お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈32〉 著者:豊原ね子

夢見る病気〈32〉 断章・オルガレータへようこそ Ⅴ

 ―過去を地理として求める章―

 階段だけがある細長い部屋に、猫が一匹飛び出してきた。壁にあいたその穴から、次に火車が押し出されてくる。ついで識の腕が、そして頭が。
 狭い穴を這い出た識は、火車を背中に装着しながら階段を見上げた。古い木の階段が天井板まで続いていた。両脇は白い壁に挟まれている。猫に黙って手を伸ばすと、猫は、識の指先に鼻をこすりつけた。
 ルキーノがこの先にいるとは思えなかった。
 猫を鞄に入れて振り返ると、しかし今来た穴はもうどこにも見当たらなかった。
 背中が冷えるのを感じ……識は階段を上る。

 天井板を押し上げると、冷え切った空気が顔を刺した。目のまえに床板があった。室内だ。天井板を完全にはね上げて、識はその床に立った。
 質素な部屋だった。今まで通ってきた居住区の部屋にも似ている。あちらは石造りだったが、この部屋は青い縞模様の壁紙が貼られている。テーブルやベッドの上が乱雑で、生活の気配がある。今にも部屋の主が帰ってきそうな雰囲気だった。
 識は床板をきれいに戻し、猫を鞄から出してやると窓辺に立った。
 外は、美しく晴れあがった青空だった。向かいにレンガ調の建材で建てられた、八階建ての細長い建物があった。窓から顔を突き出してみれば、ここもそれと同じ建物らしい。細長く、どこまでも続いている。集合住宅のようだ。
 路上は中央に鉄柵が渡され、柵の中は並木。人も車もなかった。向かいの建物の窓にも人の影はなかった。
 識は窓を閉めて、ベッドに腰かけた。つい先ほどまでは夜だったことなど、どうでもいい事だ。肩に毛布を掛けた。猫は興味が尽きぬ様子で、部屋の臭いをかぎ回っている。
 見た夢の内容を思いだすとたまらなく恐ろしい。何よりあれがどの時点から夢だったか分からない。
 十和子が来て、話をした。それから猫が喋った……識は猫を見やる。目が合うと猫は寄ってきて、ベッドの上に乗った。毛布をもんで喉を鳴らす。ただの猫だ、しゃべるはずなどない。
 そうだ、あれは夢だった。皐月に続き十和子まで手にかけたなど、あってはならないことだ。皐月を、じゃあ、俺は殺したのか?
 あれこそ夢であって欲しい。いや、夢と現実の区別が付けられない今、夢の世界で殺した行為は現実で殺した行為と等しい意味を持つ。
 俺は皐月と十和子を殺し、ルキーノを捨てて逃げた。
 鼓動が早鐘を打つ。体温が上がりいやな汗が浮いた。顔が上気する。
 考えることをやめたい。
 しかしこの世界で正気を保つには、考え抜くしかないのだろう。本当に? 行谷は考えていなかったから殺されたというのか。そんなことはあるまい。
 猫が鳴いた。しゃがれた声だった。金色の目を細め、ひげを全部前に出して鳴いた。よく懐く猫は識の膝に乗り、頬や額をこすりつける。
 その存在に救われている自分を、識は実感した。つめたい毛を撫でてやる。毛の下には温もりを持つ生きた肉があった。しばらく無心に猫を撫でた。そのうち、猫は膝の上で眠った。
 今は、なにが夢でなにが現実かにこだわっていても仕方がない。できればルキーノを探したい。つぎまた蘇比と会うことがあるなら、ルキーノが一緒のほうがいい。誰かに奴の実在を証明して欲しい。
 蘇比はこの世界ともとの世界=世界樹世界を、互いに架空であるといった。
 世界樹世界は架空ではなかった。生きた時間の積み重ねが、あの世界にはある。
 ならばこの世界が架空なのか? 架空の世界に組みこまれ、架空の人間に自分はなったとでも言うのか? それではルキーノはどこに行った。彼が彼自身の物語に組みこまれ、登場人物としての接点を失ったのなら、二度と会うことはない。
「そんな」
 識は考えを否定した。信じたくはなかった。
 接点ならある。ルキーノのことは覚えているし、再会を願っている。この世界は正気のまま一人で生きるには恐ろしい。会いたいと思おう。心配し、無事を願うことだ。しかしそんなか細いつながりが、ルキーノを引き寄せるに足る力だろうか?
