お話の、あるところ。

スポンサー広告

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈1〉 著者:豊原ね子

序章・眠れる人は眠れ ――1/2

 名前を呼ばれたことがない。
 いや、夢の話だ。
 だから別段困りはしないが、気が付いてしまうと気になる。
 たとえば、どうだ。夢に見るおのれは日頃となんら変わらぬ形をしている。四肢の揃った人間が、いつも夢では右腕が欠けているということはあるまい。それは自らを四肢の揃った人間として認識しているからであり、では、名前はどうだろう?

大地と見まごうばかりの一面の草原。
 そよ風に、木漏れ日が揺れ、名も知らぬ花々がきらめく。
 これ以上ないほど青い空と、乗れそうな雲のかたまり。
 上空はどんなに風が強いだろう。少しずつ形を変えながら、雲が地平線に押しやられてゆく。だけど少年がその風を感じることはない。陽射しが部屋を照らすことはない。
 所詮、一メートル四方に降り注ぐ機械の光でしかないのだから。
「地球儀先生、悩みがあるんです」
 大人になる直前の少年の声が、草原に吸いこまれた。手を伸ばすと、真っ白なホロニウム光が少年の手を染めた。
 少年が見つけ出すまで、このホロニウムスライドは捨てられているも同然だった。ステージに、今再生されている風景の記憶を載せたままで。
「誰も呼んでくれないんです」
 スライドの中の風景が急激に動いた。視点が飛び立つ鳥の視界になる。
 偽りの浮遊感。遠くに湖畔と小さな村が見えて、遠ざかって消える。草原はもう見えず、ついに視点は宇宙へ飛び出して、少年は地球を見る。
 腕を広げれば抱きしめられそうな立体の青い球。
 地球の一点に、赤い色が吹き上がった。暁の色、黄昏の色、様々な赤が表面に咲き、地球は紅蓮の死の星となる。
 少年は、失望し、ホロニウム光に手をかざしたまま肩を落とした。地球儀先生の癇癪だ。地球儀先生は怒ると真っ赤に破裂してしまうのだ。――もっとも、誰かの記憶を再生するだけの機械が本当に癇癪を起こすはずはないが。
 楽士の声が訊いた。
「なぜそれが不満なの?」
 楽士は猫だ。鈴のブレスとアンクレットをつけ、真っ赤な航海士の衣装に身をくるんでいる。地球の中世期の型だ。彼女は倉庫の入り口にいたが、ホロニウム光はそこまで届いていた。
「なぜって? 不満というより不安なんだ」
 少年をよそに、楽士は冷暖房の配管に飛び乗り、丸くなった。
「僕は自分が誰かを知っているよ。名前も含めてね。だけどここでは誰も呼んでくれない。そうすると分からなくなるんだ。忘れそうだよ。これでは僕は『名前を呼ばれない人』としか自分を認識できなくなってしまう。そうなったらきっとすぐだよ、『名前のない人』になるまで」
「仕方がないわ。だって誰もあなたに用はないんだもの」
 楽士の言葉に、少年はうなだれて「そうだね」と言った。
 用がない、そうか、用がなければ呼ばれることもない。考えてみれば当たり前だ。そもそも自分に出来ることが果たしてあっただろうか。ないなら何故ここにいるのか。誰も用がなく、誰にも用がないなら、何しに船に乗りこんだか。船に乗りこむ為か。
「答えが欲しいの?」
 楽士は尻を舐めていたが、顔を上げて言った。
「まだ名付けられていないからよ」
 そんなはずはないと言おうとして、肝心の、ではその名が何であったかを思い出せず、少年は愕然とする。
 チャイムが鳴った。船内放送。
『船団時刻に於ける正午の時報と共に、乗員、乗客のみなさまにお知らせします。ただいま、制令指定特使の選定が終了しましたので発表します。ただいま、制令指定特使の選定が終了しましたので発表します』
 楽士の黄色い目が少年を見ていた。聞いたことを後悔しろとばかりに。楽士は開いた足を閉じると、配管を飛び降り伸びをした。
『特使に選定されたお客様を含む乗員には名前が与えられます。名前の付与は発表を以って行われ、また発表は実地における任務開始と同時に発表とさせていただきます』
 倉庫が闇に落ちた。
 地球儀先生が――それはホロニウムスライド自体を含んだ情報体系の名称でもある――眠りに就き、そうと理解したと、た、ん、に、少年は投げ出された。
 どこへ投げ出されたのか。
 ああ、落ちている。落ちているという事は重力があるのだろう。地球か。ここは地球なのか。そうに違いない。ああアレは、光を放ち星空と同じに見えるのは、まさに船の底じゃないか。
『それでは栄えある制令特使の名前を発表します。制令特使の名前を発表します。あなたの名前は××××』
 落ちてゆく。落ちてゆく。これでは名前が聞こえないじゃないか。待ってくれ、もう一度繰り返してくれ、もっと近くで教えてくれよ僕の名前はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 ―1―

 ――あああああああああっ」
 自分の叫び声で起きた。
 叫んでいるつもりだったが、やはり寝ながらのことなので、あまり声になっていなかった。
 汗をかいていた。目を開ける。部屋に朝の光が差していた。まだ背中を引っ張られるような墜落感が残っており、無理矢理ベッドから上半身を剥がしてそれを収める。
 また変な夢を見た。
 少し前まで、スープのような悪夢ばかりだった。今は違う。夢自体は怖くない。怖いのは、明らかにそれらが連続していることだ。それに生々しい。夢じゃないみたいに。掌にはホロニウム光のさらさらした圧力が残っている。肌は倉庫のひんやりした寒さを今も覚えている。それに……それに何故、地球の夢など見なければならない?
 夢は短い。眠れる時間が短いからだ。それまで通常の睡眠時間内に見ていた全ての夢が凝縮されたように。はたして、夢とはそうまでして見るべきものなのか。
 少年は再び仰向けに寝転がった。夢から覚めて生きていることを確認する儀式だ。夢の内容を反芻し、次に自分のことを思いだす。名前。家族。父と母がいる一人っ子。十一衛星のこの家には、生まれたときから住んでいる。高校生。バイトもしてる。
 そして、このところ眠れない。今日だって朝からバイトがあるというのに、最後に時計を見た時には四時を回っていた。まったく、三時間後には起きなければならないのにと考えながら目を開けているのは、憂鬱なことだ。
 それで。どれくらい寝れただろう。二、三時間は寝れただろうか。
 時計を見ると八時を過ぎていた。
 眠気が吹き飛んだ。
 昨日脱ぎ散らかしてそのままの服に袖を通し、財布が入った鞄をひっつかみ、慌しく部屋を出た。
 一階で母親が台所の床にモップをかけていた。
 ハウスキーパーシステムにさせればいいのに、母はそうしない。掃除も料理もかたくなに自分の手で行う。
 テーブルの上で朝食が冷めていた。
「呼んでも起きないんだから!」
 掃除機の手を止めて、母親が少年を叱った。
「土曜日なのに、どこ行くの!」
「バイトだよ。朝から入ってるんだ」
「朝ごはんぐらい食べていきなさい」
「ゴメン!」
 少年は台所を突っ切った。母親が、少年の名を呼んで叱った。
「帰ったら食べるから!」
 家を飛び出して、眩しさに目を細めた。瞼が少し痛い。
 ホロニウムが作る朝の空に、地下の太陽が光を放つ。暑くなりそうだ。

