お話の、あるところ。

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竹の子書房用 とよね

竹の子書房用【絵が先 古城の怪異】参加作品 古城の怪異〈5〉 著者:とよね

古城の怪異〈5〉 『三章 晩夏』――1/2

 0.承前

 目を覚ます。
「ママ?」
 固いベッド。薄い毛布。起き上がった子供は混乱する。僕は――私は? 私? いいや、僕だ――僕は誰だ?
「ママ」
 空と窓とを隔てる木々が、強風にざわめく。木の葉の影が激しく揺れ動く。そうだ、この音で目を覚ました。木々の声、丈低き夏草のさざめきと、それを踏み分ける足音。
 ママが帰ってきた! やっと帰ってきたんだ!
 子供は部屋を飛び出す。
「ママ!」
 玄関が開き、森の中の家に、夏の光を背負ってその子の母が入ってきた。名を呼ばれた。何と呼ばれたかよく分からなかった。しかし自分の名に違いなかった。
「ママ、おかえり! ママ!」
 子供はママに力いっぱい抱きつき、柔らかな腹に顔を埋めた。ママもそれを拒まず、大きな体で包みこむように、子供を抱きしめた。
「ママ、遅いよ、怖かったよ。僕ずっと待ってたんだよ。どこに行ってたの?」
「ごめんね、ママが悪かったね。もう大丈夫よ。ママ、もうどこにも行かないからね」
 子供が満足して力を緩めると、ママも手を放し、鞄からパン屋の紙袋を取り出した。
「お腹がすいたでしょう。ほら、あなたの好きなスコーンよ」
 わぁ、と子供はそれを両手で受け取る。
「ありがとう、ママ! 僕とってもスコーンが欲しかったんだ!」
「そうね。あなたは本当にそれが大好きだものね」
「うん」
 子供は夢中で紙袋を破った。
「ママ、ねえ僕、本当にお腹がすいてたんだ」
「そうね。他にも色々あるのよ。あなたの為に、お菓子をたくさん買ってきたのよ、ほら、ケーキもあるわ」
 今度は紙箱。
「ほら、こっちはクッキー」
「うわぁ、これ本当に僕のなの? 僕が食べていいの?」
「もちろんよ。これはキャンディ。これはマシュマロ。これはビーンズ。ほら、プリンもあるわ」
 目の前のテーブルが、次々と取り出される魅力的な食べ物で埋まっていく。ママの鞄は、何とたくさんの物が入るのだろう! その子供はすっかり幸せな気持ちになる。
「ママ、こんなに食べられないよ」
「チョコレートのマフィンよ」
 マフィンの包み紙が、ママと子供との間を隔てた。
「……ママ?」
「まだまだあるわ。だって、あなた、お腹が空いているものね。全部食べていいのよ。何でも食べていいのよ」
「ママ」
 目の前に、累々と食べ物の山が築かれてゆく。
「ねえ、ママ」
 ママの姿はその山の向こうに遠ざかっていた。それでもママの鞄は、鞄の容量を遥かに超える量の食べ物を吐き出し続けている。
 無限にのびるテーブルと、積み重ねられる食べ物。
 食べ物の山の向こうへと、ママの姿が黒く遠ざかる。
「――ママ、待って!」
「まだまだあるのよ、あなたの食料。大切な、大切な――」
「待ってよ!」
 そこはもはや家の中ではなく、森の中ですらない。
 赤い空。赤い土。テーブルが果てなく延び、愛するママが黒い影となって遠ざかってゆく。
「ママー!」
 子供は泣き叫び、小さくなってゆくママを追いかけて走った。
「ママ! 帰ってきて! どこにも行かないで!」
 懸命に走るけれど、ママの影はもうどこにも見えず、あるのは食べ物の――いいや、食べられるはずなどない、得体の知れない黒い影ばかり。
「ママー!!」
 子供の慟哭が消え行く先は、何もない――赤。

