お話の、あるところ。

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竹の子書房用 とよね

竹の子書房用【絵が先 百合の雪】参加作品 百合の雪〈3〉   著者:とよね

百合の雪〈3〉 二章 幻覚眠り姫(――2/2)

 ―4―

「誰?」
 マツリカは尋ねた。少年もまた、自分のおかれた状況を理解できず戸惑っているようだった。文字盤を見つめ、シャンデリアを見上げ、テーブルを挟んでマツリカの目を正面から見据えた。
「お前は人間か?」
「……そうだけど」
 誰か部屋に来ないかと願ったが、望みは薄そうだった。訊くべきことを訊いてしまった様子で、少年は途方に暮れている。
「あなたは誰?」
 もう一度尋ねた。
「その……名前は?」
「ユウリ」
「私はマツリカ。どこから来たの?」
 驚愕が去り、目の前の少年をただの人だと認める余裕ができた。どこから入って来たと訊くべきだったとマツリカは思った。
 しかしユウリは、まったく予想外のことを答えた。
「屋敷から」
 彼が何を言っているのか、すぐには分からなかった。屋敷と呼べるほど大きな家が、このあたりにあっただろうか。
「屋敷って?」
「屋敷は屋敷だ」
 不機嫌そうな物言いだった。声からも表情からも、彼の思考や素性を推し量ることはできなかった。
 結局マツリカは、彼が言う屋敷とは、この都市を取り囲む廃墟のことだろうと結論付けた。
 本当なの、と訊こうとしたが、その質問が無意味であると気付くのに一秒もかからなかった。
「ちょっと、待って」
 ひとりの手に余る事態だと判断し、部屋の戸に駆け寄った。
「待ってて。人を呼んでくるから」
 マツリカはエニシダを探そうと思った。エニシダに何かを期待するわけではないが、今もっとも近くにいる信用できそうな人間は、彼女しか思いつかなかった。もっとも、解決を望むなら警察を呼ぶべきだが、心情としてまだ大きな騒ぎにしたくない。それにあの少年が自分の前から消えたところで、何かが解決するとは思えなかった。
 静まりかえった廊下のどこにも、エニシダの気配はない。恐らくまだ一階のショップにいるだろう。
 エニシダの姿を探し、棚の間をさまよう。誰の姿も見えぬまま入り口まで来てしまった。帰ってしまったのだろうか。ドアを押した腕が、そのまま動かなくなった。
 開かない。
 押しても引いてもびくともせず、内鍵を探したが、目に見えるところにはなかった。
 閉じこめられた?
 まさか。
「すみません……」
 カウンターを振り向くが、そこにも誰もいない、
「すみません!」
 ためらい、それからカウンターの内側へ。バックヤードに顔を覗かせたが、明かりが点るばかりで誰の姿もない。バックヤードを突き進むと、従業員出入り口があった。
 それもまた、開かない。
 外からは声も音も聞こえない。
 店内に駆け戻り、奥の階段へ。暗い地下にむけて叫んだ。
「すみません!」
 そして二階へ。
「誰かいませんか!」
 返事はなかった。
 五階まで駆け上がると、息が切れた。突き当たりの窓を開けはなつ。
 ひどい吹雪だった。向かいの建物の窓にも、道にも、人の姿がない。
 くすぶっていた恐れに火がついた。
 〈事故〉だ。
 背後で足音がした。ユウリという少年が、廊下の端に立っていた。
「〈事故〉よ」
 口に出した途端、こらえがたい恐怖がこみあげた。
「これが〈事故〉よ。話に聞いたもの。誰もいない!消えてしまった」
 否定してほしかった。ユウリはどうするでもなくその場に立っていた。

