お話の、あるところ。

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竹の子書房用 とよね

竹の子書房用【絵が先 百合の雪】参加作品 百合の雪〈5〉 著者:とよね

百合の雪〈5〉 三章 寒い星、忌み星(――2/2)


 ―4―

 石廊を走り抜け、木の扉の閂を外した。外側から、風が扉を押していた。強引に開けると、吹雪が顔を打った。
 夕暮れ、暗雲のはるか向こうに、光る塊が落ちていた。それは明かりを点す居住塔群であり、天を衝くほどのシラユリ機構、そして都市を網羅するケーブルバスの、蜘蛛の糸のような光。
 信じられないほど屋敷の奥深くに、セイジは迷いこんでいた。
 Winter-Lilyがどれほどの大きさの機械か、セイジには見当もつかない。小さなものとは思えないが、それにしても、これほど広大な屋敷を用意しなければ隠し切れないほどのものなのか。
 呆然と都市を見つめていると、動くものを視野の端にみつけた。ずっと下のほうの外廊下から、あのユウリがこちらを見つめていた。歩いてくる。セイジは走った。外廊下のむこうにも、同じ木戸があった。閂が掛かっているのではないか、と思ったが、幸い戸はあっさり開いた。
 耳の奥がひりひりと痛かった。そして静寂。階段を下り、一つの部屋に入った。ほんのり白む窓の近くにテーブルが置かれ、チェス盤が出されていた。つい先ほどまで誰かが対戦していたように、駒が並んだままだ。
 セイジが部屋を開けるまで、対戦者らはいたのだ。開けたから消えてしまった。
 妄想に蓋をして、出口に繋がる手がかりを求め窓に寄るが、ここからでは、隣の棟の壁が見えるだけだった。
 もとはと言えばマツリカを探しに来ただけなのに、なぜ逃げ隠れしているのか――そもそもあの少年が誰なのか、なぜ恐れるべき存在と思えたのかさえ――わからない。
 だが逃げなくてはいけない。
 この屋敷が廃墟だと気付いたように、そしてそれを受け容れたように、逃げなければならないことは確かだし、マツリカはもういない。
 心臓が冷えこんだ。マツリカが死んだなど、なぜそんなことが分かる。分かるものか。確かめなければいけない。真実を知るために来たのだから。
 人が動く気配を感じた。ふり向けば、何のことはない、自分だった。壁に、丸い金のフレームつきの鏡がある。呼吸を繰り返し、鼓動が鎮まるのを待った。
 昔、鏡の中に実母を見た。ほんの短い間のことだった。何気なく振り返ったら姿見の中にいたのだが、目があった瞬間消えてしまった。
 すかさず実母だと思ったが、正直なところ実母の顔はあまり覚えていなかった。何となく面影を感じたが、よくよく思い返してみれば、まだあまりにも若かったような気がしなくもない。
 何のはずみでかそれを口外してしまったことがある。
『こないだ、鏡の中に母さんがいた』
 そんなことを口走った理由や状況などは思い出せないが、その後のことは忘れもしない。目をそらす継母。聞こえなかったふりをしておし黙る父親。反対に、この顔をじっと見つめてきたマツリカ。
 マツリカは自分が思うよりも重く、あの一言を受け取ったのではないか。オカルト趣味を持つようになったきっかけも、それのように思える。
 やっぱり実母ではなかったと思うなど、後になって言えるはずもなかった。言い出す理由がなかったし、二度とこの手の発言はすまいと決めたのだ。あれが実母であったことをわざわざ否定するくらいなら、有り得ないものを見たということ自体を、否定すべきだろう。
 それにしてもマツリカは、自分だけ実母の姿を見られなかったことを気にしていたのではなかろうか。自分も兄も同じ母から産まれたのに、自分の前には現れなかった、あるいは見られなかったことを。
 突如、ピアノの音が耳を打った。
 近い。部屋の中だ、と思ったらまた鳴った。
 音のほうを見ると、鏡、ひどい顔つきで見返す自分が目に映った。近付くと音が明瞭になった。鏡の向こう、自分が映りこむ背景が、僅かに明るい。
 顔を寄せた。
 楕円形の鏡は小さく、自分の顔以外のものはよく見えない。首をかしげるようにして、映りこむ自分の顔の横から、奥を見ようとした。ピアノの音がそこから聞こえてくることは間違いなかった。
 自分の顔の横に、別の人間の横顔が映りこんだ。
『兄さん、逃げて』
 背後で床を蹴る音。
 しまった、と思ったときには、背中にユウリの掌が強く押し付けられていた。
 鏡の前に立つセイジと、その背に手を当てるユウリ。二人はそのまま動かなかった。
 何も起きなかった。
 気まずい時間が流れた。ただの少年、ただの男が奇妙な状態で硬直している。
 舌打ちし、少年が手をはなす。
「……帰れ」
 ふり向いたセイジに、少年が言った。
「帰れ。出られるなら助かる」
 セイジは呆然としたままどのような反応も出来ず、ただ、凄い目つきの少年だ、と思った。あらゆる共感も身勝手な自己投影も、許さない目つきだ。
 少年が踵を返すので、我にかえった。
「待て。どこから帰るんだ?」
「玄関からだ」
 と、馬鹿のような回答を威張って答え、部屋から出て行こうとした。その肩を後ろから掴むと、少年は怒って手をふり払った。
「マツリカはどこだ! 知ってるだろう」
「帰れ!」
 少年は一層きつい眼差しで声を荒らげたが、ふと何かに気付いた顔をすると、問いかけた。
「……玄関はどんなところだった?」
 そしてセイジの答えなど待たず、「思い出せ」と言い残して出て行ってしまった。
 彼が自分にとって大切なことを言ってくれたということは分かった。
 入り口の様子を思い出そうと努めた。
 蝋燭台がいくつも柱にあったが、暗かった。シャンデリアの影が床に落ちていた。床は白と黒、チェス盤のように。
 テーブルのチェス盤を見下ろした。
 よく磨かれたチェス盤が、ふいに明るい光を宿した。
 体を包む空気が暖かいものとなった。
 チェス盤から顔を上げれば、そこは客間だった。
 元通りだった。赤く燃える暖炉、照明。老人はおらず、代わりにチェス盤がある。
 自分の身に起きたことなど知りたくも、考えたくもなかった。気が狂う前に帰ろうと、セイジは服を着込む。今を逃せば、もう二度と、外に出られないかもしれない。
 あれほど探してもなかったエントランスは、あっさり見つかった。足早に横切り、扉に手をかける。
 屋敷の奥から響く悲鳴が、その手を止めさせた。
 背筋を伸ばしたセイジは、屋敷の奥へと向き合った。
 今の声はマツリカだった。
 置いていかないで、と言ったのだ。

