お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈31〉 著者:豊原ね子

<夢見る病気〈31〉 第三章 Utopia(第七枝 夏) 第三話 雷火 ――2/2
 
 ―4―

 曇天が、鈍い灰色のガラスの針を降らす。
 海は寒さを生む。差さぬ太陽を恨む。白い潮の飛沫たちは、病床の噂をする。
 それは合わせ鏡。
 隙間に町がある。町があり道がある。道を青年が歩く。
 青年、ミナシキが海辺の道で歩を止める。顔を上げた。上空から変わらず針が降り、おさまる気配はない。雲の色の針は羽根のように舞いおり、肌に当たればするりと滑る。傷つけられはしない。
 人を探すためまた歩く。海鳴りさえ黙っている。降り積もる針たちの会話。白いドレスが飾られたブティックに、透き通る人影を見た。
 無人の店内を背景に、着飾った男女がひしめきあっている。ウィンドウに投影された彼らは、ガラスの中で身動きも取れぬままミナシキを凝視する。
 死んでいる。
 影は肉体や時間の厚みを持たない。探す相手がこんな群れの中にいるはずがない。歩み去るミナシキを、影たちがただ見送る。
 本物の羽根を見た。
 白い羽根が天から、顔の横をかすめ、後ろに流れていく。見上げた。針のなか、大きな翼を広げた鳥が雲の下を旋回している。ミナシキは信じられぬ思いで鳥を凝視した。まだこの国に命ある生き物が。
 鳥もミナシキを見つけ、高度を落とす。上空で長い首を仰け反らせた。その反動で、嘴をおのれの胸に突き立てた。血が散り、羽毛が舞う。立ちつくすミナシキをよそに、鳥は翼の力を失って、遠くに落ちていく。ミナシキは走った。鳥が落ちていったその先を、光の束が照らし出す。雲はもう針として落ちきった。靴の裏で砕けていく。ゆく手に青空があった。
 鳥を探し角を曲がる。
 強い光が目をやいた。正面に建つ店の大きな窓が、青空の光を反射していた。その中に、一人の人の影を認める。駆け寄り目を凝らす。
 望む相手ではなかった。

 ミナシキは叫び起きる。いや、叫ぼうとした。代わりに出たのは掠れた声と、のどに痛い息。布団の中で足が引きつる。喉がむずがゆく、咳をする。とまらない咳が意識を覚醒に導いた。苦しくて上半身を持ち上げる。座りこみ咳を続ける。
 右手が鼻紙の箱を探そうとし、宙を泳ぐ。息ができない。のどに痰のかたまりがかかった。腹に力をこめて、痰を吐ききろうとする。胸骨が痛みに悲鳴をあげる。骨の軋みが耳の中で聞こえている。きしきし。きしきし。鼻紙は諦めた。布団を握る。その手もとに赤黒い、泡立つ血が広がった。
 咳はやんだ。
 ミナシキは吐いた血もそのままに、ふたたび身を倒す。苦しい。痛い。そして寒い。きつく目を閉じた。汗をかいているのは悪夢のせいだ。
 ガラス窓の中に見た。頭から足の先まで針に刺された、死んだ血まみれの自分を。
 悪寒がやまない。震えながら目を開ける。カーテンの隙間が明るかった。夢と同じ清さ。

『乙葉は大きな矛盾に触れた』
 ミンタカは言った。
『彼女と彼女のReRouEは、あってはならない矛盾に汚染された。乙葉だけならどうにかなったかもしれない。だが彼女はDOLLsだった。……最初期の』
 大きな矛盾とは何か? それが分からず、パジェットは何度もちがう形で尋ねた。
 ありえないものすべて、だ。それがいつもの答えだった。
 やがて矛盾の内容についてはミンタカも何も知らないことを、パジェットも知る。それはたとえば蘇比が、なんら個人的な経歴も持たずにこの世界に現れたことであり、超人的な振る舞いをしたということ。その理由や背景は、知ることさえ許されない。
 ただありえない。ありえないから、なくした。
 識は、何の罪もない識は、収束点だからという理由で殺されようとしていた。分節を滅ぼし、全ての葉にいる蘇比を消すためだけに。
 識は蘇比と接触することで、何かを知ったのだろう。識は消えた。パジェットと識の分節は消滅を免れたが、あの分節に新たな収束点が生まれることはない。それは識が生きている可能性だと解釈することもできるが、ひとたび大きな矛盾を宿した分節を世界樹が切り捨てようとしているのだろうとミンタカは言った。。
『ReRouEは共有無意識下で繋がっている。早急に滅っさなければ、すべてのReRouEが矛盾に汚染されていただろう。だから私は彼女を斬った』
 ただあの日、パジェットが帰ってくることは誤算だった。
『……それきり二度とお前のまえに現れる気はなかった』

