お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈33〉 著者:豊原ね子

夢見る病気〈33〉 第三章 Utopia(第七枝 夏) 第四話 神話の子 ――1/2

 第四話 神話の子

 ―1―

 熱風が肌を焼く。月だけが照らす中、パジェットはその男に歩み寄った。
 ミナシキは身を引く。
 再び膠着が訪れた。
 パジェットが歩を詰めた分だけ、ミナシキは目をそらさず、後ずさって距離をあけた。
「まあ、なんだ」とりあえずパジェットは話しかけた。「入るか? 何も出せねえけど」
 北部郊外からここまで歩いて来たのだろうか。結構な距離がある。市街を突っ切って最短距離をとったにしても、徒歩で気軽に来れる場所ではない。
 パジェットはつとめて優しく、ゆっくり語りかけを続けた。

「ことば、わかるか?」
 相手の男は背を向けて、足早にこの場所を立ち去ろうとした。するとその背がぴたりと止まる。
 ミンタカだった。
 はからずも、二人で一人をはさみこむ形となった。
「ことばが、わかるかと、その男は訊いている」
 ミンタカが歩いてきて、相手の数歩前で止まった。彼はパジェットをふり向く。その唇が動いた。
「すこし……」
 と、この国の言葉で答えた。
「……すこし、わかる……」
 パジェットは鷹揚に頷き、改めて歩み寄った。ミンタカがいつからつけて来ていたかは分からないが、いい気はしない。
「オレは、パジェット」穏やかな声で、ゆっくりと、自分を指差し言った。男は頷いた。短い逡巡をはさんで、また口を開いた。
「……シキ」
 それが「識」と聞こえた。識であるはずがない。それでもパジェットは一瞬の、彼があの識であるような錯覚が抜けず、闇を透かしてその容貌を凝視した。識ではない。偶然だ。
「ここで何をしているんだ?」
「?」
「なにを、して、いる?」
「……旅……リョコウ……?」
 そんなことを聞いているのではなく、ましてただの旅行者であるはずもないのだが、パジェットは一応うなずいて、答えを受け容れた。
「どこかに行くのか?」
「?」
「行く、場所、ある?」
 意味は通じた。居ずまいで分かった。シキはうなだれ、首を振って問いかけを拒むと、パジェットのほうへ向かってきてそのまま通り過ぎようとした。
「帰るのか?」
 頷く。
「送るか?」
 無言で拒否し、彼は夜の濃い闇の中へ姿を消していった。パジェットから離れた位置で、ミンタカもその背を見送った。足音が聞こえてこなくなるまで、二人とも黙っていた。
「今の誰だ」
「さぁな」
「会ったことがあるだろう」とミンタカ。「前に北部で会ったというのは、今のだな。言葉が通じないという。枝を越えた我々の言葉がわからん人間はそうはいない」
「……ああ、そうだ」
「シキと言っていたな」
 パジェットはわざとらしくため息をつき、二人の間の空気を変えた。
「いつからついて来てた?」
「お前の車がいやに慌てて出ていくのが見えたからな」
 ミンタカはさも悪気なさそうに肩をすくめた。
「その鞄はなんだ?」
 アタッシュケースの持ち手と掌の間には、すでに汗がたまっていた。汗ごと握りなおす。それから落としてはならぬと脇に抱え、嫌な汗をかきながら答えた。
「アルバムだ……家族の」
 車のあるほうへ歩き出すパジェットに、「ふぅん」というだけで、ミンタカは追求しなかった。
 車内はいっそう暑いが、少なくとも一人で居れた。ミンタカが見ているかもしれない。何でもないふうにエンジンをかけた。

 ―2―

 一週間が過ぎた。
 行方不明者の捜索なども終わりつつあった。被害を受けた地区の住民たちはあらかた迅速な避難をすませていたため、行方不明者の把握もたやすかった。その人らは廃墟の中から死体で見つかったり、どうにか生きながらえていたりもした。
 どこを探しても見つからない人というのもいた。そうした人は蟲に連れ去られて蟲の世界にいったのだと、テルノ市民らはひそかに噂した。
 せめて死体が出てこればそんな噂は信じずにすむということもあり、死体を捜す人たちはろくに休息もとらぬまま、働き続けていた。
 照りつける太陽の下、廃墟の瓦礫を崩しては運び、崩しては運び、腐った死体が出てこればそれもまた袋に入れて運んでいくという、辛い仕事だった。
 清掃公社の若者が陽射しから逃れて低いレンガ塀に座りこんだ。そこだけ平らで、腰をかけるのにちょうどいい塩梅だった。軍手を脱いで青い作業衣の袖をまくると、ほんの少し涼しくなった。
 それから、嫌になっちゃうなあ、と呟いた。
 死体を見て吐いたのはつい先日のことだった。引き伸ばされたかのように、道路に体の部品を撒き散らしながら死んだ人がいて、その部品を拾い集めながら進むうちに先輩が本体を見つけた。それは顔面を削り取られた頭部と胴体で、「おいお前が拾え」と先輩が言うので「先輩が見つけたんじゃないですかぁ」と言うと殴られたのである。
「ああ」若者は嘆いた。
 いなくなった人には早く見つかって欲しいと思う。たとえ命がなくてもだ。
 しかし自分が死体を見つけるのは嫌だ。触るのはもっと嫌だ。
 だから自分の担当外の区画で自分以外の人が見つけてくれたらいいのに。
 などと子供みたいなことを考えていると、視界の端からレンガ塀の上を猫が歩いてきた。平和なときにはさぞかし満たされた生活をしてきたのであろう、まるまると肥えたノラだった。目が合うと、猫はぎょっとして歩を止めた。
 若者は猫に指を伸ばし、舌を続けて鳴らして呼んだ。
 猫は警戒したものの、若者が猫嫌いではないと分かると首を伸ばしにおいをかいだ。撫でようと身を乗り出したら、あとずさってかわし、猫がさけんだ。
『うわ! お前の手ぇくっせえ!』
「っだあ!」
 若者も叫んだ。猫は塀をおりると、『くっせえ! くっせえ!』と叫び続けながら走り去っていった。
 先輩が声を聞きつけて、ひなたから走ってきた。
「こら! お前、何さぼってるんだ!」
 殴った。
 清掃公社に勤めて二十年になる先輩は、腕も足も太く、力が強い。脳天を殴られて視界に星が散った。
「あ痛、なぐること無いじゃないっすか!」
「てめぇがサボったりぎゃあぎゃあ騒ぐからだ! なにが『っだあ!』だ」
「そうだ! 先輩、猫が、猫がいたんです」と、もう何もいない路地を指差した。
「猫がどうした!」
「猫がしゃべったんですよ!」
 先輩はかたい拳をつくり、殴った。

