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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈28〉 著者:豊原ね子

夢見る病気〈28〉 第三章 Utopia(第七枝 夏)第一話 接点 ――2/2

 ―5―

 それは二月前から始まった。
 打ち捨てられた町から、第十二枝のものと思われる信号が頻繁に発せられている。その町はテルノ市より西方に位置し、蟲の襲撃によってとうに廃墟と化していた。最初に信号を拾ったのは、テルノ市の民間電波局だった。
 信号内容は、異国語で交わされる談笑だった。レギニータ語だった。消えたはずのレギニータの民間人が電話で語り合う声を、どういうわけか拾ってしまったのだ。
 発信場所は杳として知れなかった。漠然と、この辺りということは分かるのだが、場所を市街地の三区画以内から絞りこむことができない。同様の現象が頻発した。
 はっきりと発信地を特定できることもあった。ぬいぐるみの腹、民家の壁の中、打ち捨てられた水槽にたまった水溜りの中から。発信源を特定できた信号は、その内容を知ることができなかった。
 見る、聞く、解析、保存する行為に出た途端、それがたしかに送受信された形跡を残して情報が壊れてしまう。その町は特異点と呼ばれることとなった。
 夏の日没は遅い。白壁の家々に暑気が深く染みてゆく。下り坂が続いていた。この町は、背が高い。家々を巻く歩道の手すりから、下町を見下ろすことができる。そしてメルヴィも見下ろされている。ここより高い歩道から。
 ああしかし、たった一年でなんと遠くまで来ただろう。メルヴィは足を止めた。レギニータは寒かった。標高差もあった。だから夏は歓びの季節だった。ここでは不快だ。暑すぎる。
『確実なのは』
 あのミンタカという女性は言った。
『……そして重要なのは、レギニータの知性体インカーネイトの機能の、少なくとも一部は動作しているということです。現在国内で取得している第十二枝情報は全てレギニータ市民ネットからのものです。市民ネットの機構はインカーネイトの支配下にある。そうでしたね、メルヴィさん』
 はい、とそれに答えた。思えば姓名を名乗ったり、呼ばれることにも慣れたものだ。レギニータでは禁忌だった。自分は思うより適応力の高い人間だったのか、それとも人とはそういうものなのか。
『これは……消滅したと思われるレギニータでは、今も人が普通に暮らしていると考えてもいいのでしょうか』
『断定はできませんが、可能性はゼロではないでしょう』
『ですが、現在の第十二枝がまったくの干渉不可能性を有しているだけだとしたら、何故みな消滅したなどと言い切るのですか?』
『干渉不可能性を有している、という表現はおかしいですね。干渉不可能というのは全くその存在を認識できず、また予測できず、過去にどのようなかたちで観測されたこともないという事です。干渉不可能とは、コミュニケーションが取れないことや、世界樹世界の一部として認識され続けられないことではない。〈あっても無くても同じ〉ということです。実在していても概念上の存在でも同じということ、それが干渉不可能性です。現実にとっての架空というように喩えられる』
 干渉不可能とは架空であるに等しいということであり、その性質は有したり放棄したりするものではない、ということだ。
 ミンタカは言った。『希望を持ちたい気持ちは分かりますがね』それで、メルヴィはこの女が嫌いになった。
『そうした言葉の誤用が生まれることは、致し方ないことです』
 そう言ったのは、どこかおどおどした目つきのカク局長だった。
『メディアは民衆に対し、第十二枝に関して干渉不可能になったという言葉で説明を繰り返してきました。ですが第十二枝レギニータは、いま彼女が説明したとおり、本当の意味で干渉不可能ではないのです。レギニータが消滅したと見做される理由は、マンティスたちが沈黙しているからです』
 局長は答えた。
『第十二枝に送ったマンティス、そして第七枝から派遣されたマンティス監視員たちは、第七枝へ向けての定期的な状況報告を義務付けられています。どのような状況下でも必ずそれを遂行しろという、厳命があるのです。人にも機械にもです。インカーネイトが第七枝に信号を送ることが出来るのならば、第十二枝の全マンティスを統括するマーテル並びマーテル機関室にもそれが可能だと考えられます。しかしそれが無いということは――』
 つまり他のどのような事象をさしおいても、マンティスからの交信を受け取らないことには、存在の確かさを保証されないというのか。そんな無茶な話があるか。汗水をたらしながら、メルヴィは悔しさと直射日光に目を細めた。
 インカーネイトは何らかのメッセージを発信しているのだ。なのになんだ、インカーネイトは亡霊だとでも言うつもりか?