 1. 往復書簡

 ※

 親愛なるアスター軍曹

 お元気でしょうか。最後にお便りを頂戴してから五年が経ちました。これまでの間音信を絶っていた不義理をお許しください。
 早いもので、あなたと初めて出会ってから十一年がすぎました。私は十七歳になりました。間もなく十八歳となり、成人を迎えます。
 以前お知らせしました通り、私はよき義両親に恵まれて、今はハイスクールに通っております。学業や新しき故郷となったこの街でのボランティア活動に励み、とても充実した毎日を送っています。何もかもが夢だったみたいです。戦争も、迫害も。ともすれば、自分の出自やあなたに救われたあの古城の夜のことさえ、すべて幻だったのではないかとさえ思うのです。
 ところであの城、アストリア城ですが、近頃になって地元住民や著名な歴史学者の働きかけにより、国によって管理、保護されることとなりそうです。これまでは長らく続く内紛や侵略戦争で城の保護どころではなかったのですが、こうした話が出てくるということは、この国にも様々な余裕ができてきたという事でしょう。平和が長く続くことを願ってやみません。
 私はアストリア城の管理が国に移る前に、そこを訪ねてみようと思います。
 私は長らく、もうあの城に行ってはいけない気がしていました。
 けれど、何故行ってはいけないのか分からなかった。
 だから実際に行くことで、そのように思っていた理由を確かめたいと思います。
 大人になる前に。

 愛をこめて
 エリシ・パウリ

 ※※

 親愛なるエリシ

 心のこもったお手紙をありがとう。
 君がもう十七歳にもなるということにとても驚いた。本当に、月日が経つのは早いものだ。特にこの歳にもなると(これからもっと早くなることだろう)。充実した毎日を送っているとのことで、大変安心した。ささやかながら、あなたの現在と未来を祝福させてほしい。
 私のほうだが、もう軍人を退役し、家業の農業に戻った。のんびりと暮らしている。いつでも気が向いたときに、私の国に遊びに来て欲しい。妻と子供達も、君を歓迎する。
 もしかしたらこの手紙を、君はあの城から帰ってから読んでいるかもしれないし、行く前に読んでいるかもしれない。
 まだ行ってないのだとしたら、私としては、正直なところ城の訪問を推奨できない。古い建物には危険がつきものだ――しかし、どうしても君が望むなら、行くことで満足できるなら、止めることはしない。
 君の無事を祈っている。くれぐれも気をつけて行って欲しい
 そして戻ってきたら、君が得たものの話などを、よければ聞かせて欲しい。

