お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈26〉 著者:豊原ね子

断章・オルガレータへようこそ Ⅳ

岸壁にありし人らの眼差しの濁れる先をついぞ知り得ず














「名倉くん……名倉くん!」
 行谷の、呼び声だけが廊下の角を曲がる。
「ねぇ、名倉くん!」
 横たわって薄目を開ける識を、彼女は必死に揺さぶっていた。
 識は胸も腹も、原型をとどめていなかった。顔がきれいに残っていることだけが救いだった。隣で潰れたカマドウマがまだ煙をあげている。こぼれた識の臓物と血で、体の色を染めて。
 行谷は呼ぶのをやめて、深く首を垂れた。後ろから仲間が走ってきて、止まった。
「八木くん」
 その気配に、振り向かずに言った。
「名倉くんが死んじゃった……」
「行谷さん」
「私を助けに来て……」
 メガネの青年が、識の頭の傍で膝をつき、目と口を閉じさせた。短い黙祷を捧げ、先に立ち上がった。
「行谷さん、行きましょう」
 彼女の肩が泣いているのを、そのまま見下ろした。
「おれもこのままにはして行きたくないけど、仕方ないっすよ」
「うん、八木くん……」
「フレーニさんが待ってるし」
 行谷は、涙を拭った。
「ごめんね。名倉くん、このままにして行くけど、ごめんね」
「分かってくれますよ」
 遠ざかる二人の足音が、階段を上っていった。
「行谷さん……靴、どうしたんスか?」
 後には点々と続く血の足跡が残った。

 ―第一印象―

 アスファルトの道路がそのまま、船着場に延びていた。識は駆け下り、ルキーノを振り向く。建造物内部の床は、それほどおかしな材質には見えなかった。外見ほど黒くはない。見上げれば屋根などない様で、はるか高みに雲がおりてきている。所々に鏡が貼られ、僅かな明かりを拡げていた。
「皐月ちゃん!」
 通路があいていた。家屋一軒はゆうに呑みこむ高さの、アーチの廊下は暗黒。ライトを手に走る。ルキーノが慌ててついてくる。
「識! おい、待てって!」
 すぐ行き止まりだった。いや、小さな扉があった。膝より少し高いていどの戸が。識はひざまずき、迷わず戸を引いた。
「皐月ちゃん?」
 中は明るかった。天井の高さは変わらぬようで、奥で自分の声が幾重にも響いた。肘をついて覗きこめば、目の前に掌に収まるほどの模型の家があった。
 無意味なほど高い天井。その下には小さすぎる街。明るいのは、模型の街灯が点っているからだ。識は覚悟を決めて、戸に這って入っていった。
「おい、行くのかよ」
 中央に一本、普通の人間が通るための通路がある。それをまっすぐ進んで行き、果てなどないかと思えた頃、今度は腰丈ほどの扉が現れた。
「奥村さん! 皐月ちゃん?」
 扉の向こうには、もう少し大きくなった模型の町があった。後ろから覗きこんだルキーノが、識の二の腕を掴んだ。
「戻ろう、識」
 強引に連れ戻そうとするので、識は苛立って振り返った。
「駄目だ! あの子がいるかも知れないんだ、お前も見ただろう」
「だけど、こんなトコ普通じゃねえよ!」
「普通じゃなかったら見捨ててもいいのか? お前、今回は引き下がらないぞ。今まで散々譲歩してきただろう」
 そう言って、腕を払い、先に扉を潜り抜けた。
「戻ったところで、今更帰る場所なんて無いんだ」
 それでもルキーノは後ろをついてきた。ここにも親子はいなかった。二人の足音と息づかいを天井が吸い上げていく。この空漠とした空間を埋めるに足るものはなく、街は小さすぎる。ルキーノはもっともな事を言っている。分かっている。皐月がここにいるはずはない。
 最後に会ったとき、皐月は船の町にともにいたのだから。
 そして十和子は死んだ。
 もし、あの切り裂かれた死体が別人だったとしても、やはりいるわけがないのだ。
 それでも、引くに引けなかった。あの日、あの救護室で二人から目を離さずにいたら、それは無理でももっと探す努力をしていれば……結果は違ったかもしれない。ルキーノに言われるまま逃げた自分が悪い。だから逃げたくなかった。
 次の戸は胸までの高さ。
 中は背丈ほどの家の町並み。
「気味が悪い……」
 ルキーノが追いつく。
「大きくなってきてるな」
「俺は」
 扉をくぐりながら、識は自分が気味悪く思う理由を言ってみた。
