お話の、あるところ。

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『夢見る病気』豊原ね子

投稿作品『夢見る病気』〈36〉 著者:豊原ね子

第三章 Utopia(第七枝 夏) 第五話 ハトは死んだ ――1/2

   第五話 ハトは死んだ

 ―1―

 世界中の闇という闇を凝縮したような真の闇の底に、人の体が落ちている。
 歯を食いしばり、ミナシキは転落の衝撃と痛みに耐えていた。指一本動かせるようになったのは、たっぷり時間が過ぎてからだった。といっても、実際にはどれくらいの時間なのか、本当のところは分からない。
 暗すぎる。首をもたげたが、それで何か変わるでもなかった。指を、足首をゆっくり動かし、体と方向の感覚を取り戻す。地面は平らではない。ごつごつした石の地面は、少し傾いている。次に腕を這わせ、周囲の状況を確かめた。
 崖などはなかった。安全を確認したほうへ、体を動かす。引き裂かれるような痛みが全身を貫いた。それでも「痛い」だけですんだのだ。もし転落の途中で意識を失っていたら、この程度ではすまなかったはずだ。目を大きく見開き、何も見えぬ場所を睨み、もしかして俺は失明したのか、と思いついた。
 失明の恐怖が精神を苛む。ミナシキはそれに抗う。ここは夜の山だ、何も見えなくたって当たり前だ。
 腕を伸ばす。確実に、安全をたしかめる。
 すると、「おい」、と男に呼ばれた。
 覚えがあるようなないような、太い声だった。ミナシキは腕を伸ばしたまま硬直した。丸い塊を掴んでいる。それが硬い髪を生やしている。丸いものの輪郭を指でなぞった。睫毛があり、鼻があった。その下には荒れて乾いた、唇があるのが分かった。
 生首が落ちている。生首が喋ったのだ。
 違う!
 これは石だ。きつく自分に言い聞かせ、〈生首〉を力の限りつかむ。それは冷たく、何の凹凸もない、大きな石だった。神経の錯覚だ。このように何も見えないから、生首だなどと感じたのだ。
 するとまた、
「おい」
 誰かが呼びかけた。
「おい、兄ちゃんよ」
 ミナシキは闇を見つめる。
「兄ちゃんよ……聞こえてんだろ」
 このような下品な声の人間は、一人しか知らない。
「……ラーネッドか」
 そう言いかけた口を、すぐ噤む。幻聴だ。幻聴の相手をしてはいけない。ラーネッドと名を与えたら、それがラーネッドになる。声がしたほうの石をつかむ。これは石だ。ただの石だ。すると、その手を細い指がつかんだ。あわてて振り払う。
「シキよう」
 振り払った手がまた生首の髪に触れた。その首がヨセギの声で言った。
「シキじゃねえな、ミナシキさんか。何やってるんだ、王子?」
「やめろ」
 思わず、うめきが洩れた。
 それを待ち焦がれていたように、四方を人の気配が取り囲んだ。なぜ今まで気付かなかったのだ。ここは死霊の巣窟ではないか。
「……オレたちを裏切り殺していった結果がこのざまか?」
「黙れ」
 声を出すと、胸郭がはげしく痛んだ。
「黙れ! 幻覚が口をきくな!」
「そうかな」
 全く別の声が、耳の後ろでした。
「俺を幻覚だと思うか」
 ミナシキは頭を振り、気をたしかにもって前進を再開する。石ばかりある、河原のような場所だ。涸れ沢か。
 すると指先に水が触れた。たしかに、水だ。雨水が流れてきているのだろう。ミナシキは指先に気を集中し、水が流れる方向をつかむ。そして、沢を下り始める。深い山で遭難したならば、沢を下るという選択は死に繋がる。しかしこの程度の山なら、険しい沢などなさそうだ。ふもとに下りればどうにかなる。たぶん。
 それよりも、少しでも早く遠ざからないと、あいつらが下りてくる。
「シキ」
 震える声で、レーゼがどこからか呼んだ。
「シキ、どこなの?」
「ミナシキさん」
 リコリスか。
 闇の底で、ミナシキは生えている生首や手を、圧しつぶすよう這い進む。
「お兄様!」遥か後ろでリズで叫んだ!「置いていかないで、お願い! 暗いところは嫌いなの!」
「キセリタ!」
 耐えきれず叫ぶと、ありえない声たちが遠ざかった。生首が、涸れ沢の石にもどる。
「……キセリタ」
 キセリタの声は、どこからも聞こえなかった。サーベルは左手の中にある。死んだように黙っている。もはや以前のように、ミナシキを助けたりなどしない。
「無様だな」
 またも、先ほどと同じ声がした。
「一国の王ともあろうあろう者が、このように這いつくばって女を呼ぶしかできんのか」
「キセリタ!」
 胸が火を噴くような痛みを放ち、息を切らしながらも、ミナシキは前進をやめない。気配は消えなかった。顔のあたりに纏わりつき、低く笑っている。
「俺は消えんぞ。俺は幻覚ではない。俺を思い出せるか、レギニータ王」
 腕を伸ばす。行く先の安全を確認し、そちらへと這う。
「キセリタ……」
 妄執を振り払うべく、声を絞り出した。
「いるなら返事をしろ! キセリタ!」
 低かった笑い声が、次第に大きさを増し、高らかな哄笑に変わる。
「キセリタなら死んだぞ」
 心臓が凍りつく。
「インカーネイトが消した。あれは何処にも残っておらん。花を手向ける場所もない。ただのデータだからだ。データだ。そうだ。あれはプログラムだ。王よ、まさかプログラムに恋着していたわけではあるまいな」
「嘘だ……黙れ。貴様に何がわかる」
 この声をどこで聞いたか、記憶の底でつかんだ。インカーネイトと共にいた機械の声だ。
 この声が、病み果てろと呪ったのだ。
 ハイダがプログラムし、変容したレギニータに持ちこんだ機械。名はたしか。
「ソビ・ドウジマ」
 高笑いが止んだ。
「……ほう。馬鹿ではないようだな」
「ただのデータは貴様だ、ソビ。貴様は霊子という概念のない世界でハイダの手によって組まれた。ただのプログラムとしてだ。世界樹世界の掟を軽んじ、霊子という概念を受け容れない限り、貴様こそただのプログラムという存在から逸脱できない」
「ハイダ? そうか。俺をプログラムしたのはハイダだったか」
「消えろ。ここは貴様の居るべき世界じゃない。機械ふぜいが二度と大きな口を叩くな」
「俺が世界樹世界に今いると、誰が言った?」