 襲撃から六日後のテルノ市。結界塔がここ二ヶ月の間、ずっと特異点をモニターしていた事実が、術師団の調査により判明した。
 結界をなす霊子たちを、何がそこまで惹き付けたのかはまだ分かっていない。しかし結界塔は、霊子結界は、その特異点を蟲に勝る脅威と判定し、監視をしていたというのだ。調査に訪れていた術師団は、その事実をテルノ市の有力者を集めた会議で発表した。
 儀礼銃士協会テルノ支部局のギル・カク局長も、会議に出席した。局長補佐としてミンタカの出席も許された。はじめは誰も調査団の報告を受け容れようとしなかったが、特異点の方角にむかってなびく霊子の存在分布図を提示され議席は静まりかえった。
 その後なぜ、二ヶ月もの間だれも結界塔に注意を払わなかったのか、と調査団は怒りをあらわにした。さらに二ヶ月どころか四ヶ月もの間、結界塔を管理する霊子技術機構管理部の部長の座が空位だった事実が明るみにでた。件の部長は隣の市に入院中、先が長くない。部下たちは別の部署に接収され、接収した部署の次長が、のちのち霊子技術機構管理部の部長となる手はずとなっていた。
 普通の市なら、霊子技術機構管理局が立ち上げられて結界塔をはじめとする防衛・守護機能が確立されている。そんな重要な防衛部門を役所の一部署の管轄としてきたテルノ市が、調査団の者たちには信じられなかったに違いない。もともと片田舎の小さな村だったテルノ市には、膨れ上がった人口と都市機能を支えるだけで精一杯だった。人口が増大した一因は蟲によって住む場所をなくした人々を受け容れてきたからだ。そのテルノ市が市の防衛をおろそかにしていた。そのうえ、平和に慣れすぎていた。
「あなたたちは私らを職務怠慢と責めたてますがね、もともと結界塔の監視業務なんて来る日も来る日も変わりばえしない霊子存在分布図を眺めるだけの仕事だったんだよ。財政難のテルノ市でそんな仕事に人を割いておけるものか」
 こんな開き直った発言が飛び出すと、たちまち市議会は紛糾し、予定外の休憩が間に挟まれた。休憩後の会議では調査団員たちは、冷ややかな目をして議席を見下ろすだけだったという。
 七日目の会議の途中には、更に恐ろしい知らせが入ってきた。
 蟲が、テルノ市北部郊外に向けて地中に侵入路を掘り進めていたのだという。テルノ市北部の結界塔では、地中の脅威に対応できなかった。ほかにどれ程のこうした侵入路が作られているのかわからない。
 テルノ市が放棄されるのも時間の問題となった。
 いっぽう調査団と他市町村の派遣員は、そそくさと自分の領地に帰っていった。そうした他市町村はどこも、物資による救援の強化を申し出てきた。
 それは、万一の場合にもテルノの難民を受け容れないという暗黙の表明だった。

