お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈27〉 著者:豊原ね子

第三章 Utopia(第七枝 夏) 第一話 接点 ――1/2

   第一話 接点

 ―1―

 不意に静寂となった。それでようやく、今までサイレンが鳴っていたことに気付いた。背筋を伸ばす。正午。
 その部屋は窓をツタで覆われ、暗い。冷房などは無かったが、必要ない涼しさだった。女がじっと机に向かい、本の表紙を睨んでいる。皺に取り巻かれた目。色の薄い虹彩から注がれる視線は、歳を重ねるごと鋭くなったものだ。女は身なりに気を遣うほうだった。たとえ家から出ぬ日でも、化粧を欠かしはしないのだが、這いよる老いは化粧品で隠しきれるものでもなかった。
 女は膝の上でかたく拳を握っている。
 今この本に何が書かれているのか。
 何でもいいじゃないか。
 本の内容など、見てない時にはどうなっていてもいいのだ。分かりゃしない。ただ見た瞬間、読み物として状態が固定されてくれればいい。
 彼女は小説家だった。名を小幡千賀子(ちかこ)という。筆名も同じだ。小説家であったことの証が、壁の書棚の一角を埋めている。
 そう、本など、誰にも読まれていない時なら、どのような状態にあってもいい。
 表紙の下で、物語は様々な重ね合わせ状態にあるのだ。あの展開にすることを自分は迷ったか? 迷った。あの男を登場させることを自分は悩んだか? 悩んだ。そして選んだ。一つの道を選んだならば、もう一つの道を選んだ自分がいてもおかしくはない。
 本を開いた瞬間に、重ね合わせはどれかの形に収束するのだ。
 千賀子は自分の著書に自分が書かなかった物語が記されていることを、信じて疑わなかった。ただその可能性全体を認識することが出来ないだけだ。
 しかしここにあるものが――本来、読み取られるまで様々な可能性をもつ本が、必ずいつも一つの物語しか呈しえぬ理由は何だ? 読むとき、おのれが、常に固定されたひとつの物語の側に属していなければならない理由は?
 千賀子は拳を開いた。指は白み、強張っていた。
《った。眠る幼いわが子の輪郭に、豆電球の赤い光がまとわりついている。長谷部は息子が愛おしく思った。この子には、もうひとつの名がある。武雄、忘れるな。布団をかけ直してやりながらやりながら念じた。武雄、もうひとつの名を忘れるな、俺が隠した名を。》
 ページを素早くめくりめくり、結末部分にたどりつけど、彼女が別の物語の観測者になりうることはなかった。
 何故! 千賀子は嘆いた。自分が馬鹿馬鹿しいことをしているとは一かけらも思わなかった。ただなぜ無限の物語の一面しか、書くことも読むこともできぬのか。
 出版したからか。
 大量の製品になったからか。金で買える商品になったからか。手に負えぬほど多くの人の目に晒され、誰もが好き勝手を言うから、物語世界がへそを曲げ、頑なになってしまったのか。
 これは売りに出すべき小説じゃなかった。そうすることで、千賀子自身には小説家としての価値がついた。しかし物語世界は、確実に価値を失ってしまったのだ。
 甲高い声が喉を震わせて、次第に大きくなる。そうして悲鳴をあげることを、止めることができない。千賀子は机に泣き伏せた。腕で払いのけた本が、木の床を滑ってゆく――〈オルガン国へようこそ〉。
 声は家の外まで漏れていた。
 雑踏の中それを気に止める者はなかった。ただ一人、若い女が暗い色調の家を見上げた。
 ツタに覆われたあの窓から、泣き声が聞こえる。
 黒々とした目の下の泣き黒子を、涙が濡らそうとする。自分もああして泣きたいのを、懸命に我慢しているところだった。
 目の下が熱くなる。泣きたくない、悔しいから。歯を食いしばり、肩まで伸びた髪をなびかせて、足早に遠ざかる。あとに仄かな香水の、百合の香りが残った。