「何?」
「わからんか。お前の方こそがこちらに来ようとしているのだ」
 伸ばした指の先の地面が、凹凸のない、無機質な床に変わった。
 駄目だ!
 ミナシキは直感に身を打たれ、呼吸をとめた。体を竦めた。
 氷のような疾風が吹きぬけた。
 腫れた足をみずから蹴り、その痛みで風から意識をそらした。有り得ぬ床に触るまいと、拳を握った。歯を食いしばり、頑なに風を拒む。
 この真夏に、このように冷たい風がふくはずがない。そう言い聞かせながら、もう一度脚を蹴る。肉体の痛みは何にも勝る現実感覚だった。風が消える。浮遊感を得た。目を見開いたミナシキは、闇の中に涸れ沢があると信じ、拳をひらいた。
 石をつかんだ。
 光が満ちた。ミナシキは、明るい民家にいる。居間でパジェットが幼い娘をたかく抱き上げている。後ろでは、妻と思しき女性が針仕事をしている。
 違う。ミナシキは足を蹴る。いるべき時間はここじゃない。パジェットは今、この山にいるはずだ。闇の中に戻った。現在、この位置に。忌々しげな気配が取り囲む。蘇比が苛立っている。石をなでた。もう風は吹かない。
 腫れたうえ、三度も蹴った左足は、もうほとんど感覚がない。石の上を這うと、それでも下半身が重いから、なくなってはいないと分かる。
「ああして温かな家庭を築くのは、本来ならお前だった」
 蘇比が低くささやく。
「そうあるべきだった。お前は王族、あるいは上流市民の子としてなに不自由なく育まれるべきだった。教養とゆたかな感性を身につけ、ふさわしい女と出会い、よき夫よき父となり、子を育てるはずだった。お前はそのように生まれついた人間だった。それが何故、惨めたらしく孤独に地を這っているのだ」
「黙れ、貴様の知ったことか。失せろ!」
「口惜しくはないのか。ああして子を抱いているべきは、お前だったのだぞ。お前の隣にいるべき女は――」
 耳元に気配の集中を感じた。ミナシキは総毛立つ。
「いるべき女は、分かっているだろう」
 棘の生えた植物をつかんだ。遅れて痛みがくる。その指を、眠っていた小さな虫たちが一斉に這いだした。たまらない不快が蘇比の言葉を一瞬真実たらしめた。
 なぜこれが現実なのだ。
「キセリタを抱きたくないか。キセリタに触れたくないか。キセリタが帰りを待つ家がほしくないか」
「黙れと言っているだろう!」
「俺はそれを叶えうる」
 ミナシキは虫たちを払い落とし、進むべき方向を見つけた。
「知るか。知りたくもない。女だと? 貴様が作るものなら何も要らん」
「要らんか。要らんというのだな。キセリタに会う気はないと言うか」
 哄笑が耳を打った。ミナシキはただ、ただ、這う。
「その程度か。その程度のものだったのだな、お前の情愛とやらは。インカーネイトの言うとおりか。お前は愛する能力が欠如した人間だ。お前は人としての当たり前の機能がない、欠陥人間だ」
「……違う」
「では何故、女に会うと言わん。なぜ彼女を求めんのだ」
「おまえが、架空だから」
 石をつかみ、前へ。ミナシキはもう、自分の足を蹴る必要がないことを悟った。蘇比が虚をつかれ怯むのを、顔の周りの空気で察した。
「キセリタが人間ではない以上、会うことも触れることも子をなすことも叶わない。それが出来る世界というのは架空の世界だ。架空のことをなしえるという貴様もまた架空の存在だ」
 答えない。
「どうした。〈架空〉、貴様の作りぬしが好きな言葉だぞ」
 反駁が遠く聞こえた。ひどく不明瞭だ。
「幻聴だ。幻覚だ。貴様はこの闇が俺の神経に作用して生み出した幻だ。架空だ。……消えろ」
 胸の痛みをこらえ、息を深く吸いこんだ。真夏の夜、山の夜、涸れ沢。やけつく喉の痛み。ミナシキは咳きこむ。血を吐き、喘ぎ苦しみながら全身の打撲と咳の発作を凌ぐ。咳がやみ、何度深呼吸をしても、空気から蘇比の気配は感じられなかった。
 前へ。
「キセリタ――」
 水の音が聞こえる。別の沢? いいや、川の音だ。近くに川がある。
「俺は……生き延びる」
 何も見えねど、目を開け、ミナシキは川を目指す。
 蘇比は消えた。奴の存在の有り得なさは、奴自身の弱点だ。しかし何故……それが今夜は現れたのだろう。なぜわずかな時間ながら、奴の声を聞くことが出来た。レギニータをのみこんだ次元とこの次元との間に、なにか起きたのか。肉体を持って現れることはできなかったようだが、この先は分からない。
 川にたどり着いた。身を乗り出し、溺れてもかまわぬとばかりに水を飲んだ。疲れ果てて仰向けに横たわると、白い雲が見えた。
 平時なら決して白いとは思わなかった夜の雲。山の木々をすかしてそこだけ白い。目を落とせば、走る川の水面がきらめいている。麓が近いのだ。
 手ごろな木の枝を拾った。それを支えに立ち上がろうとするが、左足に力が入らない。触ると、衣服がはちきれんばかりに腫れあがっていた。
 この腫れはいつ引くだろう。次あの銃士たちに会ったとき、振り切れる自信はない。
 俺を捕まえてどうするつもりだろう。このサーベルのことが知れたらどんな騒ぎになるだろう。
 その時は……死のうか。捕らえられ、奴らにいいように弄ばれるくらいなら、死んだほうがマシだ。いや、それではキセリタはどうなる。もしキセリタがまだここにいたら……サーベルの中に残っていたら、ReRouE人間を作り出すような奴らがキセリタに何をするか分からない。
「くそっ!」
 杖と右足の力で、ミナシキは立ち上がった。生き延びることができなくても、自ら死ぬことは許されない。
 胸まで草が生い茂るところに出た。もう麓だ。夏草が夜明けの光に白くかすんで見えた。小雨の中、どこまでも続くと見えた草むら。それが唐突に切れる。
 小雨が吹き払われた。朝日が水の分子に滲んで下界を金に染めた。ほんの少し、頭上に青空の気配。白い道と廃屋が、草むらの先にあった。廃屋を曲ると、辻に出る。
 打ち捨てられた小さな村。小雨がさっとひけて、濁りない光が地にそそぐ。雲が上空で蹴散らされ、村にまだらの光陰を描きながら走り去る。
 眠りこけるには早いと知りつつも、膝をついた。ふりむけば、草むらの向こうに、今しがた越えてきた緑の山がそびえていた。