 人々は住む家をなくしたが、物資は潤沢だった。郊外の難民たちは、市内の様々な公共施設や公園に受け容れられた。学校から子供たちの姿が消えた代わりに、難民たちと彼らの腹を満たす食料の香りが満ち満ちた。
 行谷は重厚な石造りの門をくぐった。誰かを待っているふうな母と子がいて、子供のほうが泣きべそをかきながら愚図愚図と文句を垂れていた。
「ママ、おじいちゃんが迎えに来るんじゃないの? いつ迎えに来るの?」
「待ちなさい。おじいちゃん、都合があってテルノ市に来れないの」
「都合ってなに? どうして? ねえ、早くおじいちゃんのお家に行きたい」子供は顔を真っ赤にし、母親の服の裾をつかんで泣いてしゃがみこんだ。
「ねえ、ママ、ここご飯がおいしくないよう」
「食べられるだけでもありがたいと思いなさい!」
「となりのおじちゃんも言ってたもん。あのさあ、ここご飯がおいしくないって。ねえ、おじいちゃんのお家に行こうよう。どうして行かないの? ねえ」
 行谷は無表情で彼らの横をすり抜けた。
 避難所はひしめく生命、その気配、なにより質量に満ちていた。砂塵が朝の光に照らされ、人の群れをかすめている。
「どこもかしこも、あたしらが街に入るのを許さないっていうじゃない? 親戚やら家族の家に行くのすら駄目。あたしらを町に入れるなと行政が言っておるんだと。どうかしとるわね」
「だってよう、アレだ、おれらが押し寄せてくるのはどこの街でも困るって言うて。参ったなあ、せめて市街に住めるとこがあればよう……」
 巡回は行谷の仕事ではない。パジェットから局長への進言があり、今は警邏の当番を外されていた。それは、おまえは無力だと言われているように、行谷には感じられた。仕方がないことだ。あれ以来何をするにも考えるにも集中できず、聞いた話はすぐ忘れ、怒られようが心配されようが、無表情で「はいすみません」と繰り返すだけだった。先輩の朱鷺子は自分を案じてくれている。人に案じられることが必要な状態なのだろう。しかし行谷には、それがどうしたとしか思えなかった。
 胸中は穏やかだ。心の海は波ひとつ立てず、それでいて、荒れ狂う嵐の予感を湛えている。
 昨日は一日宿舎で寝て過ごし、朝起きて、今日は出歩こうと決めた。なんとなく人の気配のある場所を求め歩いているうちに、避難所にたどりついたのだ。
 横手を素早い何かが駆けていった。さっき校門で母親相手にぐずっていた子供だった。
「すみません……あれ」
 追いついてきた母親が、行谷の後ろで足を止めた。行谷はその主婦を知らないが、主婦は、何かを確かめるように行谷を見つめていた。
「……儀礼銃士の方ですよね?」
「はい?」
「西部郊外に来てくれた。私、知っています」
 行谷は主婦を、人がいない前庭の木立まで連れて行った。そこで主婦は行谷に礼を言った。
「あの日は、ご近所のほかの人たちとピクニックに行っていたの。川べりで子供たちを遊ばせていて……そしたら町のほうからもの凄いサイレンが聞こえてきたんです。私たちは完全に逃げ遅れてしまいました。本当に、あなたたちが来てくださらなかったらどうなっていたことか」
 行谷は、何も言えずに黙ってうなだれた。その反応をどう思ったのか、主婦もしばし口をつぐんだ。が、気まずさに耐えかねて言葉を重ねたのは、主婦のほうだった。
「ごめんなさいね、子供を捜しにいかないと」
「お子さんはどちらへ?」
「お菓子をもらいに行ったんです。そうしたものは沢山あるようですから。感謝しなければなりませんね」
 別れの挨拶をかわし、主婦はひとごみへと駆けて行った。
 すると入れ違いで、色黒の肌の痩せた青年が歩いてきた。眼鏡の奥の、いつも半開きになったような細い目で、行谷を見た。
「八木くん」
 儀礼銃整備士の八木明俊は、表情を変えずに片手で挨拶した。べつに無感情な人間なのではない。顔の動きに出にくいのだ。
「どうも、こんにちは」
「どうしたの?」
「や、工藤さんに居場所聞いたらここだって言うから……」
 八木は口ごもり、気まずそうに目をそらした。
「あまりこんな所に来ないほうがいいっスよ。そのまあ、最近はオレらのことよく言わない民間人とかいるから。儀礼銃士だけじゃなくて、術師団とか、駐屯地の人とか警官に対してもですがね」
 居たたまれない思いで、行谷は視線を足もとにおとす。八木の言うことはよく分かっている。儀礼銃士は民間人に銃を向けた。仕方がなかった。あの時は、パジェットのほうが正しかった。
 死んだ子供は大人になれない。子を作らない。パジェットや指令に従ったほかの銃士たちは、たしかに民間人を殺した。蟲がそれ以上人を殺すことを阻止した。それが出来なかった行谷は、間接的に未来に対する殺人をおこなったのだ。
「いや、あの」八木は焦り、首を振った。「すいません、いらんこと言って。でもそんなの行谷さんのせいじゃないっスよ。仕方なかったっスよ」
「私は決断できなかった」
「……オレそういうのやっぱ、まあ、……いや、分かるなんて言えないけど……」
 八木は自分に苛立って、行谷の前で頭をかいたり細い目で何もないあたりをやたらと睨んだりした。
「オレには行谷さんが悪いなんて思えないっス。いや、あの、すいません」
「なにが?」
「なんでも。それよr行谷さん、特異点調査はどうするんですか?」
 無感動だった心の奥で、何かが疼く。それは使命感のようなものだ。八木はそれを訊きにきたのだと行谷は察した。
「オレ行くんですよ。先生について行くって言っちゃって。行谷さんにも一緒に来て欲しいっつーか」
「どうして私に?」
「結界塔が、特異点のほうを監視してたことは知ってますよね。蟲以上の脅威があるらしくて」
 責任を感じているなら、一緒に特異点調査にいくことでその原因を解明しに行こうと言いたいのだろう。するとまた遠くのほうから、
「行谷さん!」
 呼ばれた。
 崔が見知らぬスーツの男を連れて走ってきた。
「八木くん! 見つけたら連れてきてって言ったでしょ? 何やってるの!」
「すんません」
 スーツの男が行谷の前に立った。歳は四十過ぎあたりと見られ、背は高く、その居ずまいから同じ儀礼銃士ではないかと思った。
「行谷すずなさんですね。私は今回の特異点調査の調査団長となりましたルエと申します」
「団長? 前回の面接ではベルネットという方が団長だと伺いましたが」
「ベルネット氏は、あの日お亡くなりになられました」
 ルエ団長は手短かにつたえ、先の団長を悼むための沈黙をはさんだ。
「……つきましては、前回面接の途中だったあなたに改めて面接を受けていただきたく参りました。ついて来ていただけますか? ちなみに、あなたで最後なのですが」
「面接を? まだ大丈夫なのですか?」
「正直にお伝えしますと、日程があまりにもおしております。ですのでこの面接がすなわち今回の調査の説明会になるとお考え下さい」
 行谷は呼吸を止めて、ルエの顔を凝視した。面接を受けると言えば、採用するつもりなのだ。
「すべてはあなた次第です」ルエは言った。「どうします?」

