かれた狸の死骸を避け、車体が揺れた。「――とあなたのお父さんからの伝言です」
 事故。学校から呼び戻されるほどの事故ならば、決して軽微なものではあるまい。膝に爪を立てた。
 町を抜け、山道が始まる。片側一車線の道は、山肌から崩れた砂で滑る。速度が落ちた。
「月原君、夜はちゃんと寝てる?」高坂が問いかけた。
「……あまり眠れない体質なんです」
「あなたのこと心配してる人、あなたが思ってる以上に多いのよ。その目の隈、いつも辛そうだから、それに」
「先生、オレのことはいいですから」
「その……。ごめんね、でもこれだけは言わせて。心配してくれる人ばかりとは限らないの。逆の人だっている。分かるでしょう? 眠れない体質なんてのがあるかとかそういう話じゃなくて」
「分かります。ありがとうございます」
 北河のカッターナイフを見たのだろうか。
「でもオレは、あの状態になったら何をされても起きませんでしたから。炙られても水に漬けられても」
「炙ったり? ひどいことする子がいるのね」
「家族です」
 高坂は目を前に向けたまま口を開いたが、閉じた。代わりに窓を開けて空気を逃がした。水っぽい風が吹きこんで、耳から体を冷やす。
 こんなことを話すなんて、どうかしている。思う以上に動揺しているらしい。環は口を閉ざすことにした。
冷えるねと高坂が言った。

月原邸は増築に増築を重ねた奇妙な屋敷だ。
玄関を開けると屋敷中を巡り巡ってきた冷風が、ゴォと顔に吹いた。正面に暗い廊下がまっすぐに伸び、途中の部屋は全て閉まっている。薄闇に目を凝らせば、右に曲がる角から中庭に差す光が滲むだけ。襖の開く音がして、曲がり角から木野鈴江が現れた。住みこみの家政婦で、夫も子供もない。気立てがよくどんな仕事も厭わぬ為に重宝されて、この屋敷での勤めは環の年齢より長い。
「環さん! やっとお帰りになって」 割烹着の裾を三角に持ち上げ、家政婦が駆け寄った。音も立てず、足の裏を床から離していないような、いつもそんな走り方をする。
「行事の準備があったのですね。先生が送ってくださったんですって?」
 環ははいと言い、鞄から弁当箱を取り出した。玄関を上がり、右手の洋間の扉を開けた。煤けた洋灯の下にある、籐のソファに腰を下ろした。暗色の幾何学模様の絨毯に鞄を置き、何気なく縁側を見た。すぐそばの松と外壁が陰る。天気がまたも崩れかかっている。
「叔父さんが事故に遭われたと聞きました」
「エッ、事故」
「違うのですか?」
 鈴江は動揺して視線を足に落とした。
「私は旦那様からまだ何も聞かされておりませんでして」
「……そうですか」
 縁側のサッシ窓が開いた。いつしか鈴江に身を乗り出していた環は、その音に背筋を伸ばした。
 踏み石にサンダルを脱ぎそろえ、縁側に嶺征(みねゆき)が立っていた。月原家の長男である彼は、スラックスに薄手のセーターという出で立ちで、眼鏡をかけている。彼は今月で二十三。もう社会人だ。
「これは、嶺征様」鈴江が、環の弁当包みを握りしめて姿勢を正した。
「いつ頃帰られたのですか、嶺征さん」
「お前が帰る少し前だよ」
「申し訳ございません、嶺征様、全く気が付きませんで」
「いいんだよ。こちらこそ済まなかったね。環を途中で拾って来ればよかった」
「いえ……」
「お茶を淹れてください。体が冷えてしまった」嶺征は環の向かいに座った。「今は連絡を待つしかないからね」
 鈴江が頭を下げて出て行くと、広い洋間は兄弟きりとなった。嶺征は肘掛を使って頬杖をつき、薄笑いを浮かべながら環を見ていた。
「何が面白いのですか? 嶺征さん」
「おやおや、随分とご機嫌斜めだね。お前でも気が立つことがあるのかい?」
 それから肩を震わせて笑った。
「お前はあの人に随分と可愛がられていたからね」
「嶺征さんこそ、随分早いお帰りですね」
 環は膝をそろえて切り返した。
「まるで知っていたみたいですね」
「どう思う?」
「何をですか?」
「お前の『夢』に悲劇は見えたかい?」
「悲劇ならいつでも」
 窓が一つ鳴った。掌を叩きつけたような湿った鳴り方だった。嶺征の視線が窓に流れた。
「環、残念だったね」
 そして笑みが消えた。いかにも悲しげに眉を寄せ、頬杖をやめ、組んだ膝の上で長い指を絡み合わせた。
「叔父さんは亡くなられたよ……」

 夕日が土手に二つの影を長く伸ばしている。二人の少女の少女がそれを引きずって歩いていた。
「月原くん……大丈夫かな」
 千種の隣で和歌が呟いた。
水尾和歌は気の弱い少女だった。俯く横顔は心なし蒼ざめている。千種は眉根を寄せて、あぁと呟いた。彼女は教室でナイフを持ち出した、北河の行動に傷ついているのだ。
「北河のバカにはホントうんざりだよね。和歌もよく止める気になるよ」
「えっ、でも……あんなことで月原君が怪我したら……嫌だし……」
「北河にそんな度胸、ナイナイ」
 千種を横目で見遣り、蒼ざめたまま微笑した。田舎娘然としたその顔に、友人でありながら千種は、反射的に嫌悪感を抱いた。
「で、でもさ……月原くんって、よくない?」
「どこがさ。アイツってアレじゃん」
「アレって?」
「ここらでは凄いんでしょ。お家柄」
「そうだけど、それは月原くんのせいじゃないし、次男だし……」
「私は絶対やだね。もっと普通の人がいいな」
「ふ、普通って」
「絶対さ、あの人周囲を馬鹿にしてるよ。暗いし、まともに口利かないし、急に寝込むしさ」
「寝込むのは病気だから、」
「たまにいなくなるし」
 和歌は返事をしない。
 怒ったのだろうかと窺うと、青ざめた顔に気弱な笑みを浮かべて千種を見た。
