お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈25〉 著者:豊原ね子

夢見る病気〈25〉 第二章 Reginita(第十二枝 春)
第五話 死者の国の生者――3/3

―8―

 お姉ちゃんが、妹の為にとうもろこしのスープを作ってくれる。子供用の高い椅子で、幼い妹としてのリコリスが出来上がりを待っている。お姉ちゃんは踏み台を使って鍋と向かい合っていた。その背中から、視線を、目の前のぶどうのジュースに移す。
 ここには食べるものも飲むものもないと聞いたはずだ。
 難しいことはわからない。それに、どこで誰からそんな話を聞いたかも分からない。
 妹は難しい顔をして、真剣にぶどうジュースを見つめる。濃い紫の液体とガラスがその顔を照り返す。やはり、飲めない液体であるとは思えなかった。
 コップを握り、顔に寄せる。
 飲む。
 やっぱり、飲めた。そして正しくぶどうの味がした。
「よし、できた」
 お姉ちゃんが火を消す。スープをよそって振り向くと、妹に笑うのだった。
「やだ。どうしたの、むずかしい顔して?」
「うぅん。たべてもいいの?」
「うん、お食べ」
 木匙に口をつける。スープは甘く、塩もよくきいていた。「おいしい」、素直な感想にお姉ちゃんの白い頬が笑う。温かいスープが温かいまま、おなかに落ちてゆく。
「けがはどう? もう痛くない?」
「うん。だいじょうぶ」
 とうもろこしの粒を飲みこみ、椀を置いた。
「どんな夢を見たの?」
「なぁに?」
「お話の国の夢は、どんなだったの」
「わたし」
 妹は小さな頭を振り絞り、出来事を思い出そうとした。夢だとしても、いつ見た夢だかさだかではなかった。
「わたしね、あの塔の町を歩いていたんだよ?」
「塔の町? 広場の、模型の町を?」
「うん。おはなしをしてたの」
 お姉ちゃんは静かに椀を置き、身を乗り出してきた。
「……何のはなしかな?」
「えーっとね、よく思い出せない。わたしのどがすごく痛かったの。なのに水も食べるものもないって言われるんだよ」
 それを聞き、お姉ちゃんは無邪気に笑うのだ。
「おかしな夢ね。水も食べ物も、ちゃあんとあるのにね」
 それを聞き、やっと妹も安心するのだった。
「そうだね、変だね」
「夢の世界にも変なことを言う人がいるんだねぇ」
 安心すると、もっともっとお姉ちゃんのスープが欲しくなった。お椀を手に高い椅子を飛び降りた。
「おかわりなの? リコ、お姉ちゃんが入れたげようか?」
「ううん。わたし、じぶんでできる」
 だってもう、パパもママもいないから。心を読んだように、「そう」、お姉ちゃんは言った。
「偉いのね、リコ」
 キッチンの端から青い布巾が垂れている。その青は、夢で見た青。そうだ。塔の町の鉄柵に掛かったケープと同じ青。
 心の底から、黒い澱がめざめて舞い上がる。
 あの青いケープは、今もあそこに掛かったままだろう。それがとても大切な、忘れてはならないことのように思えて仕方なかった。
 踏み台に上り、おたまの柄に手を伸ばす。
 その時耳朶の底に、男の声が蘇る。
『この町は人の姿のまま生き延びられるようにできていない』
 お鍋はからっぽだ!
 妹は確信した。理屈などなかった。果たして覗きこむ鍋は空っぽで、傷ついた底をさらして乾いていた。椀を落とした。木匙が大きく跳ねながら、遠くに滑っていく。
 その音に、どうしたの、とも何ともお姉ちゃんは言わない。
 お姉ちゃんは立っていた。
「信じないの」
 妹の前に立ち、冷たく言うのだった。
「お姉ちゃんの言うことを信じない気だ」
 語尾が熱を持ち、震えた。それからお姉ちゃんは一気に歩を詰めると、二の腕を鷲掴みにして怒鳴るのだった。
「お姉ちゃんが言うことよりも、あの男のほうを信じるんだ! お姉ちゃん、リコにご飯を作ってあげたのに! いっしょに暮らそって、お約束したのに!」
「お姉ちゃん!」
 そうして、そのまま踏み台から引きずり下ろすと、大股に玄関へと歩き出した。妹は踏ん張ろうとしてバランスを崩し、下半身を床に引きずられる。