「俺たちが小さくなってるような気がする……」
 ルキーノが、識の腕を掴んで扉の外に引きずり出した。何をするんだ、と抗議をしたが、そのままもと来た道を走り出してしまうので、識も引きずられないように走らなければならなかった。
「お前が怖いこと言うからだろ!」
 息が切れるまで走ってから、ルキーノが振り向いた。
 二人は通路を出た。船着場では、まだ町が動いていた。
「町が」息を整えながら識は言った。「こんなに小さいなんて、ありえない。何日もかけて歩いたのに」
「識、あそこに梯子がある」
 ルキーノが遠くの壁を指差した。たしかに梯子が取り付けられていた。
 今度はルキーノが先に立った。梯子の先はごく小さな屋根の上で、またすぐ横の壁に別の梯子が延びていた。小さな屋上、あるいはテラスを、梯子を探して彷徨い歩き、その内背後に町が見えなくなった。
 どれほど上り続けたか分からなくなった頃、少し広いテラスに出て、そこからビルが見えた。
 見渡す限りを町が、あるいは市が、埋め尽くしている。見下ろしていても、あまり動いているという事は分からない。町が視界から消えるまで何日かかる事だろうか。
「あいつらが下りてこなきゃいいな」
 ルキーノの言葉に頷くと、隅のほうで何か動いた。
 猫だ。
 立ち上がった猫が二人に歩み寄り、じっと見上げている。灰色の縞、体の下半分は白色の猫だった。まだ大人になりきっておらず、小さい。猫は人間が怖くないらしく、尻尾を立て、大きな丸い目で見つめながら鳴いた。
 識がしゃがんで手を伸ばすと、その手に鼻を近づけてきた。
「どうしてこんな所に」
 猫は鼻と頬を指にすりつけ、次に額を押し付けた。
「飼い主が近くにいるのかな」
「分からない。だとしたら、この猫は俺たちの先輩だな。連れて行ったら、猫の意識と記憶が俺たちの知らない場所を現出させるかもしれない」
 識は猫を抱き上げ、頭を撫でた。
「連れていこう」

 ―気付き―

 ルキーノはちょっとした探検に赴き、そのうち窓の向こうからヴィオラの音色が聞こえてきた。識の足もとでは猫が焼いた鶏肉を食べている。
 キッチンの大きな窓に背を向けて椅子にかけ、食事を終えた猫を膝の上に抱き上げる。冷えて肌に張り付いていた毛並みも、今は温かい空気を含んで柔らかくなっている。猫は大人しく撫でられながら、前肢をなめている。
 しかし、猫の意識が何をもたらすだろう。
 自分たちより長くこの建物にいることは間違いない。動物としての勘で、この世界での正しいふるまい方を会得しているかもしれない。
 あるいは自分の仮説が正しいとして、猫の願望が何を引き起こすだろう? あるいは自分たちこそが、猫が願ったから現れた人間かもしれない……人間に飼われたいと。
 識は手を止め、窓の向こうのヴィオラに耳を傾けた。ルキーノが歌っている。低く響くテノールだ。意外と多才な人間なのかもしれない。ただ少し、本業のほうがいろいろと駄目なだけで。
 突然のひらめきで、識は我にかえる。
 目を開き、背を伸ばす。立ち上がった。猫が床におりた。いても立ってもいられぬ衝動にかられ、識は窓から飛び出した。
 すぐそこのテラスに着地。向かいの一階の窓、その奥にルキーノがいる。血相を変えて窓を叩きに来た識を見て、彼も慌ててヴィオラを下ろした。
「Luchino!!」
 彼はすぐ窓を開けた。
「ルキーノ、ルキーノ! いま何を歌ってたんだ?」
「どうしたんだよ。そんなことか」
 弓を持ったままの手で、大仰に肩をすくめた。
「Stabat Mater(悲しみの聖母は立ちぬ)、知らない?」
「俺は」それを遮り、言った。「お前の歌の言葉が分からなかった」
 ルキーノはしばらく笑顔のままでいたが、ある瞬間急激につらつきを変え、窓から身を乗り出した。
「ルキーノ、俺にお前の言葉はわからない。会話ができるはずないんだ!」
 それは今では確かなことで、たぶん当たり前のことだろう。だが識には、何故それが当たり前なのか、なぜ本当なら会話できるはずがないのか――そして何故今まで気付かなかったか分からない。
 識は考えようとしたが、うまくいかなかった。
 落ちついて考えろ。きっとものすごく単純なことだぞ。
 分からない。その単純なことが。そして何故疑問に思ったのか?