 愛をこめて
 オーンショー・アスター

 2. 城へ

 赤褐色の土の上を、蔓草が低く這う。空はよく晴れているが、痩せた大地はどうしようもなく荒涼として見える。そんな土地だった。
 錆びたトラックが、小石だらけの道を進んでゆく。
 そのトラックの助手席には、エリシが乗っていた。
「この村にもようやく人が戻ってきてねぇ」
 潰れたような、低い、しかし大きな声で、ハンドルを握る農夫が言った。エリシは彼を見た。太い腕。太い首、赤くやけた逞しい肩と胸。しかし顔には老いが兆し、髪は灰色だった。六十前後だろう。顎に生える鬚は白い。
「耕作できるようになって、うちはまだ二年めさぁ。オレらトラムタ人は、とっ捕まったら皆殺しにされるって言うんでねぇ、みんなで逃げちまって――オレもだ――その間好き勝手に家は荒らされるわ、物は取られるわ、畑の土も痩せちまって」
「……ええ」
「そんで、未だに怖くて帰ってこれねぇ人も居るだろう。あるいは辛くてな。オレは一家も揃ってて、畑も取り戻して、道具もなんとか揃えることができて……まあ何とも幸せだね」
 エリシは目を伏せて、膝の上でハンカチを握り締めた。白い肌を窓越しの陽射しが焼く。太陽と土は、ただ毅然と存在するだけだ。あの夏もそうだった。
「そういやぁあんた、アレか。さっき野鳥の生息調査って言ったねえ」
 農夫が声音を変えたので、エリシも顔を上げた。
「ええ、ハイスクールの課題で」
「そうかいね。偉いこった。しかしそりゃあ大変だろう」
「学校に通えるだけで、幸せです」
「そうかいね。はぁん、ああ、まあそうだわね」
 唐突にトラックの振動がやんだ。広く真新しい道に入ったのだ。
 この道は森を突っ切り、古城の間近を通ってベクルス市方面へ抜ける。湖が観光資源として蘇れば、見放された村や小さな町にも、人が戻ってくるかもしれない。
 平和が長く続けば。
 平坦な道が眠気を誘う。
「三十年も前かね。嫌な事件があってね」
 けだるさを振り払うように、農夫がまた話しかけた。
「まだこの道ができてなくて、その頃は、ベクルス市方面に行くには旧道を通るしかなかった。まあ、旧道なんて呼び方は、当時はしなかったがね、それしか道がなかったからね。そんで、ある夜その道でね、囚人の護送車が事故を起こしたんだ」
「知ってます」
 と、エリシ。
「凶悪殺人犯エルナート・リンクス以下五人の囚人が脱走して、四人が仲間割れで死んだのでしょう」
「へえ、あんな昔の事件よく知ってるねぇ」
「ええ、まあ」
 エリシは愛想笑いを浮かべた。
「たしか一人、生き残った人がいましたね」
「いたさ。何せオレが、その生き残りの娘さんを保護したのさ」
 驚いて農夫を見れば、農夫は真剣な眼差しを、道の先に注いでいる。トラックが森に入る。車内に木々の影が降る。
「……そうだったんですか」
「びっくりしたね。真夜中に囚人服の娘がほうほうの体で逃げて来りゃ、そりゃあ……城から逃げて丸一日さまよって、ようやくオレの村にたどり着いたんだと」
 交際相手を刺殺した学生、リジル・エーカー。短い刑期の残りを過ごす別の刑務所に向かう途中、事件が起きた。
 それが、城にまつわる最後の事件だ。古い新聞記事から得た情報なので、どれほど正しいかは分からないが。
「その人は、どうなったんでしょうか」
「さあねぇ、お礼の手紙と、あと出所後に一度だけ、修道院に入ったって手紙が来たねぇ。それっきりさぁ。まあ思い出したくもないだろうよ」
「じゃあ、今もどこかで、修道女として生きてるんでしょうね」
「そうだねぇ」
 トラックは森を進み、開けた高地でエリシを下ろした。森を見下ろすことが出来る、小高い丘だ。
 向こうの崖に旧道が見える。
 そして城が近い。
「本当にここでいいのかね?」
 森の匂いを胸いっぱいに吸いこんで、小鳥のさえずりに耳を澄まし、エリシは農夫に笑顔を見せた。
「ええ。ありがとう。明日の朝、また宜しくお願いします」
「おお、迎えに来るけどよ、気をつけな。遭難したら難儀だからな」
 微笑み、テントを括りつけたリュックを背負う。農夫のトラックは来た道を引き返していった。
 エリシは真顔に戻り、トラックの走行音が完全に消えた森の中で、しばし佇んでいたが、登山靴の紐を結び直し、森に消えた。