 マツリカはユウリにうながされ、儀式の小部屋に戻った。
 ユウリが何者なのかを詮索する気は失せてしまった。ユウリの出現と今おきている現象を結びつけて考えようともしなかった。関係あるかもしれないし、ないかもしれない。そんなことより、自分が今どうすればいいのか分からなかった。
 〈事故〉の恐怖は幼い頃から繰り返し聞かされ、心に刷りこまれている。
 それが本来の意味の事故などではないことも知っている。
 ユウリの存在はむしろ救いだった。こんな状況で一人でなどいられない。
「怖い」
 とユウリに言ってみた。ユウリは眉すら動かさず、「そうか」
「あなたは怖くないの?」
「事故なら、外の人間が救助にくるだろう」
「こなかったら?」
 ユウリは黙った。言わなければよかったと思った。
「怖い予感がするの」
 それでも黙っていると、自分もこの部屋の小道具の一部になってしまう気がして、そのほうが恐ろしかった。マツリカはしゃべる。
「人が助けに来ても、ここだけ見捨てられる。私たちは窓辺で助けを求めるけれど、だれにも姿を見られない。声も聞こえない。幽霊みたいに」
「幽霊? 信じているのか?」
「兄さんが幽霊を見たと言ったもの。兄さんは嘘をつく人じゃない」
「そうか」
「姿見の中に、お母さんがいたの。兄さんは見た。……兄さんだけ」
 ユウリを見ると、彼はフイと目をそらした。自分に無関心なのではなく、会話が苦手なようだ。
「私の母は事故で亡くなったの。その時、私は二歳だった」
 そしてマツリカが五歳の時、父は二人目の妻を迎えた。
 継母が意地悪だったり冷たかったということはない。むしろ人格者と呼ぶべき人で、マツリカのこともセイジのことも深く愛してくれた。
 トランプを見つけたのも彼女だった。
 大掃除の時、使われていなかった部屋の、古い机から出てきた。
「それは……」
 前のお母さんのものかな。
 そう言えなかったマツリカに優しく微笑み、同じひきだしの奥から一枚の紙を出した。
「お城の作り方ね。器用な人だったのね」
 マツリカは城を作れるようになった。
 父も継母も兄も優しかった。とりわけ兄は、マツリカが間違いをおかしても、何も言わずに支えてくれていた。マツリカを気にしてくれていた。――今までも夢の中も。
 トランプの大きさを変えてバランスを取ったのは、兄さんです。そう思います。組み方を間違えた私のためにそうしてくれたんです。
 そんな事はいえない。
 次のカウンセリングではそれを言わされると恐れていた。けれどどうなるだろう? もし無事にここから出られたら、夢などという些細なことには拘らなくなるだろうか。そうであればいいが。
 しかしこの出来事が、今度こそマツリカを徹底的に変えてしまったら? 自分をこの世界での異物にしてしまったら?
「……兄さんは刑事なの。私、兄さんに迷惑をかけたくない」
 うなだれていたユウリが、顔を上げた。
「私が人間でなくなったら、私がおかしくなったら、私を殺して」
 どうかしている。
 今日出会ったばかりのこんな年下の少年に、何を言っているのだろう。だがユウリはうなずいた。マツリカの想像を裏切り、深く。
「わかった。約束する」

 ―5―

 マツリカはソファに横になって寝てしまった。ユウリは木の椅子に座り、目を開けていた。
 ここが屋敷の外であることには間違いないようだが、今の状況はどういうことだろう。街にはたくさんの人が住んでいるはずだが、今のところこの女一人しか見ていないし、建物から出られない。
 これが〈事故〉なら、たまたま自分が来たタイミングで発生したとは信じがたい。
 カミツレは、外にユウリの存在を求める人間がいれば良いと言った。ユウリが思い描く街のイメージは不確かなものだった。同じようにユウリのような者の存在を思う人間がいたとしても、その人間はユウリを知らないのだから、抱くイメージは不確かなものであるはずだ。
 不確かどうしのイメージでも、たまたま合わされば、それなりの力を発揮するということか。
『はい』にコインが置かれた文字盤を見ながらユウリは考えた。
 この女、マツリカは、オカルト趣味に傾倒しているようだ。そのマツリカなら、居るかどうかも定かではない誰か……自分に繋がるイメージを空想していたとしても不思議ではない。
 つまりカミツレのいう通りなら、マツリカが自分を求めたことになるが、しかしどうしろというのだろう。
 視界の端でマツリカが起き上がった。起きるなり謝った。
「ごめんなさい」
「何が?」
「あなたも休みたいでしょう?」
「別に」
 マツリカは黙り、ぼんやりした顔で髪を後ろに払った。
「……あなたはどうやってここに来たの?」
 それはユウリにもよく分からなかった。
 どう答えたものかと考えていると、そういえば、そもそも自分はシラユリ機構に嫌悪されたため屋敷に閉じこめられていたのだ、と思い出した。自分と深く関わったり、ましてユウリが持っている、イメージを操る能力のことなどを知れば、あまり愉快なことにはならなさそうだ。
「知らないほうがいい」
 目が合うと、マツリカの目に恐怖がはしり、頬が引き攣った。それを見て、自分なら外に出られるかもしれないと思いついた。自分と彼女とを隔てる力が確かなものならば、彼女に出来ないことが出来てもおかしくない。
「下に行こう」
 ユウリは言った。
「外に出られるかもしれない」
 呆気にとられたマツリカも、ユウリが動くと後ろをついてきた。
 棚の間の通路を抜け、入り口のガラス戸を押すと、開いた。隙間から風が吹きつけてくる。もう片方の手でマツリカの手首をつかんだ。
 二人は路上に出た。
 夜だった。雪が薄く積もり、誰の足跡もない。
 辻に、痩せた人間のように時計が立っていた。あたまに雪を載せて明るい。近付いてみると針は零時になる少し前をさしていた。
 不意にマツリカが走り出した。後を追うと、視界が開け、鉄の手すりで囲まれた小高い広場にでた。
 雪にかすみながら、遠くに居住塔群が黒い影となり聳えていた。
「明かりがない」
 マツリカが、白い息を吐きながら震える声で言った。
「夜だからだろう」
「だからって誰も彼もが寝ているはずないわ」
「確かめに行けばいい。あそこには、どうやって?」
 マツリカはユウリと居住塔群を交互に見、逡巡をしていた。行かない理由はないだろうとユウリは考えた。
 やがてマツリカも覚悟した。
「ケーブルバスがまだ動いてるはず。それに乗って行くの」