 ここはオルガレータ以外のどこでもない。かつてルキーノはそう聞いたらしい。つまりそれは、ここ、いま現在立っている地点は、オルガレータ内のどこでもいいことになる。
 漠然と広がるオルガレータというこの世界の、規模は? 国? 大陸? 世界の全て? それしだいではルキーノは地球の裏側にまで行ってしまったかもしれないのだ。
 無力感に、識は深い息をついた。
 諦めるな、と、しかし心を奮い立たせる。蘇比は『架空』とは言わなかった。架空そのものであればそう言ったはずだ。だが奴は『たがいに架空と言いきってもいい』と述べるにとどめた。完全に架空と現実という関係性ではないのだ。
 望みはそこにある。
 架空は現実あってのものだ。架空から見たら現実=母体世界のほうこそが架空である、などということはあるまい。そう考えれば、互いに架空であるに等しいとの蘇比の言は間違っている。互いに架空なら、互いに現実であってもいいのだ。
 少なくとも今この生が架空のものとは思えない。死にたくない。どちらの世界でも生きてきた。生きている。ならばどちらも現実だ。
 歩こう。識は立ち上がった。猫を鞄に入れ、廊下に出た。
 木の廊下は寒かった。窓からは陽がささず、平穏に静まり返っている。空の青さはよく見えた。廊下は果てしなく長いように思えた。同じ戸と同じ観葉植物が続き、さすがに不安になった頃、突き当りが見えた。
 突き当りには扉があった。内鍵を開けて押すと、強い風の抵抗があった。
 鉄路が延びていた。正面に高い塔があった。見上げれば、炎のレリーフのように先が尖っている。この高さにも関わらず、手すりは識の腰までしかない。眼下の通りはこの塔に行き当たって終わっていた。
 識は鉄路を渡った。塔の入り口などは見当たらなかった。鉄路の先は塔を巻く外階段になっており、それを上る。
 欧州風の街なみが眼下に遠ざかっていく。街は想像以上の広がりを持っていた。くすんだ赤色の屋根が遠く連なり、遥か向こうに、霞む山脈をのぞむことができた。識は初めて、この意味不明な世界を美しいと思った。
 屋上に着いた。そこは炎に似たレリーフの内に閉じこめられ、外界を見晴るかすことはできなかった。暗く冷たい影に満ちている。その屋上の中心に、大きな三脚の卓があった。卓からは針が伸びている。針の尖端はレリーフを越えて伸び、太陽の光を跳ね返していた。なにか意味があるものに違いなかった。
 内部へ下りる扉があった。内部は真っ暗闇だろうと思ったが、そんなことはなかった。階段の下に窓がある。下りると、円形の廊下が続く。
 識はその廊下の、一番手前の木戸を開けた。
 するとそこは夜の廃墟だった。
 慌てて木戸を閉め、ここが建物内であることを確かめると、心の準備をしてもう一度開けた。今度はただの部屋になっていた。
 中央に三脚の卓がある。屋上にあったものをそのまま小さくした物だ。天井まで針を伸ばしている。
 さっきは、と、識は思う。見たことがある。多分猫がきた世界だ。焼き払われた真っ暗な貧しい町。きららかに、光の橋が卓へと射していた。卓には埃一つなく、識は、卓がごく小さな音を放っていることに気付いた。音は針から鳴っている。近付くと、体に受ける音が高くなった。手をかざせばひどく不快な高い音の波が額に突き刺さった。
 気分が悪くなり、部屋を出た。
 木戸を閉め思った。もう一度この戸をあけてみれば、中はどうなっているだろう。また猫の世界だろうか。それとも針の部屋だろうか。
 そしてまた、ある一つの可能性に思い至る。
 猫の世界が現れるなら、俺の意識が第一枝を現出させることも可能なはず。

 回廊をゆき、階段を下りながら、識は片っ端から木戸を開けた。行けども行けども部屋に現れるのは同じ三脚の卓だった。次こそは、故郷が現れることを願うのだが、それはことごとく裏切られた。
「俺は」と呟きながら、次の戸に手をかける。「……帰りたい」
 内部は卓のある部屋だった。
 次の木戸へ走る。焦りで息が乱れていた。こんなことをしてもとの世界に帰れるとは考えにくかった。しかし、ひとめその世界を見ることができるなら、その希望を捨てることはできなかった。
 回廊の先の次の木戸にも、それは見られなかった。
 願う力が足りないんじゃないか。
 失望がうんだ弱気に、嫌な考えが息を吹きこむ。
 連邦に帰りたいと願っているのか、本当に? 本当は帰ることなど望んでいないんじゃないか?