『あのさあ、淑恵さん』
 もはや民家から聞こえた他人の泣き声など頭になかったが、歩めども、心の中にわだかまる声は消えない。
『何で来なかったの? 昨日、休んでいいって私言ってないよね』
『ですが……わたし、それでも休むってお伝えしました。理由と一緒に』
『理由? あんなのが理由になると思ってるの?』
 レストラン〈りんご園〉の店長は年上の女だ。地黒の肌から大きな目を鋭く光らせて、彼女は淑恵を睨みつけて言った。厨房内には今日の入荷分の食材が次々と搬入され、他の店員たちは必死に淑恵と店長を見まいとしていた。
『犬が死にそうだから休ませてくれとか……正気? 休みの日が忙しいのは当たり前だよね?』
『ずっと昔から一緒にいた大切な犬だったんです』
 店長は顔を背け、ため息をついた。
『結局さあ……向井さんが来てくれたんだよね。あの子風邪で具合が悪いのに頑張ってくれてさあ。申し訳ないと思わないの?』
『申し訳ないし、感謝もしています。でもあの子は家族だったんです』
『ついていけんわ。あのさぁ』
 開店五分前を告げるチャイムが、まだ暗い店内に鳴り響いた。店長はシンクから自分のエプロンをひったくると、手早く身につけた。
『私も店長だし、お店を大事にしてくれないような店員はいらんのだわ。たった一人のわがままでみんながやる気なくすからさ』
『店長』
『もう帰っていいよ、用事ないから。あと明日からもう来なくていいからね』
『店長!』
 淑恵は呼び止めようとした。
『休ませなかったところで、それが何になったんです?』
 降り注ぐ陽射しは熱く、灰色の石畳がそれを照り返す。用水緑道の並木をそよがす風の一つもなく、その気候を苦とする余裕さえなかった。
 今家に帰っても、一人でいることに耐えられない。トリスがいればよかった。賢い目をしたラブラドールだった。抱きしめれば優しく包みこんでくれる金色の毛並み。淑恵が辛い気持ちでいるときは、必ずそれを察知して、そばに居てくれた。濡れた赤い舌は肉厚で、涙をなめてくれた。だがその子ももういない。昨日老衰で死んだ。淑恵には他に家族がいなかった。またこの移民の町に、頼れる人も今はいない。
 オープンテラスのカフェから、ラジオの声が流れていた。犬という単語が聞こえ、淑恵は足をとめた。
〈――この犬計七匹猫計十匹はどれもナイフやライターを使って殺された上で河原に捨てられていたそうですが……怖いですねえ、ウォルターさん〉
〈そうですねぇ。今でこそ犬や猫ですんでますが、それで犯人が満足できるという保障はありませんからねぇ〉
 では犬や猫なら、死んでもいいと言うのか。
 狂ってる。間違っている、こんなことは。誰も自分のことしか考えていない。
「淑恵さん!」
 逃げるように歩み始めた淑恵を、遠くの声が呼んだ。活気に満ち溢れた声だった。顔を上げた。道の先に、クレープ屋の看板の脇から大きく手を振る人がいた。
「朱鷺子(ときこ)さん!」
 淑恵は呼び返す。先刻の出来事を一瞬忘れた。同じ色の肌と髪をもつ、第一枝からの移民の血筋の子。大切な友人だ。長い髪を結い上げ、つるりとした顔を、いつでも毅然と上向けている。
 二人は駆け寄り、たがいに腕を広げて抱き合った。その再会を道ゆく人々が見つめて過ぎていく。朱鷺子の肩に頭を預けた。汗の臭いがした。朱鷺子はまた、逞しくなって帰ってきた。淑恵は思う。わたしはどう思われてるのだろう? わたしは、何も変わっていない。
「帰ってきてたんだね」
「うん、これからパジェットさんの所に行くの! その前に〈りんご園〉に寄ろうと思ってさ」
 体を離し、淑恵の青白い顔に改めて視線が注がれた。
「どうしたの? 元気がないね」
 目尻が熱くなり、堪えていた涙があふれ出す。言葉もない朱鷺子にしがみつき、淑恵はここが往来であることを気にしつつ、声をだして泣いた。