「千種ちゃんはいいよ。美人だもん」
「何、いきなり」
 和歌は千種から顔をそむけ、横たわる川に微笑みを向けた。石の河原。水は透明なのに緑色で、流れもところどころ深く早い。山の紅葉が回りながら流されていく。
「私もう少し顔が細かったらな。それで目が大きければよかったのに」
「マスカラつければいいよ。顔のラインだって結構服とかで見え方変わるし」
 千種は言った。和歌はうんと生返事するばかり。どうせするつもりはないのだと、分かるから千種はもう言わなかった。
 こんな村は嫌いだとか、都会の大学に行きたいとか、そうは言っても田舎の子。彼女はこの村で死ぬだろう、ふとそんな気がした。勝手な思いこみにも関わらず、少しだけ千種は和歌が嫌になった。
 冷たい風が山々から吹きおろす。髪が流れた方向を振り向くと、ちょうど山の割れ目から新興住宅地を見下ろすことができた。分譲住宅の洒落た外壁や飾り窓が、湖のように夕日を照り返している。
 帰る家があそこならよかった。そう思わずにはいられない。だが千種の家はこの山の中。狭くて暗くて湿っぽく、目つきの鋭い人々の、古い土地にある。父が東京の会社で巻きこまれたというトラブルについて、千種は何も聞かされていない。ただそれがきっかけで都会暮らしに嫌気が差し、彼は移住を決行した。にしても、一人娘が高校受験を控えた微妙な時期に転居した父の行動が、千種には理解できない。田舎に行くならせめてあの、『つきみが丘ニュータウン』側がいいという千種の希望も無視された。父は家を売り払い、この村に古民家を購入した。
 村落に目を戻すと、嫌でも溜め息が出た。顔を前に向けると、群れる人影が四つ五つ、堤防の上にあることに気付いた。
 近付くと、その内一人が隣の山田家の主婦だった。村の中では若い方で、七歳の娘がいる。その姿を捜してみれば、土手を下りた川縁の公園で、やはり他の主婦の子供らと群れているのが見えた。
「山田さん」声を掛けると、三角形の目をして全員が千種を見た。それが千種だと分かると、目もとを和らげて挨拶した。
「あら、あなた達まだ帰ってなかったの?」
「勉強してましたから」
 愛想笑いを浮かべながらも、完全に子ども扱いした物言いに、千種は腹が立った。
「そうそう、早く帰らなきゃ駄目よ。怖いんだから」
「何かあったんですか?」
「上九内別の事件知らないの?」
「学校にいましたから」
「月原さんの別邸のご主人がね、崖から突き落とされて殺されたんですって」
 不意に月原の名が出て、千種の体が強張った。
「はっ、殺された?」
「そんな大きな声で言っちゃ駄目よ。ついさっき亡くなられたんですって」
「一体いつ」
「今日のお昼過ぎよ。三時くらいでしたかねえ」
「そうそう。奥様が、なかなかご主人が帰られないから探しに行ったら……てねえ」
「でも突き落とされたなんてどうして」
「そりゃああの人、あんだけ山に詳しくてねぇ……」
「前から変なことがあったろうが。墓が荒らされる、お骨が盗まれる、お地蔵さまが壊される……。頭のおかしい若いのがこの辺うろついてるんじゃないのかね」
 自転車のベルがせわしなく、強烈に自己主張をした。土手を後ろから漕いでくる人がいた。サドルの上で短い体躯を丸める自治会長の戸塚栄治だった。
 戸塚は千種たちの前でブレーキをかけた。
「困るんですよ! 騒ぎ立ててもらっちゃ!」
 息を切らし、首のタオルで額を拭きながら開口一番に自治会長は言った。
「はっ」山田が首を傾げた。「何のことでしょうか」
「しらばっくれたってねぇ、まあ、いいや。とにかく上九内別のことあんたたちも知ってるでしょ! まだ詳しいことは分かってないんだから滅多な噂は立てないでちょうだいよ! 僕は今から月原さんのお屋敷に行くから。いいね!」
 自治会長はまた自転車で走り去って行った。少しして自転車がまた止まった。
「ちょっと水尾さん! アンタ、鳩に餌をやらないでってあれほど言ってるでしょう! ――ったく、集落からよくもはるばる歩いてこれるもんだ」
 川縁の公園の隅、ベンチにかけている小さな老婆と、それに群らがって蠢く鳩の影が見えた。
 あっ、と黙っていた和歌が声をあげた。
「お婆ちゃん――」
「ちょっと! 聞いてるの!」
 背中の曲がった、孤独な老婆が立ち上がった。彼女の夫の亡くなり方を、和歌から聞いたことがある。和歌と両親が旅行に行っている間、家に残って介護をしていたらしい。旅行から戻ったら階段から落ちて死んでいたそうだ。
和歌は、川に下りようか逡巡しているようだった。が、そうはしなかった。横顔になにやら葛藤を描いて足踏みしていたが、千種に挨拶もしないで走り去ってしまった。
千種も適当に挨拶をして、主婦たちと別れた。土手を下りると早足になった。月原の名が彼女を落ち着かなくさせていた。
 千種は知っている。この村で、彼のことを気安く話せるのは所詮余所者の自分だけだということを。
 彼は突然眠り出す。たまに姿を消す。
 それだけじゃない、千種は彼に脅されたことがある。
四月の穏やかな夕暮れ時だった。
 高校の暗い玄関、下駄箱の鍵を開けて、千種は靴を履き替えようとしていた。廊下から近付いてくる足音を、彼女はさして気にも止めていなかった。それが、千種目掛けて走ってくるまで。
「オマエっ!」
 振り向いた、瞬間だった。千種は肩を掴まれ、振り向かされた。学生服に学帽。学年色の紺色で、Aを象った胸元のバッヂ。一年A組――同じクラスの男子だ。
「な、何なの?」
 くい、と少年の掌が圧力をかけた。肩がロッカーに押し付けられる。
