お話の、あるところ。

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竹の子書房用:黒実 操

絵が先『海』より。『ペテン師と身代わり』 黒実操


 かの大陸の西方逃れ、東へ東へ流れゆく。
 ゆきゆきて辿り着いたは、海の国。
 君よ知るや、海の国。




 そこは海の国だった。
 潮風に満たされた、碧(あお)と白に輝く小規模だが清潔な国。
 住人は何世代にも渡り、太陽と潮風に晒されたせいか、浅黒い肌に、赤茶けた髪と瞳を持っている。
 服装は、白を基調にした緩やかな貫頭衣だ。各々が胸飾りや腰帯に、貝殻や玉(ぎょく)で装飾を施しているが、どこか地味な印象がある。
 その国に、非日常が訪れた。
 祭りでもないのに、続々と広場へ人が集まってくる。そこにある物見台の下へと。
 この国では、灯台の他にこれ以上高い建物はない。上を向き、見守る老若男女。
 頂上に、真っ黒い塊。よく見ると人の形をしている。
 ――小男。
 幼い子供くらいの背丈しかないが、立派な大人の男だった。
 真っ黒な布に全身を包み、その頭にはこの国では類を見ない、大きな被り物が乗っている。
「さあて、お立会い。目ン玉ひん剥いて、よおくご覧あれ!」
 愛想良く叫ぶと、ひょいと勢いをつけて手摺に跳び乗った。 
 舌先を出し、風の様子を確認する。
 向きも強さも申し分ない。
 眼下には、たくさんの仰向いた顔、顔、顔。
 皆、固唾(かたず)を飲んで見守っている。誰も、一言も漏らさない。
「よしッ」
 唇を舐め、手摺を蹴った。
 その身体が宙に投げ出される。
 雲ひとつない空。黒く切り抜かれたように、小男の姿が躍った。
 どよめきが、悲鳴が、吹き上がる。
 ――さあ、驚け。
 男は、両手足を開いた。
 身体に巻き付けられていた黒い布が半球を描き、四肢を支えに膨らんだ。
 悲鳴が歓声に変わる。
 背中側に反った手足、そして腰は、常人にはありえない角度に撓(たわ)んでいる。
 小男は少年時代、軽業師だった。
 群衆に見せるのは、笑顔。自信に満ち溢れた、勝負の顔だ。
「つッ」
 布の膨らみに引かれる小男の手足が軋(きし)み、一瞬だが鋭く痛んだ。それでも表情は崩さない。崩すわけにはいかない。
 風に合わせて、布を操る。
 日に焼けた顔、顔、顔がぐんぐんと大きくなる。皆、瞬きさえ忘れて、小男の舞い降りる様を凝視している。
 地面が近付く。小男は力の限り、両足を前にやる。大きな被り物に隠れた額から、脂汗が吹き出した。
 直立の姿勢に持っていき、握り締めていた布の端を離す。捕らわれていた風が抜けた。
 ストン。
 ここしかないという瞬間で、地面に降り立つ。そのまま深くお辞儀。被り物の天辺に隠れ、その面持(おもも)ちは誰にも見えない。
 わっと歓声が上がる。万雷のようだった。



 小男は、背にある漆黒の布を布膜(マント)と呼び、広い鍔(つば)の付いた大きな被り物を帽子と呼んだ。どちらもこの国にはない代物(しろもの)だ。
 布膜には発条(ばね)が仕込んである。四肢で突っ張ることが条件で、空中で傘のように広がるのだ。もちろんこの様な仕掛けも技も特殊なもの。
 帽子の中には、見世物で使う様々な物が収納されている。結構な重量だ。それを示してやるだけで驚かれるので、演目の一つにも数えていた。矮躯(わいく)であるが故の、武器。
 小男は不思議の技を見せることで、食い扶持を稼ぎ、この海の国まで流れてきた。
 異国慣れしているため、ここの言葉を上手く喋った。発音の未熟な面はあったが、日常会話には困らない。
 小男には、名乗るべき名前がなかった。
 育った国では〈箱入り〉と呼ばれていたが、そこを逃げ出し、慣れた軽業と下手くそな奇術と、見様見真似の話術と演技を頼りに、生きてきた。
 徐々にそれらは磨かれて、熟練された。
 それに連れて名無しの小男は、行く先々でペテン師と呼ばれるようになっていく。
 西方の何処にも居場所がなくなり、とうとう東の果ての果て、この海の国まで流れてきた。
 ――あそこに逃げ込んでしまえば、もう追っ手がかかることもない。
 ――たくさんの訳ありな奴らが、あの国へ行ったものだ。
 道すがら、聞いた噂。
 小男は思う――ここなら、生き直せるかもしれないと。 

「急なお話で、大変に恐縮でございますが、是非とも、私共(わたくしども)の船に乗っていただきたいと、お願いにあがった次第でございます」
 小男は宿の寝台に、足を組んで座っていた。その前に、この国の兵の長(おさ)を名乗るものが跪(ひざまず)いている。
「船旅の途中、巫女(かんなめ)様のお慰みに貴殿の不思議の技を見せてくださればと思うのです。ほんの三日程度のこと。報酬は帰港しました際に、こちらを」
 差し出したのは、鶏の卵程の琥珀だった。
「いかがでしょう。悪いお話ではないと思いますが」
「悪くないな、確かに」
 帽子に隠れて、小男は刮目(かつもく)する。これだけの財産があれば、この国で暮らしていく基盤を作るのは容易だろう。
 何より、この兵の長との人脈が、役立つことになるのは間違いない。異国人の自分が、ここ、もしくはこの近辺にあるかもしれない西方人の街に腰を落ち着ける為にも――と、小男は、この降って湧いた幸運に感謝する。
「光栄なお話、有難き幸せ。精一杯、勤めさせていただきましょう」
「ご承知いただき、有り難き幸せ。それでは明朝、お迎えに上がります」
 兵の長は膝を突いたまま、深々と頭を下げた。



 出港の日。
 その物々しさ。
 兵の長が、鎧装束でやってきた。正装なのだろう。
「では、何卒(なにとぞ)よろしくお願いします」
 大仰(おおぎょう)なほどに頭(こうべ)を垂れる。
「ああ、わざわざすまないな、じゃ、いっちょ行くか……って、うへっ」
 宿を一歩出た小男の足が竦(すく)む。
 群衆だ。
 小男の姿に、わっと湧く。
「な、なななな」
「皆、貴殿の出向を喜んでいるのですよ。巫女様の、大切なお役目にご同行いただくのですから」
 小男に向けられる晴れやかな顔、顔、顔。口々に「いってらっしゃい」「お役目、感謝します」「ありがとう」。
 好意溢れる言葉を放つ。
 小男は戸惑ったが、徐々に気分が上がる。相好を崩し、帽子の鍔をひょいと上げる。
 船までの道行きは、まるで凱旋の誉のようだった。

 港には、木造の帆船があった。
 待っていたのは、兵達が九人。
「ご苦労。準備は滞りないな」
 長が加わり、見るからに勇ましい男達が十人。
「よくぞ、この船に」
 長を先頭に、皆が一斉に一礼し、小男を迎え入れた。
 小男は少し照れたが、船の様子に気を移す。
「へぇ、こんなに細長い船、初めてだ」
 真っ白い帆布は、この国の人が着る服と同じ色だ。目が痛くなる程に晴れ渡った青空に、くっきりと映える。
「風頼みですから。この時期は、時間帯で吹く風が決まっているので、この船は大変に役立つのです」
「確か、三日って言ってたか。何処まで行くんだ?」
「――ご覧ください! 皆、貴殿のことを見ていますよ」
 兵の長が、小男に指し示す。
「う、わっ!」
 群衆が――そこに広がっていた。
 誰もが、甲板上の小男に注目している。
しわぶきひとつしない、不自然な沈黙。
 さすがに小男は面食らった。
「――よう」
 試しに手を振ってみる。
 割れんばかりの歓声。
「行ってくるぞー! 帰ってきたら、また飛んで見せてやるからな」
 歓声に、哄笑が混じる。破顔の坩堝(るつぼ)。
 空中遊泳のときよりも激しい。少し、そのことが引っかかったが――すぐに忘れた。

「夕餉(ゆうげ)の後(のち)に、巫女様に貴殿の技を見せていただきたいと」
 兵の長は、小男の前に膝を突いた。
「ああ、そりゃ構わないさ。その為に来たんだからな」
 小男はすっかり調子に乗って、寝台の上で靴のまま、脚を組んで座っている。
「だけど、空飛ぶのは駄目だ。進んでる船の上だと、下手すりゃ俺は海に出ちまうからな」
「もちろんでございます。それにあの技は巫女様が怖がるといけませんので、何かこう大人しめの……」
「ああ、任せとけ。女の子が好きそうなやつをやってやるよ。女の子なんだろ? 巫女様って」
「――では、そのように」
 問いには答えず、兵の長は頭を下げて出ていった。
「発音が、まずかったのかな」
 小男はさほど気にも留めず、そのまま寝転ぶと、帽子の中に手を突っ込む。
「さあて、どの技を使おうか」



