お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈35〉 著者:豊原ね子

断章・オルガレータへようこそ Ⅵ

晩鐘が吾のかわりに食われゆきその終生に哀の降るらん












 ―鳴る鐘がよぶの章―

鐘が夜の暗黒に融けていく。
 鳴る鐘の音は白濁した青で、それが夜の暗黒色とまぜあわさってマーブル模様にとけていくのを、何の感慨も抱かず見ている。そういう夢だった。
 識は目覚めた。寒かった。冷気が体の内から来る。目を開けずに布団を体に巻きつけ、身を縮める。
 そうしたら鐘が鳴った。
 鐘は現実に鳴っていたのだ。
 識はまずそのことに驚き、次に、誰が鐘を鳴らしているか――そうしたことに思い至り、覚醒して布団をはねのけた。
 後ろ髪を払うと、窓枠に蘇比がいた。
 一羽のミミズクが。
 夜はもう明けていた。朝の特別な光彩が、天空から降っていた。ひかり輝く屋根々々を背景に、小さなミミズク、褐色の羽根の猛禽が、黄色と黒の目を細め、ベッドの上で座りこむ識に笑った。
 そう、笑った。
 識は思考を止めていた。ミミズクが羽を広げたとき、寝起きの、まだ働きが不十分な心が、恐怖から解き放たれた。
 ミミズクが飛ぶ。
 窓辺に駆けより、ガラス窓を開け放った。枕の下から引きだした拳銃を、ミミズクへと撃った。撃ちながら、馬鹿げたことをしていると思った。弾はあたらなかった。悠々と飛びさる先の空で、様々な音色とリズムが透明な聖性を放つ。
 濁った音。澄んだ音。
 その間の音。
 八点鐘。

 なにか分かりかけていた。目覚めのとき、オルガレータで自分が実在しているとはどういうことか――それについておそらく正解に近い解釈が導き出せそうだった。
 すさまじい直観があったが、目覚めたとたん消えてしまった。微かに覚えているのは気味が悪いマーブル模様だけだ。なにか知りかけていたというのも、単に夢の高揚がもたらした錯覚だろう。覚えていたとしても、冷静になって現実感覚に照らし合わせれば、何でもないものに違いない、きっと。
 鉄階段を踏む。
 吊り鐘塔内部のあかりは、天井近くに開いた大きな窓だけが頼りだった。通風孔から風がふくが、光は入ってこない。薄やみが縦にながく伸び、その中央を一つの柱と、螺旋階段が貫いている。
 そのてっぺんに登りつめた。細長い足場が壁まで伸び、窓のない鉄扉がある。
 鉄扉をあけると吊り鐘の真下だった。
 結んでいない髪が強風であばれる。
 琥珀色を思わせる、まろやかな音色の鐘が頭上で鳴った。塔は無人で、鐘をついている人間はいない。見上げれば、薄暗い屋根の下で鐘が左右に揺れている。
 どこかで制御しているのか。
 手すりのない塔のへりに立ち、下界を見下ろした。あの長い針と卓が、正面に見えた。周囲を見れば、吊り鐘塔と同じ程度の高さの塔が四方を囲っている。そのどれにも音を放つ針があった。
 髪を押さえていた手をはなし、火車を鞘から抜いた。吊り鐘の下、構える。腰を捻り、ぎりぎり床の縁まで足を踏みこんで投げた。
 火車が空中で青白い炎をまとう。朝日の下では、あるのか無いのか分からない透明な揺らめきでしかないが、それが針と卓を粉砕するのを見、快感にかすかに酔う。火車は識から離れるほど威力を増す。しかし、識の代わりにどこまでも遠くに行ってしまったりもしない。すべての銃士にとって儀礼銃がそうであるように、火車は識の大切な、霊的な半身だ。
 戻ってきた火車がゆっくり、腰の周りを一周する。その把手を掴んだ。羽のように軽かった火車に、鉄の重みが戻る。いっぽう空気は軽くなった。
 一つの音が消えたことを、肌はとらえていた。
 よりどころを失くした甲高い音たちは、朝の空へ吸いこまれていき――。
 いや。
 音は霧散せず、残る三方向の針に宿った。その気配がはっきりと分かった。
 宙に、見えないはずの音の動線が見えた。それが識へと飛んできた。
 破壊への報復。
 識は身を竦めた。衝撃を感じた。だが実際には何もなく、いかなる変化もなかった。
 火車を盾に体をかばった識は、顔を上げ、危機が無いことを確認しながらも、いま音から攻撃されたことが錯覚だと思えない。
 何か閃くものがあった。
 手放してしまった直観が、胸の底から蘇りくる。今度こそそれがわかりそうで、思い出せそうだが……わからない。

 ―死者と食器棚人がいた章―

 猫は、識が帰ってくるのをベッドで待っていた。廊下から姿を見せると、首をもたげ、一声大きく鳴いた。
 狭く明るいキッチンで、朝食の準備をする。
 トーストをセットし、フライパンで目玉焼きとハムを焼く。食欲を刺激する匂いがたちこめた。猫のためにもハムを出し、それぞれが食事を摂る。
 口いっぱいに広がる朝食の味を、識は静かに堪能した。ただの目玉焼きがやけに美味しい。つけあわせの、適当にちぎったレタスにフォークをたてた。茎が赤らんでいる。新鮮で、歯ごたえがいい。微かに鉄分の味がする。
「……おいしい」
 レタスを飲みこむと、今度は目を閉じる。よく気をつけていれば低い音が聞こえてくる。頭の後ろから聞こえてくるような……高いところから聞こえてくるような。ずっと鳴り続けている。
 目を開ける。昨夜は疲れて気付かなかったが、キッチンに油じみが浮き、換気扇には埃がからまっているのが見えた。
 膝に猫が乗ってきて、識のぶんのハムを欲しそうにした。
「ダメだよ、ポーにゃー、塩がかかってるから」
 識は猫を愛しく思い、抱きしめて撫でてやった。硬く冷たい毛ざわりが、撫でているうちに温かい空気を含み、柔らかく膨らむ。
 昨日まではこの変化がわかっただろうか?
 どういうことだろう? 昨日と今日で何かが違う。何だろう。今まで気付かなかったけれど、まるで昨日までは五感が鈍っていたようだ。
 昨日と今日の違いといえば、針、オルガンを破壊して回ったことくらいだ。
 ……俺はどうしてオルガンを壊そうと思ったのだろう。
 鼓動が高鳴る。それは、あの小部屋の現象のせいだ。あの時間、識は違う時間を生きた。父に育てられた自分という生を。
 そして腹を立てた。
 おまえに幸福な家庭という可能性はないと、言われたように感じたから。
 腹を立てたり冷静さを失うと、あの『食器棚人』が出てきたり、猫が口をきいたりとおかしなことになる。