 会話できるのは当たり前じゃないか。何を恐れているんだ?
 一瞬そう思い、心がふっと軽くなり、しかし次の瞬間には更なる恐怖と混乱に陥った。
「当たり前のことが分からない」
 声を出すことでパニックを回避する。ルキーノも顔色を失い、押し黙っている。
 誰かが思考をコントロールしている。当たり前のことを分からなくさせている。識は強烈にそう思った。
 俺が、俺じゃなくなっている。
 今考えている俺は誰だ? 恐れている俺は? 掌を見る。この体は誰だ? 俺は……臣津にいたあの頃と同じ人間なのか? 臣津で受けた傷はどこにいった?
「オレも」
 ルキーノが急にしゃべるから、識は身を震わす。
「たまに識と喋ってて思ってた。何かすごくおかしいって」
 識も同じだった。初めてルキーノと対面したときに強い違和感を感じたはずだ。
 猫が後ろの窓から飛び降りた。鳴きながらやって来て、足に額をこすりつけた。
「猫の言葉が分かるようになったら、終わりだよな」
 ルキーノが言う。二人は悪いことでもあるかのように、コソコソと笑った。面白いジョークではなかった。

 ―再会―

 じっとしていられず、二人はすぐに出発する。
「上に行けばいいと思う」
 識は言った。言い伝えでは、オルガンの弦は空にある。ルキーノも同じ考えのようで、拾った鞄に猫を入れて住居群をあとにする。猫は嫌がって鳴いた。少しジッパーを開けて顔が出るようにしてやると、大人しくなった。
 階段などは見当たらず、廊下に出口が見えてきた。
 その先は、焼けた町であった。石の廊下が唐突に終わり、焦げた砂が足もとに広がる。街灯などはなかった。雪雲の明るさが、黒々とした町並みを浮き立たせていた。
 猫が鞄からするりと躍り出て、中央の通りを走っていく。
「猫!」
 二人は同時に猫をそう呼び、あとをついて行った。
「猫、おい、猫!」
 大きくカーブする道を、猫は尻尾をたてて急ぐ。
「識、知ってる場所か?」
「いや、知らない」
 骨組みだけ残した家の中で、猫は何かの臭いをかいでいた。
「もしかしたら、猫が来た世界かもしれない」
 近寄って照らしてみれば、猫が見ているものは二つの小柄な焼死体だった。手足を胴体に寄せて曲げ、黒焦げになっている。
「猫、飼い主なのか?」
 抱き上げても、猫は訴えるように鳴くだけだった。その家から遠ざかると、猫が身をよじって嫌がるので、鞄に放りこんだ。
 焼ける前から見すぼらしい、貧しい町だったとわかる。道はゆるい上り坂だった。上っていくと、この町には似つかわしくない大きな建物が見えてきた。ところが目を凝らしても建物との距離感が図れず、形や規模も、曖昧模糊として知れない。
「多分、猫があそこまで行ったことがないんだと思う。見えるけど、行けない」
「オレらが行っても大丈夫かな」
「廊下の続きがあると思う」識は言った。「さっきの廊下や住居群が、俺たちの意識に干渉されないデフォルトだとしたら。廊下か、俺たちの知ってる風景が陸続きになってるかな」
 果たして歩き続けると、幻影のように見えていた建物は縮み、廊下の続きが現れた。
 廊下は頭の上にあった。崩れかけた石壁の上部に、正方形に空間があいている。そこから橙色の明かりが落ちてくる。
「ちょっと猫を頼む」
 鞄を下ろし、識は踏み台になるよう頼んだ。
「なんでオレが踏み台なんだよ」
「俺にお前が乗ったら死ぬ」
 ルキーノは大層不服そうに身を屈した。その背に足をかけてよじ登り、今度は識が上から手を貸す。まず猫の鞄。次にルキーノ。高い矩形の天井を見上げ、識はいやな気分になる。夢で殺された廊下に似てる。行谷が裸足で走っていた。それを助けに行こうとしていた。
 歩いていくと、壁に向かって揃えられた一足の靴を見つけた。壁には襖があった。襖。識がよく知っているものだ。この廊下に取り付けられているのが似合わず、違和感に鳥肌がたつ。
 襖を開けた。中に誰もいなかった。青く香りたかい畳の敷かれた、清潔そうな部屋だった。
「靴を脱ぐんだ、ルキーノ」
 そのまま上がりこもうとするルキーノを制し、両手に自分の靴を下げてあがる。
