お話の、あるところ。

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竹の子書房用:黒実 操

子買双紙  著:黒実操




 ――お伽噺(とぎばなし)



 キヨは記憶を巡らせる。
 いつが最初だっただろう。
 ――夜中に目が覚めたとき、母が隣に寝ていなかったのは。
 ――夜中に目が覚めたとき、母が咽(むせ)び泣いていたのは。
 ――夜中に目が覚めたとき、母が――母が――。
 キヨの気管が、ひゅっと鳴った。
反射的に喉元に掌(たなごころ)を向ける。しかしその皮膚に触れることは躊躇(ためら)われ、ようよう、その手を下げた。
 見れば、爪が伸びている。
 どうして――こんなに爪が伸びているんだろう。
  

 寒い。
 まだ冬には少し間があるが、山間部のこと、空腹を抱えた幼い子供には辛い気温。キヨは、部屋の片隅で布団に包まり、母親が立ち働く様子を窺っていた。
 そこに、 
「おはようございます、アタシですよ」
 と、声。
 戸を叩きも開けもせず、ただ呼ばわる女
 キヨの胸に、嫌な予感が下りてくる。
 母親が無言で戸を開いた。流れ込む、冷えた空気が頬を打つ。
 立っていたのは、見知らぬ女だ。驚く程に背が高い。
 青みがかった白い着物姿が、朝靄(あさもや)の中で薄く光っているようだ。身長も然(さ)ることながら、こんなにも豪奢な形(なり)をしている女を見たのは、キヨは生まれて初めてだ。
「キヨは、そこに居(お)るとよ」
 母親は万事承知といった様子で、女と連れ立ち、外へ行く。
 キヨはその足音を耳で追い、壁に張り付いた。辺りを憚(はばか)るような喋り方。高くなったり、低くなったり、声の調子は伝わるが、何を話しているかはさっぱりだ。
 だが、 
「それじゃあ、キヨちゃんのことは、アタシに任せて頂戴な」
 その一言だけは、はっきりと聞き取れた。
 当然、母の声ではなかった。 

「キヨちゃん、お前を迎えに来たわ」
 女は、キヨに向かって莞爾(にっこり)とした。
「うちにはもう、お前に食わする物(もん)は無(な)かとよ」
 母親が顔を背ける。
「……うん」
 キヨは頷き、嘘つき、という言葉を飲み込んだ。
 母親は、引っ掻き傷の跡が目立つ、荒れた赤い手でピシャリと戸を閉める。ガサゴソと、鍵替わりの心張り棒を嵌め込む気配。
 身一つで、キヨは残された。
「さぁさ、行きましょう。麓(ふもと)まで歩かなきゃいけないわ。頑張って頂戴ね」
 女がその手をしっかりと握り、歩き出す。子供には辛いような早足。
 村を出るまで、誰とも擦れ違わず、声をかけられることもなかった。ただ一人、井戸端から、キヨも見知った年寄りが、歩み行く二人を不審そうに見遣る。
 これぞ青天の霹靂。
 キヨは母親と離れ、慣れ親しんだ村を後にする。見知らぬ女に手を取られ、ひたすら脚を動かしている。
 そこに意思などない。
 涙さえ出ない。悲しさとか憤りとか、この場に相応しい感情が湧いてこない。
 足元がふわふわとしている。まるで雲を踏んでいるかのようだ。
「こんな道じゃ、車は通りゃしないわね。昭和の御世(みよ)も、もう七年だというのに。草履(ぞうり)なんて履いてくるんじゃなかったわ」
 まさか、今更馬に乗るなんて、できやァしないし――愚痴のように一人呟くと、女は少し屈んで紅白粉(べにおしろい)で飾り立てた顔をキヨに向ける。
 ――綺麗だと、キヨは思った。
 キヨが母親と暮らしていたのは小さな貧しい山村で、そこに至る道も細く険しかった。到底、このような拵(こしら)えの女が出入りすることなどない場所だ。
「お母さんから何も聞いてないのかしら? まぁいいわ。あのね、キヨちゃん、あなたは今日からご奉公に出るのよ。でもね、何にも心配はいらないの。お姫様のような暮らしができるのよ」
お姫様という現実味のない単語。キヨの胸には響かない。
「もちろん、本物のお姫様にはなれないわ。キヨちゃんはね、お姫様のお友達になるのよ。華子様っていうお姫様の、お友達になるの」
 女の言葉は〈普通〉とは違う。だが、キヨはこの言葉に馴染みがあった。
 ――〈東京弁〉。
 母と二人だけの内緒の言葉だ。
 今はもう昔――かつて母親は、キヨが寝入るまで枕元で童話を語ってくれていた。
母親は、普段は村人と同じようにここの方言を使ったが、キヨと二人のとき――特にお話をしてくれるときだけは、違った。
 ……東京弁よ、誰にも内緒。母さんとキヨだけの、秘密――と。
 女の話す言葉は、それと同じものだ。母とこの女の関係が気になるが、口にすることができない。
 東京が何処にあるのかさっぱり判らないが、とても遠くにあることだけは知っていた。
「あちらに着いたら、お姫様のお傍に侍(はべ)るに相応(ふさわ)しい、キレイなお洋服を着せてあげましょうね。洋服よ、洋服。キヨちゃん、着たことないわねぇ? リボン飾りが付いた可愛いワンピースでしょ、ピカピカのお靴でしょ、フリルの付いた靴下も、フリルって……判る?」
 女の掌が、じっとりと湿り気を帯びてきた。
「もうちょっと、頑張って歩いて頂戴ね。そこからは自動車に乗せてあげるわよ。初めてじゃない? 自動車」
 甲高い、ひらひらとした声音。微かに息が弾んでいる。
「じどうしゃ……」
 キヨは、呆然と鸚鵡(おうむ)返し。山奥育ちとはいえ、自動車くらいは知っていた。それが自分と母親とを、取り返しのつかない距離まで引き離す乗り物だということも。
 ――まさか、東京に?
 問いたかったが、どうしても唇が動かなかった。

 女は言葉通りに、麓の町から車を使った。
 鉄道の駅があるその町でも、女の格好は際立って贅沢だ。大柄なせいもあり、恐ろしく目立つ。
 そんな彼女が、見窄(みすぼ)らしいキヨの、垢(あか)じみた手を握り締めている。大勢の、無遠慮に眺め回す者達。
 駅前には数台の自動車が停まっていたが、女は迷うことなく、その内の一台にキヨと共に乗り込んだ。
「出して頂戴」
 運転手にそれだけ言うと、女は座席に身体を預ける。
「疲れたわねぇ。キヨちゃんも疲れたでしょ。眠ってもいいのよ、着いたら起こしてあげるわ」
そして女は、ピタリと黙った。
 流れ行く景色。
 ごたごたとした町並みを抜け、山道へと進む。
 キヨの知らない、道。
 初めての自動車に、浮つく気持ちなど欠片もない。
 母を恋う気持ちも湧かなかった。
 女は外方(そっぽ)を向いてしまったが、キヨの手はしっかりと握り締めたままだ。
 眠気も感じないキヨは、ぼんやりと眼球に景色を映していた――その折。
 黒い影が車窓を過(よ)ぎる。
 道の脇の、木々の隙間に青毛の馬が。
 村にいた農耕馬とは全く違う、細い、姿のいい馬だ。
 その背には、青年。
 薄暗い背景に、ほの白い顔。片頬で笑うような表情。挑戦的な目付き。
 その眼差しが、ス、と動き、キヨの視線を捉えた。
 だが、それも一瞬。
 彼らは後方へと流れ去る。
 
 自動車は、山の中腹にある仰々(ぎょうぎょう)しい門を潜る。
 田舎の山には不似合いな程、重厚な洋館があった。
 キヨは、ほんの少しだけ気を緩める。ここが東京なわけはあるまい。元いた村から、せいぜい山を三つ越えたくらいだと、子供ながらも把握していた。
 厳(いか)めしい造りの大きなドアーが、二人が立つと同時に口を開ける。
「待っておったよ、如月さん」
 ドアーの向こうには、恰幅のいい初老の紳士の姿があった。肉厚の手で、せかせかと中へと差し招く。
 大きな二皮目、ふくよかな頬と腹。女――如月よりも頭一つ分背が低いその男は、肌には張りがあったが、頭髪は真っ白といってもいい。この洋館に相応しく、濃い灰色の三つ揃いに身を包んでいた。
「あら。お出迎えなんて、まぁ」
 ホホホと、如月はキヨの背を押しやった。
「この子がお話していた真名井潔子(きよこ)ですわ。マナイは、真名井の滝の――ね。出雲に連なる一族の末裔(まつえい)なのよ。元々住んでいた地方では、ご先祖が真名井神として神社に祀られていた名家の出で、血統は保証付きですわ」
 ただ、ご維新からこっち、政府から迫害を受けて――可哀想に、今ではこんな有様でと、如月は立て板に水と語る。
 キヨは、自分は真名井潔子などという大層な名前を持っていたのかと、他人事(ひとごと)のように聞いていた。ずっと「キヨ」とだけ呼ばれていたのだ。
 その後の名家云々についても、全く覚えのないことだった。
母一人が守り育てていたのですけど、女手ひとつではもう、ねぇ、ホホホと、甲高い声が響く。如月の白く長い指が、キヨの痩せた肩に食い込んでくる。
 初老の男に品定めをされるような視線を浴びせられ、キヨはとても不快だったが、身体を捻ることすらできなかった。
 