 識はぞっとして立ち竦んだ。いいや、帰りたい。俺は帰ることを望んでいる、と自分に言い聞かす。帰らなければいけないんだ。パジェットが俺を捜している。
 そうか?
 本当にそうか? この世界では時間と空間が不確定だ。そんな世界で自分がこのままだからと言って、世界樹世界で時が経っていないなどという保証はない。
 自分がこの姿のままでも、パジェットはとうに年をとったり、逆に若返ったりしていることはあり得る。寿命で死んでいるということも。パジェットだけでなく、自分を知る人すべてが。
 受け容れてくれる人は誰もいないか、みなそれぞれの人生を歩んでいるとしたら、いなくなった自分など帰らないほうがいい。彼らの平穏で正常な時間を乱す権利などないはずだ。
 足から力が抜けそうになり、そうならないために識は次へと歩き出す。一人で立ち止まっていると考えすぎてしまう。体を動かさなければ。階段に差し掛かり、識は暗い目をして振り向いた。
 どこかの部屋に第一枝を見つけたとしても、それは地理としてどれほどの広がりを持つのだろう? とても、完全な世界を再現できうるとは思えない。識の意識が作り出すなら、識の行ったことがない場所は現れないはずだ。
 では逆に、固定された一区切りの過去ならどうだろう。過去を地理として探すのだ。
 廊下が、石の下り階段に変わる。その先に両開きの扉が待ち構えていた。今までの粗末な木戸とは違う、皮が張られた重たげな扉を開ける。
 空気の質感が変わった。視界が開ける。
 高い吹き抜けの空間にいた。輪切りの廊下が積み重なった、その一つに、識は立っていた。天井から様々な長さのシャンデリアが吊られていた。ワイヤーが幾筋も目の前を垂れ、ワイヤーが短いシャンデリアは、頭上で光っている。
「早くこちらへ!」
 唐突に、人の叫び声が聞こえた。
 真鍮の手すりから身を乗り出すと、シャンデリアより遥か下に、赤絨毯の床が見えた。走っていく足音が聞こえるが、姿は見えなかった。
 下の階へ。
 階段から、いくつか下の階に下りたとき、また同じ声が聞こえた。
「早くこちらへ!」
 四、五人の足音。手すりから身を乗り出すと、あと数階下の向かい側に、駆けていくスーツの足が見えた。
 下へ。
「早くこちらへ!」
 スーツ姿の腰までの姿。四人いる。
 下へ。
「早くこちらへ!」
 その階に来た。識は息を切らして立ち止まる。廊下の向こう側に、無覚えのある人がいた。横幅のある体に、灰色の髪。煙草で黄ばんだ肌。部下に取り巻かれて走る男は、識の父であった。
 呼ぼうとし、識は、呼ぶ言葉がないことに気付く。
 彼を父とは呼べなかった。硬直する識に気付かず、四人は近くの扉へと姿を消した。
 震えそうな足で歩き、それから、おもいきって走り出した。
 どういう関係なら、彼を素直に父と呼べただろう。どうすれば彼を許せただろう。そして自分を許せただろう。
 廊下を半周し、識はその扉を開け放つ。

 ―まるで書き損じな世界の章―

 識は姿見の前に立っていた。学生服姿の自分が鏡に映っていた。
 中学生だった。十二歳の姿だが、大人の意識がその体の中にある。そしてともに、十二歳の意識もあった。大きな南向きの窓は、陽の光をめいっぱいに取り入れて、室内を温めていた。部屋は広く、まだ召使いが掃除を終えたばかりだった。
 識は鏡に寄り、制服に乱れがないかを確かめた。襟元の学年章がわずかに傾いていた。それを直せば完璧だった。入念に確かめたが、糸くず一つついていなかった。
 なぜこんなに、縋るようにさえ確かめているのか、識には分からない。ゴミがついていれば満足か。見つけたところで、自分で取ってしまうに決まっている。取らなくても、他の者が取るだろう。失望が目の光を殺す。姿見から離れた。
 机にはもらったばかりの教科書が積まれていた。裏に名前が書いてあった。細く神経質そうな字だ。
『時量宮(ときはかのみや) 識』
 部屋がノックされた。そちらを見ると、リースのかかったドアの向こうから、初老の召使いが声をかけた。