 ―2―

 東の丘で鐘が鳴る。鳥たちが丘を見る。
 東の丘で鐘が鳴る。犬猫たちが丘を見る。
 牛も羊も、主人の突然の沈黙に首をかしげる。
 町を襲った災厄のためにテルノ市は沈黙する。
 黙祷終わりを告げる鐘がなり、少年たちの聖歌が静かに丘を下りだす。明け方までの雨で濡れていた道を、祈りが乾かしていく。白い鳩の群れが、東の丘の教会から放たれた。
 鳩の群影により、つかのま街路がうすく曇る。

 鳩は見る。こ洒落たカフェテラスで、淑恵がテーブルにおいた本を開くのを。

〈長谷部はその角を、曲がる。
 縁側は半壊し、ひどい有り様だった。低木や、それと同じ程度にのびた雑草が、縁側に乗りあがってきていた。茂みは重い緑の中に、まだたっぷりの夜を抱えている。
 老人は、緑、の、汀で、足をのばして果てていた。体は納戸にもたせかけてあるが、そのまま動く気配がないので、死んでいるとわかる。
 そしてあの青年が、老人に覆いかぶさるように屈んでいた。青年が老人の首筋を撫でた。血を、皺の間に入りこんだ血までもを拭いとり、彼はそれを舐めた。丹念に。青年は唇で血を濡らし、目を伏せ考えこんだ。そして、それをせずにはおれぬ様子で再び老人の首をぬぐい、血を舐めたとき、長谷部の足もとで縁台が軋んだ。
 青年が長谷部に気付いた。その色白の顔に、粘り気のある血液が模様を描いていた。らんらんと輝く二つの目は、恥じらいと戸惑いを宿し、長谷部が歩み寄ると、それは警戒へと姿を変えた。
「血は語ったかね」
 この奇異な行動を目の当たりにしても平然としている長谷部に、青年は恐れを抱いているらしい。後ずさった。しかし彼の後ろにもう、縁側の続きはない。
 長谷部は青年の名を呼んだ。
「恐れることはない。はて、君は君の時系列で、まだ私に会っていないのかな」
「あなたは」
「長谷部だ。君を知っている」
 青年は顔の血を拭い、肩の緊張をぬいた。
「驚いたかね」
「ええ」と、彼はうなずいた。
「名前を呼ばれたことが、ありませんでしたから」
「ここまで誰にも会わずに来たというのか? それはないはずだが」
「いえ、夢の話です」
 長谷部は肩を竦めた。
「妙なことを。君は会うたびおかしくなっていく」
「この奇妙な世界が夢であって、何がおかしいでしょう」
「夢ならばいつか終わり、君は消えてしまうぞ」
「夢ならば本物だけが残り、目覚めうるはずです」
「それが自分だというのかね」
「はい」
「私はどうなる」
「あなたは本物の人間じゃない。そういうことで構わない」
「オルガンの調律はどうする? くだらん妄想にのまれては、ここから出られんぞ」
 青年の目に、侮蔑と孤独がよぎるのを、長谷部は見逃さなかった。それは青年が長谷部を、主観的意思を持たない舞台装置の一種とみなしたことを意味する。彼は長谷部の今の問いを充分に予測していただろう。彼にとって、彼の予測の範囲の内側にあるものは真実足りえぬのだ。
 しかしそうした気配をすぐにかき消したところを見るに、少なくとも表面上は、長谷部を他者として尊重しておくつもりだろう。あるいは、自分の論理を研磨する装置として尊重するつもりだろうか。
「調律すべき弦とは、自分自身です」
 青年は、山のあるほうに顎を向けた。そこは庭木が生い茂るばかりだが、向こうには里山のつらなりが聳える。
「私はあのアンテナ、山の頂にある大きな針こそを、調律の対象と見做しておりました。音が鳴るものといえば、あれしかありません。そのせいで見落としたのです。この世界には、可能性の数だけ自分と主観が存在する事実を。調律とは」
 緑の波に目を落とした。
「可能性の収斂です。この世界での自分の目的がただ一つ、もとの世界への帰還であるとすれば、多世界的階層に散らばるすべての自分がその目的の方向へ進んでいるはずです。しかし作られた世界であるオルガン国が、その可能性と階層の増加に、際限なく耐え切れるとは思えない。ましてそうした多世界的階層の独立が完全に保たれているならばまだしも、そうではないことは――例えば自分が死んでしまった階層を覗き見ることができるという事象からして明らかだ。悪くすれば、俺がこの世界を脱出する前に、世界が破綻する」
「世界が破綻する危惧と、君が調律の対象を自分自身と考えたことにはどんな関わりがあるのかね」
「……あの音の針にはじめて接触したとき、俺は自分の別の生い立ちを経験した。けれどそれは決定的におかしいことだ……なぜなら、オルガン国に来た俺は、そもそも一人しか存在していなかった。だから別の生い立ちを経験した自分などいるはずがないし、それを覗き見ることもできない。ではオルガンは、過去方向にまで干渉できるのか? いいや」
 長谷部は黙って続きを促した。
「結局はあの生い立ちも家も家族も、偽者……舞台装置の一種だったから。このように」
 その視線が老人に落ちる。老人の血は黒く変わっていた。
 それはインクだった。
「別の生い立ちを経験した俺はまだ少年だったが、その中に、抑圧されながらも、本当の歴史をもつ俺の意識があった。少年が大人の言語能力を持つ、奇妙な状態だった。もしその状態が長く続き、大人の意識が少年の意識に制圧されていたら、取り返しのつかないことになっていただろう――多世界的階層にいる自分のどれか一人にでも、過去方向への作用が及べば、その後は全く収拾がつかない事態になる」
「収拾がつかないとは、たとえばどう言ったことかね」
「この世界の『俺』の起点はただ一人きりだった。しかし様々な過去の可能性がありえるとしたら、統一された人格・思考・行動力をもつ『ただ一人の起点』などは存在しなくなるわけです」
「過去次第で人はどのようにもなるから、ということだね」
「はい。どんな自分でも、こういう場合はこう考え、行動するだろう……そうした予測が通用しなくなるわけだから、始末の悪いことに『それぞれが』未来方向への莫大な可能性を手にすることになる。しかしオルガン国のあの針が、そうした作用をもたらすものだとしても、そんなシステムをオルガン国が持つ意味を、理解できなかった。どう考えてもそれはオルガン国への負荷を増加させる以上のものではないから。オルガン国の作者というのが実在するのなら、なぜそんなシステムを作るだろう。そう考えれば、あの針こそが事象と可能性をつかさどるものと見做し、それを調律すべきだと考えるのはナンセンスです」
「ならば自分自身を調律する、と? 発想の飛躍だ」
「飛躍? ですが今の私には、これ以上の解釈は得られません。それにこの解釈ならば、オルガン国の機械が鳥に変わり、なお人語をかたるという極端な事象にも説明がつけられる」
 やりきれぬという様子で、青年は首をふった。
「私は私の可能性を収斂させます。多世界的階層に散らばる自分の増加を抑え、かつ、その生命の浪費を制限する。あの針は役に立ちます」
 太陽が、庭木を越して照った。青年の頬が朱にそまり、目をまぶしげに細めた。彼は汗をぬぐおうとして、その手が血、いまでは黒いインクに染まったままだと気付く。
「オルガン国の舞台装置、たとえば登場人物たるこの老人は、この世界を構成する言葉でできています」
 はじめそうしていたように、青年は老人の前に屈む。そして新たに指を血で浸し、指を、唇まで運んだ。
「これは俺の記憶〉
 