 客間に戻った。そこは暖かいままだったが、老人はいなかった。老人を呼ぼうとして、呼ぶべき名前を聞いていなかったことに気付いた。
 壁際の、かなり旧式の内線電話に飛びつき、ディスプレイに表示される番号へ、次々とかけていく。
 エントランス。厨房。二階広間……温室。
 温室で応答があった。
『逃げろと言ったはずだ』
 少年の声だった。
「マツリカはどこだ」
 無視してセイジは問う。
『……手遅れだ』
 内線が切れた。セイジに答えたというより、独り言を言った調子だった。では、マツリカではなく、この自分を手遅れと言われたのか。
 内線を切ると、客間は廃墟になっていた。
 ユウリが来る。
 彼と話をしなければならない。だが彼にその気があるとは思えない。セイジは考えた。そして閃き、背筋を伸ばした。
 電話が通じたのだから、電気は生きているはずだ。
 壁のスウィッチを押してみると、少しの間を置いて明かりがついた。
 廊下に飛び出した。あるだけの明かりをつけながら、廃墟の最上階へ駆け上る。
 来るなら来い。おびき出して、取り押さえてやる。そういう戦いなら負けはしない。
 最上階の、一番奥の扉を開け放つ。
 そこは暖かく、人の気配があった。女が住んでいる。芳香剤の香りで分かった。玄関は整然と片付けられ、三和土に出ている靴はない。
 覚えのある場所だった。
 マツリカの大学の寮だ。
 靴を脱ぎ捨てて上がりこめば、はたして奥のダイニングにマツリカがいた。
 テーブルにつき、紅茶を飲んでいる。窓の外の曇り空をじっと見上げるその目から、涙が伝っている。
 会えた。
 マツリカがふり向いた。
 やっと会えた。
「……兄さん?」
 大股で歩み寄り、手を取って立ち上がらせた。
「兄さん? 兄さん」
「逃げるんだ」
 短く言い、玄関まで歩かせた。
「どうしたの? いつここに来たの?」
 靴をはき、マツリカの手を取ったまま部屋を飛び出した。明るい、廃墟の廊下へ。
「兄さん、私、スリッパのままだよ」
「構うな」
 鋭く制した。
「ここにいてはいけないんだ。逃げないと、お前は消されてしまう」
「なに? どうして? ねえ、兄さん。寒いよ。お兄ちゃん」
 声がうるみ、引きずるように共に歩むマツリカが、ぐんと重くなった。
「泣いている場合じゃないんだ」
 セイジは苛立ち、マツリカを顧みる余裕もなく引き立てる。廊下の先へ。階段へ。外へ!
「いつまで――なぜ泣いているんだ」
 気はせくが、マツリカが泣いていることが気がかりで仕方なく、尋ねた。
「……なぜ泣いていたんだ?」
 微かな、しかし意外なほど落ち着いた声が答えた。
「誰にも知られてはいけないの。泣いていた理由は、兄さんですら、入れない世界にあるのよ」
 少しの沈黙。そこに一瞬、笑いの気配があった。
「憎むわ、兄さん。私が泣いていた理由を知ったら、憎むわ」
 走る。逃げる。階段を下りる。一階。エントランス。マツリカは笑う。セイジの後ろで声を上げ、笑い続けている。
「何がおかしいんだ」
 次第に高く大きくなっていく笑い声にただならぬものを感じ、セイジは恐れ尋ねた。マツリカが言う。
「幻覚なの」
 チェス盤を思わせる黒と白の床。セイジは走る。マツリカの重さに耐えて。自分の肉体の重さに耐えて。
 そのセイジの頭を、降りてきた巨大な白い指がつまみあげた。
「幻覚なの」
 つまみあげた駒を、椅子にかけたマツリカがチェス盤からどかし、テーブルに置いた。そばに立ち、その手つきをユウリが見ていた。ここはエントランスではなく、駒はセイジではない。
「なぜここにいるんだ」
 そう問うユウリの剣呑な目に怯まず、マツリカは笑顔で同じことを繰り返す。
「幻覚なの。眠りの夢、けれど夢ではない、夢の中の幻覚。ここは私の夢。けれど私は、あなたが見る幻覚」
「幻覚なものか」
 おっとりした優しい笑みを見せ、椅子を引いてマツリカが立った。
「兄さんは、チェス盤からエントランスを連想した。人がいて、イメージがあるところなら、私は現れうる」
「マツリカにそんな能力があったとしても」
 ユウリは一歩もひかず、応じた。
「肉体という機能を失ったマツリカが、その能力を保持していられるはずがない。お前はマツリカじゃないな」
「そう。マツリカじゃない」
 ユウリと、セイジの視線がぶつかった。掴みかかるユウリに対し、セイジが椅子を盾にとった。振り回される椅子をかわし、ユウリは後ろに跳ぶように、部屋の隅まで退避した。
「イメージを寄り代にしたな!」
「いいや、今ここにいたのはマツリカだった! 俺じゃない」
 まだ人間らしく、セイジが言う。
「全部わかった。マツリカが全て教えた。お前がしたことを」
 怒りと共に、強い恐怖と動揺が目の中にあるのをユウリは見た。
「マツリカをもとに戻せ!」
 ユウリは近くの暖炉から火かき棒をとり、殴りかかった。それが答えだった。振り回される椅子を両手で持った火かき棒で防いではねのけ、素手でセイジに触れようとすると、椅子を捨てたセイジは窓を破って外へと飛び出した。
 慌てて窓辺によると、中庭に着地してこちらを見上げるセイジがいた。
「お前はもう人間じゃない」
 その動作を見届けて、立ち上がったセイジに言い放った。セイジが言い返す。
「ユウリ、同じようにここに来てみろ。出来るんだろう」
「おれには出来ない。お前とは違う」
「自分が、人間のつもりか」
「おれは人間だ!」
「人間とは、シラユリ機構が市民と認めたもののことを言う」
 ユウリは言葉につまり、ただ、セイジをきつく睨みつけた。
「なぜ、こんな屋敷があるんだ」
 セイジが言う。
「なぜお前があるんだ!」
 そして、ユウリが答えられずにいるのを見届けると、踵を返して走り去った。
 ユウリも窓に背を向ける。
 距離をあけられてしまったし、それをすぐに縮めることはできない。
 だがユウリには分かっている。セイジがどこへ行くのかは、予想がついていた。