「識さま、お父さまがお待ちかねですよ」
 返事をせず、ぼうっと突っ立って、識はドアを見つめた。
 父はああした女の一人に手を出し、僕を産ませたのだ。
「識さま、いらっしゃらないのですか? 識さま」
 せわしないノックも召使いの声も、耳障りで仕方なかった。「うるさい」と怒鳴りつけたかった。
「識さま! 開けますよ」
「開けるな」
 まだ幼い声で、識は厳しく言った。
「気分が優れない。放っておいてくれ」
「識さま、なりません」
「なぜ?」
「そのようなことを申されては困ります」
「誰が?」
 ドアに寄り、言う。
「困るって、誰が、なぜ?」
 こんなのは間違っている。どんな返答が与えられようとも、満足しないはずだ。それを十分予測した上でなお、追い詰めるように尋ねている。これは質問ではない。どんな答えも欲しくないのだから。
 今このドアを開けたら、召使いが自分に舌を出していないだろうか。敵意と悪意の眼差しを、ドアに注いでいなだろうか。愚かな子供だと、嘲笑っていないだろうか。そうであればいいのに。だがそんなことはあり得ない。
「あの家庭教師に言いつけでもして来るがいいさ。せいぜい困ってろ」
 しばらくのち、召使いは去って行った。
 彼女らは身分違いの人間に仕える存在だ。相手が何を言おうと、思おうと、それに干渉することは許されない。どこまでも別個の存在。この自分は、召使いにとって扱いにくいモノと同じなのだ。
 中学生の識のわだかまりを、儀礼銃士の識が言葉にする。
 俺は/僕は、甘やかされて育ってきたけれど、思いやられて育ってはこなかった。
 僕は、甘やかされて育ったボンボン。苦労知らずの恵まれた人間。生まれながらの成功者。わがままで自己中心的な、鼻持ちならないガキ。
 なんと愚かな真似をしたのだろう。召使いに対する振る舞いは、そうした腹の立つレッテルを真実にしてしまうものだったのに。
 父のもとに行こう。
 廊下は明るく、今日もよく磨き上げられていた。父の居所は分かっていた。ロビーから回廊をたどり、大食堂に出ると、パーティー会場は華やかな喧騒に包まれていた。床は人工大理石、天井はガラスのルーフ。さらなる天上は晴れ。壁は二面がガラスの戸になって、いずれも開放されている。
 父と母はともに、その爽やかな風が届かぬ奥まった位置にいた。大人たちがじつにさり気なく、識が通る道を開けた。
「父さん」
 両親が談笑をやめて、識を振り返った。
 自分が父に引き取られた過去ならば、この母は若き日の多賀子に違いなかった。
「制服、変じゃないかな」
「ええ、大丈夫よ」識が制服の乱れを気にしていると思ったらしく、母は柔らかい笑みで答えた。「立派よ、それに似合ってるわ。ねぇあなた」
「そうだな」、と父。「お前ももう子供じゃないな」
「ねえ、あなた。そろそろ家庭教師を変えるべきじゃないかしら。いつまでも幼児舎からの教師を付き添わせておくなんて変よ」
「検討しよう。お前の言うとおりだ」
「識、お勉強がんばるのよ」
 これは何という茶番だろう。何を嬉しがっているのだろう。今の家庭教師をクビにできることか? そんなはずはあるまい。一人息子が中学校にあがったから喜んでいるのだ。当たり前なのだろう。理屈は分かる。しかし感情を理解することができない。歳をかさねたのだから、中学生になったのは当たり前だ。これから進学、卒業、高等学校という節目ごとに、二人は喜ぶだろう。当たり前なのは、予測できる事実だけだ。
 一方識は、喜ばれ励まされたとおりに学校に通い、学ぶ。何も変わりはしないのだ。いや、変わる。逃げ道がなくなった。
 自分はこの父に近付いた。このまま望みの通り生き続けて、こういう大人になるのだ。必要なものなら求める前から与えられるだろう。
 それは毎日毎時毎分、積み重ねてきたことだった。中学校への進学はそれを明らかにした。制服は成長の象徴などではない。これまでの日常と、それが導き出す先行きを形付けるものなのだ。