「目的を言え。何故この地に戻って来た」
 少年が、口を開いた。目を合わせて千種は息をのんだ。
 これほどまでに輝く目を今まで見たことがなかった。たとえ敵意ゆえであったとしても。
これほど深く澄んだ声を、今まで聞いたことがなかった。恫喝の言葉であったとしても。
「二度とここには来ないと誓ったはずだ、奥沢千種」
 相手の目的は今のところ、暴力を振るうことではなさそうだ。それでも彼の抱える怒りの焦点がぶれることはない。
 黙りこんでいる場合じゃない。緩やかに混乱しながら、ただ震える声で尋ねた。
「はっ? あなた、何で私の前の名前知ってんの?」
「……まだ生身の人間でいるようだな。誰の差し金だ」
「何? 何の話してんの? あんた誰?」
 千種はかぶりを振った。緩く、しかし次第に激しく。
「二度とって――私、月原には来たばかりなんだよ? 変な冗談はやめて!」
 少年の目に動揺が走る。彼は何かを逡巡している。ひどく無防備な表情に見えた。
 手が離れた。
「憶えていないのか……」
 失望とも落胆ともとれる声音で少年はつぶやき、背を向けた。
「あなた――」
「出直そう。いずれ、また」
 詫びるでも悪びれるでもなかった。少年は既に暗い廊下に戻ってゆく。彼の名を知るのはそれから間もなくだった。
 これは秘密。暗黙の内に成立した二人の秘密。

  ―2―

 カーテンを引いた真っ暗な和室で、環は一人目を開けた。枕もとの時計を手繰り寄せ、備え付けのライトを点けた。時刻は十時を回っている。
 階段から誰か早歩きでやって来る。鈴江だろう。案の定身を屈めて襖を開ける気配の後、家政婦の声がした。
「環さん、起きてらっしゃいます?」
 蛍光灯の明りが一筋入りこむ。たまたま襖に背を向けていたのをいいことに、寝たふりをして環は無視した。
 元通りに襖を閉めて、鈴江はそそくさと立ち去る。充分に遠ざかってから、布団から這い出した。
 学習机の足もとに、通学鞄がある。電気をつけぬまま取り出したのは、携帯電話だった。着信ランプが光っている。
 フラップを開ける。顔を青白い光に照らされて、環は目を細める。リダイアルボタンを押して顔につけた。
「もしもし、環か?」
「先生」
 出たのは老人だった。
「先生、今どこにいらっしゃるのですか?」
「社務所だよ。今から出るところだ。エラいことになっちまったねぇ」
 胸が騒ぐのをぐっと堪え、環は沈黙した。次に聞こえた老人の声は、幾らか優しかった。
「何をしている?」
「今は何も……。でも真夜中には上九内別にいたいと思います。新と菓枝は」
「菓枝は神社に残して、新と俺が公民館に召集かかってるよ。情報はいるの待って、『祭り』のことも含めて会議だと。でもまぁ、何か理由つけて新をそっちにやったほうがいいね」
「大丈夫です。一人で行きます」
 立ち上がり、電気をつけた。環は外出着のままだった。
「『祭り』をやらざるを得ないことは、三役もよく分かっているはずです」
「それからね、環」
「はい」
「冷静でいなさい」
 視線を携帯電話に流した。そこに相手がいるわけでもない。
「……大丈夫です」
 電話を切った。
 乱れた着衣を整え、ジャケットを羽織って廊下に出た。環の部屋は、今母屋として使われている部分の二階の廊下の果てにある。追いやられたような場所。実際その通りだ。階段を下りるとまた長い廊下。中庭を逆コの字形に廊下が取り囲み、ガラス窓を通した向こう側で、嶺征と鈴江が立っている。勘のいい嶺征が、環に気付いた。そちら側へ渡った時には鈴江はいなかった。
環は嶺征を無視して、玄関の方向へ歩こうとした。
「環、今は行かないほうがいいよ。まだ父さんがいるからね。見咎められたら厄介だろう?」
 振り返り、歳の離れた兄を見上げる。嶺征はしらりと笑みを浮かべた。
 大座敷の襖を開けた。鈴江が慌てて掃除をした跡がある。襖が取り払われて、南北に四間の続きになっている。床の間に折りたたみ式の長机が運びこまれていた。
 座敷の果てが近付いてきた頃、男のヒステリックな喚き声が聞こえてきた。洋間からだ。
「黙らせておいで」
 嶺征がつぶやいた。環に言ったわけではない。
「その程度のこともやめさせられんで何が県議会議員だ! アンタ!」
 洋間の戸を開けると、やはりその部屋だった。怒鳴っている人物の後ろ姿の印象は、太短い。相手は電話だ。
「秀樹さんが亡くなられてね、六時間! えっ、もう六時間だよ! その間遺族の方はね、連絡待って、それで何を言い出すかと思ったら検死をする。解剖をする」
 誰かと思えば、久々に見る自治会長の戸塚だった。
「何? 少しは人の気持ちを考えたことがあるのか! そんなことが罷り通るならね――」
 電話が途切れたらしい。受話器を顔から放し、戸塚は顔をしかめる。環は黙って彼の後ろを通り過ぎようとしたが、嶺征は窓辺で激昂する彼に背後から近寄った。
「検死は国家の法に基づいて行われるものです。止められやしませんよ」
「おや、これは嶺征さんに環さん」と、急にニコニコと二度頭を下げた。
「お見苦しい所を――」
「おい、まだか」
 玄関側の扉が開いた。父親であり、月原家当主である月原晩器。大柄な体をまるで似合わぬ礼装のスーツで包み、剣呑な目で自治会長を睨んだ。
「あぁ、いえ。今ちょうど向こうの長話が終わったトコでしてね、エヘヘ……」
「だったら早く車を出さんか」
「はい、お待たせして済みませんねぇ。今、今」
 足早に晩器の隣をすり抜けて、開いたままの戸から出て行く。
 入れ替わりに、黒衣を纏った真由美が顔を見せた。