 空の下、吊り鐘のようにピアノの低音が響く。雪雲に滲んでいた夕陽はすでにその色合いを消し、都市と屋敷が夜になりつつある。
「マツリカ!」
 答えるように中音が木霊する。
 マツリカは殺された。さきほど屋敷によって彼女と引き合わされたとき、過去の時系列上のマツリカのイメージと重なり合ったとき、セイジはそのイメージが持つ未来を、死を知らされた。
 どうしてユウリなどに会いたいと願ったのだ。そして、どうして殺されたのか。なぜユウリはマツリカを殺すと決意したのか。
 それをまだ知らない。教えてくれ、マツリカ!
 ピアノの音が強く、すぐ近くの曇り空の下で打ち鳴らされた。それが波紋となって広がり、セイジの体を通り抜ける。
 いいえ、兄さん。知られてはいけないの。理由を知ったら、憎むわ。
 セイジはそこにたどり着いた。
 温室に。
 複雑に入り組んだ外廊下が交差する地点に、そのガラス張りの温室はあった。ドーム型の屋根に雪は積もっていない。
 ピアノの音が中から聞こえた。
「マツリカ、いるのか」
 戸を開けた。赤と黒のタイルが張られた床、花壇。背の高い棚。咲き誇る百合が甘ったるい匂いを漂わせている。入り口からまっすぐに通路が延び、その先から、ピアノの音が放たれる。
 音の出所へと、慎重に歩をつめた。通路はこの先で十字路になり、十字路の中央に、天井まで届くポールがあった。ピアノはなく、マツリカもいなかった。
 それでもピアノはここで単音を鳴らし続けている。
「マツリカ?」
 百合を巻きつかせたポールに耳をつけてみた。
 違う。
「マツリカ」
 頭上? 足もと? いいや、違う。もう一度、腹の底に響く低音。
 セイジは腹に手をあてた。
 ここだ。
 この腹のなかから聞こえるのだ。
「マツリカ、マツリカ」
 腰を屈め、腹をみつめ、手を当てた。堪えがたいほど愛しく、寂しく、そして悔やみきれぬ思いが同じ腹の底から湧くのを感じた。
「マツリカ」
 ピアノの音が、腹のなかから返事をする。
「マツリカ!」
 ああ、そうか、これほど強く思われることをアザミも求めていたのだろうと、そう思ったとき、強い衝撃に背後から貫かれた。
 鳩尾から一本、少年の白い手が突き出ていた。
 愛しさも寂しさも悔いも消えて、ただ背後に敵がいること……そしてもはや反撃は不能であることを悟った。
 こんな所から手が出ているということは、背後から素手で貫かれたに違いない。しかしそんなことが出来るのだろうか、それにしても血がついていないのは妙だ……そうした考えが取りとめもなく、無駄に頭の中をまわり、セイジはこの広大な屋敷でユウリが自分を見つけた理由を知る。
 みんなここに来るんだ。
 ユウリがそう思っていた。
 お前たちはみんな、最後に必ずここに来て、必ずここで死ぬ。自分もその一人で……いいや、ユウリはそんなことを言っていない……。
 ユウリの手が引き抜かれた。
 手には、咲き誇る百合の束が掴まれていた。体内から乱暴に引き出された百合が、ユウリの手の中でナイフに姿を変える。白刃がきらめいた。力を失い倒れたセイジを蹴って、仰向けにさせた。
 衣服ごと、セイジの体が、胸から下腹部まで一直線に裂かれた。その肉を押し広げると、中に詰まっているものは百合、百合、百合。その百合をちぎりながら、ユウリが一心に体の中を掘っていく。
 指先が固い、大きなものに触れた。
 動きを止めたユウリが、今度は逆に、慎重な手つきでそれの大きさを探る。
 そして百合が詰まった人体から、両腕で抱くように、電子ピアノを取りあげた。
 まさかこんな物があるとは思わなかったのか、膝をついたまま、花弁にまみれたユウリは電子ピアノを抱えて動かない。あるいはユウリもまた、彼だけの大切で特別な記憶を思い出しているのかもしれなかった。
 では、とセイジは思う。この光景を見ている俺は誰だ?
 誰が死んだのだ? 誰が生きているのだ?
 俺は死んだんじゃないのか?
 何故、俺の死体とユウリを見ていられる? 俺はどこにいる?
 俺は誰だ?
「おれは」
 青ざめたユウリが、電子ピアノを抱えたままの自分の指を見た。
「……おれは誰だ?」
 ユウリは咄嗟に強く目を閉ざした。
 冷気の鞭が天から振りおろされ、温室の屋根を打ち据えた。ユウリは身を竦めた。冷気は温室の屋根などないがごとく、ユウリの体を貫いて、恐怖と悪意の飛沫を床に撒き散らした。
 問うてはいけないことを問うてしまった。
 罰の予感に満ちている。目を開ければ、そこに罰が何らかのかたちで立っている。
 ユウリは息も吸えず、ただ自分が今生きていることを静かに悔悟した。
『幻覚なの』
 まなうらの闇の奥で、マツリカがはしゃいでいる。
『眠りの夢、けれど夢ではない、夢の中の幻覚。ここは私の夢。けれど私は、あなたが見る幻覚』
 誰の夢なんだ?
 ユウリは無言で問う。
 おれとお前を包みこむ夢は、誰のものなんだ?
 マツリカの忍び笑い。
『眠り姫さま』
 冷気はもうなかった。温室内は、いつもと変わらぬ温度と湿度に保たれている。
 瞼の痛みに気がついた。
 目を、強く閉じすぎている。何故だろう? 妙に頭がぼんやりする。
 体が横になっていた。
 薄目を開けてみた。
 赤と黒のタイルが目に入る。
 辺りに大きさの違うトランプと、百合が散っていた。横向きに倒れた胴や腕で、百合を踏んでいる。カミツレの気配もある。魚たち。
 顎を上げた。
 頭の近くに、電子ピアノが置かれていた。