 気が晴れない理由をそのように理解し、識は愕然とする。そして失望を深めた。
 僕は父さんや母さんのことを好きじゃないんだ。
 そんなことを認めたくは無かった。だがここに来て、自覚せずにいるなど無理だった。絶えず受け続けてきた仲間はずれにされている感覚。それを知られたくなくていい子の笑顔を浮かべ続けていた毎日。
 ああしかしそれにしたってしかし、恐ろしいおはなし。
 この親たちがいなければ自分は生きていくことができない。父母は僕を愛しているのだろう。愛と生活の糧をくれる人間に返せる愛が無い。そんな冷たい人間を愛する他人はなお居ない。
 この先ずっと、冷たさが露見せぬよういい子で笑い続けているしかないのだ。大人になっても三十歳になっても五十歳になってもだ。自分の子供ができても、孫ができたって、だ。一生続く。一生自分の醜さ幼稚さに耐えていなければいけないのだ。
 ああ、せめて、もう少し豊かな感受性が欲しかった。醜さをおかしみに変える能力が欲しかった。それかもう少し頭が良いか悪いかすれば。良ければこの失望をただちに割り切れた。悪ければ自分の本心に気付かずに済んだ。
「――、識」呼ばれていたことに気付く。「どうしたの? ほら、ぼうっとしないの」
 継母の声であった。妾ですらない召使いの子供をわが子として受け容れた、多賀子が笑っている。
「えっ?」
「だから、新しい家庭教師をつけるわ。これからはお勉強も難しくなるから」
 嫌だ。
 そんな人生は嫌だ。耐えられない。こんな虚無感や失意を抱えて今までと変わりなく生きるなんて無理だ。恵まれた家庭に育ち、質のいい教育を受け、何が不満なのか分からないのにある日いきなり自殺してしまったわけの分からない青少年、そんなものになりたくない。
 怖いんだよ、嫌なんだよ、気付いてよ、誰か。気付けよ。愛しているんなら、気付けよ。
「そうだね」
「そうよ」
「せいぜいやるよ。頑張るのは母さんじゃなくて僕だものね」
 母が何を思ったのか分からなかった。
 その表情の変化、目に走る緊張を、頬の引き攣りを口角の震えを、黙って見守った。母がかなりのショックを受けていることは想像に難くなかった。深く傷ついているのだ。傷は時間とともに深まるに違いない。
 これからは両親すら自分を愛するのをやめるだろうか。
 謝れと、内なる声が言う。今なら間に合う。気の迷いだ。節目に立った不安さからこんな発言が出てきたんだ。今のは本心じゃないと言え。それで許してもらえるんだ。
 識は恐怖し、恐怖を緩和させるその声に従わぬことが、更なる恐怖とある種の快感をもたらした。
 強い感情が欲しかった。恐怖でもいい、失意しかないよりはマシだ。
 母親は目を伏せた。悲しげな表情だと思った。事実母親は悲しんでいるはずだ。父親はというと、渋面を作り同じく識から目をそむけていた。
「あなたに酷いことをしたのかしら」
 と、母親は言った。
「あなたの気持ちを考えずに、勉強のことを言いすぎたかもしれないわ」
「そういうことじゃない」と、父親。「ただ精神的に不安定なんだ。中学生とは、そういう時期だ。私もそうだった。反抗期というやつさ」
 そんなことではない。父親は識の不満をただ漠然と分かっているのだろう。ちょうど、識が母を見て悲しんでいることを理解できても、悲しみそのものに共感していないように。
 共感されていない心を、そこらにあるつまらないものの一つとして扱われることが我慢ならなかった。誰でもそうだ、そういうものだと言うことで、年齢のせいにすることで、父は自分をつまらないものにした。
「識、そんなことを言うのは悪いことだ。不満があるなら父さんに言いなさい」
 不満など訴えても無駄だ。父はこの個人である限り、自分と共感しあうことはない。そんな相手に本心をさらけるなど、してはいけない。
「……お前はそろそろ要領よく話すということを学ばなければならんな」
 識が黙っているので、父は重ねて言った。