「いたいよ! お姉ちゃん、はなして!」
「何でもしてあげるって……電気もつけたげるし一緒に寝てあげるし、何でもするってお姉ちゃん言ったのに!」
「ちがうの! ちがうの、お姉ちゃん!」
 お姉ちゃんは靴も履かずに、雪が吹きこむ共同住宅の冷たい廊下に出た。じきに息が切れた。頬は赤く、額には汗で髪が貼り付き、それでも変わらず妹を引きずって階段を上がってゆく。
「悪い子供はいらないって、うちの子じゃないってパパもママも言ったわ」
 妹はどうにか自分で歩こうともがいたが、叶わなかった。
 屋上まで上りつめ、妹も姉のせんとすることを察した。屋上の縁まで引っ張っていき、雪に妹の体を投げ出した。
「だからあんたの上の子は、うちの子じゃなくなったのよ! 下の子なんか、生まれる前からうちの子じゃなかったんだから!」
 飛び掛ってきたお姉ちゃんに、悲鳴をあげて妹は抗う。お姉ちゃんの体は温かく、柔らかくて、動いていた。
「だから、あんたもあの子たちと同じところに行くの!」
 そして力強かった。
「嫌われちゃった子供は、いちゃいけないんだから!」
 わきの下から腕を入れ、身を引き起こされる。雪を掴むしかなかった。その腕を振り回すと、雪がお姉ちゃんの目で弾けた。
 いたい、と言って力が緩む。
 今度は妹が力をこめて、お姉ちゃんを振り払った。ふいに拘束がとける。お姉ちゃんは勢いあまって二歩、三歩と後退する。その踵が雪ですべり、大きく後ろに倒れた。
 その先は、屋上の終わり。
「お姉ちゃん!」
 お姉ちゃんは、妹へと細い腕を伸ばす。どうにも出来なかった。お姉ちゃんの姿が視界から消え、屋上の縁には、彼女の足跡だけが残った。
「お姉ちゃん!」妹には、叫ぶしかなかった。「お姉ちゃん!」
 残されて、見渡す限りの世界にはもう誰一人いない。
 リコリスはうずくまり、目も耳も閉ざした。もう妹はリコリスだった。リコリスとして、自分がとんでもない事をしでかし、且つおのれが何もしていないことを悟った。自分はどこも走っていなければ、だれとも出会っていないことを。
 果たして目を開けると、青空が塗られた天井の、色ガラスの花の広場にいた。枯れた噴水の隣にいて、膝を抱えていた。お話の国なのか。夢を見ていたのか。もはやそのように問う者はおらず、また問われる必要もなかった。
「お姉ちゃん……」
 ケープの下の腕で、リコリスは目をぬぐう。
「お姉ちゃん」
 重い大人の体でベンチに座る。涙があふれ出た。お姉ちゃんが愛おしかった。子供としてお姉ちゃんを頼りたく、大人としてあの子を慈しみたい。二つの気持ちが共にあった。リコリスは、お姉ちゃんを愛していた。彼女の愛を失ったことが辛くて仕方なかった。更にはあろうことか、彼女を殺してしまったのだ。
 もう一度、愛されたい。
 しかしそれは叶わぬ。
 自分で招いたことだ。そして必ずこうなる事をまた、ずっと前から知っていた。確定した過去だったのだ。リコリスは涙をぬぐい続ける。悲しみは洪水のように襲い掛かる類の強さではなかった。もっと静かな諦めの悲哀だった。
 小さな機械が羽音を立てて飛んでくる。掌ほどの銀の箱。四枚の金属の翅。それは蟲が飛ぶような不快な羽音をたてた。
「あれはただの人形だ」
 機械の声は、尖塔の町で聞いたのと同じ声であった。
「その目で見たものを忘れてないはずだ。この広場、この世界とて人形の為の模型に過ぎない」
「だから何だというの」
 リコリスは涙を拭いながら言った。
「それでも、私がお姉ちゃんを亡くして悲しい気持ちは消えないわ」
「あれの不在を悲しむとは、お前も人形と同等の存在だということだ。それを自ら認めるのか? 姉など自分にいないことはお前が一番分かっているはずだ」
 丸めていた背を伸ばす。顔を上げた。その顔を窺うように機械がぐるりと一周した。
「私には心がある。お姉ちゃんにも同じ心があった。あなたに何が分かるの? 私には霊子がある、魂が、霊魂がある! たとえ体が作りものでも、宿した心は消えないわ!」
「馬鹿め。人間が人間でいられるのは、人間の肉体があるからだ。人が魂、心、霊感と名づけた意識は人体という器があってこそのものだ。肉体は意識の母体であり、意識だけでは外界の情報を処理できず自我を維持・保存できない」