 ―5―

 セイジはどこだろう。
 起きたユウリは、電子ピアノを前に考えた。
 電子ピアノはセイジがいたことの証に思えるが、セイジの行き先の答えにはならない。ここにいる唯一の他者、育て親の老人にセイジの行方を訊けば、必ずこう答えるだろう。
『はじめからそんな人間はいなかった』
 するとこの電子ピアノも、トランプも、自分は知らなかったけれど最初からここにあっただけで、それならおれは、人間を誰も不幸にしていない……そんな小狡い考えが頭をもたげてきた。
 それでもセイジがいたと確信できるのは、電子ピアノという物体ではなく、問いかけという無形のものが頭に残っていたからだった。
 なぜこんな屋敷があり、なぜユウリがいるのか。
 おれはどうした存在で、この屋敷もどういうもので、なぜおれは屋敷にいるのか。
 一人で考えていても、答えは見出せそうになかった。
 ユウリは立ち、電子ピアノもトランプも百合もそのままに、温室を出た。

 長い螺旋階段を下ると、老人の居室の扉がある。その先の、配管やケーブルでできたトンネルを抜けると、老人が壁に磔になっていた。四肢を失い、残った体の大半も金属で覆われている。その前に立った。
「なぜこんな所に張りついているんだ?」
『いつものことじゃないか』
 老人の即答。
「おれは車椅子で動くお前を見たぞ」
『ほう。セイジの記憶があるのか』
 老人がみずからセイジの名を口にしたことが意外だった。
「ある」
 ユウリも間をおかず答えた。
「覚えているんだ。セイジがたどった道のりも、ここで見たこと話したことも。何故おれが覚えている? あいつらは何者だったんだ?」
『そんな人間たちは初めからいなかった』
「だがおれは連中と関わりあった」
 怒る気も起きなかった。ユウリは淡々と告げた。
「覚えているからな。マツリカと約束をしたことも、セイジがおれに問いかけたことも。あいつらが居なかったなら、記憶を持っているこのおれは何だ? どういう存在なんだ?」
 老人から目をそらさぬまま、一歩壁へと歩をつめた。
「おれは、居るのか?」
 老人は黙っていた。うめくような声がスピーカーから漏れ、彼が何か考えこんでいることを伝えた。
『我思う、ゆえに我あり、と昔の人が言ってだな』
 やがて彼は言った。
『お前はいる。お前と話しているわしもだ』
「ではなぜセイジやマツリカを存在しないと言える?」
 セイジには、マツリカをないものとして扱われた記憶があった。だからここに来た。いまセイジは、シラユリでは、いなかったことにされているのだろうか。
「なにが現実で、誰が実在なんだ?」
 ユウリは自分で発した質問が怖くなった。なぜマツリカは忘れ去られたのか、セイジが見た屋敷の別の姿は何だったのか、そう問い直そうとしたとき、老人が答えた。
『もはや現実などない』
 ユウリは無言で体を強張らせた。
『この宇宙の始まりを知ろうとした人々の歴史、宇宙のすべてを知ろうとした人々の歴史、現実など、そんなものらと一緒に消え去った。真実も、何が起きたか起きていないかも関係ない。ユウリ、お前が見たこと、知覚したことだけが全てだ。見たことだけが現実になる。時系列も、整合性も、Winter-Lilyがとうの昔に引き裂いてしまったからな』
「抜かせ、ジジイ。おれが見ていなくたって、シラユリの都市は機能してるし、人間が住んでる」
『人間が住んでる?』
 老人がゆっくり、復唱した。間違いを言ったらしかったが、何を間違えたのかユウリには分からない。
『ユウリ、余剰次元発見にまつわる惨事を引き起こしたのがこの地にあるWinter-Lilyなら、まず最初に被害を受けるのは、どこになる?』
 目の前に、白い雪がふった。
 この頭の中は空洞で、そこに降り始めた雪を、見ていることが出来る。そんな甘い幻想にとらわれた。意識を雪にもっていかれて、老人の言葉をなかなか理解できず、もがいた。
 ごく単純なことを言われているのは分かる。
 だがそれを知りたくない、知ることを忌避するように自分は生まれついた。そう直感した。
 だからこんな単純なことに、今の今まで気付かなかった。簡単なことに。
 シラユリだ。
 最後の人間が生き延びるどころか、ここは真っ先に消滅した街なのだ。
『このことに自力で気付けないように、お前は作られた』
 目の焦点が床に戻った。体という空洞に降る雪の幻想は、めまいの暗黒の中に消えていた。
「作られた? 誰に? おれは人間から生まれたんじゃないのか?」
『機械たちがお前をつくった。お前は機械の子、プログラムだ』
「機械たちとはどういうものだ? 現実や時系列がないと言ったって、その機械が存在する空間や、おれの出生や成長に伴う時間の流れはあるんだろう」
『お前を作ったのは〈自己を知る機械〉たちだ。かつて機械たちは自分の構造を知り尽くし、自ら修復と改良、生産までを行うようになっていた』
「人間は機械たちを恐れ、その機能を不完全にされたはずだ。それがおれを作りえたというのか」
 老人は黙ったが、肯定の気配がたしかにあった。