〈巫女様〉と呼ばれるその人は、部屋に置かれた、ただひとつの椅子に腰を降ろしていた。周りを兵に囲まれている。右手には兵の長が控えていた。
 ――あれが貴人(あてびと)だって?
 声に出す愚は犯さないが、眉根は寄った。
 この国に来て初めて見る、白皙(はくせき)の肌。藁(わら)色の髪と目。まだ七つか八つに過ぎないが、容貌はすでに整っていた。
 はっきりと真新しい、裾の長い貫頭衣だけを身に付け、靴さえ履いてはいない。足の指が、痛々しく荒れていた。
 兵の長が、固まったままの小男に声を掛ける。
「まぁまぁ、そう緊張なさらずに。普段と同じようにお願いします。巫女様も、それを望まれていますよ」
 初めて打ち解けた物言いをした。
「あ、は? あはは。いやいや」
 照れた振りで頭を下げた。被り物の鍔に隠れて〈巫女様〉を見る。
 視線が合った。
〈巫女様〉の薄い色の瞳が、小男の瞳孔を射抜く。
「あははは。――やあ、それでは演(や)らせてもらいましょう!」
 それを真正面から受け止め直し、小男は、ぐっと胆を据えると声を張った。

「私めは奇術師で御座います。何故なれば、西方では不思議の技のことを、奇術と呼ぶので御座います故(ゆえ)」
 複数の絵札の中から、演者には内緒で観客が選んだものを示す、所謂(いわゆる)当て物が非常に受けた。
 そもそも、この国には遊びに使う絵札がないようで、物自体が珍しがられているということもある。
 小男には、得意とする手順があった。
 決まって最初の二回を外してみせて、最後の一回で大きく決める。当てるだけでは済ませず、おまけを付けるのだ。
 お国は違えど、ここでも場は盛り上がる。
 当ててやるべきは【貴婦人】の絵札。それを二回連続で失敗してみせた。
「ええい、今のもナシ! ……それッ、この、これが正解だ」
 そして、意気揚々と突き付ける。
 絵札と、珊瑚の指輪を。
「貴婦人は、選んでくれたお前の心を所望だぞ」
「あ、ああ! いつの間に!」
 その兵は、薬指を探る。あるべき指輪はそこにはなかった。
 小男を囲む輪が、ドッと湧く。
 ――〈巫女様〉を除いて。
 硬く唇を結んだまま、藁色の瞳が直視しているのは、演目ではない。小男だ。
「えー、では、今度は巫女様に選んでいただきましょう」
 兵達には見えないよう、被り物の鍔の下から挑むように睨み、小男は〈巫女様〉に絵札の束を差し出す。
 微かに〈巫女様〉の頬が引き攣った。
 すかさず兵の長が割って入る。
「申し訳ございません。実は、巫女様は口を利くことが叶わないのです」
 スッと、空気が張り詰める。
 先程までの和やかな雰囲気は、立ち消えた。
「へえ、そいつは残念だ。だけど、札を選ぶくらい、指で示せばよくないか?」
 無邪気を装い、小男は膨れてみせる。
「いえ――もう遅いですね。お開きとしましょう。巫女様も殊(こと)の外、楽しまれたようです。そうですね、また明日にでも」
 兵の長は言いながら〈巫女様〉を促した。不自然な動きで〈巫女様〉は立ち上がり、小男に向けて一際強い視線を送り――右目だけで素早く三回瞬いた。
 小男は、ギョッとする。
 ぎこちなく歩く〈巫女様〉のその背を、兵の長が押す。
 追い立てているようだった。

 与えられた部屋に帰った小男は、時を待つ。たかが十名の兵とはいえ、この狭い船内で囲まれればお終いだ。
 丸い玻璃(ガラス)が嵌(は)めこまれた、内開きの窓を開く。生暖かい潮の香りが、ムッと流れ込む。
 満月。
 星をかき消すほどの月光。
 小男は帽子の中を探り、目当ての物を上着の内側に付いている袋へと移した。
 起きているときは、ほぼ身に付けたままの帽子と布膜を脱ぐと、部屋を出る。
 見張りはいなかった。
 無人の通路を、足音を殺して歩く。
 食堂を通り過ぎる。中に人の気配はない。
 その先に階段があった。数段降りて、耳を澄ませる。囁くように話し合う声。響きから察するに廊下に二人――その内の一人は兵の長――がいる。
「正午」「上々」「見張りの交代」、そして「とんだ頓痴気(とんちき)」という言葉が聞こえた。
 更に耳を欹(そばだ)てる。
「しかし、この巫女様は大人しいな。毎回こうだといいんだが」
 兵の長の声だった。二人が〈巫女様〉の部屋の前にいることは、まず間違いない。
 踵(きびす)を返し、甲板へ向かった。
 恐ろしいまでの月明かり。
 視界に不自由はない。
 帆柱にある、見張り台を見上げた。
 兵が一人。幸い、反対側を向いている。
 判別は難しいが、先程、珊瑚の指輪を抜かれた男のように思えた。
「さっきの場所は、この下で間違いなし……っと」
 小男は、見張りの向きを意識しながら、船縁に取り付けてある柵に、用意していた透明な細い紐(ひも)を括(くく)る。
「ちと、長すぎたなあ……」
 先端が、海面に浸かる感触。
「もったいね。ま、しょうがないか」
 奇術用の、特殊で高価なものだ。小男程度の体重であれば、余裕で支えることができる。
 手掛かり足掛かりにする為に、等間隔に輪っかを、いくつも作ってあった。
 こうしている間にも、疑惑はどんどん膨らんでいく。
(船底の方の部屋を貴人に? まさか。ある訳ない。それにさっきの――)
 まだ幼い小さな背を、屈強な兵の長が部屋から押し出す場面を思い出した。
 普段から愛用している白手袋を、ぐっと深く嵌(は)め直す。これがないと、この紐でたちまち掌が切れてしまう。
 小男は、もう一度だけ見張り台を目視すると、外壁に沿って降りていった。



 海は凪いでいた。拍子抜けするほど簡単に、目当ての窓に辿り着く。玻璃灯(カンテラ)の暖かな灯りが漏れていた。
 小男は、窓越しに覗き込む。寝台に伏せる〈巫女様〉が見えた。コツコツと叩くと、勢い良く顔を上げ、飛びつき、開く。
 狭い丸窓だが、幼い頃から縄抜けを仕込まれていた小男には、頭さえ入る空間があれば問題ない。
「お前、何者だ」
 入り込んだ小男は、藁色の瞳を睨む。挨拶はなしだ。
「合図が通じて良かった。きみのお仲間だよ」
〈巫女様〉はヒソヒソと答える。この、海の国の言葉ではない。小男の慣れ親しんだ、西方の言葉だ。
「お仲間って、俺はお前なんか知らねえ……って、口が利けるんじゃねえか!」
「シッ!」
「――ッ」
 小男は全身を緊張させ、扉向こうの気配を探る。
「くすくす。大丈夫。波の音もあるし、あいつら、お喋りに夢中みたいだし」
 真剣な面持ちの小男に向かい、藁色の瞳が緩む。親愛の情が篭(こも)っていた。
 小男は戸惑う。
「お前、何なんだよ。だいたいあの瞬きは、西方の売女(ばいた)がやるもんだろ」
「ちゃんと通じたね。ホッとした」
 右目だけで、閃光のような三回の瞬き。それは女から男への【忍んで来い】の合図なのだ。
「お前、そうか、その肌の色……この国の人間じゃないのか。だけど、あれは子供が知ってていいもんじゃないだろ」
「え、だって、きみも知ってる」
「む」
 君呼ばわりはまだしも、体格のせいで同等の年齢と思われていることを、小男は察した。
「君って言うな! だいたい俺はな、お前くらいの歳の子供がいたっていいような」
「大きな声を出さない」
「――ッ」
「くすくす。きみ、面白い」
「~~ッ」
 小男は歯軋りする。
「きみって呼ばれるのは嫌い? でも名前を知らない」
「名前、ああ……。そんなら、お前の名前は?」
「ない」
「あ?」
「名前なんてない」
 呆けた声を上げた小男を見遣り、〈巫女様〉はまたくすくすと忍び笑う。
「呼ばれていた名はあったけど、今はもうない」