 3. 残痕

 森の空気は冷涼だが、あるのかないのか分からない道を歩くうちに汗が吹き出てきた。それでも、先行の調査団体が草を刈った痕跡があり、少しは楽だった。
 コンパスを手に歩くうち、城への目印にたどり着いた。慰霊碑だ。
 エリシの胸ほどの高さの石碑に、よく見ればうっすらと、古語が刻まれている。長く風雨に晒され、苔むしている。古語に精通した人間であっても判読は難しいだろう。
 頭の上で木々がざわめく。石碑は、金色の光を静かに照り返している。エリシは石碑を見つめ、少しして立ち去った。
 やがて城が見えた。
 重い荷物を持ちかえたり、下ろしたり、また担いだりしながら、エリシは息を切らして歩いた。その内、いつの日かくぐった城壁の前に、ついに辿り着いた。
 その土色の石の壁を、石の継ぎ目を、小さな穴から吹き出る緑の葉を見つめ、思った。孤児だった頃に私はこの城に逃げてきた、置き去りにされた、そして助けられた、と。
 いざ来てみれば、ここがその場所だという実感はほとんど湧かなかった。違う場所ではないかとさえ考え、その考えながら、城壁をくぐった。
 なだらかな丘陵の先には、もう一枚の城壁。
 その向こうに現れる前庭と、城の佇まいとを見て、ようやく見覚えというものを感じた。
 城の玄関には、立ち入り禁止の看板が置かれていた。州立トラスト協会の署名がある。
 鍵はかかっていなかった。両開きの扉の向こうは、白い床のホール。高い天井と、扉上部から天井近くまで伸びる長い窓から差す光。
 眼前には、エリダヌスが立っていた階段。
 今では誰もいない。
 ただトラスト協会が残していった立ち入り禁止の赤いテープが鎖のように張り渡されて、階段を封じている。
 激しい衝動に駆られ、エリシは荷物を投げた。テープを引きちぎり、くしゃくしゃに丸めて、ごみとして捨てたかった。が、それを堪え――テープを跨ぎ越し、階段を駆け上った。
「キャリー!」
 階段の上の、三つ並んだドア。確か両側の二つは廊下に通じていた。
 覚えている。無邪気に身を隠していた部屋を。パンを食べた部屋を。意地汚い子供だった。あの時は飢えていた。
「キャリー!」
 中庭を見下ろす廊下に出た。窓から見下ろせば、四角形の庭は草の海。土に養分が残っているとは思えないのに、よほど深く根を下ろしているのか、丈低き雑草は濃い緑に輝いている。
 栄華は死んでしまった。歴史は証人をなくし枯れた。
 なおもキャリーを呼び、廊下を走り抜ける。
 怪異も、同じように死んでしまったのだ。
 渡り廊下の向こうでは、城が唐突に印象を変える。靴の下の板張りの廊下は堅い石に変じ、暗く、空気が冷たくなる。
 記憶を頼りに階段にたどり着き、四階まで上った。
 四階の廊下の突き当たりに、鏡がある。何となく鏡に歩み寄り、エリシは硬直した。
 床に、広範囲にわたって黒いしみが広がっている。
 そのしみが何であるか、この城のために得た知識が教えてくれた。
 凶悪殺人犯エルナート・リンクスは、この場所で死んだのだ。

 4. 邂逅

 エリシは城の裏で、乾いた倒木に座り込み、焦点の合わぬ目を地面に向けていた。
 自分が何をしに来たのか分からなくなっていた。
 ずっと、城のことが気がかりだった。
 子供時代からこの歳まで、さすがに毎日のように気にかけていられたわけではない。だが、心の奥底に、深い霧に隠れて古城は建っていた。
 そこに何があるのかを、エリシは知りたかった。過去を。精神の来歴を。かつて自分の身に起きたことの全てを。
 ずっと、城に会いたかった。
 来てみれば、城はただの城だった。堅牢な廃墟。いいや、数年もすれば観光資源に生まれ変わる。神秘性など最早なかった。不思議なものなどない。
 エリシは目を上げる。濃い緑の森を挟んで、湖が光って見えた。美しい、と思った。穏やかな時間だ。
 これからどうしよう。
 迎えが来るのは明日だ。一晩、この城で過ごすのだ。初めからそのつもりだったことに、エリシは驚愕した。ここに気さえすれば、何か特別なことが起こると、本気で信じていたのだ。
 エリシは深く失望し、暗澹たる気持ちとなった。眼下には町も村もない。城は無明の闇に閉ざされるはずだ。せめて月や星が明るく輝いてくれることを祈った。
 罪人たちも、ここで夜を恐れたのだろうか。
 いいや、常軌を逸した行為を平然と成し遂げた異常者たちだ。怖かったはずなどない。
 肌寒さを感じた。汗が引いたからだ。
 エリシはリュックからシュラフを引っ張り出し、体にかけた。そして土に尻をつけ、たった今腰を掛けていた倒木に背中を預けると、疲労に任せ目を閉じた。

 これは夢だとわかる夢を見た。夢は裏庭から始まった。エリシはふらりと立ち上り、これは夢だと自覚しながら城の中に入る。
 キャリーを呼ぼうとした。夢でなら会えると思った。けれど声が出ない。
 白い柱が立ち並ぶ回廊に出た。
 中庭を挟んだ回廊の向こう側を、人影が走りすぎ、姿を消す。
「キャリー?」
 しかし、喉を痛みが刺すばかりで、やはり声が出ない。キャリーではなかった。体つきが大きかったので、少なくとも子供ではない。しかも二人いた。エリシは回廊を曲がり、二人が消えた地点へ向かう。
 板張りの廊下を覗きこむと、背後で放たれた怒鳴り声が、体を打ち据えた。
 続けて、固い板を打ち砕くような、鈍い破壊音。
 エリシは飛び上がり、目覚める。