 朝のうちから、なんと陽射しの力強いことだろう。駐車場から支部の建物へ歩いていると、後ろから行谷が走ってきて、隣に並んだ。
「よう」
「おはようございます!」
 この暑さを苦にせぬ様子で、元気に会釈した。
「パジェットさん。、私調査隊に応募したんですよ!」
「へえ、間に合ったか」
「はい! その場で受理されました。今日が面接です」
「なんだって? えらく性急だな」
「儀礼銃士の募集枠が割れてるそうですよ」
「そうか。まっ、頑張りな」
 局に入ると受付で呼び止められた。速達でパジェット宛に手紙が来ていた。送り主は弾丸の鑑定を依頼した、大学の研究施設だった。
 個室に鍵をかけ、開封。
 渡された銃弾のうちひとつが正体不明だったと知らされた。過去三十年間に第七枝内で作られたどの銃から発射された弾丸でもないという。可能な限り第六枝、第八枝の銃火器データベースと照合したが、それでも特定できなかった。他をあたれとのことだった。
 末尾では、二つの施設が紹介されていた。ひとつは警察、もうひとつは首都の関連大学の、犯罪研究施設だった。
 望んでいた結果に近い。問題はこれからだ。
 万一のことを考えれば郵送は避けたいが、気軽にテルノ市を離れられる身のうえでもない。首都の大学は却下だ。かといって警察には関わりあいたくない。パジェットは部屋の冷房もつけぬまま、あれこれ考えた。ミンタカの人脈に頼めないか? あるいは銃士協会内部に警察とつながりのある者はいないだろうか。
 すると内線が鳴った。受話器を取ると受付嬢が来客を告げた。
「ヨナン・ヨル様という方です。ご都合がよろしければお会いしたいと仰ってますが」
「ヨナンが?」彼が訪ねてくる用件が思いつかなかった。
「本人に代われるか?」
「はい。お待ちを」
 間もなくヨナンの声が「おはようございます」と聞こえた。
「ああ。どうした? 大学はいいのか?」
「ええ、大丈夫です。昨日のお礼に参りました。……もしご迷惑でなければ、少しお話しできますか?」
「分かった。部屋に来な。二階の廊下を右に行って三番目だ」
「では伺います。ありがとうございます」
 三分とかからないはずだ。パジェットは手紙をたたんでポケットにしまい、冷房のつまみを捻った。壁から落ちそうな勢いで揺れ、大仰な音をたてて生ぬるい風を吐き出す。ブラインドを巻き上げる。陽射しの熱は外も室内も変わらなかった。
 昨日の話の続きをしに来たか。
 荒唐無稽な与太話だ。だがヨナンは収束点の存在を予測した。たとえ彼と彼の師とやらが相手にされなくても、この広い世界樹世界、どこかで誰かが同じことを考えないと何故いえる? 世界は広い。多世界などなくても世界は、いいやひとつの国でさえ、十分すぎるほど広い。そして人間は多い。
 廊下に人が立ち、ノックした。鍵を開けてやる。手土産をさげたヨナンが笑顔で立っていた。
「おはようございます。いい朝ですね」
「おう、オレもいま来たばっかで冷房効いてねえんだ。悪いな」
「いえ、お構いなく。お土産を持ってまいりました。りんご園本店のフィナンシェです」
「でかい箱だな」
「百二十個セットです」
「お前な、オレがいくらデカいからってそんなには食えんぞ」
 散らかった机の、できるだけ平坦なところに受け取った箱を置いた。
「帰って嫁と食う。どうもな」
「昨夜は変な話をしてすみませんでしたね。このままにしておくのも申し訳なくて」
「ああ、いいぜ、別に。気にすんな」
 パジェットは部屋にひとつしかない椅子を勧めたが、すぐに出ていくからとヨナンは断った。
「このあと、チェーレンさんの工房に顔を見せに行きますから」
「おアツいこったな。お前、将来子供ほしいか?」
 無遠慮な質問に戸惑いながら、ヨナンは控えめに「はい」と返事をした。
「子供って毎日成長するんだ。だんだん自分に似てるところや、ほれた女に似てるところが出てくるんだ。あっという間に立つようになって、言葉を覚えて、絵本を持ってくる。読んでー、ってな。かわいいぜ」
「そうでしょうね」
「それが間違ったことや逆行だなんて、オレには思えねえ」
 パジェットは窓辺で肩を竦める。濃い影が伸びていた。その先にヨナンの青白い顔があった。
「これから絵本もおもちゃも要らなくなって、少女になって、女になる。オレは自分の子供だけじゃなくて、他のそうした子供らも守っていかなきゃならねえんだ。老いぼれるまで戦う。儀礼銃士だからな。銃士には、銃を作ったり修理してくれる人間が必要だ。そのための神学理論だろう……そうであって欲しいところだ」
 ヨナンはじっと黙っていた。もう愛想笑いはなかった。パジェットは、相手の表情のしずかな変遷を見守った。
「蟲の発祥を突き止めることが、小さい頃から夢でした」
 色の薄いひとみを向け言った。
「僕が生まれた頃は、酷い時代でした。蟲どもが消えない。小さな国が消えていく。街が消えていく。大陸規模の移民の流入、食料が足りない。どこかの葉々が滅んでいく。人類は終わる、未来はないと叫ばれていました。母はその中で僕を産んでくれた。お金も家もない状況でです。……誰かを直接守れる人は偉大です。あなたも母も。多くの人がそうだ。直接的な力を指向しない僕らを、あなたはもどかしく思うかもしれませんが」
 パジェットは首を横に振った。
「アタマのいい人らが蟲の根絶方を突き止めてくれりゃ、それに越したこたぁないさ」
「葉の消えていき方に傾向があることは、少し前から気付かれていました。世界樹は末梢から消えていくというあれです」
 一瞬気まずそうな顔を見せ、声の調子を落とした。
「市井レベルでの文化交流がなかったので実感はされにくいのですが、末梢よりと基幹よりでは、分節ごとの反目が大きかった。それぞれの先端どうしにおいては、憎しみあっているとさえ言える状態でした。この分節も基幹よりに位置していますから、声は聞こえてくる……信仰心がないから連中は滅びた、当然だ、と」
「そんなこと言う奴は、どこにでもいる」
「それではカルトです。滅んでいい世界があったなど、認めてはいけない」
 カルトか。いやな言葉だ。パジェットはしばし黙る。第一枝でもそうした連中とのいざこざは絶えなかった。教義や宗派の違いから、暴走してカルト化していく人たちはたくさんいた。
 蟲が狂わせたのだ。どこの国でも、正教、正道と認められた主流派ばかりから儀礼銃士が排出される。そうして戦果を挙げていく。
 会話が切れた。中庭からアガーシャの笑い声が立ち上ってきた。窓の外に目をやると、補助輪つきの小さな自転車を中庭でこいでいた。プラガットが立会い、見守っている。ヨナンも窓辺により、見下ろした。
「子供?」
「ああ、DOLLsだ」
「かわいらしいですね。本当に人間と変わらない。あの子にお友達はいないのですか?」
「ああ。年次で国内の都市に割り振られてくるからな。いまはアガーシャは一人だ。そう子供ばかりいても、こんな田舎町じゃ面倒みきれん」
「それは……寂しいでしょうね」
 ヨナンは目を室内に戻した。
「そういえば、パジェットさんの娘さんは」
「サーリヤには会わせねぇよ」先回りし遮る。「危ないからな」
「なぜ」
「お前さんは、擁護するくせにDOLLsを知らなさ過ぎるぜ。DOLLsがどれだけの肉体的な力を隠し持っているか、見たことねえだろう」
「見たことはありませんが……」
「かわいい子供じゃねえんだ」
 パジェットは言った。
「同い年の子供の腕なんて、ちょっと力をこめたら簡単にへし折っちまうぜ。まだそうした加減のわからんお子様だ。子供ってなぁそうやって成長していくモンだろうがな。学習する相手に自分の娘をあてがうなんてゴメンだぜ。ああ、そうだ。腕ですめば幸運だがな」
 まして、自分の娘と同い年の幼児を憎むことになるなど、想像するだに恐ろしい。だから、そうならないようにしているのだ。
「……で、何の話だっけ?」
「何でしたっけ。ああ、そうだ……末梢から枯れていくという話ですね」
「基幹方向と比べてより優れた科学技術力を持つ末梢の葉々から、枯れていく。それを信仰心の欠如だと責めるのはカルト的思想だと言うんだろう」
「ええ」
「世界樹が過去方向へ進んでいるって説明付けは、カルト的思想を回避するためか?」
「違います、そういうものではありません。ですが、説の真偽は蟲が消えたとき分かるはず」
 蟲は未来から来た。ヨナンはそう言った。未来とは、各枝でいま末梢として認識されている部分のさらに先。もし蟲が、未来の人類の失敗の産物ならば、世界樹世界の秩序は二度と枝を伸ばしはすまい。
 蟲や蟲たちの記憶が消える場所、そこが永遠。途絶。もうこれ以上は栄えぬ世界。無知。迷妄と狂信。発展しえぬ世界なら、新しい知への弾圧が待ち構えているはずだ。
 そこにいるのはDOLLsたちか。〈永遠への退路(ReRouE)〉と名づけられた霊体とともに生きる、あたらしい〈人間〉。
「それもまた淑恵さんの指摘した矛盾をはらんでいます」
 ヨナンは言う。
「純粋すぎる信仰、古来の信仰は不純なものか? 不純という言葉では間違っていますが、たしかに原理主義的な世界を生きたいと願う人はいないでしょう。いまある宗教観と信仰の形は、台頭してきた科学とのすり合わせによって洗練されたものです。だから、ええ、それ以前のありように対して不純という言葉が出てきたことには驚きません」
「過去の宗教観をまるごと否定することは出来んがな」
「もちろんです。ですがそれが、幾度となく人類の悲しい戦を引き起こしたこともまた事実。パジェットさん、この過去退行説を解説するにあたり、僕は輪廻転生観を引き合いにだしましたね」
「ああ」
「それはアグレシア国の古民族たちの世界観でした。ReRouEの発祥地、第十二枝レギニータと同じです」
 ヨナンは一呼吸おいてから、そっと告げた。
「パジェットさん、僕も古民族の末裔です。僕の師も」
 改めてその姿を見た。痩せて背が高く、色が白い。髪や目の色も薄い。
「チェーレンさんやガロエさんと同じです。だいぶ血が混じってこの容姿だから、ひとめで見抜く人はいませんがね」
「ああ、驚いた」
「アグレシア国に開拓に入った人々は、一神教の信仰を持っていた。彼らは古民族に改宗をせまり、拒む者は虐殺した。野蛮で悲惨な歴史は繰り返されてはなりません」
 過去退行説には、あるいは開拓者たちへのコンプレックスが根底にあるのかもしれないと、パジェットは考える。
「そして純粋に興味があるのです。古民族と似通った宗教観を持つレギニータが、なぜ唐突に消滅したか。……何が起きていたのか。そこに神学のありようはどう関係していたのか」
 オレもだ。無言で同意する。
 滅んでいった枝葉は何を知ったのだ?
 レギニータこそそうではないが、滅んでいった抹消の葉は、科学方面に特化していた。科学と神学の比重が偏りすぎていた。
 いま立つ世界が残っているのも、もしかしたら、一部の人間が躍起になって『大きな矛盾』から目をそらし続けているからか。乙葉や識が犠牲になって。
 思えばそれは、ひどく反科学的なふるまいだ。分からないことを分からないままにしておくため人命を犠牲にする。知の前進の拒否。
 レギニータは何を知って滅んだ。国王は、レギニータ王は何を知っている。その男が無知であるはずがない。
「人はなぜ生まれてくるのでしょう」
 ヨナンはまた、中庭のDOLLsの義姉妹を見下ろしていた。
「世界を存続させるため? 霊魂の修行のため? 不思議でならなかった。たくさんの大人に聞きました。みんなそれどころじゃ、ありませんでした。生きるのに必死だった。聞けば、殴られました。生きたくても生きられなかった人が何人いると思ってるんだ。自分が生き延びるため、泣く泣く子供をおろした人がどれだけいると思っている。生きていられるだけ有難いと思え。生きるのが嫌なら、その命を他の誰かに与えてみろ。飢えに苦しんでいる人がいるんだぞ。病気なのに薬も寝床もない人たちがいるんだぞ。間違ってない、分かってる。その人たちは一面正しいことを言っているんだ。だけど僕が聞いているのはそういうことじゃなかった」
 生きるのが嫌なわけじゃなかった、と、囁くように言った。
「……思春期の頃は、同年代の友人たちに。誰もそんなことで深く悩んではいませんでした。生きてこうしている、いまが楽しい。君は楽しくないのか? と。そんなことはなかった。だけど疑問は消えませんでした。歪んでいた。自分は高尚なことを考えられる人間で、他は馬鹿だと見下していた。一方で疑問を消せない事実が、凄まじい罪悪感でした。苦労して育ててくれる母への。愛されていなかった何てことはありません。決して。不全感とか、渇望から来る疑問ではありませんでしたから」
「それで神学に?」
「ええ、哲学を経由してね。自分がどこにでもいる人間だと気付いたのは、その時になってですよ」
「答えは見つかりそうか?」
 自嘲の笑みを引っこめ、ヨナンは伏せた目で考えていた。そして笑った。今度は爽やかな笑みだった。
「いいえ。でもね、最初の質問ですが、僕は子供が欲しいですよ。自分がなぜ生まれてきたのか分からなくても、自分の子が同じことで悩んでもです。ヒトという獣の本性かもしれないし、違うかもしれない」
「そうか」
 パジェットも笑みを返した。
「いつか、納得できる答えにたどり着けるといいな」
「有難うございます。ああ、そろそろメリシカのところに行かないと」
「酒は飲みすぎんな。健康な子が欲しけりゃな」
 若い学士は満足して、丁重な礼ののち個室を出た。廊下を進んでいくまっすぐな背を、なんとなく、しばらくドアを開けたまま見送った。