 そもそも食器棚人というのを最初に言ったのは識の母であった。家を空けていることが多かった彼女は、おさない息子の留守中の行動を戒めるために、そんな存在を作ったのだろう。「悪いことをしていると、食器棚の国に連れて行かれるよ」と。
 識は食器棚人が怖かった。普段使いの茶碗やコップが並んでいる、うすいガラスの向こう。目が届かぬ棚の高いところから、小人の醜悪な指がぬっと伸び、次に大きな顔が現れてちいさな自分を見下ろす。その想像は幼い心を恐怖で打ち震わせるのに十分だった。
 実際に食器棚人を見たのは六歳のときだ。
 三軒となりの女性が死んだ。識の母親が帰って来られないとき、おにぎりを持ってきてくれたりした優しい人だった。
 本葬の日、識が真夜中に目を覚ますと、その家のほうからコツコツと女性の足音が聞こえてきた。その足音は一直線に識の部屋の外まで来て立ち止まり、どうなるかと息を殺していると、そのまま家の外壁に垂直に踵をのせ、壁を、屋根を、そして反対の壁をコツコツ、コツコツと足音を響かせて通って行ってしまったのだ。識は母親に泣きつき、翌朝外を見てみると、足音が通った道筋にはヘドロがこびりついていて、鼻がまがるほど臭かった。
 そしたら母は、「あの人はこいつを捜していたのだよ」と言って食器棚の上のほうから食器棚人を引きずり出し、八つ裂きにして味噌汁に入れてしまった。識はそれを誰にも言ってはいけない、この家だけの恐ろしい秘密だと思っていたが、数日後には学校の給食に食器棚人の煮込みが出てきて安心したものだ。先生はチョークを食べていた。まずかった。
 ……いやいやいや。
 そんなはずはあるまい。
 本当の過去なら、先生が食べていたチョークの味など、分かるはずがない。
 いや。
 俺はチョークを食べたことがある。同級生が寄ってたかって口に押しこんできたのだ。
 心臓の辺りが冷えた。まるで今ここに、あの日浴びた悪意の塊が存在しているように思え、おそれた。
「ポーにゃー!」
 呼ぶと、猫は膝の上から黄色い目をして見上げてきた。
「……お前、本当にポーにゃーって名前なのか?」
 猫が鳴いた。喋らなかったので安心し、朝食をすませる。
 食器を洗い、ベッドに座りこむ。髪に櫛をいれながら、何をしようか考える。
 昨日の続きでまた『オルガン』を壊すのか。オルガンがあと幾つあるのか、どこにあるのか、壊すことで何になるのか。オルガンが宿していた音はどこへ行くのか。消えるのか。
 髪が湿っていて重い。昨夜シャワーを浴びてから、ろくに乾かす余裕もなく眠ってしまったからだ。疲れは残っていない。夢の中の出来事みたいだが、髪の重さが夢ではないと語っている。
 眠るたびに違う世界にいるような気がする。夢ではそれに気付こうとしていたのではないか?
 昨日の自分と今日の自分が別人で、別世界に生きているなら、十和子と皐月の出現にも理由がつく。死なずに二人がたどり着けた可能性が、どれだけ低くても、あったということだ。……一方で、臣津でマンティスTX898524IKが語った内容とは矛盾が出る。収束点である識は一人しか存在しないと、TX898524IKは言った。
 しかし収束点というルールが世界樹世界の中でしか適用されないとしたら話は別だ。夢で見たように、自分が死んだ事象が、歩いてきた景色の中にある? そして行谷やルキーノが生きている世界が。
 それでは、これまで出会ってきた他人とは何だったのだろう。自分もだ。死んでもどこかで生きていられるなら、正気を保って生き延びようとする意味は何だ?
 行谷が死んだ識を悼み、裸足で泣いていた、あの生々しい夢が現実だとしても、識には意味がないことだ。そこでは自分は死んでしまって、存在不可能なのだから。
 それでは――そちらの現実を生きている行谷にも価値がないということか? 自分がこちらの現実を生き抜かなければならないから、あの可愛らしい笑顔の女性は、自分にとって無価値ということになるのか?
『名倉くんって呼んでもいい?』
 不覚にも目頭が熱くなった。そんなのは嫌だ。自分で思うより気が弱っていることを、識は自覚した。泣いて何になろう。ただ彼女がどこかで打ちひしがれ、傷ついた足で彷徨っているのを想像すると辛かった。
 ひどい世界だ。
 ここは悪意に満ちた世界だ。昨日、思った。あの部屋を見たときに。
 なぜあんな光景を見たのだろう。たとえお前が収束点じゃなくても、幸せな家庭などなかった。そんなものはお前にはない。そう伝えたかったのか。
 誰が、悪意の裏にいる?
 怒りが悲しみに勝りゆく。識は呼吸を殺していく。
 識にとって悪意の中心とは蘇比だ。あいつはここにいる。
 あいつを……あんな奴を行谷さんに会わせてはいけない。