 中庭に向かった。
 誰かがいると思ったわけではない。ただ確かめたかった。ここに、不思議な何かがいる。不思議な力がある。子供の頃にそう信じ、信じ続けたからここに来た。
 何もなかったら帰ろう。そう、諦めて帰るために、確かめよう。
「誰かいるの?」
 石の廊下から中庭に顔を出すと、大きなはさみが視界に入った。庭仕事用のはさみが回廊の壁に――いいや、壁に掲げられた絵に、深々と刺さっている。
 エリシは絵の前に立ち、はさみを見つめた。
 錆びている。どれほど古い物なのか想像もつかない。床に落ちていない事が不思議だった。絵の奥で何かに引っかかっているか、たまたま奇跡のようなバランスを保てているのだろう。
 絵は城の絵だった。城の背面が、裏庭の崖の向こうから見上げる形で描かれている。
 昔こんなものがあっただろうか、と、首をかしげるが、よく分からなかった。気づかなかっただけかもしれない。しかしこれだけ異様な物を、六歳の頃にも見落としていただろうか。この城に、大人たちとともに流れつき、ほんの数日だが暮らしていた間にも?
 気配を感じ、ふと後ろを見た。
 回廊の向こうで、誰かが板張りの廊下に入っていった。その白い靴の踵と、白い衣服の裾が見えた。
「待って」
 板張りの廊下へ。途端に、城に差し込む光が浄く明るくなる。
 遠くで、扉の軋む音がした。
「誰?」
 どんな物音も聞き漏らすまいと、耳を澄ませ、目を凝らし、早足で城の一階をさまよう。
 あてどなく気配の主を探すうちに、小さなホールに出た。
 ホールの先の扉を押し開けると、明るい光が降り注ぐ、白い壁の廊下に出た。廊下は途中で直角に折れ曲がり、その先は見えない。
 廊下の角を曲がると、唐突に人間の形をしたものが目に入り、エリシは後ろに飛びのいた。
 かろうじて悲鳴を押しとどめ、その、小さな人間の形のものに目を凝らすと、それはくるりと振り向いた。
 人間の子供だった。
 男の子だ。
 エリシと子供が、まったく同時に、「誰」と互いに尋ねた。
 七、八歳くらいだろうか。貧しそうな身なりだ。顔色が悪く、黒い髪は伸び、皮脂でぱさついている。身を包む服は生地がのびている上に皺がより、変色している。
 何より、暗く、他人のことが疎ましくて仕方がないという目つき。
 自分もこんな目の子供だった、などと思っていると、子供が答えた。
「僕はエルナート。エルナート・リンクス」

 5. 消失

 聞き覚えのある名だと思った。その名に思い当たるのに、さほど時間はかからなかった。
「……本当に?」
 気づいた時には、そう尋ねていた。子供は、何を言われているのか分からない、という目でエリシを見返した。それから、ばつが悪そうに顔をそむけ、「たぶん」と呟いた。
「たぶん、そうだと思う。今思い出した」
 黒ずんだ指で鼻の下をこすり、幼い声で言葉を重ねた。
「名前、訊かれて思い出したんだ、今。だから違うかもしれない」
「いつからここにいるの」
 今度はその子に駆け寄り、膝をかがめて顔を寄せた。
「どこから来たの? この城にはいつ来たの?」
 子供はぼんやりとした不満そうな顔で、黙り続けていた。一分ほど経ってから、
「知らない」
 と答えた。
「あんたこそ誰」
「私はエリシ。エリシ・パウリ。人を探しに来たの。あなたより少し小さいくらいの、金髪の女の子なの。知らないかしら」
「知らない」
「君はどこから来たの? 近くの村の子? ここにはよく来るの?」
 返事はない。不機嫌そうに、顔をそむけている。
「……お腹はすいてない?」
「すいてる」
 これにはすぐ答えた。
「何か食べる?」
「食べる」
 これにも。