 ―5―

 ミンタカは少女時代、第二枝に誘拐された。収束点をさらう機関があった。まだ第一枝では多世界の存在すら公表されていなかった。収束点が収束点を殺せば、殺された収束点がいる分節は消える。各枝各分節が収束点の特定に躍起になるなか、第二枝のその分節は、まだ誰にも管理されていない第一枝の収束点たちを手に入れた。
 むろん第二枝はそののち大層な非難にさらされるのだが、それはもはやミンタカには直接かかわりのないことだ。
 故郷は燃えていた。蟲が来ずとも人間同士での殺し合いはあたりまえのことだった。銃撃、空爆、重爆、自爆。
 さらわれなければどうなったろう? 他の女と同じく、黒い布から目だけを出して暮らしていただろうか。厳しい戒律に従い、夫以外の男を知ることなく生きていたか。それとも、死んでいた?
 いずれにせよ、それが己の人生と認めて淡々と生きていくだけだ。第二枝には特に恨みもない。まして恩義もない。……そのようにパジェットは聞いた。
 すさみきった故郷と、いっけん平和な異世界、どちらも同じよと達観した彼女の心の空洞は、いかほどのものだろうか。第二枝はおこないを非難された。ミンタカは自由を得たが、第一枝には帰らなかった。二度と関わりあうつもりはないのだろう。そしてまた、彼女が重大な秘密を胸に秘めて静かに生きることなど許されるはずもなく、儀礼銃士となって今は第七枝にともに居る。
 そのミンタカの個室を叩く。返事がなかった。しかたなく踵を返したとき、鍵がまわりミンタカが姿を見せた。
「珍しいな。ふだん避けてるくせに」
「そう言うな、お前いヒマだろう」
「いそがしい」
 そう言って戸を閉めてしまった。パジェットは追いかけるように中に入った。ミンタカは寝不足の重い目をこすりながら振り返った。
「今度の講習会をさぼる口実はないか?」
「出ろよ、それぐらい。半日だろうが」
「鍵」
 内鍵を閉める。ミンタカは改めて、低い声で訊いた。
「どうしたんだ。なにか分かったのか?」
「こいつ次第だ。レギニータ王は剣のReRouEを持ってるとメルヴィが言っただろう」
 手紙を出して言った。それから、行谷が聞きこんだ現地の医師の証言と、朱鷺子が持ち帰った銃弾の件をあわせて話した。ミンタカは返信を読み、しばし黙った。
「……レギニータ王は正規のルートで穴を通っては来られまい。身分を証明する手立てがない。闇ルートをたどって第七枝に来たとすれば、アグレシア国内にいる可能性も低くはない」
「で? どうすんだ?」
「むろん協力する。人脈もなくもないが、やはり警察機関は駄目だ。首都に送ろう。朱鷺子に行かせればいい。断りはしないさ」
「休暇中だぞ」
「じゃあお前が次の休暇を使って行くか? 私としては、早くこれの解析結果を知りたいんだがな。仮にこれが……第十二枝に関連した人物のものであれば、一日ごとにその追跡は困難になるぞ。特別な事情がない限り、少しでもはやくテルノ周辺を離れていくだろう」
「……分かった。朱鷺子にはオレが頼もう。嫌な顔はせんだろうが申し訳なくてな」
「いい後輩を持ったな」
「もしこの銃弾が、レギニータのものだとしたらどうする?」
 ミンタカのよく光る目に、パジェットは尋ねた。
「メルヴィにいつ、どう言う?」
「すぐに言う。判明した事実だけをな」
 すると、部屋の奥のスピーカーから短いハウリング。
 まもなくサイレンが鳴り渡った。