 ―溶解と凝固の章―

 幼い皐月と精神を病んだ十和子、どのようにしてこの街にたどり着いたのだろう。
 あの二人が自力でこの街にたどり着けたとは思えない。何か悪意あるもの――たとえば蘇比が導いてきたのかもしれない。なぜ? 識に殺させ、識を動揺させるために。
 考えが無根拠なのは分かっている。憶測を重ねすぎていることも。しかし憶測を検証する手立てなどなく、それに……そう考えると罪悪感が薄まるのだ。
 識は回廊を歩いている。大きな円を描く廊下には、やはり大きな窓が並んでおり、床の木目を鮮やかに浮き立たせる。雪も赤い空もなく、ここは春のようだ。窓辺にいると暖かい。肩にかけた鞄をしっかり抱くと、中でポーにゃーが動いた。識から自分に向けられた関心を感じ、喉をならしている。
 なんでも蘇比のせいにすればいいわけでもない。
 けっきょく皐月を殺したのは自分だ。冷静さを欠いた軽はずみな行動で、あの子を殺したのだ。
 正気でいなければならない。正気はこの世界の秩序だ。夢やフィクションと一緒にしてはいけない。それをしたがりそうなのは、やはり蘇比だ。奴になら根拠がある。自分がきた世界の優位性のために、識や世界樹世界を貶めたがっている。
 それならば、やはりまた蘇比と対峙しなくてはならない。
 勝てるのか?
 臣津での、屈辱的で恐ろしい記憶が蘇る。勝てるのか、あれに?
 破裂音が響いた。後ろで窓が割れた。
 撃たれた。当たらなかったが。
 どこから撃たれたかはともかく、狙われたことに違いない。識は一息後には、全力で走りだしていた。
 階段に差し掛かる。
 上りと下り。
 下りを選ぶ。
 階下では、開け放たれた広間が待ち構えていた。立派な二枚の扉に迎えられ、シャンデリアが下がる広間に飛びこむ。
 すると後ろから組み付かれた。
 ぶ厚い掌が口を覆った。両側のわきの下から腕を入れられ、身動きがとれない。強い力だった。後ろから、ぞろぞろと男たちが現れて識を取り囲む。
 四人。後ろで自分を羽交い絞めにしている奴も合わせると、五人。識は抵抗するのをやめて、真正面に立つ男を見た。どこかで見たことがあった。
「よう兄ちゃん。また会ったな」
 誰かと思えば、船の街で、ルキーノが撃ち殺した銃狩りの男だった。
 落ち着くんだ。敵の目をまっすぐ見返しながら、識はそう念ずる。冷静さを欠いてはろくなことにならない。
 この、いかにも軽薄な悪がしみついた不潔な顔。知性を欠いた声音。
「おい、どうした? びびってんのか?」
 ほかの銃狩りどもは動かない。見れば見るほどステレオタイプの悪役だ。一緒にいる連中たちも。識の目が、立ちはだかる男たちを通り過ぎて広間の中央を見た。猫足の、金に塗られた豪奢な卓がある。そこから伸びる針が一本。
「おい、どうした? びび――んのか?」
 さきほどと全く同じ発声で、男が繰り返した。目線を戻す。男の目は識に向けて固定されたように、動かない。
「おい、ど――た? ――んのか?」
 声が切れ切れになる。男はそんな自分に気付いていない。
 この男はつくりものだ。
 識は閃いた。これは、あの部屋にいた『母親』と同じだ。識のステレオタイプの反応を待っているのだ。
 鞄の中でポーにゃーがうごめく。鳴いて出てがっている。男たちはそれに構わない。きちんと生きているならば、この猫を無視していられるはずがない。
 応じるものか。
 識は目を閉ざした。
「お――ってんのか?」
 反応すれば、自分がこいつらに変化を与えられたことを認めることになる。それはこの男たちの価値を認めることであり、自分の価値が、この世界が用意したつくりものと同列になることだ。
 反応してやるものか。
「お――のか?」
 識は目を閉じている。返答などしない。
「お――」
 目の前にいるはずの相手の、息遣いが感じられない。拘束がゆるんだ。静かに目を開ける。男たちの体が亀裂に覆われていた。その亀裂から黒い水が滲んでくる。
 その水は、よく見れば文字だった。文字が体の破れ目からこぼれてくるのだ。銃狩りたちは言葉でできていた。猫の鞄を抱きかかえ、宥めながら距離を取る。男は最後まで悪役ぶった笑みを凍りつかせていた。彼らは崩壊していった。文字がまた、黒い水となって足元にたまっていく。
 インクだ。
 形骸だけになった銃狩りたちは、服すら残さずインクの中にくずおれて、その形骸もまたインクになった。
 識は自分の手を見つめ、次に、鞄を少しだけ開けてポーにゃーを見た。識は壊れていない。ポーにゃーも。
 オルガンの働きが弱ったから彼らは壊れたのだ。識にはそう解釈できた。オルガンを壊せばつくりものたちは消えていく。恐らく優先順位の低いものから消されていくのだろう。
 オルガンがなくなっても消えないものが、真実だ。
 これまでの破壊は無駄じゃなかった。
 蘇比に勝てる。識は確信した。
 有り得ないことが起こるなら、それは間違った世界だと、TX898524IKは語った。有り得ない存在である蘇比は今、世界樹世界ではなくオルガレータにいる。ならば、オルガレータでも蘇比を存在できないようにさせることは出来るはずだ。
 そうしてやる。
 オルガンを壊す。蘇比を構成する音があるなら、消してやる。
 歩き出した識は、妙な気配に立ち止まった。
 後ろを振り返る。
 一つの水たまりになっていたインクが、また五つに分裂する。分裂した五つの水たまりが中央から盛り上がり、長い、黒と白のしま模様の、一対の触覚が現れた。
 蟲だ。
 識は広間の反対側へ走った。その扉を開け放つ。白い石の廊下が伸びていた。
 背後でひどい破壊音が響き渡る。猫が鞄の中で暴れる。直角の角を曲がったとき、広間の扉が壊されたのが分かった。識は鞄を開けた。
「ポーにゃー、逃げろ!」
 体じゅうの毛を逆立てて、ポーにゃーは識よりうんと早く駆け、蟲から逃げていく。
 階段と、渡り廊下があった。渡り廊下を選ぶ。冷たい風が吹いていた。閂をかける。なぜ彼らが蟲になったのか、走りながら考える。
 自分の存在の整合性を保とうとしているのか? あれたちにも自意識が会って、蟲になってもいいから、あんな死に方をしたくはないと思ったのか。それか単に、彼らは蟲になるようプログラムされていたのか。あるいはこの世界のシステムか。オルガレータの脆さを露呈させ、なおオルガンを破壊しようとする識を危険な存在と見なしたか。そして識を消すのにもっとも整合性のある存在が蟲なのか。
 何より識も、目の前にいる蟲を放ってなどおけない。
 後ろでガラスが割れた。巨大な蜂がしなびた翅をひろげ、飛翔する。
 渡り廊下を駆け抜けると、その先は空中庭園だった。円形の広い庭のふちを花々が囲み、中央に枯れた噴水がある。庭園に、無慈悲な毒の槍が降り注いだ。蜂の針だ。
 識は火車を放つ。蜂には当たらなかったが、新たに窓から飛び出そうとしていた別の虫をうち落とした。渡り廊下の向こうでは、閂が突破される。
 戻ってきた火車を、今度はカフェの窓に投げる。火車は窓を破り、テーブルを盛大に薙ぎ払った。火車を拾い上げ、奥へ。
 カフェの向こうは、青い光が降りそそぐ吹き抜けのホールだった。頭上にはステンドグラス。正面には大時計。ここは五階か、六階か。蟲たちがカフェの入り口を突破した。すかさず火車を投げ放つ。狭い入り口で、ひとたまりもなく三匹の蟲がまとめて炎上する。
 頭上でステンドグラスが破られた。青の密度が薄れ、日の光を背負い蜂が姿を見せる。
 それを打ち落としたのは識ではなかった。
 空中で蜂の体がひきつり、そのまま羽ばたきの一つもせずに、床へと落ちていく。
 蜂が消えた後の視界に、儀礼銃の射手が見えた。
 真向かい。正面の大時計の横にいる。
 黒い衣服。肩までの髪。女性らしい優しい丸みを帯びた、大柄な体。底に蟲を沈めた吹き抜け廊下を挟んで、二人は向き合った。