 足もとにナイフが落ちてきた。
「意識も心も、すべからく肉体の情報処理の過程で発生する信号だ。試してみろ、お前がお前にふさわしい肉体を保持しているものか」
 ナイフは長く、鞘がなく、するどい銀に光っていた。リコリスは手を、伸ばしたが、それを掴み取ることは出来なかった。この機械が共にいると、体を切れば赤い血ではなくビーズが溢れてくるのではないか。それはほぼ確信であった。
 自分が人間であることを、リコリスはもはや信じられなかった。人間ではなく何か、誰なのか、それも分からなかった。
 歯を食いしばってリコリスはうめいた。ナイフを掴めぬ彼女を嘲るように、機械は動かず滞空するのだった。
「お前たちに肉体はない。人形だ。操り人形だ。俺はお前らが俺と等しい次元の人間であるとは決して認めんぞ。お前たちは実在しない」
「では」ナイフに伸ばした手を、拳に握った。「実在しないというのなら、私たちは何なの?」
「架空かそれに等しい存在だ。電気信号が作り出す文字の集積体と変わらん。お前がここで前触れなく死んだところで、誰も惜しみはすまい。所詮はお話の国のことだ」
「きっと誰かいるわ」
「何?」
 リコリスの目の高さへと、機械は高度を落とす。
「だって私は、お姉ちゃんが架空の存在だとしても、悲しいまま変わらないもの。たとえ私たちが空想の産物にすぎなくても、読み取る人がいて、その心を動かすことが出来れば、あなたが現実と呼ぶ世界との間にそういう相互作用をもたらすことができれば、私たちは生きていると言えるわ。私たちは実在できる」
「ならばお前は愛しい姉を殺したと認めるのか。受け入れるか? 聖職者でありながら犯した、忌まわしい殺人の罪を」
 掌に、突き飛ばしたお姉ちゃんの重さが蘇る。幼くいたいけな肉の柔らかさを。その下の、もろく未完成な骨を。
「お前の過去と、新しい姉殺しの過去。過去の人格とあれの妹だった人格。簡単に書き換えられる記憶と人格を抱えて生きていけるか。場合にあわせて都合よく乗り換えたりするのでなく、たえずどちらにも同等の価値を認めて生きていけるか」
 しかしリコリスは、躊躇いを払い肯定するのだった。
「生きていけるわ」
 掌には微かな痺れとしてお姉ちゃんが残っていた。そしてまだ、自分の肉がそれを感じ、呼吸をして生きていることを感じていた。
「私の実体が文字の連なりで、ただの情報集積体にすぎなければ、二つの過去を認めた時点で情報過多で動けなくなっているはずよ。だけど私は、動けてる。整合性が取れなくたって私は破綻しない」
 立ち上がった。
 ナイフを拾い上げた。もはや恐れはなかった。研ぎ澄まされた刃を親指に当てると、盛り上がった指の腹から血の珠が浮き出た。正しく痛かった。まるで痛くないという事も、逆に痛すぎる事もなかった。
 立ち上がり、ナイフをベンチに残した。機械は天井まで浮き上がり、羽音を鳴らしている。
「現実も、架空でも、みんな生まれた宇宙(ところ)は同じ。あなたが実在を認めなくても私は怖くない」
「それがお前の答えか」
 機械は言った。
「だがこの世界の人間たちが、その理想に向かいゆくものと思うな。むしろそれとは逆の、真逆のほうへ向かっていくことだろう」
 機械が落ちた。
 振り返る。石床に落ちたそれはただの箱と四枚の翅にすぎず、中にあの声の男がいないことがリコリスには分かった。あの男が消えたから落ちたのか、はじめから落ちていたか。
 親指の腹を舐める。
 痛い。
 血が唾に滲んで広まる。
 リコリスは歩き出した。
 廊下は短かった。その先に、海が広がっていた。
 初めての海は第十一枝でミナシキとともに見た。
 そして今夜が初めての海で、海など絵本でお姉ちゃんと見るだけのものだった。
 どちらも大事だった。どちらも、本当の過去であり個人の歴史だった。
 二つの思い出を胸に抱き、階段の下の小舟に足をかける。
 櫂で縄を切った。海は凪ぎ、月が一筋の光の道を浮かびだすのだった。
 月の光をなぞり、小舟を漕ぎ出した。