〈じゃない」〉

 鳩の群れが飛び去った。ページが明るむ。淑恵は顔を上げた。パラソル越しに昼が迫る。本に栞をさし、席を立った。丘の上では慰霊祭が終わる頃だ。カフェを出たら、街は日常という、いつもの街に戻っている。色鮮やかな活気が街の光を弾ませていた。
 裏道に入ると、影がひやりと淑恵を守る。少し前を男が歩いていた。農作業用の汚れた服を着て、腰にはナイフを差している。
 淑恵はずっと、男の後をついて歩く形となる。
 偶然、ナイフの鞘の黒ずみに目がいった。その革の鞘のしみを薄気味悪く思うと、同じしみがナイフの柄にもある。
 あれは血だ。
 気付くと、男は角を曲がった。その先は更に細い路地で、大人一人が入れる幅しかない。急な下り階段になっており、男はそこをぶらぶらと下る。頭頂の禿が見えた。階段は緩やかにカーブしており、姿が見えなくなった。
 なにかとんでもないことが起きる予感がし、淑恵もそっと階段に足をかけた。下りきった先に地面はなく、網状の鉄板が床、あるいは地下空間に対する蓋としてあしもとに広がっていた。
 男はその網の下にいた。網の下の小屋から、男が白い兎を引きずり出した。長い耳を掴み、頭をコンクリートの地面に押し付け、腰からナイフを抜いた。
 血と脂でさびついたナイフを、兎めがけて振り上げた。
 淑恵は短い悲鳴をあげた。
 男が淑恵を見上げた。まずい、と思ったときにはもう、目と目があっていた。ナイフを右手に、兎を左手に、目をそらさず男が立ち上がった。知性のない目が笑う。淑恵は後ずさる。踵が階段にあたり、硬直が解けた。後ろも見ずに階段を駆け上がった。暗い路地を抜けて、明るい表通りに飛び出す。道ゆく人々にぶつかっても、構わず走り続けた。
 鍵を開けるのももどかしく、淑恵は自宅に駆けこみ、鍵をかけ戸に背中をつけて、弾む息を整えた。膝から座りこみそうになった時、戸が外から激しく叩かれた。
「動物殺し!」
 飛びのいた淑恵に、中年男の笑い声が弾けた。
「この動物殺し! 動物殺し!」