「あらあなた、まだいらしたの」
「今出るところだ」
 晩器は顔をしかめた。
 今度は座敷側の襖が開く。家政婦の鈴江だった。
 予期せず屋敷に暮らす全員が揃ったことに、鈴江は驚いた様子だった。すぐに夫妻に深深と頭を下げた。
「旦那様、上九内別の宏子さまから言伝てを預かっておりますが、よろしいでしょうか」
「宏子?」
「秀樹様の奥方でございます。病院からお電話がありまして、その……一晩留守になさるから、子供たちが心配だと」
「まぁ、病院には本家の主が出向くのよ。わざわざ行くことないでしょうに。うちで面倒を見ろっていうの?」
「はぁ……」
「だったら自分で連れてきて、頭を下げるのが筋ってもんじゃないの。馬鹿にしてんのかしら」
 真由美がわざとらしく溜め息をついた。
「でもま、そういう礼儀が分かる人でもなさそうね」
 環は居たたまれなくなって足元に目を落とした。あの人は、夫であり家の主である人を亡くしたのだ。しかも無残な遺体を確かめる為に、遠方まで出かけてゆくというのに。
他人をけなす方向にしか物事を考えられず、口に出す。環は母が嫌いだった。
「子供たって、赤子じゃないんでしょ。お幾つでした?」
「小学五年と二年です」たまりかねて環が答えた。
「僕が行きます」
 真由美が環を睨み付けるが、環は父を凝視した。彼は鈴江に向けていた鋭い眼差しを環に流した。
「人をやるなどと言っておらん。でしゃばった真似をするな!」
「父さん、環に行かせてやりましょう。彼は随分あちらの世話になっていたじゃありませんか」
 嶺征が言葉を添えた。晩器は環から視線を外さず、かといって目を合わせようともしない。
屋敷中を風がめぐってくる。ここは秋も深まる奥三河。夜はもう冬のように寒い。
「好きにしろ」
 やがて晩器は重々しく言った。呟くように礼をいい、立ち去ろうとした環を真由美が引きとめた。
「お待ち」
「何でしょう」
「お前はあの家に恩を売ったつもりだろうがね、この月原にゃ好きこのんでお前なんざに頭を下げる手合いはいないんだ。忘れるんじゃないよ」
「よく存じております」
 立ち上がり、背後の襖を開けた。使われていない暗い座敷を通り抜け、廊下に出た。衝立の向こうの階段。上りきると小窓があり、ちょうど月が見えた。コンパスで描いたような満月で、べたりと黄色い。自室に入り、電気の紐を引いた。
 蛍光灯は二度瞬いてから点いた。上着のポケットに小銭入れと原付の鍵をしまう。
 それから、机のペン立てに手を伸ばした。
 筆記用具を掻き分けると、鞘つきのナイフが隠れていた。野外活動用の大ぶりのナイフは、抜けば一点の曇りもない。ベルトに挟んで部屋を出た。遠く走行音が聞こえた。晩器が屋敷を出て行くのだ。
 階段の前で、小窓に顔を寄せている嶺征がいた。その姿に足を止めるが、気を取り直して歩き出す。
 小窓からの景色の半分を、黒松の大木が覆い隠している。環は嶺征の目線の先にかつてあったものを知っている。その枝に昔、嶺征が大切に飼っていたカブトムシの虫篭が引っかかっていたのだ。
 環が小学一年の時だった。中学生の嶺征が帰宅していたから、試験でもあったのだろう。玄関をくぐると二階から錯乱した女の喚き声が聞こえ、それが母の声だと気づいて環は走った。母が真上にいて、硬直する環に気付きもせず、両手に抱えた箱を窓から放り投げた。初夏の強い陽射しにきらめいて、それが虫篭だと環は理解した。何故あんなヒステリーを起こしていたのか今となっては知る由もない。どうせ下らない理由だろう。
 為す術もなく嶺征は毎日窓の外を見ていた。逃げ場のないプラスチックの小箱の中で、黒く小さな生き物たちは飢えて朽ちていった。待ち構えていたように小さな羽虫たちが入りこみ、死骸も無残に解体されてゆく。兄が何を思ってその光景を眺めていたかなどは知りたくもないが、幼い環もじき理解した。
 兄が壊れていることを。自分が慕った優しい兄は、もうどこにもいないことを。しかもその変化に気付いているのはこの世に自分一人ということを。
 母が兄を溺愛していること。それは彼が長男だから。いずれこの家を継ぐ存在だから。そして次男の環は生まれてしまった子。必要なかった子。
 嶺征が先に生まれ、自分が後に生まれた。それは決して環の責任ではない。だが宿命はあまりにはっきりと、兄弟を分け隔てた。
 背中に視線があたる。にこやかな殺気とでも言うべきか。環は無視を試みる。
「環」
 やはり声をかけられる。仕方なく振り返る。
「木野さんがさっき電話していたよ。宏子さんに、お前が上九内別に向かうって」
「……はい。急ぎます」
時々、意味もなく思うことがある。もしも自分が先に生まれていたら。七年の差などなくていい。一分でも一秒でも早ければ。
「環」
 いや、嶺征がいなくなってしまえば。例えば死んでしまえば、月原家の後継ぎは自分になる。両親の愛も恩寵も、莫大な資産もいずれ自分の物になる。
 兄弟は廊下で向かい合った。
「無理をすることはないんだよ」
 ……ごめんだ。人の心も金も、この地に自分を縛り付けるものならば、何も欲しくない。だから。
 何があっても兄さんには死んでもらっちゃ困るんだ。
「ありがとう」
 環はすれ違いながら、兄を横目で見た。
「兄さんは優しいね」

 和歌は古民家がプロの手によってリフォームされるテレビ番組を見ていた。自宅より古く汚らしい家が都会にもあることに安堵していると、廊下で電話が鳴った。和歌は散らかった卓袱台に麦茶のコップを置いて走った。
「お母さん?」
「和歌、あんたニュース見た?」
「今見てた」