 十一衛星の季節は、市民に望まれてめぐる。人々は、暑ければ暑いと文句を言い、家に冷房をかける。寒くても同じだ。ならば年中同じ気温と湿度にしておけばいいものを、それでも都市機構は四季を巡らせている。
 慣習だ。文句を言いつつ、本当に季節が消えることは誰も望んでいない。ある程度暑い日数が続けば、いずれある程度寒い日数が続く。誰もがそれを信じている。なにせ生まれた時からなのだから。
 少年の自宅がある区画は、建造物の高さの規制があるおかげで日当たりがいい。秒ごとに『夏』の日差しが強くなるのが感じられ、すぐに汗だくになった。
 緩やかに湾曲する坂の底に、ネジ広場が広がる。
 広場の時計が容赦のない時刻を示している。
 いつもは東の明るい通りに抜ける道を、南の細い道に曲がる。
 河が流れている。遊歩道の柵を乗り越え、河辺に下りる階段を駆け下りる。川に沿って走るのが近道だ。
 橋の下に老人が座りこんでいた。
 何をしているのだろう? 日陰でよく見えないが、山高帽を目深に被り、橋脚にもたれかかって体を抱いている。怪我をしているか、どこか悪いのだろうか。
 老人の前を走り抜ける。
 橋の反対側に抜けた時、少年は名を呼ばれた。
 よくある名前。ロマンチックだが陳腐な名前。男の子にも女の子にも付けられる、ある憧れに関係した、少年の名前。
 振り返る。暗いところから老人が見ていた。
 が、少年には見覚えがない人物だった。
 垢じみた日焼けした顔に、白くまばらな鬚。腰を浮かせ、少年に何か話しかけようとしている。だが言葉が見つからないらしく、何も話し出さなかった。
 一礼して背をそむけた。立ち止まった時間の分だけ走った。川辺を離れ、再び鉄柵をよじ登る。
 パーク従業員用の最後のバスが走り出したところだった。手を振って、後を追って走り、その甲斐あってバスは少年のために停まった。
 バスは夏空の下を、遠くに霞むビルの町めがけて走る。
 その先のアーチにこう記されている。
『東京メモリアルパークへようこそ!』

 ―2―

 少年は本屋を目指した。
 本屋は東京メモリアルパーク内にある。地球時代二十一世紀初頭の東京二十三区を復元したこの広大なメモリアルパークは、衛星地下のほぼ中央に位置する。パークを囲む堀には東西南北に橋が渡されており、そこで入場料を払えば、金額に応じた日数を滞在できる仕組みだ。
 本屋はパーク内の、神田古書店街と呼ばれる通りにある。
 パーク内の交通は全て、再現される時代に合わせたデザインのものが使われる。角ばった電車。角ばったバス。恐ろしく古い型の自動車。神田の町はすでに観光客で賑わっていた。その喧騒を掻き分け掻き分け、自分の店に着いた時には、始業十分前になっていた。
 ビル内の、清潔感のある書店だ。
 通りで肩を寄せ合う古書店のうち、本当に古書店として営業している店など数えるほどしかない。物体としての本を求めるコレクター自体がそういない。大抵の古書店が書籍という古物を鑑賞するためのカフェなり休憩所となっている。
 それらに対し、少年の勤める店は新書店と呼ばれる。パーク外にもチェーン展開し、日本語で書かれた書籍の蒐集と販売を手堅く行っている。新書と言っても、新しく紙の本が作られているわけではないから、扱いは全て古書だ。
 その古書の仕分けと本社への発注を行うのが業務だ。
 ビルの裏口のドアを開ける。アルミの枠にすりガラスの窓。丸いドアノブ。廊下は熱気がこもって湿っていた。
「遅いよ!」
 三階の書店につくと、まだうす暗い店内から店長の声が飛んできた。
 バックヤードでは従業員たちがめいめい、始業前のひと時を過ごしている。
 同じくついたばかりらしいキタセさんが、手早くエプロンの紐を縛っていた。キタセさんは年上の大学生だが、本屋の仕事は少年のあとに入ってきた。
「おはよう」
 キタセさんが笑いかける。少年も笑みを浮かべた。
「おはよう、キタセさん。昨日『化石探偵ケン』の新刊出てたよ」
「ウソ。……ほんと?」
 キタセさんが、ロッカーにしまったばかりの鞄を大慌てで取り出した。ピンクシルバーの彼女の『本』を手の中で開くと、歓声をあげた。
 紙の書籍の大部分は、地球時代に役目を終えた。今ではインテリアか、冒険小説などのファングッズ程度にしか役目を果たしていない。本は、小型の専用メディアを持ち歩き、出版社に直接アクセスして購入するのが一般的だ。かさばらないし、いつでも読める。ポイントも貯まる。
「買えた、買えた。休憩時間に読まなきゃね」
「あんた休憩時間って、仕事始まる前から何言うとるだね!」
 パートのおばちゃんがからかい、バックヤードはひととき賑わう。
 本が安くて買いやすいとは、素晴らしいことだと思う。パーク時代に生まれていたら、読みたい本のためにあっちこちの本屋をハシゴし、高いお金を払わなければならなかったのだから。
「そういやアンタ、珍しいねぇ。いつも大体最初にくるのに」
 パートリーダーのミズノさんが言った。
「ちょっと、寝坊して」
「何時に寝たのよ」
「四時ぐらいかなぁ。でもベッドに入ったのは十一時ぐらいなんですよ」
 九時の、始業のチャイムが鳴った。それを合図に売り場に出る。
「寝れないの?」
 キタセさんが尋ねた。
「うん。寝たら寝たで変な夢ばかり見てさ」
「ふぅん」