「ほんとなんだってば!」
 いっぽう朱鷺子とパジェットは、車で北部郊外の市民たちの避難所を目指していた。
「蟲を消しちゃったんだよ、そのシキ? っていう人。ああ殺されちゃうって思ったら蟲が全部わあって消えちゃって、あとにその男の人が一人で立ってたんだ」
「いや、おめぇが嘘ついてるとは思わんけどよお。オレだってそんな話を無条件に信じるわけにはいかねえぜ」
「分かるけど! パジェットさんが言うのも分かるけど! でもそうじゃなきゃ北部郊外があれだけの被害ですんだわけないじゃない」
 坂道がカーブに差し掛かり、家々が途切れる。カーブの下は市民会館で、そこが北部市民たちの避難所となっている。
 車は坂を下りていき、市民会館の前庭に進入した。駐車場に車を置き、二人で二階建ての横長の会館へと歩いていく。
 するとどこから姿を見ていたのか、慌てて人が飛び出てきた。二人のもとへ走ってくる。
「リゼキさんじゃないですか! おひさしぶりです!」
 小幡力哉だった。パジェットはその姿をみとめ、片手を上げた。後ろから彼の妻も歩いてきた。
「ご無事で何よりです、あの日は西部郊外にいらしたんですね。お話は伺っております」
「どうも。よく知ってますねぇ」
「チェーレンさんから伺いました。あなたのことが気になっておりましたので」
「私たち一家、あなたたちのことを心配しておりました。娘もです」
 小幡の妻が言う。パジェットは照れ笑いで返した。
「息子さんの方はどうしてます? 前は入院していたみたいですが」
「体が弱い子で……。今は中央の病院にいます」
「では無事なんですね。そりゃよかった。ところでいいところでお見えになった。人を探しているんですが」
「人探しですか?」
「最近北部に来た人で、シキっていう人ご存じないですかねえ。男で背はこれくらい、片言で髪の色は黒……」
 小幡は首をかしげ、妻を振り向いた。
「すみません、ちょっと……。アレグル、分かるか?」
「それ、ネーリ先生のところにいる男性じゃないかしら」
「ネーリ先生?」
「医師の方です、小さい病院を開いてらっしゃる。名前はちょっとわかりませんが、特徴は仰るとおりです。言葉が通じない病気の人です」
「病気? ほう」
「肺病だと聞きました」
「前の襲撃のときは、その人を見かけましたか?」
「いいえ……そういえば見なかったわ」
「……蟲が来てたとき、その人はどこで何をしてたんでしょうねえ」
「地下避難所ではネーリ先生はお一人でした。先生がいらっしゃれば詳しいお話が伺えますが……」
「ネーリ先生はどこに?」
 夫妻は顔を見合わせた。
「朝から姿が見えないですね。医院に戻られたか、他の避難所の応援に向かわれたかだと思いますが。いつごろ帰られるともちょっと言えない状態で……」
「分かりました。では、明日のこの時間にまたお伺いします。そう伝えていただけますか?」
「はい。協力できることがありましたら何でも仰ってください」
 そう言って小幡は歯を見せて笑った。
「そういえば、あなた方はこれからどうなさるんです?」
「母が市街におります。とりあえず、子供たちは母に預けることになっております」
 パジェットは、手を振って夫妻と別れた。車にのりこむと、朱鷺子がアクビとともに大きな伸びをした。
「……蟲を消すなんて、そんなの見られたら有名になってるよねえ」
「おめぇは見たんだろ?」
「早くあって本人に聞きたいよ」
「大人しく話す相手ならな」
 車を出した。