 その女性銃士を覚えていた。忘れるはずがない。
「行谷さん」
 緊張をはさみ、識は一歩、足を踏み出す。会えた。やっと会えた。しかし行谷は、髪をひるがえして近くの扉にとびこんでしまった。
「行谷さん!」
 心臓がいやな鼓動をとばした。彼女に拒絶された。その事実が識を立ち竦ませ、次に走らせた。
「……待ってください!」
 行谷にとって、識はいるはずのない人間なのだ。怯えても無理はない。
「行谷さん!」
 扉の先、赤絨毯の廊下で行谷が振り向いた。
 手に拳銃を握っていた。銃口から放たれる敵意が、識の胴体を狙っている。
「行谷さん……」
 行谷は髪を乱し、頬を赤く染め、怯える目で識を見ていた。頬はやつれ、初めて会ったときの優しい華やかさはなかった。識はかなしく、それ以上に、銃を向けられていることが単純におそろしかった。
 首を横に振って、行谷は識の存在を否定した。はじめはゆっくり。次第に早く、力強く。
「名倉くん、なの?」
 後ずさる行谷は、いつでも識を撃てる。
「……行谷さん、俺は」
「動かないで!」
 悲鳴のように叫んだ。
「名倉くんが……こんな所にいるはずない!」
 跳ねるように逃げていく行谷を、識は追った。
「行谷さん! 待ってください!」
 行谷が、幅広の階段を下りていく。
「話を聞いてください!」
 真鍮の手すりから身を乗り出す。行谷は聞こうとしなかった。跳ねる髪、痩せてしまった肩が、下の階の廊下へ消えてゆく。
「行谷さん!!」
 この場所はホテルらしい。扉が乱暴に閉まる音。そちらに走る。再び吹き抜けに出る。すでに行谷の姿は見えなかった。
 近くの扉にいるはずだ。
 吹き抜け廊下をはしり、重厚な二枚扉を開け放つ。
 中は薄明るく、広い。様々な円卓が並んでいた。あの針を載せた卓ではない。
 カジノだ。
 幅広で、ごく低い段差の階段が部屋の奥へとのびていた。壁や円卓に蝋燭がともっている。照明はそれだけだ。
 部屋の突き当たりは、蝋燭が消されていて薄闇。その壁に染みのように人影が見えた。薄明かりから薄闇へと識は階段をあがる。踏むと深い足音がする、毛足の長い絨毯。
 しみのような影が動いた。
「行谷さ――」
 違う。
 行谷よりずっと大きい。
 人影から悪意が放たれた。その時識は、まだ遠いその影の正体を見抜いた。
「――蘇比」
「待っていたぞ」
 薄闇から蘇比が答える。火車の留め具を外した。
「ようやく人の姿を取れた。この格好に慣れなくてはならんのでな。少し付き合ってくれんか」
 蘇比の姿がふらりと歩き出す。火車をかざす識に、うすい嘲笑が答えた。
「つれないな、せっかく会いに来てやったのに」
 蘇比が床を蹴った。走り出した蘇比に、識は火車を投げつけた。
 投げた直後には、胸倉をつかまれていた。両足が床を離れる。遠くで火車が、壁に突きささる音を聞いた。
「遊ばせろ。新しい体を試したい」
 体が簡単に振り回され、背中から円卓の上に叩きつけられた。蘇比は腕一本でそれをなしていた。苦痛に顔をしかめ、目を開けた識は、のしかかるように顔を覗きこむ蘇比の嘲笑を見た。痛みと不自然な姿勢のせいで抵抗ができない。蘇比は胸倉を掴んだまま、力をこめて識の体を円卓に押し付け続けた。
「痛いか?」
 身動きの取れぬ識に分かりきったことを訊いた。それでも睨み返す識に、おぞましい笑みを近づけた。
「いい顔だ」
 蘇比のもう片方の手が動いた。
 指で額を弾かれた。鞭打たれたような衝撃が額で炸裂する。額から後頭部まで貫かれるような痛みで視界が白く染まり、あっ、と識は叫んだ。首が後ろにのけぞり、力が抜ける。
 蘇比がその力でもう一度、額を弾く。皮膚が裂け、額から生ぬるい血があふれた。
「なぜ〈調律器〉を壊した」
 蘇比はまた容赦なく識の額をはじく。とても人間の指とは思えぬ力だった。
「……あれを壊せば俺にとって不利益になると考えたのだろう」
 もう一度。
 識は膝を折った。力を失った体が投げ飛ばされるのを意識の混濁の中で感じた。浅く長い階段を、識は転がり落ちた。
 ものを考えることは愚か、目を開けてすらいられなかった。力が入らず、体を動かせない。周りの世界がぐるぐる回っているようで、方向感覚がつかめなかった。四方八方から、蘇比の足音が聞こえてくる。倒れこんだまま浅い息をしている識へ、蘇比は悠々と歩み寄り、脇腹にかかとを振り下ろした。
 その痛みで識が覚醒する。
「調律に関するヒントをひとつやる」
 すかさず腹に、鉄板入りの爪先を蹴りこんだ。二度、三度。海老のように体を丸め、識が赤く泡立つ唾を吐いた。声を押し殺している。
「あの針のほうが調律すべき対象なら、なぜ人が鳥になったり蟲になったりする?」
 足をとめ、今度は踵を背中に叩きつけた。こらえていた悲鳴をあげて、体を反らす。再び無防備になった腹を容赦なく蹴りつける。
「やめろ、やめろっ!」
 識は身をよじって腹ばいになり、どうにか逃れようとした。それは身を守るどころか、ますます蘇比の残忍な本性を刺激した。背を踏みつけ、髪をにじり、転がすように脇腹を蹴り、蘇比は蹂躙を楽しんだ。どれだけ女を抱いても得られなかった快楽があった。かつてこのような振る舞いは許されるものではなかった。足蹴にされるたびに、識はうめいたり、短い悲鳴をあげる。その声も次第に弱弱しくかすれ、強気にふるまっていた識がボロ雑巾のようになっていく様子を、蘇比は観察した。たまらない興奮に体がうずき、呼吸が早くなっていく。唇が異様に乾いていた。蘇比は夢中で舌なめずりをする。
 赤黒い血を吐いて、識がとうとううつ伏せに倒れた。
 脇腹を蹴って仰向けにさせる。唇をしつこく舌で舐め回しながら。
 識はほとんど気を失っていた。このままでいたら命まで失うことも感じていた。しかしもう、動けなかった。
 苦痛の渦中で、どうするべきか思考を働かせるなど無理だった。それでも感情はある。
 無念だった。
 臣津に帰りたい。パジェットに、懐かしい人たちに会いたい。パジェット。助けて欲しい。死にたくない――。
 いきなり頬を張られた。大声で怒鳴りつけられる。前髪を鷲掴みにされ、新たな苦痛に顔をしかめた。
 蘇比がのしかかって何か怒鳴っている。反対の頬を打たれた。間髪いれず、もう一度左の頬を打たれた。
「――ってやる」
 打って変わった静かな声。
「聞こえるか。俺は今度こそ貴様の世界を――てやると言ったんだ」
 力を振り絞り、薄目を開けた。視界は白くかすみ、蘇比の顔を判別できなかった。ただうすく笑っていることが、なんとなく伝わってきた。
 耐えられず目を閉ざした。
 再び怒鳴り声に変ずる。あきもせず平手が飛んできて、識は何度目か、口の中を噛んだ。引きちぎられるように前髪が抜けていく。そんなことをされても、もはやどうしようもなかった。
 力尽きる直前、銃声を聞いた。
 掴まれていた髪が解放された。
 不気味に静まりかえる。鼻の奥に、おのれの血の臭いのほかに、火薬の臭いがあった。銃声は幻ではなかったらしい。
「貴様――」
 憎悪を声に滲ませて、蘇比がうめく。識は目をこじ開けた。ついさきほど識を抑えこんでいた手が、今は蘇比自身の肩を抑えている。
「はなれて」
 震える声が言った。
「その人から離れて!」
 行谷だ。
 体から蘇比の重みが消えた。羽音が耳を叩いた。蘇比から垂れていた血が消え、一羽のミミズクになった。ミミズクは一直線にカジノを出て行った。
 無言で駆け寄った行谷が、隣に屈みこんだ。
「名倉くん!」
 緊張が解け、識は目を閉じ、長い長い息をついた。
「……だよね。名倉くんだよね?」
 冷たい指が頬に触れた。腫れはじめた頬は熱く、触れられると痺れるように痛んだ。
「ごめんね」
 行谷がつぶやく。泣いていることがわかった。
「ごめんね……ごめんね……」