 縁側があり、簾がかかっている。簾の向こうには青空の気配がある。明るい日差しがさしてくる。縁側に立ち、簾をめくった。その先は、明るい水色をした海だった。真夏の陽射しが顔に照りつける。識は目を細めた。海と縁側の間には、白い川のように砂浜がある。
 振り向いたが、ルキーノも猫も部屋にはいなかった。
 重い鳥の羽音が来て、ルキーノを呼ぼうとした口をつぐむ。毛の生えた塊が旋回する。靴を履いて浜に下りると、雨どいにミミズクが止まった。ミミズクは黄色い目をして識を見下ろしている。唾をのんだ。鳥が、何故こんなところに? 
「下の町をみただろう」
 急に男の声が聞こえ、識は飛びのく。あわてて周囲を見回すが人の姿はなく、改めてミミズクと向き合う。この鳥が喋ったのか。……それよりも、聞き覚えのある声だ。それが気にかかる。
「一つの枝葉を呑みこんで、オルガンは豊かになった。オルガンはよき民を持った。起こり得ぬ事象が唐突に奪った無数の記憶と命を」
「誰だ?」
 この鳥は機械だ、と識は思った。人が操っているに違いない。
「どこにいる。枝葉をのみこんだって、どういうことだ?」
 枝も葉も、世界とその一塊の群れを表す言葉だったはずだ。まさか。背中に浮く汗は冷たい。故郷を、パジェットやR.R.E.を? のみこんだとは殺したということか?
「お前が知るのとは違う遠い世界だ」
 だがミミズクは、識の怖れを見透かした様子で言う。
「ただ一人、国の王子が生き残った。王子は王となり国を追われる。永劫に故郷に帰れまい。オルガン内部の故郷の似姿にも、来れはしないだろう」
「なんの話だ?」識は怖れを抱いたことを隠し、言った。
「俺やこの建物とどんな関係がある?」
「何の関係もない。架空の物語だ」
 からかわれたかと思ったが、ミミズクの声にはそれを楽しむ響きなどなかった。
「オルガレータに来たその時点で、お前は世界樹世界との交わりを絶った」
「世界樹?」
「お前が来た世界の名称だ。もはやお前と世界樹世界には何の関わり合いもない。たがいに架空と言い切ってもいいほどに」
「架空? 違う。俺の故郷は架空の存在なんかじゃない。俺だって架空の人間じゃない!」
「いいや、お前は知らないだけだ。お前たちは、求められて現実の人間の手で作り出された存在だ。しかし件の王子もお前も、母体世界になんら影響を及ぼしてはいない。思考も行動も全て無意味な振る舞いでしかなかった」
「なんだと」
「俺もお前と同位の存在だ。俺もまた人ではない。与えられた問いに予め入力された答えを返すだけのプログラムだ」
 ミミズクはまったく嘴を動かさずにそれを言い切ると、翼を広げ、識の肩に舞い降りた。
「お前は俺の想定を超えうる質問はできない。それこそが、生きた人間足りえぬ所以だ」
 ミミズクを払う。振り回した腕はミミズクにかすりもせず、それは縁側に舞い降りると、飛び跳ねて振り返った。
「嘘をつくな、機械がお前みたいな悪意を持つものか。お前は誰だ」
「堂嶋蘇比」
 声が耳に入り、意味を理解した一瞬、鼓動が凍る。
「嘘を――」
 たしかに覚えている蘇比の声に、識は声を振り絞る。
「嘘をつくな」
「嘘だと断定する根拠がお前には無いはずだ。俺は蘇比、お前が滅した人間だ。俺はどこまでもお前に付きまとうぞ。お前は食ってはならない情報を食った。この世界を見ることであり、空気を吸い、肌で触れることだ。二度とは帰れない」
 ミミズクは飛び上がり、再び屋根から見下ろすと、言い放った。
「そうだ。お前は帰れない。俺と傷つけあった記憶だけが、お前と世界樹世界との絆となるだろう。行けども行けども、先にあるのは夢の続きばかり」
 羽音を立て、入道雲へと消えていった。識は口をあけて見送ったが、ふと気になって縁側に上った。
 夢の続き。
「行谷さん!」
 襖の向こうの廊下は消えずに残っていた。この後に何が起こるか識は分かっていた。
 見覚えのある曲がり角。もう一度行谷を呼ぶ。返事はなかった。背中の火車に手が回る。角が迫る。
 識は目を見開く。
 今度は殺されない!