 レギニータは出入りできなくなっただけだ、ああ、そうに決まってる……俺の故郷が消えてなくなるなど、そんな事があってたまるか。分かっている。これは願望だ。しかしインカーネイトはたしかに重大な発表をした。新王ミナシキの戴冠を、世界樹世界に広く報じたのだ。消滅時点といわれている、その時間の後に。
 ミナシキ、あの男が王か。
 メルヴィは街路樹の葉陰で足を休めた。
 忘れがたい男だった。暇だから軍人になったのか? そう言ってからかいに来た。後で気づいたことだが、あの時の彼には他人をからかっている余裕などなかったはずだ。ミナシキはミナシキで、あの時重大な局面にいたのだから。素性を隠してレジスタンスの一派に加わり、いっぽう輪廻の鯨は広告を打ってミナシキを探していた。それでも彼は会いに来た。たしかに話をした。彼はメルヴィを使って博打を打った。俺がここにいることを、輪廻の鯨に伝えてくれ、そう自分に託したのだ。
 王が、せめてレギニータの象徴が……あの男が生きていてくれれば。
「お兄ちゃん!」
 道の先からリネットが呼んだ。白い日傘を差して、妹が立っていた。仕方なくメルヴィは歩き出した。頬を真っ赤に染めて、前髪を額に張り付かせている。自分も同じに違いない。
「部屋から出るなって言っただろう」
「アイス買いに行ってたんだもん」
 リネットは旅の間に二十歳になったが、まだこんなにも子供じみている。俺の前だからだろうか、最近そう思う。もはや唯一の家族だから? だから妹の顔をしているのか? そうでなければ、関係性など簡単に腐れ落ちてしまうとばかりに。ないとは言えない。だからメルヴィも何も言えなくなる。
「じゃあ、なんでこんな所ほっつき歩いてんだ。どうせ道に迷ったんだろう」
「違うもん、そんな子供じゃないもん」
「嘘つけ、ばか」
 ばかな妹に、ばかな兄。二人は短い影を踏みながら、並んで歩き出した。

 茶の後片付けまでパジェットがやらされることになった。
「それで、どう思った? あのメルヴィという男」
 後ろからミンタカが声をかけてきた。パジェットはカップをゆすぎながら、しばらく黙っていた。誰とも会話したくないというのが正直な気持ちだった。
「王と面識があると言ってたな」パジェットは答えた。「目的はそれだろ?」
「DOLLs(ドールズ)」
 ミンタカの声に笑いが混じる。
「そんなこと、さっきの男に言えねぇだろ、お前」
「当たり前だ」
 水を止めて振り向けば、ミンタカは壁に凭れかかり、洋ナシをお手玉のように投げて弄んでいた。その姿にはなんの躊躇いも、後ろめたさもない。
 ミンタカは選択できる女だ。選択と決断。一度決めたらけっして、誰にも、躊躇や後悔を見せない。話し合わない。それが識とは違う。識は識でじれったいところのある奴あったが、何を隠しているか分からぬという相手ではなかった。
 信頼関係があった。ミンタカとの間にはない。彼女もパジェットに求めていない。洋ナシの動きが止まった。ミンタカがパジェットを見ていた。洋ナシを置き、小型キッチンと会議室とを仕切る薄い戸を閉ざした。
「王は収束点だ。第二枝情報だ。間違いない」
「レギニータ新王か。本人は知ってるんだろうな」
「ああ。野放しは危険だ」
 二人はしばし、会議室の様子に耳を澄ませ、改めて誰もいないことを確かめた。
「……レギニータは第二枝と同じようなことをしてたんだ。収束点をさらっていた。保護という名目で行動を制限していた。死んで、役目が他にうつるまでな。何故だと思う?」
「世界分岐の基準は収束点の行動だ。行動が大幅に制限されれば、それだけ分節内のほかの葉に対する影響が減る」
「そう。そうすることで、マーテルにかかる負荷を減らしていた。おかしいと分かるだろう。ならば何故収束点を王にする? 影響力の頂点とでもいうべき一国の統治者に?」
「レギニータ王は統治の実権を握っていない……のか? 言われてみりゃそうだ。収束点がそんなに偉くなっちまえば、新しい葉が増えこそすれ消えるなんてねぇよなあ」