 和歌はウソをついた。パジャマのポケットのふくらみには携帯電話が入っている。
「携帯に電話してっていつも言ってるじゃない。そしたらニュース見ながら電話できるのに」
 この村は、数年前まで村全域が圏外だった。それが麓に発展する『つきみが丘ニュータウン』の整備に伴い、月原村をもカバーする電波塔が建てられたのだ。が、村にそのアリガタミの分かる年寄りが少ないと和歌は嘆いている。電波が人の頭を狂わせると本気で説いて回る者さえ中にはいるくらいだ。
 これだから田舎って嫌。――嫌になる要素の一つが自分の母であることが、更に和歌を暗い気持ちにさせた。
「バカ言っとってアカンわぁ。人の話を聞くときにテレビなんか見んじゃないよ。それに今それどころじゃないの」
「何なの?」
「和歌、お母さんの部屋に行ってねぇ、公民館まで喪服を持ってきてちょうだい。クリーニング屋さんのビニールに入ったのがあるから。ストッキングも忘れんじゃないよ」
 すっと、喉が渇くのを和歌は感じた。いつの間にか閉じていた目が開かれた心持ちであった。
「上九内別の人、死んだの?」
「亡くなったのよ」
 言い直されても意味するところは同じである。
 足もとから震えが来て、わけも分からず和歌は恐怖した。廊下の電気をつけてこればよかった。
「あのさ……台所の手伝いとか、行ったほうがいいかな」
「はぁ? あんたがどういう風の吹き回しよ」 乾いた声で笑う母は、次の一言に怒りをこめた。「言っとくけど、お屋敷の次男なら来ないよ」
 反射的に、受話器を握る左手に力がこもった。別に……と反駁の言葉が出かけたが、母のほうが早かった。
「あんたが何考えとんのかお母さんが知らんわけないでしょう。アレと一緒のクラスになったのが運の尽きだね」
「そんな言い方やめて」
「とにかく、そういう考えは許さんよ。あの家に嫁に行かせるなんて、不幸にさせるのと同じだわさ。今のあそこの奥さん見てみぃ。あんな人間なっちまうんだよアンタ」
「そりゃ嫌だけど――」
「ほだらぁ?」
 和歌は反論の言葉を見つけられず、黙りこんだ。
 母も何も言わない。
 耐えられなくなり、「じゃあすぐ行くね」一言伝えた。
 和歌は受話器に手を置いたまま、その場から動かなかった。敗北感に満たされて、一歩でも歩けばそれがぱちんと弾けて泣いてしまいそうだった。母は、村での環の立場を引き合いにして、和歌の考えを嘲笑った。だがそれだけではないだろう。
 自分では、あの少年には不釣り合いすぎるのだ。誰の目にも明らかだし、和歌自身分かりすぎるほど分かっている。むしろ母は自分への遠慮から、環を貶めるように言ったのだ。あぁ。
 もう少し細面だったら。もう少し目が大きければ。もう少し唇が薄ければ。もう少し肌がきれいだったら。もう少し首がすっきりと長ければ。長い髪が似合えば――。
 そうしていても仕方なく、一呼吸置いてテレビを切りに居間に戻った。和歌は入口で立ち竦んだ。
 いつのまにか、灰色の髪をシニョンに詰めて、水色の季節はずれの浴衣を着た小さな祖母が正座していた。
「お婆ちゃん、どういう格好してんの?」
 もうどうせ、何を言っても分からないのだ。和歌は浴衣の金魚模様に語りかける。自分が誰かも分からなくなった、そんな人間を見るのは怖い。
「お婆ちゃん、私出かけてくるからね」
「……ケイゾウさん……ケイゾウさん……」
「お婆ちゃん! 私出かけて来るからね! ちゃんと留守にしとりんよ!」
 叩き付けるように言って居間を飛び出すと、電気をパチパチつけながら、階段を駆け上がった。

 東の枝折戸から私道にでた環は、蛇行する砂利道で原付に跨り、ライトを点した。二度道を折れ曲がると、アスファルトの道に出た。
村の明りに背を向けて、道しるべなき山道にアクセルを踏む。ひび割れた細いアスファルトを心もとないライトが先行する。
月原村は十一の区画で構成される。その中の静内というのは月原邸のためだけの区画で、番地も一番しかない。下九内別と上九内別は、静内の屋敷から十分ほど走らせた場所で分岐する。前者は七戸、後者は十二戸の集落で、日が暮れてから往来する者もなく、もちろん外灯の一本もない。明治になるまでこの区画は今の場所になかったし、月原村に含まれてもいなかった。今でもこの二区画は集落、それ以外の区画を村と呼ぶことで、意識する節がある。
光の円に誰かの踵が入った。黒い服を着た男が傘を携え歩いている。原付の走行音に、男は道の脇にどく。
並んだ時、顔を合わせて互いの顔を見た。
中肉中背。眼鏡をかけた四角い輪郭を持つ、四十前くらいの男だった。環は通り過ぎてからブレーキをかけた。
「川本さん――」
「あれ、一体どうしたんです、こんな時間に」
 ぎこちない愛想笑いを浮かべて彼は足を止めた。男の顔を覗きこむ。彼は上九内別の出身で、たしか測量事務所に勤めるため麓の町に住んでいた。
「川本さんこそ。事件のニュースは見ましたよね。まだ叔父さんを殺した人がこの辺りにいるかもしれない」
「えぇ、その件はご愁傷様です。でもねぇ、帰ったらんと電話で母親が不安がるもんで……」
 川本は急ぐ素振りを見せて、足早に環のもとから離れた。環は自転車をその場に立てる。
「川本さん」
 男の後ろ姿が止まる。
「一つ、忘れていることはありませんか?」
 道の真ん中に立ち塞がる環を、川本が振り向いた。
「大事なことを」
「大事な……あぁ……」と、彼は頭を掻く。
「すみませんねぇ……あんなことが起きた直後に村に帰ったからには、まず三役に顔を出して」
「違う。そんなことはどうでもいい」