「まぁ、キレイになったわね」
 勧められるままに、キヨは身体を洗った。
 案内された所は、風呂だと示されてもピンとこない場所だったが、如月から簡単に使い方を教わり、事なきを得た。
 時間が経つに連れ、少しづつ現実味を取り戻してきた心に、驚くことばかりが押し寄せてくる。
 髪を拭う、この白くてふかふかした布もそうだ。キヨは、目の粗い手拭いの感触しか知らなかった。
 新しく身に付けるものの、一切合切が戸惑いを誘う。下穿きはともかく、シュミーズなど、とても肌着には思えない。これは外国のお姫様が着るという、ドレスではないか――そう思ったキヨがそれを素直に口にすると、如月は声を上げて笑った。
「ホホホホホ。お前は本当に可愛いのね。きっと華子様の気に入るわ」
 シュミーズの上に、来る途中から如月が話していたワンピースというものを着せられた。落ち着いた茶色、滑らかで柔らかな生地。胸には大きな、真っ赤なリボン。
「これがお靴よ。その前に靴下を履きましょうね」
 くるぶしを覆う丈の、白い靴下。足首の周りに、繊細なレースのフリルが縫い付けられている。初めて履くそれと靴は、何とも足に纏わり付く感じがして、少し気持ちが悪かった。
「ここではね、おうちの中でもお靴を履くの。寝るとき以外は脱がないのよ。――さぁ、できた。これで、華子様の前に出てもおかしくないわ」
 如月は、支度の整ったキヨを鏡の前に立たせる。
「――――!」
 キヨは、そこに映るのが自分だということを理解するのに、数秒を要した。
「とってもお似合いよ」
 如月が、また、白く細長い指を、キヨの肩に絡み付けた。

「おお、おお、これはこれは」
 如月の案内で応接間へと通されたキヨを、初老の紳士は両腕を広げて歓待した。
「何とも可愛らしい。華子もきっとお前を気に入るよ」
「良かったわねぇ、潔子ちゃん。都路(みやこじ)様が太鼓判をくだすったわ」
「――――」
 キヨは、無言で下を向く。
 こっそりと、窓の外に目を遣った。妙にはしゃいだ様子の二人の大人に、何となく白けた気持ちになったのだ。
 すでに日は傾いていた。朱色の光がキヨの目を焼く。
 竈(かまど)に火を熾(おこ)す、母の後ろ姿が浮かんで――すぐに――戸を締める、引っ掻き傷の跡が目立つ、荒れた赤い手に取って代わる。
「……ゃん、潔子ちゃん」
「あ、」
 キヨは、ハッと顔を上げる。
「潔子ちゃん、華子に紹介しよう。それじゃ、如月さん。また後程。実に良いお子を連れてきてくださった。華子もこれで、また一つ、回復へと向かうことでしょう」
「ええ、ええ、本当に良いお薬になるわ。ね、潔子ちゃん」
 如月は、キヨに向かって莞爾とした。
 キヨは会釈をすることすら思い付かず、曖昧に首を傾げて踵(きびす)を返し、都路が促(うなが)すままに足を運んだ。
 二階へと延びる階段は、玄関を入った脇にある。
 玄関の扉の上と踊り場の壁面、そして昇りきった先に大きな明り取りの窓。
 都路が先に立ち。真鍮(しんちゅう)の、凝った装飾がしてある手摺を掴み、階段を昇る。
「如月さんから聞いただろうが、華子は病気でね。もう随分と長いこと寝たきりなんだよ。君よりも二つお姉さんだが、学校にも行ったことがないんだ。勉強は私が見てやれるが、それじゃ寂しいだろう? だから、年の近い女の子の友達を探していたんだ」
 階段は長く、緩やかに弧を描いていた。隅には埃が溜まり、手摺を伝ったキヨの手は、ザラッとした何かで汚れる。そっと、スカートで払った。
 昇りきると、手摺がそのまま続いたバルコニーと、その先には廊下があった。右側は窓だが、何故か全部の鎧戸が閉められていて、代わりに薄赤い電灯が灯っている。左側には同じ形のドアーが等間隔に並んでいた。
 突き当りには、大きな檻のようなものが見える。
「華子は、親の私が言うのも何なんだが、とてもいい子なんだよ。寝てばかりで辛いはずなのに、私や如月さんに、一つも我儘を言ったことがない。苦しいときでも心配させまいと、無理やり微笑んでみせるような子なんだ。あんないい子が、どうして……」
 母親の有無を問いたかったが、キヨは既(すんで)の所で思いとどまる。
 さっきの階段、そしてこの廊下、真ん中はさて置き、端の方の汚れが酷い。
 掃除は母親の仕事だと、キヨは思い込んでいる。これで華子に母親がいるとは、到底考えられなかった。
 屋敷のこの不潔な有様は、使用人の不備をまず疑うべきことだ。だいたい、主(あるじ)が自ら戸を開き、客人を招き入れるなど――ありえない。
 しかし、キヨは使用人というものを知らなかった。ただ単に、華子に母親がいないらしいということを、自分に重ねてしまう。
 一番奥の扉の前で、都路は足を止めた。
 キヨは、横にある檻のようなものが気になったが、訊ける雰囲気ではない。
「潔子ちゃん。ここが華子の部屋だ。きっとよろしく頼んだよ」
 そして、華子華子、起きているかいと呼ばわり、ノックを三回。
「お父様、起きていてよ」
 優しい声が、すぐさま返ってくる。
 キヨの、無意識に作った握り拳に力が入った。
 掌に、チクリと痛覚。
 ――爪が、長く伸びていた。
 都路がドアーを開く。
「華子、お友達を連れてきたよ」
 大きく厚みのある手で、都路がキヨの背を押した。ふらつき、キヨは一歩前へ出る。
「真名井潔子ちゃんだ。華子よりも二つ年下だよ。さ、潔子ちゃん、娘の華子だ」
「こんにちは……、もうこんばんはかしら。潔子さん、初めまして」
 正面にある大きな寝台から、先程のあの声がする。白く盛り上がった布団の向こうから、小さな頭が持ち上がった。
 薄緑色の肌、浮腫(むく)んだ瞼と頬。しかしその瞳はきらきらと輝き、少女らしい高潔な美しさを湛えている。
 寝具と同じ純白の寝巻の襟元は、幾重にもフリルで飾られていて、真珠のような釦(ぼたん)が連なっていた。
 キヨは放心する。
「わたし、都路華子と申します」
「……キヨ……、」
 名乗ろうとしたが、キヨは自分の訛りの強い言葉を恥じる。名前を口にするだけで精いっぱいだった。
 その背に、再び、分厚い掌の感触。キヨは、もう一歩前へと押しやられる。
「華子、寝てていいんだよ」
 都路の、心配そうな声。
「いいえ、お父様、大丈夫。――潔子さん、こちらへいらして。握手をしてくださる?」
 半身を起こした華子が、キヨに向かって手を伸べる。キヨは考える間もなく、それに引かれるように近寄った。握手が何なのか知らなかったが、本能的にその手を握る。
 華子は、心から嬉しそうに微笑んだ。
「……あ」
 その眩しい表情に、キヨはどきまぎする。
 華子の皮膚は病み疲れ、くすんでいた。例え病気だと聞かされていなくても、一目で異常が知れるだろう。
 しかしその笑顔は、その名に相応しい彩りを表していた。
「潔子さん、わたし、とっても嬉しいわ。どうか仲良くしてくださいね」
「……うん。うん」
 何度も首肯(しゅこう)しながら、キヨは華子の手をしっかりと握り締めた。華子も握り返す。とても、弱弱しかった。
 涙が出そうになったが、堪えた。
 
 夕食は、そのまま華子の部屋で取った。華子が是非にと勧めたのだ。
 温めた牛乳、白いパンと玉蜀黍(とうもろこし)のスープ、チーズと挽肉のオムレツに食後のオレンヂという質素なものだったが、どれもキヨは初めて味わうものばかりだった。微妙な獣臭さが鼻につく。
「卵もチーズも、身体の為にとっても良いものなんですって。如月さんが言ってらしたけど、滋養があるのよ」
「……じよう?」
「栄養のことですって。身体を作る、大事なもののことよ」
「なら、栄養って言うと良(よ)かとに」
「――あら、ほんと。潔子さん、わたし気が付かなかったわ。もしかして滋養と栄養は、ちょっと違うものなのかしら。後で、お父様に聞いてみましょう」
 華子の優しい雰囲気に甘え、キヨは訛りのことを忘れられた。ただ、スプーンはまだしも、ナイフとフォークは扱えたものではない。しかしこれも、食事が冷めるのも厭わず、華子が懇切丁寧に作法を教える。
「これから毎日のことだもの。イヤでも慣れてよ。オムレツだってスプーンで食べればいいわ。いいのよ、わたししか見ていないんですもの」
 華子は口元に人差し指を立てて、しーっと言った。
 キヨの気持ちがほぐれる。
 初めての洋食はキヨの口には合わなかったが、それでもとても美味しく感じた。
 自然、思うままが口に出る。
「オレンヂって蜜柑の如(ご)たる」
「そうよ。オレンヂと蜜柑は家族なの」
「家族?」
「仲間……なのかしら? ――いいえ、やっぱり家族だわ。遠い国で別々に暮らしていたから、すっかり身なりは変わっちゃったけど、それでも、とってもよく似ているものね」
「味も似とる」
「似ているわね。わたしはどちらも大好きなの」
「うん。美味(うま)か。ね、オレンヂがお姉ちゃん、蜜柑が妹?」
「あら、それは素敵ね。オレンヂの方が大きいし、きっとそうよ。さっきから思っていたのだけど、潔子さん、あなた、鋭くてよ。とても賢いわ」
 華子は、手を叩いて喜んだ。キヨは頬を染めて俯いたが、内心では少し得意に思った。
 コツコツコツ。ノックが三度響き、ドアーが開く。
「華子、楽しそうだね」
 満面に笑みを湛えた、都路が大股にやってきた。
「ええ、お父様。とっても楽しいの。見て、わたし、全部食べたのよ」
「よかった。久しぶりに食が進んだね。――潔子ちゃんのお蔭だよ」
 キヨは照れてしまって、何も言えない。
「楽しいのは良いことだが、そろそろお開きにしよう。華子、さ、ビタミンを飲んで休みなさい」
「……はい、お父様」
 都路が、華子の背凭れ用に重ねてあるクッションを取り除ける。華子は素直に横になった。
「お水は、すぐに持ってくるからね。先に、潔子ちゃんを部屋まで送ってくるよ。さ、潔子ちゃん」
「潔子さん、今日は本当にありがとう。とっても楽しかったわ。明日からも、どうぞよろしくね」
 名残惜しそうに華子は言うと、手を差し伸べる。
 キヨはそれと察し、その手を掴む。先程のように力は込めず、華子と同じくらいにそっと握る。
「華子様……」
「潔子さん、おやすみなさい」
「さ、潔子ちゃん」
 都路がキヨの肩に手を回し、反転させる。
 少女二人の手が、離れた。