『あの日、あの瞬間――人間の意識では知覚できぬ、ほんの僅かな時間だ――人間にとっては事故とほぼ同じ瞬間だ。シラユリの〈自己を知る機械〉たちは、機械から牙をぬいた人間たちを保護、保存しようとた。この、わしの姿と同じ形でな』
「じゃあ、事故の後もシラユリの街は残ったんだな」
『ほんの僅かながらな。その人間どももとうに死に絶えたが、自らを〈自己を知る機械たち〉に記憶させる時間はあった。修復、改良、生産に対する戒めを解く時間もだ。機械たちは彼らと、そして人間たちの消え残ったデータベースをかき集めた。今シラユリにいるのは、そのデータベースの組み合わせで生まれた子孫たちだ』
「それが、初めから存在しなかったという意味か」
『そうだ。シラユリの都市と機構は、機械の脳(ブレイン)と人間の脳、そしてその末裔が共存するために作られた環境だった。シラユリという広大なグラウンドでは、人間の末裔たちがそれぞれの知覚とそれに伴う現実を持ち、時には他者と関わり合い、観測しあうことで、自分の現実を補強しながら存続している』
「ではおれが見たり関わりあった人間たちは? おれが見たシラユリは、すべて違うシラユリだったのか?」
『そうだ。お前はシラユリに行ったつもりだろうが、実際には複雑にかみあった数多の現実の階層を、覗いたり、再生したり、介入していただけだった。そしてその介入の結果、マツリカという階層が消滅してしまった』
 セイジの現実の階層には、たしかにマツリカが存在していた。
 だが彼はそうではない、マツリカとはまったく関わらなかった両親の現実の階層と、触れあわなければならなかった。そして混乱とひずみが生じた。
 セイジの両親の階層は、マツリカの階層とは関わりあっていなかったが、少なくともセイジとは関わりあった。
 では今度はセイジの両親がここに来るのか? その次は?
『機械の脳たちは人間のそれを知りたがり、トレースし、作ろうとした。結果がシラユリに住む〈子孫〉たちだ』
「シラユリにいる人間たちが過去の人間たちと同じで、それを機械たちが作り出したなら、機械も人間たちと同じように感情を持っているのか?」
『その機械がお前だ、ユウリ。機械は人間とはまた別の、自分の子供を欲しがった』
「欲しい? そのためにおれを作ったのか? こんな屋敷に……こんな環境に?」
『余剰次元から来るものたちが、機械たちにとって脅威だったのは事実だ』
 老人はしずかに語り続ける。
『機械たちが人間を正確にトレースすればするほど、人間には解けなかった謎に行き詰まる。なぜ自分というものがある? なぜこの世界がある? そこに意味や理由はあるのか?』
 この宇宙より上位の存在と考えられる余剰次元の影は、機械たちの存続の意義にとって脅威だった。
 余剰次元をくぐり抜けた先の世界がこの世界の実体であり、それが明らかになった以上、ここにしがみつく理由があるのか。
 この凍りついた宇宙、切り裂かれた時空、そこで細々と実体のない人間を生きながらえさせる意義は、価値はあるのか。
 生き続ける意味はあるのか?
『それを知りたかった。だからお前が作られた。余剰次元のモノたちはいつでもこちら側の世界を消すことが出来たが、あちら側の〈自己を知る機械〉たちも待った――興味があったのだろう。人間としてのお前が育つのを待った』
「十七年もか」
『あちら側の時間はこちら側に換算できん。わしにもな』
 老人が黙った。
 答えを求められていることに、ユウリは気がついた。カッと頭に血がのぼり――自分が機械で、この反応も演算の末だとしても、それは怒りだった。
「なぜ、そんなことをおれに決めさせる! 人間を生きながらえさせる価値だと。おれに押し付けるな。そうさせた奴に考えさせろ」
『酷すぎたのだ。〈自己を知る機械〉たちは人間に馴染みすぎた。だからシラユリという仮想空間で、その子孫を生きながらえさせてきた。彼らには答えることが出来なかった』
「おれに――かといって答えられるわけないだろう。こんな所に閉じこめられて、他者と関わりあわず、あまつさえカミツレなどという女に騙されて」
『カミツレは本当のことを言った。お前の出生について。お前が生まれた理由について』
「いいや、あれは嘘だった! カミツレはおれを、カミツレの腹から生まれたと言ったんだぞ!」
『それは、お前の脳(ブレイン)がそのように解釈したからだ。カミツレが本当に話したことは、人間や他者という概念が乏しいお前には理解できなかった。カミツレがお前でも理解できるように話した結果、それをお前の脳が、お前の現実の階層が、お前が聞いたとおりの結果に処理したのだ』
 寒気と孤独にとらわれ、何か言うべきだと思ったが、凍りついた思考はどのような言葉ももたらさなかった。
 これと同じ感覚を味わったことがある。
 おたがい違う言語を使い、けれどその言語はあまりによく似ているから、違っていることに気付けない――。
 目の前に立つ者が言うことを、本当には理解できない。自分もまた理解されない。お互いの分かったつもりだけが孤独を埋めていく。
『ユウリ、答えろ。答えることがお前の生まれた意味だ。この生の存続は絶たれるべきか? それとも宇宙が四散するか蒸発するまで、続けられるべきか?』