 ―2―

 なだらかな丘陵と空の間に、黒い森が線を引いている。テルノ市南部のぶどう畑からそれがよく見えた。
 農夫たちは家に帰った。昼食の匂いが家々から、この丘まで上ってくる。
 女が立っていた。
 南国の鳥のような、赤を基調とした極彩色のワンピース。背中まで伸びた黒髪にはウェーブがかかっている。白い肌と真っ青な目。そして腰には、二挺の儀礼銃。
 今から会いに行く男は、自分を分かるだろうか。分かるだろう。忘れているはずが無いのだから。
 女はゆっくり、坂道を下りだす。

 細くあいた民家の窓から湯を打つ音が聞こえた。泥棒よけの格子の向こうから、白い湯気が流れてくる。やがて大げさなほど満足げな声が、その湯気に混ざった。
 湯船に身を沈めた男が、掌で湯をすくい、顔を洗う。それから湯船に腕をかけ、わざわざ声に出して言った。
「ああ、真昼間から入る風呂って最高」
 湯船は男が足を伸ばすには狭かった。決して湯船が小さいわけではない。彼が大きすぎるのだ。
 肩まで伸びた金髪に、堅く盛り上がった筋肉。彼は今まで、自分より背が高い人間に会ったことがない。角ばった顔に無精ひげを生やし、いつも片眼鏡をかけているせいで、鼻の頭にそのあとがあった。
 男は湯気を吸い歌い出す。
「南の――浜ぁ――のぉ――」
「そうね。ほんとに昼風呂って最高よね、パジェットさん」
 男は歌を、呼吸ごと止めた。湯を鳴らして振り向く。窓の外の気配はその反応を楽しんで、静かに笑った。
「風呂場で大声で歌っちゃってさ、ほんとにオッサンになっちゃったんじゃないの?」
「誰だ」
「あんたをオッサンと呼ぶのはあたししか居ない」と、声は続いた。「あたしを忘れたの?」
 湯船の底をけり、パジェットは風呂から飛び出した。
 タオルを引ったくり、それを腰に巻いただけで、サンダルを引っ掛けて自宅を飛び出す。
「R.R.E.(ルルエ)!」
 そして吼えた。声は屋根より高く、向こうの辻より遠く、ほうぼうへ響いた。
「お前か、R.R.E.!」
 風呂場の外に回ると、果たして若い女が窓の下に立っていた。
 大人になっていた。当たり前のことだが、R.R.E.は少女の頃の面影を色濃く残していた。だから大きくなった彼女を見るのは、何かの間違いのような気がした。
 悠然と振り向いたR.R.E.だが、パジェットを見て硬直し、形のいい目を歪ませた。顔が引き攣る。
 それから慌てて踵を返すと走って逃げ出した。
「待て!」
 なぜ逃げられるのか分からず、パジェットは本気で走って追いかけた。
「お前、R.R.E.なんだろう!」
「嫌ぁ!」
 前をゆくR.R.E.が悲鳴をあげた。
「来ないで! アッチ行ってよ!」
 何だと、お前のほうから会いに来たんじゃないか。
「待て、コラ!」
「帰って! もういいから帰って! やっぱ用事ないから帰って!」
「オレはおめぇに」
 R.R.E.のコルク底のサンダルは、やはり走りにくそうだった。直線道路でパジェットは、腕を広げ、R.R.E.を捕まえようとする。
「オレにゃあ、おめぇに用事があるんだよ!」
 すると、背中から体当たりを受けた。地面に倒れたパジェットに、二人、三人と町の男たちがのしかかる。
「放せ! 何すんだおいてめぇら!」
「うるさいぞ、観念しろ! 変質者め!」
 腕をひねり上げながら、男のひとりが言った。
「白昼堂堂と、なんて野郎だ」
 それでようやくパジェットも、R.R.E.が逃げた理由に気がついた。遅かった。R.R.E.の背中はとっくに遠ざかり、見えなくなっていた。