 長いエスカレーターを上ると、無人の改札ゲートが待っていた。黙って通り抜ける二人を、ゲートは阻まなかった。
「……これで本当にバスが動いてるのか?」
 乗り場から見下ろす街は明かり一つない。まるでこの街全体が死んでしまったようで、自分たちだけが生き残ったような、取り残されたような、そんな気がする。
「運行は自動だけど、車掌が乗りこまなきゃ動かない……」
 そう言いかけたマツリカの顔に、青白い光がさした。バスが乗り場に滑りこみ、ドアが開いた。
 二人を乗せたバスは、タラップの格納音を響かせたのち、ずるりと動き出した。加速するバスの中で、マツリカは物も言わずに車両後方へ走っていった。ユウリは近くの階段を上り、二階席へ。
 白い照明の下は座席が並んでいるだけで、誰の姿もない。窓の外は塗りつぶしたような闇で、ユウリの姿だけ映っている。マツリカが階段を上がってきた。
「いない。誰も」
 そう伝えるマツリカに、ユウリは黙って首をふった。闇に浮かんだ光る箱となり、バスは走り続ける。
 二人で一階の座席に座った。
「どれくらいで着く?」
「十分くらい」
 居住塔の電力が生きていることをユウリは願った。この女の望みは何だろう。もちろんそこに人がいること、自分の兄がいることだろうが、それ以前の――ユウリをここに呼び寄せえた、望みとは何だろう。
『次は』
 アナウンスが鳴った。震え上がったマツリカが、ユウリの二の腕をつかんだ。
『次は――』
 アナウンスの言葉は途切れ、あとに雑音が続く。雑音がスピーカーから流れ続けた。次は、次はと漏れ聞こえる声は、女性の声質から徐々に野太く、低い、男の声に変わっていく。
『次は、オ――』
 その声が告げた。
『オシロ』
 お城?
 すると窓の外が唐突に明るんだ。黒一色から白一色へ。バスが減速をはじめ、その白の中にも色とりどりの模様があると分かってきた。
 トランプだ。トランプが窓の外を埋めている。
 確かに城だった。
 トランプで組まれた、おそらく原寸大の城。
 その門扉の前で、バスは停車した。
「いや」
 ユウリの腕をつかんだまま、マツリカが言った。
「降りちゃだめ。だめよ。こんなところ知らない」
 この駅をやり過ごすことに、ユウリは決めた。バスは何事もなくドアを閉め、深夜を走り出す。隣のマツリカはじっとうなだれ歯を鳴らしている。
 そしてまたアナウンスが告げる。
『次は、オシロ』
 現れたのは、先ほどと同じトランプの城だった。
 三回目のお城を発車したとき、ユウリは決めた。
「次で降りる」
 当然、マツリカはそれを拒んだ。
「駄目」
「このままでは埒が明かない」
「居住塔行きのバスよ、これは」
 と、マツリカ。
「必ず居住塔に着くわ」
「状況が悪くなる一方だったら?」
 ユウリは言った。
「恐らく、そうなる」
「なぜ?」
「そうでなければ、おれたちをこの現象に巻きこんだ理由がないから――この現象が人為的なものだとしても、違うにしても」
 マツリカの目が歪んだ。苦しそうに見えた。彼女を苦しみから救うのはおれではない、と、それを見て思った。やがてどうしようもなくなって、マツリカが頷いたとき、アナウンスがもとの女性の声で静かに流れた。
『次は、オニイチャン』
 瞳から入った夜の闇が、心の闇になる。マツリカの瞳孔が収縮した。
 窓の外が白く、一面のトランプに変わる。バスが停まる。敷き詰められたトランプの上にユウリは降り立った。
「早く来い!」
 マツリカが降りる。バスはトランプのトンネルへと吸いこまれた。それがどこへ繋がるかを知る方法はない。
 二人は無言のまま、トランプの建造物に向き合った。
 城ではなく、居住塔の内部から一戸分だけ抜き取ったような家だった。中は三階程度だろう。こちら側には窓はない。
 目の前で、ドアらしき空間が開いている。
「心当たりはあるか?」
 マツリカは浅くうなずいた。
「以前、家族で住んでた部屋かもしれない……居住塔の中は同じ家ばかりだから、入ってみないとわからない」