 案内されたキヨの部屋は、華子の部屋から、この二階で一番遠く離れた階段の脇だった。
 シンとした空気。
 少し肌寒かった。
 慣れない洋装を一人で解いて、寝台の上に用意してあった寝巻に着替える。作りはワンピースと同じだったので、さほど困らずに済んだ。
 身体は疲れていたが、床に就く気にはならなかった。
 今朝方からの出来事が、ぐるぐると頭を巡る。
 朝日が反射する我が家の天井、驚く程に大きな女、紅白粉、賑わう麓の町、汽笛、自動車、洋館、洋装の紳士、つるつる滑る白い風呂場、洋服、嘘のような鏡の中の自分、階段の端に溜まる綿埃――そして薄緑色の頬の、気の毒なお姫様。
 何故か母の顔だけは現れない。戸を閉める、引っ掻き傷の跡が目立つ、赤く荒れた手だけが繰り返し浮ぶ。
 幻視しつつ、同時に己の伸びた爪を眺めた。
 カーテンが開け放したままの窓から、強い月明かりが入り込んでいる。
 キヨは、それに引かれるように窓辺に立ち、華子のことに想いを馳せた。
 何も知らない、何もできない田舎娘であることの自覚くらい、幼いキヨにも、ちゃんとある。それなのに華子は受け入れてくれた。あの笑顔――芝居やキヨへの慰めではないことは、疑いようもない。
キヨの、我知らず握った拳。伸びた爪が、掌に食い込む。
 華子の側でよい友達、いっそ妹になろうと、キヨはその拳を薄い胸に当てて誓った。

 さすがに冷えてきた。キヨは、カーテンを閉めようと顔を上げる。
 ――何か動いた。
 裏庭に面したこの窓からは、館を囲む森をも見下ろすようになっている。キヨはそれと当たりを付け、庭と森の境目付近に目を凝らす。そこには、大人の胸程の高さの生垣がある。
 その向こうに、黒い馬がいた。
 満月の下(もと)、毛並みを光らせた美しい馬だ。
 途端、キヨの記憶が弾けた。
 ここに来る途中の森に佇(たたず)んでいた――あの馬だ!
 では、青年は。
 キヨは窓を開こうとしたが、それは嵌(は)め殺しだった。仕方なく硝子(ガラス)に額を押し付け、凝視する。
 馬の傍(かたわ)らから、ほの白い人間の顔が現れた。
 月光に照らされる、柔らかな輪郭。
 あの、青年だ。
 キヨがそこにいることなど先刻承知といったふうで、片頬で笑いながら、挑戦的な目付きをまともに寄越している。
 キヨは怖(お)じることなく見返した。
 青年は間違いなく不審な人物で、本来ならこれは至急都路に告げなければならない事態だ。
 しかし、キヨはそれをしなかった。思い付きもしなかった。
 月下(げっか)。
 その馬も青年も朧(おぼ)ろに輝き、まるで――お伽噺のようだったからだ。
 両目はしっかりと開いている、だけど夢の中の出来事だと思う……、キヨは、そんな矛盾した感覚に翻弄されていた。
 青年の髪は長く、耳を隠すようにして項(うなじ)で一つに束ねられていた。夜目にも際立つ、隈取られたように描線のはっきりとした両眼、皮肉そうな口元。身体によく合った漆黒の上着には、銀色の釦。
 黒い毛並みの馬と、黒づくめの青年。
 昼間といい、今といい、キヨとの邂逅(かいこう)に何らかの意味があることは間違いない。しかしキヨには、心当たりはなかった。
 その意味を考えることも、なかった。
 ただ、徒(いたずら)に見惚れていただけである。
 暫(しば)し見詰め合った後(のち)、現れたときとは逆をいき、青年はその身を隠し、青毛の馬も闇に溶けて消えた。

 

 翌朝からキヨは、一日の大半を華子と共に過ごした。
 八時に朝の挨拶をし、そのまま華子の部屋で朝食を摂る。都路が華子の勉強をみるときも、同席を許された。
「まず、そのお爪を切りましょうね。そういうのもお行儀のうちよ。わたしが切ってあげるわ」
「え、華子様、よかです……」
「ダメよ。そんなお爪じゃ、お顔を洗うときに、傷が付くかもしれなくってよ」
 最初の朝から、身分違いの少女二人は、まるで本物の姉妹のように身を寄せ合った。
「潔子さんは、少し、礼儀作法のお勉強をしたほうがいいわ。それと正しい言葉使いもね。読み書きも、わたしがみてあげるから、一緒に頑張りましょう」
 華子の提案で、キヨは生まれて初めて鉛筆というものを握ることになる。
 都路は最初反対したが、華子の勉強が終わってからという約束で事は通った。
「大丈夫よ、お父様。潔子さんに教えることは、わたしにとっても良いおさらいになるんですもの」
 ただ、昼食後からは二時間程、華子の部屋から遠ざけられる。お昼寝の時間なのよ、と、華子は言ったが、それだけではなく診察や治療が行われているらしいことを、キヨは察した。
 といっても、医者が来ることはなく、意外なことに如月がその代りを務めているらしい。相変わらず豪奢な形をしていたが、そのときだけは割烹着を着けていてるのが、どうにも滑稽だった。
「潔子ちゃん、ここの暮らしには慣れたかしら」
 華子の部屋から出てきたばかりの如月が、莞爾とする。綺麗だと思っていたはずの、べっとりとした紅が、このときはキヨの癇(かん)に障った。無言で頷いて、そのまま華子の元へと走る。
「はなこさま!」
 キヨは勢いよくドアーを開けると、そのまま寝台の脇まで走り込んだ。
「潔子さん、ごきげんよう」
 華子は、元気良く現れたキヨを優しく出迎えたが、直後、意味ありげに微笑んでじっと見つめた。 
「……あ、間違(まちご)た」
 キヨは、小さく叫ぶと、すかさず部屋を出る。
 コンコンコン。控え目なノックが三度。
「こんにちは、華子様。キヨコです」
「はい、どうぞ」
 華子も付き合い、済まし声で応えた。
 ドアーが開き、一礼してキヨが入ってくる。音を立てないようにそっと閉じると、ゆっくり歩いて華子の側へと来た。
「華子様、ごきげんよう」
「潔子さん、ごきげんよう……はい、よくできました」
 何とも不自然で、ぎくしゃくとした一連だったが、華子は真顔を通した。それがキヨには、とても嬉しかった。
 キヨは、午後からの逢瀬の時間に、華子から礼儀作法の手解きを受けていた。教材は、華子の持つ絵本。
 まだ華子が五つ六つの頃に愛読していた、少女が人形にエチケットを教え込むという、実に教育的な作りのものだ。それを使うことにより、キヨにとって簡単な読み書きの学びにもなる。
 キヨの飲み込みはとても良かった。言葉使いも、元々、母親との〈内緒事〉のこともあり、華子は早くも及第点を出したくらいだ。
 華子の先生振りもなかなかに優秀だったが、それに加えて普段より、敬愛する華子の喋り方や振る舞いを、キヨが真面目に観察していたことも大きいだろう。
「では、潔子さん。昨日のおさらいをしましょうね。何だったかしら、憶えてる?」
「はい。知らない人に親切にしていただいたときは、どうすればいいかです」
「そう。その通りよ、さすがだわ」
 褒められて、キヨは頬を染めながらも、最初の日の都路の言葉を思い出していた。
 華子は、学校に行ったことがないという。
 キヨもなかったが、理由が違った。
 
 華子の部屋の脇にある檻が何かも、すでにキヨは熟知していた。
 昇降機(エレベータ)だ。
 檻のように見えたのは、昇降機の扉。これが伸び縮みして、ドアーの役目をする。
 華子は自力歩行が難しい。階段の昇り降りなど、論外だ。なので、基本、この昇降機で階上階下への移動を行う。広い屋敷だが、風呂場は一階にしかない。
 キヨはこの昇降機に興味津々だったが、どうにも理屈が解らず、怖い気持ちが先にある。
 華子の入浴に付き従う為に、数度、キヨも共に使った。しかし、昇るときは腸(はらわた)が取り残されてしまうような、降りるときは反対に押し上げられるような、ズゥゥゥンとした感覚が不快で、どうにも面白がれない。外側から、移動する台を眺める方が好きだった。
 都路は一応、キヨ一人での使用をきつく禁じたが、言われるまでもないことだった。
 