 ―9―

 部屋を出る。
 扉の先には空中廊下が一本延びていた。ミナシキは強い意思を感じた。インカーネイトはこの先にいる。ここまで来い、来てみろと俺を挑発しているのだ。廊下には手すりもなく、壁もない。ただ闇夜にまっすぐ白い架け橋として渡されているだけだ。橋の下、左手側から街灯型の監視光線銃が出ている。それはミナシキを見下ろして、赤い狙撃レーザーを投げてきた。
 部屋から出て走る。幸い無風だった。レーザーは走るミナシキの胸にしっかり狙いを定めてぶれない。
 距離が縮まる。
 震霊を抜く。
 廊下を蹴り、前方へ飛ぶ。
 赤い光が一瞬強烈になり、後ろの廊下を削った。前転してミナシキも震霊のトリガーを引く。震霊の白い光線が監視銃の柱を薙いだ。
 ミナシキは走る。
 今度は右。
 廊下の際まで身をかわす。肩の横を熱の塊が走りぬけ、入れ違いで震霊の光線が監視銃を切断する。今度はまた左。監視銃は入れ違いで現れ、間隔を徐々に狭めていく。飛びかう赤い光の中を、震霊を頼りに走る。
 その先で、廊下の両脇に立つ監視銃が待ち構えていた。
 赤い連射が交差しながら迫る。逃げ場はない。そしてその先に、行くべき廊下の続きはなかった。廊下は途切れていた。
 ミナシキは震霊を、弧を描いて虚空に放り投げた。ついで己の身を投げる。体じゅうを強い風が包みこんだ。落ちてきた震霊を掴み取る。はためく髪と衣服とをすかし見て、遠ざかる赤い光点を狙い撃った。光が消える。
〈愚かな〉
 女の声がした。
〈何故飛び降りた〉
 見れば横に、ひとひらの白布が浮いていた。白布の裏にレンシディがいた。大きな口。見えない目。幻影でみたその姿が、風の抵抗を受けて滞空する。その顔までもがたちまちの内に遠ざかった。それでも声を出せることを、声が聞こえることをミナシキは分かっていた。
「ハイダの話が真実なら――」
 漆黒の闇を落ち続けながら、ミナシキは応じた。
「――インカーネイトは俺を死なせない!」
 仰向けに落ちる、その背後に、明るさが満ちてきた。身をよじる。そこに床があった。転がって衝撃を分散しながら着地する。大した衝撃ではなかった。
 たどり着いたのは高い高い、機械の谷間だった。ミナシキは頭上を見上げ見上げて、白布を見つけた。
 普通の建物なら三階分か、それ以上の高さ。空間を埋める巨大な機械群は、内側から青い光を発し谷間を照らしていた。
 外階段やスロープが幾重にも取り巻いている。
 レンシディを取り憑かせた白布が舞い降り、壁の頂で裏返る。
 するとそれは女になった。
 青い光に浮かび上がる、華奢な体。黒くまっすぐな長髪と、着衣から伸びる腕。
「レンシディ」
 すると近くの壁の中から、
〈レギニータ〉
 先ほどの声が応じた。
〈ミナシキよ、私にはレギニータという名がある〉
 その姿から目をそらさず、ミナシキは唾をのむ。凝視したところでそれが本体でないことはちゃんと分かっている。
 レギニータ。それはインカーネイトに付けられた、仮想人格の名前。忘れていた。インカーネイトはインカーネイトでしかなかった。
 屋根がいずこかからせり上がり、闇の夜空を隠す。白い血をもつ生き物の、その血管であるように、無数のコードが天井を覆っている。
〈繰り返す。私はレギニータ、この王国の母だ。国土の一切、おまえの身を流れる血の一しずくでさえ私の財産だ。草木の一片もひとりの人も、私の前では等しい〉
 若かりしレンシディの姿をした、インカーネイトが右手をかざす。コードが撓んで静かに彼女のもとへと下りていく。
 するとコードの先端が、緑の蔦に変じた。レギニータはその黄色い花をつかみ取ると、口に投じて食した。滝のように、大量のコードが流れ落ちる。それは完璧な自律運動を行い、壁面に掘られた溝へ入り、あるいは自らジャックに繋がっていく。青い輝きが増した。