「なーんか話が変なんだよな」
「うん」
「うんじゃないだろ。俺、お前の船旅で余興をやれってことで――」
〈巫女様〉は、泣き笑いの表情になる。小男の胸に、じわっと不安が広がった。
「何だよ。やっぱりおかしいな。お前、何か知ってるのか? まさかそれで俺を呼んだのか? そんで、結局お前、この国の貴人じゃないんだな」
「アテビトって?」
「あ、その、エライ人だよ」 
「エライ人にこんなことする?」
〈巫女様〉は両足を揃えたまま、パッと寝台から飛び降りた。そして小男に向き直り、足首まである貫頭衣の裾を捲る。
「ッッッ、いやいや、子供のくせにそんなこと……って、あ、あああッ!」
「枷(かせ)っていうんでしょ、これ。そのくらい知ってる」
 小さな膝のすぐ上に、それぞれ金属の輪が嵌められていた。その間を短い鎖が繋ぐ。辛うじて歩くことができる程度の長さ。幼く柔らかい肌は擦られて、赤黒く変色している。
 そうか。食堂を出るときの、あの不自然な歩き方は――小男は唇を噛んだ。
 湧き出る感情を抑えようと、寝台に腰掛ける。
「お前、まさかそんなに小さいのに、その、う、売られたりとか……酷い事されてるんじゃないのか」
「え、違うよ。くすくす。――そっか。きみも間違えたんだ。ほら」
 裾をからげた〈巫女様〉は、そのまま両腕を高々と揚げた。
 脚どころか、胸まで顕になる。貫頭衣の下は素肌だった。
「~~~~~~~~~~ッ!」
 既(すんで)のところで小男は拳を噛み、声を殺した。

〈巫女様〉は少年だった。
 ケロッと裾を直すと、小男の隣に腰を下ろす。
「か、か、かんなめさまっていったら、ふつうおんなだよなぁ」
 暫(しばら)く、口をパクパクさせていた小男だったが、ようやく声が出た。
「そうだけど、この国では人身御供(ひとみごくう)のことをそう呼ぶんだって。ぼくのせいじゃない」
「そうだけどさ、そうだけど――あ、お前、今、何て言った!」
「ぼくのせいじゃない」
「そっちじゃない!」
 ――人身御供。
 文化や文明が未熟だった時代の、迷信に支えられた、忌まわしき悪習。
 あろうことか人間の命を〈神〉に捧げ、代わりに恩恵を乞う。例えば百人の幸せの為に、一人の命を犠牲にする。
 一人の命が百人の身代わりとなる。
 どういう人間が選ばれるかは、その国々や〈神〉によって異なる。目立つ例は罪人や、託宣で決められた者だが、〈ある特徴〉を持つ者と定めている場合も少なくない。
 その一人に選ばれることが、大変な名誉になることもある。必ずしも強制だけではなく、果ては志願したり――かつて、そのようなことが罷(まか)り通っていたらしい。
 小男は、生まれた国でも育った国でも、通り過ぎてきた国々でも、全て過去のこととして、書物や伝説からそれらの知識を得ていた。
 この国は違うのか。
 街並みや服装は特殊ではあるが、野蛮な印象はなかった。なのに現在(いま)、人身御供の風習があるのか。

「この先の海に、カイリュウシンがいる渦があるんだって。一年に一度、必ずキレイな余所者を人身御供にするんだって。ぼく、キレイなんだね。くすくす」
 少年は忍び笑う。
「ぼくは、身代わり」
「――身代わり?」
「ずっとずっと、ぼくを守ってくれてた人の、身代わり」
 身を乗り出す小男から、そっと顔を背(そむ)け、少年は身の上を語り始める。
 ろくに食べ物もなく、いつも寒かった。
 硬い床に薄い毛布。少年の最初の覚えは、その部屋から始まる。
 十(とお)に満たない子供ばかりが十人足らずで、昼も夜も知らずに過ごした。
 時折、大人が呼びにきて、誰かが部屋から連れ出される。戻ってくるときもあれば、戻らないこともある。たまに新しい子供が入れられる。
 戻ってきた子供が、外の様子、外で起きたこと、外で覚えたことを話す。ときにどんな目に遭ったかさえも。聞きながら、暗澹(あんたん)たる気持ちになる。だがここでは、その語られる事が唯一の娯楽と学びだ。
 幼すぎたためか、少年に声が掛かることはなかった。
 物心付いたときにはもう、一人の少女が、常に少年の側にいた。
 少女は優しかった。食事のときには、こっそり一口、自分の分から分けてくれた。夜は少年を胸に乗せ、自分は冷たい床の上に寝た。
 少女も藁色の髪と瞳の持ち主だった。そこには鏡などなかったが、とてもよく似ていたらしい。皆には、二人は姉弟(きょうだい)ではないかと言われていた。
「だから、ねえさんって呼んでた」
 ある日、少女は外へと連れ出された。子供を出し入れするときにだけやってくる、唇の色の悪い酷薄(こくはく)そうな男の、じっとりとした笑顔が、扉の隙間からチラと見えた。
 少女はすぐに戻ってきた。
「異国の人みたい。何を話しているか全然判らなくて、とても怖かった。わたしをじろじろ見て、何度も頷いてた」
 少年は、少女の怯えに応えようとした。何もできないに等しいのだが、せめて寄り添おうと。
 ところが、あの唇の色の悪い男がやって来て、二人を引き剥がした。
「お前に、役に立ってもらうときがきたんよ」
 男は、熱いお湯で少年の身体を洗いながら、これからの身の上に付いて事細かに説明する。
「人身御供って知ってるか? 知らんよな。いっつも、あの部屋から出してんだけど、二度と帰って来んもんな。そりゃ知らんよな」
 理解の鈍い少年を、甚振(いたぶ)るように続ける。
 人身御供とは何なのか。海の国の風習とは。
 これから何処へ連れていかれ、どんな扱いを受け、――何時(いつ)、どのようにして殺されるのか。
「お前は身代わりなんよ」
 物を知らない少年にも解るよう、噛んで含めるように言い募る。生まれてこの方、こんなにも長い時間、人の声を聞かされたことは、少年にとって初めてのことだった。
 散々喋り倒し満足すると、茫然としたままの少年に新しい服を着せ、言葉の通じない異国の男に引き渡した。
「そのまま変なでかい箱に乗せられて、この国まで来た。ぼくがねえさんじゃないってバレたのは、この船に入る前の日だったよ。何言ってるかはさっぱりだったけど、もう酷い騒ぎだった。くすくす。アレ、面白かったな」
 しかし小男は、深刻そうに問う。
「その、身代わりってのは」
「ぼくは、ねえさんの身代わりにされたんだ。でも、それで良かった。ねえさんが人身御供とか枷とか、こんな目に遭うなんて、そんなのイヤだ」
「……ああ、そうだな」
 相槌は打った。だが小男の胸の内は、穏やかではない。
 ――その身代わりというのは、恐らく少女を売るのを惜しんだ為だろう。少女にとっては、むしろここで死んでいた方がマシだったという結末が、すでに用意されているのかもしれない。

 少年の話を聞きながら、小男は、自らの最古の記憶に思いを馳せる。
 気が付けば、箱の中にいた。
 地下室だったのだろう。天井近くに、明かり取りの小さな窓が、ぽつんとあった。そこで頭だけを外に出した格好で、小さな箱に詰められていた。
 蒸し暑くて、顔に髪の毛が張り付いて、ジラジラとして。痒(かゆ)くて痒くて堪らなくて、どうしても掻くことができなくて気が狂いそうだった。
 箱の中でも、四肢は何かに拘束されていて、汗で蒸れた身体がやはり痒かったが、顔面が一番辛かった。
 せめて固定されている首を振ろうと、必死にもがいた。
 小さな窓から見える草の葉の緑が、辛うじて箱の中の小男の正気を繋ぎ止めていた。
 その地獄は唐突に終わる。
 箱ごと部屋から連れ出され、ごちゃごちゃとした荷と一緒に積まれ、何処かへと運ばれていった。
 そして、箱から出された。
 固定され続けていた四肢は萎え、動かすことができなかった。剥き出しの世界は寒く、箱という鎧を無くしたことに絶望さえ感じた。
 それからが、新しい地獄だった。
 萎(な)えた身体を鍛える為と、泣こうが喚(わめ)こうが鞭を振るわれ、這い回ることを強制された。
 立つことができるようになると、幸か不幸か、後の回復は早かった。
 歩き、駆け、跳び、舞う。並の子供には不可能な程の、人というよりは獣に近い動きを仕込まれた。
 できない。怖い。許してください。
 そんなことを言おうものなら、いや、ほんの僅か目の端に現しただけでも、鞭が飛ぶ。
「いつでもあの箱に戻してやるぜ」
 養い親を自称する大男は、呵々(かか)と嗤(わら)った。
 自分が入っていたその箱は、見世物の小人を造る為のものだと、とっくに教えられていた。
「小人ってだけじゃ、高く売れねぇ」
 その養い親は子供を安く買い叩き、芸を仕込んだ後に転売するのを生業(なりわい)としていたのだ。
 蜻蛉返(とんぼかえ)り、綱渡り、空中鞦(くうちゅうぶらんこ)、縄抜け、水中脱出。
 何でもやらされた。
 疲労の余り吐き下すことは、日常だった。
「道化は駄目だな、お前には華がない」
 芸をひとつ勘弁されて嬉しいはずだったのだが、何故だかとても悔しかった。
 養い親は〈箱入り〉と小男を呼び続けた。
 ひょっとしたら、それが名前なのかもしれない。そう思うと、喉を掻き毟(むし)り叫びたくて堪らなくなった。
 絶叫を耐えるのが限界になった夜、小男はそこから逃げ出した。
 