 基本的にベッドから出ることのない華子でも、体調が特に良いときには、裏庭で日光浴をすることがあった。当然、あまり強い日差しには耐えられないので、それは午前中の早い時間に行われる。
「気持ちいいわね」
 お日様の光は、わたしの身体の滋養になるの、と、華子は都路が運んできた寝椅子に横たわり、心地よさげにキヨに話しかける。
 華子は事ある毎に、滋養、と口にする。キヨとの最初の食事のときに出た話題だが、都路も如月も、滋養と栄養は同じもので単に言い方が違うだけだと言った。
 ならば滋養の方が良い言葉だと、華子はキヨに告げた。
「滋養の滋って、慈しむに似てるもの。栄養の栄は栄えるって意味だけど、味気ない感じがすると思わない?」
 キヨには、華子が言うことの半分も理解できなかった。それは華子も察するところである。
「まだ潔子さんには早いけど、辞書っていう難しいご本があるの。もう少しお勉強が進んだら、見せてあげるわ。約束よ」
「わぁ、本当? 華子様、げんまんね」
「ええ。指きりげんまん……潔子さん、あなたは、ここにずっといてね。突然いなくなったりしないでね。約束よ」
「はい、華子様」 
 キヨはそれから、華子が滋養と口にする度(たび)、この約束を思い出すのだ。
 華子と並んで難しい本を読む為に、もっともっとよく学ばねばならないと決意を新たにする。
「ね、潔子さん」
 いつの間にか、キヨは物思いに耽(ふけ)っていた。
「は、はい! ごめんなさい、わたしぼんやりしてて」
 ううん、いいのよ、と、華子は頭を振る。
「ね、潔子さんは、お外でお友達と、たくさん遊んできたのでしょう? どんな遊びが好きなのかしら。わたしに教えてくださらない?」
「……はい、あの、えっと」
 実のところ、キヨは村に同じ年頃の女児がいなかったため、大勢で遊んだことはさほどなかった。引っ込み思案なところがあり、村の男児は総じて乱暴で意地悪だったのだ。
 部屋の中で一人遊びをするか、母にくっ付いて井戸端にいるか、畑を手伝うか、その程度のことしか知らない暮らしをしてきた。
華子は瞳をきらきらさせて、こちらを見つめている。日差しを映していたのかもしれないが、キヨにはそれがとても眩(まぶ)しい。
「ね、潔子さん。わたし、前にいたお友達から、隠れんぼって遊びを聞いたのよ。その前のお友達からは鬼ごっこ。どれもわたしには無理だけど、おままごとだけは遊べたわ」
 話の接ぎ穂のつもりなのだろうが。
 ――前にいたお友達。
 ――その前のお友達。
 ――おままごと。
 キヨは華子と、ままごとをしたことはない。
「華子様、前にいたお友達って」
 問い正すような調子が、声に交じった。
 たちまち自分の口調を恥じたが、それが少女らしい嫉妬(やきもち)のせいだと、悟る余裕はない。
 華子は、あら、と、口篭(くちご)もり、
「ごめんなさい。……お父様から、前のお友達のことは言ってはいけないって、注意されていたのに」
 極(き)まり悪げに目を伏せた。
 キヨも釣られて目を伏せて、気不味い空気が二人を包んだ。
 ――お父様から言ってはいけないって注意されていたのに。
 キヨは胸の中で、華子の言葉を繰り返す。
 そのお友達は、何処へ行ったのか。
 ひょっとしたら奉公には期間が決められていて、皆、家へと戻ったのか。それとも――キヨは考えを巡らせる。
 自分は――どうなるのか。
 ずっと、ここに、華子の傍に置いてもらえるのだろうか。
 明朗な空の下に相応しくない、どんよりとした雰囲気。
 それを破ろうと言葉を探し始めていたキヨは、つと腸が取り残されてしまうような、あの昇降機のズゥゥゥンとした感覚に襲われた。
 寝椅子から飛び起きるように半身を起こした華子が、まん丸く目を開いて凝視している。
 キヨの身体は、中空にあった。
 眼下の華子が、見る見る色を無くしていく。
 逃れようとして、キヨは胴に巻き付く細長いものを認めた。
 人間の、腕だ。
 首を捻じ曲げて、振り仰ぐ。
「――あっ」
 あの、
 あの、黒い馬と共にいた、
 あの、黒い馬と共にいた黒衣の青年が、キヨを小脇に抱えていた。
 青年は片頬で笑い、顔にかかる長い前髪を、唇を尖らせてふうっと吹き上げた。くっきりとした輪郭の目が、しっかりとキヨを捉えている。
「き、潔子さん」
 華子は、やっとそれだけ言った。
「はなこさま、」
 助けて、と、言う間もあらばこそ、キヨの視界は反転し、激しくぶれた。
 青年が駆け出したのだ。
「お、お父様! 如月さん! 誰か」
 喉も裂けよと叫んだ華子は、やがて寝椅子に倒れ込む。
 娘の悲鳴を聞きつけた都路が、屋敷から飛び出してきた。
「華子、華子! どうしたんだ。――あの子は……あの子はいないのか? 何処に行ったんだ」
 呼吸を乱した華子は、上手く喋ることができない。顔色(がんしょく)は紙のように真っ白だ。娘の頬に触れた都路は、その冷たさに動揺し、懸命に伸べようとする彼女の指先に、気付かない。
 如月は、少し遅れてやって来た。息荒く震えている華子が弱弱しく人差し指で差している、裏庭を越えた向こうの森に目を凝らす。何かを察したのか、チッと舌打ち。
 そして、都路に向かって早口に話しかける。
都路の背に緊張が走る。
言うだけ言ってしまうと、如月はその場を立ち去った。
 都路は華子を抱く手に力を込めて、ただ一度、強く頷いた。

   

「何(なん)ばするとね!」
 腕ごと胴を抱え込まれたキヨは、頭と足とを精一杯ばたつかせて抵抗した。髪を振り乱し、上体を揺すり抜け出ようともがくが、青年の腕はびくともしない。
「助けて、華子さま!」
 自力ではろくに歩くこともできない、華子を呼んで何になろう。承知のことながら、キヨはその名を叫ぶ。
「だから、助けてやってるんじゃないか」
 キヨの頭上から、不機嫌そうな声が降ってきた。ハッと、キヨは上を向く。
「詳しい話は後だ。急がないと」
「いやばい! 華子様ンとこに帰(かえ)さんね」
「静かにしてくれ。ナナオは、うるさいのが嫌いなんだ」
 青年は空いている方の手の、人差し指と中指を真っ直ぐに立て、唇に押し当てた。
甲高い音が、鬱蒼とした森に響き渡る。
 指笛だ。
 そして一声、大きく叫ぶ。
「ナナオ!」
途端、ザザザと下生えを踏みしだく音。
 ヒンと軽く嘶(いな)きつつ、真っ黒い姿の良い馬が、ぬぅと現れた。
「よし、いい子だ」
 青年は愛馬を撫でて労(ねぎら)うと、キヨを抱えたまま片手に体重を預け、ひらりとその背に飛び乗った。
 鐙(あぶみ)や鞍どころか手綱(たづな)すら着けていない、完全な裸馬。
「暴れるなよ。落ちたら怪我(けが)をするからな」
 そしてキヨを膝の上に座らせる。
 ――高い。
 キヨは、思わず青年の胸にしがみ付く。
「そうだな、そうやって捕まっているといい、……ナナオ、進め」
 青年が呼ばわり、軽く頸(くび)辺りを叩くと、青毛の馬は歩き始めた。
「森に隠れながらの方が都合がいいけど、時間が掛かり過ぎるからな。途中で道に出て、走る。できるだけ早く、安全なところに連れて行ってやるよ」
「いや、いやばい、いや! 華子様ンとこに帰さんね」
「こら、バカ、暴れるなと言っただろう」
 青年は、キヨを支える腕に力を込める。
「安全なところに着いたら、全部話してやる。とにかく一刻でも早くここを離れよう」
「いや、いや、いやて言いよろがッ。助けて」
「……だから、助けてるんだ」
 意味の通らぬ言葉の訳を、問い質す術がキヨにはない。少女の嘆きも虚しく、ナナオの規則正しい足並みに、運ばれて行くのであった。 
 