〈それをおまえは――〉
 コードの勢いは瞬く間にレギニータの足場を覆い、ミナシキがいる最底部へ迫り来る。床を這い、こすれ、宙を飛びかう騒音。
「インカーネイト、レギニータ!」
 彼女は天井近くで腰掛けていた。からまる蔦の枝に体を預け、花をちぎっては食う。音に負けじとミナシキも、天井に声を張り上げた。
「キセリタをどうしたんだ!」
 レギニータが花を棄てた。
〈やかましいわ、小僧!〉
 頭上で空を切る音。四方の騒音に紛れていながら、ただ一つ、その音だけは危害を加える意図を宿していた。
 どこから来るかも確かめられず、後ろに飛びのいた。コードが顔を掠めていき、ミナシキの左目の下に血の筋を引いた。
〈それどころでは無いのだ。おまえは、いったい私の王国をどうしてくれようか!〉
 コードの束が一斉に天井から襲い掛かる。その先端が伸びてくるのを躱し、震霊で束を薙いだ。機械、インカーネイトの壁面には霊子結界が張られている。震霊の光が当たった箇所に、青い輝線が走る。下がり来るコードを薙ぎ払いながら、正面のスロープを駆け上る。
 立って見下ろすインカーネイトの姿を確認。
 その姿とミナシキとの間に、一瞬コードがよぎる。
 応射。
 ただれ落ちるコード。
 目の下の血を拭う。
 足を駆る。長いスロープを上りきった先で、床で渦巻くコード群が蠢いた。
 震霊を構え撃つ。
 そのまま体が後ろむきに引かれる。
 腹に、導線むき出しのコードが巻きついていた。
 後ろからだ。確認した直後、体に電流と電圧を流しこまれた。
 震霊が手から落ちる。ミナシキは叫んだ。五体が砕けるような激痛に感覚が麻痺し、そのまま段差から振り落とされた。受け身をとることもできず、スロープの下の床を跳ねた。
 うつ伏せに倒れたミナシキを、レギニータは立って見下ろしていた。
 気を失ってはいなかった。背中で大きく息をし、痺れの残る手を握りしめ、顔を床から離した。
『ミナシキ!』
 名を呼ぶキセリタの声が聞こえ、一瞬息を止めた。誰かがスロープを駆け下りてこちらに向かってくる。
『しっかり――』
 差し出された白い手を咄嗟につかむと、その柔らかな質感を得る前に、手はコードの束に変じた。手首に巻きつき、そのまま強引にスロープの上へミナシキを引きずっていく。キセリタはどこにもいなかった。怒りと摩擦熱で意識がたしかになる。
 震霊が行く手に落ちていた。
 空いている方の腕を目一杯に伸ばす。震霊を手の中に納め、手首をとらえたコードに向けてトリガーを絞った。
 震霊は反応しなかった。
 ミナシキは何度も撃とうと試みた。バッテリーは十分にあるが、トリガーは虚しく空撃ちの音を立てるだけだった。
〈おまえに儀礼銃は使えない〉
 上りきった先で、コードが止まる。空いている手の自由をも奪うべく、違うコードが伸びてきた。震霊を捨て、機関拳銃を抜く。掃射を受けてコードがちぎれ飛ぶ。片手を取られたまま、ミナシキは両膝で立ち、レギニータの影を探した。
 レギニータはレンシディの姿のまま、スロープの前の壁のいただきに座り、脚を垂らしていた。銃口を向けた。
〈私の姿を撃ったところでどうにもなりはしない。私の本質は、人の似姿の中にない〉
 レギニータの踵が壁を打つ。その弾みで飛び、高さなどものともせず眼前に降り立った。間近で見てもやはりレンシディの姿をしていて、ミナシキはもう銃を向けられない。
〈私はハイダの実在を是認せざるを得なかった。そうすることを、私はこれまで拒絶し続けてきた。あれは穢れだ。大きな矛盾だ。おまえがそれとの接触を積極的に求めたから、あれはレギニータに居続けえた〉