 宿舎の銃士たちが出払ったあと、メルヴィはそっと、敷地内のゲスト用の宿泊施設を出る。引きこもっていてはいけないと思うものの、銃士たちと顔を合わせる気になれなかった。
 銃士たちは、緊急時には命をかけて飛び出していく。メルヴィもかつてそうだった。現役の軍人だった頃と変わらぬ若さがあり、体力がある。それなのに、何も出来ない自分が歯がゆい。
 ミンタカの言うことは正しい。メルヴィには第七枝で武力をふるう権限がない。それでも何かできることがあるはずだ。第十二枝のためにも、第七枝のためにも。
 もう一度あの映像を見る。何かをつかめるはずだ。
 昨日の雨は早くも乾ききろうとしていた。陽射しは残酷なほど熱い。白い砂利が打たれた道と木立ち。あまりに濃い光陰の中、早くも全身に汗を浮かべながら、頭の中は静かでいようとする。静かに、考えを反芻する
 第十二枝の時の流れは、第七枝に比べ速い。第七枝の一年に対し、第十二枝では三年以上が経過する。
 建設中だった街路が完成していたとしても、おかしなことではないのだ。それを伝えなければいけない。
 昨日は混乱して、当たり前のことにさえ考えがいたらなかった。駄目だな。落ち着いた人間になれ。己に戒める。頭のいい人間になれなくても、落ち着いた人間にはなれるはず。
 覚悟あらたに顔を上げると、ゲートをくぐって歩いてくるプラガットが見えた。となりに補助輪つきの自転車に乗った、小さな女の子を連れている。その子の黒髪が透明に陽射しを反射してまぶしい。アガーシャという子だろう。
 数歩の距離をはさんでメルヴィと、プラガットは立ち止まる。アガーシャも。にこやかだったプラガットの笑顔が、メルヴィを見て消えていく。無表情になった。
「こんにちは」
 その無表情で挨拶した。
「ああ、こんにちは」
「お出かけ?」
「支部まで」
 そのまま歩いていこうとしたが、プラガットは宿舎を見上げ、メルヴィに問いかけた。
「妹さん?」
 視線の先にはメルヴィの部屋のテラスがあった。
「……なにが?」
「お花が植わっているわ。こないだまでは無かったもの」
 言われてみれば単純なことだが、メルヴィは不快だった。一方的に弱みを握られた気さえした。
「赤い色がすきなの? あんなにはっきりした赤が主役なのに、うるさすぎなくて、きれいな配色。いい趣味ね」
「あんたはどこに住んでるんだ?」
 すると、テラスの柵の向こうから、リネットが姿を現した。メルヴィを見つけ、それがそんなに嬉しいことなのか、身を乗り出して大声で呼んだ。
「お兄ちゃあん」
 手を振る。なにが「お兄ちゃあん」だ、いい歳して。
「だれ? お客さん?」
 片手をメガホンにして叫ぶ。メルヴィは叫び返した。
「なんでもない! 部屋にいろ!」
「なんで? あがってもらえばいいじゃない! そっちは暑いでしょう!」
 メルヴィは対応に困り、黙った。するとプラガットが前に出た。
「お邪魔して、よろしいのですか?」
「いいよ!」
 リネットは勝手に答えた。
「ごめんね、お兄ちゃんってば気がきかなくって!」
 放っておくわけにもいかず、仕方なく宿舎へ。扉を開けると広い円形のロビー。二階への階段が左右から延びている。
「普通に、部屋を借りて住んでるわ。民間人にまじって」
 プラガットは答える。リネットが、廊下の先から走ってきた。白いカチューシャで髪を後ろにまとめている。人を呼ぶなら、髪くらいもっとちゃんとすればよいのに。
「こんにちは。こっちよ、あがって。まあ、かわいらしい」
 プラガットの陰に隠れていたアガーシャが、はにかんだ笑みを浮かべた、
 リネットは二人を部屋に通した。
「はじめまして、こちらに間借りしているリネットです」
「第十二枝の方ですね。お話は伺っております。私はプラガット。この子はアガーシャ」
「あなたも儀礼銃士なの?」
「いいえ」
 プラガットが目を細めて笑う。
「DOLLsです」
 どうなることかと見守れば、リネットは言葉をとめて目を見開いた。胸の前で指を組み、改めてプラガットに身を乗り出した。
「すてき!」
 プラガットは虚をつかれた様子でリネットを目を見る。
「知ってるわ、 いちどお会いしたいと思ってたの。この子も?」
「……ええ。まだ訓練は受けていないけど」
 すがるように繋いでいた手を、アガーシャは、プラガットから放した。
「アガーシャっていうのね。暑かったでしょう。アイス食べる?」
「そんな、お構いなく」
「いいのよ、お兄ちゃんのだし。ね?」
 諦めてメルヴィは、二人の客人を座らせた。小さいアガーシャはテーブルに顎を載せる。そのテーブルに日が射して、置かれた紅茶のグラスが光をはね返す。目の前にアイスが置かれると、プラガットがスプーンとカップを持たせてやった。メルヴィは窓辺による。宿舎の外を通る人はいない。
「嬉しいです。私、こんなに初対面の人から歓迎されたのは初めてだから。ありがとう」
「ううん、全然。本当に会ってみたかったのよ。私、あんまり外に出ちゃ駄目だって言われてて」
「そのほうがいいわ。第十二枝から来たあなたたちは特別なの。好奇の目で見るだけじゃない人間がいます」
「そうね。やっぱ危ないのね」
 何を今更言い出すんだ。作りおきのポットの紅茶を飲み、念をおす。
「じゃあ、俺は行くからな。勝手に出歩くなよ」
「ねえ、あなた達とっても強いんでしょう?」
「聞いてんのか」
「並みの人間には負けません」
 振り向いたのはリネットではなく、プラガットのほうだった。
「メルヴィさん、ためしに私と腕相撲をしませんか?」
「はあ? 嫌だよ、なんで女の子とそんなことしなきゃいけないんだよ」
「言ったでしょう、並みの人間には負けないって」
「ああ、そう」
「気が乗らないの? それとも負けるのが怖いの?」
 苛立ちを抑えきれずに睨み付けると、プラガットはそれを柔らかな笑みで返した。目の中の悪戯っぽい光はそのままに。
 やればいいんだろう、やれば。
 メルヴィはプラガットの向かいに椅子を引き寄せ、だまって肘をついた。プラガットが華奢な手を繋ぐ。テーブルの上で。
 張りのあるみずみずしい質感も、手首の細さも、ただの女の子と変わりない。メルヴィは自分がしていることの馬鹿馬鹿しさにため息をついた。
 乗り気のリネットが立ち上がり、二人の手に自分の手をかぶせる。
 掛け声とともに、リネットが手をはなす。
 力をこめるより先に、手の甲がテーブルに叩きつけられた。
 一瞬だった。リネットが半ば呆然と様子を見下ろしている。
「駄目よ、ちゃんとしてくれないと。怪我をしてしまうわよ」
 プラガットが肘を立て直す。
「やり直しましょ、油断してたでしょう」
「……やり直してどうすんだ。もう気が済んだだろ」
 メルヴィは席を立つ。夏物の上着を羽織ると、出て行こうとする背中からDOLLsの声が追いかけてきた。
「あら、いいの? 十代の女の子に負けたままで」
 その声の楽しげな響きに、嘲りの色を感じ取った。
 苛立ちが怒りに変わり、結局メルヴィは席に戻った。
 肘をつく。手を組む。この女、腕をへし折ってやろうか。
 リネットの手の質感。
 いやいやいや、駄目だ。DOLLsは、戦いに出なければならない……自分と違って。相手は体が資本だ。
 そしてプラガットの手の感触は、リネットの手の感触とちがっていなかった。
 リネットが手を放す。今度はすぐにメルヴィも力をこめた。そのまま力が拮抗する。アガーシャも、リネットも、息を殺して見守っている。
 負荷が強まり、圧倒的な力を感じたそののちに、手の甲がテーブルに押し付けられた。
 勝負はまたもやプラガットにあった。
「あなた、まだ本気を出してないじゃない」
 それでもプラガットは、憤りさえこめてメルヴィに言った。
「あたりまえだろ、こっちは困ってんだよ! 負けたらお前は調子に乗るし、下手に勝って怪我させたらどうするんだよ。お前、くだらないことで怪我して実戦に出れるのか? そこんとこ考えてんだろうな」
「あら、まだ私に勝つ気でいるのね」
 肩に垂れてきた髪を払う。
「DOLLsは並みの人間には負けない。そう言ったでしょう?」
「勝手に言ってろよ」
「あなたは軍人だったそうだけど、最後に実戦に出たのはいつかしら」
 いつだろう。
 懐かしい記憶が、メルヴィをレギニータ人の意識に引き戻した。
 夜区間だ。
 懐かしい。あそこにはミナシキがいた。帯剣の王子が。
「それがなんだ」
 強く思えば、それがプラガットに漏れ伝わってしまう気がして、メルヴィは語気を強める。記憶を覆い隠そうと。
 それにしても、たった一年で何故こんなにも懐かしいのだろう。
 それでいて夜区間の暗さ、複雑な町並み、制圧戦、倒れていった部下たち、麻酔銃、牢、エグバート、ミナシキとの会話と笑みが、色あせずに残っているのは何故。不名誉な記憶のはずなのに、不愉快ではないのは何故。
「お前には関係ない、ほっといてくれ!」
「ごめんなさい。そんなに怒るとは思わなかったわ。ただいつなんだろう、って思って……」
「レギニータのことであんたなんかに話すことはない」
「じゃあ、やっぱり」とプラガット。「一年以上体を使っていないのね。勿体ないわ。なまってしまっているんじゃないかしら」
「何が言いたいんだ」
「安心して欲しいの。やっぱりあなたは、私に勝ったり怪我させる心配はないって」
 メルヴィは、自分がまたプラガットのペースに巻きこまれつつあるのを感じた。
「それとも、本気を出したのに負けるのが怖い? 賢明な判断だわ」
 プラガットの言う通りかもしれない。きっとそうだ。腕力ではDOLLsに勝てない。冷静になれ、出掛けに自分に言い聞かせていたように。冷静に。煽りに乗る必要はない。
 そうだ、俺がしたいのはこの女の相手じゃない。何も話したくない。こいつは過去に、記憶に、レギニータに踏みこんでくる。
「やっぱりあんたらは化け物だな」
 プラガットの笑みが凍る。
「……何ですって? 化け物?」
「ああ、そうさ。あんたらは人間じゃないんだ」
 その白い頬が紅潮し、瞳が震える。
「……言いすぎだわ。たしかに私たちは力が強いけど、化け物だなんて」
「人間なら、どうしてわざわざ人間を見下すような真似をするんだ。人間に恥をかかせたり煽ったりして何が楽しいんだよ!」
「それは!」
 プラガットは身を乗り出し、首をふる。
「ただ……ちょっとからかってみただけじゃない! 私が失礼だったわ、ごめんなさい。だけどそこまで言うことは」
「謝って満足かよ。素直なふりして、俺があんたに謝らなきゃ俺が悪者って算段だな。じゃあ別に人間をじゃなくて、この俺を挑発してたってわけか」
「挑発だなんて……」血の気が引き、今度は青ざめる。「ごめんなさい、そうよ。だけど……」
「だったら出てってくれ、招いた相手にこんな振る舞いをされたら不愉快だ!」
 メルヴィは立ち上がり、プラガットを見下ろす。硬直したようにじっと目を伏せている。
 リネットは後ろにいて、黙っているが落ち着かない。
「俺は謝らないぞ」
 状況が動かない。メルヴィは重ねて言う。
「出て行かないか? 暴力をふるえば居座れるだろうがな。お前のほうが強いんだろ」
「……いいえ、出て行きます。理性がありますから。化け物じゃないわ」
 更なる侮辱を受けることへの恐れと悔しさで、プラガットの体は小刻みに震えていた。
「行くわよ、アガーシャ。ごめんなさいね、リネットさん。お邪魔しました」
 リネットを振り向くと、生気のない顔で首を横に振るだけだった。何もいえない気持ちは分かるが、彼女は何かを言うべきだ。何か? 自分だったら何が言える?
 アガーシャが思い切った様子でメルヴィを振り向いた。
「おにいちゃん。おにいちゃんはお姉ちゃんのことが嫌いなの?」
 その問いかけを受け止められず、強張った表情で見下ろしていると。
 大音量のサイレンが鳴った。

《った。眠る幼いわが子の輪郭に、豆電球の赤い光がまとわりついている。長谷部は息子を愛おしく思った。この子には、もうひとつの名がある。武雄、忘れるな。布団をかけ直してやりながらやりながら念じた。武雄、もうひとつの名を忘れるな、俺が隠した名を。
 初夏の長雨は、いまだ降り止む気配を見せない。
 雨が永遠に、門も戸口も閉ざしてくれればいい。雨を言い訳にいつまでも出立を引き伸ばせられたらいい。
 長谷部は立ち上がる。夜の音が鳴っている。頭の後ろの高いところから変わらず聞こえてくる。
 調》