 エルナートと名乗る少年に、ビスケットの缶を与えた。少年がビスケットを貪る様子を、裏庭の倒木に腰を下ろし、エリシは見守った。
「……喉が渇いた」
 ビスケットがなくなると、少年は礼も言わず、また不機嫌そうな目で言った。
「そこの沢で飲んでおいで」
「……」
「あなたは今まで何を飲んでいたの?」
「何も飲んでない」
 今度はエリシが黙った。
「覚えてないんだ、さっき絵の前に立ってた……その前の事、よく」
「気が付いたら、絵の前に立ってたの?」
「うん」
「何も思い出せないの? 本当に、何か些細なことでも?」
 少年は、その歳の少年らしからぬ深刻な皺を刻み、何事かに意識を集中していた。
「たぶん、僕は、出口を探していた」
「出口? この城の?」
「うん」
「玄関から出るのでは、駄目なの?」
「青い人がいるから、駄目」
 少年は自分の言葉にさもぞっとした様子で、目を見開き、自分の二の腕を抱いた。
「他に人はいない? 青い人ではなく」
「いないよ。誰かに会った記憶はない。……誰にも会ってない記憶もないけど」
 エリシは少年を見つめ、その顔にキャリーの気配を探した。
 今起きていることやこの少年を、恐れるべきかもしれないと思った。何が起きているかわからない、そのことに、もう子供ではないならば、危機感を抱くべきだ。
 いいや。
 何のことはない。
 かつて自分の身に降りかかった事と、同じ事だ。
「ついてきて」
 少年を招き、身を翻した。
「あなたの記憶が何か、戻るかもしれない」
 エリシは城を歩く。記憶が戻れば、この子は、少し捻くれているだけの少年のままではいられないだろう。何が起こるかなど分からないし、覚悟のしようもない。
 しかし、四階の廊下の鏡の前にたどりついても、そこに血の跡はなかった。
 一人の悪党が生きて死んだ、その痕跡は消えていた。
 どうすれば良いのか分からず立ち尽くすエリシを追い抜き、エルナートは自分で鏡の前に立った。
「僕はたぶん」
 と、エルナート。
「ママの帰りを待ってたんだ。そんな気がする」
「ここで?」
「ううん。森の中の……家」
「キャリーも同じことを言っていたわ」
 キャリーはこの少年になったのだ。そう閃いた。エルナートが死んだ時、キャリーは近くにいて、見ていたのだ。キャリーは今この子の中にいるのだ。
「あなたはエルナートだけれど、ほんの少しキャリーなのよ。キャリーになったの」
 窓から斜めに陽が差しこみ。二人の影を長く伸ばした。
「――夕日のねじが切れたら、誰かが巻かなきゃいけないの」
 エリシは少年に歩み寄り、両肩に手を置く。
「そうは思わない?」
 少年は唇を釣り上げて、下らなさそうに笑うだけだった。
「そんなのおかしいよ」
 風が全ての窓を叩く。森が叫んだ。