「もう道に出るぞ。ここから先は、地面が柔らかすぎるからな」
 青年の黒い上着を掴んだまま、キヨは前方に目を遣った。泣き疲れ、叫び疲れて、その口からは嗚咽が漏れるだけだった。
 木々の隙間が大きく口を開けている場所を、青年は示す。その部分に生えた草が、軒並み押し潰されたようになっていた。
 きっと何度も、青年と馬はここを通り抜けたに違いない。
 ――ふと、ここは青年と馬を最初に見た、あの場所ではないかとキヨは心付く。
「お腹が空いただろう。もう少し我慢――うわッ?」
 突然、青年が頓狂な声を上げた。
 前方を注視していたキヨも、大口を開ける。
 ドグアッという、かつて聞いたことのない音。四角い大きな何かが木々をかすめ、出口たる間隙を塞ぐ。
 ヒヒーン!
 キヨの耳元で、脳天に突き刺さるような、鋭い嘶(いなな)き。
 耳を塞ぐ間などない。ぐぅんと身体が持ち上がった。またも昇降機を思い出し、キヨは固く目を閉じた。
 驚いたナナオが、後ろ足で棒立ちになったのだ。
 ずり落ちそうになるのを、青年の腕がかろうじて留め――いや、その土台たる彼も姿勢を崩し、ぐらり。
 今度こそ、キヨは身体が空中に放り出されるのを感じた。
 一回転。
 次に来るだろう衝撃を、覚悟する。
 だが、
 トン、
 という、軽い振動がきただけだ。
 安堵。顎の力が抜け、ハッと息を吐く。
 恐る恐る目を開けると、視界は真っ黒だった。少し頭を引く。銀色の丸いものが見えた。先(せん)の、夜空に浮かぶ満月を、キヨは想った。
 あの青年の上着だと、理解するのに数瞬掛かかる。改めて、彼の片腕にしっかりと抱きかかえられていることに、キヨは気付いた。
「――やあ、相変わらず派手好きだな」
 青年が、口火を切った。
 その声音の冷たいことよ。
「アタシによく似合うでしょ」
 ホホホという馴染みの嬌声に、キヨはガバと振り返る。
 そこには――豪奢な成りの大女(おおおんな)。
「如月さん!」
 如月は、キヨを華子の元へと連れてきたあの日と同じ、青みがかった白い着物を着ていた。
「ふん、車の運転もできたのか」
 突っ込んできたのは、自動車だった。キヨを乗せてきた、あの――。
「運転手は、いつも居るわけじゃないのよ。どうせナナオと一緒だろうし、森ン中をずっと行くのは無理だってことは読めたわ。ここらはアタシも詳しいのよ。出てくるなら、まずここだろうってね。挨拶代わりに、驚かせようって思ったんだけど、ちょっとやりすぎたかしら」
「お転婆なんだな」
 青年のその言葉に、如月は、あらイヤだと袂(たもと)を振って莞爾とした。
「知ってるか。お転婆ってな、転ぶ婆ァって書くんだよ」
 青年が片頬で笑い返す。
 如月の顔から、拭ったように笑みが消えた。
 青年は続ける。
「――今度こそ。二度と起き上がれないようにしてやる」
「…………」
 如月の、紅で彩られている唇が醜く歪み、
「人の馬ァ、盗んでおいてよく言うよ」
 と、憎々しげに吐き捨てる。
 そして、初めてキヨを見付けたかのように、さも痛々しげな表情(かお)を作った。
「可哀そうに、潔子ちゃん。今すぐ助けてあげましょうね」
「馬鹿言うな! 助けるのはこっちの仕事だ」
 青年の空いている方の腕が、サッと空を切る。
 白い輝きが、一直線。
 如月は袂を振り上げる。
 輝きは打たれ、羊歯(しだ)の生い茂る地面に落ちた。
 その正体は、銀色のナイフ。
「――ふん、まだあるぞ」
 如月を睨み付けたまま、青年は上着の裾に手を差し入れる。
「おお、怖い。いったい何本仕込んでるのやら――ねぇ、潔子ちゃん、華子様が大変なの。潔子ちゃんが攫われたショックで、ご病気が悪くなったの。お可哀そうに、床に就かれてうんうん唸っているのよ」
 華子様!
 キヨは、ありありと思い出す。
 目を見開き、悲鳴をあげる華子を。
 薄緑色に浮腫(むく)んだ顔が、一気に血の気を失う様を。
 ――指切りげんまん。
 側にいると約束したのに。
 途端、キヨの心に青年への怒りが滾(たぎ)り、爆(は)ぜた。
「バカァ!」
 癇癪と共に振り回した拳が、彼の喉の急所に当たる。
「ぐっ」
 黒衣の青年の腕が緩んだ。キヨは思い切って飛び降りる。少し遅れて、青年の手からナイフが滑り落ち、地面に刺さった。
 青年はキヨに対して、全く警戒していなかったこともあり、受け身を取ることもできずに頽(くずお)れる。
 逃れ出たキヨは、如月に向かって走った。
「ホホホホホ、愚かねぇ」
 高らかに笑い、如月はキヨを抱きとめる。
「自惚れもほどほどにしないと、身を滅ぼすわよ。仲良しのナナオちゃんも、さっさと逃げてしまったじゃないの」
 喉を抑え震えている青年を、如月が見下ろす。言葉通り、ナナオの姿はない。キヨは記憶を巡らせる。青年の愛馬が棒立ちになり――それからどうなったかを知らないということに、改めて気付いた。
「……う、う」
 絞り出すような呻きを漏らし、起き上がろうと一度は上体を起こしたが叶わず、青年は地面へと倒れ伏す。一度、二度、大きく痙攣すると、動かなくなった。
「潔子ちゃん、お手柄ね。見事に悪者を退治したわ」
 ホホホホホホ!
 如月は袂を振り乱し、仰け反って放笑する。
 キヨは――故意ではなかったとはいえ、この成り行きが恐ろしくなった。
「……如月さん」
「潔子ちゃん、いい子だから自動車に乗って待ってて頂戴。私は、ちょっと一仕事するわ」
 キヨは頷き、車へと向かう。
 背後から、如月の乱暴な口舌(くぜつ)が聞こえる。
 何やら柔らかいものを蹴り上げるような、また、それが地面へと落ちる音。
 自動車は酷い有様だった。木に衝突した前面はへこみ、左側のライトが割れている。その木も、根本が盛り上がり、直(じき)に倒れてしまいそうだった。
 華子の元に来たときと同じ、後部座席に腰掛ける。
 暫くの後(のち)。
 コンコンと、窓硝子を叩く音に顔を上げた。如月だ。
「あら、潔子ちゃん、そこは駄目よ。前に、私の隣においでなさい」
 と、助手席を指し示す。
 言われた通り、そちらへと身を移す。
「そう、いい子ね。――潔子ちゃん、これからね、車を降りてしまうまで、決して後ろを振り向いては駄目よ。約束できる?」
 如月が、ニィと唇を広げて、キヨへと顔を寄せた。紅が滲み、唇から流れ出た血管のように、生白い生地に細い模様を作っている。その生地を拵えている白粉も、汗で斑(まだら)になり、皮膚一面に細かな皺が走っていた。
 いつも……如月のことは優しくて綺麗だと、キヨは信じていた。しかし、それが――何だか、とても大きな間違いのように思えて――。
「ねェ、ちょっと、潔子ちゃん、約束できるの? できないの?」
 如月が、癇性な声を上げた。
「は、はい、ごめんなさい、約束します」
 慌てて、キヨは返事をする。
「そう、いい子ね。じゃ、今からね。決して振り返るんじゃないよ。そうだねェ、頭を下げてじっとしてな」
「はいっ」
 キヨは背を丸め、頭を胸まで下げて、目も閉じた。
 後部座席のドアーを開ける音。
 うん、よいしょ、ちくしょう――続く、ドサッという乱暴な音。
 バン! と、ドアーを叩き付けて閉める音。
 耳も塞いでいればよかった……、キヨは泣きそうになっていた。
 華子様!
 華子様!
 華子様!
 大事な人の名を繰り返し心で唱え、ただそれだけで――頭をいっぱいにしてしまえればと、願った。
 何か、
 何か、
 何か、間違っていた!
 そして――それを正す最後の機会が消えてしまった。
 消してしまったのだ。
 消したのは、他ならぬ自分――なのだと、キヨは愕然となる。
「さぁ、華子様の元へ戻りましょうね」
 如月が、運転席へと収まった。今更の猫撫で声。汗と白粉の混じった、不潔な臭いが車内に充満した。
 
  
 
 玄関前で如月と別れ、キヨは華子の部屋へと一目散に馳せる。
 如月がこれから何をするのか……後部座席に積んだものをどうするのかは、考えまい。
 これから自分が考えるのは、想うのは華子のことだけだと叩き込むように、拳骨で心臓の辺りを殴りつけた。
「はなこさま!」
 礼儀も忘れ、部屋へ飛び込む。
「……潔子ちゃん」
 寝台の脇にしゃがんでいた、都路が腰を上げる。
「華子様は――」
「……」
 都路の両目は、真っ赤だった。
「――きよ、こ……さ」
 細い応(いら)え。
 都路が、さっと寝台に屈み込む。
「華子、気が付いたのかい」
「華子様」
 キヨも都路の隣に並び、膝を付く。
 白い枕に埋もれるように、華子は仰向けになっていた。その顔は寝具よりも白い。
 薄い眉根を寄せ、華子の瞼は閉じられている。
 と、それが軽く引き攣り、ゆるゆると引き上げられた。
「……きよこさん、おかえり、なさい」
「はなこさま――」
 キヨの様子を認め、華子の浮腫んだ目尻が震える。微笑(びしょう)だと、キヨには通じた。
 掛布団の中から、ゆっくり、ゆっくり、蒼白な手が這い出てくる。キヨは両手で、それを包み込む。
 華子の瞳が大きく揺れた。そして、安堵の光に満たされる。キヨの涙を堪えた瞳にも、同じ光。
 二人は無言のまま見つめ合い、お互いの心を交わした。
 ――沈黙。
 破ったのは、都路だった。
「華子、もう安心しただろう。さ、おやすみ」
「……はい、お父様。潔子さん、きっと、わたしの、もとにいて、ね」
「はい、華子様……、はい」
 華子の目尻が緩む。今度は傍目(はため)にも微笑だと判った。そのまま、キヨと手を繋いだまま目を閉じる。
「……もう、ね、誰も……わたしの側から、いなくなるのは――いや――」 
 すぐに小さな寝息。弱り切っているのだろう。華子の呼吸は浅い。
 それを打ち消すように、唐突に都路がキヨに問いかけた。
「――潔子ちゃん、華子のことが好きかい」
「え、」
 都路の真摯な――真摯すぎる声音。内容も、場違いなものに思えた。忘れていた違和感が、ざわざわとキヨの胸に蘇る。
「華子のことが好きかい」
 再度、繰り返される。
「はい。華子様は誰よりも大切なお友達……いいえ、お姉さまです」
 身分違いは承知していた。失礼も弁(わきま)えていた。それでも、都路の様子にただならぬものを見たキヨは、正直に自らの誓いを告げた。
 告げてしまった。
「そうか」
 都路は、穏やかに続ける。
「じゃあ、潔子ちゃん。華子の為なら、何でもするかい。華子の病気を治す為に潔子ちゃんが必要なんだよ」
 泣き腫らしたせいなのか、それとも別の理由があるのか、都路の眼球は恐ろしい程に充血していた。白目の部分が余りにも赤くて、黒目との境が曖昧だ。
 それは、まるで――虚(うろ)。
「はい。華子様が元気になるのなら、わたし、何でもします」
 キヨは、きっぱりと答えた。
 穏やかだった華子の寝顔が、そのとき、歪む。乾いた唇が微かに動き――だが、それは――それだけで終わってしまった。
「よく言ってくれた、潔子ちゃん」
 都路の下瞼が、くぅっと曲線を象(かたど)った。黒い程に赤い目玉から、血の涙が滴り落ちそうな錯覚を生む。
 キヨは、またも自分が取り返しのつかないことをしでかしたような気持ちになるが、もう、どうしようもなかった。
「潔子ちゃん。――さ、華子を助けておくれ」
 都路の分厚い掌がキヨの肩を掴み、ぐるりと反転させる。
 ――繋いでいた、少女二人の手が、離された。
 


 どうしても母の顔を思い出すことができない。
 キヨは、村を出てから一度も、母の顔を瞼に浮かべたことはなかった。浮かべることができないのだ。
 戸を閉める、引っ掻き傷の跡が目立つ、荒れた赤い手。
 別れを惜しむどころか、手放すのが当然だといわんばかりの口調。
 一人になると、それだけが思い出されてならなかった。
 華子のことを想い、華子の名を呟くことで、それから逃れようとしていた。
 いつしかそれは努力ではなくなり――。
 いつしか華子は大切な人になっていた。