 環が歩を踏み出す。あわせて川本が後ずさる。
「忘れてなんかいないでしょう。ご自分が一年前に事故で亡くなったこと」
 ぴたりと足を止め、雲の明りに眼を細めて川本を見据える。電気のような緊張が、十メートルと離れていない二人の間に流れた。
 環が腰のナイフを抜き、全力で川本に向かい、走り出した。男は逃げるだろうと思ったが、そうはしなかった。
 その場で手にした傘を肩の高さまで構え、その先端を両手で環目掛けて突き出した。
 当たる直前で身をかわす。
 すり抜け様、Tシャツから覗く鎖骨の合わさる場所に、ナイフを突き立てた。勢いで刃を横に滑らせたとき、二人の足の間に傘が落下した。
「言え! なぜオマエが立って歩いているッ!」
 皮膚といういれものが裂け、血とは違う――黒い霧のようなものが一斉に吹きだした。川本はまだ人間の顔をしていた。目を見開き、丸く開いた口からは、黄ばんだ歯列が覗いている。信じられないという表情だった。落石に巻きこまれた日にも、こんな顔をしたのだろうか。
「他にもいるだろう――誰が何の為にこんなことを! 月原秀樹を殺したのも仲間の奴らか!」
 黒い霧は、ブブブ、ブブブと音を立てて散る。羽虫のようだった。自ら傷を押し広げながら、一本の筋となって崖下の森へ逃げて行く。同時に男の体が収縮を始めた。皮膚と骨格の内側で、中年男の肉付きがどろりと溶けてゆく。
「答えろ!」
 痩せた歯茎が剥き出しになり、筋力を失った瞼から目玉が押し出された。それがこぼれ落ちるかという時、体がアスファルトに崩れた。
 小鳥の爪のような指が、霧を掴もうと宙を掻く。そのまま崖へと這いずった。風が吹き、ずるりと剥がれた頭皮が転がりながら崖を落ちる。
「くそっ……」
 その体はもう、霧を噴き出してはいなかった。しゃれこうべと化した頭が、ガードレールをくぐって森へ転げ落ちる。服を引きずったまま、上半身が垂れた。下半身と服を連れて、人骨は消えた。
 路上には、川本が履いていた靴、そして土くれと濡れた草の欠片のようなものが残った。環は黒い霧が逃げていった方角を、睨み続けていた。
 何か崩れる音がした。我に返り、顔を前に戻す。上九内別方面から来た誰かが、自転車ごと横様に倒れていた。
 見れば同じクラスの少女だ。名前がすぐに出てこない。怯えた顔を環に固定したまま、前籠からこぼれた衣服をすがるように抱きしめた。
 環は彼女に歩み寄った。正面に立ち、取りあえず助け起こそうとした時、ナイフを持ったままでいることに気付いた。ナイフを鞘に収め、腰を屈めて顔を近付けた。
「これは夢だ。……誰にも言うな」
 少女は何度も頷いた。尻餅をついたまま環から身を離すと、立ち上がり、前のめりになって村の中心部へと走り去って行った。
 足音が聞こえなくなってから、崖に立てかけていた原付を起こした。ヘルメットもつけずサドルに跨り、夜風に騒ぐ山道を一気に走り抜けた。
 やがて小学生の少女二人が道の終わりに見えてきた。山間の集落に、もはや起きている家はない。姉の持つ懐中電灯の光から自ら離れ、七歳の水樹が駆けて来た。
 原付から下りた。水樹は体当たりするように環の腰に腕を回し、下腹部に顔面を押し付けた。思いがけず力強かった。長い髪が揺れる。コートは樟脳の臭いがした。
「遅ぇよ、いつまでかかってんだよ! 本家の下の兄ちゃんが来てくれるって母ちゃんが言うからずっと待ってたのによ!」
 遅れて歩み寄った御幸(みゆき)が叫ぶようになじった。妹とは正反対に少年のような短髪で、冬でもTシャツを着て過ごす。しかもお気に入りのアニメキャラに触発されてか、親の見ていない場所では男言葉で話すのが好きだった。
「あぁ。遅くなったな」
「オラ水樹! さっさと離れろ! 兄ちゃんが歩けねえだろ! ったく、兄ちゃん全然来ねーしよう。水樹はぎゃんぎゃんウルセエしよう。留守させられる身にもなってくれよ」
「それは偉かったな」
 服にしがみついたままの水樹を歩かせながら、ハンドル押して歩く。
「べ、別に……誉めてほしいわけじゃねぇよ……」
 切り立つ崖と、落ちこむ崖と、その隙間から三人は、言葉を掛け合いながら、人の住む地へ吸いこまれる。

  ―3―

 誰かが玄関を叩いた。千種はドライヤーで、長い髪を乾かしていた。最初、それを自宅の玄関からの音だとは思わなかった。父親は公民館に顔を出したばかりに、付近の山を近隣の人と見回りに行かされている。母親なら自分で鍵を開けるし、来客ならインターホンを押すはずだ。しつこくノックが続くので、不審に思いドライヤーを止めた。そして間違いなく我が家への来客と認めた。
 カーテンから外を見下ろしてみたが、軒に隠れて誰も見えなかった。二回ずつ、等間隔に引き戸を叩き続けている。
 千種は階段を下り、一階を貫く廊下を渡った。外に立つ人物は、近くに立ちすぎているせいで、すりガラス越しにも着ている服の模様が見える。首に巻くタオルが青いのが、またやけに禍々しい。
「はい、雛川です」上がり框から声をかけた。「どちらですか?」
 聞こえていないのか、答えるのは固いノックだけ。仕方なく電気を点けて、下駄箱から通学用の革靴を出し土間に下りた。
 鍵を開け、チェーンの隙間から顔を出し――たいところだが、ここは東京の家ではない。片田舎の古民家に、そんな装備は望むべくもない。
「何をやっとるんだぁ!」
 細く引き戸を開けるなり、千種は老人に怒鳴りつけられた。面食らう時間も与えず、客人は声を募らせた。
「ミエコがおいでんおいでん言うからうち遊びに来るって言うただらぁ! あんたが約束破るからミエコ隠れちまったじゃねえかッ!」