 ガロエがサーリヤをつれて留置所に来たのは、それからすぐだった。ガロエが持ってきた服を着ながら、パジェットは悪態をついた。
「ついてねえ、今日は厄日だぜ」
 嫁は格子の向こうで泣いていた。
「情けない。本当に情けないわ。あなたはそれでも父親ですか! サーリヤはまだ四つなのよ」
「悪かったよ! あー、オレが悪かった! ガロエ、あのな、オレはお前に女関係でやましいことは無ぇ。間が悪かったんだ。慌ててた」
「だからと言って、タオル一枚で若い女性を追いかけまわす人がありますか!」
 古民族の裔の証として、ガロエの浅黒い顔には刺青が刻まれている。その紋様を濡らして彼女はさめざめと泣いていた。
「銃士協会の方が便宜を図ってくださったから出してもらえるものを、そうでなかったら……」
 警官が来て、パジェットを個室から出した。
「その……協会の方が来てらっしゃるわ。お行きになったら?」
 背を見せ、ガロエは冷たく言った。頭のてっぺんから、露出した肩、腰つき、踵にいたるまで、全身でパジェットに怒っていた。気が強い女だ。気丈で、脆い。だからパジェットは彼女が好きだった。あの肩に手を置きでもすれば彼女は振り払って走り去るか、平手を一発みまうかもしれない。
「因縁のある相手だ。若い女だろうが、何だろうがな。……すまんかった、ガロエ。逃がすわけにいかなかったんだ」
「第一枝にいた頃の?」
「ああ」
「……危ないことじゃないでしょうね」
 危なくないはずがない。パジェットにだって今の立場がある。
「ガロエ」
 真後ろで立ち止まると、ガロエも束ねた黒髪を揺らして止まった。
「おめぇとサーリヤを裏切りはしねぇ。大丈夫だ。安心しろ」
 やっと、ガロエは振り向いた。
「大丈夫なはずがないわ。あなたの仕事は分かっている」
「ああ……オレは儀礼銃士だ」
「そうね」
 ガロエは頷いた。悲しみや特別な強い感慨ではなく、受け入れとある種の諦念がそこにあった。彼女はもう、儀礼銃士を辞めろと迫りはしないだろう。五年前、娘を身ごもった時のように。それは愛が冷めたからでも、深くなったからでもない。
「協会に行く前に家に帰る。ナガレを取りに行かないとな。いいな?」
「ええ。お昼ごはんを作るわ。今日はサーリヤと遊んであげて」
 警官たちと行きかいながら、ガロエは言った。