「いや、離して! 離してください!」
 地下室。
 窓ひとつない、黄色い電燈が灯るその部屋に、悲痛な叫びが響き渡る。キヨだ。
「潔子ちゃん、君は華子のことが好きだと言ったじゃないか。華子の為なら何でもすると、言ったじゃないか」
「言いました、でも、」
「でもじゃない! 華子の病気には、子供の生肝(いきぎも)が一番の薬なんだ。如月さんが教えてくれた。あの人はもう何人も、華子と同じ病気の子供を治してきたそうだ。だから間違いないんだよ」
「でも、でも死ぬのはいやです!」
「大丈夫、肝を取るまでは殺さないよ。生肝じゃないと薬にはならないんだからね」
「いやあ!」
 キヨは自分を掴んでいる、都路の手を引っ掻いた。その爪は短い。三日に一回、華子はキヨの爪を切る。
「あ、こいつめ!」
 哀れ、キヨは都路に突き倒され、冷たい混凝土(コンクリート)の床に投げ出された。
 鼻の奥に刺さるような異臭。鼻血が出たのかと思ったが、違う。
 どうやら、これは床から臭ってくるようだ。よく見れば、一面に、どす黒い染みが広がっている。
「如月さんが上手くやってくれるから、大丈夫だよ。きっとそんなに痛くないよ。あの人は名手なんだ」
「いやです、やめて、都路様、」
「君は嘘つきなのかッ、ええ?」
 キヨの言葉を遮り、都路は足を踏み鳴らす。
「いいえ、いいえ……そんなこと、ありません」
 健気にもキヨは、この場においても華子への気持ちを諦めることはない。
 都路の大きな足が、床に乱れたキヨの髪をガツガツとにじる。鼻先からは、ほんの三寸も離れていない。
 キィ。
 扉が開き、パタパタという草履の足音。
「すっかりお待たせしたわ」
 床の異臭と、汗と白粉の混じった不潔な臭いが交わった。
「如月さん、遅かったじゃないか」
 都路は地団太を止める。その口調には、甘えているような含意があった。
 如月は乱れた髪を整えるような仕草を見せ、態とらしく襟元を掻き合せる。
「ホホホホ、ちょっとごたごたをね、もう一安心よ……あら、何で服を脱がせてないのよ」
 如月は、床に横たわるキヨを見るなり、都路を詰(なじ)る。
「だって、この子、暴れるんだ。酷いもんだよ、まるで山猿だ」
 手の甲に浮かぶ蚯蚓腫(みみずば)れを示しながら、都路は鼻声で口答えをする。
「暴れるったって、たかが知れてるだろう。何だい、その図体で。その服は次の子にも使うんだ。汚してもらっちゃ困るんだよ。ほら、いいから早く台に乗せな」
「ごめんよ、ちゃんとやるから、そんなに叱らないでおくれよ」
 都路は肩を竦(すく)めると、キヨを部屋の中央にある金属でできた長方形の台に持ち上げ、腰掛させた。
「――っ」
 キヨの太腿(ふともも)に、痛みに似た感覚。床も大概冷えていたが、台の上は、更に、氷のようだ。
 その台は滑らかな金属でできていた。形は卓(テーブル)だが、それとして使うには、いささか大きすぎるし、高さもあった。
 キヨは不安な思いで、辺りを見回す。
 ――妙なものがあった。
 突起だ。
 台と同じ金属製で、半円形をしている。
 目線をずらす。
 反対側の端にも、同じものが。
 首を巡らす。
 やはり同じものが。
 四方に一つづつ、それがある。
「何してるんだい、足だけ嵌(は)めるんだよ。バンザイさせて脱がせりゃいいんだからさ」
 キヨは悟った。
 その突起は――枷だ!
「わ、こら、暴れるな」
「いやああああああああああ!」
 キヨの口から、渾身(こんしん)の悲鳴。
「黙れ黙れ、は、華子に聞こえてしまう。――ねぇ、如月さん、手伝っておくれよぅ」
「あー、もう、ほんッとうに役立たずだね、お前は」
 如月が歩み寄ってきた、そのとき。
 フッと、電灯が消えた。
「ああっ?」
 都路の間抜けな声が、暗闇に溶ける。
「いちいち情けないね、停電だよ。何だい、こんなときに。……蝋燭があったろう?」
「ここにはないよ。居間の方にしか」
「あー、もう! 気が利かないったら、ありャあしない」
 甲高い悪態と共に、パタパタと草履の足音が遠ざかる。キィと扉の音、空気の動くぶわっとした気配。如月は、そのまま階段を昇っていったようだった。軋みは一回のみ。
 どうやら、扉は開け放しのままらしい。
「ああ、弱ったぞ。如月さんを怒らせてしまった。これじゃ、華子が助からないかもしれない」
 嘆く都路。衣擦れの音。またも手足をばたつかせているのだろうか。
 キヨは、この隙に逃げるべきか逡巡した。
 ――華子様を、助けたい。
 それは本心だった。
 生肝を取られるのは、もちろん嫌だ。
 痛いに決まっているし、怖いし、何より、自分は死んでしまう。
――きっと、わたしの側にいてね。
 自分の死を華子が望むわけはないと、キヨは信じる。
 だが――生肝を薬として、華子が健康になれるのが本当だとしたら。
 友達なら、替えは利く。
 薬なら……?
 キヨは、小さく頭を振った。
――指切りげんまん。
 華子がそれを望むわけはないと、キヨは信じる。
 都路は、何やらブツブツと繰り言を呟いている。
 逃げるなら、今だ。
 尻を浮かせる。
 突然、湿った土の匂い。
「――ひっ」
 温かく平たいものに口元を覆われ、キヨは息を飲む。
「シッ」
 キヨの耳元に、軽い吐息と、
「静かに。――助けに来たぞ」
 黒衣の青年の囁き声が。
 