 接客は年配層が取り仕切っている。届いた本の仕分けは力仕事なので、少年とキタセさんに任せられていた。今月末、チェーン店が一つ潰れるそうで、その為に作業量が増えている。
「ああ、また送り状がない……」
 変わり者のコレクターの接客をするよりも、このうす暗い倉庫で古い紙と触れ合う時間が、少年は好きだった。コンクリート剥き出しの倉庫は、うす暗くてひんやりしている。目が悪くなりそうだが、不思議とそれが不愉快じゃない。
「もう、やだ、何このアナログな労働」
「しょうがないよ、扱うものがアナログだしさ。それに僕たちだって死んだら大体こんな感じになるんだ」
「死ぬ話なんかいいじゃない!」
「ごめん」
 人は死んだら本になる。
 当たり前のことだ。少年の祖父も死んで本になった。その手触りを、赤い革、華奢なチェーン、緑の唐草模様のことを鮮やかに覚えている。老衰で穏やかに死んでいった彼は、通夜が明けた時点で本に姿を変えていた。それが、この世に何の未練もない彼のありようとして相応しく思えた。
 そうした本は『扮書(ふんしょ)』と呼ばれている。
 扮書には人間の生前の行為や言葉、想いが詰めこまれている。衛星群の子供たちは、「そんなことをしたら、扮書になったとき恥ずかしいよ」と叱られて育つのだ。
 だが扮書は誰でも読めるものではない。
 扮書も人間と同じで、姿かたちが違う。似ているものはあっても決して全く同じ扮書は存在しない。
 とんでもなく大きな扮書になった人を知っているし、逆に豆本のようなものもあった。ページごとに色が違う、カラフルな扮書もあった。本体より大きな鍵がついたものとか。
 読むことができないのは、そういう分かりやすい鍵がついているからではない。鍵がない扮書だってある。
 読めないのは、読むまで内容が固定されないからだ。
 大河のように凄まじい勢いで文字が流れている。あるいは白紙だったりする。文字自体が、読めない記号だったりする。そしてまた、何故かしらそれを読むことができる人間もいるのだ。読解士という職業がある。扮書は彼らに読み解かれることによって初めて状態が固定され、誰にでも読める紙の本となる。
 このメモリアルパークもまた、扮書の記述をもとに再現された場所だ。
「変な夢ばっかみるからかな?」
 自覚はないが、自分が死ぬ夢などを見ていたかもしれない。気もする。
「ちょっと根詰めすぎなんじゃないの? キミ、確か読解士になるんだよね。大学行かずに国試受けるんでしょ?」
「まぁね。でも勉強もはかどってるし、根詰めてるってわけでもないよ」
「偉いよねぇ。ねぇねぇ、読解士の国試って実技試験もあるんだよね。練習どうするの? 読めるってどんな感覚?」
 キタセさんは完全に仕事の手が止まっている。目を輝かせて身を乗り出す彼女に、苦笑し、少年は説明した。
「木曜日に扮書管理局に行くと模造品で練習させてくれるよ。読める感覚っていうのは」
 少年は渋面を作り、考えた。
「模様がね、凄い勢いでざぁーって流れてくの見てると、あっ、白紙の時もあるけどね……だんだん分かってくるんだ。読むってよりは、直接わかってくる。言葉にしたらそこから固定されるんだ」
「へえ。どうして人が扮書になるのかとかって、実はまだ分かってないんだよね」
「そういう研究は扮書局の人たちがやるよ」
「そういえば! ねえ、今パークに扮書局の人たちが来てるって知ってた?」
「えっ? うぅん」
 戸惑い、首を横に振った。
「扮書局の人が、どうして?」
「知らない。キミは実技の練習に行ったとき聞かなかった?」
「何も」
 キタセさんは首を傾げて何やら考えると、靴を脱ぎ、いきなり品出し用ラックに爪先をかけて、採光窓に顔を寄せた。
「ちょっと、キタセさん」
 あぁっ、とキタセさんが大きな声を出した。
「危ないって!」
「見て見て、車だ! あれがそうだよ! 書いてあるよ」
「売り場に聞こえるって」
「いいから!」
 仕方なく、彼女と代わって少年もラックに乗った。ここからでは路地しか見えない。そこに、確かに白い乗用車が止まっていた。通常では景観保護のため入ってこられない、パーク外の見慣れたデザイン。車体にはキタセさんの言うとおり、扮書局の文字が記されている。
「でしょ? でしょ? 知ってる人?」
「うぅん……」
 三人の男女がビルの管理人と話しているのが見えた。
 その中の一人は若かった。キタセさんとそう離れていないように見える。スーツ姿の女性だった。白人だ。どこの衛星の人だろう。
 美人だった。
 すると女性は、他の二人と共に案内を受けてビルに入った。
「どう? ねぇ、かっこいい男の人いたよね!」
「えっ?」
 返答に困ってラックを下り、とりあえず靴を履いた。
「……入ってきたよ」
 バックヤードの戸が開いた。パート頭のミズノさんだった。
「――おぉい、君。ちょっと。お客さん」
「僕ですか?」
「荷物まとめてって。店長が下で待ってるから」

 ―3―

 少年には双子の弟がいた。
 弟は、生まれたときから扮書だった。つまるところ死産だった。
 こんなケースは初めてだ。誰もが言った。死産自体が珍しいことなのに、扮書が生まれようとは。
 扮書は生を全うした者の記憶の書だ。一日も人として生きられなかった双子の扮書に何が記録されていようか?
 分からなかった。
 熟練の読解士の手にかかっても、弟は決して鍵を開けなかった。もちろん少年にも。
 これを開けたい。読みたかった。弟の扮書に生涯を捧げることになるかもしれない。それがいいなと少年は思っている。