「よし」
 小男は、立ち上がる。
「助けてやる」
「え」
「逃がしてやるよ」
 ハッと、少年は顔を上げた。小男は、頼もしげに微笑んでみせる。
「俺に任せろ!」
 グッと親指を立てて、己の胸を差した。
 少年は、言いにくそうに口を開く。
「ん、あの、人身御供になるのって、ぼくだけじゃなくて。きみも……なんだけど、あの、気付いてなかった?」



 この海の国では、西方からやって来る異人を、人身御供として海流神に捧げる風習があるのだという。
 その事実は噂となり、ちょっと気の利いた旅人ならば、この国に立ち寄ろうなどと考えることもない――そうだ。
 その為、最近はわざわざ人身御供を「買い付け」ている。少年が育ったのは、そういう店でもあったのだ。
 小男は思い出す。昔、何処かで読んだ書物に、人身御供には特に異能の者が好まれると記されていたことを。
 判りやすいところだと、ずば抜けて美しい少女、特別な知識の持ち主、戦いに長けた勇者。
 少しずれるが、小男も、充分にその資格を備えている。不思議な技能の振い手、且つ、大人でありながら子供の身体を保つ者として。
 神へ捧げる、珍しいご馳走という設定なのだろう。
 小男は思い出す。旅の途中、酒場や安宿で聞いたこの国の話を。
 ――あそこに逃げ込んでしまえば、もう追っ手がかかることもない。
 ――たくさんの訳ありな奴らが、あの国へ行ったものだ。そういう奴らは、今、どうしているのだろうか。
 小男はそれを、この国の何処かに、居場所を無くした者らが、ひっそりと暮らす土地があるに違いないと……、安寧の地があるものだと、そればかり信じていたのだ。
 まさか、当世に人身御供などという風習が生きている国があるなどと、夢にも思ったことはない。
 噂以上のものは、何一つなかったのだが、それも当然だ。少年の話が真実ならば、この国を生きて出た西方人はいないのだから。
 だが、詳しい話を聞いた今、あちらで仕入れてきた話に危険を感じなかったことが迂闊すぎたと、自分が愚かだったと――小男は無言で認める。
 さっき盗み聞いた「とんだ頓痴気」。あれは――兵の長の声だった。
 小男の頭に再現される、宿の前の群集、道行の群集。港で見送る群衆――湧きあがった哄笑。
 大仰な祝福。小男の命と引き替えに、海龍神の加護が保証されるのだ。どんなに喜ばしいことだったろう。
 兵の長が示した、あの琥珀。あの見事な琥珀!
「くそっ。くれてやるつもりなんか、最初からなかったんじゃないか」
「ぼく、言葉は判らないけど、あいつらの身振りや態度で判ったんだ。ほら、ぼくが女の子じゃなかったからさ、きみを足して、何とかしようとしてるみたいだなって。くすくす」
「くすくすじゃねぇだろ!」
「だって、ぼくが気付いてるのに、肝心のきみが気付いていないなんてさ」
「いや……ああ、――う」
 小男は今更ながら、群衆や兵達の過剰な慇懃さを思った。そして「とんだ頓痴気」。
「ぅゎぁぁぁぁぁぁぁ」
 拳を噛み締め、声を抑える。悔しさよりも恥ずかしさが先に立つ。
 ――俺、手なんか振ったりしてさ。振っちゃったりしてさ!
「まあまあ、過ぎたことは仕方がないよ」
「お前が言うなッ」
「あのね、ぼく、聞いたんだけど、間違っても生き抜けられないように、喉を切ってから海に投げるんだ」
「絶対死ぬじゃないかああああ」
「ぼくを怒っても」
「……そんな大事なことは、最初に言ってくださいよ」
「知らないのかな、とは思ってたんだけど。なんかヒトゴトっぽかったから。『助けてやる』なんて」
「あああ、そうでございますかッ。それはすみませんでしたね! で、その儀式とやらは、いつなんだ?」
「満月が来て、次のお昼って聞いてたから、明日かな。お日様が真上に来たとき」
「一日ないのかよおおお」
 小男は頭を抱え込む。
 暫く黙っていたが、やがて自らを奮い立たせるように拳を握りしめた。
「いや、絶対に助ける。俺もお前も助かる!」
「どうやって?」
 少年は小首を傾(かし)げ、冷めた目を向ける。
「ここ、海の上でしょ。海くらい、ぼくだって知ってる。脚がこんなだし、水に入るなんて無理。それに鱶(ふか)って人食い魚(ざかな)が、うようよしてるって聞いたよ」
「万が一のときの為に、小舟か筏(いかだ)が積んであるはずだ。それをいただく」
 服の上から、膝を戒(いまし)める枷を握り、少年は項垂(うなだ)れた。
「どうやって? ぼくはこの部屋からだって出られないんだ。きみはその窓から出られるけど、ぼくは無理」
「俺に策がある。上手くいけばその枷が外れる。そしたら、俺のところまで走ってこい。駄目だったら、連れに行く。俺が抱えて走る。言う通りにすれば大丈夫だ。手を貸せ」
「嘘ばっかり。上手いこと言って、アレだ、ぼくを、お、お、お? ――何だっけ?」
「……囮(おとり)」
「そう! 囮にして、自分だけさっさと逃げるんだ。きみみたいなのを、ペテン師っていうことくらい、ぼくだって知ってる!」
「ペテン師?」
「そう! きみはペテン師だ」
「――お前さ、キッツいくらい鋭いな。ああ。俺はペテン師だよ」
 小男は何度も頷き、続ける。
「何処に行っても、皆、最後には俺のことをそう呼ぶんだ。……そう呼ばれたときが、俺の逃げ時だったしな」
 そして少年を、真正面から見据え、言い切る。
「ああそうだ! 今が逃げ時なんだ。ついでだからお前も逃がしてやるよ」
 饒舌に捲くし立てる。
「俺はな、ずっと同じことの繰り返しで生きてきたんだ。面白い技で、キレイな言葉や可笑しい演技で、いろんな人を楽しませてやった。だけど、それも最初だけなんだ。いつも最後は――」
 例えば。貴族の幼い子供が、小男の空中散歩に心を奪われた。父親の外套をこっそり羽織り、屋根裏部屋から飛び降りて大怪我をした。彼はもう二度と歩けない。
 例えば。豪商の一人娘が、小男が態(わざ)と奇術を失敗するときに作る、気弱そうな笑顔に惹かれた。勝手に心を捧げて、叶えられぬ恋に勝手に壊れた。
 例えば。村の名士が、小男が語る異国の話にのめり込んだ。もっと話が聞きたいと財産を処分し、与えようとした。それで家族がバラバラになった。
 どれも、小男が望んだことではない。
 だが、全ては小男だけのせいにされ、ペテン師と罵られ、石もて追われた。
小男は、居場所を無くし続け、ついにはこの国まで流れてきたのだ。
 いつもいつも、その場所で一番価値のあるものを奪う形になった。意図したことではなかったが、必ずそうなった。
 代りに、小男は一番欲しいもの――居場所――を失い続けた。住処(すみか)という意味だけではない。誰かの心の片隅にさえ、彼の居場所は与えられなかった。
 ……もし運命というものがあるのなら、この繰り返しこそがまさに――やめろ、それどころじゃない!
 小男は空回る思考を捩(ね)じ伏せた。
「よし。俺のことはペテン師って呼べ。お前のことは……そうだ、身代わりって呼ばせてもらおうか。なんか呼び名がないと面倒だからな」
「うん。それ、ぼくにぴったり」
 少年の声が弾んだ。 

「よし、最後にもう一度、手順を言うぞ。俺が出て行ってから、ゆっくり三百数えるんだ。ゆっくりだぞ? そして、その玻璃灯を寝台に投げる。布団に火が移ってから、椅子かなんか倒して大きな音を立てろ。それで見張りが来るはずだ。そのまま、お前をこの部屋から連れ出すだろう。なに、事が火だ。間違いなく甲板に出す。人身御供にするまでは、お前に死なれちゃならないんだからな。それを逆手に取る」
 小男は、少年に繰り返し教えた手筈(てはず)の、最後の念押しをする。
 少年は、神妙な面持ちになる。
「――じゃ、俺は行くぞ」
「あ、あの! 待って……」
 小さく叫び、少年が縋(すが)るように手を伸べる。
 その痩せた手を掴むと、小男はギュッと力を込めた。
「大丈夫だ。俺を信じろ」
「……あの、そうじゃなくて、その、ぼく、そんなにたくさん数えられな、あ痛!」
 小男は、少年の手をそのまま捻(ね)じった。