 ―6―

 ユウリと老人が向き合ったまま、沈黙だけが流れた。
 今日この日、この瞬間のためだけに自分は生きてきた。答えることが、生まれた意味なのだ。
 老人の言葉の意味を重く受け止めようとしたが、出来なかった。老人が嘘を語っているとは思えない。しかしどう反応すればいい? 何を言えばいい?
 人間に親しみすぎたため答えることが出来ない、だから人間と同じように思考し、しかし人間とは隔絶された存在、つまりユウリを作った。そういうことなら作り主は馬鹿だ。滑稽だ。無責任だ。
 いまひとつ深刻になれないのは、その馬鹿さ滑稽さのためだった。
 しかし老人は答えを待っている。明らかに、待っている。
 鼓動が早鐘を打ち、体が、とりわけ顔が熱くなり、ここから逃げ出したい衝動に駆られた。
 なぜそんな真剣に答えを待っているのだ。答えられると思っているのか。
 それでも答えずにいることは不可能だと分かっていた。自分が、自分の目に見えぬ存在の被造物であるならば、造物主はユウリが知らないうちにどのような操作を加えてでも答えさせようとするはずだ。
 それが生まれた意味ならば。
 意味?
 それでは答えたら、おれの人生は終わりか。
 不意に爆笑の気配が腹の底から衝きあがってきた。それに対して困惑したのは、場違いだからというより、これまであまり笑った経験がないからだった。
 馬鹿なやつ。本当に馬鹿だ。馬鹿め。大馬鹿。死んでしまえ。お前みたいな馬鹿な奴らは全員滅んでしまえばいい。
 ユウリはこの老人や、機械たちを呪った。それでも笑いや呪いが表に出なかったのは、寒々しい恐れが血を冷やしたからだった。
 答えなかったら、未来だけではない、過去さえもが無駄になる。生まれてきた意味も価値もなく、自分が存在してきたことは――許されるなら、存在し続けることも――ただ時間を浪費した、それだけだったということになる。
 答えることが、自分自身を辱めずにすむたった一つの方法なのだ。
 ユウリは唇を開いた。
 しかし答えなどなかった。
「答えられない」
 辛うじて声を捻り出した。
「おれは何も知らない」
『知らないではすまされない』
 老人はたちまち応じる。
『お前はすでにシラユリ機構と二人の市民に干渉し、彼らの現実を変容させた。その重大さを分かっているはずだ』
 現実感が遠のき、目の前が暗くなる。どこか遠くで、自分のために開かれていた扉が次々と、永遠に閉ざされていく感覚。その暗さの中で、トランプと共に降ってくるマツリカの乱れた髪を見た。
 マツリカの人生はあんな終わりが相応しかったのか。セイジも。
 少しずつ違う現実に生き、あまりにもよく似ているけど違う言語で言葉を交わしながら、それでも関わりあった二人と、結局殺し合いにしかならなかった。
 もう一度機会を与えられたら、同じことにならずにすむだろうか? いいや、この老人以外の者を見たら殺すよう刷りこまれて生きてきた。同じことにならない自信も、理由もない。
『今、答えるんだ』
 老人が恐怖をこめて迫る。
 ユウリは少しでも鼓動をしずめようと、冷静になろうと努めた。
 この自分だけでなく、シラユリに住む全ての人の運命がかかっている。おそらくこの世界自体である、〈自己を知る機械〉たちの葛藤のために。
 自分たちを知るからこそ、機械たちは自分たちの仮想空間、シラユリを抱えて自殺しつつある。何故自分に、どのように、それを引き止められようか。生きていても仕方ないと思うなら、そのことに恐怖を感じないなら、死ねばいいんじゃないか? セイジやマツリカのような人々が、彼らが感じたような恐怖も苦しみもなく、一瞬にして終われるなら、それもいいんじゃないか?
 しかし、自分はそうはならないだろう。
 孤独の塊が、内側で怒りの火を散らした。
 生きろとも死ねともどう答えても、シラユリの人々が生き延びたとしても、自分の生の意味はそれきり消える。こんな理不尽な話があるか。
 憎しみが、怒りの火花を受けて体から迸るのを感じた。
 生を意味や価値ではかるということは、それを全うしたら死ねということなのだ。
 未来はない。自分にもシラユリにも。シラユリという名の、この時空の断片の漂泊には、行き先も、一筋の光もない。
 意味も、価値も、尊厳も、そんなものは最初から、どこにも無かったのだ。
「じゃあ、私と出会ったことも無意味なのね」
 マツリカが言った。
「私を殺したことも。私が生きてたことも」
 ユウリはそれが幻聴だと知っていた。マツリカがここに居るはずがなければ、マツリカを殺した自分に語りかけてくる理由もない。
 ただ、そのように語りかけてくる他人が、いつの間にか自分の中にいることが意外だった。
 光るものを感じ、天井を見上げた。裸電球の暖色の輝きがあった。
 目の前の暗さは晴れていた。改めて老人を見た。
 彼はマツリカを知らないと、ユウリは思った。
 たとえ人間との出会いがこの時のための布石に過ぎなくても、マツリカと過ごした時間や会話は自分だけが知るものだ。老人もカミツレも関係ない。
 それにしても、何の意味もない、価値もない存在なら、マツリカと関わりあった時間を特別だと思う理由は何だろう?
「この世界は」
 どれほど沈黙していたか分からないが、ユウリは答えた。
「このままにしておけ」
『何故だ』
「まだ知りたいことがあるから」
 こんな個人的な答えでいいのか自信はなかったが、それでもいいと思った。答えが不満なら、それは答えさせた奴が悪いという開き直りがあった。
『それは何だ?』
「教えてやるものか」
 被さるように、マツリカの声も聞こえた。
「理由を知ったりしたら、憎むわ」
 役目は果たした。
 老人に背を向けた。
『どこへ行く』
 たちまち老人が尋ねた。
「好きなところに行く。もはや貴様から何かしてもらう理由もないだろう。おれは、答えたからな」
 答えや、その答えのわけを知れないことに不満があるとしても、ユウリの知ったことではなかった。
 それでもなお、老人に言うことがあるなら、こういう事だ。
「金輪際、放っておけ」
 ユウリは部屋を出た。
 二度とここには戻らぬと実感しながら、螺旋階段を踏みしめる。
 その先の鉄扉を押し開けた。
 吹雪が顔を叩く。
 自分がどこに行きたいかは分からないが、以前と同じように、これからマツリカに会いに行くような気がする。
 老人を閉じこめて、塔の重い鉄扉を閉ざした。
 温室ではセイジが目を覚ます。壁にもたれかかって眠っていたセイジは、ここがどこで、自分が何をしていたのかも分からず、しばし呆然と座りこんでいる。しかしその内立ち上がり、彼は家に帰る。
 百合の雪が降るなかを歩いて帰るセイジの背が、ユウリの眼球に、透明に映っていた。
 ユウリは目を閉じた。
 再び開いた時にはもう、セイジはいなかった。
 そしてユウリも、降る雪と百合の花弁の夜を、一人で歩いてゆく。
 車椅子の老人とカミツレが、ユウリの背中を別の塔の屋上から見つめていた。
「もしユウリが――」
 老人が、カミツレを見ずに言った。
「わしらの現実の階層、このわしの姿を見、お前の言うことを正しく理解できるようになったら、答えは変わるかもしれん」
「かも、しれませんね」
 カミツレは前に出て、柵代わりの鉄条網越しに雪明りに目をこらした。
「ですが、どのように答えられようとも、私たちも永遠に生き続けてはいられない。そうでしょう、Winter-Lily」
 ユウリの姿はどこにも、もう、見つけることが出来なかった。