「お前はただの中学生じゃない。分かるな。ゆくゆくはお前の肩に、ここにいる数十倍の人間とその家族の暮らしがかかるんだ」
「あなた、やめましょうよ、あなた。今日はおめでたい日よ」
「いいや、今日、いまするべき話だ」
「この子にはまだ早いのよ」
「いつまでも子供じゃない、そう言いたいんだろう、識。だが大人には責任がある。子供じみた反抗は許されん」
「あなた。やめて」
 自分は間違ったことをしていないし、間違ったことを言っていない。そうした大人の理論で彼らは自分を窒息させる気だ。
 母の眼球が涙の膜で濡れた。父はため息をつき、グラスをテーブルに置いた。
 家族のいる一角の空気は、じつに冷え冷えとしたものになった。
 僕は、僕の家はここじゃない。
 それは身の底にいる大人の識が呼び起こした意識だった。
 この男はお母さんから僕を取り上げたんだ。間違ったことをせず、正しいことしか言わず、こんな事はよくあるつまらない事だと言って取り上げたに違いない。僕は……識は、どうやって自分がこの家に来たか思い出そうとした。よく思い出せなかった。
 最近のことしか記憶が無かった。この家から小学校に通っていたことしか。幼児舎の時から家庭教師をつけていたとこの母が言ったから、その時からこの家にいたのだろう。だが識は、過去が確定していないのだと考えた。
 今ならまだ間に合う。識は大食堂を飛び出した。母親が呼び止めたが、追いかけては来なかった。そのまま屋敷を飛び出した。自分がどこへ向かっているか、二人は知らないだろう。識にも分からない。ただ体は動いた。自分の知らない誰かがもう一人、共にいるようだった。それは自分の隠れた思いを、自分を上回る言語能力で言葉にし、反抗へと導いた存在だ。
 成長した僕だろうか。
 ただ、識は走った。望む方向に走っていれば、たどり着けるはずだった。
 空青く陽射しは温かけれど春の風は激しい。冷たい風に桜の花々が引きちぎられて舞う。長い坂道は、そんな花びらで埋め尽くされていた。
 息を切らし、立ち止まりまた歩き出しては走り出し、谷街の底へ急ぐ。遥か高い高架をくぐり抜ければ、そこは谷の陰。桜など無い。この区画は寒かった。やがて見たこともない懐かしい角を曲ると、ラベンダーが吊るされた一つの窓を見つける。
 たまらず識は駆け出した。
「お母さん!」
 玄関を開け放つ。
 そこは南向きの大きな窓からめ一杯に光が射す、時量宮邸の自室だった。
 何故こうなったか分からず、そのまま立ち尽くす。
 振り向けば廊下だった。体は冷えていた。頭にふれると、髪は乱れてはねていた。自分が外を走っていたことに間違いはなかった。
 息を整えながら部屋の戸を閉ざした。ぶらぶらと部屋を歩き、机の前に立つと、どうやらさっきまで教科書に名前を書いていたのだと分かった。
『時量宮 識』
「識さま、お父さまがお待ちかねですよ」
 ノックと呼び声に、識は心臓をすくませた。嫌な鼓動だった。またこの家の大きな力が、識を父の望みに屈服させようとする。召使いの声は耳障りで、うるさいと叫びたかった。
「識さま、いらっしゃらないのですか?」
「行くよ」極力冷静に答えた。「すぐに行く」
 召使いは去って行った。またさっきの繰り返しが待っているのか。父が息子から反抗する気を奪うため、時空を曲げてまで圧力をかけているのか。馬鹿な。しかしそう考えることは恐ろしく、恐ろしさには、理屈が必要なかった。
 大食堂に行くと、やはり両親が部下の一人と立ち話をしていた。部下は識の姿を認め、丁重に話を切り上げると去っていく。
「制服、変じゃないかな」
「まあ、識。髪がぐしゃぐしゃじゃないの」
 母が言い、頭を撫でるようにして整えた。
「一体どうしたの」
「……風が強くて」
「そんな頭で人前に現れたことは関心できんな。もう子供じゃないんだ」
 苛立つのを抑え、母親の厚塗りの化粧、いやにおばさん臭い化粧の顔を見つめた。
「これから気をつければいいのよ。制服がとても似合ってるわ。ねえ、あなた。そろそろ家庭教師を変えるべきじゃないかしら。いつまでも幼児舎からの教師を付き添わせておくなんて変よ」