 天井まで達する影が曲がり角から伸びる。火車を投げた。
 肉を巻きこみ轢きつぶす音。影が消える。駆けつけた識は、そこにあるべき蟲の巨体がないとすぐ気付いた。
 火車が、刻み残した肉片を貫き、石床に縫い付けていた。飛び散る血と肉、長い髪、靴を履いたまま消え残った、膝から先の両足。
 肩からはじけ飛んだランドセル。
 最悪なことをしたと理解するまで、時は掛からなかった。

 廊下の切れた先から、ルキーノが叫ぶように呼んでいる。呆然と引き返していた識は、その声の大きさに我にかえり、走り出した。
「識、なにしてんだよ!」
 ルキーノは猫の鞄を持ったまま、焼けた町に立っていた。
「置いてくなんてひどいぞ」
「お前こそどこに行ってたんだ!」
「待ってたよ! ここでずっと!」
 識は混乱してルキーノを見下ろした。
「一緒に行ったじゃないか。俺が引き上げて、畳の部屋まで」
「行ってねぇよ。お前上ったと思ったら、それっきり返事がねぇんだもん」
 置いていかれたと思ったらしい。ひとまずルキーノを引き上げて、識は起きたことを話した。蘇比と名乗った鳥のことを除いて。ルキーノはすぐ顔色を変えた。
「大変じゃないか」
 そこでようやく、識の顔が青白く生気がないことに気付き、「確かめに行こう」と言った。
「その女の子のことは気のせいだ。こんだけワケの分かんねぇことがあるんだもん、またそれも消えてるか、蟲に変わってるかもしれない」
 彼の言う通りだと思った。そうあって欲しかった。識は急ぐ。廊下には火車が立ったままでいた。変わっていなかった。幼い子供を殺戮した痕跡が、そのまま残されていた。
 力が抜け、気付けば識は、その場に膝をついていた。
 
 ―怖い夢だねの章―

 殺した。俺が殺した。
 民間人を、しかもあんな小さな子を殺した。
 識はうずくまり、もうずっとその事を考えていた。果てさえ知れぬ居住区の廊下。その途中に出来た、円形の、天井が高い広場。その片隅で、ルキーノがドラム缶で火を焚いている。彼は慰める言葉も見あたらない様子で、黙って火に当たっている。
 自分がしたことは軽率以外の何ものでもなかった。どうして行谷がいると思ったのだろう? どうして蟲の姿を確認もせず、火車を撃ってしまったのだろう? 夢ではそうだったから。なんと馬鹿げた言い訳か。どうしてそんな思考にあっさり支配されたのだろう。正気とは、そんなにも脆く危ういものなのか?
 かわいそうに。
 怖かったに違いない。走ってくる自分の足音を、どんな気持ちで聞いていただろう。あんな所で一人はぐれて、どんなに心細かっただろう。
 ……そういえば十和子は?