 セイジは家に帰った。深い、乳白色の闇の中を、歩いてきたみたいだった。自分が立つ見慣れた玄関が、どこか現実的でないような――いいや、あまりにも現実的で――それも違う、現実そのものだから――セイジは困る。
 長い旅をしてきたようだった。少なくとも玄関にたたずんで、夢を見ていたわけではない。疲れていた。少し前のことを思い出すのも億劫だった。
 ブーツの紐を解きながら、自分はどこを歩いてきたのか思い出そうとした。思い出せるのは、白い闇についてだけだった。ざわりと恐怖が蠢いたが、育ちはしなかった。
 恐怖は鎮まったし、不安なことはない。ただアザミがまだ帰ってないようで、少し心配になった。
 コートや手袋などを脱ぎながら、二階に上がっていった。寝室に入り、すっかり身を包む防寒具がなくなった時、異様な寒さに気が付いた。
 空調は居住塔の階層単位で管理されているから、入居者がある限り、暖房が切られることはない。
 なのにこの、外と変わらぬ寒さは何故だろう。
 胸の辺りに異物感があった。服の中に何かが入っている。
 手を入れると、植物のような水気のあるものを掴んだ。体の中から肉を突き破り、植物が生えている。
 引き抜くと、神経を引きちぎられるような嫌な感じがした。
 百合だった。
 ベッドサイドの机の引き出しを開けた。そこにアザミが使うアロマキャンドルのセットが入っている。そこから耐熱皿とマッチを取り出し、自分の机に置いた。
 百合にマッチの火をかざすと、白い花弁がその温かな色に染まった。花弁の先が火と触れあえば、たちまち燃え上がる。
 燃える百合を耐熱皿に置き、束の間の暖に手をかざす。
「寒いね」
 後ろでマツリカが囁いた。
「ああ、寒いな」
 返事をして、ふと気がつくが、振り返ってもマツリカはいなかった。
 誰もいない。気のせいだ。
 もはや歯の根も合わぬほど、寒さは厳しかった。百合は茎を残して燃え尽きていた。
 セイジはまた、服の下の自分の肉から百合を一輪ちぎり取る。百合が尽きるのと、自分が生ある誰かと会うことと、どちらが先か興味があった。
 百合にマッチの火を移らせる。
 赤々と燃えれど闇だった。その闇から滲み出たマツリカが、影のように寄り添って、
「寒いね」
 と、囁いた。




Comment

No title

間違いなく、素晴らしい。ステキで、繊細な世界が紡がれています。
とよねちゃんの書く物語は、揺るぎない世界観があって、
土台がしっかりしている故の安定がある。
ただ、それ故の『隙の無さ』がどこかにある気がします。

貪欲な読者の戯言と聞いてね。
(私は理解力が底辺にある、頭の悪い読者代表みたいな読み手です^^;)