 何度もおなじ文章を読んでいた。淑恵はそれに気付く。何度も読んでいたにしては内容が頭に残っていなかった。
 第一枝のことが書かれていると、どうしても生まれた町を思い出してしまう。あの家を。
 蝉が叫んでいる。
 部屋の中は暑い。座卓の下で正座を解くと、太腿とふくらはぎの裏側が汗で湿っていた。茶のグラスをつかむ。氷がとけきってぬるい。喉に流しこんだ。本にしおりを差し閉じる。
『オルガン国(オルガレータ)へようこそ』
 聞いたこともない小さな出版社からでたこの本は、一言でかたれば、ひどく漠然としている。ひとつひとつの場面の書きこみは実に素晴らしいものだ。美しく、幻想的で、強烈な存在感がある。登場人物の一人ひとりにも目的と意志があり、それに基づいた行動をとっている。
 しかし内容を言えとなると、何とも言えないのだ。
 全体的な話の流れが見えてこない。どれもこれもが断章めいて、つかみどころがない。
 ただ異世界がある。物語ではなく、異世界がたしかにある。恐らく小幡千賀子という作家は、物語ではなく異世界のために本を書いたのだろう。登場人物はその異世界にいるからという理由で書かれているにすぎない。物語はさらに、登場人物に付随するおまけのようなものだ。
 はじめの章の主人公は、名前すら書かれていなかった。
 夜が続く荒廃した町で、記憶をなくしたひとりの少女が軟禁同然の扱いを受けて暮らしている。高い塔に住む彼女は、かつて町を取り巻く海の彼方から、小舟にのって流されてきた。
 夜の町と呼ばれるその町は、四方を海に囲まれ孤立している。少女に記憶はなかった。しかし少女の存在は町に不要な希望をもたらした。海の先に新たな陸地がある。そう信じた町の人々は、船を作って町から海へ乗り出し、二度と帰ってこなかった。
 ある日少女は、町の若い長に呼ばれて旅立ちを命じられる。町の荒廃はすでに修復不能の域に達している。この町の掟に染まらぬ君よ、この夜を血にとりこまぬ君よ、どうかいま一度外への扉を開いてくれまいか。
 少女は旅に出る。塔から見下ろしていた裏の浜辺に船が用意されているという。彼女は町を縫い、歩く。しかし歩めども歩めども、裏の浜辺にたどりつけない。
 町はどこまでも続き、入れ替わり立ちかわり同じ人間が現れては彼女を責めたてる。
 まだこんなところに居たのか。いつ海に出るのだ。
 海への到達を願いつづける彼女は、ある時、町の人たちが口を使わずに語りかけてきていると気付く。
 彼らはみな死んでいるのだ。その肉体から言葉がほどけて自分にとどくのだ。そう、人間の体は言葉でできていたのだ。
 二つめの章では、この世界が大きなオルガンの内部であることが語られる。一つめの章の世界はオルガン内部の部品のひとつであり、ひとつひとつの部品が持つ死者の言葉が、オルガンの音を作っていることが明かされる。
 主人公は事故で元夫との間の娘を亡くした女。元夫はちがう女と家庭を持ち、娘を作っていた。錯乱した女はその娘を自分の娘と思いこみ、入学式の日に誘拐を決行する。しかし彼女は元夫の娘もろとも、列車に轢かれて命をおとす。
 女はオルガン内部で目覚め、娘から零れ落ちてしまった『言葉』を探しさまよう。それを娘にあてがえば、生き返るとばかりに。女はオルガン内部に溢れる言葉を、記憶を、娘の体に流しこもうとする。しかしそれは、言葉=死者の肉体がかたちづくるオルガンの和音を乱す行為であり、不協和音で満たされた世界に蟲が呼び集められる。
 そして三つめの話で唐突に、第一枝が舞台となる。少なくとも第一枝に見える世界だ。連邦。淑恵の故郷。場違いなほど生々しい連邦の空気が、本の中に書き表されている。
 それは淑恵の心をかき乱す。
 表紙から手を放した。立ち上がる。異世界は紙の世界に閉じこめられた。淑恵は現実、現在に立つ。もうじき昼だ、何か食べなければならない。
 立ち上がると庭が見える。狭い庭だ。両親が他界して以来花も草も植えていない。その片隅にトリスの骨壷が埋められ、土が高く盛られている。
『あんたは優しいな』
 火葬業者の男は言った。
『こちらは商売あがったりでね。近頃じゃあ、動物のためにこうした金をかけようって人間が減って。これが時代なのかね』
 ラジオをひねる。すぐにニュースが流れ出す。
〈……でした。続いてのニュースです。また、動物の死体が公園にまかれる事件が起きました〉
 ラジオを切る。
 思いを振り切ろうと向いた窓の外で、避難サイレンが鳴り響く。

 ―6―

『――さい。西部郊外十一キロ地点にて蟲の姿が確認されました。市民の方は至急地下間道へと退避してください』

 路地は混雑している。間道への扉の管理者たちが声を張り上げている。
 誰も居なくなった大通りにアナウンスが響く。行谷は単車を駆っていた。背には儀礼銃。無線から流れる音声が尾をひく。
『こちら行谷です、聞こえますか』
 下り坂のカーブを曲がりながら、行谷は無線に問いかける。建物の影が落ち、暗くなる。
『こちら行谷すずな、支部局長の指示により西部郊外に向かっています、どうぞ』
『こちらパジェット・リゼキ、了解』
『パジェットさんはどこですか、どうぞ!』
『現在支部の警邏車両にて西部郊外に向かっている。お前面接じゃなかったのか?』
『飛び出してきました』
『よし! 北西と南西からの挟撃だ、気を引きしめて来い』
『はい』
 パジェットの張り詰めた声が緊張を高める。彼の家は、西部郊外からそう離れていない南部にある。
 それにしても、何故ここまでの接近を許してしまったのだろう。前回もそうだった。町がおかしなことになっている。なにか、とても悪いことが起きているに違いない。
『こちら工藤朱鷺子、現在地中部北区十七番街、支部局長指示により北駐屯地の銃士隊と合流を目指します、どうぞ!』
 銃士たちの応答。次のカーブ。影を抜ける。燦燦たる大通りの太陽。ふきだす汗。
『なんとしても奴らを食い止めてくれ! 絶対に市街戦に持ちこませるな!』
 うわずって震える、ギル・カク支部局長の声だった。
 西門を専用通路から突破。
 照りつける太陽の下、丘の向こうに火が上がる。爆炎につつまれた蟲が墜死していく。そうして草地が燃え上がる。行谷は坂を下りきると、民家に単車を立てかけた。背負った儀礼銃、『紫淳(しじゅん)』を両手にさげる。
 正面上空から、八つの黒い点が住居群に向かって来る。結界塔の砲撃。小さな八つの点は二手に分かれてそれを退避。砲弾は住居群の間近に着弾した。
 四つの点が凄まじい速さで大きさを増してくる。
 行谷は住居密集地から飛び出した。
 民家のレンガ塀に紫淳の銃身を預ける。まだ連中は行谷に気付いていない。市街地に突入しようとしているのだ。
 狙いを定める。
 なんてこと。
 橙と黒の、蜂の腹。
 あんなものが、市街を、狙って、なぜ、とても、ひどいことに、
 撃った。
 肩にかかる反動。
 甲高い音波に包まれて、蟲どもが姿勢をもち崩す。銃弾は一体に的中。火力は低いが、紫淳は撃ち出す銃弾に呪詛の霊子をこめている。銃弾を受けたその蜂は呪詛に冒され、墜落。あとの三体が体勢を立て直す。
 みつかった。
 スコープ無しでもそれが蜂とわかる位置まで、もう来ている。
 逃げたほうが、いいや、後ろには市街がある。今身を隠してはいけない。
 撃て!
 二撃めは外した。
 代わりに別方向から火球が撃ち上げられ、蜂の一体を貫いた。大きな火球は分裂し、あとの二体に降り注ぐ。
 一体がその火球を浴びて墜ち、もう一体は進路を変えてかわした。急激に高度を落とし、姿を見うしなう。
「行谷!」
 思わぬほど近くから呼ばれた。ナガレの弾が飛んできたほうへ走る。民家の陰にパジェットが身を隠していた。
 再会の言葉を交わす間もなく、低い蜂の羽音が頭上に迫ってくる。パジェットが無言でナガレのレバーを握る、その音。滅多にお目にかかることのない第一枝のものだ。第七枝の儀礼銃は、撃ちだす弾に神霊の力がこめられる。パジェットのものは違う。奪った命が蓄積されて、炎となり発射される。
 不意に、蟲の羽音におさない悲鳴が加わった。
 視界に現れた蜂が屋根屋根を越えて急上昇。
 より一層の恐怖の叫びが、ともに舞い上がった。
「子供が!」
 蜂の腹に抱かれていた。
 隣のパジェットが、ナガレの筒を向けたまま硬直する。
 蜂は勝ち誇ったように家々を睥睨する。パジェットにどうにもできないことを、また行谷に決められるはずもなかった。
「撃たないで!」
 そのパジェットの背に女がぶつかった。服は泥だらけで、すがりつくようにピクニック用のバスケットを、腕に抱えていた。走り続けていたようで息を切らし、しかし、はっきりと強い口調で言った。
「お願い! あの子を撃たないで! どうか!」
 蜂が急降下。行谷と、女の手をつかんだパジェットは路地に逃げる。
 蜂は子供を抱いたまま着陸、すぐ離陸。その時腹で子供をすりつぶした。叫ばなくなった子供が路上に残る。砕けたむき出しの肋骨が、天を向いていた。
 その蜂の後ろ姿を、赤い火炎の掃射が追う。
 子供のかたわらにコルクサンダルの細い脚が降り立った。翻る赤いスカート、黒い髪。R.R.E.の明るい青をした瞳が、振り向く蟲をとらえた。
 更なる掃射。
 蜂が墜ち、R.R.E.は立つ。我を失った女が狂ったように叫んでいる。胸の小型無線機も叫んでいる。その忌まわしい報告を、いち早く冷静さを取り戻したパジェットが受けた。
 北部郊外の結界塔が破壊された。