 ユウリから、玄関に足を踏み入れた。床はしっかりと固かった。トランプの壁。トランプの天井。トランプの靴入れ。赤や黒の図形と数字。顔を二枚におろされたようなクイーンとキングたち。ここが人の住処だと思える要素はなかった。後ろのマツリカも戸惑っている。
 だがマツリカに関係ないものが現れたとは思えない。
「あの、でも……」
 口ごもったマツリカが、ユウリを見ずに行った。
「三階が兄の部屋だったの。そこに行けば何か……」
 皆まで言わず、靴を脱ぎ捨てて奥へ走っていった。彼女が走ったあと、うわべのトランプがずれて、ユウリのところまで滑ってきた。
 ユウリは廊下に膝をつき、両腕でトランプを掘ってみた。掘っても掘ってもトランプの層ばかりで、床などどこにもなかった。
 マツリカは三階にあがった。
 幼い日に手すりに貼ったシールも、小さなスタンプの跡もないが、突き当りの部屋にはノブのない扉があった。
 トランプを崩さぬよう押した。
 電子ピアノの音色が流れてきた。小さい子供が指一本で鳴らしているような、たどたどしい鳴り方だった。のぞきこめば、トランプの壁にトランプの床。窓らしき四角い穴から、冷たい風が吹いていた。
 部屋の中には一つだけ、本物があった。
 雪明りを跳ねかえす、据え付けの姿見。
 音はそこから聞こえてくる。
 そっと体を滑りこませた。鏡の前に立つと、その奥に、本物の世界があった。
 トランプではない部屋。こちらに背を向けて、電子ピアノの前に少女が座っていた。床につかない足を垂らして、鍵盤を叩いている。
 ド、レ、ミ、ファ。
 運指を教わっているようだ。隣に背の高い男が立っている。
 ソ、ラ、シ。
 声が聞こえた。微かな声だった。だがマツリカが彼の正体を知るには充分だった。
「兄さん!」
 セイジがこちらを見た。
 目があった次の瞬間に、二人が、電子ピアノが、トランプになって崩れた。
 鏡の中はここと同じトランプの世界になってしまった。
 マツリカは三階から逃げた。階段の下のダイニングでは、ユウリが壁のトランプを剥がしたり、めくったりしているところだった。
「どうした」
 真顔でふり向くユウリに飛びかかり、両肩をつかんだ。
「兄さんが、兄さんが」
 言えるのはそれだけだった。今見たことを説明しようと思っても、それ以上出てくる言葉はなかった。
「いたのか?」
 ユウリが尋ね、マツリカは首を振った。
「……どうしたい? おれは、どうすればいい?」
 それはマツリカが訊きたかった。ユウリの肩を手放し、自分の顔を覆った。その手に熱い涙がたまり、視界が闇となっても、ユウリの静かな声はそこにあった。
「お前の望みは何だ?」
 何故そんなことを訊くのだろうと、腹立たしくさえ感じた。
 決まっているではないか。帰りたい。帰って兄さんに会いたい。
 そう言おうとした。
 そうだろうか?
 帰ったら、また二週間後にはカウンセリングが待っている。
 カウンセラーは今度こそ兄への慕情を暴き立てるかもしれない。親族同士のそのような関係を、シラユリ機構は認めない。
 認められなかったらどうなる。引き離されることになるだろう。どうやって? どれほどの時間?
「いやだ」
 マツリカはうめいた。
「シラユリの世界はいや。兄さんがこちらに来ればいい!」
 言い切った直後だった。
 胸に鈍い衝撃を受けた。涙も感情も消えた。何が起きたかを確かめようと、目をあけ自分の胸を見た。
 ユウリの手首がマツリカの鳩尾に埋もれていた。今の衝撃は、ユウリの手が鳩尾に穴をうがつ衝撃だったのだ。その穴から百合が生え、咲き誇る。
 五秒。十秒。
 自分の身に起きていることが、有り得ないことだと理解するまで、ユウリも何も言わなかった。
 苦痛はなかった。ただ不思議で、意味が分からず、困ってユウリを見た。ゆっくり上げたその顔を、冷ややかな視線が待っていた。
「マツリカと名乗る人間と約束した。殺してやる」