 ヒールの踵が揃う。
〈おまえはあれが何を言おうと無視しなければならなかった。なのにおまえは世界樹世界の秩序を軽んじ、ハイダの言を信じた。霊子はおまえを庇護しない。死んで本にでも何にでもなれ。そして私は、レギニータは、二度と国土としてのレギニータに戻れはしない!〉
 横手からコードの波がちぎれ襲いかかる。ミナシキは動くことも出来ず、打たれて弾き飛ばされた。
 壁にぶつかり、倒れた。手首は開放されていた。
〈おまえが穢れの触媒として第十二枝に作用したからだ。街は消え、人も消えた。物理の掟と秩序さえ、国土ごと損なわれた。おまえは世界を消したのだ、蟲やらハイダとやらの言を受け容れることで!〉
 体じゅうがバラバラになったようだった。それでもミナシキは目を開けて、壁に体を寄せた。手をつき立ち上がろうとする。動作のひとつひとつが苦痛だった。
〈マーテルが新しき世界をさがす一方……〉
 そんなミナシキに、しかし怒りをぶつけたらぬ様子で、レンシディは語る。
〈私はマーテルがどうした判断を下そうと、レギニータを守るであろう者を王に選び続けた。精神の均衡を欠いたレンシディを選んだとき、王族どもは愚かと言った。何を企んでいるかわからぬと、私を勘繰った。だがレギニータに必要なのは、国と人民とを愛する心をもつ人間だった。何が起きようと、何を知ろうと、それに己の愛を対抗させうる人間が。レンシディやリゾングラーテは私に必要な人間だった。〉
 息を吸うたびに胸の骨がするどい痛みを放つ。立ち上がれず、うずくまるように膝を折り、全身に張り付く痛みに耐えた。
 そうか。
 インカーネイトの仕事は、ただレギニータを守ることだった。人を、愚直に人と世界を愛し、それを何にも優先させる人間でなければレギニータの王になれなかった。そうした心こそが、インカーネイトに持ちえぬものだったから。真実を求め、未知を追求する仕事はすでにマーテルが行っていたのだから。
 おのれは決してインカーネイトの求めを満たしてこなかった。
 レーゼは死んだ。彼女が抱く好意を知り、利用し続けてきたから。ヨセギや大佐は死んだ。レジスタンスの仲間たちも。ミナシキがハイダを求めたから。遠くに光る真実を探すばかりで、彼らを顧みはしなかったから。結果がこれだ。キセリタを失い、思い出残る故郷もない。
〈ミナシキよ、おまえが王だ〉
 しかしレギニータは予期せぬ言葉をぶつけた。ミナシキは必死に息を整えながら、通路の先に立つレンシディの姿を目に捉えた。
〈いまや第十二枝レギニータ内に人としての生者はおまえのみ。確かにあった第十二枝のため、レギニータのため、そこに生きていた人々の代表としておまえは王となれ。戴冠の必要はない。生者であること、それをレギニータ王の証とするがいい。しかし私はインカーネイトとしておまえを助けはせぬ〉
 第十二枝レギニータがないのなら、インカーネイトが存在する意義はない。もといた世界にとっては。そしてミナシキ一人だけが、もとの世界に帰される。
〈王冠も玉座もReRouEさえなく、臣下も民もいない。だが忘れるな。レギニータは蒸発して失せたのではない。薄まり、世界樹世界全域に広まったのだ。重ねあわせだ。それが起きた。レギニータの民はどこにもおらず、そしてどこにでも居る。おまえの旅路をおまえへの憎悪で待ち構えているだろう〉
 レギニータの影は毅然として立ち、ミナシキへ呪いを投げかける。その言葉と理由がいくらでもあることを、己のこととして分かっていた。
〈人を殺して生きてきたおまえは私にこう教えた。全ての価値は相対的なものだ。真実と仲間。目的と情。人に絶対の価値はない。人に愛されず、人を愛することの出来ぬおまえには生きている意味も価値もない。これから続く人生は、それを確認する旅となるだろう〉