 老人は、垢くさかった。
片手に大きな冊子を開いている。もう片方の手で紙面を強く叩いた。千種は玄関から顔を出したまま、老人と冊子を交互に見る。冊子は卒業アルバムほどの大きさの物だ。老人にも見覚えがある。引っ越したばかりの日、挨拶した軽い認知症の老人だ。
 いつでも首をひっこめられるよう緊張している千種へと、老人は冊子を突き出して揺すった。
「ミエコが出てこんくなってまっただらぁ、見りん! こん中で泣いとるに! なんとかしぃ!」
 急に冊子が接近したので、顔に当たるまいと、思わず両手で受け取ってしまった。手の中で風をたてて薄い冊子が閉じる。千種の前髪が浮いた。
「約束破る。友達大事にせん。寒い中人を立って待たす。ろくな大人になれせんわ」
 何を目的として来たのか、ついに分からないまま老人は背中を見せた。門が開いたままの小さな雛川家の庭を出て行き、外灯に一瞬照らされたもののすぐに消えていった。
 千種は呆然としていたが、次第に怒りがこみあげて顔が火照ってくる。
 なにあれ。気違い。ジジイ。老害。ミエコって誰よ。心の中のお友達? 何このぺらい本。マジいらんのですけど。
『薊野小学校月原分校校誌』
「信じらんない……」
 これ以上家に持ちこむのが嫌で、乱暴に下駄箱に放り投げた。その時、よほど開かれて癖がついていたのか、あるページが開いた。
『野田美映子』の文字が目に飛びこんできた、
小学生の作文を集めたものらしい。ふともう少しだけ、この冊子に付き合ってやる気が起きた。どうせ明日になったらあの爺さんの家に放りこんでやるのがから。
『おじいさんの話
六年 野田美映子
これは、校誌にのせる作文のために、私のおじいさんから聞いたお話です。
今新しい町をつくっている場所に、昔小さな村があったそうです……。』

 水樹は御幸の隣に布団を並べ、じっと横になっていた。眠ったのかと覗きこめば、まだ悲しげに薄目を開けていた。
少しばかり散らかった明るい部屋だ。御幸は水樹の横で、布団に胡座をかいている。
「……疲れているだろう。もう寝たほうがいい。明日から忙しくなる」
「兄ちゃん」
「何だ」
「……朝、変な奴が来た」
 憮然とした表情で、顔を背けて呟いた。
「変な奴?」
「じいさん。お父さんが前に立ってたからよくは見えなかったけど……玄関に立ったままボソボソ話してて……。その内帰ったから、今の誰って聞いたらさ。親父、お前たちの所には来ないから大丈夫だって、笑って……」
 鼻をすすり上げた。乾いた音がした。
「そんで家出てっちゃったんだ。これ、警察に話さなきゃ駄目かな」
 警察か。環は首を横に振った。
「御幸が話したくなければオレが話す。御幸も水樹も気にやむことはない」
「兄ちゃん……」御幸の声が潤んでいた。白目が真っ赤に充血している。「ありがと、兄ちゃん」
 ごろりと布団に潜る御幸に、環は胸騒ぎを覚えた。この二人の将来は。父は、幼い二人を月原家の財産で養ってくれるだろうか。広がる不安を押しとどめ、畳から膝を離す。
「たま兄ちゃん」
 水樹だった。環はもう一度幼い従姉妹に視線を寄せた。
「どうした?」
「電気、切らないで」
「あぁ、分かった」
「どこにも行かないでね」
「この家にいる。もういいから、寝ろ」
 そして御幸にも声をかけた。
「今度怪しい奴が来たら、オレが追っ払ってやるから」
 小さな頭が頷いた。姉妹のどちらかが、すすり泣きを始めた。環は暗い廊下に出ると、音を立てぬよう、襖を閉ざした。

「アンタの所には来んからねぇ」
 突然耳もとで声がした。和歌はぱちりと暗がりに目を開けた。状況を把握するより先に、しゃがれ声が続いた。
「ケイゾウさんがな。迎えに来てな。海を見せてくれってよ。チヨも連れてってくれるんだと」
 はしゃいでいるように聞こえた。
 部屋で寝ているのだと和歌は思い出した。ベッドの真横で囁いているのは認知症の祖母だ。
「ばあちゃん、部屋で寝とらないかんだらあ?」
「海にな、連れてってくれっと。そこにお父とお母がおってな――」
「あぁ、もう分かったよ」和歌は毛布を耳まで上げた。「じゃあ行ってきゃあよ、もうっ」
 布団越しに感じていた気配が、すり足で部屋を出て行った。和歌はもう一度目を開ける。
 意識が冴えてしまった。自然と一つの光景が浮かびあがる。あぁ、私は公民館に服を届けた後、随分と急いで帰ってきた。恐ろしいものを見た気がする。
 好意を寄せる少年が、ナイフを手に誰かを問い詰めていた。あの這いずる骸骨は本当にいただろうか。彼はこれが夢だと本当に言っただろうか。
 服を届けに行ったのは夢だろうか。
 何か、この村で不穏な事件が起きたのは、現実だろうか。
 赤子が泣き始めるように、どこかの戸が軋んだ。我が家の勝手口だと気付き、布団をはねのけて身を起こした。
「ちょっと、お婆ちゃん?」
 耳を澄ますと、山への細道へ足音が迷いこんでゆく。苛立って和歌は電気をつけた。現実だ。何もかも本当のことだ。とりわけ両親が留守にしており、祖母を連れ戻せるのは自分だけ、という点が。
 立ったまま片足ずつ靴下を履いた。学校指定の黒いコートに袖を通し、ボタンをかけながら廊下に出る。
 電気をつけず台所を横切り、古いサンダルを突っかけて家の裏に出た。
「お婆ちゃん?」
 小雨が降っていた。裏口を出ればすぐに森。和歌一人通るのがやっとの小径は濡れた雑草が伸び放題だ。すぐに足が冷えた。草を掻き分け森を覗きこむ。
 古い散策路が辛うじて道の役目をとどめている。常緑樹の森は、白いガスに自らを閉ざしている。その向こうに、動く人影を見た気がした。