 ―6―

 ユウリが手に感じているのは、肉の重みでも血の熱さでもない。百合の花弁の水気。茎の微細なとげ。花粉の湿りけ。マツリカの体内にあるものは人間の機能ではなかった。
 イメージを宿した手によって、彼女は百合になる。
「私……」
 いつこうなったのだろう。何故、こうなったのだろう。
「……私は」
 肩を突き飛ばされた。よろめいた弾みで、鳩尾から手首が抜けた。穴の開いていない背中を見せてマツリカが逃げてゆく。
 トランプの床に、百合の花が落ちた。
「待て!」
 それでもまだ人間のつもりのマツリカは、人間の動作で階段を上がっていった。あとを追うと、後姿は突き当たりの扉に突進した。扉が崩れ、トランプが降る。
 風を感じた。何を思ってか、マツリカは姿見に飛びこもうとしていた。弾かれて床に転び、鏡越しに自分の姿を見た。百合をこぼれさす胸に手を入れ、こう言った。
「ない」
 血が、肉が、脂がない。
 ユウリが歩み寄ると、跳ね起きて窓から飛び出した。その体に引っ張られるように、窓枠のトランプが彼女を追って飛んだ。紙の鳴る音が耳を聾した。窓と壁が消えて、見覚えのある暗い廊下が現れた。
 高いアーチ型の天井と、そこに描かれた天使。板張りの床を照らす雪明り。
 屋敷だった。
 ユウリは一瞬混乱し、しかし、屋敷が現れた理由を考えるよりも、マツリカを追うことを選んだ。
 窓の外は充分に明るかった。マツリカの背は廊下を駆け抜け、突き当りの小塔に吸いこまれた。
 すると小塔の闇から、雪の光を集めるトランプの群れが、ユウリめがけて戻ってきた。その白い光が金属光沢をまとった。トランプがナイフに姿を変えた。
 捌ききれない。
 近くの部屋に飛びこんだ。扉にナイフが次々と刺さり、その硬い音が廊下にこだました。殺されるくらいなら殺す、と、マツリカだった余剰次元人は決めたようだ。
 背後に気配を感じた。広く暗い部屋に、魚をまとうカミツレが立っていた。
 訊きたいことがいくつもあった。ここは本当に屋敷なのか? 何故おれはここにいる? おれは何をしていたんだ? おれに、おれ達に、何が起きたんだ?
「どうすればアレを殺せる?」
 結局口をついたのはその言葉だった。カミツレが床を滑り、隣に移動してきた。無表情で。
「あなたは彼女の体に修復不能な傷をつけた。彼女が人間としての自己イメージを保っていられる時間は短いでしょう。その後は……今まであなたが殺してきた余剰次元人と同じです」
 ユウリはその顔を見つめ返し、部屋を飛び出した。隣にカミツレもついて来た。突き当たりの小塔には、上下に延びる階段があった。ユウリは迷わず下に向かった。
「彼女がどこに向かっているか、あなたに分かるの?」
「人間の意識があるうちは街に帰ろうとするはずだ。外……下に向かう」
 小塔最下層の廊下に出ると、突き当りの扉が外に向かって開いていた。
 吹雪の渡り廊下に、マツリカの足跡が刻まれていた。
 ここが屋敷なら、余剰次元人を外に出してはいけない。自分の意志で決めたことでなくても、老人やシラユリ機構によって定められた生き方でも――他にどうすればいいか分からなかった。
「おれとあいつは、どうやって屋敷を出て、またここに来た?」
「なぜ、今それを訊くの?」
「あいつがまた屋敷の外に出る可能性を知りたい。奴は危険だ」
 カミツレは何も言わない。
「あいつは兄のところに行く。兄のいるところが、あいつにとって一番安全な場所なんだ。だから――シラユリから自分と兄とを引き離すために、居住塔一帯をこの世から消し去る恐れがある」
「シラユリから自分と兄を引き離す? 何故?」
「決まってるだろう! シラユリが……」
 言いかけたところで、カミツレが尋ね返してきた理由がわかった。
 何故こんなことを知っている?
「それを、いつ聞いたの?」
 ユウリには分からなかった。答えられなかった。
「その話を、いつ、彼女があなたに話したの? あなたは何故、そんなことを知っているの?」
 渡り廊下の向こうにも、開け放たれたままの扉があった。
 飛びこむとそこは、何日か前に余剰次元人をみつけた吹き抜けのホールだった。ホールの底を、百合の花を散らしながらマツリカが走っていく。埋めこまれた百合のイメージは、確実に彼女を侵食している。それでもまだ、彼女の姿は人間の形だった。
 扉を開け放つと、飛びかうトランプがその先の空間を塞いでいた。咄嗟に顔に腕をかざし、目を閉ざすと、その音と気配がやんだ。
 目を開くと荒らされた部屋になっていた。散らばる女ものの小物や、淡い色彩の毛布、カーテン。マツリカがこの部屋に姿を変えた? いいや。自分の体が持つ質量以上のものにはなれない。クローゼットの扉が片側あいていた。その先に、テラ・スピリチュアの廊下が伸びていた。
 廊下へと走っていくとき、背後でささやく声が聞こえた。