 ―鳴る鐘はいずこの章―

 ランドセルを背負い、子供の識が、昼なお暗い坂道を駆け下りている。ランドセルはまだ二年目だが、叩かれたり投げられたりしたあとがあり、みすぼらしかった。
 ラベンダーの匂いがする。
 昨日お母さんがたくさん抱えて帰ってきた、その匂いがまだ残っているみたいだ。識は辻の文房具屋に飛びこむ。
「おばちゃん、がようしください」
 小さなお財布から硬貨を出し、いつも微笑んでいる店番の女性に払った。画用紙を丸めてもらって店を出ると、かまびすしい笑い声が坂の上から近付いてきた。いつも乱暴なことをする同級生たちだった。心臓がすくんだ。彼らはまだ識に気付いていない。そっと身を翻し、家へと逃げていく。
 ラベンダーの匂いがする。
 窓辺で揺れているのだ。あれが乾いたら、お母さんは袋を縫ってつめる。レースのカーテン越しに初夏の陽射しがそそぐ。もうすぐ夏休みだ。
 識は額の汗をふきながら、画用紙にクレヨンを走らせていた。
 小学校でお母さんの絵を描いたのは、二週間も前だ。それは教室の後ろに張り出され、そう話したとき、お母さんは頭をなでてくれた。
『そう、識、お母さんにも絵を見せてね。楽しみにしてるからね』
 その絵にめちゃめちゃに落書きをされてしまったなどどうして言えようか。そのうえ破り捨てられてしまったなど、言えるはずがなかろう。涙は出つくしていた。それよりもお母さんにあげる絵を描かなければならなかった。最初より上手に。最初よりきれいに。
 あれ?
 識は困惑して手を止める。
 お母さんのこの顔はなんだろう。
 笑っている絵を描いていたはずだった。けれどそれが分からない。どういう表情なのか、あらかた出来た絵をみてもわからなかった。
 目がある。口がある。鼻もある。それぞれが目、鼻、口と識別できる。しかし、その形が協調して作り出す意味、つまり表情を読み取れない。
 識は困惑から、混乱へと変じてゆく。
 何を描いてしまったのだろう。
 分からない。顔の形が分かるのに、表情が分からない。……あれ。前にも同じことがあった。あのときも、窓の外に立ってるお母さんの表情が分からなかった。こんなふうに。
 前にも? いいや、あれは未来?
 識はテーブルに顔を寄せ、画用紙を凝視する。
 これはお母さんだ。
 いいや、お母さんはこんなまっ平らじゃない。これは絵だ。
 絵ってなんだろう?
 これはクレヨンが通ったあとに付着したクレヨンの成分だ。
 クレヨンは何でできている? 素粒子だ!
 お母さんは何でできている? 素粒子だ!
『素粒子だ!』
『素粒子だ!』
 食器棚から食器棚人たちがあふれてきて、素粒子踊りを踊り出す。
 ぼくたち人間は何でできている? 素粒子だ!
 描かれた人間は何で出来ている? 素粒子だ!
『素粒子だ!』
『素粒子だ!』
『素粒子だ!』
『素粒子だ!』
 素粒子だ! 素粒子だ!
 初夏の祭典。
 素粒子だ! 素粒子だ!
 食器棚人らが識が使っているテーブルを取り囲む。 
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 食器棚の匂いがする。ちがう、ラベンダーの匂いだ。識は夢の狂騒から解き放たれる。
 暗い部屋だった。ふかふかのベッドで、回復体位で寝かされていた。どうした繋がりで自分が眠っているのか分からない。識は思考と精神の働きを停止して、ただただ目を開けていた。
 痛い。
 感じるのはそれだけだった。どうしてこんなに体じゅうが痛いのだろう、そして何故こんなにも、ぐったりと消耗しているのだろう。
 そしてラベンダーの匂い。
 匂いのもとへと重い腕を這わせた。枕の下にポプリがあった。
 明るい光が差す。識が寝ている部屋と、別室との間に人間が立った。人間が歩いてきて、顔を覗きこんだ。
「名倉くん」
 行谷だった。鈍っていた精神が、炸裂したように働きをはじめ、識は混乱して飛び起きようとした。そして、主に腹部の痛みによってベッドに縫い付けられた。
「だめ、動いちゃだめ」
 腹が痛い理由が分かった。蘇比に蹴られたのだ。
「行谷さん――」
「落ち着いて。ね、起きちゃだめだよ」
 髪が解かれ、着衣が緩められていることに気付いた。
「ここは」
「客室だよ。思い出せる? 私が肩を貸して、一緒に歩いて来たんだよ」
 そんな記憶は一かけらもなかった。
「ね。あいつはもう居ないから。だから大丈夫」
 そう言って冷やしタオルを頬に押し当ててきた。その冷たさに身を竦めたが、じきに気持ちが良くなった。しかし行谷に見つめられて仰向けで寝ているのも気恥ずかしく、識はゆっくり、体が痛まぬよう、ベッドから上半身を起こした。行谷は傍らの椅子に掛けた。隣室の明かりだけを頼りに、二人は見つめあい、どちらともなく目をそむけた。
 識は沈黙を破る言葉を探したが、口を開いたのは行谷だった。
「逃げてごめんね」
 なんとも言えず、ただ短く「いえ」と答えた。
「私……ね、戻らないと……戻らないと、名倉くんがまた死んじゃう気がして、それで……」
「また……?」
 静かな確信をこめて行谷にうなずくと、行谷も、もしかしたら同じ事を考えていたようで、顎を上げ見返した。
「じゃあ……あなたと一緒にいた俺は、死んだんですね」
「名倉くんも?」
「はい。あなたが亡くなるのを見ました。フレーニさんや崔さんといっしょに……あの拠点の家で」
「……そうなんだ」
 行谷は両手で自分の肘にふれ、沈黙してしまった。隣室からこぼれさす光にふち取られ、その顔には深い悲しみが滲んでいた。
「フレーニさんはね、死んじゃったんだよ。崔さんも八木くんも、みんな居なくなった」
「行谷さん」
 泣き出してしまったので、うろたえ、識はタオルを手放して両手で行谷の手を握った。
「大丈夫です。きっと大丈夫。俺とあなただってまた会えたんだから――」
「私は偽者なの?」
 その手を握り返してきた。強い力だった。
「名倉くんから見て私は偽者なの? あなたは私が死ぬのを見たんでしょう?」
「いいえ。偽者じゃない。行谷さんから見て俺は偽者ですか?」
「……うぅん」
「俺も……いまこうしている自分が、もとの世界にいたときの自分と本当に同じだっていう自信はない。だからって偽者なんてことにはならない。……そんなこと信じてはいけないんです」
「信じてはいけない?」
「この世界は架空のような世界だと聞きました。現実……世界樹世界にとってです」
「架空……ここは、やっぱり、もとの世界のどこでもない場所なんだね。私たちは偽者なんじゃなくて、そもそも架空の人間だったっていうの?」
「違う」
 痛む体の奥で、火がともった。
「そんなことを信じちゃダメです、行谷さん。信じたらそれが本当になってしまう。本当に、俺たちはただの絵空事にされてしまうんだ」
「でも、名倉くん。架空だったらあなたがそのように……そうやって、ここを架空だと信じないように設定された登場人物かもしれないよ」
「ちがう、ちがう」
 架空というのはものの喩えなんだ……識がそう言うのを許さず、行谷は畳みかけてきた。
「じゃあ、どこかに作者がいるの? 私たちは、空のオルガンの作者がいると聞いて、船の街からここまで来た。ねえ、だけど、そんな人がどこに居るの」
「分からない、でも」
「途中で書かれなくなったらどうなるの?」
 真剣に問われた、その意味が分からず、無言で見つめ返す。行谷はじれて問い直した。
「私たち、途中で物語るのをやめられてしまったらどうなるの?」
「……さあ」
「誰に読まれているの? 読んでいる人がいるの? 架空なら、現実の世界で読まれなくなったらどうなるの? 書かれなくなったら? 私たちは死ぬの?」
 識は顔をそむけた。
「私たちを読む人がみんな死んだら、誰も私たちを覚えていなくなったら、私たちは死ぬの? 動けなくなってしまうの?」
 行谷が手を解いた。そして識の二の腕を、両手でつよく掴んだ。
「答えて!」
 その力の強さに驚き、動揺して行谷を見返した。
「答えて。黙らないで、怖い。何か言って。いまこの時間は流れているの? そうじゃないなら、私はずっと名倉くんが答えるのを待ってなきゃいけないの? いや。そんなのはいや」
 行谷の上半身が傾いた。識の胸に頭をつけた。あれほど強かった力が抜け、行谷のその手が、今度はわき腹から背中にまわる。
「何か言って……お願い」
 顎の下に、行谷の黒々とした、柔らかい髪がある。
 言葉をさがすかわりに、行谷の背に両腕を回した。そっと抱きしめると、掌に鼓動が伝わってきた。同じように、行谷も識の鼓動を聞いている。行谷の頭に頬をのせ、識は目をつぶった。
 二人の時は止まっていない。
「寂しかった」
「……うん」
 ラベンダーの匂いがした。ポプリは行谷のものだったのだ。行谷が呟く。
「止まるなら……」