「お婆ちゃん!」
 今のうちに連れ戻さないと。このまま奥へ行かれては、一人の手に負えない。真っ暗闇のはずの森が、何故奥に向かって明るいのかと、不思議に思わなくはなかったものの深く考えはしなかった。
 和歌は走り出した。やはり揺らめく人影は小柄で、自分の祖母以外有り得ない。すぐに追いつく。
「お婆ちゃんってば――」
 肩を掴むと、その人が振り向く。
 黒々としたおかっぱ髪。目と指によってそれを認知し、和歌はびくりと手をひっこめる。
 古い女の子だ。
 驚愕は相手も同様だった。上擦った声が二人の口から同時に洩れた。
強い光が目をやいた。
 瞼の裏まで真っ白になる。腕をかざし、薄目を開ける。目の上に鈍痛が宿る。瞬きを繰り返しながら腕をおろした。
 遥か長い、蛇行する下り坂だった。道幅は、村の麓の二車線道路ほど。もちろん森の中にそんな道路があるはずがない。両脇に育ちすぎた草々がせり上がっている。更にその奥に連なる里山。視界に映る坂の果ては、所々に夏雲の浮く、真っ青な空と融合している。
 嘘。今は秋のはず。そして夜のはず。
「おばあちゃん?」
 駄目だ。こんな所歩けない。立ち竦んだまま和歌は叫ぶ。
「おばーちゃん!」
 和歌は情けなくて泣きたくなった。祖母が優しかったことを突然に、そして今更思い出した。無口な人だけど、いやだからこそ、そばにいるだけで安心できた。いくつボタンを縫ってもらっただろう。幾度傷を洗ってもらったろう。だがその人を自分は嫌った。臭いと言って。怖いと言って。
 今もそう。叫んでいる間に探しに行けばいいのに、それをしない。
「おばあちゃ」
 妙な気配に声を止めた。同時に背後で足音が止まる。
「お婆ちゃん?」
 坊主頭の男。灰色の上下を、最初作業服だと思った。足に巻く白布、あれはじゃあ、なんだろう。
 ゲートルだ。
「あれ?」
 軍服を着た男じゃないか。
 しかも災害救助の場面などで見る自衛隊の制服とは違う。白黒写真で見るような、イラストで見るような――。
 きらりと刃を先端に据えた銃が、男の胸に構えられた。和歌は事態を把握できない。
「伏せろッ!!」
 大きな塊が飛んできて、和歌は砂に倒された。ほぼ同時に破裂音が鳴り響き、押し倒されたと理解する。

 銃声!

 和歌は驚いて目を開ける。朝陽が天井にカーテンの影を描いている。
夢を見ていたのだ。ひどく寝汗をかいていた。
「よかった……」
 立ち上がり、カーテンを払った。隣の家の境界まで続く、刈りいれの終わった野菜畑。古い納戸と立ち枯れた雑草、崖下の沢田家の青い屋根。どれもが昨夜の雨の雫を輝かせている。
 どこからが夢だったろう。
 まあいいか。全部夢だ。
 そう考えれば全く清々しい。今日なら何でもできる気がする。
 月原環に声をかけることだって。おはようくらいなら。
 一階におりた。台所には母親がいない。その理由を知っている気がしたが、まだ寝ているのだろうと結論付けた。
 水を飲もうと食器戸棚に手をかけた時、隣のすりガラスの障子が細く開いていることに気付いた。
 自分の世界にこもりきりの祖母は、居場所を覗きこまれることを殊のほか嫌う。妙に思ってひょいと顔を向けた。
 桐箪笥と壁にもたれて、介護用の寝巻きのまま膝を抱えている。
 障子を開け放っても、何の反応もない。
「おばあちゃん?」
 どうやら斜め右手にある窓の外を見ているらしい。一呼吸ごとに嫌な予感を膨らませながら、部屋の中央で窓を見た。何もない。草木が濡れているだけだ。
「おば――」
 両目をむき、口をあけて死んでいる。

「ひぃっ、」
 和歌は再び目を覚ます。ざわめく木々が朝陽を揺らすさまが唐突に目に入った。峠へ向かう散策路の途中だった。
 祖母を追って森に入ったのを憶えているが、あれは現実だったというのか。それかまだ、これが夢の途中か。
「どっちなの?」手をついて起きると、全身濡れた土まみれだった。
「もう、ヤダ」
 土を払い落としながら、まだ眠くて力が入らない体で家へと引き返す。
 集落へのカーブを曲がると、先に誰かの人影が森を出るのが見えた。
(月原くん?)
 逆光を浴びる背に眼を細める。
 その姿が見えなくなってから、足を早めた。
 勝手口から家に戻る。見咎める人はいない。両親は辻堂の公民館に行っている。お婆ちゃんは。そうだ。
 すりガラスの障子戸の前で、呼吸を整える。
 思いきって開け放つ。
 部屋には誰もいなかった。金色の秋の朝の陽射しが畳に広がるだけだ。

『おじいさんの話
六年 野田美映子
これは、校誌にのせる作文のために、私のおじいさんから聞いたお話です。
今新しい町をつくっている場所に、昔小さな村があったそうです。その村と月原村の間に、道があって、かめなし坂とよばれていました。
なぜかというと、昔村に、不思ぎな旅人が来たそうです。旅人は村の子供たちに、木ぼりの人形を作ってあげました。旅人が作った人形は、振るとどこからか土がこぼれるようになっていて、子供たちはとても不思ぎがって、大事にかめにしまっておきました。
ところが、朝になると、人形は全部土になってしまって、かめには土しか入っていませんでした。旅人にもう一度作ってもらおうと思ったけど、もう旅人はかめなし坂を通って別の村に行ってしまった後でした。子供たちはみんなかめをもって旅人の後について行きました。だから村にはかめがなくなってしまったそうです。』
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