 強烈に十和子の存在を感じた。
 ルキーノと同時に広場の入り口を見た。そこに十和子が立っていた。死体が着ていたのと同じスーツを着て。識は固まる。目が合うと、彼女はヒールの踵を鳴らして歩み寄ってきた。
「ねぇ、あなた。うちの子を見ませんでした?」
 立っていることも喋ることも、さも当たり前な様子をして、十和子は問いかけた。識は火をはさんで彼女を見上げる。
 問うべきことがたくさんある。だがそれ以前に、答えなければならない。分かっている。十和子が何者であれ。識は立ち上がった。十和子の前に立ち、言葉を捜した。
「奥村さん、皐月ちゃんは亡くなりました」
 迷った末、事実を簡潔に伝えた。声を出してみれば、ひどく掠れていた。十和子は眉をひそめ、苛立つ声で迫った。
「なに? ちゃんと言って。聞こえない」
「皐月ちゃんは」
 水が欲しい。急にそう思った。するとルキーノが立ち上がり、識と十和子の間に割りこんだ。ルキーノは識を見ず、珍しく張り詰めた顔をして十和子を見下ろした。
「あんたは誰だ?」
 十和子はというと、ますます不快の色をあらわにし、侮蔑さえこめてルキーノを見返す。
「何? あなたとは話してないんだけど」
「あんた、死んだんだろ?」
「はあ?」
 その馬鹿にした声にも怯まず、ルキーノは強く言った。
「いいか、あんたは、死んだんだ。カマキリに食われて。ここに居るはずがないんだ」
「ねぇ、この頭のおかしい男はなに? まさかあんたたち、二人で皐月に変なことしてないでしょうね」
「よせ、ルキーノ」
 識は十和子の顔を直視し、そのまま廊下を向いた。
「あっちに行けば、皐月ちゃんに会えます」
「本当でしょうね」
「途中階段がありますが、分岐はありません」
「無事なの?」
 識は唾をのみ、答えた。
「願い次第です」
 十和子はしかめ面のまま、「わけが分からないわ」と言い放ち、廊下へと去っていった。その背中が見えなくなり、足音も消え去ってから、力が抜けて識は座りこんだ。
 彼女に言えなかった。皐月が死んだことを。この手で殺したことを。十和子がその変わり果てた姿を見つけたとしたら、いかに傷つくだろう――俺はさらに罪を犯した。彼女に自分がしたことを伝える義務があったのに。許されずとも謝罪をしなければならなかった。しかし彼女に遠ざかって欲しいと願い、それを優先させた。
 だがその実感は曖昧なもので、十和子が皐月を見つけることは無いようにも思えた。
「ルキーノ」
 同じく気の抜けた様子のルキーノが振り返る。
「俺たちは死んだんだ」
 彼がどんな顔をして聞いているか分からない。ルキーノは声も出さない。
「たぶん、俺たちはもう生きていない」
 何の反応もなかった。
「ルキーノ?」
 見上げると同時に、破裂したような大笑いが頭上から降ってきた。ルキーノが腹を抱え、識が言ったことを笑っている。識は何の感情もわかず、好きにさせておいた。
「お前さぁ、ホント突飛なこと考えるよな」
 腹に手を当てて、実に一生懸命笑っている。せめて一緒に笑おうかと思ったが、表情筋が動かない。
「そんなわけねぇだろ? ほら、見ろよ」
 そう言って手を差し出し、「死んでるように見えねえだろ?」
 血管の浮いた手首を見せて、「ほら。な?」。
「そんなわけねぇだろ?」
 ルキーノは笑っていなかった。
「そんなわけねぇだろ! なあ!」
 笑い声を嘆願へ、そして怒鳴り声に変えると、ひざまずいて識の胸倉を掴んだ。
「うるさいよぅ!」
 ルキーノの目が大きくなる。識も我に返った。「何すんだ」と言ってルキーノを振り払うと、声の出所を探した。二人の目が、片隅の猫の鞄に吸い寄せられた。
「大きい声こわいよぅ!」
 鞄が、中からやわらかく動く。
「出して!」
 二人は諍いをやめ、ルキーノが、鞄のジッパーを開けた。小さな頭が中から出てきて、怯えて左右を窺う。識を見つけると、
「ごはん」
 小走りに寄ってきて、膝におでこを押し付けた。
「ポーにゃーごはん食べる」
「ポーにゃー」
 識は抱き上げながら、言った。
「ポーにゃー、俺たちは死んだのか?」
「そんなことどうでもいいよぅ」
 猫は言った。
「だってどうしようもないよぅ」
 識はその頭を撫で、ふと、身の内に明るさが湧くのを感じた。ああ。何もかも納得がいった。
「そっか。どうしようもないよな!」
 体が軽くなった。
 悩んでいたこと、うじうじと割り切れずにいたこと。認めてしまえば簡単じゃないか!