 せいぜい、一人で生きて、一人で死ね。
 過去の自分がそう決めたとおりに。そうしてきたように。
 これ以上の復讐はなかった。そして相応しい結果は。それを突きつけるためインカーネイトはミナシキを呼んだのだ。
 それでも、ミナシキはインカーネイトに言うべき言葉がある。絶対に聞かなければいけないことがある。
「キセリタは――」
 声を出すと、胸の痛みが頭蓋まで突き抜けて響いた。口の中が血の味だった。
「キセリタをどうした」
 レギニータが笑う。ミナシキが必ずそう訊くことを、知っていた顔で。
〈不確定〉
 世界が塗り変わる。
 レギニータのその一言を、時空は待っていたかも知れない。
 白い壁も、青い光も消えた。
 春の夜風が強い。
 無色透明なガラスの花々が一斉に音を立てる。
 ミナシキは、奏楽堂にいた。舞台の端に身を寄せており、反対の端にレギニータがいた。
 天井はなかった。満天の星空の下、客席に、この見世物を観劇する者もなかった。楽士たちの居所には、もう譜面台も椅子も用意が整っている。仕度は万全。ただ透明な亡霊たちが、幽鬼のような万全がここにあるのを喜ぶだけだ。
 痛みだけ消えなかった。それだけが、肉体をもつ事実の証だけが、確かに存在した。
〈キセリタはいるのか、いないのか。いるとしたら何処に。単におまえに声が聞けないだけかもしれず、もはや全くその存在を抹消されたかもしれず〉
 風が吹く。ガラスの花の音。星がまたたく音。
〈教えはせぬ、死者の国の生者。私は回答を拒絶する。分からぬことで、世界の果てまで苦悩してゆくがいい〉
 ワンピースの裾を揺らし、白く華奢な腕を夜空に振り上げた。その指に、消えたはずの翅を生やした機械が飛んできてとまった。レギニータが指を、その機械を顔の前におろす。そしてミナシキを見る。
〈扮書は第七枝にある〉
 それはハイダの世界の言葉。
 あの機械にハイダが留まっているとは思えぬが、他の何か、恐らくハイダが組み立てたという研究者の人格データが宿っていることは考えられる。
〈男が持っている。世界樹世界から姿を消した、名倉識をよく知る男だ。だが気をつけろ。男の近くには収束点がいるぞ〉
 服に風を持たせ、レギニータが背を向ける。花道へと歩いて行った。機械が飛び立ち、ミナシキを向くと唐突に声をだした。
『病め』
 男の声だった。
『病み果てて、体も心もボロのようになるがいい』
 そしてレギニータの背中を追う。一つの幻影と一つの機械は花道の途中で消えた。あとにミナシキが残った。奏楽堂も消えなかった。
「レギニータ」
 ミナシキは、その姿を呼び戻したかった。
「レギニータ!」
 だが戻らなかった。声は星々の輝きに割られ、あるいは星々の隙間の暗黒にのまれ消えた。キセリタがどうした状況にあるのか、このサーベルの中にいるのかいないのか、ミナシキには分からない。
 彼女はサーベルに憑いたままでいる、単に声を聞くことができぬだけという可能性はあった。
 しかしそれを信じることも、また信じぬことも出来なかった。
 膝を伸ばして立つ。立ち上がることは出来た。歩くことも出来た。
「キセリタ……」
 体の痛みを気づかう者も、助けるものもなかった。ミナシキは孤独だった。どこまでも孤独だった。舞台の袖に回ると、鉄の扉があった。体で押してそれを開けると、石畳の外廊下だった。
「キセリタ……一緒に行こう、キセリタ……」
 廊下の下は見わたす限りの海原となっていた。
 さざ波が、月の光を砕いて海に広げていた。
 体を庇って歩く。にじむ汗を海から吹く風が冷やして過ぎていく。顔の血は止まっていた。ミナシキは手すりに手をついて、しばし夜の海に目を細める。