「収束点の秘密を知る者たちはみな、同じ考えでいる。レギニータ王はもう第十二枝内にいないんだ。そして他の枝の機構が、第十二枝の収束点を見極めることは不可能だ。その収束点も他の枝、他の分節では、影響力を及ぼさない一般人と同じだからな。だがいまや全枝全分節が第十二枝の収束点を探している。むろんマンティスを駆使してだ。これによってマンティスの負荷は増大し、多世界間の関係もぎくしゃくしてきている。蟲どもにつけいる隙を与え、人的被害も計り知れない。たった一人の男の為にだ」
 ミンタカの唇が吊りあがる。背筋に冷たいものを感じた。
「私も収束点だ。わかるな」
「やめろ」
 焦りを隠さず、パジェットは低い声で制した。ミンタカは笑う。押し殺したままの声で。
「パジェット、私は収束点どもが嫌いだ」
「てめぇ自身以外のな」
「連中は私の故郷を脅かす。件の王が無害な収束点ならいいさ。無能な男ならな」
 声上げ、ミンタカは笑った。
「殺したりするものか。そうさ。お前が案じたとおり、私がその収束点を殺せば、第十二枝はそれこそ本当に消える。そしたらどこも第十二枝を諦めるさ。だが私はもう第二枝の犬じゃない」
 逆に、もしレギニータ王……第十二枝の収束点が、第七枝のこの分節内でここの収束点を殺しでもしたら、町も国もミンタカもR.R.E.もパジェットも、ガロエとサーリヤも消える。危険なことは分かっている。
 第十二枝は消えてしまい、収束点が残った。
 かつては識が姿を消し、識がいた分節は残った。逆のことだ。〈大きな矛盾〉に触れたあの分節は、次の収束点を生み出さなくなり、葉=世界を繁らせなくなった。レギニータの場合はどうなるだろう。知りたい。かつての相棒のことを考えれば、他人事ではいられなくなる。
 この心情を予測した上で、ミンタカも話しているのだろう。同時に収束点の存在を知る者として、監視しているのだ。真相を打ち明けた者の義務だ。
「乙葉」
 思考を中断された。
「識」
 さらに言う。笑みを浮かべて。
「臣津市。瑞穂中津国。豊葦原連邦。私がいた分節の言葉で言えば、日本。お前は故郷を捨てて識を探すと決めた。見つけるまで帰らぬと。そして帰れていない。いいのかい、失ったままで。それで我慢できる男なのかい?」
「だまれ」
「最後にマーテルとともにいたマンティスについて調べた。TX898524IKというものがある。第二枝から送られたものだ。そして以前には、第一枝にいた。私とR.R.E.はそれに関わりあった。堂嶋蘇比の協力を得て、それを別の分節に移した」
 ミンタカは唇の端に満足を乗せている。わかる。パジェットが自分から離れていかないことへの満足だ。
「そして名倉識の最後の話し相手だ」
 オレは、とパジェットは思っている。ガロエを愛している。自分が家庭に落ち着けるなど、考えてもいなかった。サーリヤを愛している。三十過ぎてできた娘が可愛くないはずがなかった。
 しかし、だからといって乙葉を忘れたわけでもない。もはや乙葉を女性として愛する気持ちなどない。それでも一人の女として、幸せにしてやりたかった。生きていてほしかった。
 識も、生きてさえいれば三十一歳。いい女を見つけて家庭を持っていても、おかしくないはずだった。
 だがそんな現実がどこにあろう? 干渉不可能性とは、このことだ。
 目の前にいるのはミンタカだ。乙葉も識もいなくなった。ミンタカがいて、こう言った。
「お前はレギニータ王に会う。運命が必ずそうするだろう」

 ―6―

 支部局を出た。タイル張りのバルコニーが日を照り返し、容赦なく目をつぶした。たちまち汗がふき出す。子供たちの遊ぶ声が遠くから聞こえる。元気なものだ。自分のほうが体力ある大人なのに。無くなったのはそれを浪費する気力だ。
 いや、こう思うことを老けたというのだろう。元気で若いのが走ってくる。
「パジェットさん!」
 汗を振り絞り、爽やかな声で朱鷺子が呼んだ。行谷も一緒だった。

「悪いな、予定狂っちまって」
 支部局の裏の路地で、三人は向かい合った。路地は濃い影に塗られ、涼しかった。パジェットは壁にもたれて腕組みをしている。ここなら誰も通らない。支部局の中より安全なくらいだ。……ミンタカがいないから。
「びっくりしたよ、パジェットさん。捕まったって聞いてさ」