 人違いかと思ったが、確かにその男は少年の名を呼んで確かめた。
 太っている。太っているせいで年代がよくわからない。四十代にも五十代にも見える。いや、髪がもう灰色だから、若作りな六十代かもしれない。
「いやぁしかし会えてよかったよ、ここで会えなきゃ君の家まで行かねばならんところだった。いやね、君の噂を聞いててね、よく局に練習に来てるだろう。えっ? それで担当の子がね、小泉君だっけ、ええっとそう彼女が君のことを話してくれてね、アッハッハァ、パークの紙の本屋で働いてるっていうじゃないか」
 男はもうずっとこんな感じで喋り続けている。酒が入っているのではと思うほど上機嫌だ。不機嫌にさせるのが恐ろしい。
 言われるまま車に乗りこんだのも、その恐ろしさゆえだろう。
 海のホロニウム壁。
 砂浜と海の絵が車の内装だった。浜辺で満ちひきする海は、触れれば手を濡らすこともできそうだ。天井も晴れ渡っている。
 その美しい浜辺には、向かい合う一対の座席があり、自分を含めた四人の男女が向かい合っている。変だ。
「どうだね美しい海だろ」
「そうですね……」
「ここは地球のハワイという土地を再現した模様でね」
「すごいですね……」
「海だ海見たことないだろうハハハかくいう私もないけどね私の祖先は地球で漁業に携わっていたらしくてね小さい頃から海を見て育ったものでね」
「そうですか……」
「いいだろ?」
「そうですね……」
 グァバの香りを含んだ風が、爽やかに吹いている。
 男は仁科と名乗った。扮書管理局関東支部局長。その隣には全くの無表情で、スーツの男が控えている。三十程度だろう。髪をきっちり分けて額を見せているが、その額がまたセルロイドのようで、まるで親しみというものを持てない。なにか武道をやっているのだろうか。肩が立派で、その暴力と肉の気配だけが、彼を人間らしく見せていた。
「えーっとね、そうだそうだ。部下たちの紹介が遅れていたよ。彼は堂嶋君だ。堂嶋蘇比(そび)と言ってね、ははぁ、覚えにくい名前だろう。ほら、自分で挨拶したまえ」
 蘇比はたしかに顔を向けたが、では少年を見たかと言われてもそれは違うように思える目をして、「どうも」と呟いた。
「まったく無愛想な奴で困るよ。彼は研究一筋で生きてきたからね、まぁ変人だが許してやってくれんかね」
 隣に座る女性に目を移した。身長も座高も少年より高く、見下ろす形で、緑色の瞳がまっすぐ少年の目を覗きこんだ。
「初めまして、ハイダと申します」
 片言の日本語で、彼女は軽くお辞儀をした。明るい声に、優しそうな笑顔。三人の中で一番、いや、唯一の常識人だと思う。
「初めまして」
 少年は改めて名乗った。
「彼女は大学院生なんだがよく働いてもらっててね。えーっと十五衛星からだっけ?」
「そうです。私の星では、亡くなってから、扮書になる人が少なくて、それについて、研究しています」
 ゆっくりした喋り方になるが、むしろ丁寧に伝えようとする意志が際立って感じられ、好感が持てた。
「この星では、亡くなった人が、ほとんど扮書になると聞いて驚きました」
「そうですね。生前に特別な処置をしないかぎりまず扮書になるというのが当たり前ですから」
 浮遊感を受けた。
 車がどこかに上昇している。
「おぉ、着いた着いた。動揺しないでくれ、ただのエレベーターだからね。我々の事務所に直通になっているんだ」
 内装の『ハワイ』が白い壁に戻ってゆく。窓があらわになった。
 円形のエレベーターホールに停まっていた。アームが作動し、座席を車外に排出する。フェイクの大理石の床に降りた。磨き上げられた床だ。そこに落ちる影に色が見える。廊下の突き当たりに壁と同じ色の扉があった。
 応接室だった。
 丁重に通され、ソファに掛けた。部屋には窓があり、入り組んだ透明な天空観光道路が見えた。夜景目当ての観光者たちの車はまだ多くはない。天空か。実際には天井に、衛星の地表に近付いているだけだ。そこで人は生きていけないから、『天国のような夜景』に近付くにつれ地獄に近付いているわけだ。
 それにしても随分高いところに来たものだ。支部局をさほど高い建物だと思ったことはないが、中から見れば違うものか。
「いきなり連れ出すことになってすまなかったねぇ、では改めて。私はこういう者です」
 局長が、向かいに座って四角い紙を突き出してきた。なんだろうと受け取ると、紙には彼の肩書きと名前が書きしるされていた。
「これは名刺と言ってね」
「メイシですか」
「東京の文化だ、パーク時代の、古いやり方だよ」
「局長は、トーキョー・かぶれなんですの」
「こら。どこで覚えたんだそんな言葉」
 ハイダはさも楽しそうに目を細めて笑った。
「もらっていい物なんですか?」
「ああ、取っておいてくれたまえ。私の連絡先も書いてあるからね。困ったときはここに連絡してくれ。さて、本題に入ろうか。君もここに連れてこられた理由を早く知りたいだろう」
 はい、と頷いた。キタセさんは今頃一人で本の仕分けをしているに違いない。
「君は卒業したらすぐに扮書読解士として就職するそうだね」
「はい。卒業前の試験で資格を取ります」
 少年は頷いた。
「扮書の研究をする気はないかね?」
「先生にも聞かれます。大学に行って研究者になる気はないかって」
「だろうとも」
「でも僕は早く一人前に稼げるようになりたいんです」
「立派だ、実に立派だ」
 常に満面の笑みでいるから、局長が本気で誉めているのかどうか分からない。たぶん違う。だが何の関係がある? まさか扮書局の人間が直々に研究者になれとスカウトを?
「それで……話というのは君の弟ぎみのことなんだが」
 目の前にオレンジジュースが置かれた。
 驚いて顔を上げた。いきなり視界に現れたコップに驚いたのか、局長の言葉に驚いたのか、自分でも分からなかった。
 冷静なつもりでいたけれど、混乱しているようだ。
 まあ、局長が弟の扮書のことを知っていても不思議じゃない。この建物の地下に保管されているのだから。それに読解士たちの世界では弟は有名だ。
「最近、君の弟ぎみの扮書に大きな関心を寄せている人がいてね。どういう人だと思う?」
「他の衛星の読解士とかですか?」
「いや」
 局長は、誰もが知っている精密機器会社の名を上げた。
「なぜ……? まるで関連のない分野じゃないですか」
「それが実はおおありなんだよ。おおごとだ。あの会社が工業用アンドロイドの一大メーカーであることは知ってるかね?」
「はい。最近ニュースで騒がれてた……」
「そうだ。アンドロイド頭脳は日々更新され続けている。工業用の馬鹿な……いや失礼。えーとだね、まだ実用に至ってないアンドロイド頭脳は人間に近い振る舞いというものをもうかなり理解しているというじゃないか。それに人間の皮膚に近い材質の肉体を作り、髪を生やしたり服を着せて」
「人間にするって言うんですよね。それで流石にやっちゃいけない事だってニュースになって」
「そうだ。いくら人に似せても機械は機械だ。踏み越えちゃならん領域というのはあると私も思う……がまぁ、だからこそだね、生命や精神、あるいは魂とか、単に心と呼ばれるものの再定義を社会は求められている」
「地球時代からずっと繰り返してきたことですね。それで何故僕の弟が?」
「扮書はいわば不朽の亡骸だ。そう言えなくはないかね? 事実、読解士たちの共通の倫理はそうした尊厳への信用だ。人が生きていた証だからね。そうとも。生きていないものは扮書にならない。君の弟ぎみは死産という痛ましい結果だったが、確かに生きていたのだ」
 胎児の生命は認められる。だからある日数を過ぎてからの堕胎は法で禁じられる。
 話が見えてきた。
 弟の扮書を開けばどの時点から彼が「生命」を持っていたか、胎児に「心」は存在するか、それが分かれば必要な再定義の鍵になるという発想だろう。そして、思ったとおりのことを局長が解説した。
「ここで問題が起きてね……」
 局長が眉をしかめた。
「君の弟ぎみの扮書を我々が拝見させていただいたんだ」
「遺族の同意がなきゃできないはずですよ?」
「申し訳なかった。兄ぎみである君には申し開きようが無い。だがこれは本当に重大な問題なんだよ。まったく理解不能な」
「それは?」
「目の前で消えたんだよ」