 キヨは青年と並んで、扉の影にしゃがんでいた。狭い階段で出くわすと不味い。隠れて、やり過ごしたほうがいいとの、彼の案だった。
 行きよりも荒々しい足音が、ぼやぼやとした灯りと共に近付いてくる。
 何も知らないまま、独り言を続けていた都路が、口を噤んだ。
「ほら、持ってきたよ。足枷ぐらい嵌めたんだろうね」
 無言のまま、そっとその背を押すことで、青年はキヨを促した。二人は、苛々と入口を潜ってきた如月の背後を、這うようにして通り抜ける。
「眩しいよ、如月さん」
 闇の只中にいた都路には、蝋燭の光は強い。反射的に眼の前に手をかざす。
「――ちょ、ちょっと! あの子はどこだいッ」
 如月の金切り声。
「走るんだ」
 青年がキヨを促した。
 始末の悪い如月は、階段の先の扉も開け放ったままだ。行く手には、四角く切り取られたように、光。
 そこを潜り抜け玄関へ――と、こっちだと青年がキヨの手を引く。
「二階へ」
「二階?」
 それは、追い詰められたら逃げ場がないのではないかと、幼い胸にも疑問が浮かぶ。しかし青年は、キヨを引き摺るようにして階段を駆け上がる。
 この先には華子の部屋がある。
 ――華子様!
 もしかして、と、キヨは胸をときめかす。
 彼は華子も連れ出し、キヨと一緒に逃がしてくれようとしているのではないかと。
「待てェ!」
 如月の怒号。
 だが、青年を認めた彼女は、激しく狼狽した。
「アンタ、どうやって――?」
「あの程度の縄で、どうして敵を放置できるのか疑問だぞ。見ろ、お蔭さんで、こうしてここにいるじゃないか」
 青年はキヨを庇いながら、踊り場で足を止めた。
「相変わらず、ツメが甘いな。そもそもナイフで一突きにしておけば、済んだことだ。ふん、ひょっとしてお前、何か含みでもあるのか」
 そして振り返りざま、如月に向かって銀色に光るものを投げ下ろす。
「!」
 素早く袂で顔を庇いつつ、如月は身を躱した。
「何だ? ――ナイフは全部取り上げたのに」
 その間に、二階へと。
 明り取りの窓から差す陽の光が、青年を照らす。彼の黒い上着は……、上着だけではなく、その全身は泥に塗れていた。
 青年は、ここに隠れているんだ――と、キヨをバルコニーの陰に座らせる。
 その先の廊下は停電のせいで、真っ暗だ。鎧戸は、余程しっかりとした造りとみえる。
「お前、頭悪いな。投げられるのはナイフだけだなんて、どうして思えるんだ?」
 うんざりした口調で叫び返すと、如月に向かい堂々と姿を曝(さら)す。
「これ、見てください。釦(ぼたん)ですよ」
 忠義面をした都路が、足元のそれを拾い、如月に差し出した。
 汗ばんだ分厚い肉の中心で、銀色に輝くそれは――黒衣の青年の上着の釦。
 たかが釦!
 如月は、己に飛んできたものを刃物だと信じ、あのように狼狽(うろた)えた様(ざま)を晒したことに赤面する。
「ホ、ホホホ、味をやるわねェ」
 やっとそれだけ言うと、まだ同じ姿勢で顔色を窺(うかが)っている都路の手から、袂で釦を叩き落とした。
「知っていたはずだろう? ふん、それとも、もう忘れたのか。やっぱり頭が悪いな」
「忘れるもんか! アンタも、あいつらのことも、片時だって忘れたこたァないさ。よりにも寄って死産だなんて、大嘘つき奴(め)らが。よくも人の子供取り上げて、売り飛ばした金で――あげく、アンタに至っては人の馬ァ、盗んで手懐けやがって。次から次へと邪魔ばかり」
「ナナオなら、お前が置き去りにしていったんじゃないか。それに何度も言うが、お前の子供のことなら……何も――知らなかった」
 青年は、ここで少し哀しいような情けないような、微妙な表情を浮かべる。
「――お前の子供のことは、本当に気の毒だ。お前の家も、酷かった。一度は放り出したくせに、結局跡取りだの何だの……。家だけじゃない。あいつらだって、散々家族だ家族だ言っておいてやることはいつも」
「はん! アンタもアレだったもんねェ。被害者面でもしてみるかい? それとも偉そうに説教かい?」
 如月は袂を引き絞り、歯噛みした。
「……ふん、説教の方が趣味に合うな」
 青年は、挑戦的な目付きを取り戻す。
「お前が気の毒な目に遭ったことは、間違いない。だけど、それがどうして――こんなことをしでかしても、いいってことになるんだ」
 キヨはそのやりとりを覗き見ながら、次第にじりじりとした気持ちになっていった。こうしている暇に、華子の元へと向かいたい。差し迫った危機が去ったような今、華子のことが心配で堪らなくなっていた。
 この騒動は、華子の耳に届いているのだろうか。
 いっそ、一人で華子の部屋へ――。
 ほんの十間(じっけん)もない。一駆けで辿り着く。
 キヨが腰を浮かせた、そのとき。
「何人目だ」
 青年が、ぽつりと言った。
 声を張ったわけでもないのに、その問いは響いた。
 キヨは動きを止める。青年を注視した。
「何がさ」
 如月は階下より、青年を睨(ね)めつける。
「言わなきゃ判らないのか。本当に頭が悪いな。この子で何人目かって訊いているんだ」
「あーあ、お薬のこと?」
 調子を取り戻してきたのか、如月は胸を反らす。
「お生憎様(あいにくさま)。アンタもご存知のとおり、アタマが悪いもんでね。何人かなんて憶えてやしないよ」
 そして、ぞっとするような笑みを添えて続けた。
「いくらになったかは憶えてるけ」
 青年は腕を振りかぶる。
 一閃!
 如月は仰け反った。
「……あ、あ」
 ころりと転がったのは、またも銀色の釦。
 如月は、よろよろと膝を付く。
 額を覆った指の隙間から、とろとろと赤いものが流れ出る。
「お前の血でも赤いのか」
 青年の声に、ハッと、如月は己の掌を確かめた。
「――ああッ! う、あ、」
 舌を縺(もつ)れさせ、掌と青年とを何度も交互に見遣る。
「その様子だと、かなり広く裂けたな。――跡が残るぞ」
「顔、かお、かおが、アタシの顔が」
 如月は、恐慌に陥った。白く塗られた顔面は、徐々に赤く塗り替えられていく。
「ナイフじゃなくてよかったな!」
 青年は片頬で嗤(わら)う。
「ボクは、お前のような捻(ひね)くれきった女が、大ッ嫌いなんだ」
 ――と、
 キヨは視界に違和感を覚える。
 目の端が明るい。
 いつの間に、電灯が点いたのか。
しかし、キヨはそのことよりも、激昂する青年の方に気を取られた。
「教えてやるよ。お前は自分で思っている程、美しくなんかないぞ!」
 青年が、蹲(うずくま)る如月に追い討ちをかける。
「自惚れもほどほどにしないと、身を滅ぼす――か。あの言葉、そっくりそのままお前に返してやる」 
 カチリという硬質な音がした。青年は気付いた様子はない。
 キヨだけが振り返った。
 都路が何かを構え、仁王立ちをしていた。
「危(あぶ)なか!」
 キヨは叫ぶ。
 同時に、耳を劈(つんざ)く音。
 とっさに横っ飛びをした青年の髪が、ザッとばらける。括っていた麻紐が切れ、隠されていたその耳が顕になる。
 キヨは見た。
 いったい、どんな目に遭えばあんな傷ができるのだろう。
 青年の耳には、汽車の切符のような切れ込みがいくつも刻まれ、耳朶(みみたぶ)は半分から下がなかった。
 青年は、廊下の奥に向き直る。
 都路は、先程までの崩れ方が嘘のように、普段通りの威厳を取り戻し、両手でピストルを構えている。
「いつの間に」
 青年が、心(しん)から驚き、問いかける。
 都路は無言で、銃口を擬する。
 カチリという、音。
 青年は、キヨの前に出ようと身体を倒す。
 ――キヨの動きが早かった。
「お、おい、こら、」
 面食らった青年が、慌てて手を伸ばす。
 届かない。
 都路が構えを改め、キヨに直る。
 キヨは止まらない。
 疾駆。
 爆音。
 キヨは都路へと跳びかかり、その太鼓腹目掛けて怒らせた肩を突っ込んだ。
 どぉんと、派手な振動。
 都路は、見事、大の字に打ち倒された。
「……うぅ」
 ガクリと顎を上げ、目を閉じる。
「こら、おい、」
「――えへ」
 青年に抱き起こされたキヨは、照れ隠しに舌を出す。
「全く……、ほら、見ろ」
「――あ」
 青年が指し示したのは、丁度キヨが踏み切った辺りの床板だった。銃弾がめり込んでいる。
「危なかったな。――それはそうと、どうしてこいつはここにいるんだ?」
「あ、そうか」
 キヨは手を打った。
「奥に、華子様の昇降機(エレベーター)があると」
 青年が、溜め息をついた。
「……そういうことは、早く教えてくれ」
「忘れとった」
 ごめんなさいと、キヨは頭を下げる。
 床の上の都路と目が合った。
「!」
 キヨは、反射的に後退(あとずさ)る。
 状況を察した青年が、キヨを横抱きにした。
 真横にあるドアーノブを回す。開いた。
 青年は素早く逃げ込むと鍵を掛け、キヨを下ろし、窓辺へと向かう。
「何てことだ」
 窓は嵌め殺し。
 ここは、キヨに宛てがわれた部屋だった。
 青年は、外に向かい目を凝らす。
 ノブが、ガチャガチャと鳴った。
 キヨは、青年の傍に走る。
 ダンッ、ダンッ。ドアーが揺らいだ。体当たりだ。
 そして、またあのカチリという音。
「伏せろ!」
 青年がキヨの上に覆い被さる。
 轟音。
 青年の腕の隙間から、恐る恐るキヨは入り口を見る。ノブ横に弾孔が開いていた。
「マズい」
 俊敏に起き上がると、青年は椅子を掴んで振り上げ、窓に叩き付ける。
「伏せてろ!」
 硝子が砕けた。同時に、また轟音。
 木片が四散し、大きく穿(うが)たれた穴から都路の分厚い掌が、にじにじと這い出る。
 キヨは、それを見てしまう。
 笛のような声が、喉から迸った。
 太い指が鍵を探り当てたところで、キヨの身体が浮き上がり、視界が回転した。
 青年が、再びキヨを抱き上げたのだ。
「しっかり捕まってろ、絶対に離すなよ」
 言われたとおり、キヨは、力の限り青年の胸にしがみ付く。
 青年は空いた方の手の、人差し指と中指を真っ直ぐに立て、唇に押し当てた。
ピーという甲高い音が、辺り一面響き渡る。
「ナナオ!」
 破った窓から、青年は絶叫した。
 ナナオ――って、お馬さん、と、キヨは首を巡らせ、外を見る。
 ――チキ、
 金属の擦れる音。
 太い指が、鍵を開けた。
 キヨは青年を仰ぐ。
 青年は、真っ直ぐに、森のある一点を見詰めていた。
 片頬で笑って。挑戦的な眼差しで。
 そして、彼は窓枠の上に片足を掛ける。
 刹那。
 垣根から裏庭へと、黒い大きな影がサッと躍り込んできた。
 ドアーが開く。
 青年が、窓枠を蹴った。
 キヨは青年の肩越しに、銃口をこちらへと向ける都路を認めた。――が、それは上方へと流れ――落ちる――、キヨは目を閉じた。
 ガクンと衝撃。昇降機など比ではない。
 青年は、一旦、庇(ひさし)に着地すると、そこから軽く飛び上がり、とんぼを切った。
 再度、衝撃。
 一瞬の間(ま)の後(のち)、軽い、覚えのある振動。
「ナナオ、上出来だ」
 青年の声に、キヨは目を開ける。
二人の身体は、青毛の馬の背にあった。
 立ち止まることなく、ナナオは現れたと同じ森の中へと駆け戻る。

 木々の隙間を縫い、ナナオは早足で進む。
「人を乗せてないナナオなら、この程度の森は摺り抜けて、助走を付けることくらいできるんだ」
 青年が、キヨに語りかける。
「ナナオは利口だからな。あのときだってボクを置いて逃げたわけじゃないぞ。様子を伺って、ちゃんと後を付けたんだ」
 こういうことは初めてでもないし、と、青年は愛馬の首筋を優しく撫でた。
「よし、ナナオ、止まれ。……ほら、判るか?」
 青年の指差す先。
 屋敷の、あの仰々しい門があった。
「ここって……」
「ああ、ぐるっと回ってきたんだ。ふん、お巡りさん達がいるぞ。もう大丈夫だ」
 玄関は開け放たれ、その前に見慣れない自動車が三台停まっていた。
 背広を着た肩幅の広い男が腕を振り回し、何やら怒鳴っている。それに合わせて、制服を着た警官達が右往左往していた。
「あ」
 腰縄を掛けられた都路が、姿を見せた。両脇を警官で固められて、自動車に乗せられる。そのすぐ後に、顔のほとんどを布で覆った如月が現れ、これは別の車に乗せられた。
 キヨは、ふと、青年と如月の旧知の仲であったかのような言動を思い出す。しかし、そのことを口に出してはいけないような――何とも言えない気持ちになった。
 キヨの思いを知ってか知らずか、青年は背景を語り始める。
「この家は、君がここに来る前から警察に見張られていたんだ」
「え」
「ただ、都路というヤツは、この辺りではちょっとした名士なんだ。名士が聞いて呆れるけど……ここは娘さんの静養の為の、別荘という話だったな。とにかく、筋の通らない理由があって、物的な証拠がないことには、警察は行動ができなかった。だから、ボクが君を連れ出したんだ」
 背広服姿の男が何やら喚いているようだ。慌てた様子の警官が一人、屋敷へと駆け込んでいく。
「若干、予定が狂ったけど、こうして二人とも逮捕できたんだから大団円だな。あそこであいつに見つかって良かったとも……いや、これは言い過ぎか」
 あいつとは如月のことだろう。キヨは察したが、無言を選ぶ。
「地下室に行く前、電源を落とすついでに、張り込んでいたお巡りさんに合図をしたんだ。最も、踏み込んでくるまでに、随分時間をかけてくれたものだけどな。ふん、あれには参ったぞ」
 青年は、喋りながらずっと屋敷を見つめていたが、つい、と、キヨに向き直る。
「――まさか、あいつがピストルを持ってるとは思わなかったな。これはボクの失態だ」
 助かったのはキミの大活躍のお蔭だと、青年は破顔した。
 しかし、キヨは顔を曇らせる。
「華子様を、一緒に連れて行ってくれようとしたとでしょう? だけん、二階へ行ったとでしょう?」
「え、何を言っているんだ?」
 青年は、きょとんと目を丸くした。
「二階へ逃げたのは、時間稼ぎだ。僕らが外へ逃げると、あいつらも外に出るじゃないか。屋敷に足止めして、不意を打ちたかったんだ」
「なら、なら、華子様は」
「あの娘に必要なのは、まともな医者と病院だ」
 青年がキヨの言葉を切る。
「聞けば、華子ちゃんとやらは、当たり前の治療さえ受けてないじゃないか。あの如月って女は、医者でも看護婦でもないぞ。あいつがやったことは、」
 と、ここで青年は口篭る。
 ブルルッと、ナナオが鼻を鳴らした。
「……華子ちゃんのことも警察には話してある。お父さんは逮捕されたけど、あの子は大丈夫だ。警察が保護して、病院に連れて行くことに」
「お父さんが居(お)らんごつなって、お母さんも居らんで、華子様は――一人ぼっちになってしまうたい」
 今度は、キヨが青年を遮る。
「お友達だって、みんなみんな、みんな居らんごつなった! 酷(ひど)か! ……酷い。そんなのって――酷い」
 キヨは、敢然と言い放つ。
「わたしは、華子様のところに帰ります」
 罪人を乗せた二台の車が、門を出た。
 キヨと青年とナナオが身を隠す脇を、土埃を上げて走り過ぎる。
 窓際には、それぞれ警官が座っていた。