 テルノ市を守護する結界塔は、東西南北の四本のみである。郊外からそれぞれ十キロの位置に立つその塔は、蟲の侵入を阻む結界を作り出すとともに、テルノ市に近付く蟲があればいち早く知らせる監視塔でもある。はずだった。
 北部郊外の市民たちはあらかた、地下壕から市街地へと避難をすませていた。少数の男や若者たちが消防のために残っていたが、結界塔破壊の知らせを受けて退避を余儀なくされた。
 結界塔は破壊されるまで、真北からの襲撃を知らせなかった。
 原因を詮索している余裕はない。
「おいばあさん! ばあさん! いるか!」
 医院の塀の向こうから、男が庭に声を投げてきた。
「いるよ! もうすぐ開くさ! あんたこそさっさとお行き!」
 主婦が猫を呼んでいる。男が彼女を叱りつける声。強引につれていく。
「ネーリ!」
 庭でシキが呼んだ。バールを持つ彼の横では、地下壕へ続く赤錆の蓋が持ち上がっている。ネーリはほっと息をつく。
 患者や老いた自分が防空壕まで走りきることは厳しい。そう見越して作ったものだ。だが長らくの平穏は、その整備を忘れさせた。この男がいてよかった。シキが赤錆と土に濡れた手で、額の汗をぬぐう。
 先に下りるようにと、シキが催促する。明かりひとつを手に真っ暗な階段をおりていくと、不意に頭上が暗くなった。
「シキ! 何をしているんだい!」
 シキは庭に片膝をつき、下ろしかけた蓋を片手で支えながら、開いた腕で地下壕の先を指差した。行けと言っているのだ。
「ばか言うな、お前もくるんだよ!」
 言葉が通じておらずとも、言いたいこと伝わるようで、シキは目に強い光を湛えたまま首を左右に振った。とても言うことを聞きそうになかった。
「病人になにが出来る」
 黙って見返している。結界塔が破られたなら、居住区に押し寄せる蟲の数も力も今までの比ではない。そのことを、シキとて分かっていないはずがないのだ。
「分かった、もう止めやしないよ。シキ!」
 閉ざされようとしていた蓋がまた、止まる。
「かならず来るんだよ!」
 ミナシキは言わんとすることを察知して、完全に蓋を下ろした。その蓋を土で覆い隠すと、医院を出た。
 手には布を巻いた棒。足早に無人の家々を縫い歩きながら、布をほどいていく。現れるサーベル。
 町は暑かった。暑けれど、風は吹き、土ぼこりは踊る。銃士隊は間に合うまい。
 ミナシキは、異文化の教会の外階段に足をかける。一番高い建物がそれだった。屋上に立つ。石床と低い柵。眼下には、前回の襲撃で運悪く崩れたり、煙に炙られた建物群。空には黒い粒のような、蟲たちの大群。
 その後ろでは、丘を燃やしてヒトと蟲とが戦っている。
 西部の奴らは陽動だ。空に広がる蟲たちの数は、二十や三十ではきかない。これだけの軍勢をどこから送りこんできたか。テルノを叩き潰す気か。
『何をしに来た!』
 ミナシキはその思いを、蟲の飛行隊に投げつけた。レギニータで会った雄の斑猫の面影を、その思念に混ぜて。効果はあった。蟲たちがたじろぐ。三角形の編隊を乱さぬまま、ミナシキを見下ろし静止した。サーベルを提げ、屋上の縁へと歩み寄る。
 ああ、いまの俺と会話が出来るのは、あんな奴らだけか。
 二頭の蜂兵が、ミナシキの周りをゆっくりと旋回する。それから先頭の、一際大きな蜂が進み出て、見下ろした。
『まさかとは思うが』
 その蜂をミナシキは見返す。背後には二頭の蜂。
『いま我々に呼びかけたのは貴様か』
『そうだ』
 蟲たちの間に動揺が広がる。それはすぐに収束した。
『ヒトなのか? ただのヒトに我々の言葉が解せるはずがない』
『蟲どもめ、俺は人間だ。聞いたことはないか、言葉を解するヒトの噂を』
 再びどよめき。ミナシキは蜂のリーダーから目をそらさず言った。
『出て行ってはくれまいか。この町を焼き払われてしまっては困る』
『ただで出ていくことは出来ん。貴様は何者だ。ただの人間に我々の言葉を解せるはずがない』
 ミナシキは答えない。答えられない。
『……町を焼き払われたくなくば、囚われた仲間たちの居所を教えろ』
 高度を下げ、体を迫らせる。
『我々の目的はそれだ。同胞たちをどこに捕らえた』
『囚われた? そのような蟲はいない。捕らえるくらいなら、殺している』
『白を切るつもりか?』
 太い針の先を出し、ミナシキに見せ付けた。
『今ここで言わぬのならば、それでもよい。下賎な生物め。ただ我々は人間をいたぶることに慣れておらん。分かるな』
『どのような尋問にかけようとも、貴様らに俺を傷つけることはできない。やめておけ。俺の生命を脅かせば貴様らが消え去ることになるぞ』
 蜂のリーダーは低い声で笑った。
『わけの分からぬことを!』
『聞け。貴様らはつくりものだ。俺は異次元の掟により蟲どもから守られている。蟲に対して、俺が存在しようとする力のほうが強いということだ』
 サーベルの柄から右手をはなした。
『おまえたちは俺の体に傷ひとつ与えられない。剣は抜かん。銃もない。俺に触れられると言うならやってみろ!』
『よかろう! 構わん、やれ!』
 散らばる蟲。敵意の矢が一斉にミナシキに向けられた。人間への謗り、罵倒、恨み憎しみ、そして嗜虐心。弱者を一方的に踏み躙る喜びと、その喜びへの予感。そうした感情が言葉にならぬまま、頭の中になだれこんでくる。
 その中から、人の声が聞こえた。
 ミナシキは隣の建物を振り向く。
 とたんに蟲たちが襲いかかった。
 自分に声かけた人間を、少し低い建物の窓の向こうに見た。逃げろと言ったのだろう。若い女の儀礼銃士だった。
 銃を構えている。顔はひきつり、しかし両目に覚悟の光がある。目があった。リーダーを先頭に迫る蜂たちが、ミナシキを押し倒そうとした。
 その体が触れる直前、蜂は姿を消した。
 二体、三体、四、五、六体、ミナシキを取り巻き、吸いこまれるように消えていく。ミナシキは目を閉じる。風ひとつ起きなかった。羽音がやかましかった。取り巻く気配が混乱に、恐怖に変わる。最後の一群は逃げようとした。その思念が伝わった。
 羽音が完全に消える。
 目を開ける。もう蜂たちはいなかった。
 視線をそのまま隣の建物へ。女の銃士が変わらずいた。銃を向け、目も口も大きく開き、ミナシキを見つめている。
 その様子がおかしくて、ミナシキは微笑む。
 銃士は身を引いた。ミナシキは身を翻す。教会の外階段を、下りる。今度は人間たちから身を隠すため、郊外を急ぐ。