 袋綴じというものがある。
 パークで働き始めて知った面白い事々の一つである。
 雑誌のグラビアや小説の結末部分が紙で綴じてあるのだ。開けるにはその本を購入して紙を破る必要がある。
 考えようによっては、読解士というのは扮書の袋綴じを破る職業と言えよう。
 が、消えてしまう袋綴じ本の袋では破りようがない。
「ああ、心配しないでくれたまえ、すぐにまた現れるんだ」
「消えたって……消えたんですか?」
「そうだ。パチン! だ。書見台から消えたと思ったら今度は床にいる。床の扮書に手を伸ばしたら今度は天井に」
「比喩ではなく」
「本当に」
「どこの技術(テクノロジー)ですか?」
「分からんね聞いたこともないね」
 信じるか信じないか、以前に馬鹿馬鹿しくなり、少年は露骨に白けた。もちろんこの反応も予測済みだろう。
「以上が君の弟ぎみの扮書に関する報告でね、君も行ってみるといい。今行っても構わない」
「いえ、後にしておきます」
 ジュースに口をつけ、一区切りとした。
「いずれ、この事態は君にも確認してもらわなければならない」
「なぜ両親より先に僕に話したのですか?」
「ご両親には後日改めてお話する予定だよ。それ以前にぜひ君とお話がしたかったんだ。君には読解士の素質があると知っちゃあ、声を掛けずにはいられなかった。扮書と一緒に生まれてきた子が読解士になろうとしている。運命的なものを感じてね」
「……まぁ、たまにそういう気分にならなくもないですが」
「弟ぎみの扮書は読解対象として非常に興味深い存在だ。研究の素体として提供されることが許可されれば……いいや、きっとそうなるだろう」
 丸メガネの向こうの目が光った気がして、身を強張らせた。
「そしたら扮書は、君の知らない他人の手に渡ることになる。そのことをわかって欲しい」
 少年は局長の、太い唇をじっと見詰め、目を膝に落とした。
 プロになって、いつかこの手で弟の扮書を開いてみたい。百戦錬磨の、プロ中のプロの、どんな頑なな扮書もひも解き、固定してきた読解士たち。彼らを挫折させ続けた弟も、血を分けた双子の兄になら……。何となく、そんなふうに思っていた。
「専科に進まないかね?」
 身を乗り出してくる局長の態度が、勝ちを確信した人間の振る舞いに思え、少年はますます視線を背ける。
「……ですが……受験勉強始めるにも遅いし……」
「我々も無償でとは言わない。あくまで研究に協力をしてくれるならという前提で、だがね。紹介状を書こう。本部にも話をつける。学費の面でも援助を惜しまないつもりだ」
 顔を見ると、にこりと笑った。「どうだ、悪い話じゃないだろう」と言いたいところだろう。
「待ってください、今すぐには」
「あー! あーっ、もちろん。今すぐなんて言わないよ。君の心が決まるのを待つつもりだ。堂嶋君、資料を持ってきたまえ」
 蘇比が執務机から紙束を持ってきた。いつからいたのかと思ったが、そういえば最初からいた。あまりに存在感が希薄なのですっかり忘れていた。
 全寮制専科大学のパンフレット。厚い。必要書類。多い。
「紙の冊子だ! 東京風だ。私が作らせたものだよ」
「あー……、……あー」
 呆れて間抜けな声しか出ない。
 どうせデータを紙媒体に写しただけに決まっている。読みづらいし無駄だ。
「是非とも目を通してくれたまえ。きっとその気になる。ゆっくり考えてくれたまえ。今日はもう帰りたいかな? うん、そのほうがいい。ご自宅まで送って差し上げよう」
「いえ」
 首を振った。
「もとの本屋でお願いします」

 本屋に戻ったのは正解だった。半日、肉体労働に追われていると、いくらか落ち着いた。
 抜けた時間ぶん居残って働き、空が真っ暗になってから、居住区に帰った。
 遊歩道沿いに歩いた。近いから、というわけではなく、頭を空っぽにしたいときに好んで歩く道だ。
 人工河川の水は清潔ではないが、流れる音は美しい。
 話し声が聞こえた。
 立ち止まると、道の先に、階段から二人の人間が上ってくるのが見えた。警官だ。警官が老人を追い立てているのだ。
 まだ居たんだ……少年は身の振り方に困った。
 今朝会った、山高帽の老人だった。
 二人は何か言い合って、警官は階段へと引き返し、老人はこちらに来る。もう視界に入ってしまっている。背中を見せて逃げるのは恐ろしく、逃げる口実もない。相手が自分を知っていて、自分が相手を知らないだけだ。
 距離が縮まってくる。
 少年も、できるだけ普通に歩きだす。目の焦点は老人の先に定め、無視を決めこむつもりで。しかし決して視界から老人を外さず。
 老人が、目の前で足を止めた。
 大声で名前をまた呼ばれた。
「何ですか」
 逃げたくなったがそれを堪え、少年も歩くのをやめた。見れば少年より背が低く、すっかり痩せてしまっている。
「箱を買わないかね?」
 耳が遠いのか、やたら大きな声でそう問いかけてきた。
「箱? 箱ですか」
「ただの箱じゃない。今ちょっと時間はいいかね? いいだろう。聞いてもらうぞ」
「いやちょっと――」
 聞いていなかった。
 老人が、すっかり黒ずんだサマーコートから何かを鷲掴みにして出した。その手を少年に突き出した。受け取れというように。
 木箱だ。
「手にとって見たまえ」
 肩を揺すって笑うと黄ばんだ歯が剥き出しになる。こんなに近くにいるのに、帽子の下の目が見えない。
「ほら、なに、取って食いやしないよ」
 老人が手首を上下させると、木箱の中で何かが音を立てる。
 少年は手を伸ばした。掌に、木箱が納まった。老人に倣って振ってみると、何か小さくて硬いものの存在を感じ取れた。
「開けてごらん」
「いいんですか?」
 金属の留め具を外し、蓋を上げる。
 何も入っていなかった。箱の底が見えるだけだ。
 手品だと思った。蓋を閉め、もう一度振る。音をたて、中のものが跳ねる。だがやはり、中に何も入っていない。
 調べるべきところもないような小さな箱だ。
「うつぼ箱と言ってね」
 いぶかしがる少年を楽しげに眺め、老人はいつの間に同じ木箱を手に持っていた。
「二つで一つになっている。ほら、この箱だ。私がこの箱に『あるもの』を入れたらそちらの箱に入る。テレポーテーションだ。知ってるだろう」
「そんなのは空想科学です」
「どうかな?」
 箱のからくりを見破れない以上、どうにもそれ以上強気に出られない。
 突き返そうとしたが、笑うばかりで、老人はもう手を伸ばさない。どうして受け取ってしまったのかと少年は後悔した。
「だが君はその箱に決して何も入れてはならない。いいかね、これが重要だ。何かを入れる。そしたら箱はその何かをしまった箱に状態固定される。それじゃあ意味がないんだよ。うつぼ箱の神秘は喪失し、ただの箱になってしまう。君はこれを買うんだ」
「買いません。今持ち合わせがありません」
「マネーで払えとは言ってない。むろん、そうしてくれると助かるがね。必要なのは君が対価を払うという儀式だ。そうだな。君の鞄の中のぶ厚い紙束がいい」
 肩を苦しめるパンフレットのことを言っているだろう。箱を持ったまま途方に暮れた。この老人は何でも知っているようではないか?
「買うんだ」
 老人がもう笑みを浮かべていない事実に気がついた。
 眼が見えない。帽子のつばの下で、どんな光を宿しているのだろう。
「君は弟を永遠に失うことになるよ」
「何ですか、あなたは」
「聞かないほうがいい。せっかく冷えた頭をまた混乱させてしまうからね」
 皺だらけの腕が、伸びた。
 指が動いて催促する。
「対価を。私は火が大好きでね。原始的な火が。その紙はよく燃えることだろうさ」
 箱を持ったままの手で、鞄のジッパーを開いた。
 パンフレットを渡すと、老人は歓喜の笑いをあげた。
「いい子だ。物分りのいい子は好きだ。君は若干生意気だが私が許してあげるとしよう」
「生意気って、初対面の人に」
「船はもう来ている」
 ひとこと、言い残すと、少年の横を通り過ぎた。
 その時になって、馬鹿な取引をしたと思ったが、遅かった。
 船というのが夢の世界の、あの猫や地球儀先生のいる宇宙船のような気がして……いや、そんなはずはないと思い直し、少年は家に帰る。
 夜が更けて、寝る。
 寝る気でいても、寝れないまま時間が過ぎて、時計を見るたびに朝に向かって容赦なく針が動いている。あきらめて起き、マンガを読み返し、ニュースを見、そんなことをしているからますます寝れず、ベッドに戻って身悶える。ああこれは眠れない夢を見ていて、自分は本当は寝ているのだと思いこむ。だって、ああもうすぐ四時ではないか。一度寝て起きたらこの時間が夢かどうかの別などつけられまい。過去の失敗現在進行形の失敗を思い起こし、恥ずかしさに足掻き、ああ自分は生きていてもしょうがない人間だ死のう死ぬ前に失踪しようと考え出すにいたって意識が薄れてくる。大丈夫朝になってもまだ死にたいままなことなんて滅多にないのだからと自分を慰め眠る。