 嬉しかった。
 楽になれたことが嬉しくて、楽しくて仕方なかった。
「そうじゃん! そうじゃんなあ」
 ルキーノが腹を抱える。識も笑った。楽しさに心を任せ、腹の底から大声で笑った。
「だよなあ! もう死んじゃったもんはしょうがねえよなあ!」
「大きい声きらいだよぅ!」
 ポーにゃーがするりと逃げる。立ち上がった識の肩を、笑いやまぬままルキーノが叩いた。
「悪かったな、掴みかかったりして」
「しょうがない、俺がびっくりさせたんだから。ああ、安心したら腹が減ったな」
「ポーにゃーごはん」
 猫を抱きかかえた。
「そうだな、飯にしよう」
 二人と一匹は愉快な笑い声を響かせながら、廊下を進み出す。
 一つの戸を引くと、住居のあかりが優しく出迎えた。
「ああー、よかったよかった! オレたち結構どうでもいいことで悩んでたんだな! ビール飲みてぇ」
 すると食器棚の中にいた白人の太った親父が横倒しのまま身を乗り出してきて、
『はいビール』
 口からビールを出してグラスに注ぎ渡した。
「うめぇ!」
「じゃあ、俺コーヒーがいいかな」
 すると食器棚の中にいた黒人のくわえタバコの親父が横倒しのまま身を乗り出してきて、
『はいコーヒー』
 口からコーヒーを出してカップに注ぎ渡した。ルキーノが顔を真っ赤にして黒人を指差し笑った。
「んふふグァテマラマラぐぁぐぁテテテテまらまら!」
 識も白人を指差して笑った。
「ゲルマンゲルマゲルマニアゲラゲラ」
「しょくじしょくじしょくじしょくじしょくくう」
「なすなすナスがナスなすが食食」
「かんめづめづめづかかかっかかん」
 ルキーノがトマトの缶を見つけた。それでパスタが五十人分作れた。鶏肉があったので与えたら、ポーにゃーはいたく満足した様子で
「ウみゃウみゃウみゃみゃウーみゃみゃみゃっみゃっみゃみゃみゃん」
 食事を終えてもまだ物足りなかったが、もう食材はなかった。
「腹が減った!!」
 ルキーノが言った。
「釣りに行こう!!」
 識が言った。
 二人は魚を釣り餌で騙して殺して内臓を引きずり出して食うために海を探しに出た。廊下では、食器棚の中にいた食器棚人たちがたくさん楽器を奏でたり踊ったりしていて、チープな電飾で明るい。
「そそそそういえば皐月皐月皐月埋めめ埋め埋め」
「電飾の高校がタオルでオレ便所詰まる昔」
「学校は俺神社中学二年の頃民家キンカンでむしろう」
 食器棚人が歩み寄ってきてシャベルを渡してきた。
「ありがたくない!!」
 識は満面の笑顔で礼を言った。倒れていて動かない食器棚人の電源を入れてやったりしながら歩いていると、電飾が途切れ、もとの殺風景な廊下が現れた。
 その先から形相を変えた十和子が髪を振り乱して駆けてきた。
「おまえぇえぇえぇえぇ!」
 シャベルを振り回して迎え、十和子の側頭部を打った。壁に叩きつけられ身を崩した彼女に、識はさらにシャベルを振り上げる。
「大丈夫!」
 頭頂に振り下ろす。
「こうすれば、また皐月ちゃんに会えますから!」
 血が散り、頭がへこむ。とどめの一撃を振り下ろすと、十和子は死んだ。
「埋めめ埋める埋め埋めめる」石床にシャベルを立てる。土のようにサクリと掘れた。「自分の死体を見たら、びっくりするからな」
 十和子は埋めたが、皐月の死体は見つからなかった。自分で勝手に埋まったのかもしれなかった。何せ子供だから、大人じゃ想像もつかないことをする。
 廊下の向こうから潮風が吹いてきた。もうすぐ海だ。
「シチリアの海が見たいな」
「俺は、俺の国の海が見たい」
 廊下の先は真っ暗で、潮騒だけが聞こえてくる。