 足掛かりの紐を、小男は少年に示す。
「これを強く引く。それが合図だ」
 少年は頷いた。
「では! 身代わり君よ。また後程」
 小男は頷き返し、手を挙げた。



 甲板に戻った小男は、注意深く辺りを探る。潮の音だけが響いていた。
 帆柱の上の見張りは、今も反対側を向いているようだ。
 いつしか、雲がちらほらと出ていた。これが味方してくれれば――小男の視界も効かなくなる代わりに、敵の視界も奪ってくれる。
 緊急用の筏は、船尾から、海へと突き出す形で固定してあった。櫂もある。
 小男は持っていた小刀で、固定してある荒縄に適度な切れ目を入れる。これで体重をかけて蹴り出せば、海へと落とせるはずだ。
 そこに少年と自分も飛び込んで、這い登ればいい。あのくらいの子供なら、きっと引き上げてみせる。夜に紛れて、きっと逃げられる。
 とにかく、この船に乗っている限り、明日の今頃は確実に――生きてはいないのだ。
 小男は紐の場所に戻ると、それを引く。紐は上がってはこない。少年が、しっかりと端を掴んでいるのが判った。
 合図が伝わったことを確信する。
「っと……、どうすっかな」
 高価な上に、辺境では手に入らないこの紐を、一瞬、小男は惜しんだ。しかし、見張りがいつ、こちらを向くとも限らない。回収を諦め、自室へと急いだ。

 少年は窓の外に腕を伸ばし、小男が残していった紐を握り締め、集中している。
「――っ」
 掌の中のそれが引かれた。鋭い痛みが走るが、幸い切れてはいない。
 弾かれたように、動く。不自由な膝をものともせず玻璃灯に飛び付き、勢い良く寝台に投げた。
 そのまま少年は倒れ込む。期せずして大きな音。
「何だ、何事だ」
 兵の長が扉を開く。
 寝台から焔(ほのお)が上がっていた。
 大事な人身御供が、床に転がっている。
「なっ――! 水、水だ! 否、まずは、こいつをここから出さねば」
 兵の長は、共に見張りをしていた兵を呼びつけた。持っていた鍵で、少年の膝の枷を解き放つ。
「走れ、急げ!」

 自室に戻っていた小男は、扉のすぐ傍にしゃがみ込み、耳を澄ましていた。
「水、水だ!」
 そんな怒鳴り声が、微かに聞こえる。
 玻璃灯の油が沁みた、寝具が燃えているのだ。しかもあの小さな窓からは、満足に海水を汲めやしない。そう簡単には消せないだろう。
 やがて荒々しい気配と物音。複数の人間が走ってくる。
「急げ、もたもたするな」
 兵の長の声と重厚な足音、それに隠れるように軽い足音が、小男の部屋の前を通り過ぎていく。
 十分に遠ざかったことを確認し、小男は部屋を出る。
「寂しいねえ。俺のことも気遣ってくれよ」
 今度は、帽子と布膜を身に付けていた。
 再び甲板に出る。月は薄雲に覆われていた。
 見張り台には人影はない。この騒ぎだから――と小男は理解する。
 兵の長が指揮を取り、皆に水を汲ませていた。四、五、六人、残りは火元にいるのだろう。
 小男は素早く、物陰に隠れる。
 あの少年は――いた。慌ただしく動き回る兵達から離れ、一人、所在無げに立っている。
 幸い、その顔が小男の方を向いていた。
 兵達は、桶を抱えて火消しに走る。少年の見張りの為だろう、兵の長だけが甲板に残った。
 今だ。
 小男が合図の手を振る。
 少年は、それに気付く。
 一瞬、怯んだかのように見えたが、少年は走り出す。よろよろと、しかし一直線に駆けてくる。
 兵の長が振り向く。
「よし、こっちだ」
 小男が手を差し出す。少年はそれを取ろうとし――小男の背後に目を向け、ぎくりと固まる。
 小男は、本能的にしゃがんだ。
 バチィッ!
 背中で、金属が爆(は)ぜる音。
 発条が――小男の布膜に仕込んであった発条が、弾け飛んだ。
 背後から、いつの間にか忍び寄っていた兵が、斬りつけたのだ。しゃがんだ拍子に翻った布膜が犠牲になった。
「しまった!」
 小男は振り返る。
 珊瑚の指輪のあの兵が、小男に剣を突き付けていた。
 あのときは笑い合った彼が、今、殺気を顕(あらわ)に小男に対峙(たいじ)する。
「あ」
 小さい悲鳴に、小男は再度振り返る。
 少年が兵の長に抑えられていた。
 思わず駆け寄ろうとした小男だが、反射的にその場から退く。
 珊瑚の指輪の兵が、剣を振り回してきたのだ。
「それ、それ、観念しな」
 小憎らしい笑みを浮かべ、小男を追い立てる。
「う、や、おっとっと――と」 
 たちまち追い詰められた小男は、船縁に飛び乗った。
 少年と目が合う。
 兵の長は少年の首に腕を巻き、やはり剣を抜いていた。
「……身代わり」
 思わず呟いた。その隙を狙い、珊瑚の指輪の兵の剣先が、小男の足元を薙ぐ。
「あ、わ、うわ」
 均衡を崩した。大きく重い帽子が仇(あだ)になり、そのまま身体が引っ張られる。
 ――海に向かって。
「ペテン師!」
 少年の声。
 小男は、そのまま、真っ逆さまに夜の海へと落ちていく。
 見開いた眼に映るのは、何かを掴もうと、くねる己の手と、空。
 雲が切れ、煌々と輝く月。
 どぼん!
 視界が歪む。
 一拍ほどの間を置いて、頭部に海水が押し寄せた。髪が乱れる。
 ――帽子が!
 目が、耳が、鼻が痛い。
 水面の天幕に、揺れる月光。
 何かを掴もうと、くねる己の手。
 ――空。



「……う」
 少年は、目を覚ます。
 頬に激痛。
 手をやろうとしたが、動かせない。
「なに? あ」
 後ろ手に縛られていた。
 記憶が甦(よみがえ)る。
 ――小男は、船縁から転がり落ちた。
 後を追おうと、首に絡んだ太い腕に噛み付く。しかしあっけなく引き剥がされ、強烈な拳を顔面にお見舞いされた。
 痛みを感じるより先に、少年は意識を飛ばし――。
「う」
 意識を取り戻したことを後悔した。
 手首を固定しているのは縄のようだが、膝にはあの忌々しい金属の枷の感触がある。
 俯せになっている、床一面が水浸しだった。口中が塩辛い。血なのか、それとも海水なのか、判別が付かない。
 塩水が沁みているせいもあるのだろう、殴られた頬は熱を持っているようだ。
「っしょと」
 反動を付けて、仰向く。
 焦げ臭い。
 少年が元居た部屋だった。
 焼け跡が残る寝台が、目に入る。窓には錠前が掛けられていた。
 青白い空。直に夜が明ける。
 少年は溜息を吐(つ)いた。頬が、手が、膝が痛い。それの何処をも庇うことすら出来ない。
(まいっか。もうすぐ死ぬんだし)
 自嘲。
 ――ペテン師は海に落ちた。ちょっと予定より早かっただけだ。喉を切られなくてよかったね。僕も、切られたくないな。きっと、これより痛いんだろうな。
 少年の瞼が降りていく。
 その薄い皮膚が降りきる間際、窓の外を何かが過ぎった。
 瞼を開け、首を上げる。
 ――コツン。
 硬質な音。
 ――コツン。
 握り拳。
 少年は、身体を起こす。
 玻璃を、今度はもっと大きな塊が覗き込む。
「ペテン師!」
 少年は寝台に飛び乗った。勢いで、腫れた頬が玻璃に打(ぶ)つかる。
 窓の外には小男の顔。
 身代わり、身代わりと、青ざめた唇が形を作った。
「生きて……」
 少年は、それだけを口にする。
 小男は、上腕に絡み付かせた透明な紐を示した。そして自由な方の手で、もう一度玻璃を叩く。開けてくれという意味らしい。
「鍵が」
 少年は顎でそれを差し、頭(かぶり)を振った。
 何だって、と、小男の唇が動く。
 しかし、すぐに少年をキッと見据え、ゆっくりと力強く頷いた。
 少年も頷き返す。
「ぼくね、信じてる」
 口をついて出たその言葉に、少年自身が驚いた。
 小男は、一瞬遅れて目を見開く。
「そんなに驚かなくても」
 無事な方の頬も赤く染め、少年は語気荒く反駁(はんぱく)した。が、すぐに勘違いだと知る。
「ペテン師!」
 小男の姿が、スッと、玻璃の外から消えた。

 夜が明ける直前、見張りの交代が行われた。
 珊瑚の指輪の兵は、人身御供の儀式までの数刻、眠ることを許される。
 代わりに、この船で一番年少の兵が見張り台に登った。
 白く、明るく変わる空。夜が去ってゆく。
 遠景に異常はないが――。
 目の端で何かが光った。船尾に近い船縁だ。
 その兵は、すぐ行動に移った。
 億劫(おっくう)がらずに帆柱から降りて、確認に走る。
 船縁にある柵に、透明な紐のようなものが括りつけられている。こんなものは初めて見た。
 海面を覗き込む。
「――あれは!」
 海の藻屑と消えたはずの外国(とつくに)の奇術師が、その紐に身を預けていた。
「いつの間にこんな仕掛けを。抜け目ない奴だ」
 早速、紐を手繰る。驚く程に硬いが、手甲を嵌めているので楽に扱えた。
 小男は暴れるかと思いきや、無抵抗に上がってくる。
「そぅれ!」
 掛け声と共に、小男の身体が柵を越えた。
「あ、あれ」
 年若い兵は、自分がぶら下げているそれを見て、顔色を無くす。
 小男は右腕と上半身を、透明な紐に絡めている。左腕は支え無しに揺れていると見えたが、それは中身のない袖だけだ。首は折れそうな角度で曲がっている。瞼も唇も、ひっそりと閉じられていた。
 襟元から垂れた、切れた発条と布膜の残骸。上着の裾は頼りなく下がり、そして、その先にあるべき腰から下が――消えていた。
 兵は、感慨深そうに呟く。
「鱶に……やられたか。せっかく助かろうとしたのにな。どっちみち、これがお前の運命だったのか」