  ―4―

 楽団長(コンダクター)は楽団長になってこのかたホールから出ていない。
 普段の練習はコンサートマスターが取り仕切っている。それでどうにもならない時だけ、ホールで練習する。
「ちくしょうめ、あいつら次はいつ練習に来るというのだ」
 楽士は全員白猫だ。いや、白猫が楽士になる。もう何ヶ月も楽団長はほの明るい舞台に立ったままで、二本足でうろうろしながら白い頭を掻き毟った。
「あいつら最後に練習に来たとき何て言ったと思うかね? 『ああ、団長、生きてらっしゃいましたか』だ! 馬鹿にしていやがる! しかも連中は賭けているときた。ここに来るまで分からん私の生死を道すがら賭けているのだよ。私を案じてやって来る者もない。生きていても死んでいても奴らには同じことなんだ。死んでもいるし生きてもいる。連中にとって、ホールにいない時私は死んでいる。しかし私を必要としてホールに来る時にゃ私は生きてるというわけさ。馬鹿な! 私は生きている。生きてこうしているのだよ!」
 上質な燕尾服は、彼の涙で白く色落ちしていた。そうして彼は泣き濡れながら、無意味に舞台を左右する。
 太い鎖が、彼の足を追って、やかましく舞台を這いまわり、それが彼の音楽である。

 さてどれくらい寝たのだろう?
 最後に時計を見たときは五時に近い時間だったけれど、それは『五時に近い時間まで寝れぬ、寝れぬと思っている夢』だったかもしれない。区別がつかない。
 そんなことより扮書である。局長への返事はまだ考えておらず、あまつさえ貰ったパンフレットを人にやってしまった。さすがにこれは夢ではない。寝たまま、ベッドの操作盤からキャスターを呼びつけ、上に載せたままの鞄に手を突っこんだ。やはり小箱が入っていた。
 木材について詳しくないが、少なくとも高級感は感じられない。振ると確かに音がする。しかし開けると何もない。
 閉めるとあって、開けるとない。
 ……いや、頭を痛くしている場合じゃない。寝不足でぼんやりしたまま、別れ際の局長との会話を思い出した。
『我々はあくまで君個人とのつきあいをしたいんだ』
 局長はしつこく繰り返した。
『だから君を信用したい。進路のこともあるし、重要な問題だろう。だけど誰かに相談するのはもう少し待っていただけるかな? 家族にもだ。君の家族はお父さんとお母さんと……』
『熱帯魚が』
『熱帯魚にも言っちゃ駄目だ、いいかね。では明日また会おう』
 肝心なことを忘れていた。今日また管理局に出向くことを、昨日本屋に伝えていなかった。慌ててミズノさんに電話する。
 すぐに出た。
「ああー分かってる分かってる扮書局のことでしょ連絡来てるから頑張ってらっしゃいじゃあねぇ(ガチャン)!」
 少年は絶望した。
 実は一かけらも局長に会いたくないという事実に今更気付いたからだ。
 約束は約束だ。服を着替えて家を出た。局長の車はパークに一番近いバス停で待っていた。