「……仲間と行ったんだ。風早市という所。運河があって、街路にいろんな花や草が垂れてるんだ。爽やかな町だった」
 廊下を出る。靴裏が砂を踏んだ。識は大きく息を吸い、冬の海の気配を体に収めた。
 海はひどく荒れている。
 連邦の海だった。防波堤の下で波が砕けて、飛沫が歩道に降りかかる。目をやれば、ほのかに赤い光を放つ雨雲と接するところから、海が持ち上がり、高波となって、こちらに迫ってくる。
「ルキーノ?」
 坂の町のどこにも明かりがない。
「ルキーノ」
 ――識ぃ……
 海の向こうからルキーノが叫び返した。
 ――識ぃ……助けてくれぇ……
 声は、海流にのまれて遠く消えていった。
 おそらく地獄へと。
 坂の上に逃げた。
 見覚えのある気がする建物に入ると、奥は簾のある和室で、識は窓と障子を閉めた。畳はなく、砂だった。床の間に腰を下ろし、卓袱台にレモン水が置かれているのを睨んでただ時を浪費した。
 砂を掬い、こぼす。
 砂を掬い、こぼす。
 その内に、ルキーノの水死体が海から歩いてきて、この家へ歩いてくるのが分かった。
 ――識ぃ……
 声は玄関から聞こえ、母屋をぐるりと回りこむと、縁側に上り、障子の向こうの簾にぴたりを顔をつける。
 ――識、識ぃ……。
 こんな薄いガラス戸でも、入ってくるなと拒絶されると入って来れないものなのか。簾が揺れ動き、乾いた音をたてる。
 砂を掬い、こぼす。
 砂を掬い、こぼす。
 顔の横から物を差し出された。ルキーノは窓を端から端まで移動しきり、遠ざかっていくところだった。識は振り向く。床の間に、女の子が立っていた。
 皐月よりは上。十歳くらいだろう。差し出されたものは、プラスチックのおもちゃの移植ゴテだった。持ち手に名前が書いてある。
『チカコ』。
 短い髪。形のいい目。女の子は無表情で押入れを指差す。
 足音を立てずに押し入れに歩み寄る。その一段目の木の床が、土のように掘れた。靴を履いた皐月の両足が、揃って掘り返され、識は耳元で囁かれる。

「こわいね、識」

 識は悲鳴をあげた。その声で正気に返った。目の前ではドラム缶で火が焚かれ、ジッパーが開いた空の鞄が空しく転がっていた。石床の広場だった。体には毛布が掛けられていた。
「ルキーノ、ルキーノ?」
 毛布を跳ねのけ、起きた。寝ぼけたヤツだと笑われてもいい。ルキーノに会いたい。
「ルキーノ! どこ行ったんだ!」
 来た方向の廊下を走り、引きかえし、まだ行っていない方向の廊下を走る。
「ルキーノ!」
 足に柔らかいものが当たった。猫だった。「ポーにゃー」、それが名前かどうかは分からないが、猫は目の黒い部分を大きくすると、優雅な身のこなしで後ろを向き、誘うように識を振り向く。猫がしゃべるということはなかった。ピンと立った尻尾を追いかける。自分が人間じゃないなどと、認めてはいけなかった。死んだなんて。思っても認めてはいけないことだ。信じてはいけないことだ。命の価値が消える。存在の意味が消える。
 猫は薄く開いた一室に入った。そこが和室だったから、識は怯える。押入れ。猫は器用に二本の前肢で、襖に隙を作ってあけた。
 二段にわかれた押入れの先に、さらに押入れがある。一段目に這って入り、小さな襖を開けた。
 その先にもさらに襖があって、ほとんど入れないような小さな押入れが続いている。
 ライトを握り、両腕を差し入れる。
 奥が広くなって、階段があるのが見えた。
 あれも上層階に続くだろうかと思ったとき――後ろで、誰かが押入れを閉めた。
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