『惨い』

「カミツレ!」
 テラ・スピリチュアの廊下でユウリは叫んだ。
「どういうことだ! 説明しろ!」
 カミツレはいなかった。四方をささやき声が取り囲み、不意にそれが明瞭になった。
『眠り姫様』
 鮮烈な赤のイメージが視界を消した。。
 真紅の絨毯。真紅の羽毛布団。真鍮のベッドに横たわる、真紅のドレスの女。
『眠り姫様』
『眠り』『眠り』
『眠り姫』『姫様』
 女が、ベッドサイドの花瓶に手を伸ばす。薔薇を一輪むしった。まどろむような表情で、それを貪り食う。
 香水の甘い匂いが鼻先をくすぐった。体験したことのない匂いだ。ユウリが知らず、マツリカが知っている匂いだろう。
 視界が戻った。廊下は、右手側が鏡張りに変わっていた。
『惨い』
『惨い運命』
 廊下の中をマツリカが逃げていくのが見えた。
『兄さん 助けて』
 鏡に沿ってユウリは走った。
『兄さん』
 あともう少しでマツリカに並べる、という所で、どうしても追いつけない。
『ここにいて』
 ささやきがユウリを取り囲んでいる。その言葉の断片が、時折聞き取れる。
『ねえ……兄さん』
 鏡の中の廊下には出口があった。が、ユウリがいる廊下は突きあたりとなった。鏡に向き合い、拳で打つが、そちら側には行けなかった。
『怖い』
 光源は鏡の向こうだった。その光が消えた。闇に閉ざされユウリは立ちつくす。鏡から手をはなした。
 彼女は物質ではなくイメージに姿を変えられるのか? こんな事態は初めてだった。だが、これがマツリカのイメージが作る光景だとしても、イメージする力なら負けていない。徐々に遠ざかる囁きに意識を集中し、本物を探そうとした。
 走るマツリカの息遣いを感じた。
 息切れ。揺れる視界。夜の町。
 走っても走っても近づけない、辻の時計。その、痩せた人間のようなシルエット。
 マツリカ、そこはどこだ? どうやってそこに行った?
 体から湧き、湧いて咲き誇りこぼれていく百合。
 走りながら百合をかき分ける、かきむしり、ちぎり捨てる指。
 ――あれ? 肋骨がない。
 ――あれ? あれ?
 ――肋骨がない。あれ? ない。肋骨がない。あれ? あれ? 肋骨があれ? ない。あれ? ない。あれ?
 手首をつかまれた。ユウリはユウリに戻る。もとのホールにいた。
「引きこまれてはいけない!」
 カミツレが強く言った。初めて目にする、彼女の芯のある表情だった。ユウリはその手を振りほどき、温室への扉を開いた。
「マツリカ!」
 イメージに襲われる。
 真紅の部屋で寝そべって、薔薇を食べる女。
「どこにいる!」
 居住塔の高層階。苺の鉢植えがあるテーブルで、泣きながら紅茶を飲んでいる。窓一面に灰色の空。
「マツリカ!」
 幼い妹に絵本を読んでやる歳の離れた兄。
 交霊術の部屋。文字盤とレプリカのコイン。
『呼ぶな!』
 老人が叫んだ。
『呼べば力が強くなるぞ。アレはもう、あのまま余剰次元人にさせるのだ』
「ジジイ! 貴様!」
 雪積もる外廊下で、ユウリは叫び返した。
「マツリカは人間だった。何故こうなったんだ!」
『マツリカという人間は初めからいなかった。アレは初めから余剰次元人だったのだ。お前は夢を見ていたのだ』
 老人は言った。
「くだらん事を言うな、ボケたか!」
『おお、何という口の悪さだ。俺は言ったはずだ、ユウリ。お前が屋敷から出ることは出来んと。お前がシラユリの人間に会うことはないと。本当のことが、そんなに知りたいか!』
 雪とは違うものが降ってきて、頭に当たった。足もとに百合が落ちた。
 百合の雪が降りそそぐ。
 その百合が赤に変じた。夜空に赤い点が咲いた。その点の中央に、黒髪が広がる。