 ―3―

 すだれの下りた座敷で、朱鷺子と淑恵は向かい合った。
 第一枝の、淑恵たちの故郷の文化を真似た座敷喫茶だった。畳は第一枝からの輸入品が使われている。この卓袱台はどうだろう。簾からこぼれる光を暗紫に照り返している。
 淑恵も朱鷺子も、十代の頃に第七枝に移民した。祖国の記憶は鮮やかだ。そのつもりだが、やはりどこか、色あせ歪んでいるのだろう。
 家を出て最後に振り向いた、その朝、窓の向こうで祖母が笑っていた。二度と帰らぬ家の窓から、祖母の遺影が、肉体のような確かさで、淑恵たち一家を見送っていた。
 あの時もトリスがいた。連邦はよかった。動物などくだらないから捨てていけなど、誰も言わなかった。
「そっか、トリス君死んじゃったんだ。……それは寂しいよね」
 水菓子を楊枝で切りながら、朱鷺子は言った。淑恵はまだ顔が赤いが、落ち着いていた。
「寿命だったのよ。わたしが生まれる前からいた子だもの」
「店長はひどいよ。淑恵さんの大事な家族なのにさ。私もう〈りんご園〉には行かない!」
 朱鷺子は言った。
「いいよ、淑恵さん、〈りんご園〉のチェーン店にも二度と行かないもん。みんなにも言いふらしてやる」
「気持ちだけで嬉しいよ、朱鷺子さん」
 淑恵は笑い、答えた。
「わたしも早く次のお仕事見つけなきゃ。朱鷺子さんは偉いよ。毎日大変だよね」
「まあね。きつくない事はないけど、先輩たちも優しいし」
「第一枝の移民の人がいるんだっけ」
「ああ、パジェットさんね。いいおじさんだよ。今度淑恵さんにも会わせたげるよ!」
「だけど」
 冷茶のグラスで手をひやしながら、淑恵はさえぎった。
「最近危ないんでしょ? 銃狩りの組織があるって、ニュースで見たよ」
 朱鷺子が眉間に皺を刻む。目の光が尖った。
 一瞬だったが、印象として十分だった。朱鷺子はいつも、仕事のときはこんな顔をしているのだろうか。
「いるね。薄気味悪い連中だよ」
「儀礼銃を奪ってまわって、どうするの? 軍隊でもつくるの?」
「目的がわからない。本当なんだ。最近まで考えられるのは宗教絡みの理由ばっかだったのに、奴らは声明ひとつさえ出さない」
「朱鷺子さん、大丈夫なの? この近くの山の中で銃狩りの人たちが死んでたって聞いたよ」
「あいつらもやりにくくなって来てるのは確かだよ。不法投棄現場でのことでしょ? 連中の死体が転がってた」
「ええ」
「あれも、誰がやったか分からない。……本当に気味悪いよ」
 ひらりと簾が持ち上がった。陽が差し、逆光を背負ってもう一人の儀礼銃士が現れた。
 大きな目をもった丸顔。短い黒い髪。彼女もまた移民であり、同じ民族どうしだった。
「朱鷺子さん! やっぱりここにいた! 声が聞こえたからさ」
 快活な声で笑う仲間に、朱鷺子は手をついて膝立ちになった。
「すずちゃん! もっと遅くなるかと思ったよ」
「思ったよりうまくいったんだ」
 行谷すずなは淑恵にも、その明るい笑みを見せた。
「淑恵さんも、お久しぶり。おいしそうだねぇ。もう水羊羹の季節なんだねぇ」
「久しぶりですね。最後に会ったのはまだ春でしたっけ」
「うん、桜餅の季節だったもの。おいしかったぁ」
 幸せそうに頬に手を当て、「水羊羹も絶対食べなきゃ」、と宣言すると、行谷は改めて朱鷺子を見た。
「朱鷺子さんはもう挨拶すませた?」
「ううん、これから行くところだよ」
 淑恵を見る。淑恵は頷き、うながした。
「わたしはもう、大丈夫だから。夜にまた会おうよ」
「うん。それじゃあね、淑恵さん。ぜったい電話するから!」
 二人の若い銃士が立ち去るのを、太陽にあぶられながら、淑恵は見送った。