 6. 惨劇

 常軌を逸した悪党どもが夜を恐れたはずなどない。
 そう考えていたことをエリシは後悔した。
 空一面の星は、白や黄や赤に点るだけで、地上を照らさない。長く見ていると夜空にできた発疹のように見えて、肌を掻き毟りたくなる。
 バーナーで湯を沸かし、二人でココアを分け合った。
 闇や、闇に潜む得体の知れないものを恐れるのが人の本能なら、やはりこの少年をこそ恐れるべきだとエリシは考えた。そうならないのは滑稽であった。
 エルナートと名乗る少年は膝を抱えて地面を見ている。その姿を、地面に置かれたヘッドライトが照らしている。
 早く朝になって、迎えが来ればいい。
 だが、エルナートの事はどうすればいいだろう。
 私には迎えが来るからと、さっさと城を出ていけばいいのか、この存在を置いて。
 そんな事をしたら、自分はまたここに来なければならなくなる。
 そうだ。キャリーに会いに来れば許されるような気がしていた。自分が優しい人間ではなかったことが。許されて大人になれる気がしていた。
 ならば自分はキャリーとの友情のためにここに来たのではない。キャリーに大人にしてもらいたくてここに来たのか。
 エリシは急に情けなくなってきた。
 来なければよかった。
 シェラフを体に巻きなおすと、エルナートが顔を上げた。
「ねぇ、この城はさ」
 沈黙。
「……ああ、ごめん。どうしたの?」
「真夜中に、誰か女の人が叫ぶんだ」
「女の人? 誰だろう。どこで?」
「四階」
 エルナートは答えると、強く膝を抱いた。
「ああ。今も出るのね」
「知ってるの?」
「恐らくは、かつてのこの城の奥方よ」
「どんな人なの?」
 四階から、ふと視線を浴びた気がして、エリシは声を潜めながら言葉を選んだ。
「その人は、強く、美しく、聡明な女性だったと伝えられているわ。市民革命時には自ら兵を率いて人々を守り、今でも英雄として語り継がれているの」
「そんな人がなんで夜中に叫んでるの?」
「とても恐い思いをしているんじゃないかしら。何百年も、毎夜、ずっと。その人は結果として良いとされることを沢山したけど、悪いことや、恨まれることも沢山してきたから」
「どんな?」
「例えば――昔この城には、城主に献上された一人の異国の楽士……歌を歌ったり、楽器を奏でる人がいた。献上って、分かる? 物を人にあげる事よ」
「その人は物としてここに来たの?」
「ええ。だけどそれは当時では普通の事だった。ココア、まだ飲む?」
「ううん、いい」
 エリシは心細さを感じながら、バーナーの火を切った。闇が迫ってきた。火を切ったことを後悔したが、また点ける気にはならなかった。
「その英雄、奥方であるミザルという女性は、楽士に嫉妬したの。事故に見せかけて、火をつけて殺したのよ」
「本当?」
「ええ。その楽士は――」
 混乱に陥り、城の裏へと飛び出して、崖から転げ落ちた。
 ちょうどこの場所から落ちて死んだのだとしてもおかしくない。エリシは口をつぐんだ。
「かわいそうだね」
 と、エルナート。
「わざわざ遠くから連れてこられて、殺されたなんて」
 エリシはかつての――あるいは将来の? ――凶悪殺人犯の口から出た言葉を、意外な思いで受け止めた。そして「そうね」と頷いた。
「お話には続きがあるのよ。ミザルは年を取った。二人の子供、レグルスとポラリスは城を出て行ってしまい、とても孤独だったの。そしてある夜から、彼女は召使にこう訴えるようになったの。――『あの楽士が映る』」
 エリシは自分の話の内容が怖くなり、目を伏せた。
「城の鏡の中に、夜の窓、昼の窓、銀の食器の中に、その楽士が映る。こちらを見つめてくる。ミザルはそう言って、自分の部屋の鏡をすべて割った。城中の鏡に覆いをかけさせ、窓を塞げと命じ、まるで平民のように、木匙だけで食事をとるようになったのよ」
「その人は、死ぬまでずっと、窓を塞いだ部屋で暮らしたの?」
「ミザルはそれからすぐ消えてしまったのよ。消えていなくなった」
 ある老いた衛兵が城を巡回していた、真夜中。
 四階のミザルの寝室より悲鳴が響き渡った。
 アンティークプレートやグラス、水差しがひっくり返される音。
 ミザルのものと思われる足音が部屋を飛び出し、廊下を駆けていった――そしてまた悲鳴が聞こえた。
 駆け付けた衛兵は、四階の廊下の窓の覆いが全て取り払われていることに驚いたという。
 廊下は無人だった。足音や悲鳴の続きもなかった。
 ただ、突き当たりの鏡だけが、満月の光を浴びて輝いていたのだという。
「寝ましょう」
 ライトを切る。