 徐々に近付く足音。
 ――来た。
 少年は目を開ける。眠っていたわけではない。
 天井から窓へと視線を流す。丸く切り取られた青い空。他には何もない。
 海水をたっぷり吸い込んだ寝台に横たわったまま、時を迎えた。焦げ臭い沼で寝ているようなものだった。
 しかし、少年にとって、快不快などすでに問題ではない。傷口に沁みる塩水が刺激する痛覚も、意識をしっかりさせる手段に利用していた。
 心を、揺らがせないように。
 最後の最期まで、揺らぐものかと沈黙のうちに誓いを立てる。
 カッと踵(かかと)を鳴らし、足音が止まる。耳障りな金属の擦れる音。鍵が外されたのだ。
「時間だ」
 兵の長の宣告と共に、扉が開く。
  
 少年は、甲板に引き出された。
 遮るもののない直射日光が、長年薄暗がりに慣れた瞳孔を刺す。
 風が強く、藁色の髪が揉みくちゃになった。濡れた毛先が、腫れた頬に張り付く。
 頭を振ったが、剥がれない。痒い。手が使えないことは、こんなにも辛いのか。
 船は、海流が激しくぶつかり渦を作っている場所から、ぎりぎり巻き込まれない際(きわ)に錨を下ろしていた。
 舳先(へさき)から僅かでも進めば、渦へと向かう海流だ。停泊しているここは、丁度その流れに逆らっている部分だった。
 狭い海峡に挟まれて、轟々と回転するそこには、古くから海龍神の伝説がある。
 この海を――、海の国を守るもの。
 いつ何時(なんどき)攻めこんでくるか分からない、西方の異人を人身御供として捧げ、その味を覚えさせる。
 要は海竜神が、この海を行く西方人を襲い、喰らうように躾けている――それがこの儀式の真意だ。
 しかし、実際には海龍神などいない。
 そもそも渦潮は海龍神ではなく海流が原因の――などと正論を吐いても、現にこの光景を目の当たりにすると、畏怖の念が先に立つ。
 少年の藁色の瞳が、荒ぶる渦を映す。
 あそこには、今日までいったい何人の身代わりが、吸い込まれていったのだろうか。

 兵の長は少年の後に付いている。
 万が一にも逃さない為の立ち位置だったが、驚く程素直に少年は歩いた。
 兵の長の心中(しんちゅう)に、あの小男が浮かぶ。
 いや、あいつは間違いなく、海に落ちた。少年に掛かりきりだった自分だが、落水(らくすい)の音は聞いている。兵の一人は、その瞬間を目撃している。
 居並ぶ八人の兵を視認する。皆、帯剣している。体格も立派だ。
 帆柱に目を上げた。帆は全て畳まれている。丁度真上にある太陽に邪魔をされ、見張り台の兵は黒い塊にしか見えない。
 あそこには生真面目な、一番年少の兵を配置した。些細な異常でも、大声で知らせてくるはずだ。
 もし。
 もしも、あいつがここに来たとしても、何もできない。
 もう一度、帆柱に視線を流す。
「ん?」
 微かな違和感。
 しかし、今は儀式の遂行に集中すべきだと、兵の長は前を向いた。
 淡々と、船首に足を進める少年が薄気味悪いが、どうせ何も出来ないと判じた。
    
 兵の長は、少年の前に回る。両側に、各々四名の兵が見守るように並んでいた。
 兵の長は、これから少年の細い喉を、即死しないように加減して裂く。両手足を縛(いまし)めているとはいえ、ここは海峡だ。陸地は直ぐ側にある。用心に用心を重ねてのことだ。
 絶命するのは、あくまでも海に投げ込んでからでないと、人身御供の役は成さない。
 兵の長は呼吸を整える。
 もう幾年、同じ事を繰り返してきただろう。
 陸地で練習もしている。
 仕損じたことはなかった。
「押さえろ」
 命令された兵達の動きは硬い。緊張は隠せない。
 兵の長が、宝玉で飾られた専用の刃を抜こうと、その柄に手を掛けた、そのとき。
 
 ぶんッ!

 何かが唸った。
 風を切る音。
 音がしたとき、全ては手遅れだった。
 兵達は少年だけに集中していた。
 兵の長は少年の喉笛を見つめていた。
 逆光の見張り台の異変になど、気付く者はいない。
 少年の背中は、がら空きだった。
 見張り台から飛んできた塊が、その勢いに任せて少年を吹き飛ばした。正面にいた兵の長は、少年から頭突きを貰う形で甲板に叩きつけられる。
 両脇の兵達は素早く伏せつつ、少年と共に空を舞う何者かを目で追った。
「あ、あいつ」
「まさか!」
 口々に、驚きを顕にする。
 それを耳にした兵の長は、後頭部を摩(さす)りながら半身を起こす。
 
 ぶんッ!
 
 背後からのその音に振り返ることはせず、慌てて頭を低くした。
 そして見た。
 死んだはずの小男が、少年と共に空を飛び去っていく。
 奇跡の技を? 
 否、そんなことがあるか。兵の長は目を凝らす。
 小男の両手は、見張り台から長く伸びた縄を掴み、両足は少年の胴体をしっかりと絡めとっている。
 と、少年の身体が宙に放たれた。
 絶妙の間合いで小男は縄を離し、甲板に降り立つ。そして、辛くも少年を抱きとめた。
「待たせ――」
「痛いよ!」
 顔を見合わせた瞬間に、二人は同時に口を開く。
「うるせえ! あれしか方法がなかったんだよ。……その、ヤツにぶつけるつもりじゃなかったんだ。ワザとじゃ」
「でも、ざまをみろだったよね」
「あはは、まあな――っと、話は後だ」
 小男は、少年を回れ右させた。素早く、後ろ手に縛る縄を切る。焦っているせいで、少し皮膚まで切れた。
「ッ、悪い」
「いいよ。でも、足はダメ。枷が」
「チッ。よし、おぶされ」
「え」
「え、じゃねぇよ、急げ」
 こうして並んで立つと、小男の矮躯がよく判る。しかも少年の膝は開かない。背負うといっても――少年が戸惑う最中(さなか)、兵の長を始め、皆が体勢を整える。
「早く!」
 小男が背を向ける。
 少年は、思い切って身体を預けた。
 兵の長が先頭を切り、こちらへと駆けてくる。
 小男も、迎え討つようにその方へと走る。
 少年は面食らう。だが、すぐに思い直す。
 ペテン師は、助けると約束したのだ。
 
 驚いたのは少年だけではなかった。
 兵の長も、突進してくる小男に尋常ではないものを感じた。思わず、足が緩む。
 その僅かな隙を、小男は見逃さない。
 武器もない。力もない。常識的な退路もない。
 自分にあるのはペテンだけだ。
「だああぁあああああああ」
 腹の底から叫ぶ。 
 ――だけど、ペテンがペテンでなくなるときが、そろそろ来たっていいんじゃないか?
 叫びながら、帆柱に飛び付いた。
 少年を吊り下げたまま、猛然と登る。梯子状の細い足場。小柄同士とはいえ、指先や足先に二人分の体重が伸し掛かる。脂汗が吹き出る。
「ああああぁぁぁああああッ!」
 小男はそれでも叫びながら、見張り台に辿り着いた。中には、白い分厚い布がたっぷりと敷き詰めてある。
 少年を促し、先に囲いの中に押し入れると、長く垂れたままだった縄を引き上げた。
「貴様ら! 逃げたつもりか」
 兵の長が真下から叫ぶ。帆柱をぐるりと、兵達が取り囲む。
 息を切らし、這うようにして囲いに潜り込んだ小男だったが、何とか呼吸を整えると、ヘラっと顔を出し、手を振った。
「おい、俺がここに居るってことは、な? ここに居るはずのお前らのお仲間は、さあて、何処にいるのかなあ?」
「!」
「あはは。あそこだよ!」
 小男が差す先を、兵達が一斉に振り返る。
 目を凝らすと、陽光に光る何かがあった。
「お前、見て来い」
 命じられたその兵は、生唾を飲み込み、手摺から乗り出した。
「うわッ」 
 そこには、本来見張りをしているはずの、一番年少の兵がいた。柵に結わえられた、硬い透明な紐一本に支えられ、惨めに揺れている。猿轡を嵌められ、手足を身体の前で一つに纏められたその姿は、狩りの獲物のようだ。
「生きています! 早く引き上げないと。誰か、手伝ってくれ」
「あはははは、良かったな。鞦(ぶらんこ)は楽しかったかい」
 兵達には全く通じないだろう、生国(しょうごく)の言葉を浴びせる。もう、この国の言葉は使わない。
 少年は、鞦を知らなかったが、吹き出した。こんなに痛快な気分は、生まれて初めてのことだった。