 眼下を二十一世紀初頭の東京が占めている。
 外を見て走りたいと言ったらからだ。ホログラムの壁に圧迫されるのが苦手だから、外が見えると気が晴れる。
 天空観光道路の下層から見る東京は、想像以上に広い。
 車内には昨日と同じく蘇比とハイダもいる。
「……いいお名前ですね」
 黙って窓の外を見ていると、ハイダが話しかけてきた。剣山のようなビル群から、車内に顔を戻した。
「僕がですか?」
「はい。風流で、素敵なお名前だと思います」
 ハイダに誉められると、悪い気はしなかった。
「いえ、そんなことはないですよ……よくある名前だし」
「よくあってもいいと思います。私はいい名前だと思います。私の星に、子供にそういう名前をつけるような、発想をする人は多くないです」
 照れ笑いをし、首を横に振った。
「この東京に、住んでる人が沢山いるって、ホントウですか?」
「えっ? はい、まあ。ここが居心地いいって言う人が少なくないみたいで」
「局長は、東京、好きですが……住まないですか?」
「いやいや私は見るだけで結構!」
 話が振られると、やたら大きな声で局長が乗ってきた。
「東京が好きって言ってもね、わたしゃ別に東京そのものが好きってわけじゃないんだよ。わかるかな? 東京にまつわる物語、地球の物語、置き去りにされたえーっと、なんていうかね。ノスタルジー! そう、私は人類の故郷に関するノスタルジィが好きなのだよ! ノスタルジィは現代社会に身を置く、置かざるを得ないからこそ胸に湧き出るものであってね、たまにだからいい、機会があって来るからこそ意味があるんだ。そうだろう? でなきゃとてもこんな不便なところ――」
 うるさいのには慣れているらしく、ハイダも蘇比も黙っている。
 窓の外に視線を戻した。
 ビル街と、住宅街が交互に現れる。住宅街と言っても様々だ。木造風の小さな家屋が溝ほどの道路を挟みながら並びあう区画がある。あんな小さな危なっかしい家に好んで住む人もいるのだ。
 不便に暮らしたいとその人たちは言う。実際、彼らの主張の根拠となる事件が、地球時代に既に起きている。
 きっかけは浴室掃除用メガネだった。黴や細菌を可視化するメガネは、主婦層に広く普及すると同時にハウスキーパー・システムへの不信を蔓延させる結果となった。ある割合の主婦が脅迫神経症的に家中を磨きまわり、メガネを手放せなくなって、その中でも更にある割合の主婦が強制入院となった。そして、入院中の主婦の自殺既遂によって問題は明確になった。
 開発された科学はどの程度民間に開放されるべきか?
 経済と科学技術の発展のためにより多くを開放すべきと言った論者(バカは死んでもいいよ派)がいた。より多くを専門家の手に委ねておくべきと言った論者(バカには関係ないよ派)がいた。他にも『キチンとみんなで正しく使えば問題は起きないよ』と言い張る人がいて(バカなんていないよ派)、『ワケが分からなくなるだけだから、もうこれ以上科学は発展しなくていいよ』と主張する人たちもいた(オレがバカだよ派)。
 結局互いに罵りあうだけだった、が、それでも落ち着くべきところに落ち着くのに、さほど時はかからなかった。知りたい人は知り、知りたくない人は知らなければいい。こうして諸々の格差の拡大と引きかえに、科学文化的な住み分けがなされ、日本は平和を取り戻した。めでたし。
 科学の発展は人間の多様化をもたらしたが、人間そのものは何一つ変われなかった。
 住み分けは社会を狭くした。人々の立場が明確になり、少しでもそれにそぐわぬ言動を取ると冷ややかな視線を浴びせられる。少年の家はさほど厳しい立ち位置ではない。便利さは享受するけれど、家族の世話を焼きたければ焼くし、料理や掃除が好きならすればいいという、一番大きな世論に属しているからだ。少年が「母さんが作るご飯よりハウスキーパーのご飯のほうがおいしいよ」とでも言わない限り、平和は続くだろう。
「局長さん、聞いておきたいことがあるんですけど」
 局長は機嫌よく喋り続けていたが、「なんだね」と少年を振り返った。
「この……きっかけになったアンドロイドの発展の件です。局長さんはどっちの立場ですか? 賛成派か、反対派か」
「君はどうだね?」
 自分からは答えないつもりらしい。
「正直、面白そうだとは思います。人間そっくりの機械が感情を持って動くなんて、漫画みたいじゃないですか。だけど実現するとなると……」
「躊躇うかね。じゃあ逆にそうした機械が実現し、民間に開放されたらどんな弊害が起こると思う?」
「どうだろう……『すぐ』にはない、と思います。やっぱ買う人は買うけれど、買わない人は買わないと思うし」
 車内が静まりかえった。
 局長が二重顎をいじり、笑顔の残骸を貼り付けながら、何か考えている。それからハイダに身を乗り出した。
「ハイダちゃん、この子にあれを見せてやってくれないか」
「あれ?」
「あれだよ、分かるだろう」
 勿体つける局長と反対に、ハイダの優しい顔が曇った。
「ミヨミですか?」
「そうだ。実用化されてないが、これくらいの技術は一般公開されてるだろう。この子も知ろうと思えば知れるレベルのことだ。見せてあげなさい、減るもんじゃなし」
 ああ、やっぱこの男を好きになれないと少年は思った。ハイダが納得できない顔のまま膝にバッグを載せたからだ。
 バッグを開くと、内部のPCが一緒に開いて起動した。
「美黄泉……」
「えっ?」
「ミヨミです、この子の名前です」
 鞄ごとPCを少年に向けた。画面は真っ白だ。
「声をかけてください」
「スクリーンにですか?」
「はい。何でも、挨拶でも」
 三人の強い注視を浴びて、仕方なく画面に身を乗り出した。
「こんにちは!」
『こんにちは。初めまして。私はミヨミと申します。』
 スクリーンに文字が走る。驚きで目が釘付けになった。
『私に肉体はありませんが、眼や耳に相当する器官が備わっております。あなたとお顔を合わせることができないのが残念です』
「これは……」
 ハイダを見、局長を見た。
「……これが現代のアンドロイド頭脳?」
「人間みたいな口調だろう? 設定年齢は十八歳、高校三年生。君と同い年だ」
『びっくりした? 私、もし肉体が手に入るなら、女の子がいいなって思います』
 また文字が走る。
『だって、ミヨミってまんま女の子の名前でしょ? 私はもう既にそのつもりでいるし』
「大丈夫よミヨミ、あなたは女の子。絶対に私がそうさせるわ」
『ありがとう、お姉ちゃん。できたら声も私に選ばせてね。あなたにも聞いて欲しい』
「僕にも?」
『えぇ。でも今の人間世界の法令じゃ、ちょっと難しいって。だからいつになっちゃうのかな』
「ごめんね、ミヨミ」
 ハイダはPCを閉じた。鞄のジッパーが閉められ、ミヨミは視界から消えてしまった。
「科学は進み続ける」
 局長が、自分の言葉に頷いた。
「科学が地球を滅ぼした。だけど人間を宇宙に打ち上げ、生きながらえさせたのも科学だ。そして科学はきっとまた地球を蘇らせてくれる。そうなりゃ東京在住の連中だって科学で地球に帰りたがるさ。いつまでも住み分けなんて言っちゃいられないんだよ」
 それきり押し黙ったままで、車は走り続けた。
 扮書管理局の建物が見えてきて、観光道路を下りる。
 職員用の駐車場らしい。座席ごと外におりて、光って見える自動ドアまで歩いた。前を歩く局長を見ながら、どうやって昨日の返事をしようか考えた。級友たちのことを思う。みんな、自分の進路のために必死に勉強してる。僕がこれで推薦入学が決定したら、みんなどう思うだろうか?
 局長自らセキュリティを解除しながら地下深くへ降りてゆく。誰にも会わぬままに、自分の家名が記された扉の前にたどり着いた。
 そう広い部屋ではないけれど、書棚に扮書を保管するだけだから十分足りている。三面がラックで、まだ正面の真ん中の段が半分まで埋まっただけだ。
 局長がシステムに弟の扮書を取るように命令したが、反応がなかった。
「ほらね、これなんだよ。どういうわけだか反応しない、あるいは存在しないとなるんだ」
「じゃあ僕がやってみますよ」
 少年が改めて、同じことを命令すると、「了解しました」の音声と共に壁のアームが作動した。局長は知らぬ振りをしている。そもそも、ラックから本を取るぐらい、自分でやればいいのだ。アームが中央の書見台に弟の扮書を置いた。
 大きさは、パークの本屋で『ハードカバー』と呼ばれている普通の大きさ。
 扮書に家系が関係するかは定かではないが、弟のそれも、祖父に似ている。赤地に淡い唐草模様。問題の鍵は実に小さなものだ。叩けば壊れてしまいそうな飾り。引きちぎれそうなチェーン。
「これが消えるんですか?」
「おとといは。今日は分からんね。具合がいいようだ。君がいるからかもしれん」
 わざとらしく咳払いをする。
 大股で歩み寄った局長が、おもむろに腕を伸ばした。太い指が弟の扮書に触れようとする。
 瞬間的に、少年は、強い嫌悪を感じた。触るな、と。急に局長の指が汚いものに思えた。そして、信じられないものを見た。
 扮書が消えた。
 触られる直前のことだった。
 やった! と思った。それから、自分がそう思ったことに衝撃を受け、次に起きた事柄に衝撃を受けた。
 弟の名を叫んだ。書見台に駆け寄ろうとした肩を蘇比が思い切り掴んだ。痛みが走る。
「何するんですか!」
 振り返ると、その顔に向こうに扮書が浮かんでいるのが見えた。局長が乱暴に腕を振って、叩き落そうとする。ふいっと高度をあげてそれをかわした。飛び上がる局長。
「やめてください!」
 扮書は抱きこまれる直前、もう一度姿を消した。
 ラックの前に二冊同時に出現した。
 かと思えば消える。
「これだよこれ! おととい来た時もこうだった。どうだ、信じてくれたかね!?」
 ただただ左右を見回して動きを追う少年に対し、局長は騒々しく走り回って追いかけている。
「油断するな! ほれ、二人とも手伝わんか!」
「乱暴はやめてください! 何だと思ってるんですか!」
 局長を止めるために走り出すと、肩を掴む指の力が強くなった。
「邪魔をするな!」
 思考が凍りついた。
 そのまま数秒。解けた時には、心は決まっていた。
 この人たちにはついていけない。
 手を振り、肩から蘇比の手を払いのけた。ハイダが部屋の隅から、動揺の視線を送ってくる。
 書見台に顔を戻し、あれ、と少年は目を見開いた。
 そこにあるじゃないか。
 扮書は消えても動いてもいなかった。見えない何かを追いかけて、局長が走り回っている。
 蘇比を睨んだ。こんな男より、さっきのミヨミの方がよほど人間らしいじゃないか。
 書見台の前に立ち、扮書と見詰め合った。……見詰めあうことが出来たように、少年は感じた。手を伸ばす。そこにあった。幼い頃から度々向き合ってきた扮書の手触りだった。
 視界が真っ白になった。指と扮書との間に、静電気を十倍強くしたような衝撃が走った。後ずさり、手を引いた。
 きつく閉じた目を開けたときには、そこに扮書はなかった。
 局長も走るのをやめていた。彼らを振り向く気にもなれずに、少年はただ、空になった書見台を見つめ続けた。
 待っても待っても、弟はそこに戻ってこなかった。