〈「……チカコはかわいそうな子だ」
 不意に青年が言った。
「『五月になったら父は帰るとあの子は信じていた』……チカコ、チカコ。この老人は妄執に取り付かれていた。血が持つ思考はチカコのことばかり。チカコとは、オルガン国にとって重要な要素なのだろうか」
「これは君の夢なのではないのかね。そうならば、チカコの名に心当たりがあってもいいはずだが」
「あなたやこの老人が、別の可能性をたどった俺だと解釈することもできる」
「この世界にいるのはみな自分と同一の存在だと? なるほど、もしオルガン国が君の過去、いや、それ以前の君の親世代にまで干渉可能だと仮定すれば、まったく違う容貌と人格をもつ君がいても不思議はない。しかし果たしてその人物を『君』と言えるのかね? それは父か母、どちらかが違う配偶者を選んだ末という、親御さんにかかる可能性ではないかね?」
 青年は反論の言葉を探し、黙る。長谷部は続けた。
「どのように理屈をつけようと、私は君ではない。君の意識が生み出した夢の小道具でもない。そうだとしても何故――なぜ、オルガン国が君の莫大な可能性を検索し、実行するなどという努力をしていると思う? 私にはそれが解せない」
 青年の目が動揺する。
「オルガン国も、君が来た世界、世界樹世界もだ。君は考えないか。自分の来た世界のほうこそ、偽ものでないかと」
 動揺が消え、向き合う瞳の中に光がさだまった。その光で長谷部を射抜き、そして次に、本当に長谷部を射抜くべく、彼は拳銃を抜いた。
「お前はどこから来た。世界樹世界の外の者か?」
「そうだと言ったら、どうするかね?」
「殺す」
 青年の頬は紅潮している。興奮のためか、夏の朝の日差しのためか。目覚めるべき世界がないと認めるくらいなら、彼は引鉄を引くだろう。
「落ち着きたまえ」
 長谷部は諸手を挙げた。
「ほら、このとおりだ――オルガン国はどうだか知らん。だが世界樹世界は、べつに起こらなかった可能性を検索し、実行しているわけではないのだよ。そのように見えるだけだ。聞くかね」
「……続きを」
「たとえば君が父に育てられたという歴史と、母に育てられたという歴史。両方が実際にあったことだとしても、それぞれ別な世界に対応した事柄だ。君の主観を持つ君が、母親に育てられたからと言って、世界が、君が父親に育てられた可能性を検索し実行したわけではない。そして君が、母親に育てられている自分を観測することで、父親に育てられた可能性との干渉性を失った。違いがわかるかね?」
「……よく、わからない」
「つまり……母親に引き取られた時点で、父親に引き取られたというもう一つの可能性が別世界で実行されたわけではなく、両親どちらかに引き取られるかの可能性は等しく存在するものだった。そして君が母に引き取られるという個人の歴史を持ったとき、父に引き取られる歴史との間に、干渉性の喪失がもたらされたのだ。さて、君は今日、ここでこのような講義を受けることは予測していたかな」
「いいえ」
「ならば、私は君の予測の外から来た……君とは別個の存在だ。すなわちこれは君の夢の世界ではない。銃を下ろしてくれないかね」
「まだだ。聞くことがある」
 青年の眼はますます鋭く、銃を向ける腕は微動だにしない。
 彼は尋ねた。
「なぜ、よりによって『長谷部』を名乗った」〉

 鳩は見る。蔦がおおうガラス窓の向こうで、千賀子と小幡が立っている。

「奴は捕まらないでしょう」
 千賀子が言った。小幡は、母が何についてそう語ったのか分からなかった。部屋にはラジオがかかっていたが、階下の子供たちのはしゃぎ声のほうが気がかりだった。だからすぐに、返事をすることが出来ず、気まずさが親子をつなぐ。そして今までそうであったように、気まずさを感じているのはお前だけであるというように、千賀子は続けて言った。
「私がつくったのだから」
「何が?」
 千賀子は口に秘密めいた笑みをのせる。
 ラジオは、避難所となった学校で飼われていたアヒルの大量死を報じていた。テルノでは動物たちの虐待死が相次いでいる。その犯人について、捕まらないと言っているのか。しかしでは、私がつくったとはどういうことだろう。
 小幡は注視を受けていた。秘密を共有できない者への侮りが、千賀子の目からありありと感じられた。この老いた母が、ふと、得体の知れぬ生き物に見え、そうだ旅行に行こうと思った。
 自宅は被災したが、住めないほどではない。その気になれば自力で改修もできよう。問題は電気や水が復旧していないことだ。旅行に行こう。気晴らしにぱっと金を使い、子供たちをこんな人物に預けるのをやめ、手元で遊ばせよう。
 小幡は、浮かんだ考えがあまりに自分の現実性と乖離しているので愕然とした。
 こんな時にぱっと金を使うだと。冗談ではない。
 旅行に行きたいのではなく、この母からわが子たちを引き離したいだけだ。かといって他に子供たちを任せられる当てなどない。
 だからって、旅行に出る必要はないんだぞ。
「銃狩りの連中もよ」
「捕まらないと?」
「あれは小説の中の出来事だから。あなたも読んだでしょう」
 千賀子は、もう何十年も前に書いた小説のことを言っているらしかった。
 そういえば、そんな話だったかもしれない。唯一読んだ、そして唯一名が知れた母の小説、〈オルガン国へようこそ〉には、快楽のために動物を殺す男や、儀礼銃を狩る悪人たちが出ていたように思う。
 では母は、現実にいる犯罪者たちを、自分の小説から出てきたと思っているのか。よしてくれ、冗談だろう。
「では裁かれるべきはあなたですね、お母さん。あんなものを書いたあなたが悪い」
 笑ったまま傷ついたのを、小幡は見抜いた。どうにも居心地が悪い。旅行に行きたい。
 〈オルガン国へようこそ〉の何が面白くて世界樹世界に広くいきわたったのか、小幡には分からない。しかも多世界に広まったものは、正しく翻訳・出版されたものではないのだ。人の口を介して広まった〈オルガン国へようこそ〉は、まったく遠い世界では、まったく違う物語になっていることだろう。
 千賀子は利権について一切口を出さなかった。著作物を正しい形で広めることは出来た。いや、そうすべきと言われていた。千賀子はその正しい意見たちを、この秘密と侮りの笑みで受け流してきた。
「この俺もつくりものか?」
 小幡は尋ねた。
「そうだろうな。子供は所詮親のつくりものだ……あなたならそう思っていたとしても不思議じゃない」
 そうして見下ろした目を、座ったまま受け止める母の顔が恐ろしく、小幡は立ち竦む。