 ―3―

 テルノ市の坂の上のほうは、高級住宅地となっている。
 下り坂を、ゴムボールが跳ねながらころげ落ちてきた。坂の下ではアガーシャが一人で、覚えたての自転車をこいでいる。
 平坦な広場でボールが動きを止めた。アガーシャは自転車をおりた。汗をぬぐい、ボールを両手で持った時、坂から二人の子供たちが駆け下りてきた。アガーシャより少し上くらいの、男の子と女の子だった。アガーシャは無言で二人を見つめ、歩み寄ってボールを渡した。
「ありがとう」
 男の子は額の汗をぬぐい、さわやかに笑いかけた。
「きみ、どこから来たの? この辺にくるのは初めて?」
 アガーシャははにかみ、笑みを浮かべて、ごく小さな声で答えた。
「うぅん」
「たまに来るの?」
 もう一人の女の子も、膝を曲げて視線を合わせた。
「うん……」
「ひとりなの? ぼくたちと遊ぼうよ」
 アガーシャは後ろの、広場から平和公園に繋がる白い一本道を振り向いた。プラガットが芝生の合間の小道を縫って帰ってくる気配はなかった。
「いいの?」
「うん、一緒においでよ」
 アガーシャは嬉しくなって大きくうなずいた。
 すると慌てた様子で主婦がふたり走ってきた。
「あなたたち、お昼ご飯よ!」
 男の子が振り向き、答えた。
「ええ、まだ早いよ」
「いいから早くおいで。こっち!」
 一人の主婦が強引に男の子の手を引いていく。女の子はもう一人の、母親らしき主婦に連れて行かれることに踏ん張って抗議した。
「おかあさん! この子、私たちのボールを取ってくれたんだよ」
 すると主婦はアガーシャを見下ろし……満面の笑みになって言った。
「そう、ありがとねえ」
 二人は連れて行かれた。
 大人たちは子供たちに、鋭い口調でなにか言っているらしかった。
「どうして? ねえ、母さん、どうして? なんであの子と遊んじゃいけないの?」
 男の子の抗議が聞こえてくる。夏の陽射しのなか取り残され、アガーシャは一人たたずむだけとなった。

 ブリキのバケツに生ぬるい水が満ちていた。そこに白い手とスポンジが、ざぶりと入って出た。プラガットは水を吸ったスポンジを軽く絞り石碑をこすり始めた。見晴らし公園に立つ石碑は、土台も含めてプラガットの背ほどの高さもない。それは大樹の木陰にあり、木漏れ日が石碑の表面で揺れていた。心地よい風が吹いた。プラガットは汗をぬぐい、顔を上げた。鉄柵の向こうは崖で、眼下にテルノ市を一望できた。
 その古い石碑を、プラガットは丹念に磨いた。石碑を伝う水は一瞬プラガットの顔を映し、流れ落ちてしまう。後ろから足音が近付いてきたのは、少し経ってからだった。振り向くと、赤毛の男がアガーシャを連れてきた。鼓動が跳ね、スポンジをバケツに放りこむと、大慌てで手を拭いた。
 アガーシャが走ってきた。立ち上がったプラガットの腹に顔を埋めて抱きついた。
「アガーシャ、どうしたの? 言ってごらん」
 幼い子供の暗い顔に表情を曇らせ、その頭に手をのせる。メルヴィは呆れ、歩み寄った。
「礼くらい言えよ」
 警戒した面差しを、プラガットは向けてきた。
「連れて来てやったんだ。そんな子供を公道にほったらかしにする奴がいるか、危なっかしい」
 すると無言でうなだれた。馬鹿馬鹿しくなったメルヴィが踵を返すと、すぐ声が追いかけてきた。
「あの、待って。ありがとう。この前はごめんなさい」
 アガーシャを引き剥がして、プラガットはメルヴィの前でもう一度詫びた。
「ごめんなさい。調子に乗って悪いことをしてしまったわ」
「……いいよもう。ここで何してるんだ?」
「石碑を洗っていたの」
「なんでまた」
「大切なものだからよ」
 メルヴィは興味を持ち、石碑に近付いた。石碑は古いが手入れが行き届いており、刻まれた文字を読み取るのに苦労はいらなかった。
『建国の将マナハー二世 戦勝の碑』とあった。
「かつてこの国を開拓し、古民族と開拓者たちの和平を実現した英雄よ。二百年も前だわ。蟲がくるずっと前。アグレシア国の平和は彼が築いたもの」
 石碑の文字に目を走らせると、ここがアグレシア国統一戦争の最終決戦の地だったとあった。
「へえ。で、なんで、その英雄が大事なんだ?」
「私はこの人を産みたい」
「……」
 意味が分からなかった。
 メルヴィはプラガットの端正な横顔を見下ろしながら、俺はまたからかわれているかと考えた。が、からかうにしても、プラガットほどの歳の娘が「産む」などという言葉を、冗談で言うとは思いたくない。プラガットはメルヴィの目を見ず、微笑むだけだった。
「仲直りしましょう。いま、私の秘密をあげたから」
「秘密って……」
「DOLLsたちの神話なの。いずれ世界は生みなおされる。蟲が来ない世界の再来よ。私たちは死者を産むの」
「神話って?」
「先に産まれたDOLLsから聞かされたおはなし」
 メルヴィはそれを聞いて安心する。
 他愛も無いおとぎ話か。それにしても彼女ら、DOLLsたちはいつ独自の神話を持ったのだろう。
 いや、それもお話好きなDOLLsがいたというだけのことかもしれない。
「プラガット!」
 涼しげな声が公道の方面から響いた。プラガットと同じ歳くらいの少女が、芝生を踏んで走ってきた。高く結われた栗色の髪が揺れている。白く細い脚が動くたび、丈の短いスカートが揺れる。
「ピケ!」
 プラガットが走る。二人は抱き合い、歓声をあげた。あのピケという少女もDOLLsらしかった。アガーシャが無言でメルヴィを見上げていた。再会を喜び合う二人をよそに、メルヴィは黙ってアガーシャを見返した。
「メルヴィ、彼女はピケ。同じDOLLsなの」
「ああ、そう……」
 メルヴィは浅く頷いた。
「……それじゃ」