 北部の結界塔が倒壊後、間もなく東部より二十キロ地点に蟲の中隊が発見された。
 南部の結界塔が襲撃を受けているという報も、その直後に舞いこんだ。
 蟲たちはまるで知らぬ間に、テルノを囲いこんでいたのだ。
 なぜ気付けなかったんだ。そして何故テルノ市なんだ。なぜこんな田舎の、何もない町に来た。オレの家族がいる町に!
 男の悲鳴。路地を駆る足を止めた。蟲の姿とともに、悲鳴が空高く舞い上がる。まだ逃げ遅れた民間人がいたのか。よりによってこんな天気のいい、ピクニック日和に、何故。
 天気がいいのが悪いのか? ピクニックに出かけたのが悪いのか? 彼らが町に帰るのを待たずに閉じた地下道入り口が悪いのか?
 どれも違う。あの男は、誰かの父かもしれぬあの男は、今から死ぬ。何も悪くはないけれど、ナガレに焼かれて今死ぬのだ。
 パジェットは自分を殺す。心を殺して銃を空へ。撃った。蟲は民間人ごと飛散した。
 蟲どもはとどまることなく郊外に押し寄せた。最前線からの通信は絶えている。全滅はしていないはずだ。通信手段を絶たれ孤立しているに違いない。
 見方の士気は最低だ。蟲たちはいつこんな戦い方を身につけたのだ。ガロエとサーリヤは逃げたか。あんなふうに連れ去られていないか、撃たれていないか、無残に死んでいないか!
 焦燥を怒りに変えて、パジェットは天に吼えた。
 最前線の兵士・銃士たちは、この郊外まで押しやられていた。結界塔が生きている限り、蟲たちは結界内部で本来の力をふるうことは出来ない。それでも苦戦を強いられている。西の結界の力が消え、高い士気と活力を得た蟲たちが流れこんできたら――二度と生きて家族に会うことはない。
 後退してきた兵士の一群が、民家に身を隠す。どこからそれを見ていたのか、蜂たちが群がり針を降らせた。家は兵士たちを下敷きに、あえなく崩壊する。
 その蜂をまとめて射落とせる位置へと、パジェットは走った。
 下半身をつぶされた兵士を抱え、蜂が空へ。痛みのためか恐怖のためか、耳をふさぎたくなる凄まじい声を撒き散らす。その蜂が向かってくる。
 蜂に背を向け、儀礼銃を抱えて逃げてくる行谷がいた。
「行谷ィ!」
 怯えて立ち止まる行谷をよそに、パジェットは蜂を撃った。兵士にもそれは見えていたようだった。やめてくれ、と叫んだ。紅蓮の炎はその声ごと焼き尽くす。行谷が悲鳴をあげて、地面にうずくまった。
「何やってんだ行谷! おい! 立て! 顔をあげろ!」
「できません!」
 行谷はうずくまったまま、激しく頭を振った。
「いやです! 私には撃てません!」
「行谷、一度さらわれた人間は何をやっても助からないんだ! 奴らはどのみち人間を殺すんだ! 撃っても撃たなくても!」
「いやだ――」
「撃て」
「撃てません」
「撃て! 師団長指令だ、指令が出てるんだよ! オレたちは銃士だろうが!」
「私は」震えながら、行谷はその言葉を拒んだ。「助けを求めてる人なんて殺せない!」
「殺さなきゃいけねぇんだ」
 このままでいたら、行谷も自分も死ぬ。
 パジェットは自制を振りほどき、行谷の胸倉をつかんで強引に膝立ちにさせた。
「殺せ!! 今やらねぇと、この先十人百人が死ぬことになるんだよ!」
 行谷はうめき、苦しさに顔をしかめた。
 羽音が近い。パジェットは手を放した。行谷が地面に手を突く。銃口を上げたパジェットはしかし、蟲が市街と反対方向に去ってゆくのを見た。
 追って走る。
 蟲たちが青い空へと引き上げていくのを郊外のはずれで見た。
 原因は分からなかった。戻ってくる蟲はなかった。

 現れたときと同じ唐突さで、蟲たちは撤退した。

 ―7―

「ガロエ!」
 薄暮の町は血の臭いに沈んでいた。南部の体育施設の戸を、パジェットは開け放つ。自由を得、ようやく駆けつけることが出来た。息を切らし、吊り上げた目は殺気を放っている。
 広い体育館の内部は白布で区切られていた。まだ生きている人間たちは、ここに集められているはずだ。……それも怪しいもんだ、所狭しと並べられた仮設寝台と、その上の微動だにせぬ人体を見ていれば。
 怯えた、もしくは無感動な目で数名がパジェットを振り向く。振り向かぬものは、それよりさらに無感動な顔をしている。
「パパ!」
 幼いサーリヤが答えた。チェーレンがサーリヤを膝に抱き、隅のベンチで身を小さくしていた。サーリヤが懸命に走ってくる。パジェットは両腕を広げて、力強く抱きしめた。娘のなま温かな息が、首筋にかかった。鼓動の早さが手に伝わってくる。この小さな体の中で、心臓は必死に血を送り、生きている。生きて、心は父親を求めていたのだ。そのままパジェットはサーリヤを放さなかった。
 今日、蟲にさらわれて地面に落とされたり、押し潰されたりしたのがサーリヤでも、何もおかしくはなかった。助けに来てくれたはずの儀礼銃士に撃ち殺されたのがサーリヤでも、おかしくなかったのだ。
 チェーレンが歩み寄り、目の前にしゃがんだ。それでパジェットは腕の力を抜いて顔を上げた。言葉が出てこなかった。ただチェーレンに頭を下げ、礼より先に尋ねた。
「ガロエは……」
 チェーレンが黙って体育館の中を顎で差す。
 その先に寝台があった。白布が人間の形に盛り上がり、血が真っ赤に滲んでいる。
 思考力が飛んだ。ガロエ。寝台の人間は顔にも白布をかぶせられており、その下からガロエと同じ長い黒髪が垂れている。
 ガロエが。
 鼓動さえ止まったような時間。永遠にさえ感じられた。それは実際には短い時間で、チェーレンが顎を差した方向から本物のガロエが現れた。
 ガロエは生きていた。怪我ひとつなかった。凍っていた血流がいっきに巡りだす。立ち上がったパジェットに、ガロエが駆け寄った。細い体でぶつかるのを、パジェットは受け止め抱きしめた。
「心配したぞ、ガロエ!」
「ええ。私も。銃士が何名も亡くなったと聞いたわ。それきり情報が来なくて」
「すまねえな、すぐに来れなかった」
「お父さんの工房が焼けてしまったの! 私たちの家もきっと……」
 チェーレンを見た。チェーレンは目をそらす。
「……そういえばメリシカは? ヨナンが朝来て、そっちに行くと」
「ヨナンとははぐれた」
 呟くように答える。
「メリシカは使いに出していた。それを探しに行った……」
 外から悲鳴が聞こえた。腕の中のガロエの体が、引き攣るように震える。
「メリシカだわ」
 背を撫でながら、顔を覗きこんだ。
「悲鳴で分かるのか?」
「ええ、メリシカよ。外は遺体安置所だわ」
 悲鳴は続く。泣き叫んでいるのだ。ガロエとサーリヤを再びチェーレンに任せ、体育館を出る。
 グラウンドは支柱とテントで目隠しされていた。悲鳴が絶える。中央の列の先で、倒れこむ女とそれを支える警官の姿が見えた。
 倒れたのは、気を失ったメリシカだった。
「ご遺族の方ですか?」
「関係者だ」
 儀礼銃士の肩章をつけたままのパジェットを、警官は冷たい目で見た。
「……その子の雇い主の親類ですよ。この遺体はヨナン・ヨルのものだろう。個人的な知り合いだ」
「証明できるものはありますか?」
「死人に訊けばいい」
 メリシカは運び出された。遺体たちは、布を敷いたグラウンドに直接横たえられている。警官に制止させる暇も与えず、遺体を覆う布をめくった。
 遺体は小さかった。
 腰から下がなかった。残された服や体つきで、ヨナンだと分かった。
 鼻から上もなかった。下側の歯列が剥き出しになっている。舌が硬直した棒のようになって、その歯列から僅かに浮いている。
 この青年の控えめな笑顔をみることは永遠にないのだ。もう二度と。
 短い黙祷を捧げ、布をもとに戻す。

 行谷は、支部局の裏であたまを抱えていた。

 北部郊外は炎にみまわれた。

 南部・西部郊外ともに、救助と遺体の収容は深夜になっても終わらなかった。

 深夜に電話が鳴る。淑恵はおびえて目を開ける。悪夢から這い出たおそろしい女が、天井一面に張りついているのが一瞬見えた。だがそんなはずはなかった。
 電話はまだ鳴っている。薄い夏蒲団をはがし、床に素足を下ろす。熱帯夜を吸いこんだ床は、足の裏を汗ばませて鬱陶しい。
「……はい、水城です」
「淑恵さん?」
 眠気もおびえも飛んだ。
「私だよ、朱鷺子だよ! 大丈夫だったの?」
「朱鷺子さん! わたしは大丈夫、朱鷺子さんこそ!」
「うん、私は……平気。ごめんね、こんな時間に」
「いいの、朱鷺子さんが無事だったならいいの! 行谷さんは?」
「……怪我はないよ」
「よかった」
「淑恵さん」
 朱鷺子の声はずっと固いままだ。
「私、緊急の用事で首都に行かなきゃいけないの。一日で戻るけど、だから、淑恵さんのほうには行けない。ごめんね」
「首都へ? ……分かった」
 淑恵にそれを止めることなど出来ず、了解するしかなかった。
「どうか、気をつけてね」
「淑恵さんも。いい? 市街から出ちゃ駄目だよ」
「うん」
 互いに別れを告げた。朱鷺子が先に受話器を置いた。気配が消える。淑恵もまた、名残惜しく受話器を置いた。
 夏の空は夜でも快晴で、リビングが明るい。月の明かりではない。生きている人間のための街灯で、生きている人間たちが、いそがしく走り回っているのだ。その声はやまない。
 座卓に本が置かれたまま。
 淑恵は吸い寄せられるように、歩み寄り本を撫でる。――『オルガン国へようこそ』。