 鳩は見る。殺した子ウサギを庭越しに、民家の窓に投げつける男の姿を。
 警官が走ってきた。男はふざけて飛び上がり、逃げる。
 警官は男を追い、路地から路地へと距離を縮める。男の背が角を曲がった。しかしその先は、暗い無人の袋小路だった。三方向を壁に囲まれ、人が隠れる余地はない。
 犯罪者を探し、まどう警官の頭上を、鳩たちは飛び越えてゆく。

 ―3―

 クッキー生地に鳩の型をおす。その手に飛びさる鳩の影が落ちる。リネットは顔を上げた。生あたたかい風が、窓から吹いてきた。
「鳩はね、テルノ市にとって特別な鳥なのよ」
 プラガットが言った。目が合うと、美しい少女ほ微笑み、肩の髪を払った。余った生地を集めてこね、また平たくのばす。
「どうして?」
「今から七十年前、蟲が来るずっと前に、世界規模の大きな戦争があったの。その頃は小さな村だったテルノからも、たくさんの人が兵士となって、そして帰ってこなかった。嘆き悲しむ人たちを見て、テルノの鳩たちは、死者たちの魂を連れ帰るために海を越えたと言われてるわ」
 話しながら、プラガットは鳩の型を手際よくおし、油紙に並べていった。
「鳩よ帰れ、魂を故郷に連れて来い。そして世界よ平和たれ……あ、オーブンの具合はどう?」

 鳩の群れが流れる。ブラインド越しの影が会議室の机に落ちる。
 ミンタカが差し出した紙切れを、メルヴィは受け取った。僅かな距離で触れ合わなかった指先から、ミンタカは、彼が静かに怒り狂っていることを感じた。
「たしかに、レギニータ語です」
 硬い声が言った。それからメルヴィは、今の自分の言葉に衝撃を受けたように呼吸を詰まらせると、紙を机に置いた。紙には、護送団の名簿に記された不審者のサインが写し書きされている。
「……姓名はともかくとして、レギニータではよくある名です。さすがに王の名ではないが」
「そうだろうね。ご協力ありがとう」
「そのレギニータ人は? まだ見つからないのですか?」
 とうとうメルヴィが苛立ちを隠すのをやめた。
「先ほど言ったとおりだ……夜明けを待って件の人物が転落した崖をおりてみたが、既に人の姿はなかった。パジェットたちも間もなく帰ってくるが、会って直接聞くか?」
「帰ってくる? 捜索はどうなるんです?」
「彼らも人間だ、休まなければ身がもたない。我々のほかに彼を探せる人間はいないのだ」
 椅子を引き、メルヴィが立ち上がる。
 机をはさんでミンタカとにらみ合った。
 一分ほど、メルヴィはそのまま瞬きをしなかった。
「まさか、自分が行くと申される気か?」
「当たり前だ。もうあなた方には任せられない。その人は!」生唾をのむ。眼も喉も乾いていた。「……素性が誰であれ、大怪我をしていることでしょう。あなた方のせいだ。あんたたち銃士が人を殺すんだ」
「分け入れば深い山の中。お一人で何をしようと言うのです?」
 メルヴィは怒りのまま席を立ち、部屋を出て行こうとした。重ねてミンタカが言った。
「テルノを出てどうするんだ……たった一人で」
「一人じゃない! リネットがいる」
「どうかね」
 ドアノブに触れる直前、メルヴィの指が硬直した。
 背後でミンタカが煙草を出し、火をつけるのが分かった。
「……リネットはどこだ?」

「お兄ちゃんどこかな」
 オーブンを閉めて、リネットが言った。
「どうしたの?」
「ううん、昨日の夜帰ってこなかったから」
「支部にいるんじゃないのかな。忙しいみたいね」
 プラガットが柔らかな笑みで、顔を覗きこんだ。
「ね。クッキーが焼けるまで、この間のお茶の調合を教えてあげる」
「うん」リネットは、戸棚に向かうプラガットを目で追い、言った。「クッキー焼けたら、お兄ちゃんに持って行ってあげようかな。いいよね」
「お邪魔にならないかしら」
「鳩は今も海を越えるの?」
 茶葉のびんを出していたプラガットが、手を止め、顎を上げた。その横顔は、もう鳩のいない窓を見つめている。
「……どうしたの? 急にそんなこと」
「ううん、聞いただけ。人と人との戦争じゃなくて、厄災や天災でも、鳩はとんでいくのかな」
「テルノではそう信じられているわ。だけどじきに人間は戦わなくなる。あいつらの相手は私たちDOLLsよ」
 プラガットは一度だけ笑って見せると、背を向けた。無言で茶葉の詰まったびんを出していく。
「鳩は飛ばない。私たちは死なないわ。人間とは違うもの」
 顔が見えない、それだけで、ひどく冷たい声に聞こえた。
「それだけの代償を払ってるのよ」