 この海にひとり漕ぎ出したリコリスがいることを、彼は知る由もない。

 ―10―

 お姉ちゃん。
 なぁに? リコリス。
 私たちは、ずっと一緒だよね。ずぅーっずっと昔から、私たちは一緒だよね。
 うん、そうよ。運命っていうのよ。
 お姉ちゃんが答える。リコリスの、頭の中で。あるいは顔に吹く風にうすく、うすく存在して。
 生きるのも、死ぬときも、ずっと一緒にいよう。
 リコリスは答えに満足した。お姉ちゃんが消えていないことに。目に見えず、肌に触れずとも存在することに。櫂を漕ぐ手は止めなかった。疲れはなく、信じていれば、このまま何処までだって遠くにいけるだろう。息を吸い、自我を風に委ねた。
 青色、私の好きな青色、凍る銀河がくさはらに降って春に花開くのよ――。
 月光が、歌声を海にとどめておくのだった。

 海は広大な身のうちに、夜の濃さを吸い続けた。空は夜としての頑なな色合いを次第にほどいてゆく。そうしてうす紫へと変じ、東の端から待ちに待ち焦がれた朝日の矢がのぼる。海の上はやさしい桃色になり、世界を明るくする。
 展望台で、レンシディが幼いミナシキを抱いていた。
 窓辺に立ち、愛しい息子のあたまを撫でる。
 ごらん、世界が海になったわ。海がつくられたわ。
 抱かれる子供はあどけない目をして美しい母を見る。
 みんな死んでしまわれたのですか? お母さま、死んでたくさんの水になったのですか?
 ええ、そうよ。だけれども。
「死んでいった人たちは皆、あなたのここに居ます」
 レンシディはそう諭し、息子の胸に触れた。
「忘れてはいけないのよ」
 忘れては、生きていかれないわ。
 この海が枯れてしまう。
 忘れては、空の星々が尾を引いて、崩れおちてしまうの。
 この朝も、光を抱えて破綻してしまうわ。
 太陽が次第に水平線から輝きを増してくる。まっすぐに、寄り添うミナシキとレンシディのまなこを射た。
 朝の光がまぶしくあるほど母子は安らかであった。ミナシキはレンシディの服を握る。
 はい。わすれません、お母さま。
 ぜったいに忘れません――。

 陽光を抱いて海原を駆るは春風のならいである。
 芽吹いた木々も、緑の大地もこの海の底にある。みなよ、春を物語れよとさざ波はたゆたうのか。
 否。
 天地が単一の物語ならば、人に二つの歴史と二つの実在をもたらしはしなかっただろう。
 生ぬるい風が吹いた。風は海にあるはずなどない、草の香りを含んでいた。結界の東に広がっていた、シロツメクサの丘の香り。

 誰かの記憶に届くなら、そこは果てなく続く夢の……闇。
Comment

寂寞感。

まだ完結したわけではないのですが、それと同等の感覚を味わっております。
世界観からすれば当然の結末なんだろうけど、ものずごく虚しい。(注:褒めてます!)
希望はあるんだろうけど、その希望の基準は多分私の期待する方向と違うだろうなという、
誤解を恐れずに言えば「物語からの拒絶」を感じてます。

…「物語」からの、だからね。「作者」や「キャラ」からのじゃないからねw
うまく伝えられてないかもしれないけど、世界感というか、背景が意志を持っているというか…。
ただ、厭な感じじゃないよ。哀しいとか、そんなんじゃないし。
もちろん、まだまだお話は続くわけだから、この感想も今の時点でのものなんだよね。

『レギニータ』での、ヨセギとミナシキの対峙の場面。ヨセギが語った、「大佐がなぜおまえを」
って場面が、私の心に一番響きました。だからね、きっとこの物語からの拒絶を感じてるのかも
しれないw この物語は「個」なんだよね。「個」のままでいたがってる。隣にいるのはいいけど、
べったりもたれかかられるのは厭だと、なんか私、思われてそうw

ハイダとミナシキの最後の会話に、のめり込みすぎた結果なのかもしれないけどね、この感想は。


おとなしく続きを待ちます。
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