 7.彷徨

 地面が固く、しんしんと冷え、しかもシェラフと地面の間に何匹も虫が入り込んで蠢いている気がして、少しでも寝返りを打てばその虫を潰してしまうようで、エリシは浅く不快な眠りの中で居心地悪さに耐えていた。
 そのうち虫が一匹、シェラフの下から這い出てきて、物音を立てながらエリシの顔の前まで這ってきた。薄目を開けて見ると、どこからか差す光に照らされたそれは、虫ではなく指だった。指が、指先に目玉でもついているかのようにエリシの顔を窺っている。
 エリシは目をつぶる。
『戦争をするのに弓が使われていた時代、射手たちは、捕虜にされたら、みんな指を切り落とされたのよ』
 若い母親の声がする。
『可哀そうだねぇ、すごく痛そうだねぇ』
 と、キャリーが答える。
『けれどね、弓が戦場から消えて、銃の時代が来たら、みんな殺されるようになったのよ。もう指を切り落とす必要がない。降伏しようとしている兵士も、背を向けて逃げようとしている兵士も、みぃんな、みぃんな死んでしまった』
 ああ、キャリーは母親に会えたんだ、とエリシは眠ったまま思う。
『森の中に石碑があるでしょう? あの石の下には、殺された兵士の冷たい骨が、たくさんたくさん埋まってるのよ』
 目を開ける。
 明るい部屋が見える。
 小さな、しかし暮らしてゆくのに不足のない家。
「ママ?」
 昼寝から覚めたキャリーが、孤独感を覚えて母親を呼ぶ声。
 ママは家の中にいなかった。キャリーは城壁をくぐり、なだらかな丘を登り、城へ。
「ドラコー、ママはお城?」
 庭木の剪定をしていた初老の庭師が、葉陰から顔を出した。
「ああ、お嬢ちゃん、あなたのママなら城ん中だぁね」
 庭師が小枝を切るリズム。それを背中に受けながら、キャリーは城へ。掃除する人がいない城。蜘蛛さえ寄り付かない眠る城。
 回廊でママが――あの男と壁を見ている。
「なかなかだろう? 僕が描かせたんだ」
 いや、壁に絵がかけられていて、それを見ているのだ。ママと男の姿が邪魔で、キャリーには絵がよく見えない。
「素敵ね――美しいわ。この絵はなんていうの?」
「さて。『古城』でいいんじゃないか?」
「味も素っ気もないわ」
 男がママの髪を撫で、肩に手を回し、抱き寄せる。キャリーは気持ちが悪くなり、踵を返すが、声が聞こえた。
「じゃあ、『古城の怪異』なんてどうだい?」
 何もかも嫌になって、キャリーは家に戻る。
 家にもママがいて、白い帽子をかぶり、バッグに腕を通していた。
「あなたはここにいるのよ」
 苛立った声でママが言う。
「レグルス伯父さんとポラリス伯母さんが迎えに来るんだから」
 玄関口から、もっと苛立った声で、「おい、まだか」と男が言った。
 ママは出て行った。
 一体いつになったら戻ってくるのか、キャリーには分からないし、怖くて聞けなかった。日が暮れた。夜になった。しかし誰も家に来ない。
 キャリーは怖くなり、呼ぶ。
「ママ」
 は帰ってこない。
「ドラコー」
 は解雇されて城から追い出された。
 眠った。そして朝が来た。誰も来ていなかった。いいや、誰かが来たのだけれど、自分は眠ってしまっていたので、罰として置き去りにされたのかもしれない。
 そう思って、家に残されたもので一日空腹を凌ぎ、キャリーは起き続けた。
 レグルス伯父さんもポラリス伯母さんも、キャリーは知らない。顔も知らなければ、自分とどういう繋がりがある人間なのかさえ分からない。もっと言えば、そういう人間が本当にいるのかさえ分からない。
 しかしそれが迎えに来るから、とママに言われている。
「伯父さん、どこ?」
 眠ってしまわないように椅子に腰かけていたキャリーは、椅子から下り、城へ向かう。
 家に来ないのなら、城に来ているかもしれない。
 カンテラにマッチの火を入れ、恐ろしい森を、足許だけ見て走り抜ける。
「伯父さん! 伯母さん! どこ!」
 息を切らし、城にたどり着き、さらに走り回り、叫ぶ。
「レグルス伯父さん!」
 ランダムに跳ねていた闇の粒子が一斉に顔にぶつかってきた。
「ポラリス伯母さん!」
 すると、上のほうから食器をひっくり返す音、そしてけたたましい女の叫び声が聞こえ――
 その物音と声で、裏庭のエリシが目を覚ます。



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