 ラベンダーを絵の中に描きたした。
 クレヨンを置き、描きあげた絵を顔の位置まで持ち上げる。画用紙の中でおかあさんが満面の笑みを見せていた。破られたものよりもうまく描けた気がする。初夏の日暮れは鮮烈で、きたる真夏の猛暑の予感に満ちている。
 小さい識は出来上がりに満足し、時計を見た。夕陽がまぶしいと思ったら、もう六時になる前だった。
 お母さんの工場のお仕事が終わる時間だ。
 迎えに行こう! 散らかしたクレヨンもそのままに、識は手ぶらで家から飛び出した。鍵をまわし、その鍵を、自分の首にかける。この先の長い坂道までお母さんを迎えに行くのが日課だった。
 西日に照らされた長い坂を、車止めに座って見下ろしていると、その内にお母さんが長い影を引き連れて坂を上ってくる。その手を引いてあげながら、おうちに帰るのだ。
 幸せな予感を温めながら、識は坂の上で待った。
 お母さんは、まだかな。
 車止めから見下ろす坂を、人や、自転車や、自動車などがいきかい過ぎてゆく。
 お買いものをしてるのかな。だから遅いのかな。
 風が吹きはじめた。涼しい風だった。西日も衰え、街が影に満ちる。
 坂の下の寺で、釣鐘がにぶく鳴った。
 豆腐売りがラッパの音を曳いていく。
 カラスも巣に帰る。
 お母さん遅いな。お母さんまだかな。
 しかし、眼下の家々に灯が点りだし、空が藍色に暮れても、お母さんは坂を上ってこない。街灯が冷たくともる。坂を人が通らなくなり、かわりに晩ご飯の談笑や、野球の中継などがそこかしこから洩れきこえはじめた。
 でもお母さんは来ない。
 もうお家に帰ったのかな。違う道を通ったのかな。
 踏ん切りがつかずにいた識も、あたりが真っ暗になると、仕方なく車止めからおりた。しょんぼりと家に帰りながら、でも、お母さんは心配してるかもしれない、と思う。先に帰って、ご飯を作って待ってるかも知れない。
 家へと駆け出した。息を切らしてたどりついた家だけ、明かりがついていなかった。識は鍵をあけて、暗い家の電気を背伸びしてつけ、台所にむかった。電話の受話器を取り、お母さんの職場へとダイヤルを回した。
「こんばんは。今日はだい三工場の名倉レミは残業ですか?」
『あっ、識くんね、こんばんは』
 いつもの事務の女の人が答えた。
『ごめんね、今日はね、事故でラインが止まっちゃって、お母さんは手がはなせないの』
「わかりました。ありがとうございます」
 識は電話を切った。
 失望と寂寥がわきあがり、暴れ出したい気持ちになる。お母さんは夜もお仕事がある。それまで一緒にごはんを食べるのが楽しみだったのに。
 戸棚をあさった。イチゴのあめが一個だけあったので、それを大切になめた。
 宿題があったことを思い出した。しかしすぐに終わった。
 テレビをつけてみた。何も面白いものはやっていなかった。
 もう一度戸棚をあさって食べるものを探してみたり、あしたの学校の準備をしても、お母さんは帰ってこない。いつも、お母さんが夜の仕事のために家を出る時間が近付いてくる。
 識はもう一度ダイヤルを回した。
「こんばんは」
『あ、識くん?』
「はい」
『ごめんね、識くんのお母さん、時間がなくてお店のお仕事のほうにそのまま行っちゃったの。今日はおうちに帰らないって』
 今日はおうちに帰らないって。
 カッと顔が熱くなった。鼓動が高まり、痩せた肩が力む。拒絶を突きつけられたようで、識は言葉がでない。お母さん帰ってこないの? どうしてなの? そう怒って泣きたい衝動に駆られた。
「……わかりました、ありがとうございます」
 声が震えているのが伝わったかもしれない。事務員の声がかげった。
『識くん、だいじょうぶ? おうちに食べるものある?』
「……はい。だいじょうぶです。おやすみなさい」
『おやすみなさい』
 受話器をおくと急に、家の中の無音さが気になりだした。それに、お腹がすいていた。あめ玉一個では足りなかった。ご飯が食べたい。
 もう一度受話器に手を伸ばし、躊躇する。お店に電話をすると怒られるのだ。お母さんは怒ると大声で怒鳴ったり、叩いたり、識の大事なものを捨てたり、家から追い出したりしてしまう。寝たままベッドから起きてこなかったり、なにを話しかけても無視されることもある。だけどそうじゃない時は優しいのだ。膝にだっこしてくれたり、おはなしするのを笑って聞いてくれたり、寝付くまで絵本を読んでくれたりする。そのまま添い寝してくれることだってある。
 それを思うとたまらなかった。
「お母さん」
 我慢できなくなって、もう一つの仕事場のダイヤルを回す。お母さんは怒るかもしれない。だけど優しいかもしれない。緊張して識は待った。こっちの仕事場で受話器をとる男の人は恐いのだ。
『はい、こちらスナック〈夜の蝶〉です』
「こんばんは、名倉レミはいますか?」
 愛想よく受話器を取った男が、沈黙ののち「チッ」と舌打ちをした。
『ちょっと待ってて』
 露骨に不機嫌に言うと、受話器の中から聞こえるものは全く無音になり、期待と恐れを半々に保ちながらただ待った。
 お母さんが電話に出たのは数分してからだった。
『識?』
 識は息をのんだ。
お母さんだ!
 お母さんの声は不機嫌だ。それでもお母さんに違いなかった。胸が一杯になった。こらえていた涙が目のふちにたまり、あふれ出しそうになる。
 優しいお母さん。大きいお母さん。
「お母さん、お母さん」
『何なの? お店に電話しちゃ駄目だってあれほど言ったでしょ!』
 識はお母さんの怒りを恐れ、「ごめんなさい」と言った。その声は震え、かすれていた。お母さんが受話器の向こうで盛大なため息をついた。
「あのね……」
『なに? 用事があるなら早くいいなさい。むこうでお客さんが待ってるの!』
 その声は冷たい拒絶に満ちていた。涙がこぼれ出し、口もとに流れてきた。お母さん、あのね、声が聞きたかったの。それとね、お腹がすいたの。だから怒らないで。
「お母さん、あのね、あのね――」
 何をどうやって伝えればいいのか分からない。涙ばかり出てきた。しゃくりあげながらでは上手に話せない。