 ―4―

 窓がない廊下を、パジェットは今の相棒と歩いている。エレベータを降りてから、目的の部屋までは遠い。白い壁と床に間接照明があたたかい光を投げている。
 突き当りではガラス板が壁を埋めている。微細なサンドブラストの彫刻を光が浮き上がらせる。翼を広げた鳥の紋様。その下の文字が読める。習ったことなど一度もない、異世界の文字であるのに。
〈アグレシア国儀礼銃士協会 テルノ支部〉
「まったく、お前がここまで馬鹿だとは思わなかったぞ。手間をかけさせやがって」
 隣の女が言った。
「うるせぇ。アイツが来るなら来るって言いやがれ、ミンタカ」
「前もって言ったら気にするだろ?」
「あたりめぇだ」
 R.R.E.だから、か。自分ならパジェットに気にされていないと思っているのか、ミンタカは。
 十年前にパジェットを騙して近付き、かつての相棒である識を殺そうとしていたことを忘れたと思っているのか。ミンタカは収束点だ。識も。収束点が収束点を殺すとは、殺された収束点がいる分節がそのまま滅ぶということだ。
 第二枝からの特命で、ミンタカはパジェットごと、故郷の世界を滅ぼそうとしていた。それをパジェットが忘れたと思うのか。そんな覚悟を抱いて笑っていた女を気にせずいられると思うか。思うまい。
「……R.R.E.はなんで今頃戻ってきた?」
「本人から聞け。その格好ならわざわざお前から逃げたりはしないさ」
 突き当りを左に曲がると、ちょっとした休憩所になっている。
 自動販売機の前のソファにR.R.E.が座っていた。
 ひとめで分かる。大人になっていても。R.R.E.は、本当に変わっていなかった。青い瞳にすごみを宿しても、顎が細く尖ってしまっても、頬の肉付きが暗くなっても。
「あら、結構なお召し物ですこと。着る服さえないのかと心配しましたのよ」
「うるせえ、気色悪ぃしゃべり方すんな」
「着る服もないほどお貧乏でしたら、あたしが融通しないでもないですけどねぇ、パジェットおじさん。今いくつ?」
「三十七だ!」
 二十五歳のR.R.E.が、十五の頃と同じ笑い方で、無邪気に声をあげた。
「オッサンがほんとにオッサンになってる!」
「っるせえ、当たり前だろ!」
 最後に会ったのはいつだろう。
 臣津だ。あの臣津とは違う世界の……いいや、違う。市庁舎の識の部屋。気まずい別れのままだった……それっきりだった。ミンタカがあえてパジェットから引き離しておいたのだろう。真相を話せばパジェットが怒り狂うと考えたのだろう。
 三人はそのまま会議室に入った。窓はそこにあった。ミンタカが片っ端からブラインドを下ろしていく。部屋が薄暗くなった。
 それから内線をかけた。
「じきに来る。茶でも淹れろ」
「オレがかよ」
「当たり前だ。今日のは上客だぞ? 私が、苦労してこっちに来させたんだ。でなきゃテルノ市議会にとられてたぜ」
 パジェットは、ため息をつき、紅茶の缶をあけた。その間にR.R.E.は悠々と長机に掛けた。
「もったいぶってねえで教えろよ。誰なんだ?」
「驚くぞ、お前。ご対面まで黙っておきたいくらいだ」
 ミンタカは腕を組み、意地悪く扉の周りを往ったり来たりした。
 と、隅のボードを引っ張ってきて、裏返した。世界樹系図が貼られていた。図面下部の基幹。それは遥かな過去、時のはじまり。十二の大きな枝が基幹から伸び、めいめい節を作り、葉を繁らせている。そして、世界樹を守る一対の戦鎌。マンティスのシンボルだ。
「さあ、この枝はなんだ?」
 一番左下の枝を指差す、パジェットは肩を竦めた。
「第十二枝だ。滅亡した」
「滅亡したってのは不正確。行方不明というべきかな。枝ごと損なわれた失踪世界だ」
「それが会わせたい客ってのに関係あんのか?」
 口を吊り上げ、ミンタカが笑う。
 扉が叩かれた。返事をし、ミンタカが開けた。
 二人の男が入ってきた。一人は銃士協会の支部局長。額が禿げた、恰幅はいいが気の弱い老人だ。
 もう一人は若かった。すらりと背が高く、締りの良い体つきをしている。軍事関係者か。血をかぶったような赤毛。色白の顔にはそばかすが浮き、どこか少年じみて見える。もともと童顔なのだ。緊張している。眼に白い光を張り詰めて、男はパジェットを見た。
「お初にお目にかかります。第十二枝より参りました元レギニータ軍警大尉、メルヴィ・メイルシュトロームと申します」