 ――あのとき。
 少年に、窓越しに語りかけていた小男は、見張りの兵に引き上げられた。
 己の意に反して、ぐんぐんと上昇させられる事実に肝を冷やしたが、すぐに一計を案じる。少年から聞いたばかりの、鱶の話が閃いた。

「鱶に……やられたか。せっかく助かろうとしたのにな。どっちみち、これがお前の運命だったのか」
 その言葉が終わると同時に、小男は開眼する。
「なめんな!」
 ぶら下げられているのは好都合だった。反動を付ける。限界まで反らせた両足を抑えていた、左手を放した。
 兵の反応が遅かったことは、責められない。小男が周到だったのだ。
 両爪先が見事、柔らかな顎の下に決まる。
 何が起こったのか理解する間もなく、兵は昏倒した。
「鱶の餌なら、お前がなれ」
 小男は物騒な口を叩くが、そんな気は毛頭ない。腕に絡ませていた紐を使い、意識のない兵を慣れた手つきで拘束した。そのまま船の外に釣り下げる。
「よし。……まあ、どうなることかと思ったけどな」
 濡れた身体に、潮風が冷たい。体温が奪われていく。
「風が……」
 明けかけた空を見上げる。
 雲の流れ方が早い。
「運命か」 
 真顔で呟き、船尾に向かう。
 ずっと一緒だった帽子を無くした。
 壊れた布膜は剥ぎとった。
 透明な紐も、使い切ってしまった。
 残ったのは、小刀。そして自分自身。
 足先から、ぐっと冷える。靴も無くしていた。
 だが、腹の底は熱かった。



「この分だとあいつら、銃も弓矢も持ってないな。よし。……おい、今のうちにこれ手伝え」
 小男は荒縄を差し出す。先程ぶら下がっていたあの縄を切り分けたもので、これは船の備品を失敬したものだ。
「なに、これ」
「見本を見せるから、この通りに俺の手を縛れ」
 小男は縄を取り、自らの足首に結び付ける。奇術用の特殊な結び方だ。
 少年は記憶しようと、懸命に凝視する。
「いいか、これをこう持ってきて、な? じゃ、こっちの足でもう一回やるから……、こう、こう、な?」
 少年は、こくこくと小刻みに頷く。 
 
 命拾いした一番年少の兵は、酷い船酔い状態だったが、すぐに立ち上がる。屈辱に滾(たぎ)り、帆柱へ突撃することを、兵の長へと申し出た。
「どうかご命令を。直ちに、あいつらを引き摺り下ろしてご覧に入れます」
「慌てるな」
 兵の長は一喝した。
「よく考えろ。向こうは二人だ。こちらは一人づつ登るしかないんだぞ。あの高さから落とされれば事だ」
「そんなことにはなりません! 私達は訓練された、いわば国の精鋭ではないですか。あんな外人(とつびと)共に劣りはしない」
「冷静になれ」
「ですが、儀式の時が……」
「時なら、もう過ぎた」
 兵の長は、冷徹な声で言い放つ。
 兵達、皆が、太陽を振り仰ぐ。すでに真上を過ぎ、ほんの僅かだが西へと傾き始めていた。
「――ならば、儀式は」
 珊瑚の指輪の兵が言いかけたが、兵の長に睨みつけられ、それ以上を慎んだ。
「例え遅れても、何もしないわけにはいくまい」
 兵の長の拳が震える。

「よし。上出来だ」
 小男に褒められ、少年はホッと表情を緩める。
 暫しの沈黙。
 風が強い。
 海峡より吹いてくる風だ。
「最後に訊くぞ」
 小男は、少年に問う。
「ここで殺されるか、俺と一緒に死ぬか。どっちかしかないとしたら、どっちにする」
「一緒に生きる」
 少年は、即答した。
「生きるぅ? 生きる可能性なんか、ほとんどないぞ。風がどこまで味方するか判らない。発条なしの布で、しかも二人だ。高さだって足りない。そもそも、こんなことは、やったことないんだ。あいつらの前にドテッと落ちて、はいオシマイ、ってことになるかもしれないんだぞ。で、気楽に言ってくれるけど一緒に? この上、お前の面倒を見ろってか」
「一緒に生きよう」
 少年は笑った。例の忍び笑いではない。
「生きてどうする?」
「あのね、ぼく、ねえさんに会いたい。一緒に、ねえさんのところに行こうよ」
 小男はそれには答えず、背を向けた。
「俺の背中に、仰向けに乗れ」
「仰向け……って、僕が上を向くってこと?」
 頷き、小男は、自らの手首に結ばれた縄を示す。
「お前もこれを握れ。俺が右を引いたら、お前も同じように引く。俺が緩めたら、お前も緩める。左も同じだ。多分、一人の力じゃ、制御できない」
「ん? とにかく同じことすれば、いんだよね?」
「ああ。そうだ。頼んだぞ」
「うん」
 少年は、まるで新しいおもちゃでも貰ったかのように、小男の手首に繋がる縄を手に取る。
 小男は残った縄を器用に扱い、自分と少年を胸の位置で結びつけた。
「よし。その布を抱えるんだ。畳んであるまま、形を崩すなよ」
 小男は、床の上の白い布を指す。
「うん」
 嬉々として、少年は言われたとおりに事を進める。
 小男の、少年と重なる肩口から背中が、じわりと温かい。
「……できたよ!」
 快活な声。
「よし」
 小男は、深く息を吸い込んだ。足が震えていることを自覚する。 
「俺が飛んで、ひとつ数えるから、そしたらすぐに離すんだ。投げ上げる要領だぞ? ……お前、ひとつくらいは数えられるんだよな」
「数えられるっ」
「あはは。頼もしいな。後は、教えたとおりに縄を頼むぞ」
「う。笑わなくてもっ。うん。ちゃんとやる」
「この技は、均衡(バランス)が大事なんだ。できるだけ体から力を抜いて。俺、いや、何でもいいから助かるって信じろ」
 途端に、風が、格段に強くなる。
 少年が何か言葉を返したが、小男の耳には届かなかった。
 小男は舌先を出し、風を読む。
 見世物のときは前を向いたまま足場を蹴るのだが、今回は違う。後ろ向きに、風に引かれる形で飛ぶことになる。どれもこれも初めてのことだ。
 下からは、物騒な声音が響いてくる。
 もう時間がない。
 小男は囲いの縁に這い上がると、くるり、半回転。その足は、もう、震えてはいない。
「行くぞ。それッ――ひとーつッ!」

 バッ!

 突如響いた、まるで帆でも張ったかのような音に、兵達が一斉に上を見た。 
「な、何だ?」
 紺碧の空に浮かぶ、白い大きな花。
 見る見る花弁が膨らみ、緩やかな半円と化す。
「あいつら……」
 一番上にあるべき帆布がない!
兵の長はさっきの違和感の正体を、知った。
 唸っても、もう遅い。
「やられたッ」
「いや、まだだ。追いましょう!」
 口々に叫び、兵達は一斉に駆け出した。
 風下へ。
 船尾へと。
 白い帆布は海峡からの強風を孕み、四隅を括りつけられた小男の四肢を、限界まで引き反らす。
 二人分の体重は、予想よりも負荷が大きい。高度は容赦なく下がる。
「……うえ、キっツい。右も左も、どっちも引けえ!」
「うん!」
 背の上の少年は明るく応じ、両の腕に力を込める。ほとんど縄はビクともしなかったが、それでも懸命に引いた。
「おいでなすったな」
 俯せに中空を滑る小男の視界に、抜き身の剣を振り回す兵の長が現れた。
「来た?」
 両腕に力を込めるだけで精一杯の少年が、それでも楽しげに訊いてきた。実際、高揚感に溢れて、頭の芯がフワフワとしている。
「ああ。俺の真下に走ってきたよ」
 誤魔化しはせずに、しかし小男も、のんびりと答える。できることは全てやった。
 後は、運に任せるだけだ。
 腕はともかく、少年の助けのない脚の方が、限界に近付く。みしみしと、骨が嫌な音を立てた。
「逃がさんぞ! そらそら、降りてこい」
 兵の長は、剣を高く掲げる。
 その切っ先は、今にも小男の腹に届きそうだ。
 兵の長だけではない。皆、次々に追い付いてくる。
「――いっ」
 精一杯縄を引いている少年の、掌の皮が剥けた。力が緩み、均衡が崩れる。
「おわ!」
 不意のことに、小男は対応が出来ない。
 ――高度が!
 一気に下がる。落下といってもいい。
 シュッ。
 兵の長を追い抜いた一人が、剣を振るう。
 小男の上着が、裂ける。
 舌打ち。目が合う。
 鞦をさせてやった、一番年少の兵だった。
 小男は、思わずニヤリとする。
「よくも!」
 はっきりとその声は聞こえた。
 もう、掴み降ろされる高さにまで下がっていた。
 だが、小男は快哉を叫ぶ。
「あはははは。お役目、ごくろうさん!」
 船尾に向けて、滑るように落下する小男達は――小男は――持てる力の全てを両足首に集中させ、ぐっと前に出す。縄が引かれ、直立の姿勢になり、当然そのままストンと甲板へ――いや、甲板ではなく、船尾の外側に固定してある筏の上に着地した。
 その勢いと重みで、切れ目が入った縄が切れる。小男と少年を乗せたまま、筏は真っ直ぐに落下していく。
 風を全て逃がした帆布が海面へと急ぎ、二人の上に覆い被さった。