《った。眠る幼いわが子の輪郭に、豆電球の赤い光がまとわりついている。長谷部は息子を愛おしく思った。この子には、もうひとつの名がある。武雄、忘れるな。布団をかけ直してやりながらやりながら念じた。武雄、もうひとつの名を忘れるな、俺が隠した名を。
 初夏の長雨は、いまだ降り止む気配を見せない。
 雨が永遠に、門も戸口も閉ざしてくれればいい。雨を言い訳にいつまでも出立を引き伸ばせられたらいい。
 長谷部は立ち上がる。夜の音が鳴っている。頭の後ろの高いところから変わらず聞こえてくる。
 調律をせねば。
 道は血でぬかるんでいた。道路標識が血をかぶり、学童が書いた板塀のポスターが、血を吸いこんでいる。この深夜だというのに、家々の窓はみな明るくどれも静まり返っている。人々はみな声をひそめ、真剣な話をしているのだ。
 道の向こうを人が歩いてきた。
 それは街灯の下で止まる。
 右手にはブーメランを提げたままだった。白い頬に生気はなく、血の赤だけが鮮やかだ。穏やかな目をしている。
「武雄くんは亡くなりました」
 青年は告げた。長谷部は自分から彼に歩み寄ろうとしなかった。彼は言葉を待っている。許しを待っている。
「君は、また子供を殺したのか」
「いいえ」
 長谷部は歩き出した。彼のためではなく、おのれが先へ進むために。
 すれ違うときも、青年は無言のままでいた。
「きみも長くないな」
 振り向いた。結われた長い髪が、背中に垂れていた。》

 暗闇で先に立ち、ミナシキはネーリを医院へ連れて行く。道は荒れて歩きにくく、時折手をかしてやった。
 医院は黒かった。煤にまみれている。明かりのない医院と住居を、二人は並んでただ見上げた。
 ネーリが指で壁を撫でる。月の下、指は黒く染まっていた。
 ミナシキが中に入ろうとすると、ネーリは腕をつかみ止めた。
 駄目だと言った。それが禁止を意味する言葉だと、ミナシキは知っている。ミナシキは乱暴にならぬよう、そっとネーリの手をつかみ返し、腕を放させた。ネーリはため息をつく。
 市街を振り向き、指差した。市街の丘一面が明るい。ネーリがしゃべる。避難所に必ず帰って来いと言いたいのだろう。
 ミナシキは頷き、ネーリを一人で帰させる。医院の戸をあけた。住居へ、屋根裏へ。
 中に損害はなかった。
 ギターを抱えベッドへ。座りこみギターを構える。
 和音を鳴らしてみても、何も弾きたい曲はなかった。ただ適当にかき鳴らす。コードのためのコードを。アルペジオのためのアルペジオを。即興のメロディを。
 ギターの音色に意識を集中する。弾き続けたければ止まってはいけない。次にかき鳴らすべき音を考えている暇などない。
 頭の中が澄んでくる。病さえ癒えてゆく気がする。ギターのことは体に任せ、ミナシキは考える。
 捕らえられた仲間がいると蟲は言った。本当ならばこの田舎町ではもっと話題になっていてもいい。言葉が通じぬからとて町の動向に無関心でいるわけじゃない。それらしい噂は何も耳にしていない。
 捕らえられていると思ったなら、奴らは蟲の声を聞いたのだろう。いつ?
 前回……前回の襲撃でも、俺は蟲を消した。そのことを蟲どもが知るはずがない。消滅した蟲には消滅を知らせる手立てすらないのだから。
 奴らが聞いた蟲の声とは、知らずに漏れた俺の声ではないか? あまりに遠いから正しく聞き取れず、仲間の声だと思ったんじゃないか? まして仲間が不自然に姿を消した場所から、そんな声が聞こえたら……仲間が捕らえられたと誤解することは十分にあり得る。
 では前回俺が蟲どもを消したから、この町は強襲されたのか?
 指が止まる。
 頭は冷え冷えとしている。意識は鋭い。暗闇にらんらんと目を光らせて、ミナシキはそのまま静止する。
 ギターを置いた。かわりに傍らに投げ出したサーベルを手繰り寄せた。
「キセリタ」
 黙って待っても、サーベルは返事をしない。いつもの期待は今日も裏切られる。
「俺は間違ったことを……?」
 キセリタは、もはや本当にここにいないのかもしれない。俺は何をしているのだ。サーベルの柄に額をつけ、ミナシキは押し黙る。居もしない相手に話しかけているのなら、俺は愚か者だ。答えないと分かっているものに話しかけて何を得たいのだろう。
 立ち上がる。知らなければならなかった。この町が受けた被害を、見なければならないのだ。

『パジェットさん! 私、今すぐ話したいことがあるの』
 パジェットは銃士協会の宿舎の天井に、二つの目を向けていた。
『他の人じゃ駄目、二人で話したいの。聞いて』
 蟲を消した人間がいるの。
 朱鷺子は言った。
『本当なの。私、見た。若い男の人が消しちゃったの。あの部隊が消えたから蟲どもは撤退したんだよ!』
 そんな朱鷺子の報告を受け止めかねるとともに、今日身をおいた様々な場面が脳裏を行き来して、眠ることができない。とりわけ蟲が人質を取るなど、これまで考えられもしなかったことだ。
 同じことが各地で起こるに違いない。
 家族たちは儀礼銃士を憎むだろう。銃士たちは深い傷を負う。
 あいつらは人を助けられなかった。あまつさえ殺したと。
 助けられなかった。
 パジェットは寝返りを打ち、目を閉じる。
 ヨナンは死んだ。もはや彼に苦悩はない。死でしか解き放たれえぬ苦悩ではなかった。子供が欲しいといった。もうそれは叶わない。
 パジェットも若ければ、こんな時はいつまでも酒を飲んでいただろう。ただおし黙って酒をのみあえるいい相棒がいた。
 識なら儀礼銃を向けられただろうか。向けたに違いない。識がいなくてよかった。今ならそう思える。あいつがこんな事で傷つかなくてよかった。
 眠らなければ。明日は朝一番で集会だ。
 深い息を吐き出したとき、とんでもないことを思い出してパジェットは飛び起きた。
「識!」
 本は!
 今までずっと忘れていた。識の本はどうなったのだ。
 やがて月が照らす宿舎の庭を、パジェットの姿が駆け抜ける。
 駐車場においたままの自宅の車に飛び乗る。明るい大通りを南部郊外へ走る。
 門の前に車を停めた。郊外の家々は無残に崩れ去っていた。ぶどう畑の坂を一直線に駆け下りる。
 捜索隊は引き上げたらしく、なんの明かりもなかった。
 瓦礫と月影の闇のなかに、奇跡のように一軒の家が残されていた。走る足が早まる。その大切な家の横手に回れば、小さな倉庫もまた無傷で残っていた。
 パジェットは懐中電灯を取り、倉庫の地下におりる。まるで家を、識が守ってくれたような気さえした。地下の奥、古い戸棚の中に、アタッシュケースを収めてある。
 本はそこにあった。赤いベルベットの生地に包まれて、薄紅に唐草模様……そして何をやっても壊れなかった金の鎖と鍵をつけた、大切な識の本があった。消えた識の、身代わりのように現れた、本が。
 それを元通りアタッシュケースに収め、大切に胸に抱いた。
 倉庫を出る。鍵を下ろした。地上は暑かった。高い外気温に押さえつけられ、戦火がいまだ地熱という形で消え残っているようだった。
 その熱い土を踏み、人が歩いてくる。
 それが瓦礫の陰から現れ、立ち止まった。
 姿を見られた。……いいや、動揺することはない。自分の家から自分の大事なものを持ち出しただけじゃないか。
 懐中電灯を向けた。
 若い男だった。身を引き、眩しげに目を細めた。
 光を、男の顔から胸の辺りにおろす。こちらを警戒している。南部郊外の人間ではなかった。相手は無言のままで、パジェットに視線をそそいでくる。
 その目に見覚えがあった。
 北部で会った。前回の小規模な襲撃のときに。
 ミナシキも思い出した。今目の前の、この片眼鏡の男に会ったことがあると。
 二人は向かい合う。不快な風が吹いた。月光だけ揺れなかった。血と炎とを知る熱い土が、二人の間をつないだ。



(第四話へつづく)
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