「そうですよ。心配したんですからね」と言葉を継いだのは、朱鷺子の後輩の行谷だ。いつも食い物のことを考えているどうしようもない奴だが、銃士として確実に育ってきている。パジェットは片手を挙げ、振った。
「許せよ、説教なら十分だぜ。そんで、あれから何か分かったか」
「はい。事件現場に立ち入ることはまだ禁止されたままですが、第一発見者の地元の人を割り出して、話を聞けました」
 山中の不法投棄現場から、銃狩りを行っていた者たちの死体が見つかった。投棄されていたものは医療関係の廃棄物だった。テルノ市の大病院のものも混じっていた。大事件として取り上げられたが、パジェットたちにとって重要なのは死体どもの方だ。
 行谷はしばし付近を警戒してから、パジェットに顔を寄せた。
「見つかった九人のうち二人が、斬殺死体だったそうです。一人は正面から袈裟斬りにされ、もう一人は背後から一突きにされていたと聞きました」
「収容した病院の医者から話は聞けたか」
「いえ、そちらとの面会はかないませんでした。ですが付近の村の個人病院の方が、警察の最初の調査に立ち会っていました。その方の見立てによれば、斬殺にはとても大きな刃物が用いられたようです。ナイフの傷ではなかった」
「っていうと?」
「剣のようなものかと」
「剣だぁ?」
 眉根を寄せたパジェットだが、行谷は大真面目でうなずいた。
 剣だと。パジェットには信じられない。事件の経緯はまだ分からない。が、いまどきどこの誰がそんな原始的な武器を持ち歩いているというのだ。銃があり、持ち運びに適ったナイフがあるというのに、なぜ剣など使われる。
「――朱鷺子、お前は? 行谷より早くあちらを発っただろう」
「はい。早く持ち帰りたいものがありましたから」
 腰鞄から、朱鷺子がビニールの袋を出した。中身はさらに白い布で包まれている。
「現地で回収した銃弾と薬莢です。解析できますか?」
 すると、三人の支部通信機が一斉に緊急呼び出し音を発した。
 甲高い電子音が耳を衝く。三人は走り、路地を出た。
「こちらパジェット・リゼキ、工藤朱鷺子、行谷すずなと行動を共にしている、どうぞ」
『北区郊外から十キロ地点に蟲どもの小隊が確認された。向かってくださるか。今どこにいるのです?』
 独特の震えを持つ声の、カク支部局長だった。
「支部局の真裏です、車を借ります」
 呼び出し音が止まる。朱鷺子と行谷をつれて駐車場に急いだ。今度は町中で避難警報が出された。平和な午後のときの流れをサイレンが打ち破る。家々の裏に、路地に、地下道への入り口がある。人々が走り出す。表通りを、車線を無視した儀礼銃士協会の車両が走りぬける。暴走のようにも見える。町が瞬く間に流れていく。
 後部座席で朱鷺子と行谷が臨戦準備を開始する。車内には戦況が中継される。小隊は北の砲門を突破、北区郊外より七キロ地点で駐屯の銃士隊と交戦を開始している。
「砲門を突破だと? なんでそんなに接近するまで気付かなかったんだ」
『15時41分現在、治安当局よりDOLLsの運用許可が下りた。テルノ市北部にてDOLLs隊を実戦運用する。対処にあたるものはこれと協力体制をとるように』
 パジェットは舌打ちした。
「勝手なことを……」
 後ろの二人は、いつでも儀礼銃を撃つ準備ができている。
「パジェットさん、相変わらずDOLLsが嫌いですね」
「あったりめぇだ! あいつら好き勝手に突っこんで引っ掻き回していきやがるからな。そうしていいって言われてるんだ。あれだって生身は人間なのに、作った連中もえげつないぜ」
 お前ら知ってるか、と、パジェットは続けた。
「DOLLsは第十二枝の技術を応用展開して作られたんだ」
「そうなの?」
「聞いたことねぇか、第十二枝のReRouEを」
「聞いたことなら一応はあるよ。武器に付与させた具現結晶霊体だって」
「ああ、そうだ。それでも第十二枝の奴らだって実用する武器にはReRouEを憑依させねえ。ReRouEにも人格があるからな。それをここでは大っぴらに人間に憑依させてやがる」
 幼いうちから、結晶霊体の人格ともとの未完成な人格を統合させながら、だ。