「わああぁっ!」
 少年は、激しく身体を打ち付けた。受身など取れるはずもない。
「ちょっと、これ」
 視界を真っ白に遮る布から逃れようと、手足をバタバタとさせた。
 状況が掴めないままの少年を構うことなく、小男は、二人を繋ぐ縄を歯で引く。たちまち解けた。流れるような動きで、上着の内から小刀を取り出し、さっと空を切る。
 ――ザッ。
 布が一直線に裂けた。小男は、そこから這い出る。再び歯を使い、両手首を戒めている縄の端を噛み引き、船上を一瞥。
 ほんの僅か動きを止めた後、小男は、ありもしない帽子を降るような仕草で、兵達に別れを告げる。そして櫂を握り締めると、一心不乱に漕ぎ出した。

「やられた……!」
 手摺に飛び付いた兵の長が、臍(ほぞ)を噛む。
 儀式の支度に手を取られ、筏に細工をされたことに全く気付かなかった。
 長だけではなく、兵達全員が頬を燃やした。
「追いましょう。このまま逃げられたとあっては、我々の名折れです」  
「そうだ! まだ間に合う」
 兵の長は一喝する。
「帆を張れ! どうせ櫂しかない、舵もない筏だ。すぐに追いつく」
 兵達は、たちまち持ち場に走る。
 儀式の遂行も大事だが、それ以上に外国の小男と奴隷の子供に虚仮(こけ)にされたという事実。屈辱以上の感情が、皆を苛(さいな)む。
 兵の長は、徐々に遠くなる筏を睨み続ける。
 その速度はあくまでも緩やかだ。焦ることはない――。
「た、大変です!」
 声を裏返らせて、珊瑚の指輪の兵が駆け寄ってきた。
「帆が……」
 震える指先で示す。
「な……!」
 帆を張ろうと、引く為の縄を手に取った兵が、呆然と立ち竦んでいた。
 残された四枚の帆の全てに、ずたずたに切れ目が入っている。
「は、はは、ははは」
 兵の長は、膝を突いた。
 二人の逃亡者を乗せた筏は、まだ十分近くにある。
「こうなったら」
 一番年少の兵が胸当てを取り去り、海へ飛び込もうとする。
「よせ」
 兵の長は止めた。
「何故です! まだ間に合います」
「もういい。ここの潮流は危険だ。一歩間違えれば、お前が捧げ物になる」
「しかし」
「もう……いいんだ。それよりも、帆の補修を急ごう」
 自ら飛び込み追いたいのを堪え、兵の長は皆を宥めた。己の立場を鑑み、奥歯を噛み割りそうになりながらも、自分を抑えた。

 やがて、筏は見張り台からも見えなくなり、その行方は皆目知れないまま――季節は巡る。



 西方の、とある小国の端に位置する田園地帯に、奇妙な二人組がやって来た。
 一人は黒尽くめの、愛嬌のある小男。ヌラヌラと光る珍しい生地でできた、たっぷりとした布膜を身に付けている。足が不自由なのか、両脇の下に太い杖を挟んでいた。
 一人は白尽くめの、逞しい長駆の若者。その藁色の髪と瞳は大層印象的で、はっと人目を惹く美丈夫だ。眼が悪いのか、瞬きが深く、日差しの下では辛そうに瞼を閉じている。
 対照的な二人は、ささやかな奇術を身過ぎ世過ぎにしていると触れ回った。
 それを聞いた道楽者と名高い、その土地で一番の金持ちが二人を招いた。
「このお屋敷にいらっしゃいます全員を。使用人の皆々様にも、今宵ばかりはどうぞ旦那様のお情けを。一人残らず皆々様に、私共の奇跡の技の数々を、たっぷりとご覧いただきとう御座います」
 黒尽くめの小男が、恭(うやうや)しく礼をした。
 主人は鷹揚(おうよう)に頷いて、呼び鈴を振る。集まった者は皆、若く見目良い女ばかりであった。
「こちらで全員で御座いますか?」
「うむ。全員だ。さぁ、楽しませてもらおうか」
「そうですか。これで、全員、と。では、皆様、広間の真ん中へとお集まりくださいませ」
 見世物の都合上という二人の頼みで、卓や椅子も全て部屋から出してあった。女達は皆、期待に胸を躍らせつつ、さんざめく。美丈夫に意味深な視線を送る、大胆な者もいた。
「恐れ入りますが旦那様はこちらへ。大層大事なお役目が御座います故」
「おお、そうか。うむ」
 美丈夫が、主人を扉の方へと誘(いざな)う。
 と、唐突に小男が、杖の片方を天井へ振り上げた。
 ズドン!
 不意を打たれた観客は、その轟音に縛られる。それでも、きっと出し物の演出かと信じ、半笑いのままの女もいた。
「おっと、動くな。こいつは愉快な見世物だ。しっかりそこで見ていろよ。だけど、見るだけだ。絶対に動くなよ。動くと」
 ズドン!
 再び轟音。
 ――杖には、銃が仕込んであった。
 天井に穴が穿(あ)き、バラバラと漆喰が落ちる。
「こうで御座いますよ」
 小男は天井を撃った、まだ先端から煙が出ている杖を主人へと突き付けた。更に残った片方を、愕然としている観客達に向ける。
「旦那様は嘘吐きで御座います」
 からかい口調で主人に告げる。
「私共は、このお屋敷にいる全員をと申し上げました」
「ぜ、全員だ。全員いるぞ」
「またまたご冗談を。一番大事なお方がお見えでないようで御座いますよ。……なあ、そうだろ」
「ななな、何を」
 主人はすっかり怯えてしまい、もはや歯の根が合わない。
「一番大事なお方は、一番奥の奥に隠しておきたいってのが、人情ですかね。おっと、あんたには人情なんてもんは、なかったな」
「おおお前ら、ななな何を」
「さあ、案内してもらいましょう。お嬢様方は、どうぞこちらでおくつろぎ下さいませ。ただし、この部屋から一歩でも出たら」
 小男は杖を模した銃を片方、抱き合い震える女達に向けると、何でもない事のように引き金を引く。
 さっきまで半笑いだった女の頭を、銃弾が掠(かす)めた。暖炉の上に飾ってあった高価な陶器の花が、けたたましい音と共に砕け散る。

 二人は、恐怖に脚をもつれさせる主人に、目的の扉の前まで案内させた。その背には、小男が構える銃口がぴったりとくっ付けられている。
「鍵を開けろ。いちいち言われなくても判るだろ」
 小男が余った方の銃で突付き回すせいで、怯えた主人は鍵束を何度となく取り落とす。
「やめなよ。ほら、余計に時間がかかる」
 美丈夫が間に入り、鍵束を取り上げた。
「ぼくが開けるよ。どの鍵? これかな」
 ドアノブと同じ材質と細工で造られた、一際目立つ鍵。
「――これだ」
 樫の木でできた重い扉が、ゆっくりと開く。
「おっと、お前は見るんじゃないぞ。もう、見世物は終わったんだ」
 見苦しく泣き喚く主人の背を、小男が銃で抑え、床に伏せさせる。
 美丈夫が、大股で中に一歩。そして、また一歩。
 豪奢な造りの部屋だが、空気が酷く澱んでいる。扉から入る、僅かな灯りだけが頼りだった。
 壁際に、真っ黒い塊。よく見ると人の形をしている。
 じゃらりと、金属の擦れる音。
 その前で、美丈夫は歩を止める。
「――ぼくだよ」
 そこに蹲(うずくま)っていたのは、ただ美しいだけの、生きることを諦めた少女だった。
 折れそうに細い首に嵌められているのは、真鍮(しんちゅう)の首輪。そこから伸びる鎖は、傍らにある大きな寝台へと繋がっていた。
 少女は、ゆらりと顔を上げ、闖入者(ちんにゅうしゃ)に目を向けた。その髪も瞳も、眼の前の美丈夫と同じ――藁色。
 美丈夫は、ゆっくりとゆっくりと、少女へ手を延べた。
「おとーと、だよ。ねえさん」
 少女の瞳に、光が宿る。



 
 かつて名も無き二人組、西へ西へと、ひたすらに。
 たったひとつの手を取る為に。
 取ったその手がいつかまた、誰かの手を取るその日を信じ――君よ知るや――。






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