『識、こういうことするのは一年生までって約束したでしょう?』
「……」
『返事は! おまえ二年生になったら一人でお留守番できるって言ったでしょうが! 覚えてないの!?』
 お母さん、でも、でも。
『返事もできないのか、馬鹿! 前にした話も覚えてない、返事もしない、お前は本当に馬鹿だよ! そんなだから学校でもいじめられるんだ』
「ご、ごめんなさい」
 お母さん怒ると、男みたいな剣幕で怒鳴る。電話越しでも、それは識を竦ませるのに充分だった。蒸し暑いのに、足もとから震えが来た。受話器を握りしめ、それでも、優しい言葉がほしくて声をふり絞った。
「お母さん――あのね――」
『用がないなら切るよ、お客さんが待ってるんだから』
「あのねっ、お母さっ――えっ――」
 うまく声がつながらない。
「――てきて――っかえっ――あの、あのね、――帰っ――おねがっ――」
『あのねえ、識、おまえ馬鹿だからもう一度だけ言うけど、お母さんが仕事をしないと家にいられないんだよ。ご飯も食べられないんだよ』
「お母さん!」
 やだ、いやだ、帰ってきて。そんなこと言わないで。
『それと新しい上履きを買わなきゃいけないんでしょ、おまえがすぐ失くすから! えっ? こないだは筆箱をなくしたでしょ? その前は体操服をなくしたでしょう? ええっ? その前はまた上履きだった』
「それは――」
『お母さんが仕事しないと、おまえはこの先ずぅっと学校で裸足でいなきゃいけないんだよ! 分かったなら電話かけてくるな!』
 怒鳴り声が耳を刺した。そしてあの、拒絶を告げる音で電話が切られ、お母さんは受話器の向こうにいなくなった。
 識は小さい体を丸めてうずくまった。
「お母さん! お母さん!」
 うずくまって、震えながら大声で泣いた。
「いやだあ、帰ってきてよう!」
 しかしどんなに泣き叫んでも、お母さんは真夜中おそくになるまで帰らない。それでも泣き続けた。全ての子供がそうするしかないように。
「お母さん……帰ってきてよぅ……ごはんちょうだい……」
 いま帰ってきて抱きしめてくれたら、どんなに嬉しいだろう。「ひどいこと言ってごめんね」と涙を拭いてくれたら、「お腹がすいたでしょう」とご飯を作ってくれたら。
 泣き疲れるまで泣いていたら、子供が寝なければいけない時間を過ぎてしまった。子供が夜遅くまで起きていると、オバケの世界に連れ去られてしまうのだ。
 だけどそれが何だというのだろう。
 識は腫れたうつろな目で膝をみつめた。
 お母さんはやっぱりぼくのこと嫌いなんだ。ぼくが馬鹿だから嫌いなんだ。ぼくがおうちに居るから帰って来たくないのかな。きっとそうだ。だったらぼくなんか生まれてこなければよかった。
 そう考えたら、止まったはずの涙がまたこみ上げてきた。識はもう声を出さず、涙をぬぐった。
 立ち上がろうとしたら、どこかで鐘が鳴った。
 識が身を竦めると、また近くで鳴った。どこだろう。三度目の鐘が鳴る。
 食器棚の中だ。
 悲しみが薄れた。識は食器棚まで歩いていき、しゃがみこんだ。その食器棚は上半分がガラス棚、下半分が木の戸棚になっている。もう一度聞こえた鐘は、一番右端の木の戸の中からだった。
 識はその戸をあけ、中をのぞきこんだ。
 ふだん丼をしまっておく棚の中は、真っ暗闇だった。台所の照明も届かない。
 その奥から小さな人が歩いてきた。
 食器棚の下の棚にちょうど入るほどの身のたけ。男の体格に、男物の衣服。
 その人の頭部は吊り鐘だった。肩から上が、絵本で見たような尖塔のてっぺんの部分になっていて、その中に吊り鐘があるのだ。吊り鐘が重いらしく、小人が前につんのめった。すると鐘が鳴った。もち直そうとして、後ろにのけ反った。そしたらまた鐘が鳴った。
 その人は識の目の前で立ち止まった。「ついておいで」と言われているように、識は感じた。
「おじさん、頭が吊りがねだよ」
 小人は再び背を向けて、鐘を鳴らしながら闇へと消えていく。
 識は四つん這いになって、小人についていった。怖くはない。それは、小人から自分に対する拒絶が感じられないからだろう。そして無関心でもない。残酷な好奇心でいじめることもしなさそうだ。食器棚の闇は深く、どこまでも続いてゆく。前方で鐘が鳴るから、識は怖くなかった。
「ねえ、どうしておじさんの頭は吊りがねなの?」
 やがて明かりが見えた。
 そこは吊り鐘の小人たちの広場だった。石畳の広場のまんなかで、食器棚の小人たちが焚き火を囲っている。暗く聳え立つ建物群。頭上にゴンドラのケーブル。食器棚人のための臣津だ。食器棚人たちは焚き火で肉をあぶっていたが、識を振り向くと、立ち上がって迎え入れた。
 識も、頭上を塞ぐものがもうないので立ち上がる。
 焚き火のそばに一脚の椅子がある。人間の、しかも子供用の椅子。食器棚人たちは腕で、座るよう促した。
 すわると、どこからか新たな食器棚人たちが、二人がかりで丼をはこんできた。識の家にある黒塗りの丼だ。箸までのっている。
「わあ、おうどんだ」
 身を裂くような悲しみを忘れ、あたまが吊り鐘の食器棚人たちを見回した。
「これ、食べていいの?」
 うなずきを受けて、識は丼を受け取った。うどんは温かく、おいしかった。大喜びの識を見て、食器棚人たちが頭を前後にふり笑う。鐘の音が鳴り響く。識は夢中でうどんをすすった。
「ぼく、すごくお腹がすいてたんだ」
 火を囲み、食器棚人たちが輪になって踊りだす。高らかに鐘が鳴る。識は幸せな気持ちで空腹を満たした。
 麺も具もなくなった丼を見下ろす。
 その汁の底では、一組の男女が抱き合っている。焚き火の明かりを浴びて、とても傷ついた表情をしている。
 その表情で、髪の長い男が子供の識を見た。
 いいや、たまたまこちらを向いただけだ。
 しっかり抱き合っていた男女が、それぞれ身をはなし、見詰めあう。ながく。互いの顔に触れた。それから二人は唇をかさねあう。
 子供の識が汁をのみほす。
 二人は丼の底を流れていく。