「検討しよう。お前の言うとおりだ」
「識、お勉強がんばるのよ」
 これは何という茶番だろう。この女は何故、さも当たり前の顔をしてここにいるのだろう。識が無表情で黙っていると、両親は顔を見合わせ、母がわざとらしく身をくねらせて笑った。
「まあ、この子ったら都合が悪くなるとだんまりを決めこむんだから。識、心配いらないのよ。中学校のお勉強にだってあなたならちゃんとついていけるわ」
「僕のお母さんはどこだ?」
 母は、識が何を尋ねたか分からない様子でまだしばらく笑っていた。が、その笑みが硬直する。笑ったまま、母の伏せた目が泳いだ。そして無表情になった。無表情の顔が父をみつけると、ふと気弱な顔になった。
「お母さんはどこに行ったんだ?」
 父は無表情だった。感情のない目で、まだ背の低い識を見下ろしているだけだった。家族の周りの空気が閉じる。
「都合が悪いからだんまりを決めこむのか、父さん?」
「あなた、識に話したの?」
「あなたは黙ってて。僕は父さんに訊いてるんだ」続けて言った。「この、偽者」
 殴るがいい。識は願った。怒れ。そうする価値が僕にあるなら、あなたに怒る能力があるなら、あなたが他者の心を、守るべきものと信じているのなら、僕を殴れ。僕を謝らせるがいい。
「誰に聞いた?」
 父は顔と同じ、表情のない声で尋ねた。
「そんな事はどうでもいいだろ? お母さんがどこにいるのか聞いてるんだ。この街から追い出したのか?」
「それは答えられん」と、父。
「お前が大人になるまでは駄目だ」
「あれだけもう子供じゃないって言っていたじゃないか」
「それは私の思い過ごしだったようだ。お前の出自については、時期が来たら私の口から話すつもりでいたが、その様子では早かったようだな」
 視線を大食堂に巡らせた。その時だけ感情、鋭い威圧感が、目の中に戻った。人々はそれが見えているのか、頑としてこちらを振り向かない。
「識、誰から聞いたんだ?」
 父が身を乗り出した。
「誰から聞いたんだ?」
 それからシャンパングラスをテーブルに置くと、不気味な無表情を寄せてきた。
「……会ったのか?」
 識はたじろぎ、半歩身を引いたが、答えなかった。中学生の識では、なぜ、自分が事実を知っているのかどうにも分からなかった。答えようがなかったが、誰かに教えられたことであっても、答えなかっただろう。
「あなた、もうやめて」
 母親が割りこむ。
「この子は悪くないわ、私が悪いのよ。ああ、識、私はあなたの本当のお母さんじゃないわ。だけどそれに負けない愛情をあなたに注いできたわ」
 識は母の腕に抱きしめられた。じっと身を硬直させ、気持ち悪さに耐えた。頬ずりしながら母が涙を流していることに気付いた。
 違う! 多賀子はこんなしおらしい女じゃない!
 それは唐突な閃きで、じゃあ、この女は誰だろう。母親だ。そうに違いない。識に「母さん」と呼ばれるためにいる役にすぎないのだろう。この父とて同じことだ。
 母は愛情深い継母という役で、その台詞を言っている。
『本当のお母さんじゃないけれど、あなたにはそれと同じ愛情を注いできたわ』
『ありがとう。あなたこそ僕の本当のお母さんだよ!』
 これを最初にやりとりしたのが、どこの誰かは知らないが、その人たちは時間と関係性の深みの中でその言葉を口にしたに違いない。ならば言葉は真実だ。当事者が口にするぶんには。
 恐らくくだらない人間と中身のある人間は同じことを言うのだ。前者は後者の言葉の真実性に感動し、よく似た場面で口にする。
 何か反応を返せば、自分は『母親』と同次元になってしまう。いつか言うのだ、『あなたこそ僕の本当の母さんだよ!』拒んでも、その先にはまた別の相応しい台詞や動作がある。
『私じゃ駄目だったのね、あなた』
『なぁに、いつかあの子も気付くだろう。もっと大切なものに』
 だから消えればいい。
 識は腕からずり落ちるようにうずくまり、顔を掌で隠した。消えればいい!