 避難所の人の顔、顔、顔が、鳩の群れを見上げた。東の丘の祈りの鐘は、ここまで聞こえてこなかったが、人々はこうべを垂れて鎮魂と生者の先行きを祈る。
 喧騒が止んだので、ガロエは刺繍の手を止めた。開いた窓から、上階の窓がひらく軽い音が聞こえた。この上は図書室だ。
 階段と高い矩形の廊下を行き、図書室を開けた。窓辺で、メリシカがこちらに背を向けていた。
「慰霊祭よ」
 ガロエは近付き、メリシカの肩を抱いた。
「みんな、亡くなった人のために祈ってるわ」
 その肩の細さにたじろぎ、ガロエは手を離した。メリシカの顔は長い髪に隠れ、見えなかった。その髪も荒れ、乱れている。
「……一緒に祈りましょう」
 メリシカは無言のまま、何を考えているのかいないのか、ガロエの言葉に何も反応しない。無理して話しかけ続けると、風船がはじけるようにメリシカの内面が溢れてきそうで、ガロエはそれを恐れた。
 まだ立ち直ることなど考えたくないのだろう。
 ガロエは諦め、気配を殺して図書室を後にした。
 一人になったメリシカは、いよいよ自分が一人だと認めると、力が抜けて近くの椅子に座りこんだ。そして、私に愛想をつかしたのかしら、と考えた。
 それも無理はない。親切にされているのは分かるが、メリシカはもうずっと、それどころではなかった。もっと食べろとは言われるが、もっと眠れとも言われるが、ひとたびヨナンを思い出せばそれは無理というものだった。
 ヨナン。
 彼の遺体がどうだったか、しっかりと覚えている――ヨナン。
 グロテスクなんかじゃなかった。どのように姿が変わろうと、ヨナンはヨナンだった。愛おしかった。ただ、その亡骸が物語る不可逆というものが恐ろしかった。
 愛しい人。つい先ほど笑っていた顔と、ここにある顔のない亡骸、その修復不可能なほど開ききった落差が恐ろしかったのだ。そうでなければどうして彼の亡骸から、意識を閉ざしてしまえただろう。目をそらしてしまったら、もう二度と会えないのに。もう二度と見られないのに。
 なのに叫び、取り乱してしまった。そうして最期の別れを終えてしまった。
 ヨナン、あなたの姿が恐ろしかったんじゃないの。そうじゃないの。死が不可逆であることが恐ろしく、静かに涙を流すことなどできなかった。
 窓の外がにわかざわめき出す。メリシカは机の上で手を組んだ。婚約指輪が木漏れ日をはね返し、輝いた。

 ―4―

 朝がゆるやかに昼となる時分、パジェットと朱鷺子は帰ってきた。二人は顔色悪く、目の下には隈がうき、汗と土にまみれていた。
「おお、二人とも! 遺体は。レギニータ人の遺体はどうなった」
「局長」
 ミンタカが脅すと、局長は黙って体を小さくした。
「結局、なかった。逃げたと考えるべきだな」
「崖から落ちたのだろう。そう遠くに逃げられる体とは思えん」
「たしかに。結構な高さだったからな。捜索に夜明けまで待って正解だった」
 対象が転落した地点は、周囲の痕跡などから特定できた。
「参ったな。山狩りをせねばならんか」
「いいえ、逃げた方向はあらかた特定できます」と、朱鷺子が答える。「転落地点の三方向は藪になっておりますが、その藪に入っていった形跡はありませんでした。また暗闇の中、あえて藪を掻き分けて逃げるとは考えられません。生き延びたとはいえ、無傷ではすまなかったはずですから」
「残る一方向は?」
「そちらに進むと、麓まで通じる川にでます。この川伝いに山を下りたと推測できます」
「オレたちはそこで捜索を打ち切った。麓に下りず、反撃を狙っていたかもしれんからな。いずれにせよ麓に下りるしかあるまい」
「麓におりられたら、探すあてはあるのか?」
「地図にはないが、廃村がある。特異点と山一つはさんだとこだよ。あそこら辺には捨てられた村がゴロゴロしてるだろう」
 パジェットは地図を用い、改めて説明した。得心したミンタカはうなずき、素直に感心を口にした。
「大した男だな。暗闇の山の中、崖から落ちてなお逃げ延びるとは。しかし不死身でもないのだろう……病のこともある。しばらくは動けまい」
 局長に仕事をさせるため、ミンタカは振り向いた。局長はさも申し訳なさそうに前に出て、二人の銃士に告げた。
「パジェット・リゼキ、工藤朱鷺子。このたびは大変ご苦労でした。帰ってきたばかりで申し訳ないが、本日、もう一度その廃村に出向いてくれないか」
「いつまでもテルノを放っておくわけにもいきません。工藤朱鷺子は休ませましょう。代わりにDOLLsのR.R.E.をつけてはいかがでしょう?」
「なるほど、DOLLsか」
「最低でも三人で組ませたい。もう一人、DOLLsのプラガットに協力を要請しては?」
 困ったように、局長は顎をひいた。
「しかし、プラガット氏は今――」
 すると廊下を荒い足音が走ってきた。それがメルヴィだろうと予測はしたが、駆けずり回ってきたらしく顔を真っ赤にした彼は、思いもせぬことを叫んだ。
「リネットをどこにやった!」
 メルヴィはパジェットでも朱鷺子でもなく、ミンタカを睨みつけて言った。ミンタカはというと、二つの目から真剣みを消して、軽く肩をすくめてみせた。
「プラガットがみているよ。二人は仲良しなんだろ」
「プラガットはどこだ」
「知らないね。自分の家じゃないかな」
「その家はどこだ!」
「知らんね」
 メルヴィは部屋を横切り、「そんなはずないだろう!」と叫ぶと、ミンタカにつかみかかった。パジェットたちが黙って見守っていると、メルヴィは頬を肘でつかれて壁までふっとんでいった。壁の近くに立っていたホワイトボードにぶつかり、それごと倒れると、警備員が騒ぎをききつけ走ってきた。
「この野郎!」
 入室した警備員たちは、素早く起き上がったメルヴィを両脇から挟み、腕をとった。
「頭が冷えるまで地下に閉じこめておきなさい」
 メルヴィはそのまま後ろ向きに引き立てられていき、部屋から出される直前、また叫んだ。
「あんたたちは、あの人を殺す気なのか!」
「殺すだと? 滅相もない!」
 その高笑いを浴び、メルヴィは廊下に引き出されてしまった。
「ただ、今更あなたを放しておくわけにもいかないからね」
 やがて階段の近くから、雄叫びのようなメルヴィの大声と、乱闘の物音が聞こえた。そのうち一発の銃声が鳴り響き、警備員らが悲鳴をあげ、一人の足音がただならぬ勢いで階段を駆け下りていった。
「さすが。もと大尉も伊達じゃないな」
 階下が騒然としだし、自ら歩みより戸を閉めたミンタカは、
「ご苦労だったね、君は休んでくれ」
 と朱鷺子をねぎらった。
 朱鷺子と局長が退室し、騒動は屋外にまで拡散する。ミンタカとパジェットは改めて向き合った。
「おめぇなあ……」
 パジェットは呆れ、ものを言う気をなくした。
「テルノにいる限り、遠からず捕まるさ。妹を残して逃げるものか」
「お前のやり口は気に食わん。俺だったら兄妹まとめて拘束しておくがね」
「優しいな」
「おめぇ程度にはな」
 パジェットは短い休眠をむさぼるため、宿舎に行こうとした。部屋を出るときミンタカが呼び止めた。
「なんだ」
「レギニータ王を王として拘束できる組織はいくらでもあろうが、収束点として拘束できるものは我々しかいない。忘れるな」
 パジェットはミンタカの目を見つめる。
 運命か?
 運命だ。