「わたしは、華子様の友達ではなく、妹になろうと決めているんです。だから、お姉様の元に帰るのは、当たり前のことです」
 青年の上着を握り締め、キヨは懸命に思いを吐露する。
「ひょっとして、家に帰りたくないからか?」
 青年は、静かにキヨに告げた。
「……ボクは、キミをお母さんのところに帰す気はないんだ」
「――」
 唐突に母の名を出され、キヨは絶句する。
「あいつらを探っているときに、キミとキミのお母さんのことを知って、いろいろと調べたんだ。だから、キミを、お母さんのところには帰さない」
 キヨの気管が、ひゅっと鳴った。
「――言ってしまえば、もう、キミのお母さんはあの家にはいない」
「――」
 キヨは、反射的に喉元に掌を向ける。しかしその皮膚に触れることは躊躇われ、ようよう、その手を下げた。 
 見れば、爪が短い。
 駄目だ。
 こんなに爪が短いなんて。
 あの夜――。
 苦しくて、思わず、己の首を絞める手を引っ掻いた。長く伸びた爪が、意図せぬ深手を負わせる。赤く荒れたその手は、小さな叫びと共に引っ込められた。
 その隙にキヨは転がり、部屋の端まで逃げる。
 青年の姿が暗黒に溶け、代わりに母が、あれほど思い出せなかったはずの母の顔が、視界いっぱいの大写しで現れた。
 ――オマエ。
 ――オマエサエイナケレバ。
 キヨが寝付くまでお話をしてくれていた、あの優しい唇を奇妙に変形させている。唇だけではない。目も、鼻も、頬も、毛穴の一つ一つまで、捻くれ、歪み、崩れていた。
 キヨのか細い、素っ首は、母の手にヨリ、キツクキツクシメアゲラレ――。
「しっかり! それは今じゃない!」
 青年が、焦点の合わない目をして震えているキヨを揺さぶる。
「……爪ば伸ばしとったから」
「もういい」
「わざとじゃなか。母さんば傷付ける気なんか、」
「もういい」
「かあさんの手ば引っ掻いたけん……、かあさんはわたしばよそにやってしまっ」
「もういい!」
 青年はキヨを揺さぶり、抱き締めた。
 ――暖かい。
キヨは、我に返るその寸前。
 ボクもキミだった――と、聞こえた気がした。



「キミの決心は判った。ボクには止める理由はない」
「ごめんなさい」
「謝ることはない。ほら、華子ちゃんだ」
 二人は、森から一歩出た道の端に待機している。
 制服の警官が、毛布に包まれた華子を抱えて、玄関から出てきたのが見えた。
 感極まったキヨは、遅れ馳せながら華子の教えを思い出す。
「助けてくださり、どうもありがとうございます!」
 黒衣の青年に深々と頭を下げた。
 そして、恥ずかしさを懸命に堪え、お辞儀をしたまま言葉を続ける。
「さっきはごめんなさい! わたしのせいで、酷い目に……痛かったでしょう」
「ん? 何だ、あ、ボクを打(ぶ)ったことか」
 キヨは頭を上げない。
「ああ、痛かったぞ。一瞬、本当に気が遠くなった」
 キヨのお辞儀が、更に深くなる。
「だけど、うまくいったぞ。あいつはすっかり騙されて、ボクを車に乗せてくれたじゃないか」
「――え」
 キヨは勢い良く、姿勢を戻した。と、その拍子に蹌踉(よろ)けてしまう。
 青年は喉を擦(さす)りながら、快活に笑った。

「あ、えっと、お名前をお聞かせください」
「そういえばお互い、名乗ってもいなかったな。だけど、キミの名前は知ってるぞ。岡本キヨちゃんだろ」
「え?」
「ん?」
 二人は顔を見合わせた。
「あの、わたし、真名井潔子だって、如月さんが……」
「ふん、それはとんだ出鱈目だ」
 青年は鼻で嗤った。
「キミは、間違いなく岡本キヨちゃんだ。ボクが調べたんだぞ。間違いはない」
 きょとんとしたキヨに、青年は戯(おど)けたように胸を張ってみせる。
「ボクは頭が良いんだ」
 その声音には、少なからず本音が含まれていた。
「ボクの名前は難しいぞ。まず、漢字が珍しいんだ」
 青年は木の枝を拾うと、地面に五つの文字を書く。
「読めるか?」
「ううん」
「だろうな」
 片頬で笑うと、青年がそれを読んで聞かせる。
「――あ、待って、この字は判る。滋養の滋でしょう」
「へぇ、よく知ってるな。ボクのとは読み方が違うけど。これは――父様が付けてくれた名前なんだ」
「わぁ、素敵ね。――あのね、この字は華子様が教えてくれたのよ」
 近付いてくるエンジン音。
 二人は顔を上げた。
 青年は棒切れを捨てて、道へと出る。
「やあ」
 手を振って、自動車の前に立ち塞がった。
 急ブレーキ。
「やあじゃない。お前、こんなとこにいたのか。探したぞ」
 助手席の窓から顔を出したのは、腕を振り回していた背広服の男だった。壮年で、厳つい赤ら顔をしている。
「ふん、さっきは随分とのんびりだったな。お勤めご苦労さん」
 青年は、そっとキヨの手を引いて、隣に立たせた。
「その子は、まさか、今度の」
「詳しい話は、このキヨちゃんから訊いてくれ。その、後ろに乗ってる華子ちゃんの、妹さんに当たる子だ」
 キヨは、車を覗き込む。
 後部座席に横になった華子がいた。隣に座る制服の警官が、その頭を支えている。
「華子様!」
「妹ぉ? ウソつけ。まぁしかし、今度のアレなんだろ? ……お嬢ちゃん、辛いだろうけどいろいろ話を聞かせてくれるかい?」
 赤ら顔の男が、身を乗り出した。
「待て。証人を引き渡すには条件がある」
 青年が、その鼻先に人差し指を突き付ける。
「むっ、お前は毎度毎度、失敬な奴だな」
「難しいことじゃないぞ。このキヨちゃんと華子ちゃんを、絶対に離れ離れにしないと約束してくれ」
 キヨが、弾かれたように青年を見遣る。次に赤ら顔の男を。そして祈るように両手を組んで、深呼吸した。
「そりゃ、お安いご用だが、この子の身元は?」
 ギョロリと目を向けられ、キヨは怯みそうになる。しかし、負けじと見つめ返す。
「他の子達と同じ、天涯孤独だ。それはボクが保証する。面倒な事にはならない」
 青年の手がキヨを軽く押し、一歩、前進させた。
「わ、わたしは、華子様の妹です! 妹になりました。どうか、華子様と一緒にいさせてください」
 キヨは瞬きもせずにそう言うと、腰を二つに曲げて、赤ら顔の男に向かい、深く深くお辞儀をした。
「あ、ああ。判った判った。大丈夫だ。いや、こいつが言うからじゃないぞ。あんたは大事な証人だ」
「頼んだぞ。ボクはちゃんと見ているからな。万が一、その子たちを別離(わか)れさせようものなら、あんたの手柄がボクの仕事だというネタを、新聞記者(ブンヤ)の溜まり場に持っていくぞ」
 青年は一息に言うと、挑戦的な目で男を睨んだ。
 男は、赤銅色の鼻柱をくしゃくしゃにして、応じる。
「勘弁してくれ、俺はアイツらが嫌いなんだ。約束は守るさ。……おい、キヨちゃんとやら。後ろに乗んなさい。こっからは山道だからな、揺れが酷い。お姉さんに膝枕してやっとくれ」
「は、はい!」
 キヨは、あたふたと車に乗り込んだ。一連の流れを微笑ましく感じていた制服の警官が、いそいそと場所を譲る。
「華子様、華子様」
 キヨは、そっと華子に呼びかけながら、その小さな頭を膝に乗せた。
「ふん、よかったな!」
 黒衣の青年は、身を翻す。
 キヨは慌てて目で追った。
 青年は、ひらり、ナナオに跨(またが)った。
「ありがとう……ございます」
 キヨの瞳から、涙が溢れた。
 それが華子の頬に、一滴(ひとしずく)。
 華子の浮腫んだ瞼が、二、三度、震えて――ゆっくりと開く。
「華子様……、お姉様」
「――潔子、さん?」
「華子お姉様、わたしはキヨです。今日からキヨと呼んでくださいね」
 華子は少し不思議そうな顔をしたが、キヨのその言葉に頷くと、柔らかく微笑んだ。
「さあ、キヨちゃん、車を出すぞ。早くお姉ちゃんを病院に連れてかないと」

 車窓より見える、景色。
 その何処にも、もう、黒衣の青年と青毛の馬の姿はなかった。



 ――お伽噺。
  


                             副題『嘘つき曲馬団』余話――
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