 日が落ちる。丘のふもとの焦土に残照の藍が降る。
 焼けてしまった家々を、夜風が思い出ごと削っていく。
 火が回らなかった区画には砂塵が吹き付ける。ひとつの家の屋根裏の窓に、ランプの火があった。
 ベッドに座るミナシキが古いギターを構える。琥珀色のギターの表面に、とろけるような火が揺らめく。弦を押さえて鳴らす。電気もない、水もとめられた郊外に激しいギターの音色が響いた。
 それが和音の連続から不安定な旋律へ、次第にたしかな旋律へ移り変わり、再び和音のつながりへ回帰していくのを、隣の平屋で横たわる主婦が、猫を撫でながら聞いていた。
 寝室に月の光が差していた。月光を散らしたブランケットの中、目を閉じたままで言った。
「きれいな音楽だねえ」
 猫は目を覚まし、前肢を片方突き出して伸びをすると、喉を鳴らし始めた。
「きれいだねえ、トラちゃん」
「ぼく、よくわからない」
 トラ猫は目をつぶる。主婦は微笑を浮かべ撫で続ける。
「いい子ね、トラちゃん。ママ、もうトラちゃんを置いていったりしないからね。ずうっと一緒だよ。……ずうっと一緒だよ」
 その家の外を、丘の明かりに背を向けて、ネーリがやって来る。
 また弾いているのか。水の入ったボトルを持ち直し、急ぐ。
 あの男のギターは感情をかき乱す。ネーリは耳が肥えたほうではなく、彼の演奏技巧がうまいか下手かも分からない。ただ確かなことは、彼のギターには力がある。ごまかしの無い力だ。人が持つ個人的な記憶と時間に働きかける力だ。
 ネーリの視界に広がる光景は、春の花薫る石畳の坂だった。幼いネーリは飴の小瓶を持ち、一粒出しては口に入れる。隣を母が歩いている。買い物袋が重そうだ。ネーリの家には車などなかった。酔いつぶれた父が出先で潰してしまったのだ。ネーリはそんな事情を知らなかった。知っていたとて、それについて当時の自分に何を思えたというのか。ただ嬉しかったのだ。飴を買ってもらえて嬉しかった。
 転調。
 また別の記憶。ラジオから、遠い国での大きな戦争の話が聞こえてくる。母親が椅子から立ち上がり、ラジオのつまみを捻る。そうすると、子供向けのおはなしの朗読が聞こえてくる。
 テンポアップ。
 夏。生まれて初めてピアノの前に座った。おそるおそる白鍵に指を置き、しずかに押していく。ピアノは鳴らなかった。押す力が弱すぎたからだ。それでも、音楽室は無上の音楽に満ちていた。まだ鳴らされない全ての音の可能性が、ネーリを取り巻きさざめいていた。校庭では級友たちが遊んでいる。
 不遇な子、不運な子だと大人たちは噂した。だけどあの子だってきっと、ろくな大人にならないよと。それをネーリは知っていた。自分の家がよそに較べて貧しいことも、父が賭け事で財産を使い果たし、そこかしこで借金を重ねていることも、時に酔っては警察の世話になっていることも、ネーリは知っていた。
 けれど幸せだった。
 坂道にひざしがあるだけで幸せだった。ラジオからおはなしの朗読が聞こえるだけのことで幸せだった。音楽室にピアノがあって、友人たちが楽しそうにしているだけで、幸せだった。
 いつしかネーリは目頭を熱くしていた。腕が重い。水のボトルを持ち直し、老いた体で歩き出す。
 ミナシキはそんなネーリのことを知らず弾き続ける。
「シキ!」
 ネーリが屋根裏部屋を開けた。その勢いが突風をうみ、全身を叩いた。突風は窓も壁も、ミナシキが座るベッドも時空も吹き飛ばす。
 闇の中、ミナシキはかたい木の床に座っている。ひどい揺れだ。外は雨。風と、天井に叩きつけられる雨粒の轟音。幌トラックの中だ。レーゼが寄ってきた。
「シキ、どうしたの?」
 ああ、そうか。夢を見ていたのだ。
「大丈夫? ぶつけたとこ痛いの?」
 寝ている場合じゃない。大きな仕事の最中だ。仲間たちが今、崖に建つ聖堂で命の取り合いをしているのだ。
 幌トラックが黒い春の嵐を往く。荒れ狂う海の上を走る。どこまでも広がる海。夜の、嵐の海。大聖堂などどこにもない。走っても、ない。どこにも――。
 気付いたな、と誰か笑う。
 今、気付いたろう、トラックは海の上を走れない事実に。どこにもいけないお前は死ぬ。肺に黒い海の満ち潮がきて、苦しみぬき死ぬのだ。
 おそろしい冷気が身を包む。
 ネーリが立っていた。
 冷気は消えていない。
 ミナシキは医院の屋根裏部屋にいた。
「熱がひどいんじゃないかい?」
 ネーリが水を置き、額にふれた。
「今日、儀礼銃士の人らが来たよ。お前に会いたいと言っていた。明日また来るそうだ」
 その内容をネーリは何回も、丁寧に、ミナシキが理解できるまで話した。完全に理解したミナシキは、この町での振る舞いが愚かだったと思い知る。
 自分に何か出来るつもりでいた。はじめはこの親切な女医に報いたかっただけだ。医院と住む家を守ってやりたかった。
 病み、儀礼銃をなくした自分でもそれが出来た。だが間違いだった。
 あの襲撃時に見かけた女が、自分を見つけようとしているのだろう。あるいはあのパジェットというのが。むしろ一週間の猶予は長すぎたくらいだ。
 もうここには居られない。
 ネーリの目を見た。それだけで意志が通った。
 遠い爆音。
 闇の大地が紅蓮の炎を吹き上げて、地蟲を爆殺する。その火が一瞬、窓を明るくする。
 テルノ市が地下から侵食されていることもまた、ネーリは伝えなければならなくて目を閉じる。