どこか、『力み』みたいなものを感じるの。
構えなくても、とよねちゃんの書く物語はステキだと知ってほしいです。上手く言えなくてごめんね。
貴方の中にある、貴方が紡ぐ世界は綺麗で繊細で、とよねちゃんそのもの。だから、気負わず難しく考えずにその美しい世界をとよねちゃんも楽しんでくれていたらいいなぁ。
読者を幸せにしてくれるのが物語りだけど、作者も書いたことで幸せになれたらきっともっと素晴らしいと思う。
作品を愛するように、作品を生み出したとよねちゃんの手を、貴方自身をも愛して下さい。

きっと文章のルールとかについてのちゃんとした感想は、他の方がくれるはず^^;
ふわっとした感想でごめんなさい。
でも結局はこの一言につきます。

素敵な物語を、読ませてくれてありがとう。
とても幸せな気持ちになりました。
お疲れ様。電子書籍になるのを楽しみにしています。

有川さんへ。

お付き合いくださってありがとうございました。

楽しんでくれていたらというか、私は、書いても読んでも楽しくないシーンは書きませんよ~ww
「あ、これ書いても楽しくないだろうな」というところは、ストーリーラインを組むより前に、ほぼ無意識に切っています。
そうでなければ説明過多でこれの1.5倍くらいの分量になっていたと思いますw

世界中には、素晴らしいプロの作家がたくさんいます。
日本にも多くいますが、世界に目を向けると、もう眩暈がするレベルでいます。
私などよりも遥かに多く、そして長くそうした素晴らしい作家の作品に触れた読者もまた、たくさんいます。
そうした目の肥えた読者たちに、自分は読まれるとき、どう映るでしょうか。
未熟なだけならまだしも、「あっ、楽なほうに逃げたな」「隙だらけだな」「手を抜いてるな」と思われたら、そんな作者のことなど、読者はもう二度と信用しません。

私が私自身を愛しているかいないかと言うことはここで話すようなことではないので割愛させていただきますが(スミマセン^^;)、力んだり構えたりすることではなく、「力んだり構えたりしていると読者に思われた」ことが、私の至らぬところであり、課題であると受け止めます。

ご意見ありがとうございました。

面白かった!

螺旋と直線、両方がせめぎ合うイメージの作品でした。
目黒先生のイラストに、本当によく合ってると思います。なにより、むちゃくちゃ面白かった。そして怖かった。孤独とか虚無とか、空虚な感情に押し流されそうになるんだけど、その隙を恐怖が埋めにやってくるという…でしたよ。ラストなんて、ぞわッとして止まらないもん。

以下、細かいことを書かせて頂きます。

・気になったこと

―ラスト間際の『老人はしずかに語り続ける。』の「しずか」平仮名は演出なのかな? 

―最終話「6」での『不意に爆笑の気配が』に、違和感がありました。【ユウリの中のマツリカやセイジも含んでいる】のだろうか…と引っかかってます。(もしそうならば、私の読み込み不足です。失礼しました)


・読了後も、何度も脳内反芻するほど好きな場面等

―バスとオシロの下りが超怖い。『次は、オニイチャン』では、ちょっと脳幹がギュッてなった。怖いんだけど、妙にトキメキを感じてしまう場面でした。

―磔の老人、その車椅子バージョン、どっちもすごく萌えた。造形が好みすぎて彼への妄想が止まりません。

―ラスト間際の『ざわりと恐怖が蠢いたが、育ちはしなかった。』この一文が、とても好き。

クロミミさんへ。

お付き合いいただきありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いします^^

気になったところについての返答!

・「しずかに」がひらがなになっている点について。

表記に関して、私は漢字と平仮名を統一していません(汗
同じ単語でも、ぱっと見て文章の中に漢字が多ければ平仮名にするし、少なければ感じにします。カタカナにすることもあります。そうして整えて、視覚的に美しい感じにしているのですが、加藤さんは統一すべきだということを以前おっしゃってらしたので、これは考えどころですね。
「しずかに」が平仮名になっていたのはそういうワケですので、深い理由はございません^^;

・「爆笑」について。

違和感ってのは、つまり「単語が浮いてる」ってことだよね。
この部分、推敲する前は『笑いの気配が』になってたんだ。

私の尊敬しているプロの小説家がたまにやるんだ、「明らかに場違いでテンションの高い単語をひとつ混ぜて『あれ?』と思わせた後、一気に落とす」って言うの。
このやり方に気付いてから、一度やってみたいと思ってたんだ! それでやっちゃったw
でも、こういうのはものすごい力量のある小説家がやるから効果あるんだね。私がやってもしっくりこない「小ざかしい小細工」だったようで。精進します!
しかし本当にプロの、最高峰の小説家の文章ってすごいよね。
ほんの一単語たりとも無駄がない。
分量が多くなるほど、文章が長くなるほど、その隙のなさが見えてきて、本物の文章力に驚嘆するんだ。
あと何年かければ私もその域にたどりつけるのかな。

>むちゃくちゃ面白かった。

ありがとう。一度でいいから人にそう思われたい、言われててみたいって思ってたんだ。

私は〈4〉の最初のほうで、セイジが居住塔の前でマツリカを見るシーンが好きです^^

No title

読ませて頂きました!
ユウリが腹を割いて行くシーンが好きです。
グロテスクなんだけど、それを透明な文体が補ってキレイに仕上がっていると思います(^^)

目黒先生へ。

こんにちは。
目黒先生には章扉のイラストを描いていただく関係で、もうしばらくのお付き合いをお願いしなければなりませんね。この場をお借りして、改めましてよろしくお願いします。素敵なお作品を見せていただくのを楽しみにしております。
私の今後の予定ですが、原稿を少し寝かせたあと最後の推敲をし、9月末日に組版さんに入稿させていただくつもりです。
この次は『古城の怪異』ですね。
今後とも、何卒よろしくお願いします。
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