「……わかってるさ、DOLLsどもが悪いんじゃねえ。でもオレは嫌いだ」
 ついに蟲が居住区に侵入したと、報告が流れた。
『君達三人はそのまま避難民の救出に当たってくれ! 東の閘門付近の公民館に取り残された一団がある、南門まで護送してくれるか』
「了解、東の閘門付近に取り残された避難民の護送にあたります」
 郊外へ続く門を抜ける。パジェットたちは車を寄せ、走った。
 儀礼銃の爆音。まだ遠い。パジェットの左腕は既にナガレの把手を握っている。やがて爆音に羽音が混じる頃、町の区画はきなくささに包まれ、風上から流れる煙に満ちていた。
 公民館を蹴りあけた。朱鷺子と行谷が続く。
 奥の扉を開け放つと、老若男女三十人あまりが一塊になっていた。
「救助の者です! 動けない人はいますか!」
「お母さんが!」
 十歳ていどの女の子が、ざわめきを押しとどめて叫んだ。
「病院に走っていっちゃったんです! 弟が入院してるから!」
 パジェットは駆け寄り、女の子の前で腰を屈めた。
「どこの病院だ?」
「中央の通りをまーっすぐ行って、四つ辻に出るから、そこを左に曲がるんです。おうちと一緒になった赤い屋根の小さい病院です!」
「よっしゃ、お母さんは任せときな。朱鷺子!」
 パジェットは命じた。
「行谷と一緒にこの人たちを護送しろ! もうじき応援が追いつくはずだ。今のうちに急げ!」
「はい!」
 その場を任せ、パジェットは走り出す。
 民間人が一人で戦地に戻るなどどうかしている。第一枝にいた頃の自分なら、単に義務だから助けに行っただろう。無事助け出せたら罵るかもしれない。何を考えているんだと。
 今はもう、その母親を愚かだと思えない。同じ目にあえば、ガロエもきっとサーリヤを助けに行くだろう。
 だいぶ走ってから四つ辻に出た。灰色の煙が視界を奪い、煙を透かし見て角を曲がる。目が痛い。開けていられない。倒れている人がいないか、パジェットは細めた目で探した。住居と一体になった小さな病院だと言っていたな。赤い屋根、赤い屋根……。
 誰かが立っていた。
 煙に姿をかき消されながら、往来に立つ人がいる。
 男だ。体格で分かる。
 民間人なら逃げているし、そうでないなら戦っているはずだ。
「誰だ!」
 口を手で庇いつつ、呼んだ。
「そこで何をしてる!」
 男が振り向く。大した距離ではないが、顔を見ることはできない。煙の中を泳ぐように男に駆け寄った。男は遠ざかろうとしたが、その前に肩をつかまえた。
 背は、パジェットほどではないが、高いほうだ。
 間近で顔を見た。
 若い。濃い青色の目をしていた。その目に怯えはなかった。不自然なほど落ち着き払っている。……身を守る武器のひとつも持っていないようなのに。肌は煤で汚れている。
 何か言いかけた。
 しかしすぐに唇を閉ざした。ついて来いとばかりに背を向ける。
「お前……おい」
 早足で後を追いながら、問いかけた。
「喋れないのか?」
 青年は破れた民家の戸を開けて、中を指差した。
「中?」
 すると青年は、家の中に何事か呼びかけた。異国の言葉だった。もとより言葉が通じていなかったのだ。
「ここです! 助けてください!」
 女の声がそれに答えた。行けとばかりに、青年が家の中を顎で差した。
 短い逡巡ののち、パジェットは青年を諦めて民家に飛びこんだ。階段の下の倉庫から、腕にしっかり幼い男の子を抱えて、女が転がり出た。パジェットは男の子を取り上げ、抱いた。どちらも見たところ怪我などはなかった。
「行きましょう、走れますね」
「はい」
 戦線が後退してきている。パジェットは走る。一人でも多くの人を生き延びさせるために。
 青年はいなくなっていた。煙の向こうにもう一度、暗い影が見えた。
 おかしいと気がつく。パジェットは枝を越えた人間だ。たとえ彼が異国の者であれ、パジェットとの間で会話が成立しないはずがない。
 口もきけぬまま、子供が服の胸元をにぎりしめた。
 この母と息子を放りだして、彼を追えるはずもなかった。
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