 黒髪に櫛をさす。丁寧に梳いてやる。アガーシャは開け放たれた窓を見つめている。プラガットはベッドに腰掛けて、膝にアガーシャを乗せていた。覗きこむと、幼い大きな瞳は理知の輝きに満ちていた。高く形のいい鼻。引き締まった頬と顎の線。口許は結ばれている。
 この子は立派な大人になる。プラガットは確信している。頭のいい子だ。引っこみ思案で会話が苦手だが、その弱点を克服できる知性があるはずだ。
「アガーシャ、髪を伸ばす?」
 何か考えにふけっていたようだ。アガーシャは顔をプラガットに向け、小さい声で「ううん」と返事をすると、また窓を向いてしまった。
「そう? 伸ばすととても似合うと思うの。アガーシャのお母さんはぁ」歌うように声を伸ばし、髪を梳き続けた。「とても美人なのよ。あなたはお母さん似の子。こういう、とても黒くって長い髪をしてるの。あなたを産んだほうのお母さんはぁ」
 ここちよい風が、家々の屋根を渡って吹いてきた。窓辺の小さな観葉植物を揺らし、二人の顔に吹く。
「とてもやさしい人間。体が大きくて、よく笑う人で、やっぱりあなたの髪を伸ばしたがってたのよ」
「お姉ちゃん」
「なぁに?」
「わたしもお母さんになるの?」
 プラガットは笑みを絶やさぬまま、手を止め、アガーシャを背中から抱く。梳きたての髪に頬を寄せた。二人の体は汗ばみ、湿っていた。
「そうよ。あなたはお母さんになるの。お姉ちゃんもよ。賢くて、優しくて、強い子供を産むの」
 ゆりかごのように体を揺らす。腕の中のアガーシャは、揺れに体を任せている。
「蟲のいない未来ができる。たとえ私たちが死んでしまっても、その子らがいずれまた私たちを産むわ。蟲が二度と現れない世界で、よ」
 小さな耳に唇を寄せ、DOLLsたちの神話を囁く。
「私たちはユートピアにたどりつけるの」
 覚えていてと囁く。
 生きる意味はあるのよ。
 気付いた。今、月がともに部屋にいることに。後ろに小さな月がいる。天井の隅あたりに。
 秘密を聞き咎められた恐怖にプラガットは総毛立つ。

 ―4―

「いいかい、これが貼り薬。息が苦しいとき、寝苦しいとき、ここに貼るんだ」
 薄いセロハンのような貼り薬を手に持ち、ネーリは身振りで説明した。大人しく聞いているミナシキは、すでに出立の支度を済ませていた。
 ネーリはできるだけ簡単な言葉と身振り手振りで、何種類かある薬の説明を繰り返していた。薬効と一度にのむ分量、あけるべき時間の間隔など。ミナシキはメモを取っていた。その様子には一片のためらいもなかった。
 病院とはいえ、薬をただで人にやることが損失でないはずが無い。それをするのは、行きがかり上とはいえ彼がこの医院を守ってくれたからだ。
「……本当に行くんだね」
 少しだけ寂しげな目を見せた。
 僅かばかりの薬を渡すことが、彼にとってどんな利益となろう。そんなものは無くなれば終わりだ。大きな病院に行くがいい。行って治療を受けろ。
 だが彼はしない。できないのだろう。ただ、旅立つ意志がある。ネーリは最後に地図をくれてやった。訪れたばかりの朝。光がそそぐ庭に立ち、二人は別れの時を迎えた。
「行くんだね」
 ミナシキは頷く。
 それ以上言葉はなかった。ネーリは口が下手だ。ミナシキは言葉が不自由だ。ミナシキの目の光がゆるむ。初めて、その時ネーリはミナシキの笑顔をみた。笑うことじたいを恥じるような、じつに微かな笑みだった。
 今度はネーリが頷きを返した。
 革のザックを肩にかけ、彼は歩いていく。彼と再び生きて会う可能性は、ほぼないとネーリは実感した。
 どうか、無残で惨めな死だけは回避してくれと願う。
 できれば生きてくれ。
 その体で何から逃げているのか、あるいは追いかけているのか、聞き出すつもりなどなかった。ただそれが済んだら幸せになってくれ。幸せという言葉を信じないなら、心穏やかに生きられるようになってくれ。自分の与えた餞別を、少しでも命を延ばすために役立ててくれ。
 彼は姿が見えなくなるまで、ついぞ振り返らなかった。しばらくたたずんでいたネーリも、諦めるような心持ちで丘へと帰っていく。市街はとっくに目覚めている。
 北部郊外の市民たちの避難所に戻ると、崔が自分を探していた。何をしていたと訊く崔に、ネーリは、あの病人を送り出したと伝えた。
「一人で行かせたんですか? あなた、あんな病気の人を!」
「自分が病気だってことはあいつが一番わかってるだろうさ。その上で出ていくことを選んだんだ。自分で選んだ。あたしゃ引きとめようとしたさ」
 黙らせるようにネーリは言う。
「あいつは言葉も分からんが、子供じゃないんだ。行くといったら行くさ」
「ですが先生、わかってるんでしょう。もうすぐ儀礼銃士の人たちが来るんですよ!」
 ネーリは答えず、朝飯をとりに行く。