 第十二枝レギニータが消失したのは一年前だ。レギニータは春だったという。第七枝のこの国は、今日と同じ真夏日だった。
 ある夜、第十一枝から第十二枝にいたるすべての穴が失われた。第十二枝からのあらゆる通信も途絶え、その世界は消えた。蟲に滅ぼされたのですらない。それならば、人が絶えても大地が残るはずだ。
 第十二枝はそれすら残さなかった。
 はじめからそんな世界は存在しなかったと言わんばかりに。
 第十二枝は二つの機械知性体を有していた。ひとつは〈マーテル〉、かの地におけるマンティスを統括する母機だという。
 消失直前の第十二枝から、そのマーテルが第七枝に向けてあるデータを送ったが、信号の内容は明かされていない。
 もうひとつは〈インカーネイト〉。第十二枝内でもインカーネイトという音で呼ばれていたわけではない。当地で〈再生〉を意味する言語を当てられていたのだろう。それを訳せばどの枝でもインカーネイトという呼称になる。〈母(マーテル)〉も同じだ。
 インカーネイトからは、全枝全分節に信号が放たれている。後に割り出された第十二枝消失から一時間ほどのちのことだ。
 それは、レギニータ王国の新王戴冠を告げる知らせだった。

「私はその時、第十一枝の保養地に派遣されていました。助かったのはその為です」
 メルヴィと名乗った青年は、そう身の上を語った。向かいからパジェットは彼の顔をみつめた。ミンタカが尋ねた。
「それでは、あなたのご家族も――」
「妹が偶然難を逃れておりまして、今は二人で暮らしています」
「や、そうでしたか。よかったなどと言ってはいけませんが、妹君だけでもご無事で何よりです」
 毛のない頭を掻く支部長に、メルヴィは曖昧な笑みを返した。
「あなたは、どうした経緯で第七枝に来られたのです?」
 メルヴィはふとうなだれると、言葉をやめ、やがて顔を上げた。
「第十二枝消失後は、しばらく第十一枝に留まっていました。はじめは穴の不調だと信じていましたから。第七枝に来た理由のひとつは、マーテルが最後に通信していた先が第七枝だと聞いたからです。もうひとつは、第十二枝と様々な技術提携があったから。それだけです。恥ずかしながら、他に何の見通しもありませんでした」
「ここまで旅をしてこられたのは、大変でしたでしょう」
「目的がありますから」
 メルヴィは唾をのんだ。
「私は五代目レギニータ王ミナシキと面識があります」
 その言葉に、黙って聞いていたパジェットも改めてメルヴィの顔に目の焦点を合わせた。メルヴィもまた、パジェットを見た。この話をミンタカも局長も知っているふうだった。R.R.E.はどうだか分からない。メルヴィが続きを話し出す、おそらくパジェットのために。
「第十二枝が消失するより一月近く前のことです。私は国内のとある地方で、反乱分子の鎮圧にあたっておりました。王は――その時はまだ王子でしたが、反乱分子としてそこにいました」
「何故、そのような身分ある人間が反乱分子などに?」
「幼い頃に王宮を放逐されたのです。それは於くとして、マーテルはこの第七枝をレギニータにとって重要な意味のある地と見做していました。それは全マンティス発祥の地であるという意味においてかもしれません。しかし王がそうしたマーテルの意向を蔑ろにするとは思えません。彼は、いずれ必ず、何らかの形で第七枝に姿を現すでしょう」
 レギニータの民として国王を探したいのなら、儀礼銃士協会よりもふさわしい機関がある。そんなパジェットの疑問を先読みしてか、話は続いた。
「そして、王は儀礼銃を持っています。かつて彼の護衛が身につけていたものだと窺います……もし彼が生きているのなら、その儀礼銃に関する情報が、ここなら手に入れられると考えました。それに私ももと軍属です。ほかのどこより、ここが馴染みやすい」
 局長はそれに笑いで返した。
「それに、このテルノ市は特異点に近い」
 真顔に戻り。改めてメルヴィと局長は向きあった。
「第十二枝に関してお話できることは、なんでもしましょう。よろしくお願いします」
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