 そのまま動かなかった。ふと我にかえれば、食堂のざわめきが消えていた。母親の気配もなくなっていた。顔から手をずらすと、自室の床が見えた。膝を伸ばし立ち上がった。制服が皺になっていたが、鏡で確かめる気もおきなかった。母親を罵倒し泣かせる、自分の顔を見たくなかった。
 机には名前を書かれたばかりの教科書が積んである。その一つを手に取った。
『時量宮 識』
 これは僕の名前じゃない。すると風に吹かれた砂のように、字が払われて消えた。識は名前を知っていた。思ったり考えたのではなく、知っていた。ペン立てからペンを取り、その名を書いた。文字がひどく震えた。この場所でそれを書くことが、決定的な何かを起こすと確信していた。
『名倉 識』
「識」
 ノック、そして呼び声に、識は飛び上がった。ペンが床に落ち回転した。跳ぶ鼓動。それは識を突き動かす。
「お母さん!」
 廊下は無人だった。よく磨き上げられ、外で、桜の花が舞う。
 階段を下り、ロビーを通り過ぎて大食堂へ。誰にも会わなかった。絵や工芸品の飾られた廊下の先で、大食堂が、扉を片方開けていた。
 人工大理石の床とサンルーフ。誰の姿もない。ガラス戸が一枚開き、桜が吹きこんでくる。
 歩み寄り、ガラス戸に手を添え外を見る。
 その桜の下で、母の白い両足が浮いていた。
 春風に揺られている。

 ―叶わずはノイズ―

「お母さん!」
 識は叫んだ。いいや、掠れた息しかでなかった。それが首吊りという死であることは、世間知らずの識でも知っていた。
「お母さん!」
 識が泣いていることに構わずに、風は吹き、陽射しは温かく、土は柔らかい草を匂わせている。桜吹雪が舞い、春の空気は微小の生命の気配で濁っている。
 こんなことを望んだのではない。お母さんが死ぬなら、お父さんと暮らせなくたってよかった。
 お母さんは――母は、いつだって泣いていた。
 風がやむ。うららかな気候はまたも、石室の冷たさに変わる。
 母とは泣くイキモノなのか。夫の身勝手に泣き、味方なはずの息子が次第次第に夫に似る事実にまた泣くのか。
 俺は母に対してむごすぎた。跪いたまま、識は煩悶した。父をおそれる彼女に、責める以外のことは何もできなかった。何もしようとしなかった。この境遇に自分を産んだ母に対して怒っていた。父の妻は、何が何でも自分の子を産もうと頑張っていた。だがそうはならず、父は、識を母から取り上げる方法をいつも考えていた。死ぬまで。
 母は泣くしかできず、識は怒るしかできなかった。母親の両目からは、しおからい涙がぽろぽろこぼれ、それが通ったすじみちから、彼女は老けていった。
 目を開けた。大人の体と儀礼銃をもつ、ただ一人の自分がいた。卓上では天上まで伸びた針が、少ない光を集め輝いていた。
 火車を振り上げ、識は、その針を切断した。咄嗟の行動で、こんな物があってはいけないのだという、自制や思考が差し挟まる余地のない決断だった。火車を卓に叩きつけて、完全に破壊した。
 すると戸が外から開いた。様々な人種や年齢の食器棚人たちが行進して来て、壊れた卓や折れた針を、めいめい手に持った。
『これはいかん!』
『これはいかん!』
『これはいかん!』
『これはいかん!』
 識は食器棚人たちを蹴飛ばした。女も子供も関係なく蹴飛ばして、壁まで吹き飛ばした。しかし食器棚人たちは、識に構わず身を起こすと、
『これはいかん!』
『これはいかん!』
 卓と針の修理にかかる。
「しーにゃー、しーにゃー、出たい」
 ポーにゃーが、鞄の中でもぞもぞと動いた。食器棚人に構うのをやめて、ポーにゃーを出してやった。
「ごはん」
「ご飯はないんだ」
 識は静かに言った。識が蹴るのをやめたせいで、食器棚人たちが卓の修理にかかり始める。
「あいつらを襲ったら食えるか?」
「よくない」
 ポーにゃーは答える。
「あれたべるのよくない」
 可笑しくなって頷き、空の鞄を拾い上げた。この小さなたくさんの卓を壊していてはキリがないだろう。たぶん屋上の、一番大きなものを壊せばいい。
 識とポーにゃーは石室を出て、屋上の大きな卓を壊した。頭の中が軽くなった。この町に鳴り響いている、耳では識別できない音が一つ消えた。音が全て消えれば、世界は真実の姿を見せるに違いない。
 もしかしたら、これがもとの世界に影響を与えるかもしれないが、今の識には分からなかった。
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