『……終わり』

 落ちてきたそれを、右腕で刺した。
 重みはなかった。ユウリが触れた瞬間、それは全身をトランプに変えた。ユウリの周囲の雪にトランプが散らばり、刺さった。
それがマツリカの最期だった。
 もうマツリカはどこにもいない。これでもう、どこにも。
『――何故なら、ユウリ、仮にお前が外に出たとしても、そこが新たに屋敷となるからだ』
 トランプに当たる雪明りが、さっ、と澄んだ光に変わった。呆然としていたユウリは、その光で我にかえった。
 どうしたことだろう。
 空に雲がなかった。
 見渡す限り、一面に冴える星空となっていた。
 理由は分からない。誰かに理由を教えられたとしても、その説明を、今の自分では理解できそうになかった。
 晴れた空。どこまでも黒い空。人類にはもう、大気を濁らせる文明も、夜空を地上から明らしめる文明もない。
 星が闇をみつめている。
 生まれてはじめてみる星空を、ユウリはなんと……何とおぞましいのだろうと思った。





(三章へ続く)
Comment

No title

マツリカ……(´・ω・`)

この先が楽しみです。
難解な世界や設定を読者に読ませ、
理解させるというのは難しいけれど、
とよねちゃんにはそれができると思います。
この部分が多少引っかかりますが、
それはこれからに描かれると思いますので楽しみにしています。

とよねちゃんは、頭の中に物語の世界が隅々まできっちりと仕上がってから文章に起こすタイプだと私は勝手に思っています。
だから、その世界の風を、香りを読み手に余すところ無く伝えてほしい。
今回のように、細かな日常描写からマツリカへ心情を移行させ、
驚きと謎を深めるところはさすがと思います。
続きを待っていますね^^

ありかーさんへ。

こんばんは。

『百合の雪』は、分量こそ多くはないものの、今までにない難しさを感じながら書いています。
1000メートル上を見上げてようやく50メートル跳べる。あと10メートル、せめて5メートル……毎日こんな気分です。

中学生の時からもう十年くらい書き続けていますが、未だに楽に書けませんw

No title

プリントアウトして何度も読ませていただきました^^
読みなおす度に新たな発見があってたのしませていただいています。
ふたりでバスに乗るシーンが好きです。

目黒先生へ。

先生にお気に召していただけたようで、これほど嬉しいことはございません!
バスにのるシーンは私も大好きです。

小説版「百合の雪」は、「イマジネーション」が主題となっております。
それはユウリが余剰次元人と戦う武器であったり、人間としての意識が消えていくマツリカが撒き散らす空想や、記憶であったりします。
プロットを書きながら(いえ、本文を書きながらでさえ)「こんなものを本当に文章に落としこめるのか? 私の力量で足りるのか?」と恐怖にとらわれたり煩悶したりしています。……今もです^^;
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