 別の避難所の応援に行っていたネーリのもとに、やがて儀礼銃士たちが駆けつけた。彼らは診療中には姿を見せず、どこでどう見張っていたものか、避難所を出て自分の車に乗りこもうとしたら姿を見せた。昼前で、一度北部の避難所に戻ろうとしていた時だった。
「医師のネーリ・サルマン先生ですね。お聞きしたいことがあります」
 車の鍵を出していると、不意に背後から言われた。その時にはもう左右を挟まれていた。
 一人は、今まで気付かなかったことがまったく不思議に思えるほど大きな男だった。もう一人は、これも女性にしては体つきのいい若い女。
「我々は儀礼銃士協会テルノ市部局所属の儀礼銃士です。あなたにお聴きしたいことがあります。構いませんね」
 用件は分かっていた。とぼけるのは時間の無駄だ。一息ごとに竦んだ体を解き、ほぼ睨むような眼光を湛えて見返した。
「……ここまで来たってことは、言付けは聞いてると思うがね。お目当ての男は出てったよ」
「その男のことですが、どうやら肺か気管支を悪くしていたそうですねぇ。そんな病人をどこにやったというのです?」
「知らないよ。どこへ行こうとあいつの勝手だろう。聴取は任意か?」
「もちろんです」
「じゃあ拒否するよ。どいとくれ」
「サルマンさん、私たちが知りたいのは、あの日彼がどこにいたかということです。ただそれだけなんです」
 女が言葉を継いだ。
「避難したときは彼と一緒でしたか?」
「……いいや」
「病気の方を残して逃げられた、ということですか?」
 怒りが束の間心を支配し、しかし、これは挑発だと怒りをなだめる。
「彼の病気は何だったのです? あなたはどのような治療を?」
 沈黙の隙を逃さず、こんどは男が畳み掛けてきた。ネーリは逃げる機会を逸し、苛立ちのまま答えた。
「治療だと? アタシは寝床を提供しただけさ。咳をしてれば咳止めを出し、熱が上がれば解熱剤を出した。そんなものが治療と言えるのかい?」
「あなたは術医ですよね」
 と、女。黒髪に、色の濃い肌。移民だとネーリは気がついた。移民の銃士の言葉に腹の底が冷えた気がした。
「ふん。よく調べたことだね」
「薬物投与以外のことはしなかった、と。霊子術処置は行わなかったのですか?」
「無駄だった」
 その言葉が二人の間にわずかな動揺を与えた。
「あいつは霊子に庇護されていなかった」
「……そんなことが」
「病んだのは最近だろう。あの体でそう遠くから来れたとは思えない。霊子の庇護を失えばそうなるんだ、小さなきっかけで大病を患い急激に悪化する。アタシが知ってるのはここまでさ。それでもあいつは旅に出た。素性は知らんがあんたらに捕まるよりマシだったんだろ」
 男の目がネーリの背後に動く。
 そこにもう一人の女がいた。この暑いのに真っ黒な長い髪を縛りもせず、着衣もすそが長く暑苦しい。しかし手を振る動作は涼やかで、男がそれに応じて、ネーリに待つよう精してから歩いて行った。
「速達だよ、おっさん」
「おっさんって言うな!」
 パジェットはR.R.E.と小声で言い交わし、一通の封筒を受け取った。
 銃弾の鑑定依頼を出していた大学からだった。
〈ご依頼の件について回答申し上げます〉で始まる文書に素早く目を走らせた。見る間に顔つきが変わる。
 読み終えたパジェットは、R.R.E.のいつもの澄ました顔にも、自分と同じ緊張があることを見抜いた。
 ネーリは戻ってくる男の雰囲気が一変していることにすぐ気付いた。逃げても無駄だ。自分ははじめから彼についていくよう定められていたのだ。
「サルマンさん、あなたは例の男性が短銃を所持していたことはご存知でしょう」
「見てないね」
「何名かの市民の方は、見たと証言しましたがね」
 パジェットが一呼吸おく。
「アグレシア国では一般市民が届け出なしで小火器を携行することは禁じられております。黙認することもです」
「アタシをしょっ引こうってのかい?」
「われわれに逮捕権などはない。ですが」
「本当に彼を放置することが彼にとっていいこと? 」
 車にもたれかかり、三人目の人物が言う。
「……本当に?」
 近くで見て分かった。DOLLsだ。
 ネーリは沈黙した。そうして三人に諦めを伝えた。儀礼銃士なら手荒な取調べなどはしないはずだ。取調べというのも変だ、警察機関ではないのだから。
 訊きたいことが、あの男が襲撃時に何をしていたかだと。
 それだけでは済まされまい。ネーリは二人の若い女性に挟まれて、儀礼銃士協会の車両の後部座席にのりこんだ。
 坂を上り始め、避難所が遠ざかる。
 本当に遠くへ行くのだと、ネーリは、静かに確信する。
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