 あとはただ深い闇。
 その闇に行谷の声が落ちた。

「止まるなら……いま止まって」
Comment

No title

ここにまとめて感想を書かせていただきますよ。

ポーにゃーの名前が判明?してからの流れが、半端無く怖かった。
畳み掛ける怖さ。食器棚人の、最初の印象は「怖い」しかなかった。
〈35〉のおうどんご馳走してくれる頃には、ちょっと慣れて可愛げさえ
かんじるけど…やっぱり怖いわ。

千賀子の物語世界に対する思いは、なかなかに考えさせられた。
ここまで厳しいと、そりゃ息子さんも大変だっただろう…。
どっちの気持ちもわかるなぁ。きつい。

昼風呂は最高かもしれないが、ぱーくんはもっと最高wwww

ネール医師の「頼れる人もいないが、許せる人もいない」が
すごく胸に刺さった。このように生きたいものだと、本気で思った。

識パートの怖さが際立ってる。すごく好み。蘇比はミヨミたんさえ
いじめてないなら、好きな設定だしいいキャラなんだよなぁ。

No title

感想をくれてありがとう。
怖いといえば、私の友人が「ゼミの最中にswimmerに襲われることが何回もあり辛い」と話していた。心配で仕方がない。

蘇比は私にとっても思い入れのある登場人物です。彼にはミヨミをいじめてるって意識はないんだよね。あくまで「パクったソフトが役に立たなかったから苛立ってる」って感じで(……彼はサディストなので本気でいじめにかかったら凄いことになると思う)。
あなたが憎みかけたといったアレ、アレはうん、我ながら「なぜ書いた」という気分だ。

〈本日の「なぜ書いた」〉

○世田谷・堂嶋家

(ガチャ)

ミヨミ「お帰りなさい! 蘇比さん、お帰りなさい!」
蘇比「……(黙ってスーツを脱ぐ)」
ミヨミ「(あ、あれ? お仕事でいやなことがあったのかな)……今日も一日お疲れ様です♪ お風呂にしますか? ごはんにしますか?」
蘇比「腹が減った」
ミヨミ「それじゃあすぐにご飯にしますね、ウフフ」

~食卓~

蘇比「…………」
ミヨミ「……(蘇比さん、おいしいとも何とも言ってくれないなぁ)」
蘇比「………………」
ミヨミ「あの……」
蘇比「……」
ミヨミ「お味はいかがですか?」
蘇比「……………………」

蘇比「……お前、誰に料理を教わった?」
ミヨミ「え? えっと、ハイダお姉ちゃんです」
蘇比「ふぅん……」
ミヨミ「……」
蘇比「へえーーーーーーーーー」

ミヨミ「(お、お昼から煮込んでたシチューなのに……全然おいしそうに食べてくれない……)」
蘇比「……」
ミヨミ「(ていうか食べてない……お箸でぐちゃぐちゃかき回してるだけじゃない……どうして口に入れてくれないの……?)」

蘇比「もういらん」
ミヨミ「ええっ? まだたくさん残ってるのに……!」
蘇比「いらんと言ったらいらん。それから、明日以降食事は外で済ませてくる。俺にも食い物の好みというものがあるからな……」
ミヨミ「えっ……」
蘇比「朝飯もいらんぞ。俺は残飯を作らせるために生活費を稼いでるんじゃない」
ミヨミ「……そ、そうですよね! あはははは! ダメだなあ、私って……気がきかないし、ご飯も上手につくれないし」
蘇比「……」
ミヨミ「あ、蘇比さん。お風呂が沸いて」
蘇比「明日でいい」
ミヨミ「あ、あの、好きそうな番組録画しておいたから……」
蘇比「寝る」


ミヨミ「………………」
ミヨミ「…………ひっく……ひっく…………うえぇ~ん!!」

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