 結局ハイダを部屋に残し、三人で応接に戻った。オレンジジュースを出されたが、口をつけたくなかった。蘇比が部屋に残り、ハイダがここにいればもう少し気分もマシだったかもしれない。
 局長は少年そっちのけで、執務机の前で蘇比と声をひそめている。
「しかしこれは」
 少年は耳を傾けた。
「君の恩師が言っていたことと同じではないか」
「何を馬鹿なことを言うのです。あなたはここのトップなのですよ? あのイカレた老いぼれと同じレベルの発言をしてもらっちゃ困る」
「だがしかし……」
「局長、お気を確かに。恩師だなどと……奴のたどった末路はあなたもご存知のはずでしょう。実に馬鹿な。今頃どこで野垂れ死んでいるやら」
 それきり二人は黙りこんだ。話は済んだようだ。
 少年から声をかけた。
「すみません。もう帰っていいですか?」
 局長が振り向いた。強引に引き止める意志は感じられなかった。無言のまま、半そでのパーカーに腕を通し、鞄を肩にかけた。
「あぁ、君」
「弟の扮書のことですが、何かわかったら連絡をください。家にかけてくださっても構いませんが」
 怒りをこめて深いため息をついた。
「でもまあ、消えたままのほうが弟と人類の為かもしれませんね」
「待ちたまえ、送ろう」
「結構です」
 ああ、子供っぽい怒り方だと思ったが、止める気になれなかった。黙って背を向け、正面玄関を通って支部局を出た。
Comment

初読時の生々しさのままの感想。

書き出しが、読者の興味を惹く魅力に溢れていると同時に、物語の世界観の紹介にもなっていると思う。

「名も知らぬ花」という言葉は、ともすれば「名もなき花」と書かれることが多い。作者の言葉選びに対する真摯さが窺える。またこの言葉が後の「名を呼ばれない」人→「名のない」人への伏線になっているところなど、面白い。

少年の設定等がさりげなく文章に入り込んでいる。取って付けたような表現に陥る危険性が高い場面を、巧く工夫してあると思う。
十一衛星などという世界設定の単語も織り込んでいるところとか、読み手がスッと世界に入るように気配りがされている。

環境、四季の存在が描かれていることで、ぼんやりと「日本的な世界なんだな」と予感させ、最後に「東京メモリアルパーク」と紹介するやり方は好み。「お。当たった!」的な喜びがあって嬉しい。

「扮書」の設定は純粋に怖い。絶対に私はなりたくない。読まれたくない。子どもへの躾への効能は絶大だろう…。

少年が、最初の会談中にキタセさんのことを思う場面がよかった。こういう些細なエピソードは、キャラクターの性格や印象をナチュラルに表すことができ、また読み手の萌え感情にも火を付ける。

この時点で、私の最萌えキャラはミヨミたんである!


No title

「名前を呼ばれたことがない。
 いや、夢の話だ。 」
冒頭で引き込まれました。
豊原ね子様の世界にするりと落ちたような気がします。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
Trackback
Trackback URL
Comment form













管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

黒実 操

Author:黒実 操
「竹の子書房」に参加中。
www.takenokoshobo.com/index.php
無償版電子書籍がたくさん!

管理人ツイッター
http://twitter.com/kuromimigen

最新トラックバック
検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QRコード

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。