 オーブンからクッキーを出すと、ちょうど電話が鳴った。プラガットが出た。「はいはい分かりました」と受話器をおくと、かわらぬ華やかな笑顔でリネットを振り向いた。
「いまから支部の人がお迎えにきてくれるわよ。お兄さんも疲れて待ってるわ」

 騒動の中休む気にもなれず、疲労時に特有の高揚感にまかせて朱鷺子は局の近隣をぶらついた。しばらくして支部局に帰り、宿舎の扉を開けると、受付に淑恵がいた。
「朱鷺子さん」
 淑恵は受付から走り寄ってくると、いきなり朱鷺子の手を掴んだ。そのまま立ち竦んだ。目は泳ぎ、顔は青白く、なにかに怯えているようだった。
「淑恵さん。どうしたの? 私に会いに来たの?」
 うなずく淑恵を裏に連れ出し、事情を聞いた。頭のおかしな男に追い回され、家を突き止められたという。あまりに怖くなって朱鷺子に面談を求めに来たところ、ちょうど鉢合わせたということだった。
「わたし、これからどうしよう」
 宿舎の横の道を、とんでもない速さで局の車が走りぬけた。宿舎は小高く盛られた土の上に建っている。そこから、運転手にうながされてプラガットとリネットが下車する様子が見えた。
 今度は朱鷺子が淑恵の手を掴み、宿舎の陰にまわった。
「淑恵さん、ごめん。今は帰って」
 戸惑いを宿す目に、罪悪感をこらえながら朱鷺子は告げた。淑恵の不安は痛いほど伝わる。
「うん、わかった」
 しかし淑恵はもう何も言わず、うなずいた。
「淑恵さん。ここで見たことは何も言わないで」
「いまの車の人たちのこと?」
「……分かって」
 ここもまた、恐怖に満ちた場所だと思えたのか、淑恵は別れの挨拶もそこそこに裏道を走り去っていった。
 淑恵はかわいそうだと、ふと、他人事のように思った。怖い目にあって、自分を頼ってきたのに、こうして帰されている。自分が何をやっているのか分からず、朱鷺子はゆるやかに混乱していった。
 宿舎の正面に戻ると、今度は行谷が歩いてくる。
「朱鷺子さん!」
 久しぶりに行谷の笑顔を見た。すずちゃん、と朱鷺子は呟いたが、その声は行谷に届かず消えた。
「乱暴な運転でびっくりしちゃった。さっき降りてたの、リネットちゃんとプラガットさんだよね」
 行谷が笑っているのが、ひどく場違いに思えた。そうだ。行谷は、最後に顔を見たときひどく落ちこんでいた。立ち直ったのだろうか。そういえば、あの日から、もう何日が経つのだろう。虚無感が押し寄せてくる。
 あの日とは、何だったのだろう。そして今、一人の病人を追い掛け回して、何をやっているのだ。あの日以来、銃士として何をなしえたというのだろう。
 行谷が手をうしろで組み、腰を曲げて顔をうかがってきた。
「朱鷺子さん、疲れちゃったの?」
 かろうじて笑みを浮かべ、虚無感の海から朱鷺子は息をする。
「ううん、大丈夫だよ。今から休むところなんだ。すずちゃんはどうしたの?」
「どうしたのって、挨拶に来たんだよ。私、明日の朝に出立だから」
「出立」
 不意に目の前がひらけた。長い夢から覚めたきもちだった。行谷が特異点調査に出向くことなど、とうに知っていたではないか。なぜ今の今まで忘れていたのだろう。
「うん。すこしテルノを離れるけど、ひと月で戻ってくるよ」
「……ごめんね。全然気がつかなかった」
「ううん。私、きっと前くらいに元気になって帰ってくるよ。いつまでも今のままではいられないから。そしたらまた、一緒においしいもの食べようよ」
 朱鷺子はこの後輩を愛しく思い、それをこらえきれず、行谷を抱きしめた。行谷も朱鷺子の背中に腕を回した。行谷の肌は生ぬるく、汗ばんでいて、呼吸に合わせて背中が動いていた。それは朱鷺子も同じだった。
「朱鷺子さん? どうしたの?」行谷が力をこめた。「泣くなんてヘンだよ」
 正午までまだ間がある。
 濃密な静けさが街をつぶし、水の底のようだ、と考えた。
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